横浜市震災誌 第三冊/第2章

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第2章 本市所在官衙公署の被害と復旧

第1節 神奈川県庁[編集]

神奈川県庁は関内の中央部なる海岸近くに在り、大正元年、七拾五万円を費して建築したルネッサンス式棟瓦三階、敷坪千三百六十三坪の大建物であった。激震の起るや、さしもに堅牢を以て聞え、従来数度の強震にも至って鈍感であったこの大建物も、たちまち大動揺をなし、各室の書架書函はことごとく顛落し、四壁は所々脱落あるいは亀裂を生じ、衛生試験所は倒潰し、暖房機関の煙突は中程より崩折して、県会議事堂の屋根に落ちかかり、これを破壊したのみならず、隣接せる横浜郵便局庁舎の一部は、県庁構内へも倒れかかって、自動車運転手の舎宅を破壊した。地震のみに因る庁舎の被害は、大体右の如くで、概して小破程度であったことは、是れ偏えに建物の堅牢であったためであるが、何分にも動揺烈しく、約六百名の吏員その他勤務員は、何れも倒れては起き、起きては倒れ、殆んど匍匐同然の姿で、辛うじて屋外に逃れ出でたのである。安河内知事は最後に避難し、以下松原内務・森岡警察・山宮産業の三部長、各課長・官房主事その他重立ちたる吏員は、一時玄関前の庭上に集合した。眼を放って四近の状況を眺めると、税関・港務部・郵便局・英露の領事館を始め、見渡す限りの商店会社は概ね倒潰もしくは半潰し、民衆の死傷算なきの有様で、横浜市内はもとより県下および近府県一般の惨害さこそと直感し得られた。

知事は 御真影および重要書類を気遣い、庭内に引き返したが随う者は長岡官房主事・鈴木属・窪井技手外三名に過ぎなかった。御真影奉蔵の大金庫を見ると、開閉口を下方にして内窓の下枠に倒れかかり、七名力を協せて見たけれども動きがとれず、その他大小の金庫も多くは顛倒して、これまた手の付け様もなかった。したがって取敢えず書類簿冊を手当り次第に窓より投げ出だしたが、最早力も尽きたので、手の届く限り、窓を閉じて庁外に出で、居残っていた一同と共に横浜公園内に立退いたは、午後二時頃と覚しき頃であった。此間、警察部長は取敢えず衛生課長をして、臨時救護所を公園内に開き、課員をして負傷者救護の事に当らしめ、市内の各警察署に伝令を発して、非番巡査の非常召集をなさしめ、各消防署に対して即時出動の命を下した。

震後、時もあらせず市内諸所より黒煙が濛々と立あがり出した。再び消防隊の出動を促したけれども、各署とも倒潰家屋道を塞いでいるため、消防具を輓出すことは能わず、しかのみならず水道は既に決壊して全く断水し、何とも手の付けようはなかった。したがって警察部長は知事の命に依り、応援方を内務大臣に具申しようとしたけれども、電話線も既に切断してその用を為なさず、急使を立てたけれども火焔の包囲を受けて中途引き返すの已むなきに至った。おりから風力ようやく加わり、猛煙渦を捲いて襲い来り、午後三時半頃には県庁舎もその煽りを受けて煙を吹き出した、唯傍観の外はなく、五時半頃には途に全焼して、厖大な残骸のみを留むるに至った。此間、吏員の多くは帰宅したけれども、公園内に留まるも多少あったらしかった。知事は庁舎の全焼を見届けて後、内務部長・官房主事・高田土木課長・成富建築技師および鈴木属等を帯同し、残焔を衝いて、伊勢山の官舎に引揚げたのである。が、該官舎とても既に全焼して、憩わんにもその所なく、庭前に横たわって善後策を凝議しつつ一夜を明かした。 二日早朝、知事以下県庁舎跡に行って見ると、裏門内なる使丁室の辺りに数十の焼死体が横わっていた。附近民衆の逃げ込んで焔に捲かれたものと想われる。なお庁内の電話室にも四人の白骨が横たわっていた。これは後に至って星島電話技手、女交換手二名および自動車運転手一名と判かった。即ち勤務員四名を犠牲にしたことは、洵に遺憾の次第であった。御真影入りの大金庫を開いて見ると、幸に火気透入せず、無事であった。他の幾十の金庫がことごとく火気透入せるに比して、御稜威の然らしむる所といわなければならぬ。これより先き前日夕刻、警察部長は港内碇泊のコレア丸に漕ぎ付け、同船に依頼して、据付無線電信を以て、横浜大震大火に付救援を請う旨を大阪府・兵庫県、其の他各筋へ放送し、且つ港内碇泊の諸船舶より取敢えず食糧供給を得るの方途を執り、更に野口警務課長・西坂高等課長等を急使として内務・陸軍両省に特派し、救援方並に軍隊の出動方を請わしめた。

二日、知事以下三部長・各課長・官房主事その他重立ちたる吏員は、桜木町に残存した海外渡航検査所に集まり、取敢えず、ここを県庁仮事務所となして救護の方途を講じた。翌三日よりは史員続々出勤し、四日よりは臨時震災救護事務局支部および横浜市役所と連絡を通じて、不眠不休の活動を開始したのである。

十三年六月、岡野町に敷坪一千八百坪の仮県庁舎を建築して、これに移転した。旧県庁の残骸は補強工事を施し得るや否やを調査するため、永くそのままにしてあったが、その見込なしと決定したので、ことごとく破壊除去し、更に新庁舎を建築せらるることとなった。

(長岡官房主事、高田土木課長談)


第2節 生糸検査所[編集]

農商務省横浜生糸検査所 調査
1 被害状況[編集]

建物 今次の激震に際し、本所庁舎鉄筋コンクリート造三階建の部分は勿論、その他建物とも倒潰または傾斜せず、只煉瓦建ての部分に所々亀裂を生じたるに過ぎざりしが、南隣貿易倉庫崩潰し来たり、付属舎たる煉瓦造平家建の練減室・正量部・女子控室・炊事場・浴湯および便所等を圧し、之を破壊埋没せしめたり。湯呑所その他火気ある。場所は、各担当者に於いて消火の処置をなし、かつ各室の硝子窓も出来得る限り閉鎖したり。硝子の破損せるもの多し。しこうして貿易倉庫は破瓦山積したるも、火気なく、前面郵使局もまた崩壊して本町通を覆い、東四は大道を隔てありて、本所よ火を発せざる限りは、火災を免べしと、我人共に想像したる所なしが、猛火は烈風に煽られて、次第に来襲し、午後二時頃に至り、先煉瓦建の屋根軒の辺りに移り、風は熱火と化して、破れたる硝子窓よ内部に侵入し、瞬時にして殆んど全部を烏有に帰し、鉄筋コンクリートおよび煉瓦壁の残骸を留むるに至れり。後日検したるに、煉瓦倉庫の上に設けたる化学室の部分は焼失したるも、その一階および二階の物品を格納したる内部は奇跡的に残存し、一糸だも損色なかりき。被害建物左の如し。

名称 構造 棟数 建坪 延坪
庁舎 鉄筋コンクリート造
3階建
1 215,720 656,160
煉瓦造2階建 1 180,249 434,698
煉瓦造3階建 1 79,495 238,485
倉庫 煉瓦造2階建 1 24,000 48,000
附属舎 4 122,796 129,046
8 622,260 1,506,389

人事 所長芳賀権四郎は、当時その兼任官庁なる北仲通絹業試験所に在り。所員は屋外に避難せんとしたるも、横浜郵使局の崩潰して本所の入口に迫り、通行人の惨死せる状況を目撃しては、やや躊躇の色ありしが、幹部の職員は励声叱咤、所員一同を安全地帯と認むる公園に避難せしめ、なお各室を見廻りて、避難漏の有無を取調中、所長は絹業試験所員一同の生命に支障なきを認め、障害と危険とを侵して本所に到着せり。その際貿品倉庫倒壊のため、その下敷となりて、救を求めつつある。者ある。を聞知し、残留者一同に対してこれが救出方を命じ、時々所外に出でて、火元に注意しつつ指揮し、一同は勇を鼓してこれに従事せり。しこうして火災は追々四方に起り、本所もまた危険の状勢に在り、かつ頻々たる余震の脅威を侵し今にも本所建物も倒潰し来らむかの疑念に襲われつつ、その外側直下に各自赤手を以て煉瓦の巨塊等を掘り起こし、約一時間半を費して、ようやく救出したり。この圧傷者は本所傭原山平次郎なり。

所長は右負傷者を援けて公園に避難すべきを命じたるに、避難中公園もまた危険なりとの情報に接し引返してこれを県庁内に逃難せしめたるに、県庁もまた類焼を免かれざるに至り、更に安全地帯に脱出せしむべく百方苦心焦慮したるも、力遂におよばず、万難を排して一旦救出したる負傷者も、遂に涙を飲にでこれを見拾つるの已むなきに至りたるは、遺憾に堪へざる所なり。しこうして最後迄負傷者を看護したるは平林技師・伊藤守衛の二人なりき。

所長は最後迄本所に留まり、既に一人の残留者もなきを見届け、猛火本所を包みて奈何とも施すに術なきに至り、北尾技師等を率いて公園に避難せんとせしが、途上公園もまた危険なりとの情報に依り県庁内に避難せしが、猛炎途を塞ぎ、一歩も出づる能わざる中に、県庁内もまた上階より追々燃焼し来たり、進退谷まりしが、前方の火勢やや衰えたる瞬間の機に乗じて、辛じて脱出し、惨死者を目撃しつつ、レーンコートを以て身を掩ひ、危く死地に一生を得、身を以て辛うじて免れ、公園に避難せり。この災後まで随伴して進退を共にしたるも、また平林技師および伊籐守衛の二人なりき。後に至り、傭中島トクが、貿易倉庫崩潰の下にありしにあらずやとの懸念を生じたるを以て、九月六日よりその発掘に従事せしめたるに、数日後果してその死体を発見するに至れり。震災当日欠勤し居れる雇古川勝次郎および河原キセ子の二人は、各その宅に於いて、前者は圧死し、後者は焼死したことの報告に接したり。

本所当時の総人員二百七十七名の中、前記四名の死亡者を出だしたるはまこと遣憾の至りなるも、これを他に比較するときは人命の被害もっとも軽微なりとす。これ全く庁舎その他建造物の堅牢に因れるものと思われたり本所員の被害状況は左の如し。

人事
本人の死亡 4人
家族の死亡 39人 23世帯
家族の重傷 7人 7世帯
住宅
焼失 168名 161世帯
全潰 26名 25世帯
破損 83名 80世帯

機械器具および重要書類 本所は多数の年少女子を使用するを以て、変事に当たり先ず第一に考慮すべきは、是等人員の生命身体の安全を図るにあり。したがって幹部はこれら女子等を安全地帯に避難せしむるに努力し、かつまた圧傷者の救出に全力を尽くし居る内、既に猛火四襲、如何とも施すに術たき状況に立到り、各自ようやく身を以て免れたる次第なれば、重要なる生糸検査および試験機械を始め巨細の雑器具類に至る迄搬出のひまなく、全部庁舎とともに現状のまま焼失するに至れり。たとえ多少搬出し得たりとするも、結局焼失を免れざりしは想像に難からず。二個の金庫は災後開扉不可能のため之を破壊したるに、紙類の多少変色したると、木箱類の損したるものありしも、官印その他の内容品は無事たるを得たり。倉庫はその三階の部分たる化学分析室だけは焼失したるも、一階および二階の内部に格納中の物品は全部焼失を免れ、就中検査に供用したる残糸は、整理当時の時価に換算して約九万四千余円賦のものを残存せり。文書もまた殆んど全部焼失せり。只庶務課内に在りたる重要書類の中、同課長佐籐文平は、その最も必要なるものを混乱の中より摘出し、之を雇高橋六郎兵衛と分携して公園に避難し、後之を全部同雇に托したりしが、同人は袴を切りて之を荷い、最後迄保管せり。此文書と金庫中の文書とに依り、当面の事務に支障なきを得、就中経費予算と支出関係等を証明し得たるを以て、日本銀行横浜代理店の帳簿は全焼したるに拘わらず、その本店に交渉し爾後の支用に支障たきを得たり。

2 応急措置[編集]

翌二日、仮事務所を西戸部町九三六番地所長官舎に設置し、所員の安否動静および被害状況調査並に焼跡整理の事務を開始したり。同日所長は、当日避難するまで随伴した北尾正量部長の行方不明なるを願念し、本所および県庁附近の死屍を改め廻りしも発見するに到らず。 しかるに幸にも同部長は海に入り、船に泳ぎ付き、生命を全うしたること後日判明せり。しこうして所員の大部分は一旦公園に避難し、その後火勢の衰えるに従って、各自々由に行動したり。直後入口を減少することは、災地の食糧政策に適応する捷径たるを思い、枢要人員の外は希望に応じて、帰郷を許可し在浜の者は仮事務所に出勤を命じ、又傭人以下は当時事務なかりしも、検査開始の暁、俄かに所要人員を得難きを願念せると、災後多数の失職者を出だすは、社会政策上の大問題たるに鑑み、之れに休暇を命じ、その間日給の六割を支給せり。

生糸貿易の休否は経済界の消長に関することを顧慮し、その一日も速に復旧せしめざるべからざることを思い、所長は直後当業者の野外会議に列席して、之れを激励すると同時に、本所の生糸検査を急速開始し、以て生糸貿易の復旧を助長するは、緊急の国務たることと認め、直に応急費の支出を要求し、一方京都・愛知・福井・石川等の諸府県にしばしば所員を急派して、地方生糸監査所の機械借用を交渉すると同時に、焼残機械の修理および新調の設計をなさしめ、かつまた検査の権威上、バラックに於いて施行するよりは、焼残の鉄筋コンクリート造を利用するにおよばざるを思いたるも、当時焼余の残骸は直に惨害を連想せしめて、人心に不安の念を生ぜしむるところある。を以て、九月二十三日佐野高額博士を招致して、その鑑定を請い所耐力幾分減少したらむも、使用上差支なき旨の言明を得たるを以て、之れに応急修理を施し、且つはバラックを附設することに決し、その設計を行わしめ、急速検査すべき計画を立てたり。しかるに商工業機関は全部破壊せられたるため、当時時機械械器具その他の調達甚しく困難を感じ、交通機関絶無の際、係員は奔走日もまた足らず、しかも予期の如く進捗せず、また地方検査所との交渉も意の知くならず、幾多の曲折を経て、ようやく京都府より乾燥器外四点を借入れることとなりたり。

神奈川県知事に罹災者収容バラックを北仲通六丁目絹業試験所跡に建設の交渉をなし、之を本所および絹業試験所員専用のものとなすこととし、十月初、工兵隊に於いて四棟を建設したるを以て、所員の収用を開蛤せり。次で関西府県連合の救済バラック五棟もまた竣工したるを以て、十一月初その一部を以て正量品位、調査部員の詰所となし、執務せしめたり。十一月八日震災応急費の予算を得て、直ぐに焼残の鉄筋コンクリート造三階建庁舎の応急修理およびバラック附設の工事を見積り、その一部は十三年一月一日竣工したるを以て、同日より検査部の全員を此所に出勤せしめ、同月七日より検査開始の準備に着手せしめ、機械器具も遂次納入を得たるを以て、二月一日生糸検査を開始するに至れり。更に第二回応急工事として、在来の煉瓦壁を利用したる木造二階建その他廷坪三百坪二合を建設することに決し、十三年二月二十二日起工し三月二十七日之れが竣工を見、機械器具等もまた三月末迄に全部納入を了して、げんに応急設備の完成を告ぐるに至れり。

3 復旧計画[編集]

上来説述し来りたる所は、皆これ一時の応急措置たるに止まり、本所復急の事業は別に之を計画し、震災前既に一度決定したる生糸正量売買実施に伴う事業の拡張および付属生糸絹物倉庫の建設と併合施行することに決し、大正十三年度および同十四年度の継続事業として予算に計上し、第四十九同帝国議会の協賛を経てその実行に着手するに到れり。そしして本市海陸の要衡に当たり、将来生糸街の中心たるべき北仲通五丁目横浜地方裁判所跡より同六丁目横浜小学校運動場、大日本蚕糸会横浜支所および元絹業試験所々地、横浜絹布倉庫株式会計所在地、神奈川県輸出絹織物検査所用地にいたる一囲の地を相し、土地の買収および地表物件の移転をなさしめ、かつまた右土地北側を遮り、海岸通五丁目との間に介在する一帯の公有水面埋立を策し、合計約一万坪の土地を得て、その敷地に充当する事とせり。これより先き斯道の専門家に託して建築物の設計を為さしめ、先ず第一期の工事を施行することに決し、大正十三年十二月二十二日、その請負を指名競争入札に付したる処、株式会社大林組に落札し、同二十六日朝野多数来賓列席の上荘厳なる地鎮祭を執行し、ここに起工を実現せり。之が竣工の暁は、新たに市内に偉観を添えるに至らんか。

第3節 絹業試験所[編集]

農商務省横浜絹業試験所調査

1 建物の被害[編集]

本所は本館および工場その他附属建物を有し、少部分を除くの殆ど全部木造建築なりしも、激震に際して倒潰したるは本館の車寄に過ぎず。本館は傾斜し、工場その他附属建物は破損したるも皆倒潰せずガス・石炭・炭火等の火気取扱責任者は各自任所に就き消火したるを以て、自ら火を発することなかりしが、少時にして火災は本所附近の三方に起りたるを以て、所員は協力してホースを配置し、消火栓を抜きて建物に注水の手段をなしたるも、時既に水道断水して如何とも施す術なく、須臾にして建物及工作物は全部焼失の已むなきに至れり。

被害建物左の如し。

名称 構造 棟数 建坪 延坪 備考
庁舎 木造2階建 1 63,000 126,000
工場 木造平家建 1 414,000 411,000 一部煉瓦ありたり
附属舎 7 55,000 55,000
9 595,000 595,000

その他工作物全部

2 人事に関する被害[編集]

蒸汽管の破裂、劇薬類の飛散および之れに基く悪ガスの発散と塵埃等に因り、一時工場内晦瞑となり、ために婦女子等は避難に困苦を極めたるも、劇薬のため負傷者を川したる外、皆無事内庭に避難したり。所長芳賀権四郎は所員一同の生命に支障なきを認め、善後の措置を第一部長技師角替利策に命じ、その本務官庁たる生糸検査所の安否をみるため之れに赴きたり。少時にして、火災は本所附近の三方に起こり、木造建築たる本所は到底その厄を免かれざるを知り、所員の一部は余震の脅威に屈せず、事務室に入りて重要書類の搬出に努め、後方の空地テニスコート附近に之を集積し、また他の所員は内庭より次第に同コートに集ましが、既に三方火に囲繞せられたるを以て、後方の入海を渡りて商品倉庫方面に逃るるの外なきに立到れり。幸に五六の和船の繋留せるあり、之を利用して彼岸に渡り、或は税関方面に走り、或は和船に乗りて漕ぎ出で、巴里・コレア丸・ロンドン丸等の救う所となりたり。一方最後迄踏み留まり、重要書類の保護に任じたる所員は、テニスコートも火熱のため留まり難く、折角搬出したる物も火の粉を浴びて、また類焼の已むなきに立到り、商品倉庫方面もまた火災となり、海中の船に迄延焼するに至たりたれば、各自重要書類を携へ、泥海に身を投じて、火の粉と熱風を浴び五時間の長きにいたりようやく身を以て免るるを得たり。一旦全員安全なりし所員も、ようやくして離散行く処を知らず、或は救助船と共に遠く大阪・神戸に免れたるものあり、安否の調査甚だ困難なりしが、追々後日判明し来りたるも、傭小松たまゑ遂に行方不明となり、当時和船を以て免れたる者の言その他の状況に依り、商品倉庫の海岸より税関方面に免れんとして、火または水のため滲死したるものと決定するの已むなきに至れり。

本所当時の総人員九十一名の内前記一名の死者を出だしたるは、誠に遺憾の至りなるも、之を他に比較するときは、人命の被害最も軽微たりとす。是全く建物の倒潰せざるに基因す。本所員の被害状況左の如し。

人事
本人の死亡 4人
家族の死亡 39人 23世帯
家族の重傷 7人 7世帯
住宅
焼失 44名 41世帯
全潰 4名 4世帯
破損 43名 42世帯
3 機械器具および重要書類の被害[編集]

機械は本所の生命にして、大は各種織機・各種織物整理機械等より、小は繊維の検査機械・化学分折機械等、試験研究に使用するもの相当多く、また苦心研鑽の結果製作せられたる織物・染物その他蒐集せる参考品とも、未曾有の天災に如何とも施すに術なく、巨細の雑器具類に至る迄全部建物と共に現状の燼焼失するに至れり。

角替第一部長および書記江原成太郎は、所員を督励して重要書類の搬出に努めたるも、火勢愈々猛烈にして火の粉は遂に一旦搬出したる書類に延焼せんとするに至り、加えるに所員の身辺もまた頗る気遣わるるに至れるを以て、壮年の男子には重要舎類の一部宛を携行せしめ、老幼婦女子を扶けて一方の血路より迅速避難せしめ、なお幹部の数名は踏留まりて重要書類の保護に努めたるも、危険は刻一刻に迫り来たり、到底その位置に留まるべからざるのみならず、唯一の退路とたのみたる一方の血路も、遂に火災のために遮断せらるるに至れるを以て、各自は重要書類の一部を携え、海中に投じ、火の粉と熱風と戦うの已むたきに至れり。之がため搬出位置に残したる物は全部類焼し、各自の携行したる物もまた僅に身を以て免るる際、或は海に或は途上に遺棄するの已むなきに至り、只経費整理簿一冊(大正十一・十二年度)は庶務課員海中に投じてなお之を保護したると、その他一・二冊を残したるに過ぎざりしも、之ある。がため経費の予算と支出関係を証明し得たるを以て、日本銀行横浜代理店の帳簿は全焼したるに拘らず、爾後の支出に支障なきを得たるは幸なり。その他貴重なる試験研究に関する記録は、その一部分第三部員の万難を排して携行したる物を除く外、全部焼失したるは遺憾の至りなりとす。金庫は災後開扉不可能なりしため、之れを破壊したるに、紙類の変色したると木箱類の損したるものありしも、官印その他の内容品は無事なるを得たり。

4 応急の所置[編集]

震災の翌二日生糸検査所と共に仮事務所を西戸部町九百六十三番地所長官舎に設置し、所員の安否動静および被害状況調査、並焼跡整理の事務を開始したり。震災直後戸口を減少せしむることは、災地の食糧政策に適応する捷径たるを思い、枢要人員の外は希望に応じ帰郷を許可し、在浜のものは仮事務所に出勤を命じ、また傭人以下は当時事務なかりしも、大惨害後多数の失職者を出すは、社会政策上の大問題たるに鑑み、之れに休暇を命じ、休暇中日給の六割を支給せり。しかれども政府は震災善後の容易ならざるを思い国費の大節約を試みたるため、その影響を受け、本所の予算もまた大削減を余儀なくせられたるを以て、その十一月末数名の庸傭員を解雇整理するの已むなきに至れり。

生糸検査所と共に罹災者収容はバラックを北仲通六丁目の本所敷地に建設のことを、神奈川県知事に交渉し、之れを本所および生糸検査所専用のものとなすこととし、十月初四棟竣工し、次でまた五棟竣工したるを以て、希望者を収容し、十一月初そのバラックの一部分を以て、第一部第二部および第三部員の詰所となし、ここに執務せしめたり。大正十三年一月生糸検査所の応急工事一部竣成したるを以て、その末日本所仮事務所を西戸部よりまた第一・第二・第三部を北仲通のはバラックより共に本町一丁目一番地にある。生糸検査所内に移転せり。

絹業界の指導奨励機関たる本所の設備の関如は本邦産業貿易上之をたちまちにすべきにあらず、しかれども万般の施設緻密精巧を要し、バラック建築急造機械の応急設備にては、試験研究を行うとも、到底所期の目的を達すること能わざるを憾ある。を以て、応急工事としては、只事務室に充つべき仮庁舎延坪五十七坪を建設することに決し、大正十三年二月二十二日生糸検査所敷地内に起工し、同三月二十七日之れが竣工を見たるを以て之に移転したり。

5 本所復旧計画[編集]

本所復旧計画は、さきに一旦決定しありたる拡張計画と併合施行することとなり、大正十三年度以降六ヶ年度の継続費として、第四十九帝国議会に追加予算として、提案せられ、その協賛を経て確定したるも、政府財政の都合上、大正十三年度割当額は、極少額を計上せられたるに過ぎず。その後又七ヶ年度の継続費に改定せらるるの已むを得ざるに至れり。

第4節 税関[編集]

1 税関を中心として見たる当時の惨状[編集]

九月一日午前十一時五十八分、未曾有の大地震は来れり。当時飯田監視部長は新港監視部応接室にあり。震勤激しくして、室内の備品は転倒せしも、庁舎はこの大震勤に堪えるを得たり。しかも新港倉庫株式会社倉庫は倒潰し、六号・四号上屋は傾斜せるを見たり。これと同時に現場官吏よりは四・五・七・八号岸壁の墜落したるを報じ来り、又本関構内分析室より発火せりと報じ来る。依て本部を本関構内に移す旨を宜言し、同時に余震に依る新港庁舎の倒潰、並に発火を慮り、宿直・小使に火鉢等に注意すべきを命じ、なお念のため佐野事務官補に実地をたしかめ、以て新港庁舎は少くとも火災に対しては、全然安心なりとし、周囲の官吏を引率して消火に赴く。途中報あり、曰く、本関倒潰し、職員下敷となれりと。この時已に新港橋の両端は、一二尺墜落し、同橋より新西門に通ずるコンクリート道路は一面に亀裂を生じ、且つ泥土を噴出し、靴甲を没す。分祈室は盛に炎上せしも、同建物は一階建の煉瓦造にして、火の粉を飛ばすこと少なく、しかも震時西風にして、火焔は輸出事務所の空地に向えるを以て、類焼の危険甚だ少なしと観察し、先ず人命救助に着手す。只貨物係事務室は木造にして、火之に近きを以て、沢田貨物係主任外一名に命じ、重要書類を取出さしめたるが、此等書類はやがて起りたる同市全焼の大火災のため、その一部を除く外焼失したり。本関庁舎は第一震の襲来により轟然たる音響と共に倒壊せり。ために勤務中の職員は逃るに暇なく、高橋事務官以外少数の者を除きては、皆崩壊家屋の下敷となれり。その中或者は戸外に出んとして、廊下または階段に於いて圧せられ、また或者は机の下に隠れ、兎も角圧死または負傷を免がれ、僅かに身を以て脱出し、また或者は負傷し、自ら脱出するの力を失い、或者は負傷せざりしも、煉瓦の破片に囲まれて脱出するを得ざりしもあり。依って監視部長に随伴し来れる者、本関より脱出し得たる者、並に特志の出入商人、通り掛りの警官等協力し救助を求むる声を辿り、或は脱出者の指図に従い、総務課入口・検査場・および表玄関の三方面より、必死となりて救助に力めしも、如何にせん、崩壊せる煉瓦の除去甚困難のみならず、使用すべき道具は僅かに消火用鳶口二・三ある。のみにして、如何ともすること能わず。二三人を救出し得たるのみなりき。かかる間に同市を焼き尽くさんとする猛火は四周より烈風に誘われて襲い来り。烈風は旋風を起し、旋風は火粉と砂塵を巻き上げ、巻き上げられたる火の粉は、雨の如く降り来たり、危険言うべからず。ことに南英国領事館を焼きたる火と、東英一番館を焼きたる火とが、遂に本関に迫るに至りては、また如何ともせん術なく、万事窮し、監視部長・総務課長・棟居事務官を始めとして、救助団一同は涙を飲みて遂に公園に避難せり。途中公園通りは水道管破裂して、濁水膝を没するものあり。街路には已に行倒れたる者あり。救を呼びて逃げ迷う者あり。又負傷して運搬せらるる者あり。市民狂乱して、東奔西走する間に火焔は天を焼き、黒煙地を蔽い、火粉飛び、電柱倒れ、電線地に垂れ、爆発品は爆発するその光景、まことに凄惨なりき。やがて公園また火焔の包む所となり、避難者は頻りに火粉を浴び、黒煙を吸い、殆んど昏倒せんとす。風力ますます加わり、これと共に火災は、ますますその暴威を逞うし、市中は瞬く隙に全く火の海に化し、公園と目睫の間に在る税関構内との交通すら、全く不可能なり、その後の状況はこれを知るに由なし。公園内およびその建築物は、市役所を最後として全く焼け落ち、黒煙ようやく薄らぎたりしを以て、取りあえず公園内に避難せる税関員を召集したるに、部下以下雇員を合せ、約六十名を得たり。即ち之を一ヶ所に集中し、内頑強なる監吏二名を選び、税関構内に赴く途ありや、並に構内現状如何を調査せしめたるに、税関に到る途中は猶危険なり、構内また一面の火なるが如し、との復命を得たり。また別に使して官舎への道を調査せしめしも、その使は遂に帰り来たらざりしにより、詮方なく公園中に一夜を明すの決心をなせり。空腹と不安と疲労とは刻々に迫り来たり、かつ日は早や暮れ果たるも、一点の燈火だになく、四辺悽愴なる火焔ある。のみ。しかるに、午後七時頃、たまたま宝号船長および機関長は、小蒸汽より上陸して、公園に於ける税関職員の集合地点に来れり。之によりて海上に出るの途ある。を知り、小蒸汽船宝号に乗じ、港内碇泊のコレア丸に避難せり。同船上には已に二千五六百名の避難民あり。又森岡県警察部長・矢沢港務部長の来れるあり。即ち相会して今後の秩序維持並に震災救助につき、互に協力すべき事を約し、猶横須賀軍港司令官に陸戦隊の応援を求むることを定め、コレア丸より無線電信を以て之を依頼せり。以上は当日監視部長並に之と行を共にしたる者の状況なり。更に新港構内に留りたる者は、各その部署の事務を処理し、新港構内を以て火災の安全地帯と思惟して安住し、市民また同感を以て、または火に逐われて、続々避難し来りしが対岸に起りたる火災は、烈風・旋風に煽られ、遂に火は新港木造上屋および艀溜に繋留せる艀に飛火し、ことに木材を積載せる艀は全く火船となりて流れ、危険言うべからず。新港三号の焼けたるは、かかる火艀が折しも岸壁および岸壁と上屋との間より火を送りたるためなりと言う。而して三号倉庫を焼きたる火は、煽られて新港監視部庁舎に延焼し、ためにさしも堅固なりし庁舎もまた焼失の不幸を見るに至れり。かくして火災の安全地帯と思われし新港構内も、狂乱せる火焔のために火と煙の海となり、避難民はこの火と煙の飛び交う間を、或は九号岸壁より追われ、或は六号岸壁より逐われ、折しも之に繋留せる大阪商船会社所属汽船パリー丸に救われて港外に逃れ、残りたるものは遂に四号岸壁の突端に逐いつめられて、辛くも税関小蒸汽に救われたり。是より先、監視部長は万国橋墜落せりとの報に接したるを以て、水面よりの交通を整う必要ありとなし、取敢えず自転単便を以て、船員詰所に繋留せる小蒸汽並びに発動機船を早速四号摩壁に集るべく伝命せられぬ。しかるに当時同所に繋留せる小蒸汽船中翁は廃船にして航行不能なり。また五十鈴号は機関の修繕中にして出動すること不能、砂および豊号は明番にして、蒸汽を落をるを以て、俄に出動すること不可能なるも船員は之を救わんとし、直ちに汽罐に点火したるも、未だ蒸汽は膨らざる上に、地震と折からの西南の強風とに繁索を切断せられたる浮流船が出口を閉塞し、これと共に火焔は伺溜を蔽い、また如何ともする能わず、小鷹およびは蛍号もまた同一運命に陥り、焼失沈没したり。此の外三保号は正午出帆のエンプレス・オブ・オーストラリヤの出帆の立会に従事せしが、地震により同船出帆不能を知や、税関職員その他の避難民を乗せて、山下町沖合に逃れ、午後五時頃陸上の火災下火となるや、新山下町埋立の堀割に避難し、寓号は地震と共に桟橋際の税関浮概に逃れしも、二時頃に至りては炎焼しつつ流るる孵船の来襲を受くること頻々なるを以て桟橋突端に逃れたるも、ここにても猛火に堪へ難きを以て、桟橋より救いを求むる避難民を乗せて山下町埋立地沖に避難し、海岸通の火勢衰えるを俟ちて、午後五時頃三保と同じく埋立地の堀割に到り、午後九時半頃、陸上より避難し来れる監視部長以下五六十名を乗せてコレア丸に到り、同船舷側に一夜を明せり。次に監視船寶号は、当日第一の殊勲者と言うべく、同船は先ず海神を繋留して、海神の火災防止に尽力し、次に来れる内外人孵船を捨て逃れ来たりたる孵船の船頭等を収容して港内碇泊の青筒汽船(船名不明)に送り、なおその後九号岸壁突端に来り、あたかも新港一面の火焔の猛火に包まれ、四号突端に死を待つのみなる約五六百名の避難民ある。を発見し、同船の積載能力を以てしては到底救助し得べからざるを知り附近より艀船を曳き来りてて、これに同避難民を収容して、丹後丸に送りたり。当時救助を受けたる者は後に市中を焼き尽くしたる南風の火に逐われて新港に逃れたるも、新港もまた安全地帯にあらずして同構内を逐ひ廻され、バリー丸に救われず、小蒸汽船に見離され、遂われ逐われて四号突端に来りしも火の追手はなおも後方に肉薄し来たれり。進まんか海に投ずるの外なし。すでに数人は海に投じたり。投じたるものは浮出でず。退かんか後方は火の海、ただ焼死ある。のみ。この際税関ランチは孵船を曳きて来たれり。地獄で仏に遭ふとはこの事かと、一同合掌せりと云う。次に曳船海王は正午出帆のエムブレス・オブ・オーストラリヤの曳縄を採り、まさに作業に従事せんとする刹那地震に逢い、同船の出帆不可能なるを知るや、二号岸壁に逃れたるも、同所も火災の襲来するに遇いたるを以て午後一時、その水火夫三名は船長不在なるに拘わらず、三百人の避難民を乗せて、グランホテル沖合に避難したり。その臨機の処置は当揚に値す。曳船海神は八月二十八日、航行期間満了せしを以て、象ケ鼻外側浮標に繁留し、機関を取外し、定期検査並びに特別検査の準備中なりしを以て、この大地震に遭うて逃出すこと能わず。しかるに避難民は続々海を泳ぎて本船に来たり、艀は猛火に逐われて、本船の船尾に繋り、その数五十余隻におよぶ。浮標の鉄鎖ために切断せらる。かかる間に火塵は雨の如く降り、火船は続々流れ来たり、危険言うべからず。船員並びに避難民は必死協力して、遂に火災を免るるを得たるは幸福なりき。

2 桟橋および岸壁繋留船の惨状[編集]

なお進んで地震当日に於ける桟橋および岸壁繋留船の状況を一瞥せんに、

(1)桟橋
A Empress of Australia
B Steel Navignter
C Andre Lebon(Messanger Marritimes)
(2)新港岸壁
三号 Selma City
四号 コレア丸(東洋汽船株式会社)
五号 ロンドン丸(大阪商船株式合社)
六号 パリー丸(大阪商船株式会社)
八号 Yama(Norway)
九号 三島丸(日本郵船株式会社)
十号 丹後丸(日本郵船株式会社)

合計十隻にして、内オーストラリア(Australia)号は正午出帆の予定にして、税関曳船海王はすでに曳縄を取り、旅客は乗船を終わり、正に錨を巻かんとする刹那、地震に遭い、為に推進機をBに繋留せるスチール・ナビゲーター(Steel Navigater)の錨鎖に巻付け、出動すること能わず。桟橋に繋留せるまま、当日は上屋の火焔を浴び、翌二日は燃えつつ流れる油の襲来を受けしも、本船の完全なる防火設備に依り、辛うじて廷焼を免かれ、遂に三日桟橋を離れ、税関曳船海王に曳かれつつ港外に出たり。Bに繋留したるスチール・ナビゲーターは午後出帆せしも、アンドル・ルボン(Andre Lobon)は機械の一部を損じ離船すこと能わず、二日辛うじて港内の浮標に転じたり。

岸壁三号に繋留せしセンマンシティー号は、岸壁破壊したるため、港外に逃れ、四号のコレア丸は、九月二日出帆の予定にて荷役中なりしが、岸壁の倒潰により、船腹に打撃毀損を受け、辛うじて港外に脱出せり。五号岸壁のロンドン丸は当日正午川帆の予定なりしが、岸壁倒潰による船腹の損害を受けつつ港外に逃れ、六号岸壁のパリー丸は、ロンドン丸が船尾五号に繋留せる、逃るること能わざりしも、幸に岸壁が崩壊を免れしを以て、二時半頃まで同岸壁にありて人命救助に当たり、遂に火災に襲われ港外脱出には最も苦心せり。八号のヤマ(Yama)、九号の三島、十号の丹後丸、何れも岸壁破損と共に港外又は港内浮標にに避難せり。震災当日に於ける活動の状態は大略此の如。而してその後に於いても税関小蒸汽および曳船の船員は震災に当たり、港内に於ける小蒸汽の船員の多くが、自家の安全を図るに急にして船を見捨てて上陸したるに拘わらず、能く公務に服し、震災の救護事務を援けたる事は、震災事務局に於いても認めたる所なり。

以上は税関構内および海上に避難せる者の状況なるが、翻って官舎の状況を見るに、野毛山官舎は全焼し、西戸部官舎の多くは、倒壊又は半壊し、殊に二号三号は倒壊の上全焼し、また倒壊家屋の下敷となりて死亡したる者四名、負傷したる者数名を出せり。地震と共に監視部長は平山監視に命じ、自動自転車を以て官舎に連絡を取るべく命令せしも、同監視は道路破壊してその目的を達せず、途中より引返せしが、本関より脱出せるものの中官舎に帰りしものなきにあらざるも、その数は極めて少なく、家族と戸主とは猛火に距てられ、互いに不安裡に一夜を明したりき。

翌二日に至りては、海上に逃れたる者、公園に止りたる者、その他帰宅の途中にありて躊躇??し得ざりし者等、官舎に集り来りたるも、その家は全焼し、或は倒壊し、住むに所なく、従って家族は近郊四隣に分散せしを以て、妻子を尋ねざるべからず、その状全く悲惨と言うも愚なり。その後妻子に邂逅して、その安全を喜ぶ者ありしも、直後に迫り来りしものは、衣食住の問題なり。この夜の食と住とは何処にか之を求めんか。加えるに日夜より鮮人放火掠奪をなすべしとの流言あり。ために衣食住の不安に苦しめる家主は、更に夜どおし武器を採って起たざるべからざるの状態なりき。

3 税関仮庁舎と官舎の状況[編集]

官舎の被害は前に述べたる如し。而してその家族を有せざる者は、無警察状態に痛く恐を懐き、親戚知人の安否を案じて、四方に分散し、又は海上に止まり、官舎を訪問せしものは極めて少数となれり。かくして税関の機能は一時停止せざるを得ざりき。然れども税関の本拠は一日も欠くべからざるものなるをもって、取敢えず震災の翌日、港内に碇泊せる東洋汽船会社所属汽船コレア丸に仮事務所を開き、かつって同船上に仮事務所を設けたる神奈川県港務部・警察部および東京逓信局海事部横浜出張所と連絡して執務し、傍ら横浜市四十五万人の救護ならびに秩序維持のため、最も緊切なる食糧品の徴発および陸揚等を補助し、また他面に於いて税関構内の警戒を図らんとしたり。しかるにこれより先、巳に飢餓に苦しめる罹災民と、無警察の中に暴力を檀にせんとする暴徒と、大挙して残存の上屋、または倉庫に殺到し、食糧その他の掠奪を壇にし、中には兇器を携えるものあり、兇器を携えざる者も、何れも著しく昂奮し、武器を帯びざる税関官吏をもってしては、到底これを抑制し得る所にあらず。加えてその官吏すら四散し、四散せざる者も自己および家族の生を完うせんとする事にのみ急にして、更に余力なし。よって神奈川県警察部にその応援を求めしも、警察また税関官吏とその軌を一にし、本務すら遂行するの力なく、自警団等と自営によりて、僅かに秩序を維持せんとする実情なるをもって、これまた応援の余力なし。若し余力ある。とするも略奪団の鋭鋒は蓋し防止し能わざりしならん。事情かくの如くなるをもって、税関構内の警戒は軍隊の援助に俟つの外途なかりしなり。しかるに関東地方戒厳の勅令は、九月二日付をもって巳に公布せられたるも、横浜市が事実上、完全に軍隊の警備の下に至りしは、五六日頃なりき。この間に於いて構内に残存せし貨物は、大半掠奪に委したりき。

次に罹災職員の救護も、また刻も忽諸に附すべからざしをもって西戸部税関長官舎にその救護本部を設け、取敢えず焼失を免れたる倒壊官舎内より米櫃を掘り出して、これが炊き出しを開始し、市の救済食糧の配給始まるや、これを受けて炊出しを継続し、官舎居住者は勿論その他ここに集まれる職員およびその家族にもこれを供与せり。また一面に於いては九月五日出帆の便船に託して、バラック二百五十坪の建築材料と人との送付方を神戸税関長に依頼し、九日その到着と共に、西戸部町税関官舎第二号および三号の焼失跡、および第一官舎の倒壊跡に八棟、合計約二百坪のバラック建長屋を建築して、吏員を収容合宿せしめたり。前述の如く震災に依りて、本関は倒壊し多数の死傷者を出したるのみならず、幸にその難を免れたるものも、猛火に逐われて四方に離散せしをもって、先ず僅に消息によてその生死または行方不明等を調査し、同時に税関職員は必ず速やかに税関長官舎に出頭すべき旨を、本関焼失および市内各所に掲示し、死亡者と見当をつけたる後を待ち手、本関焼跡を発掘し、遺骨を遺族に引渡基せり。

4 構内設備の被害ならびに応急施設状況[編集]

構内設備の被害状況は詳密に記す暇なしといえども、要するに被害甚大なるものにして、さしも堅固なりし彼の岸壁も、多くは海中に墜落し、幸いに墜落を免れたるものも、傾斜又は彎曲し、一時使用は絶望の観ありしが、一面陸上の食糧は刻々と欠乏し来たりしをもって、速やかに食料品を徴発し、陸揚げするの必要あり。また他府県よりの救護品も続々入荷し来たれるに拘わらず、艀船は大半焼失または毀損し、使用に堪えうるものといえども、船頭の多くは船を拾てて上陸し、その用をなさず。この間に於ける当事者の苦心焦慮は想像の外にありき。従って如何にもして残存岸壁を使用する要ありとなし、九月八日より軍艦球磨の援助により、第二号岸壁の整理ならびに調査をなし、安全なりとの確信を得たるをもって、十一日より同じく球磨艦の手により、西波止場桟橋の船橋取付けに着手し、十八日竣工したるをもって十九日避難民輸送船大洋丸(東洋汽船会社運用船)を同桟橋D号に繋留しその後避難民輸送の巨船は、多くはこの桟橋を利用せしめ、鉄道省清水横浜連絡船景福丸・高麗丸はA号に、日本郵船会社神戸横浜連絡船長崎丸・上海丸はC号に定繋するに至れり。続いて球磨艦の手により、五号岸壁に船桁ボンツーンを設け、二十九日始めてアンデス丸を繋留し、また倒壊を免れたる六号岸壁は大阪商船会社所属船リオン丸を、十二日始めて繋留し、その後五・六号は盛んに利用せられつつありき。因に横浜港は震災数日間は艀および艀曳船の欠乏、人夫の不足に苦みたる結果、九月七日陸海軍の救助を受けることなれり。就中陸揚げに就きては小林少将の引率する第三戦隊がこれに当たり、その実務は主として新港第二号倉庫第一号戸前に設置せられたる桟橋司令部に於いてこれを行った。球磨艦長高橋壽太郎大佐が司令官たり。そうして陸海軍は同月二七日引揚げ、その後陸揚げならびに配給所までの運搬は協議団横浜現業部に於いて引受け、十月二十一日におよび、同日以後臨時震災救護事務局横浜出張所直接これに当ることとなれり。

陸揚場は税関構内および横浜船渠倉庫を最も使利とするをもって、税関に於いては一時使用し得べき上屋および空地を救護品の陸揚場に無償提供せり。また横浜港に於いてはその輸出品の大庫たる生糸の保管倉庫の大部分を失いしが、これの有無は横浜港の生命に関係し、惹いて我国に於ける輸出貿易を害するものと認めしをもって、取敢えず新港第二号煉瓦三階建倉庫を生糸輸出商の全部より成る横浜貿易復興会に生糸倉庫として貸与せり。

’’’仮事務所の設置’’’ 前述の如く九月二日、取りあえずコレア丸に仮事務所を設けしが、その後陸上の秩序ようやく回復するや、船舶関係事務のみをコレア丸に残し、本部を西戸部町税関長官舎に移し、更に九月十三日これを新港岸壁第二号倉庫に移し、左記の如く臨時事務を定めたり。

  • 第一部 総務課検査課および貨物事務
  • 第二部 監視事務
  • 第三部 会計事務
  • 第四部 船舶および救護品事務(臨時震災救護事務局補助)

その後新港構内にバラック事務所二棟を建築して、これに移転し、やがて前記分所を廃し、普通分課に移りたり。 (横浜税関監視部長飯田九州雄氏述)

第5節 航路標識管理所[編集]

附羅州丸の行動[編集]
横浜航路標識管理所調査

大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如激震起り、瞬時にして庁舎・倉庫等諸建物総て倒壊し、所員の一部は逃れ出しも、一部は倒壊家居の下敷となり、死者負傷者を生じ、極力救助につくしつつも、附近本町小学校より発火し、おりからの強風に煽られ、たちまち風下なる本庁舎に延焼し、殆んど混乱状態に陥りたり。中にも、微かに救助を求むる声を辿り、ようやくにして十一名を救出せしも、猛火のため危険刻々に迫り、辛うじて小部分の書類の搬出と同時に、所員および館舎居住者の家族の一部を避難せしめたり。時に午後一時三十分なり。避難者の大部分は構内裏手の埠頭より港内碇泊船羅州丸に、ある。いは埠頭対岸鉄道線路によりて各自四散せり。

御真影奉安 是より先、庁舎延焼の危険を知るや、直に両陛下御真影を奉安所より前記羅州丸内に奉移し、次いで十月二十日、宮内省よりに保管方許可を得、先ず奉還せり。

死傷者数および処置 この大震災のため、職員の死者、所長以下十名、その内庁舎倒潰により死亡せるもの六名、構外にて死亡せる者三名、職務上負傷して入院治療中死亡したるもの一名、重軽傷者十二名内重傷者四名、軽傷者八名を出せしは誠に遺憾とする所なり、これらの構内死亡者は翌二日朝に至り発見せられしをもって、各遺族に遺骨に遺骨を引渡せり。しこいうして負傷者の一部は災後直ちに活動しも、一部は比較的重傷にして、同僚の介抱により、電車内または鉄道貨物車内等に夜を徹したる者あり。これらを更に羅州丸に収容し、応急手当を施し、さいわい経過良好にして、漸次快方に赴き、只一人不具者となりしも外、何れも数旬日内に治癒し、勤務に服するに至れり。

所員の救済および応急処置 震害のため、所員の大部は住宅を焼失し、家族離散して所在不明となり、甚だしきは骨肉を喪い、軽きも家屋半壊し、加えるに市中到る所不逞の徒跋扈して、盛んに略奪に遭いしものまた少なからず。殆ど昼夜不眠不食、危惧の裡に夜を徹し、米櫃すら漸次に欠乏して、飢餓に迫りしをもって、市当局におもむき、米・菜配給の交渉を遂げ、救済の方法を講じ、一面附近震災被害調査のため、所員を出張せしめ、また所員の執務すべき建物なきをもって、焼け残り木材および生子板を蒐集して約十坪の仮小屋を急造し、九月五日より不完全ながら事務を執り続けたり。また同構造のはバラック九坪を設け、巡視小使い詰所および宿泊所に充てしが、いずれも単に雨露を凌ぐに足るの設備に過ぎざりしをもって、更に仮事務所および所員避難所等施設の必要を認め、これが材料の供給を神奈川県および横浜市当局に交渉し、これらの配給を受け別に震災応急費として、本省費処理資金壱万円および六万七千参百八拾円、合計七万七千参百八十円の支出を仰ぎ、仮事務所以下左記諸建築に着手し、漸次竣工せり。九月二十二日、この仮事務所に移り、十二月十日さらに仮庁舎木造平屋建百四十七坪竣工移転して今日に至る。

震災応急建物一覧表
工事名 数量 請負金額 起工 竣成 備考
仮事務所 木造平屋72.5坪1棟 2,049.50 12年09月14日 12年09月22日
仮避難所 木造平家100坪5棟 5,402.00 12年09月18日 12年10月30日
仮物置所 木造バラック384坪6棟 15,383.30 12年10月01日 21年12月28日
仮湯呑所 2棟 183.20 12年10月01日 21年12月28日
仮倉庫 1棟 155.40 12年10月01日 21年12月28日
仮便所 5棟 217.00 12年10月01日 21年12月28日
仮浴場および物置 1棟 305.00 12年10月23日 13年01月30日
仮厨舎 平家147坪5合1棟 20,135.95 12年10月19日 12年12月08日
仮棟橋 延長土間1カ所 2,300.00 12年10月29日 12年12月10日
仮船待所 1棟 390.00 12年10月16日 12年11月30日
仮石炭庫 1棟 623.00 12年12月07日 12年12月20日
鍛冶小屋 1棟 90.05 12年12月07日 12年12月10日
仮事務所 1棟 1,649.60 12年12月24日 13年01月04日
仮当直室写真室 1棟 1,340.00 13年01月04日 13年03月10日
仮本棚 147間 2,910.00 13年01月04日 13年03月10日
コンクリート塀その他 1式 4,190.00 13年01月04日 13年03月10日
仮館舎 40坪 1棟 11,404.00 12年12月25日 13年03月19日
伝習生寄宿舎 55坪 1棟 6,213.78 12年11月14日 12年12月20日
表門改築 1カ所 280.00 13年02月04日 13年02月20日
当直室・浴室新設 1棟 150.00 13年02月04日 13年03月10日
ポンプ置場 1棟 250.00 13年03月12日 13年03月25日
電灯配付 1式 504.93
水道布設 1式 820.00
雑工事 1式 1,081.04
建築材料置場 1式 697.00
78,726.02

予算77,380円に比し不足1,346.02は跡地整理費より流用。

各航路標識の被害状況ならびに応急処理  所管各標識の地震圏内に在るものまた倒潰若しくは崩壊・沈下棟の厄に遭い、これが復旧は多額の費用と日数を要するをもって、十三年度以降、予算を要求することとし、差向き応急修理を施工するため、予算費金参万円の支出を仰ぎ、十二月上旬着手、一月下旬に至り落成、点燈実施せり。

臨時出張所設置 震災のため一時交通通信諸機関の破壊に依り、全国に散在せる管下各航路標識に対する事務執行不能となりしがため、これが応急処置として臨時出張所を開設し、当面のことを処理せしめ、九月末日をもって公務執行上ようやくその緒につくことを得、爾来本所の設備整頓に随い、酌、出張所を廃止し、出張者に帰所を命ぜり。

羅州丸の行動 所属汽船羅州丸は、第一回の標識視察巡航を終え、港内に碇泊せしをもって前述せるごとく、本所員の一部および官舎居住の家族に一般避難民を収容し、傍ら避難せる医師に嘱託して、負傷者の治療に努めたり。薬品および包帯・医療器具等備付品提供す。また一面には食料・野菜等を横浜市役所・横浜船渠会社より受け取り、救助に努めたり。九月三日迄の救助収容人員三百五十五人に上りしが、その後漸次退船せり。しこうして本船は本所より西南地方諸灯台へ配給すべき石油運搬、ならびに本所購入物品の積取りおよび避難民五十七名輸送のため、九月二十日横浜出帆鳥羽・串本へ寄港、石油の荷揚げをなし、それぞれ避難民を上陸せしめ、更に神戸・大阪に航し、本所および本省・東京市等の復興材料を搭載し、十月四日帰港せり。災後同船の任務・就航・発着等左のごとし。

摘要 第1次 第2次 第3次
方面 鳥羽、串本、神戸、大阪 神子、元島、友ヶ島、神戸、大阪 本州四国の一部、
九州沿岸標識41カ所
目的 標識燃料各所へ配給、
一般避難民輸送、
本所及逓信省東京市等庁中用品及
復興材料積載
羅州丸修繕、
神子、元島、友ヶ島標識視察物品配給、
帰途大阪にて事業用品購入及
東京市電気局復興材料積載
視察のため
出帆 9月21日午前10時横浜 10月20日午前8時横浜 12月3日午前10時横浜
帰港 10月4日午前11時30分横浜、
10月6日陸揚げのため芝浦へ出帆、
10月13日帰港
11月4日午後12時50分横浜、
11月6日品川港へ出帆、
11月25日帰港
13年1月12午前9時40分横浜
日数 22日 36日 41日
浬数 792浬 778浬 2097浬

第一次および第二次航海に於て、東京市電気局および電燈株式会社復興材料を積載運搬せし報酬として、石炭納付方申出認可を得、現品受領するとととせり。その積載材料石炭の数量価格左の如し。

官公署 積載噸数 納付石炭 公価格 備考
逓信省 360噸
東京市電気局 1,540噸 225噸 4,095円 納付石炭は航海所用燃料の
約半分に当たる
東京電燈会社 288噸 100噸 2,000円
東京市役所関係 85噸
横浜市役所関係 90噸
2,363噸 325噸 6,095円

会計経理 震災により合計に関する帳簿書類殆んど烏有に帰し、そればかりでなく日本銀行横浜代理店もまた同様災禍に罹りたるため、収支・支出その他予算関係の調査不能に終わり、かつ著しくき困難をきたせるより、十二年度九月一日迄の収入金額は不明に帰し、支払予算の残額においても僅かに残存せる小切手交付によりて推算し、更に大蔵省と協定を要せざるべからざるに至れり。また銀行閉店中に於ける九月分俸給・給料支払のため、臨機本省予算内をもって一時繰替を受け、ある。いは応急諸費は武本技師に前渡金として交付を受け、仮事務所、その他の建設費および事業上必要品の購入費に充てたる等、当時の主なる事項なりとす。

震災に原因して、殉職者およびその他に対する臨時当与、工場職工解雇に対する当与、または臨時設置の函館外二出張所への派出旅費等、予想外多額の支出を為し、その額弐万参千四百円余に達せり。

また震災当時焼失せる物品にして、代金未払に属せのもの二十件、二千二百十六円余ありしも、予算の関係上その全部を支払うこと困難の事情ありしをもって、特に協定の上、請求額の五割を支払い、もってこれをを完了せり。

震災応急費の経理状況においては、武本技師の掌理以外に本所応急物設費、仮庁舎その他の付属建物新設ならびに被害焼失応急工事費を通して、拾六万四千六百参拾円をもって、それぞれ施設急場をしのげり。しかしてこれが復旧に関しては、十三年度以降四箇年度をもって完成せんとす計画にして、予算総額弐百拾四万六千九百九拾六円は目下協議中に属せりと。

終りに経理部支払予算の現況において行政整理のため、十二年度に於いて拾弐万参千弐百弐拾参円、十三年度に於いて七千九百七拾円、通じて拾参万壱千百九拾参円の金額を削減せられたるを以て、今後ますます極端なる節約方法を講ずるの止むなきに至らんと苦慮しつつありといえども到底このまま永続不可能と断言し居る所なれば、相当の機会に於いて之が挽回を望む次第なり。(拠燈光雑誌)

東京海湾附近航路標識に及よびぼしたる災害状況
大正十二年九月一日の大震は東京海湾附近所在航路標識に甚大の災害を与え、殊に海底の隆起又は陥落および陸岸の変化は、航路標識の壊損廃滅と相俟て、来往船舶に危惧の念を深からしめたり。当時在横浜航路標識管理所は、庁舎工場破壊全焼、所長以下多数死傷者を出し、混乱状態の裡に終止せり。海軍水路部は、駆逐艦野風に中佐竹内輝次を乗込ましめ、九月十一日より同十三日に亘り、東京海湾より伊豆近海の水路異常の調査を行わしむ。その報告中、航路標識に関し記述する所左の如し。

第二台場品川燈台 点火疑わし。
横浜水堤燈台2台 異常なし。 タイー丸船員談
横須賀防波堤燈台3台 点火せず。 野風航海長談
羽田燈台 点火疑問なり。
第二海堡燈台 点火せず。
第三海堡燈台 傾倒。
観音崎燈台 海中へ陥落。
海獺島燈台 異常なく点火す。
剣崎燈台 亀裂点火なからん。
城ヶ島燈台 打損。

右のほか野風航海長の談によれば、西より東京湾に入りし際、点火を認めたる燈台は、御前崎・神子元島および海獺島の三箇所のみなりきと言う。九月十一日付を以て、大角海軍省軍務局長は、宮崎管船局長に対し、第十二駆逐隊、去九日品川へ回航の途次、目撃する所によれば、伊豆以東に於いては神子元島および第二海堡を除きたる他の燈台は点火しおらず。該方面艦隊の行動頻繁なるに鑑み、至急復旧を取計われ度旨要請あり。しかれども当時通信機関途絶して、各燈台の状況は知る術なく、従って被害程度明確ならず。浮説流言行われ、中には何等信憑するに足らざるものすらあり。各種の情報を総合してその事実と認むる左の燈台に対しては、九月十五日官報告示を以て燈台消滅のことを発表せり。

野島崎・洲の崎・大島・剣崎・観音崎・第三海堡・横浜北および東水堤・羽根田の九燈台および本牧・川崎および荒洲の挂燈浮標。三浮標燃料ガス供給不能の為めなりとす。

航路標識管理所は、九月十五日被害地と認むる左の各地に向け、吏員を派遣し、実地調査を行えり。

神子元島・石室崎・大島。以上甲良技手、飛奈看守。
城ケ島・剣崎・観音崎。以上村崎技手。
洲の崎・野島崎・勝浦・犬吠崎。以上三浦技手。
品川・羽根田。以上坂倉技手。

但し大島は九月二十六日の激震にて被害甚大点火不能に陥り、再度吏員江崎技手を差遣調査せり。

災害状況  右出張員の復命および燈台の報告等によれば、各燈台の被害状況は大要左の如くにして、その払いし犠牲多きも、一名の死傷者を出さざりしは幸いなりき。左に横浜北水堤等の一二の燈台の被害状況を抄記す。(編者記)

本港燈台の被害 横浜北水堤四等・同東水堤五等燈台六角形鐵造高さ四十尺明治二十九年建設はいずれも防波堤と共に十三尺五寸沈下し、燈台下部およびピンチガスタンクは水中に没し燈籠に異状なかりしも、ガス供給不能となり、燈火を滅せり。本牧挂燈浮標・川崎挂燈浮標・荒州挂燈水中信号浮標は、海中に浮動するを以て、格別震害なかりき。

仮応急施設 以上各標識の内ビンチガスを燃料とするため、横浜航路標識管理所構内に在りしガス蒸造場焼失、燃料供給不能となり、燈火を消減するの已むなきに至りしものは、横浜両水堤・第三海堡および羽根田の四燈台に前記本牧・川崎の二挂燈浮標なりき。依って非常用燈器を用い、北水堤は九月十二日(燈高三十尺、告示第一四三二号)より不動燈(北堤紅光、東提白光)を点じ、更に両燈台ともに高圧十斤入アセチリンガス発生器を取付け、各二十八立火口を用いて震前と同一の燈質となせり。北堤は九月二十五日(告示第一四五七号)より、東水堤は九月二十七日(告示第一四五八号)よりいずれも点灯実施せり。本牧および川崎挂燈浮標に対しては見廻小蒸汽光丸舳部に、高圧十斤入発生器を据付け発生せるガスを標体タンクに移入し、燃料をアセチリンガスに更め、二十八立火口を用い、震前と同一の燈質とし、本牧は十月二十二日(燈光数二百二十、告示第一五五六号)より、川崎は十月三十日より点火復旧(燈光数百、告示第一五八四号)せしめたり。

第6節 横浜税務署[編集]

九月一日午前十一時五十八分と思しき頃、一大激震あり。当時庁舎内に於いて執務中の署員は、何れ難を宝外に避けたるを以て、大多数は無地なるを得たり。唯事務室より食堂に至る廊下、食堂より小使部屋に至る鉄筋コンクリート造に係る屋根は、殆んど一斉に墜落したる為め、食堂より小使部屋に至る廊下に逃避せんとしたる属田原伊助は、該廊下屋根の破片により、その右足を殆ど切断せられたり。四日に死去す。庁舎階下の柱は大多数上下接続部の損壊甚だしく窓枠および玄関大戸は、激震と同時に離脱倒壊し、壁および床等にも亀裂の箇所少なからず。その後間もなく西南の方向三箇所より火災起こり、濛々たる火焔は漸次庁舎に接近し来りたるを以て、備付のホースを消火栓に取付けたるも水道管破裂のため断水してその用を為さず。午後三時半頃庁舎は全く火焔に包まれ焼失の災を蒙れり。これより崎、第一回の激震のため、一度避難したる署員は再三庁舎内に出入して、重要簿書の搬出に努力せり。しかれども頻来する激霙のため、人命を損するうれいありしのみならず、強風に勢を得たる猛火は、漸く庁舎を襲い来たりしを以て、一部分の簿書および物品を搬出したる外、遂に悉く灰燼に委するの已むなきに至れり。倉庫扉は危険を冒して閉鎖せしも強裂なる大熱の為め、鉄扉焦熱合著点離脱し、庫内の土地台帳および地図等焼失せり。此に於いて本月二日、市内西戸部町西の原百六十番地、小宮所長私宅を仮事務所と定め、同書を中心として署員の収容および救護の事務に従事せり。(拠財務協会雑誌)

第7節 神奈川県立輸出羽二重検査所[編集]

大正五年十一月に竣工して、日なお新しき同庁舎は、北仲通六丁目裁判所の隣地二百余坪の豪壮な建物であった。当日は退庁時間際であったので、室内に残留の所員は殆んど無かった。第一震で建物に異常はなかったが、第二震に因って、書類庫は約二十度の角度を以て、海岸の方に傾いたので、書類は四方に散乱した。所が間も無く両側補習学校からの火は同庁を襲わんとしたので、書類を手当り次第に捨い集め、一使丁をして安全地帯へと運び出させた。比較的出火が遅かったのと、建物が破損を免かれたのとで、人命を失ったものはなく、残る所員は紅葉坂方面・久保山方而・海岸方而等に避難した。主なる被害として特記すべきは建物のみで、製品は検査済次第返す事になって居るので、それには一点の被害もなかった。その後の復旧状況は、大正十三年七月に至って、四間に六間の仮バラックを建て、直に開庁した。輸出絹物は霙災前に比すれば、数に於いては返って優である。その原因は災後保土ケ谷富士紡績会社の製品富士絹の増加を見たのであるからでもある。(神奈川県立輸出検査所員談)

第8節 植物検査所[編集]

農商務省所管植物検査所 調査
1 一般状況[編集]

植物検査所は大正十二年九月一日の大震火災の為に、半壊の倉庫一棟、同倉庫に収蔵し在りたる物品・印刷物・古帳簿および書類、所員貸出中の図書、金庫内収納の郵便切手、所員の持出したる書類を除き、一切の建物、工作物・物品・帳簿・書類を烏有に帰せしめたるを以て、取り敢えず同月三日、多数所員の集合に便宜なる横浜市内根岸町重川属居宅を仮事務所に定めたり。同月四日狩谷所長代理本省へ出張して、被害の報告をなし、同月八日、出張中の桑名所長帰庁したるを以て、仮事務所を東軽井沢の同所長宅に移転し、部署を定めて、諸般の復旧計画を講ず。まづ資金前渡しを受け、応急物品の購入、人夫の支払その他経費の仕払を円滑ならしめ、震災前の庶務会計を調査整理して、種々の報告を為し、応急および復旧予算(庁舎は税関に合併の為之が建築費を除く)を作成提出し、輸移入植物検査場を税関構内の旧敷地に急造して、之が検査取締に備え、且つ税関の取締設備壊滅して出入貨物の取締不行届の状に鑑み、職員を阪神地方に派遣して、小蒸汽船一艘を購入し、倚て以て輸移入植物の検査取締を完全ならしめ、また英国および米国輸出百合根の検査も、九月十九日の申請始めとし、引き続き之を行い、植物病菌害虫および貯蔵穀物害虫の研究調査事業は、一切の目的物を失いたるに因り、研究用品の急備を図ると同時に、諸材料の蒐集に着手し以て回復を促進せり。

十一月に入り、高島嘉兵衛氏の所有せる東軽井沢の土地約百坪を無償借入れ、之に多少の盛土を施し、別に神奈川県に申請して、該地に無償を以てバラック建物六〇坪の建設を受け、之を仮事務所となし、なお輸出植物検査場兼研究調査室また輸移入植物検査場の設計に着手す。十二月十七日より台湾産西瓜の移入禁止解除せられ、横浜・神戸・門司・下関の諸港より陸揚するものに限り、検査の上移入を許可することとなりたるを以て之が検査取締を開始す。之が経費は大正十三年度より要求することとなせり。

旧植物検査所は仮庁舎を税関と合併することとなりたるを以て、単に輸出植物検査場兼研究調査室のみの敷地として広大に過ぎぎ且つ不便少なからざるを以て、大正十三年二月末日に至り、之を返還することとし、二月十八日市内高島町に輸出植物検査場兼研究調査室敷地を借入れたり。また税関構内の輸移入植物検査場敷地は税関より返還を要求せられたるに依り、急造輸移入植物検査場を取り毀して、之を返還し、代地として万国橋附近の敷地を税関より借入れる。取り毀したるちたる急造輸移入植物検査場材料は、輸出植物検査場兼研究室材料に使用せり。二月二十六日、税関合併庁舎成りたるを以て、庁舎を之に移転す。同二十八日旧敷地に孤在せる半壊の貯蔵穀物害虫研究用煉瓦造倉庫を取り毀し、その他の焼跡跡整理完了したるに依り。同敷地を返還す。三月十七日会計検査院の松田副検査官外二人来所、震災後の経理に属する収入支出、国有財産、物品等に就き、実地検査を施行せられ同三十一日、輸出植物検査場兼研究室および輸移入植物検査場竣功したるを以て穀虫部員および病菌害虫研究調査員を前者に移転せしむ。

2 植物検査に関する状況[編集]

輸移入植物検査 震災の為め、横浜市内に於ける一切の秩序は破壊し了せられ、白昼なお殺人・強掠・窃盗の頻々として行わるるものあり。人心為に途に安んぜず。斯かる騒乱凡そ数日にして漸次秩序の回復を見るに至れりといえども、検査事務執行の如き、未だ容易の業にあらず。たまたま外航船舶の寄港するものありと、いえども岸壁埠頭の大破壊艀船の大欠乏、陸上の不穏のため、上陸の便なくして、直に神戸その他に廻航するを以て、もっぱら所内秩序の回復に努力せり。是月下旬、税関西波止場・仮波止揚の成るに及び、漸く検査事務の復旧を見、さらに更に十月下旬、小蒸汽船寶安丸を購入するを得て検査取締の整備をみるに至れり。

震災直後、輸入検査に対し特に記録すべきは、第一に検査品の数量例年に比して激減せることにして、もっぱら震災により、横浜港揚貨物減少の結果に因るものと思考せらる。第二は米国加奈太方面より苹果[りんご]・梨・胡桃等輸入禁止品を携え来るものの著しく増加せることにして、震災地に於食料品の欠乏を救助するの意を以携え来れるものなるべきも、既に本所は此の騒乱裡に斯の如き輸入禁止品の輸入により、恐るべき害虫を輸入し国家百年の悔を残さん憂ありしを以て、極力之が防止取締に当たれり。

移輸出植物検査 地震発生当時は、例年百合根の輸出最盛期に該当し、鹿児島県その他暖地に栽培せる所謂島百合の輸出を終りて、漸く埼玉・群馬地方に産する黒軸百合の輸出を見んとする際なりしが、震災の為関東一円の交通機関全く破壊せられたるに依り、一時は百合輸出の前途寸前暗黒の観ありしが、九月下旬下旬に於いて既に輸出に遅れたる島百合三千余梱を神戸港より輸出せらるるものあり。埼玉・群馬方面に於いても、その地方に於いて検査を受け、神戸を迂廻して亜米利加に輸出を企てんとするものあり。本所に於いても非常緊急の際止むを得ざるものと認め、埼玉県本庄町に於いて輸出百合根の受検を許可し、その設備をなさしめつつありしが、十月中旬に至り、横浜市内に於ける秩序漸く回復するにおよび、従前通市内に於いて受桧の設備をなすものあり。かくて横浜・神戸・埼玉三箇所にて受検の上、輸出を見るに到り、その輸出高例年に比して何等の遜色なき盛況を見るを得たりしは不幸中の幸と謂うべし。朝鮮輸出苗木の検査は、例年十二月中旬頃より開始せらるるを常とす。震災の為九・十月頃、関東地方栽培の苗木は、その価格著しく下落し、その機に乗じて関西地方に流出するものおびただしく、十一月に至りて価格漸く回復せりといえども、既に品薄の為、本年度移出検査数量は例年に比し、やや減少を見たるは止むを得ざる所とす。殊に大正十三年一月十日より埼玉県に於いては県令を公布して、輸出苗木の取締を励行するに至り、不合格苗の除去と共に、一層品薄の止むを得ざるものありたり。なお本所調査研究に関しては、大正六年本事業開始、桔据経営漸成したる調査研究成績・標本・図幅・器具・機械等も、また震災に因りて烏有に帰し、殊に未発表の調査研究成績を焼失せしむるに至りしは甚だ遺憾の事とす。

3 震災後の庶務状況[編集]

震災の際は、出張中の桑名所長および二三の職員以外、全部在所せり。震災に因りて職員中―二の者その家族に遭難者ありしが、職員に一の遭難者なかりしは至幸と謂う可し。震災直後二三の職員、相会し、重田属居宅に仮事務所を設置したりといえども、当時市内は秩序全廃れ人心極度に不安の気漲り、食糧窮乏して、人之が獲得に狂奔しつゝある。状態なりしを、以て、地方に避難せし職員も多く、事務開始の如き、未だ企て及ぶ可くも非らざりしなり。その後数日を経て、秩序恢復し、衣食救済の途開かれ人心少しく安定となりたるの際、桑名所長朝鮮より帰庁せられ仮事務所を同所長宅に移すや、居所不明の職員を探索して、出勤を促し、ここに始めて事務の開始を見るに至れり。然れども職員の多くは何れも仮事務所に遠き辺陋の地に届住し、出勤に多大の時間を空費するが為事務の進捗を妨ぐること甚しきに窮し、神奈川県に申請し、バラック建物の建設を受け、一部を庁舎に、一部を住宅に充て此等出勤不便の職員を収容して、促進を図れリ。震災後十二年度末の間に於いて、本所々属職員の異動を挙げれば、輸移入植物取締用船購入に伴う船長以下の船且傭入をなしたるに止まる。

九月八日桑名所長私宅の仮事務所に於いて事務所開始を見るに到れりといえども、当時日本銀行横浜代理店閉店中なるを以て、経費支出の途なく、やむを得ず桑名所長の私金を以て、執務用の物品を購入し、一時の急を凌ぎたり。然れども斯るを事情の下に於ては、事務遂行に支障すくなからざるがため、日本銀行本店に交渉し、本店より一般経費支弁の資金および九月分の俸給および給料の支払を受け、ここに漸く執務円滑となれり。焼残品の取片付をはじめとし、職員の出張、小蒸気船その他緊要物品の購入、仮輸移入植物検査場の新築・人夫の傭上等、検査その他の事務処理に支障なきを得せしめ、超て十月日本銀行横浜代理店開業して、経費支出の方法全く復旧し、震災後停止し在りたる支所以下の経費支払も、漸く解除することを得たり。十一月応急予算の令達を受けるや、器具機械の購入、輸出植物検査場兼調査研究室、輸移入植物検査場の新築等漸次進行せしめ、年度末に於いて松田会計検査官一行に依りて、皆生に実地検査を施行せられたり。震災に因りて、帳簿書類焼失し、経理上幾多の障害続生したるに拘わらず、応急の施設を整備して、事業の遂行上支障なからしめ得たるは当務者の意を安んぜし所なり。

第9節 神奈川県港務部[編集]

神奈川県港務部調査
1 一般状況[編集]

大正十二年九月一日、大震災に当り、港務部庁舎は数秒にして全潰したる後類焼した。汽艇大正丸および港務部裏汽艇甲・桟橋もまた類焼した。そして別記の如き死傷者を出した。当日港務部庁舎内にありたる部員にして生存せるものは、時を移さず崩潰瓦石の下敷となり居る負傷者の救出、避難者の救済、所属汽艇船舶の避難に努力した。翌二日束洋汽船株式合社汽船コレア丸内に祠奈川県港務部仮事務所を仮設し帝国海軍・横浜税関吏員・日本郵船株式会社・東洋汽船株式会社・大阪商船株式会社・三井物産株式会社等の社員および船員の多大なる援助を得、港務事務を開始するを得たるも、危急の際なれば、常務の外、当所属汽船および徴発・汽艇を指揮して、入港各船および在港碇泊船の積荷・食料・飲料水・薬品の調査をなし、必要に応じて之を徴発・陸揚することに従事し、又一方陸岸にある。罹災民を港内在舶の各船に避難せしむると同時に出港各船の人員を収容可能の力を調査して、毎日二千至八千名の罹災者を清水・神戸等の方面に輸送せしむることゝした。此間浩務部署員は、検疫等常務の傍、船医その他と協力して罹災民中傷病者手当のことに努め、そして此間各方面に向け、救援要求、震災の状況報告等、凡て汽船コレア丸の無線電信に依り、また碇泊各船と港務部事務所との通信を海軍信号兵六名および税関・日本郵船株式合社・東洋汽船株式会社等の汽艇に依って遂行した。しかもここに特筆すべきは震災直後、大阪府港務官山路梅太郎(九月十一日着十月四日帰任)および福井県港務官久野左直(九月八日着十月四日帰任)両名の応援があった事である。そして九月十二日に至り、港務蔀事務所をコレア丸より日本郵船株式合社汽船三島丸に移し、前述事務を継続し、九月十八日三島丸は陸上との通信用として、海軍の力に依り、海底電話を敷設せられた。九月九日よりは、港務部本部出張所を横浜船渠に入渠中の汽船リマ丸内に、港務部陸上仮事務所を横浜船渠会社構内税関監所内に置き、海陸の連絡等の衝に当らしめて居ったが九月二十七日港務部事務所を新港税関第二号倉庫内に移し、汽船リマ丸および横浜船渠合社構内税関監所内に置きたる出張所等をも併せて閉鎖し、越えて十月三十日には、前期倉庫より港務部旧庁舎前遊歩道に急設せられたるバラックに移り、本年六月七日、港務部旧庁跡に新築されたる港務部庁舎に引移って現在に及んだのである。なおお生存港務員にして、当時汽艇の指揮、内外国艦船の錨地指定、清水。食料。艀船その他の徴発、検疫医の消毒その他の物件、食糧の配給等に従事したる人員は、港務部長外二十九名にして、当時指揮に従い汽艇の操縦に従事したる船員および陸上の雑務に服した傭員は船長外六名、機関士外六名、機関士十名、水夫八名、火夫十二名、信号手六名、通信手二名、船夫七名、人夫八名、小使八名、給仕三名である。またコレア丸および三島丸に於いて執務中、本部員の援助として港務および救護事務に従事したる人員は、臨時震災救護事務局事務官・税関事務官二名にして、東京逓信局海事部横浜出張所技手四名、東洋汽船株式会社荷客係三名、日本郵船株式会社三名、近海郵船株式会社一名、大阪商船株式会社二名、三井物産株式会社一名、関東組一名、無所属一名で、その他港務部の汽船旭丸運転のため、会員掖済会練習船国後丸より徴発した人員は、水夫長七名である。これらの人員は当部汽船旭丸を交代操縦し、指揮に従い港務に従事しゝなお時間の許す限り、碇泊船間および陸岸間に於ける罹災民の移送、食料、飲料水・石炭・艀船等の徴発、艀船の曳航その他各般の救護作業に奮闘従事したのである。

2 港務部徴発汽艇表(料率噸弐円ノ割)[編集]
所有者 船名 噸数 借入期日 解除期日 借入期間 金額
東洋汽船会社 都丸 219 9月1日 9月12日 10日 525.6円
吾妻丸 385 9月1日 9月12日 12日 924円
横浜船渠会社 日之出丸 214 9月6日 9月8日 3日 384円
戸部丸 998 9月8日 9月29日 22日 439.2円
野毛丸 795 9月5日 9月11日 7日 1,113円
蓬莱丸 150 9月20日 9月27日 8日 240円
花咲丸 140 9月7日 9月10日 3日 84円
篠崎留吉 大崎丸 110 9月7日 9月7日 1日 22円
三井物産会社 瓊浦丸 170 9月8日 9月27日 20日 6,80円
関東運輸会社 萬福丸 136 9月9日 9月11日 3日
第號丸 43 9月9日 9月11日 3日
三井物産株式会社 三浦丸 500 9月3日 11月8日 67日 8,375円
共同運輸会社 共同丸 47 9月6日 9月17日 12日 141円
萬歳丸 50 9月7日 9月17日 11日 13.5円
海航丸 45 9月6日 9月17日 12日 135円
藤本竹一朗 白惣丸 125 9月5日 9月16日 12日 375円
七號白惣丸 135 9月5日 9月20日 16日 540円
村上商店 大宏丸 104 9月5日 9月22日 7日 442円
石崎豊次 満壽丸 110 9月23日 10月3日 11日 302.5円
二號住吉丸 98 9月8日 9月11日 4日 98円
石崎豊次 五十三號吾妻丸 120 9月8日 9月11日 4日 120円
日本郵船会社 二號三菱印 18 9月14日 9月27日 14日 63円
第五號 12 9月10日 9月27日 18日 54円
無號水船 95 9月3日 9月9日 7日 166.2円
杉山正行 三號寶栄丸 135 9月5日 9月5日 1日 33.75円
篠崎留吉 八號日海丸 160 9月5日 9月5日 1日 40円
十一號日海丸 90 9月6日 9月6日 2日 45円
新正丸 135 9月7日 9月7日 16日 540円
岩野宇治 観音丸 85 9月4日 9月4日 3日 63.75円
中田回漕店 38號 120 9月11日 9月11日 4日 112円
神宮丸 71 9月12日 9月12日 3日 165.25円
横浜運輸会社 海盛丸 75 9月17日 9月17日 5日 93.75円
3 徴発石炭調[編集]
被徴発船名 徴発月日 噸数 炭種 価格
艀船萬壽丸 9月17日 102 奈良別粉炭 1540.2円
汽船日高丸 9月17日 4 美唄塊炭 72円
開盛丸 9月17日 65 本屋瀬塊炭 2062.5円
享福丸 9月17日 60 本屋瀬塊炭
32號大宏丸 9月17日 32 佐賀洗中塊炭 2432円
9月10日 96 佐賀洗中塊炭 190.5円
あんです丸 9月17日 1 不明 190.5円
天正丸 9月17日 3 北海炭 54円
りおん丸 9月17日 30 不明 寄贈
4 薬品および外科材料徴発品目[編集]
船名 品目 数量 徴発月日
夕張丸 沃度丁幾[ヨードチンキ] 450瓦 9月6日
6號札幌丸 繃帯 5本 9月6日
ガーゼ 200瓦 9月6日
酒精 200瓦 9月6日
沃度丁幾 250瓦 9月6日
博多丸 ガーゼ 12磅 9月7日
油紙 (百枚入)30箱 9月7日
沃度フォルムガーゼ (百瓦)40本 9月7日
繃帯 (4個入)20本 9月7日
亜鉛華軟膏 36磅 9月7日
硼酸軟膏 9月7日
大洋丸 過酸化水素水 900瓦 9月7日
繃帯 5本 9月7日
ガーゼ 2磅 9月7日
鳥羽丸 ベンチング油 200瓦 9月7日
北京丸 リチネ油 550瓦 9月9日
ありぞな丸 ワゼリン 100瓦 9月10日
若宮丸 昇汞(水銀)ガーゼ 5反 9月11日
400瓦面 3磅 9月11日
硝酸軟膏 1磅 9月11日
亜鉛華軟膏 5本 9月11日
油紙 1本 9月11日
過酸化水素水 1磅 9月11日
デルマドール 1オンス 9月11日
悠純丸 ワゼリン 100瓦 9月11日
モヒ錠 100個 9月11日

但し在港中の外国汽船にては、薬品等の物件に就いて、当時在浜中のそれぞれ母国艦隊司令官の命令により、各汽船の自由に持出すこと能わずとして、その支給方を謝絶せられた。震災当時港務部長の発行した薬品および外科材料徴発命令覚書は左の如くである。

九月七日   神奈川県港務部長 印
外科薬品及繃帯材料等右持参
人へ支給相求度候
  右船長 殿

第10節 横浜刑務所[編集]

1 被害状況[編集]

横浜刑務所は根岸町字廣地に在り、煉瓦の高塀を繞らした二万六千余坪の地積を有する広大な一構えである。当日所内の職員は、事務区域に典獄以下四十七名、悔悟区域に九十名と外に使丁数名勤務し、収容者の総数千百四十名(この内懲役人千七十八名、被告人四十九名その他十三名)を抱擁していた。激震の襲来するや、最も重要の設備たる外圍はその大半倒潰し、大小の建物約五十棟の内二十四棟は倒潰、十六棟は半潰し、職員三名、収容者三十五名圧死し、外に職員数名、収容者約五十名重傷を負うた。建物の被害状況は左の如くである。 倒潰

名称 構造 棟数 坪数
医務事務室 木造平家建 1 37.00
男収容病者 1 122.25
女懲役場 1 136.50
女浴場 1 7.50
工場 3 65.00
倉庫(被服その他) 木造二階建 1 120.00
同(建築材料) 木造平家建 1 72.00
来庁者控室 1 7.00
門衛及見張所 2 2.00
便所 1 1.00
官舎 11 548.59

半潰

名称 構造 棟数 坪数
女拘置場 50.00
懲罰室 3.56
屍室 3.00
官舎付属物置 18.20

小破
(略ス)
類焼

名称 構造 棟数 坪数
事務室 木造平家建 1 198.10
同(戒護係) 1 79.00
同(教務係) 1 32.00
看守教習所 1 53.50
教誨堂 1 75.00
倉庫(文書、領置、用度) 煉瓦二階建 1 150.00
同(用度、作業) 土蔵平家建 1 72.00
物置(炊事付属その他) 木造平家建 4 43.00
同 (自動車置場) 1 23.15
同 (自動車置場、
裁判所構内)
1 12.00
看守部長派出所 1 6.00
写真室 1 2.00
拘置場 1 497.00
独居房 1 736.10
雑居房 1 1050.50
未成年者収容房 1 132.00
工場 9 1205.91
浴場 1 107.75
検身場 3 88.00
炊事場 1 189.00
接見室 5 10.50
付属建物(渡廊下、便所等) - 23.50

所長は辛うじて庭園に避難し、同様避難し得たる典獄補以下の職員、並びに収容者を指揮し、各部署を分かちて、直に臨機応変の処置を執ることを命じ、何れも之が活動を為しつゝある。際、隣接せる市電気局舎宅より出火して、所内の建物は倒潰せるとせざるとを問わずその過半三十八棟は類焼の厄に遭った次第で、その際更に職員一名、収容者五名の焼死者を出した。

2 応急措置[編集]

左に各係の執った応急措置を摘録して見よう。文書係に於いては、収容者の下敷となれるものを救い出し、之を終るか終らぬかの中に、飛火は既に附近におよびんだので、直に書類の搬出に努め、最も重要なる収容者名簿全部二十七冊、収容者身分帳の大部分九百九十冊、その他数百冊を安全区域に持出し得た。

用度係に於いては、職員および収容者の全部が未だ午餐を喫せず、空腹にては活動し難かるべきを思い、仮炊場を急造して炊出を為しつゝある。際、火災の及びたるを見るや、即ち係 員の一部を炊場に残し置き、各員何れも収容者を指揮して、防火に従事したが、おりから烈風吹舎き荒み、水道も壊滅したことゝて、一同必死の奮闘も多くは画餅に帰した。尤も両三箇所のみは慥かに延焼を防ぎ得たのであった。なおその際倉庫の一角を発掘して、外米約五十俵・麦二十俵・自動車・揮発油・簿冊・備品・切手・葉書等の少許をも持出した。

会計および領置係に於いては、主として職員の救護ならびに官舎家族の救助に従事し、更に倒潰せる領置品金庫より領置品約三百人分および現金六百二十円余、その他帳簿・印顆等の幾部を搬出した。

作業係に於いては、主として工場作業者の救出に奔走したが、火焔は忽ち全所を蔽わんとするに至ったので、工場附近の消防に努め、更に本庁舎の危急に迫れるを見るや、直に之に赴いて、開係書類の搬出に助力し、作業素品出納簿外六十五冊を倒潰物の下より持出した。

戒護係約九十名は、夫々第一乃至第十四工場・青年工場・拘置監・独居監・病監等に在って勤務中で、何れも収容者の救助および逃脱防止に努め、防火にも従事した。

斯くて二万六千余坪の敷地は、その大部分焦土と化し、拘禁設備も収容設備も悉く全滅したのみならず、食糧も欠乏し、百策まさに尽きたので、典獄は午後六時、収容者の内重傷者を除く一千余名を構内の空地に集め、一々点検した上、此の際法規に依って一時解放するに付、二十四時間内に帰所するか或は何れかの警察官署に名乗り出づべく、且つ解放中不心得なきよう厳重に言い渡し、一同は思い思いに退散した。なお重傷者数十名は之を一箇所に集め衛生技師をして応急手当を施さしめたが、手当の甲斐なく死亡した者が十名あった。斯くて所内の死者は職員四名、収容者五十名を算することゝなった。その後衛生材料の供給を得て、それぞれ本治療を行い、その中の十五名は執行停止の上、一時郷里に帰還せしめた。

二日払饒の頃より不逞鮮人云々の流言行われ、民心激昂の結果、鮮人を拉致して当所に来たり、処分を求むる者などあり、之に対しては当所の権限に属せざる旨を説明し、且つ巌に妄挙を戒めて引取らしめた結果、当所の界隈に於いては別段惨事を見ずして終った。

二日午後七時、解放期限となりし頃、帰還したる受刑者約七百を算したので、焼跡に野営を張って不安なる第二夜を過ごした。

翌三日、帰還受刑者一同を集めて、此の際一致協力、職員の指揮に従い、災後の跡片付に従事すべき旨を言い渡し、一同誓明した。斯くて焼跡に散在する焼残り木材・亜鉛板・作業用器具等を拾い集めて、取敢えず仮収容場を設らえ、各工場別の標識を明かに表示して、外圍はなけれど、兎も角も拘禁制を維持することを得た。而も収容者一同は、死を免れたる幸運に感喜し、当所の取扱にも感謝したものの如く、何れも非望を懐くなく、神妙に労作に従事したことは推称するに足るものがある。なお解放に就いては、当所の附近民は何れも恐怖し、警戒を怠らなかったのである。が、格別の事もなくて了つた。 此間、司法省行刑局に於いては、震災地一般の刑務所に対して、或は収容者に告諭を発し、或は外圍代用の板塀又は鉄條網を繞らし、或は震災地以外の刑務所より戒護力を分割し、或は移送収容および拘禁区分の変更を為し、特に解放後帰還せざる者に対しては、各府県に通達して、之が逮捕方に努力せしむる等、有らゆる方途を講じた。

直後、一部掘出し得たる外米により、収容者・職員および官舎に在る家族一同は粥を啜ってようやく飢を漸く飢えを凌ぎつゝあった。おりから司法省より、此際一週間持久せよ、それ迄には必ず救援に赴くべしとの通知に接したけれども持久は対底覚束なきより、三日所員を横須賀鎮守府に派して、食料ならびに衛生材料の分与を受け、更に市役所より外米四百五十七袋の配給を得た。その後救護事務局を、始め、近府県の刑務所よりも続々食糧・衛生材料・事務用具・食器・拘禁材料等の供給を受けて、此等の点に就いては全く不安を除去し得た。

解放二十四時間の期限後に帰還した者少なからず、拘禁上困難を訴えるに至ったので、行刑局の通達に依り、海軍筋の助力を得て、収容者の一部を二回に分けて、名古屋刑務所に移送した。その第一回は九月六日二百九十五名を、第二回は性行の特に不良なる者百三十五名を、何れも磯子沖よ軍艦夕張にて移送したのである。此の間八日、福島刑務所より看守部長二名、看守六名、九日盛岡刑務所より看守四名の応援を得た。なお帰還せざる受刑者に対して帰還を促す為、東は鶴見より西は磯子に至る間の各要所にその旨貼紙を為し、一方戒厳司令部に依頼して、之が公告を為し、或は職員を変装せしめて、各方面を探査し、発見次第連行帰所せしめ、或は受刑者の郷里なる警察署へも逮捕方を依頼する等、有らゆる方法を執り、何れも多少の効果を挙げた。

所内の殃死者は収容者をして之を発掘せしめ、各遺族に交付の手続を執り、交付の途なきものは、之を荼毘に付した。多くの殃死者を出だした横浜地方・区裁判所跡の屍体発掘は、当所収容者をして之を為さしめた。

復旧作業に関しては、取敢えず当所の対岸に在る横浜亜鉛鍍金会社の焼亜鉛を悉く搬入し、次いで救護事務局ならびに農商務省より木材その他建築材料の供給を受けて、取敢えず仮建築を構え、更に司法省の配意に依り、民間請負業者の手に依りて、外圍、収容室その他の応急工事を施され、九月三十日には、事務室および倉庫一棟百三十二坪、収容舎三棟三百五十一坪、官舎六棟二十六戸二百五十五坪の工事成り、新入被告人八十二名を収容し得るに至った。その後収容者は、悉く救護的施行設業に就かしめていたが、漸次に普通作業を為し得ることゝなった。

第11節 横浜地方区裁判所[編集]

震災前に於ける横浜地方裁判所同区裁判所同供託局の庁舎は、明治二十三年三月十日新築第落成したる煉瓦造の二階建にして、横浜市北仲通五丁目七十一番地に位し、敷地坪数四千百四十三坪二合六勺、建物千四百二十七坪一合三勺なりき。

激震の起るや、右庁舎は瞬時にして崩壊し、旧時の壮観はまた影を留めず、在庁多数の庁員および弁護士・新聞記者・訴訟関係人等は逃ぐるに暇なく、或は深く煉瓦の下に埋没せられ、或は梁柱の間に挟まれ、凄惨言語に絶す。僥倖にして此難を免れたる庁員その他の在庁者は力をつくして救助に努めたるも、隣家鈴木商会を初め、附近の民家数箇所に火災起り、おりからの烈風黒煙の中に幸じて目に止まりたる負傷者を救助し、他に避難するの已むを得ざるに至り、庁員の一部は港内碇泊のパリー丸、コレア丸、ロンドン丸等に避難し、一部は帰宅し、また一部は横浜公園内に避難したり。当日の庁員およびその出勤者は左の如し。

総人員
 判事 19名
 検事 13名
 供託局長 1名
 司法官試補 31名
 通訳 8名
 書記 46名
 雇 39名
 給仕 13名
 延丁 13名
 傭人 4名
 小使 1名
総員 188名

殃死者および負傷者 此の霙火災の為に、所長末永晃庫を始め、在庁者九十四名殃死し判事書記以下十九名、重軽傷を負えり。
総出勤者

総出勤者 136名
 事故者 52名
 死亡者 35名
 生存者 101名
総員 188名

記録および什器の焼失 上記の如く震火災は激甚かつ迅速なりし為め、当庁保管の民刑事記録・登記簿その他の書類および什器は、之を搬出するひまなく悉く烏有に帰したり。什器の内には、先帝行幸の際の記念たりし物も有りしが、また如何ともすること能わはざりき。書類の中たまたま宅調の為め、主任判事が自宅に持ち帰り居りしもの、および庁員の二三が携帯せしもの等、僅少部分は幸い此災厄を免れたり。

次に本市所在横浜区裁判所管内各出張中、神奈川出張所の披害は庁舎南方に傾き、半潰となり、執務危険なれば、主任書記窪田小次郎は、一時自宅の一部を登記事務所に充てたり。倉庫は石造なるが、北側の外壁は、一面に外方に倒れんとし、為に二階の一部墜落したり。

書類は倉庫内に保管しありて全部異状なかりしにより、壁の破損せる部分に、仮に毛布およびトタン鈑を以て之を蔽い,降雨のために濡れざる様設備せり。書記の住宅も甚しく傾斜し、屋根および戸障子の一部破損し、壁に亀裂を生じ、庁舎より住宅に通ずる廊下は全潰せり。

仮庁舎の新築 当所長立石謙輔・検事正吉益俊次より司法省に向って仮庁舎の建築を上申したる結果、本省に於いては、去る大正七年十月、金壱発万六千九百円にて建築したる京都地方裁判所の仮庁舎が同十二年三月同地方裁判所本庁舎新築落成に依り、自然不用に帰し居りたるを以て、之を当裁判所仮庁舎に移転起工の計画を為し、同十二年十月十九日、工事費弐万六千九百円を以て、京都市綾小路通千本東へ入柳の宮九番地末松佐吉に之が請負を命じたり。是より先き、横浜市役所にては市内主なる官公署の仮庁舎を横浜公園内に集中せんと欲する旨の決議を為し、その旨当庁にも通知あり。当裁判所は千七百二十坪五合の割当を受けるととゝなりたるを以て、此内三百八十六坪八合六勺九才を横浜刑務所附属拘置場敷地、百七十二坪五合を看守部長官舎敷地として分割し、残坪数千百六十一坪一合三勺一才を当庁舎敷地と為し、十月二十三日起工す。本省よりは成尾技師・小林技手・中川工手・朝倉工手を現場監督として差遣せり。当庁に於いては委員長長岡判事・委員瀧川検事外六名の建築委員を任命して、之が補助を為さしむ。

右工事中設計変更ありたる為め、十二月十八日追加工事費弐千百八拾壱円八拾四銭を増加せられたり。なお附属舎として弁護士控所・公衆控所・運転手住宅・自動車庫・物置その他の新築を金四万参千九百円にて、右仮庁舎と共に前記末松佐吉に請負わしめ、十二月十八日設計変更に依り、工事費七千五壱百八拾五円四銭を増加せられたり。右仮庁舎および附属庁舎は、大正十三年一月九日竣工せり。竣工に先ち、大正十二年十二月二十二日工事ほぼ完成したるを以て、翌二十三日青木町上台に於ける仮庁舎を公園内なる新築仮庁舎に移転し、市内各新聞紙にその旨を掲示せしめ、かつ市内数カ所に新築仮庁舎の所在を掲示したり。(横浜地方裁判所震災状況および応急措置並びに復興施設概要報告)

第12節 市内郵便電話諸局[編集]

1 横浜郵便局[編集]

忘れもしない九月一日、定例の切手類検査立会を済して席に戻り新聞手にして台閣の風雲を眺めて居た時、がたがたと来たので、余り地震に就いては恐怖を懐いて居なかった私は机に手をかけてしばし天井を眺めて居った。馬鹿に激しいなと思う刹那、がらがらと室の四隅の天井が落こちて来たので、思わず識らず机の下にもぐり込んだ。その時又ぐらぐらとやって来た途端に、ぴしやっと今度は机の上へ重い物が落ちて来て、机を倒し、自分はその間に挟まれて身動きもならない事になった。多分梁が落ちて来たのでしょう。臨煙で天地晦曚。やあ、しまった、やられたと思った。暫時にして眼を開けて見ると、身体共別に異状はない様だが、首を足台に挟まれ、腰で重い物を支えて居り、いくら力んでも少しも動く事が出来きません。それであたりは森閑として居りました。これではなるべく救の来るまで、体力の保持に心掛げねはならぬ。あわてても、もがいても弱るばかりだと思い、時々『助けろー』と叫んで居りました。その内何やら人の声がし、人の気配がありましたから、此の時は声を限りに『助けて呉、局長は此処に居るぞと申しました。その時天の救いの声がして「今助けるぞ、待って居れ」と云ふ声が聞えました。この時ばかりはやあ助かったと思い、「君は誰か」と問いましたら、「大津だ今行くぞ」と申されました。誠に天使の声でありました。何しろ屋根の上を伝わって来る助けの人々は、自分の居所が中々見付かりません。それで漸く塵の内、壊れた机の下より白ズボンの私の腰部を見出したそうです。それで机を持ち上げようとしても、一人や二人の力では梁が落ち重なっている机は、とても持上げることが出来なかったそうです。それで、わざわざ県庁前より梯子を取寄せ、屋根の上に登り、辛うじて私を引づり出して呉れたそうです。此の奇特の人々は前に申しました監察員の大津書記、外国課の花田主事、電信課の取締役福島廣治、外国課の郵便夫石崎仲造・河合源六の諸君だったそうです。誠に再生の恩人として記せねばなりません。

救い出されてから気がゆるんだせいか、背部に傷みを覚え、一時気が一寸ボーとして門の左手の樹の下まで参りましが、そこに女子事務員や、吏員の血にまみれた体が数多横臥して居るではありませんか。之を見ると急に緊張した気分に立戻り、往来の中央に出ました。三十年の昔、横浜の誇りとした建物は、一たまりもなく前面の本町通りを一杯に塞いて倒壊しているではありませんか。あちらを見れば菊の御紋章燦たる三階建の税関のドームが、往来の真中箕中におっこちて居る。只県庁の建物だけ倒れずに居りました。幸い我々の居た分館は、階上のみ潰され階下の外国郵便課は無難であったため、同課員が人命救助に活躍して居りました。高橋外部課長も無事でした。浅尾会計課長も無事でした。心配なのは郵便、電信課の人々であったが、その内に竹内郵便課長が頭と手から血を出してきました。電信課はどうかと聞いたらまだ判らぬとの事でした。それではその方が肝要だからと申し、そこに居た人々をその救助に応援として遣わしました。

零時十五分頃に隣の倒壊した木造の露国領事館より火が盛んに吹き出しました。こうしては居られぬ、どこかへ逃げなければならぬ。第一此処に居る負傷者を運ばねばならぬ。丁度そこに放棄してあった荷馬車に五六の重傷者を担ぎ入れ、勿論馬は馬子と共に逃げて居ませんから、皆で之を引張り出しかけました。

此時気が付きましたのは、御真影です。どうかして出したいのだ。電信課の福島取締役が「どうしても捜し出します」と云って、崩壊した煉瓦の山に昇りかけた時に、御真影の白木の箱が私の眼に入りました。「あすこだ、あすこだ」と指すや否や、「占めたぞ」の声諸共に、半ば埋れたる土石の裡に飛び込み、しかも上部には半壊の壁や木材がぶら下り、何時潰されるかも知れない危険を冒して、御真影を取出した人々は会計課の辻本書記、福島取締役(電信課)、河合取締役(外郵課)、松山国三(電報配達人)の四氏です。此四氏の行動は推当に価します。全く自発的に出た誠忠のほどばしりで、殊に福島の如きは「これでよかった」と私の手を握って感泣致しました。直ちにその名を外国課の主事に命じて記録させました。

火はだんだん迫って来ました。本館に居た人々の消息がまだわからないので、「御真影は僕が護るからその方を手伝をせよ」と申し、福島等の人々を再び本館へ遣りました。そこで傍に居た大津監察員・北川書記に御真影を奉載せしめ、一先ず三井物産の前まで逃れました。此時は午後一時頃と思います。

黒煙は四方を閉ざし、ここもあぶない。一先ず公園に逃げようと更に負傷者を引張り、御真影諸共に、公園前の小湖(土地陥落水道破裂のため、公園の入口道路は一面の湖となれり)を渉り、辛うじて公園に達しました。後より押し来る群集にもまれもまれて、御真影を保護しつつ、午後五時頃猛火のために既に焼き殺されんとした次第は、ここにくだくだしく叙しません。公園の池が水道破裂のため氾濫した事と、此処に逃れ来る人々は、手に一物をも携えて居らぬことゝ、此の二つの事実が此処に避難し来りし我々五千の命を救い、本所被服廠の轍を履ませなかったのです。

被害の最も甚だしかったのは、郵便課・電信課が居った本館です。建物の古いのと、電信事務拡張に伴い、障壁を打抜いてしばしば模様替を行ったため、柱が脆弱となったのでしょう。第一震と同時に本町通りの往来に面した前面の煉瓦壁が全部崩壊し、十間幅の往来を埋めたのです。隣家にある。県の警察部では、郵便局本館の倒壊の轟然たる音響を聞いて、之は不逞の徒が警察部を目がけて爆弾を投じたものと思ったと云う事です。崩壊が震動の瞬間に起った事を裏書するもので、郵便課・電信課で助かった人々は、何れも区分台・機械台の下にもぐった人々です。郵便課発着掛の如きは、本局員二+三名中救助された者は、僅かに八名だけだそうで、被害率が最もひどいのです。

分館は階上が潰され、そこに在りて局長室・応接室・監察員・会計課には多少の死傷がありましたが、その階下の外国郵便課は無事でありました。尤も室外に逃げ出した人には、階上煉瓦壁の崩壊のため殺されました。分館の隣りの電話局は階上・階下共に無事であったのです。それは建築が一番新しいため、地震に対する抵抗力が強かった様に思われます。

居留地二番館に在った外国課小包分室も建物が古いため、即時全壊全焼して、ひどくやられました。

火災は殆ど地震と即時に随処より起こり、三十分後には建物に火が移り、一時間後には焼失したのですから、遺憾ながら郵便物は勿論一物をも持ち出すことが出来ませんでした。只前に申述ぺた通り、辛うじて持出した御真影と庶務主任が第一の震動の時持出した局印一顆と、港内出動中の小蒸汽とが助かりました。これが全財産です。本館・分館、居留地にありし外国郵便課分室・借入倉庫、北仲通の局長官舎、新関構内の外国税関分室、小蒸汽二隻、全部焼失しました。

最後に最も悲しむべき事は、局員中より九十名の死者を出した事です。その内でも最も悲しむべきは橋本電信課長の死であります。電信課の柴田主事が倒壊家屋より辛うじて這い出し、その脱出せる屋根裏より数人の同僚を同僚を救助中、西南の隅より頻りに救を求める声がするので誰何して見ると、橋本課長であったそうです。驚いて救助に取かかったが、何しろ指先が僅ばかり見えて居る丈けのを、おりからその附近にあった片岡書記と共に堆積物をかき分け、顔面を見得る程度にしたのですが、約半坪大の煉瓦が腰の上に横たわってそれがどうしても動きません。更に渡邊貞・吉川・伊藤各書記や、麻生・小柳両書記補、福島取締役と協力したが、道具がないので、どうすることも出来ない。依って隣の警察本部から巡査小泉和助氏の助力により、ツルハシを借り来り、同巡査も手伝って、三四箇所煉瓦のかたまりを割ったと思う頃課長の容態が急変し、脈拍もなく、絶望に陥つたと同時に、火焔が近づいて来たので、止むを得ず涙をふるって、殉職の第一人に別れを告げたそうです。

外国郵便課の北川・元吉両書記および豊田書記補は、未明に公園を飛出し、桜木町通を横浜駅まで辿りついたが、石炭庫の火焔のため、一歩も進むことが出来ない。その後の避難としては御真影を奉安し、負傷者を引連れ、生存者と一団となりて、公園地に避難したのは午後一時半頃です。猛火迫り来り、約五六時は煙に包まれ、幾度も焼け死ぬかと思いました。そして五時頃は最も危険でしたが、日没になり、周園の建物が焼尽くされて、ようやく焼死の虞なきに至りました。

此の世の終りかと想われた凄絶の光景も、夜更けて吹きまくる風に空の一端が顕われは、やや生気づいた時、耳に入るものは傷者のうめき声と渇者の水を呼ぶ叫びでした。此際人々の経験したのは、飢よりもむしろ渇でした。勇敢なる人々は、火焔を冒し、四五町隔てた三井物産の井戸より水を汲んで来るのでした。我が外国郵便課に属する水夫は、最も目ざましい働きを致しました。それは遠く波止場に到り、焼失した桟橋を渡り、加奈太汽船エムプレスより一升徳利に二杯清水をもたらしました。怪我の重い者、その内には息を引取るばかりの者もありましたから、それ等には此の一滴の水は天の恵みとなりました。我々もこれによりどれ丈蘇生の思いをなしたか判りません。水夫の名を小島と申します。

午前二時頃、片破れ月が天使の姿を顕しました。応急の処置如何。万感交々到りました。傍にありし高橋外国郵便課長と相談して、第一此の模様を東京に知らせる必要があり、且又気遣わるるは東京の事です。東京が横浜と同様の運命なれば、我々は援けを乞うことも出来ません。自給自活をせねばならぬ。東京と連絡をとる事が第一の問題と思いました。御真影を捧持し来りたる外国郵便課の精鋭北川・元吉両書記と豊田書記補とに、此の重大の使命を托しました。此の三人は払暁猛火を冒して、徒歩東京へ向いました。

第二は局舎の事です。兼ねて目をつけて居た公園の一角、市の図書館の建設予定地に、至急バラックを建てたらよかろうと考えました。その他負傷者の手当、生存者の給与等、それからそれへと、公園の夜の露は、かなり冷静に頭を働かせました。

夜が白み渡りましたから、公園に避難の人々は、それぞれ家路を指して散りました。己が家族の安否を気遣う為、如何にも無理もありません事です。さて横浜郵便局は四散消滅することを許しません。殊に重軽傷者を保護して居るに於いてをやです。そこで私は踏留まった少数の局員と共に、塵焔の収まるを待って、公園の東北隅に取敢えず避難所を設け、死傷者を収容致しました。死者一名、重傷者四名、軽傷者は五六名あったかと思います。その後専ら罹災職員の救護に努めたが、逓信当局の御援助により、保護方法に対する措置も目鼻がつきました故、仮事務所と為すべき地の捜索に取かかり、色々苦心の結果、高島町内務省土木出張所内の二三室、神奈川京浜電車待合室、青木小学校等を暫時借用する事とし、なお予備として、三井物産の焼跡をも借用することが出来たのです。それで土木出張所に横浜市内各局の本部を置き、駐在技師と電信課とは京浜待合室・青木小学校を占領することとなりました。(横浜郵便局長日下亥太郎述)

2 長者町郵便局[編集]

正午二分前俄然異様の大唸りが地下から聞えた。続いて局舎が烈しき上下動で揺り出して、強き左右動が来た。器物が倒れる。壁や天井が凄まじい勢で落ちて来る。その一瞬時各自は机・区分台の下に潜った。逸早く窓から飛び出た者もある。予も急ぎ机の下へと這入った。なおも崩落する大音響には驚いた。是では大抵の者はやられたろうと思った。震動は殆ど連続的である。が、時を見計らい、予は匐い出した。辺りを見れば、驚くべし局舎は既に全潰して、瓦石は山の如く押重なり、僅かに外壁の一部が残って、不思議に自分はその処に占めていた。白煙は濛々として立のぼり、その中に落壁に挟まれて助けを呼び、または巨石に撲たれて気息奄々たるあり、女子事務員は悲嗚をあげるあり、凄愴の状目も当てられない。予は声を限りに残存者を指揮して、救助に努めた。漸くに黒ずみたる、或は血だらけの死傷者を引出せる裡に、長者町四丁目から起った火は、早くも局を襲って来た。女子や少年は危ない。急ぎ中村高地に避難させた。一方重要書類器具はと見れば、屋舎諸共深く陥没して、煉瓦大石の下敷となり、数十人が必死に懸って動けばこそ。時すでに猛火は局の四辺を包み、刻一刻危険が迫った。万事休す、自由行動を執る外ない。併し単独では死傷者を生ずるから、一団となって互に保護して行くことにしたが、前後左右の火に、全く進出の自由を失った。最早こうなれば、このまま焼死するよりは、決死行くところまで行くとしようと、漸くに血路を開いて、附近の大岡川に出たが、頼みにした千秋橋は焼落ちて渡れぬ。さらば山吹橋と馳付けたが、警官が声を嗄らして通さぬが、それでは逃げ場がなくなる故、無理にと押渡り、阿鼻叫喚の修羅場を右曲、左折に突進して、唐沢山に避難した時は、午後二時近くであった。山から我局を瞰望すれば、手に取る様に見えた。紅運の舌は執拗くも、その残骸を余さじと猛威を揮いつつある。

親しみ深き局も、数刻を出でずして一片の焦土に化すかと思えば、感慨無量であった。暫くする間に山は火に呪われた。避難者で動きがとれなくなった。自然の狂暴は今や全市を席巻する勢となって、見渡す限り火の海と変じた。平常安固を誇る洋館が轟然たる爆声で焼け落ちる。さしもの地震にびくともしなかった県庁や市役所も、熾に火を吹いている。おりから物凄き黒煙が西から一面に空を焦がして来た。東洋一の称ある。中村の石油倉庫に火が付いたのである。所が鵞いたのは安全地帯と思った唐沢山の下へ火が廻って、爆竹の如き音で山上めがけてきた。さあ大変、足許から烏だ。早く引上げよう。平楽の原は根岸の競馬場が近い。名案だと一同平楽へと移った。その原は最早数万人の人であった。併し此処ならば真逆の時も危険が少ないと、恰好の場所を捜して、避難所と定めた。取敢えず目標が必要だと、島津取締の機智で、近所から障子に、局名を大書して来た。まさに我らはほっと一息ついた。

第一の備え食糧である。直ぐに人を八方に出したが、此の場合中々得られそうもなかった。二時間ばかりすると、喜色満面で使が帰って来た。握飯が手に入ったのである。やっと皆の勇気が附いて来た。十時を過ぎる頃から、秋の夜寒が身に泌みてくる。疲は甚だしく感じて来る。一体此の先何うなるかと思った。併し外には辿も行かれぬ。今夜は何としても野宿をせねばならぬ。就いては執れも局のために、各自の宅を顧みないでいるより外はない。火も少しは衰えたから、誰か屈強の人を使として、家庭と連絡を図ることに決めた。されど之は大役だ。ここには岩永・保津の両書記が進んで之を引請けた。御苦労だが頼むと、両人を派遣した。

幸運にも万死に一生を得た安堵と疲労とに、誰も眠気がさして来た。所が突然警報が来た。曰く、「不逞鮮人」二千名が本牧から此の方に押寄せてくる。棍棒でも用意して応戦せよ。殺しても構わぬ」と。原は物凄き叫びでどよめいた。一時間ばかりすると、格闘が始まって来た。原の人は総立ちになって、右往左往の大混乱蝋となる。時々やや鎮まると、殆んど間断なしに余震を感ずる。果して鮮人の暴動か何か疑問である。が、終夜悩まされ通したる間に、凄惨の一夜は明けたが、疲労困憊は到底形容が出来ない程であった。此の時夜を徹し、苦熱を冒して岩永・保津の両書記が相次で帰来し、任務を果した旨の復命をもたらした。

九月二日の朝一同は、避難所から局の焼跡に行き、変わり果てたる惨状に断腸の感があった。暫くする裡に悲痛の色を浮べて行交う人が殖えてくる。今に公衆が災後の始末を聞きに来るだろうから、早く仮事務所を開いて之に備えることが急務である。と認め、焼トタンを集めて取敢えず小屋を設けた。そして応急事務に懸った。(長者町郵便局長洗治助氏述)

3 神奈川郵便局[編集]

震災、それは丁度九月一日正午十二時頃の頃であった。地震だなと思う間もなくグラグラと石造の我局舎は、恰も洋上の汽船が荒波を喰ったかの様に大動揺を始めると書箱・電池箱等が続々顛倒する。瓦がガラガラと落ちる。誰を見ても生色のある者はない。裏の広場へ出でて局舎はと振り返って見れば、屋根瓦は殆ど落ち居るが、外部には一見差して大なる破損を示さず只ミシミシグラグラと動揺して居る。附近からは瓦の壊れ落る音、家屋の倒潰する音、救助を求むる哀叫の声、雑然として起り、その凄惨さは対底筆舌に書すことは出来ない。そうして皆は第一震が終るまでは、殆んど手の下にすべき方法をも知らずに、此恐るべき大地震が如何なる程度迄に拡大するものか、只その結果を案じつつ、暫時殆ど無我の状態であった。第一震に次いで、続々震がやや静まった時、在局員一同無事と知れるや、一同は覚えず快哉を叫んで元気づき、郵便物や重要書類やを取出すべく、屋根瓦の木葉の如く飛散る中を冒して、破壊局舎に這入ろうとしたが、待て暫しと、たとえ局舎より取出しても、その取出物を最後まで安全に救助することの困難を認め、郵便物の救助を断念し、人命の安全を計ることに努めたのであった。然るに二三の幹部は震災の隙をうかがって、局内に飛び込み、大金庫の扉を開き、為替貯金・証拠書類および現金等を格納した。書留通常郵便物・電報原書等を何れも行嚢に納入して局舎の裏広場へ持出し、安全を計かったかと思う間もなく、今迄ブラブラして居た二階が、一時にドッと墜落した。もう二三十秒遅かりせば、神奈川局の幹部は全部惨死を遂げたのであったろう。嗚呼、その中に折角取出した電報原書入行嚢は、避難の際火に追われたため、火中に落ちてしまった。又一局員は小使部屋に馳せ付け、大火鉢に大釜の湯を掛けて消火せしめた。一面火災の起るは必然と思い、この様な混乱中にも、幹部は局員に命じて、裏広場の川端に喞筒を引出し、機械の運転を始め、河中にホースを投げ込み、何時にても火災と闘わん準備をしたのであったが、水量が減退して居たので、放水状態が勢がなく、これでは殆んどその効果がなかろうと、幹部の頭には不安に感ぜられた。

午後零時三十分頃かと思う頃、局舎附近八方より火の手が上り始めたと思う間もなく、局舎の隣家より猛々と火焔が湧出した。驚破こそと、今迄局舎本館および附属舎を濡らして居た筒先を同所へ向け、消火に努めたが、河水はますます減退し、加うるに濁水なので、水勢悪しく歯痒いこと限りなかった。約二十分間の努めであったが、その内四方一面は火の海と化し、到底消防の効なく、刻々我等の身に危険が迫り来たと見えたので、局員一同は咄磋の間に、幹部の号令で、安全地と目指す高島山へと避難したが、間もなく我が局舎は遂に猛火に包まれてしまった。

局舎裏広場で消防に努めたが、一同の身に危険を覚えたので、取出した行嚢・自転車・蝦蟇口等を携行して、前記の高島山へ避難したのであった。此処には已に一万余の市民が避難して居ったので、何れも最早生命の安全を計る外何物もないのであったが、吾々は公務の人であり、且つ災後の救済は、通信機関がその先駆となるのであるから、只空しく野宿をして居ったのでは、何時握り飯にあり付けるかも知れぬ。局員の集中策を講ずるのが、此の際処置すべき第一の要諦と考えたのである。が、一つ丘を越えたる青木町・三沢方面は殆んど安全なることが耳に這入ったので、ふと同方面に当局員高野書記補の実兄の農家がある。ことに気付き同所を一時当局員の集合所と定むる事に決し、一同にその旨を告ぐると共に、各人に自由行動を、家族等の安否を尋ねよと、而して更に集合所に集合せよと宜告し、ここに局員一同は一時解散したのであった。而して数名の幹部と独身下宿者、火焔のため通行不能の者等、約三十余名の者は一団となって前記高野氏宅へ辿り着いた。

午後四時三十分頃、高野氏宅に着し、この被害なきを見て、同氏に面接して窮状を訴へ、特に同家の一部を当局員の避難所および当神奈川局の仮事務所として、一時借り受け度き旨申述べたところ、同氏は快く承諾せられたので、一同は同氏の厚意を謝しここに一安心した。その夜は夕食の炊出を受け、朝来の空腹を充たしたのである。が、家族持の諸氏は、まだ家族の救助やら捜査のため、死に物狂いで火の海の中にある。のだ。その夜の一同は裏庭へ筵を敷いて、夢うつつの中に夜は明け、二日の朝となったのだが、東天に出でた太陽はどんよりとして、濛々たる黒煙の上に微かに見えて、その状態はこれが地球の破滅となって、森羅万象は今にも全滅するのであろうかと思われた。その内に取出した郵便物・印紙・切手類の整理や、仮事務所の所在地周知方や、局焼跡実査等をしたが、同日午後より不逞鮮人襲撃すとの流言喧伝せられ、通行人は何れも武器を携帯し、市中には頗る不穏の状がただよった。それから在郷軍人会等より交渉もあり、同夜から毎夜十数名づつ徹夜して万一に備え、書は局員を数組に分ち、何れも速成の局名入、郵便旗を立てて、市各方面また二三里もあ る村落に派遣して、専ら米・味噌・醤油その他野菜類を貰い受け、夜は歩哨勤務で大方数日間を過した。局員百十余名と一部同家族の生命は全くこれがために続けられたのであった。(神奈川郵便局長成田誉之助氏述)

4 横浜駅前郵便局[編集]

震災九月一日朝来雨であったが、午前九時頃から晴天となり、僅に数時聞後にかかる未曾有の大惨事の起るべしとは思わなかった。然るに午前十一時五十八分頃、突如として強震起り、当局は元々その位置構造等強震に堪えべきものなく、腐朽甚しきを以て、各員避難の準備をなす暇なき中に倒潰した。然るに該時刻は恰も正午に近き関係上、窓口は比較的閑散にて、公衆も二三溜所に居たのみで、地震と知るや局員の大部分と共に屋外に全部避難するを得た。然るに屋内にはなおお二三の局員あり。内一名は梁柱の下敷となりて重傷を負い、生死の程も気遣わるるも、如何ともなし得ず。且つ局員の大部分はその燼屋外に避難せることとし、その処置と共に一方金庫の保護重要物の搬出等の義務ある。を以て、如何にもして局内に入らんとしたが、なお連続的に起る強震のために、危険にして近寄り得ず。加えるに局舎は全く倒壊し、局内に入ること殆んど不可能で、如何にしてそれ等の応急処置をなさんかとあせる中に、自ら負傷者の蹌踉として這出づるに逢い、之れを援けて避難せる外、何物をも搬出する暇がなかった。

此時既に火災各所より起こり、その勢猛烈にして、殆んど横浜全市の天地を覆い、如何ともなす事出来ず、比較的火災に対しては安全地位に在った当局舎も三方より火災に囲まれ、危険刻々に迫る中、遂に午後二時頃、飛火のため延焼し始めた。之を見たる局員は、多数駆付け、大なる危険と戦いつつ一時消し止めるを得たが、横浜駅が火焔に包まるるにおよび、最早如何ともなし得ず、遂に局舎もまた僅かに数十分にして焼失した。是に於いて万事休し、直に離散せる局員を集めて、鉄道線路の一方を避難所と定め、負傷者には相当手当をなしたる外、夫々部署を定めて避難準備をした。

然るに火勢なおお一層猛烈となり、天日ために暗く、加えるに此時旋風宇各所に起こり、火焔と共に吹き捲くり、鉄道線路に危険迫れるを以て、已むなくガード上に避難所を変えたが、ガード上も亦危険となり、如何ともなし得ず、各員遂に意を決し、更に元の鉄道線路上を避難所と定むるの得策なるを思い、熱火の苦を凌ぎつつ、或時は地に俯伏するなどして、火災の終息するを待った。時を経るに従って、旋風いよいよ烈しく、亜鉛板・電柱・石油罐等を吹上げ、之を避難所附近へ落下するので、頗る危険なれば已むなく線路上をその度毎に転々しつつ難を避けた。

翌日となり、更に適当の避難所を捜査して、局員の集合に便ならしめ、一方局舎の焼跡に至りて、金庫保護の処置をなしつつ、応急事務の開始に準備をなしたが、局員の殆んど全部は家を亡い、衣を失い、食品も皆無の有様なるため、先ずその救護の方途を構せざるを得なかったので、之がため数日間を費した。(横浜駅前郵便局長箕嶋氏述)

5 桜木町郵便局[編集]

九月一日現在当局局定員は、吏員三十三、傭人二十三、計五十六名の内欠員二名、欠勤者・在宿者・その他三十二名にて、震災の際在局せしは、吏且十四名、傭人八名にて、石原局長および桃井主事等二階食堂に入りし刹那、激震起り動揺のため、書籍・行厨棚等は倒れ、附近貿新報新社および桜木町駅等は倒潰し、花咲町方面および関内には早や火災起こり、局前広場の亀裂よりは泥水湧出し、危険と見たる局長以下、一時は局外に逃れ出たが、川向うの本町通りよりの猛火は隣り東横浜駅に移り、花咲町方面の火も接近し、局舎はますます危険と成しため、石原局長は安全なる方面を選び、大部分の局員を退局せしめ、跡に残りし局員を督励し、自信は真っ先に再び局内に入り、物品搬出等を指図したが、附近は黒煙と猛火とに包まれ、進路を失する恐有りしため、再び局外に逃れし時は、四囲濛々として局舎裏鉄道線路を残すのみであった。局員は搬出物を携帯して横浜駅方面に逃れ、之を西戸部町山王山なる監視員宅に保管せしめた。局長は監視員と共に局舎の焼落つるを見届け、午後一時頃避難し、翌日九月二日より局長始め、主事等は局舎焼跡に於いて局員の安否調査の処、前日避難の際、信使川戸重吉が柱にて頭部を打ち、人事不省となりしを見たる岡島事務員が、応急手常の上避難せしめしため、全員無事なるを得、翌日より避難場所なる横浜公園に於いて救済事務に当り、九月七日より救済本部を市内裏高島町内務省土木課出張所内に移した。(桜木駅前郵便局主事称葉氏述)

6 横浜中央電話局[編集]
本局被害状況[編集]

大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方を襲える震火は、特に我が横浜地方に惨鼻の中心を極めたことは周知の事実である。市中焼失倒潰家屋約七万戸と称せられ、又その損害に至つては、実に世界の有史以来稀有と伝えられ居る。我横浜中央電話局に於いても、所属各課何れもその渦中に投ぜられ、之がために山下町に於ける本局を始め、長者町分局ならびに料金課分室、山下町借入倉庫等、殆んど庁舎は勿諭、通信用機械等全部烏有に帰せしめたのである。各局課に於ける状況を左に述べよう。

本局被害模様 煉瓦造二階建の建物であったが、第一震で本館二階試験室外廓アングル形平面の角部分が崩壊したので、おりから試験室にあった技術官駐在所員の数名は二階床と共に無線電信室に墜落し、遂に二技手外一名即死した。幸にして交換室は交換機前方に傾斜したのみで、多数の交換手は一斉に座席を離れ、悲鳴を上げて螺旋階段を下り、玄関に殺到したのである。時しも局長・監査課長は幹部と共に一旦米国領事館前に飛出して、後に残った局員救助と重要書類等の搬出をなさんと踏止まった。周囲を見れば、新庁舎に隣れる米国領事館は滅茶々々に粉砕し、原型をも止めず、生糸検査所の裏手三棟の煉瓦倉庫も同様、局舎と棟続きの外国郵便課階上なる交換手休憩室および同宿直室も、横浜郵便局庶務係会計課事務室も、屋根および前面の煉瓦崩壊し、郵便局本階も又崩壊のため、十間幅の往来を埋め、此惨状実に目も当てられなかった。一方山下町方面を見れば殆んど両側外国商館は倒壊して道路をふさぎ、路上は電信・電話・電燈の架空線殆んど皆切断して垂下し、処々に乗り捨てられたる自働事・右往左往する内外人、頭部顔面手足を負傷て血染めとなった物凄き人々、十字街に悶絶している者、絶命した者、その惨状目もあてられたかった。

二階に到り見れば、交換手宿直休憩室は悉く天井墜落し、周囲の煉瓦崩壊したので、室内は忽ち土煙を上げ、何処も見当が付かぬ、暗黒界となった。食事又は休息中の書記補一名他に十数名は逃げるひまもなく、煉瓦壁または天井の下敷となり、或は階下に降らんとして呻吟し居るものあり、十四名の男子吏員は、危除を冒して躍進し、之が救助に努めたが、如何しても救助するを得なかったものは、崩壊した煉瓦と共に墜落して、その下敷となった一書記補と、煉瓦の下敷になると同時に絶命した交換手十一名とであった。所属舎木造二階建は幸に倒壊を免れ、三階の一部にて養成中の交換手見習七十一名た、養成主任以下職員ならびに技術官駐屯所職員一同は無事で、やや震動の止む時刻を見計らって公園に避維した。

是れより先、加入原簿および料金課微収原簿等は、之を搬び出さんとしたが加入課・料金課は、到る所戸棚・書函類の容器、顛倒して、原簿はその下敷となり、または散乱し、容易に持出すこと不可能の状態であった。庶務係長良書記は、庶務係員と協力して局員全部の履歴書と、―二重要書類を搬び出した。然るに隣接の商館から猛火四方に延焼し来り、危険刻々に迫ったので、遺憾ながら他の重要書類は持ち運ぶひまなく、踏止まって尽力した局課長以下と共、一同集合地点であった公園に向うことしたし。時に、午後零時三十分頃であった。

避難の状況[編集]

公園間の道路は、局より一町余先は三四尺陥落し、之がために水道鉄管破壊し、大小の亀裂を生じ、路上は泥水流出し、危険云わん方なく、水は刻々腰部に達する有様で、行歩甚だ困難であった。左方支那街一体は家屋も殆んど倒潰し、惨憺たる状態であった。又左方関内各町も既に所々に火災起り、公国広場は泥海と化し、着の身着のままの内外人は、周囲の高地樹木下に密集し、後より後よりと殺到し来たるもの、その数万を算し、殆んど身動きも出来ぬ状態であった。加えるに強風猛烈となり、随所に旋風起り、塵埃土砂を降らし、忽ち猛火は倒潰したる和洋建物に延焼し、火焔天を焦して物凄く、四方火の海と化し、その間時々大砲の如き爆発の音響、各方面に物凄く、強震なお続出し、吹き捲くる塵埃・土砂・煙のために、呼吸困難に陥り、身体は苦熱に堪えず、生きながら焦熱地獄を現出した。此夜一同は図書書館建築敷地に集合を促してここに一夜を明かすことに決した。午後八時過、消防署の好意に依って、一滴の水に渇を癒やし、夜の更くるを待った。後十一時頃から危険と困難とを顧みず尋ね来た交換手の父兄に生存者を引渡したが、惨死者の父兄は昏倒せんばかりに泣き悲しみ、中には失心した者さえあった。かくして一同解散したるは翌二日午後四時過であったと覚ゆ。(同局震災日誌摘録)

長者町分局の被害[編集]

当分局は鉄筋コンクリート二階建の局舎であったので、幸い倒潰を免かれ、本館執務中の交換手は協力して、無難局前に免れたが、長者町郵便局煉瓦造二階建の一部を使用せる交換手休憩室・同寝室は、第一震で煉瓦崩壊して、天井落ち、食事中の交撲手はその破壌物の下敷となった。監視等は分局長の指揮の下に、危険を意とせず、万難を排し、漸く五名を救助した。外に三名の行方不明者を出したのは遺憾であった。なおお更に下敷者を救助せんとしたけれども、附近吉田小学校校舎から発火し、続いて附近一帯火の海と化し、狂風猛烈を極め諸処に延焼拡大し、刻々危険が迫まって来たので已むを得ず打捨てて、一同をして根岸方面または他の安全地帯に、重要書類と共に避難せしめた。分局長・監視員は、局舎の最後を見極めるため暫時現場に残留してその後途中の危険を犯して、一同の避難地に至り、午後三時頃、平楽町八三小出方の庭前および二室を借りて、糧食二日分の買収炊出をなした。一同解散したるは三日正午であった。(同局二日政府に報告したる記録)

料金課分室の惨状[編集]

当分室は煉瓦造三階建事務室の一階全部を使用して居ったのであるが、各官庁中でも、その惨憺の状は裁判所と共に人々の心胆を寒からしめたのであった。第一震動と共に外廊の墻壁は崩壊し、突嗟の間に机下にもぐり込めるものを除いては殆んど圧死の大厄に遭遇した男女所員五十六中、首席一名、監視員一名、女子事務員二十六名、小使男女二名、計三十名は倒潰と同時に殆んど絶命したが、障碍物を排して免れたる書記補一名、その他男子事務員は、全力を注ぎ、同僚を救い出した。然し震動激しく、四圍の火炎は刻下に迫り、涙を呑んで避難するに至った。同伴者男女七名、重偽した一事務員を看護しつつ、一旦安全と認むる吉浜橋附近の荷揚場に佇んだが、周圍からふりかかる猛火の苦熱に耐えず、河中に飛込んで、六時間余り首のみ出して浸り、陸に置きたる重傷者には、水に湿したる袴などを被せ、最後まで保護を加えて、火災の鎮まるを待った。万死に一生を得た当時の苦心談は、今繰返すも真に悲惨の極であった この後四日には、松山書記外四名を、五日には徳江外五名を、六日には埴生外四名を、七日には佐藤外六名を、十六日および十七日には高鍬外五名の遺骨を掘り出したのである。(中央電話局山下町料金課調査)

仮局舎設備と交換業務開始[編集]

九月一日震災直後は、市内各局とも通信機関全く杜絶した。しかしのみならず、収容すべき局舎すらなかったので、差向き三日かた、公園内図書館建築敷地に焼鉄板を寄せ集め、雨避け小屋を仮設し、一方逓信局から送られた天幕を以て仮集合地とし、普後策を講じた。その後幸に火災を免れた内務省土木出張所の一部を借受けることとして、以下順次交換業務の開始を見るに至った。
(イ)表高島町内務省土木出張所 九月七日以降内務省土木出張所に移り、逓信局および市内一・二等局幹部室を置き、震災応急事務ならびに救済に関する実行方法を協定の上事務室の一部を交換室に充当し、左記回線を収容し、九月十五日より、専ら救済事務用電話の交換業務を開始した。而して之れが従事員は、主事以上を以て廻転勤務した。

1 装置機械 102人ニ付 分線盤1台
50人ニ付 単式交換機1台
2 収容回線 市外電話線 2回線(京浜1番同2番)
内加入者 15名

但し九月中に逐次開通せるもの二十名にして左記の如し。

電話番号 加入者名 所在地
横浜 16 神奈川県 桜木町仮舎
横浜 17 横浜市役所 桜木町仮舎
横浜 18 警備隊司令部 高島町
横浜 19 各郵便局用 高島町土木出張所内
横浜 20 電信電話技術間 航路標識管理所
横浜 21 臨時救護所 桜木町仮庁舎内
横浜 22 海事部出張所 税関新港二号倉庫
横浜 23 配給司令部 税関新港二号倉庫
横浜 24 県警備部 桜木町仮庁舎内
横浜 25 神奈川警察署 桜木町仮庁舎内
横浜 26 横浜蚕糸貿易復興会 本町サムライ商会跡
横浜 27 横浜正金銀行 南仲通
横浜 28 裁判所検事局 神奈川青木台町
横浜 29 税関海事部港務部事務所 新港二号倉庫
横浜 30 横浜復興会 桜木駅前市役所
横浜 31 鉄道省駐在事務所 高島駅二階
横浜 32 水道局 久保町水道橋脇
横浜 33 横浜郵便局 桜木町
横浜 34 憲兵隊本部 青木町桐畑
横浜 35 横浜臨時建築係 税関西門内

(ロ)第二桜木町仮バラック局舎(桜木郵便局跡)横浜市復興会の好意に依り、電信および電話に充つるために、桜木郵便局焼跡に仮局舎を建築し、電話交換業務のみ開始することとなり、十月十五日から、左の回線を収容し、有料加入者の開通を見るに到った。

1 装置機械 240回線分線盤 1台
60回線分線盤 1台
100回線単式交換機 3台
58付単式交換機 1台
小市外交換機 1台
2 収容回線 市外電話線 2回線(在来通)
市内加入者 80名
官庁用無料加入者 20名(11月末廃止)
電話所一カ所 3回線
但2回線は高輪局に収容し、東京と直接通話し得ること

大正十三年三月二日より交換業務開始すべく設備せるもの左の如し。

1 装置機械 磁石並列式交換機 12台
磁石並列式継交換機 1台
50回線単式交換機 1台(誤記)
1号磁石式大市外交換機 4台
磁石式監督台 1台
磁石式案内台 1台
2 主要回線数 市外電話線 364線
市内加入者 1,011名
震災応急用電話開通及臨時施設[編集]

電話開通状況 12年10月末日後開通せる電話加入者左の如し。

(月別) (復旧加入電話) (通話)(特急)(臨時) (通話所) (臨時特設交換所) (復旧)
(単独) (共同甲) (乙) (連接) (仮設)(単) (仮設) (個数) (回線) (個数) (回線) (使用者) (自動電話) (専用電話)
12年8月21日
現在
10,188 59 59 102 19(1ケ所) 36 20
10月 80 3
11月中 86
12月中 235 7(7ケ所) 1 1 3
1月中 29 7 2 3 9 13 2
2月中 20 2 16 148
3月 561 2 4 1 2
年度末現在 102 17 7 4 1 2 16 148 14 4
4月中 833 3 3 3 1 3 30 2
5月中 82 1 1 6 62
6月中 1700 8 3 27 2
7月中 2 1 9 4 2 23 3
8月中 6 4 1 4 39 13
9月中 3 2 1 2 7 63
10月中 27 1 1
11月中 1 2
12月中 483 2
累計 4,144 12 12 4 17 19 7 5 8 45 422 40 7

臨時市内特設交換所

名称 位置 申請者 開通年月日 加入者数数 局線数 交換機 監視員 主事補 交換手 小使
臨時太田町電話交換所 太田町二丁目三二、三三 総代小野哲郎 12年2月6日 127名 13回線 5台 2 2 15 1
同千若町 千若町一丁目 同 境忠克 同2月20日 21名 3回線 1台 1 1 3
同青木町 青木町元町二三九 同 太田佐兵衛 同4月10日 30名 3回線 1台 1 4
同壽町 壽町三丁目二九 同 松尾增太郞 同5月1日 33名 3回線 1台 1 4
同三井物産 山下町一七七支店内 同 井上治兵衛 同6月21日 25名 3回線 1台 1 3
同梅ヶ枝町 梅が枝町三七 同 鎌田久藏 同8月12日 39名 4回線 1台 1 5 1
神奈川電話交換所 神奈川二八三 同 小野紫郎 同9月7日 20名 3回線 1台 1 4
山下町同 山下町八一 同 大西為市 同9月26日 26名 3回線 1台 1 4

第13節 東京逓信局海事部横浜出張所[編集]

当所は元東京船司検所横浜支所と称し、現在の航路標識管理所の敷地内に在しが、明治三十二年官制変更と共に横浜海務署と称するに到り、地を今の西波止場に定む。爾来横浜逓信管理局海事部東部逓信局海事部横浜出張所等制度の変改を経て現東京逓信局海事部横浜出張所となれり。その行政上の極限は、船舶船員の監督を主とする令を以て、海港たる当港の存在と緊密不離の立場を有するものなり。所謂管海官庁として、西神戸出張所と呼応し、外航路船舶船員の熟知する所に係る。

震災前の設備状況[編集]
1 敷地[編集]
所在 横浜市海岸通一丁目四番地葵号
坪数 :縦一八五間横二七五間にして五〇八坪七五。(坪当五〇〇円)
沿革 明治三十三年九月神奈川県庁より受領。
明治三十五年二月埋立工事竣工。
2 庁舎[編集]
本庁舎 木造二階建一棟、延―二七坪七五。
階上 所長室・技術官室・取調室・食堂兼会議室。
階下 事務室・公衆控室・宿直室・器具室。
附属庁舎 木造平家二棟、延四〇坪五。
小使室・倉庫・浴室等一棟。
材料試験室・写真暗室一棟。
門塀・水道・下水・電燈等。附属器械
3 附属器械[編集]
救命胴衣および浮環試験用水槽(直径六尺高九尺)、抗張力試験機およびゲージテスター。
5 備品[編集]
写真器械外六五〇点。
震災事情[編集]
(大正十二年九月一日庁舎炎上まで)

朝来の驟雨次第に晴れて、午前十時半頃雲間に陽光を仰ぎ、蒸し暑きこと甚だし。午前十一時五十八分頃、水平地震に始まり、秒時にして上下動をなす。従来経験せざる大地震なり。所員皆稀有の大震動に翻弄され、或は数回倒れ又は踊り、暫し夢幻の状態にありしが、忽にして税関本館の大煉瓦建は倒壊し、港務部の煉瓦造もまた崩壊したり。隣接の水上警察署は、木造なりしも、海事部に向って甚しく傾き、将に倒れ来らんとしつつ動揺せり。当所は庁舎南側土地約三尺陥落のため、庁舎は傾斜せしも、幸に倒壊に至らざりき。その時砂塵は人眼を刺激して物を見る能わざらしめき。技術部員は直に二階より降り、事務部員と共に四圍の状況を窺って、庁舎前に遁出し、応急措置に出でんとせしも、余震甚だしく、午後零時半頃港務部および水上署は、猛火の襲う所となりたるを以て、書類その他搬出に遑なく、当時桟橋北側船溜に碇泊せし所属浜海丸は、水夫平野相当防備したるも、火災の危険迫りたるを以て、放棄するの已むを得ざるに到り、遂に身を以て逃れ、船は忽にして焼失沈没せり。所長は自己初め所員の身上に事なきを認め、松尾・塚本・山本の三技師、宮崎・一守・各務三技手、山田書記および給仕等とともに、直に公園に向って避難せんとせり。時に天地晦瞑全く薄暮の如し。往来に逃げ惑う男女、何れも着の身着のままにして、跣足のもの多し。悲痛の状筆紙に尽くし難し。

加藤局長・塚本・宮鯰・山田・一守・山本の諸氏一行は、互に離散せざる様注意しつつ、亀裂せる道路、横溢せる水溜を過ぎて目的の公園に辿り着きぬ。園内至る所亀裂と溢水のため、移動は危険なり、且つ青年会館の屋上よリ津波の襲来を報ずるものあり。依りて一刻も猶予ならずと思考し、直ちに椎の木に攀攀ぢ上り、避難す。一方松村事務官・高槻・山田・山本・高橋四書記、菅野技師・山田書記補・高見庸員等は、先ず英国領事館庁舎をと注意し居たりしも、危険迫り来りしを以て、随意解散を言渡し、各別に或は公園に或は自宅に或は桟橋繋留のエムプレス・オブ・オーストラリアにと避難せり。(同所詞査)

第14節 市内各駅[編集]

1 横浜駅[編集]

大正十二年九月一日午前十一時五十八分、俄然激震起り、之に次ぐに火災四方に発した。時に第十三列車は構外に停止して居たが、旅客は構内を見掛けて避難した。更に西部構内は附近から押かける避難者で、殆んど余地なきまで群集して居た。事態は容易ならずと思つたが構内は先ず安全と見て、市中を偵視せんとした。時に火勢は漸く駅舎に接近し、風の方向は駅舎を斜に通過し、高架線堤防に火粉を吹き付けて居た。間もなく構内郵便局に火が付いたとの報があったので、直に現揚に駆けつけて見たところ、火は倒壊した局舎に吹付けて遂に同局も最期を遂げた。時に風は俄に変じ、いよいよ駅舎に吹付け、危険とみに迫るの状況であった。そこで居合せた助力者および駅員と共に、跨線橋の破壊につとめたが、猛火には敵し難く、遂に破壊の目的を達することが出末なかった。一去一来、烈火は遂に橋脚に燃焼し、此火のため遂に横浜駅本屋は忽ちにして砥め尽くされたのである。当駅の最後は正に午後四時半であった。当時本駅従業員の行動は目覚ましきものであった。最初便殿・貴賓室の備品、駅長室重要書類を初め、その他の要具を駅前に搬出したが、火は漸次本屋に襲い来るや、駅員はあちらこちらと各所に之を移動して、専ら擁護に努めた。而かも最後まで擁護し得たものは、唯便殿用椅子のみで、他は全部焼失の厄に遭った。

次に当駅到着列車の災害状況を見るに、第十三列車は発震と同時に、十七哩二十二鎖附近に停止し、構内線が彎曲移動等したため、構内に進入することは出来ず、旅客に下車を進め、入場を指導した。その後間もなく列車は僅かに二輌を残したのみで、他は全部の焼失を見るに至った。

避難者中に衆議院議員吉村氏および独逸大使一行がいた。大使等は保土ヶ谷に避難したが、吉村氏は途中より引返し、当駅構内に避難を申出で、間もなく駅舎の猛火に包まれしおりからとて、その後何れにその場所を転じたか知るを得なかった。なおその他にある。ゼンチン国日本駐在代理公使カール氏夫妻および令嬢の三名も構内に避難した。 横浜駅類焼時刻は前記の如く、発生は午後四時三十分頃、終了は同十一時三十分頃であった。(同駅長述) -

2 神奈川駅[編集]

正午二分前、突如大震起るや、出札チケット箱全部が転落し、乗車券の散乱と硝子戸の破壊によって騒然たる音響を発し、駅員一同呆然として、暫くは手をこまねいて居た。本駅は幸にして倒潰を免かれたが、構内人力車小屋は人力車十二輌と共に潰れた。附近を見渡せば、駅前通りの民家は全く倒潰し、駅前西北方約半町の箇所より、火災起こり、一体に火の海と化した。本駅員一同は防火に努め、直に出札所前なる日除よしずを倒し、重要書類は安全地帯に搬出した。折しも火先は順次北に進み、駅前民家より大通主要部を焼払った。この際一方駅より南五町スクンダード石油会社から発火して、風は本駅に向って吹きつけた。黒煙は濛々して物凄く、火は駅附近民家に延焼し、猛炎は次第に駅に近づいた。駅附近の河水は、一面石油の炎に蔽われ、之がために筏は火車の如く、焼け狂って沈んで行く様は、悲愴の光景であった。火は忽ち六号官舎に延焼してますます強烈を加え、風は本駅に吹付け、遂に木炭倉庫および駅員携帯品、ならびに被服類置場等を焼失し、駅本家側ホーム上家に燃え移った。而し防火は到底人力の及ぶ所にあらずと断念したものの、所員ともどもに及ぶ限りの努力を以て防火につとめた。かくて周圍の火勢はやや、衰えたることと、人力の些細な努力によって、駅本屋は焼失を免かれたのであった。その後避難者の雨露を凌ぐの場所として貢献する所蓋し大なるものであった。(神奈川駅長談)

3 桜木町駅[編集]

被害程度 震火災の為、全部毀損滅失し、僅かに辛うじて収入金のみを取出した。 当時の状況 突発的に起った第一激震に於て、駅本屋内なる明治五年建築の家屋二棟、外壁石材は振落され、コンクリート床面に亀裂を生じ、天井および内部の壁、および土木材は落下し、書棚・机・その他器具類は、激烈に顛倒し、室内為めに埋没した。第二震以下無数の震動のため、階上の器具は悉く落下し、之と前後して屋根瓦盛に飛散し、柱は前面に四十度の傾斜をなした。右二棟の中央に位する附属建物は、壁鉄筋コンクリート式なりしため、僅かに形体を保ちしも、是また天井木材および各接合部毀損分離し、部分的に墜落し、此間逃げ後れたる旅客少女一名、木材に挟まれたるを、駅員ようやく救出して、母親に引渡した。更に当駅助役の談をそのまま掲載すれば、当時駅着車の乗客は前広庭に出切った頃(到着後六分間の後)、到着列車と引ちがえて、当駅発車を始めた直瞬間に、大地震の発りしため、列車は急停車をした。今にも顛倒せんばかりであったので、乗客は早急先を争うて飛び出し、ガード左側面(貨物線に接する方)の段を下りて、貨物線路上に逃れた。此の列車の停車した前方約五六間の処には、約六七尺もレールのみを残して、陥没崩潰し此のままに進行したとすれば、列車は或はガード下に顛覆を免かれなかったのであろう。誠に天佑であった。それがため一人の負傷者もなく、駅員は金庫を閉し、一且前の広庭に逃れ出で、四面の光最を見て居つたが、約三十分過と思う頃、都橋附近と馬車道方面に火災が起きたのを見た。当日はおりから南風であったので、都橋附近よりの火に取っては、当駅は風下である。が、然し間もなく此の駅が火災に遭おうとは想像にも及ばなかった。約三十分過ぎと思ふ頃には、各方面よりの避難者が多くの荷物を此の前庭に運び来た。その数は如何に少数に見ても一万五千人は在ったと思う。全く通行し得ベき道さえない程であった。

その内に都橋方面からの火はますます熾となって、河向の「つたや」旅館の三階に燃え移り、殊に此の建物は高かった為め、火は隣接して居た横浜石炭同業組合の西洋建物を、なおその火先は一気に此の駅前広場に運び来た多くの荷物に燃え移り.或は着衣に燃移り、悲嗚をあげて逃げ延びんとした光最は、とても言詞に尽くせない有様であった。多くの避難者はある。いは弁天橋を渡って何れへか逃げ、あるいは貨物駅構内に、我れ先きに争って逃げ込んで、ドック倉庫に近き方面に避難した。中には川中に飛入りて逃れるものもあった。

これと同時に火は当駅にも延焼して来た。建物は倒潰を免れたが、上屋丈けは倒潰した。此の上屋の柱は鉄柱(内空)であったにも拘らず、とろけて折れたのを見ても、如何に火気の激烈であったかが想像される。当駅の焼失は午後二時半頃であったと思う。停車した列車は、当駅火災のためには焼失を免かれたが、桜木町の本願寺別院の大建物が盛んに燃え出したので、その火が此の列車に吹き付けたので、遂に延焼して了った。その時間は午後四時頃であったかと思う。避難者は構内に在ったが、此の列車の燃える時分は、呼吸困難となって、皆地に伏して、苦息を続けた。貨物線内には平常貨車二百輌内外はあったが。此際丁度風下に在ったこととて火は之にも燃移って来た。之れを焼かれた上は避難場所はないと見た避難者は、燃えつつある。貨車の連絡を切り、遠くへ押しやり、安全ならしめた。貨車の焼失七十輌に及んだが、多くは空車であった。残った約百輌の貨車は焼失を免かれた。地割は前広庭の各所にあって、地下埋没の水道鉄管などより噴水して居った。その他当駅附近構内郵便局前の地割に赤子を落した母親が、上より折り覆ふて居たが、母親は既に死し、赤子のみ泣き叫んで居たので、北方町の某氏が之を拾い抱えて、避難して居たを見た。また大江橋前にも地割し、一婦人は両足を挟まれ、構内詰人力車夫に救出された。駅前交番内に逃げ入った三人の避難者は、全く火中に在りながら、不思議に一命を得たのであった。重要書類は全部焼失した。当駅の開始は大正十二年十二月三十日で、一般旅客を取扱った。発車は十二分間隔であった。

駅前の出末事 福富町からときく、一人の病人を戸板に乗せ、駅前へ運んで来たが、駅前広場の荷物に火が燃え移ったので、病人を連れて逃げる暇もなかったと見え、その人たちは何れえか逃げ去った。翌日に至って見るに、病人は前日置きし処に黒焦となっているのを見た。(桜木駅長談)

4 東横浜駅[編集]

九月一日午前十一時五十八分、突如急激なる震動起り、その状平素と異なりしを以て、職員は倉皇室外に避難せしが、時恰も昼飯時とて、階上食卓に集合し、居たる十名は、難を避くるの余裕なく、正午十二時五分、本屋倒潰と共に同所に圧せられた。是に於いて駅員は直ちに屋上を破壊し、救出に努め、幸いに目的を達することを得たが、駅書記高橋信太郎のみは頭部を痛撃せしと見えて死亡し、その他は応急手当に依り蘇生するに至った。かかる場合、負傷者に医師の手当を加える事は不可能なるにつき、已むなく同僚の保護に委し、滞留貨車に起臥せしめたが、物査欠乏のため困難は一方でなかった。かくて救助を終りたるは午後一時三十分にして、是より災害に対する万端の措置を講ぜんとしたが、市内は既に諸所に火を発し居り、当駅は風下のため飛火甚しく、一時五十分頃、本屋に延焼し更に発着上屋その他漸次類焼の上、午後五時十分、構内主任操車掛の詰所所属の建物全部を焼尽するに至った。然して最も遺憾とする所は、強風のため火足迅く、且水道破損して消火に由なく、構内は一時火焔に包圍せられたる為、折角搬出せし器具も悉皆焼失し、日常の業務をも執る能わざるに到った。

貨車その他焼失概算
1 貨車有蓋55輌 小口扱発送の分約60噸
1 無蓋貨車15輌 到着小口扱いの分約200噸
(港の分を除く) 貸切発送の分約300噸
到着貸切の分約350噸

構内配置の貨車の焼失数は七十八輌(空車)にして、軌道は曲折陥没し、貨物は全部焼失した。避難民は約三万人、空車の中に十二月まで滞在した。災後の応急執務は、貨車三輌にて業務をとり、十月末に仮庁舎も出来たので、已後の事務は同舎に於いて行った。(同駅員談)

5 横浜港駅[編集]

建物は倒潰を免かれた。更に所員の死傷者もなかったのは、不幸中のい幸であった。然し構内線路の三分二は或は折れ或は曲り或は焼け、使用に耐えぬ程に破壊し、殊に岸壁上屋に添える線路は、一つとして完全なものはない。午後二時過ぎと思う頃、新港橋側果物検査場附近よりと、又万国橋商品倉庫方面より襲つた火は、税関構内に延焼し、それが為め当駅附近一帯の火と成って駅舎も焼失し書類等一切焼失した。

駅員および各方面よりの避難民は、六号岸壁のパリー丸に避難した。当構内各所に配附して在った三十四五輌の貨車(空車あり、積込中あり、満載車あり)は、皆な焼失した。 震災前当駅は出入港船舶のある。都度、東京・横浜港両駅間に臨時旅客列車を運転して居ったが、震災後設備の出来ざるを以て、一時之れを廃止し、更に復旧を待つことになった。震災のため大破損したる東横浜・横浜港間の線路は、木戸保侃事務所長指揮の下に、九月十四日より工事を開始し、向十日間の予定を以て完成の都合なりしが、中途大雨三日に亘り、頗る難工事と目せられたりしも、予定の通り二十五日午後三時工事竣成した。依って直に試運転施行の筈なりしが、都合上一日を延期し、翌二十六日午前九時十五分東横浜を出発し、上下本線および税関構内および第二号上屋方面の試運転を施行し、その成績は良好であった。

右試運転の結果、翌二十八日より臨港線に貨車を注入し、横浜港駅を開放し、救助品輸送を開始すべき命を受けた。同時に港駅事務室は客車一、貨車一を右貫線に入れ付け、横浜港駅として事務を開始した。

九月二十九日 救助品輸送は本日もなお開始に至らず、依て関係部署に対し、打合せを為したるも、未だ充分なる要領を得なかった。之れがため鉄道は線路の後旧工事に全力を傾注し、而も二十七日来貨車を準備し置いたが、その効果は挙がらず、徒らに日時を徒費するのみで、横浜市の復興を計るに急なる現状に在って、斯かる状況は甚だ遺憾であった。

九月三十日 輸送開始。

十月三日 当駅庁舎は予で万国橋前空地に仮事務室を建設中のところ、本日竣成につき新庁舎に移転業務を開始した。

十月五日 本日より当分の内貸切扱による一般貨物の運輸営業を取扱う事となった。此事は、前日横浜税関監視部長と協議の上、目下輸入貨物焼失し、之れが整理完成を逐ぐるまでは、横浜港利用上の見地より、当分は広く之れを開放し、復興上の便宜を得せしめたき意向である。

十月廿1日 馬入川橋梁竣成につき、東京・酒匂川間直通運転。震災以来蒲田・横浜間運転休止せる省線電車、本日より開通。なお列車および電車共時刻変更。

十月三十日 清水・横浜間汽船積生糸は、昨廿九日限り運航終了のため、本日より陸路運送によることとなった。而して九月廿八日、高麗丸を第一便とし、昨廿九日高麗丸を最後に、清水・当駅間に到着したる生糸総数量は、三万二千四百三個(千九百九十三噸)である。

十一月十七日 一昨十五日限り戒厳令撤廃につき、さきに達せられたる戒厳令区域内に於ける軍需品無賃輸送の件は、自然消滅せられた。

十二月廿四日 アメリカン・ヱキスプレッス社主催に係るフランコニア号、世界一周団体乗車のため、東京および当駅間臨時列車を運転した。(横浜港駅長談)

6 高島駅[編集]

帝都の関門たる横浜港湾に面せる貨物停車場として東洋第一の称ある。、用地六万八千余坪と厖大なる設備を有せる高島駅が、流石に這回の大震災害には耐えられず、震害と同時に、構内各線は勿論、地盤一帯に亘りて亀裂或は沈下し、而かも各地割れよりは泥水を噴出せるため、一時は一面の泥海と化した。斯る状態なるを以て、建造物は破壊・傾倒・基礎移動・沈下等の被害となり、完全なるもの殆んどなく、殊に四圍は一面の火災にて、本家外三十余箇所の建物は猛火に包圍された。而かも風向の関係にて、隣接せる保線区詰所・通信区詰所・購買配給所・貨物駅手詰所、および倒潰せる海岸上家を焼払ったのみで、その主要部に災害を被らざりしは至幸であった。されど附近のライジングサンとスタンダードの石油会社がタンクの爆破を怖れ、全石油を帷子川に放流したので、火焔の移焼と河面全部が火の海と化し、筏は勿論、艀数艘が火中のものとなり、遂に海岸上家の倒潰により下敷となった・米・麦・大豆が数輌の貨車と共に灰燼となった。

構内被害の程度 高島駅は埋立地の一部に属し、地盤軟弱なるため、構内全体の沈下と地面無数の亀裂とを生じ、その沈下せる程度は、之を標準とすべきものなきにより、確実なる明示には由なきも、一尺の沈下と称する帷子川鉄橋上より見る時は、恰も渓谷の様であって、大なる部分は八尺にも及ぶと見られ、亀裂の幅は一尺ないし八尺にして、進路は東より西せるを実見せしも、その然らざるものもあった。斯の如く地盤の破壊により、構内八十八基の線路中、異状を呈せざるものは一つとして存せず、何れも上下左右に屈曲し、多数の留置車輌は共に自動し、突激脱線し、甚しきは石炭積の数車が、枕木と共に亀裂部分に落ち込み、車体の半まで泥中に埋められたるもあった。その外破損・焼失等も多く、建造物もやや無事に近き詰所の一・二はあったが、総て傾倒。破損・倒潰等にて、修理を要するものばかりで最も哀れの有様となった事は、東洋一の施設として誇って居った海岸陸上中継の各鉄筋コンクリート上家が、第一震に脆く倒潰した事であった。

営業復旧状況 破壊された設備も復活し、亀裂陥没したる地盤は、貨物取卸作業に差支なき程度に進み十月一日より陸取到着貨物に限り開始された。次いでら十一月一日から、海陸扱貸切貨物の発送を取扱う様になって、小口扱発送は十一月二十八日より取扱う様になり、営業状態は全く復したのである。

構内線路の復旧と列車連転開始の状況 九月九日より多数の人夫と、各所の工手の多数は、復旧工事に活動して、保線係員と駅員とは協力して、傾倒せる電柱を起し、沈下せる貨車を掘り上げ、或は土砂を運搬する等、労を惜まず連日復旧に努めたる結果、逐日工事は進捗し、九月八日には高島・東神奈川間の試運転列車を発し、同時に高島・東横浜間も試運転を行い、翌九日より東横浜まで単線にて数回の工事用品積列車を運転した。次いで九月十二日より、東神奈川・東横浜間に毎日数回の救護材料積の列車を運転し、九月二十八日から、高島・東横浜間複線運転を開始した。十月八日より、鶴見・高島間および高島・程ヶ谷間貨物本線開通し、単線運転を開始した。之にて兎に角汐留・品川より出発した貨物列車は茅ヶ崎まで直通運転を開始し、毎日数回の貨物列車は運転し得る事となった。十月二十一日、鶴見・高島間復線運転を開始し、茅ヶ崎・平塚間、馬入川橋梁も工事竣成したので、茅ヶ崎・平塚間単線運転にて、貨物列車は山北駅まで運転し得る事になった。

東海道線全通 山北以西不通箇所たる第三酒匂川・谷峨間の復旧工事も進捗して、十月二十八日より開通した。そこで東海道線の列車運転時刻を改正し、直通貨物列車の運転を開始し得る事となり、震災後約三箇月にて、東海道線は全通した。されど単線区間は鳥居戸川・平塚間と第三酒匂川・谷峨間とで、その上徐行運転の区間もあって、震災前に運転してあった列車回数には未だ達せざるも、運転系統は兎も角復旧されたので、本記録は筆を止める事にした。(高島駅長述)

7 東神奈川駅[編集]

大正十二年九月一日午前十一時五十八分、震災起るや、東神奈川駅構内にて今将に発車せんとせし第九百八列車は、辛うじて引機関車脱線し、運転不能となり、構内に留置しありたる貨車の脱線転覆二十五車、海神奈川駅を通過運転しつつありし第四百十一列車は、貨車五輌脱線転覆し、前途の運転不能となり、構内に留置しありたる貨車六輌転覆せるを始めとして、東神奈川駅に隣接せる横浜製綱会社工場より発火し、炎々天を焦がし、附近の罹災者は老幼男女数限りなく構内駅本屋を見掛けて避難し来り、その混乱名状すべからざる状況に陥った。駅員一同は、辛うじて身を以て室外に逃がれ出で、やや時を経て沈静するや、室内を整頓し、なお構内建物・貨物等の監視に当りしが、九月二日朝に至りては、留置貨車および第四百十一列車貨車中より在中品を掠奪するもの現わるるに至り、這は看過すべき事に非らざりしを以て、駅員は掠奪者を追放し、その管理を全うせんとせしが、時を経るに従い、掠奪者の数を増し来り、手々に凶器(日本刀、竹槍、鉈等)を携へ、殺気を舎み、駅員の制止に反抗し、掠奪を遂行せざれは止まざるに至り、全く白昼強盗闊歩するの状況に陥った。夜に入りては徒党を組み、大規模に掠奪をなせしが、九月三日夜は、一層の険悪を示し、駅の事務室に侵入して、書類箱を開き、又は出札室に入りて切符を雑ぜ返し、金銭を捜索し、金庫には合鍵を入れて開かんとするが如く、到底駅員の制止防衛の力及ばざるに至った。斯くてはならじと、九月四日の未朋頃、小手荷物室に保管しありたる小手荷物四十八個も、また掠奪に及ばれんことを恐れ、之れを他に移すに如かずと思い、駅員を指揮して、駅長官舎に収容せしが、幸いに本荷物は安全なるを得た。九月七日頃より、荷主に交付を始めたが、何れも駅員の厚き注意により、無事なるを得て、感謝の声を出ださざるはなかった。之を要するに駅留上保管に属する多数の貨物を掠奪せられたるは、乏れを防止するの策尽きたるものにして、遺憾とする所であった。

東神奈川構内
北口扱 発送大貨物 73件
貨物扱 1車
中継保管 小口扱 35件
貸切中 小口扱 61件
貸切扱 33件
建造物の焼失
東神奈川自修寮 日本二階建75坪
保線掛員合宿所第14号 日本建家屋
倒潰
駅員休憩所 日本平家建16坪 16坪
構内助役詰所 7坪半
保線助手詰所 10坪
乗降車(電車上り) 60坪
官舎 3戸
破損
本屋 1
乗降場 1
浴場 1
官舎 7戸
貨物上屋 1
給水台 1
貨物ホーム及び通路 一体

(東神奈川駅長談)

第15節 内務省横浜土木出張所[編集]

(イ)本所の運用と応急修理の諸救護[編集]

蝟集せる多数罹災者を、船舶又は土木出張所構内建物等に収容したのであるが、一方海陸の交通、物資の収集、配給等の活動は、実に船舶によらざれば如何ともする事能わず、特に小蒸汽船の活動に寄ったのである。当時小蒸汽船としては、楓・珠湖・さつき・桐・桜・東雲の六艘を所有していた、折悪しく船員不足と用水の欠乏とのために、運用全く意の如くならず、僅かに―二艘を運転し得たみので、他は空しく繋留するの外なかった。多数の港内に於ける船舶の罹災によって、一般避難者の輸送、救護用物資の陸揚げに支障を来たしたが、県港務部並に水上警察署より、当所船舶の出動応援を需め来るや、同部を介して入港諸船舶より用水の供給を受けたのであるから、船員も漸く来集し、ここに全船の活動を見るに至ったのである。なお清水港より来援せる霧島・田子の浦を併せて、一般救護に尽力し、一方海軍と協力して、大桟橋並に岸壁の王宮工事に従事し、昼夜を分たず、活動せしめたのである。運転此の如く繁劇であったのであるから、損傷もまた頻々として起り、その都度、当所機械工場に於いては、応急修理を施したが、時に電力の供給全く不能となったのでで、当時専ら人力によるの外なく、不便を極めたのである。幸いにして船舶運用に支障を免かれたのみならず、市内工場は殆ど全減したのであるから、市および工兵隊用器具・機械の修理・製作に応援することを得たのである。

(ロ)一般救護[編集]

所員傭人の救護は、前述の如く繁劇多忙を極めてあった。一般救護に於ても、主として水上の作業を担任し、避難民の輸送と救護物資の陸揚げとには、港務部と水上警察の要求に応じて、所属の小蒸汽船を応援せしめ、大桟橋の根元連絡仮船橋・桟橋両側連絡床張工事並に仮岩壁施設工事に就ては、海軍と協力して、その工事を分担した。且つ伝馬船・土運船・錨等を提供して、日夜工事を進め、岸壁に於いては、仮設に係る四号・五号、残存せる一号・二号・六号を合わせて、本船五隻、大桟橋には同じく四隻、総て同時に九隻の繋船を得せしめ、日々増加せる入港船舶の救護品並に建設材料等の陸揚に便にする等、努めて一般救護に尽力したのである。同所震災救護事務日誌の中から、海上の救護に尽くされた行勤を抄記すれば左の如くでる。(同所記録)

震災救護事務日誌[編集]

大正十二年九月

(ハ)震災救護事務日誌[編集]

大正十二年九月

一日
午前十一時五十八分大激震起る。瞬時にして庁舎その他の建物悉く大破傾斜し、諸員必死を期して、舎外に逃れ出でたるも、土地の亀裂より、濁水盛に奔出し屋外に在るもなおかつ危険なるを以て、一時高島駅構内線路上に避難す。
同時に市内各所に火災起り、烈風之に加わり葱ちにして全市猛火の街となり市外逸出の途全く杜絶せるを以て、万一の場合、船舶により海上に避難するの外なし。その内旋風起こり、建聯ねたる横浜船渠の倉庫屋根数十丈の上空に捲上げられ、鉄板の落下すること宛然木葉の風に翻える如く、危険謂うばかりなし。午後六時半頃、一部は船舶に避難し、他はそのまま線路上に、凄惨たる一夜を徹し、後何れも船舶に避難せり。
火は横浜駅および船渠を画として鎮火し、本所は幸に災厄を免れたり。
三日
此日船舶避難者、珠潮・浮島、その他現在約六十人。
郵船南洋丸無線電信にて、激震範囲東東京より名古屋までと云う。
小蒸汽船運転用水必要となり、現在量を調査をせるに、龍神に三十噸、浮島に二十噸、その他を合せ約七十噸あり。各船に通達して、節約使用せしむ。
四日
本日より大破せる庁舎室内にて執務。南洋丸無線電信に依頼し、初めて清水港修築事務所へ通信す。
五日
コレア丸内港務部仮事務所に対し、港内碇泊汽船より飲料水徴発に付交渉す。
八日
郵便電信電話各局の現業および救護部として庁舎一部貸付。
十日
珠潮丸を港務部に貸与避難民および救恤品の運送に従事せしむ。
市より重要案件相談会を開くに付、所長の出席を需め来る。
十一日
さつき号故障。清水より来援せる田子の浦丸を運転す。明治丸より救恤外米大十袋、神瑞丸よりバナナ、十籠を受取る。
十三日
霧島を軍艦球磨に貸与。
十四日
原田技監・安河内知事・横浜税関長、本日港内視察の旨、横浜市長へ通知。
十五日
船舶避難者全部構内建物に移す。
軍艦球磨艦長来所。桟橋応急工事に付打合す。
原田技監および所長、救護局へ出張。
二坪積伝馬船五隻、七坪積土運船二隻を球磨に貸与。桟橋根元仮船橋架設に着手。
十七日
海軍省より百噸給水船を借受け、鑵水用に使用。
桐に代り、桜号を港務部に貸与。
四日頃より来集せる罹災者船舶および構内建物に収容せる者、本日現在総数二百二十三人。
牧土木試験所長来所。
二十日
米松その他を徴発し、大桟橋両側間連絡仮橋架設著手。仮船橋架設終了。
廿一日
艀船、および米松材微発。
海軍省土運船と共に、五競岸壁に仮桟橋仮設着手。
廿五日
大桟橋両側間連絡仮橋架設終了。
廿六日
五号壁岸仮慨桟橋終了。
廿七日
土木局長来所、工事被害状況視察。
廿九日
四号岸壁桟橋架設着手。

同十月

十日
港復旧工事ため、鈴木技師本日より来所。
十六日
大桟橋根元連絡仮木橋工事着手。
二十日
復旧第一二三工場設置。

第16節 市内各警察署[編集]

1 加賀町警察署[編集]

加賀町警察署は災前山下町二百三番にあった。その管轄区域は市の中枢部たる関内一円および元町で、地元の戸口は多からねど、管内には内外の官公衛・会社・銀行・工場・倉庫等多きこととて、之に通勤し来る者や、税関構内の定着的労働者などが多く、昼間は常に部内の人口に幾倍するの人口を有する。

当日署内には署長森警視以下三十三名勤務中で、外に外来者三名あり、留置場には四名の拘禁者がいた。なおほ署外の勤務員が三十五名あった。署の庁舎は煉瓦造りの二階建で、建築後約五十年を経過せることとて、最初上下動の起るや、忽ち大破壊におよび、尋で起った横震を経て全潰を遂げた。署員の多くは屋外に飛び出すのひまもなく、倒潰物の下敷となり、後に署長始め大部分は脱出し得たけれども、なおかつ巡査部長一名、巡査五名、使丁一名、計七名圧死して、市内の七署中最も多くの犠牲者を出だした。

震後二三十分とも継たぬ間に、管内外の各方面に火災起り、その特に署に近きものは、庁舎の西約一町を隔つ二百二番館辺りの火で、風下のこととて悠ちにして延焼し末り、消防に着手する間も一物一紙を搬出するひまもなく、約一時間にして庁舎は焼失し、同時に管内を挙げて他署管内と連互する一大焦土と化したのである。

当時署員の避難し得た者は、極力僚友の救助に努むると共に、一面留置者全部を解放し、更に附近に於ける民衆の救助に従事したが、火の庁舎を冒すに及んでは、最早手の着けようもなく、署長は署員の全部を間近なる横浜公園内に集合せしめ、潮の如く寄せ集まる避難民の救護に従事した。当時署の活動しつつある。旨を避難者一同に知らせしめ、且つは署員の相互の連絡を保たん為め、一枚の破戸を附近の倒れ家より持ちつ来らしめ、焼炭をもって署名を大書し、之を一樹下に立掛けた。是れ実に災後に於ける最初の署庁舎であったのである。各派出所も悉く焼失したが、当時詰員の行動にして推称に値すべきものも少しとせなかった。のみならず、非直員としてもまた同様であったのである。非直員中一名の圧死を出だした。翌二日署長は子息の殃死したに拘らず、依然として公園地内に勤務し、署員約十名も勤務し、救護に努めた。三日には戒厳令が布かれて、警備は行渡り、署としては、各府県より来援の警官隊と力を協せて之を封助すると共に、主として救護事務に鞅掌し、連日連夜の奮闘を続けたことである。が、之を一々記述することは略する。署庁舎は五日までは公園内の樹下に焼トタンを立掛けて之に充ていたが、五日三井物産会社の好意に依り、その建設に係るバラックに引移り、更に公園の一隅に仮庁舎の成るに及び、十月二日を以て引移った。

2 山手警察署[編集]

山手警察署は、市の東南部なる山手町、中村町の丘陵部・根岸町の大部分および本牧町等、丘陵地、深谷地およびその間に展開する平坦地を管轄区域となす。此内山手町は外人の住宅地域で、大厦高棲建ち並び、その他は平坦地には人家が櫛比しているけれども、丘陵地は概して人家が稀薄である。

当日午前十時半より署員の多数は剣道の稽古を為し、正午近く一同道場より立出でんとする刹那、突如として激震を感じたことで、煉瓦造りの庁舎は一堪まりもなく崩潰した。良田署長以下署員二十七名の中十数名の者は逸早く庁外に避難したけれども、署長以下数名は倒潰煉瓦の下敷となり、殊に内田警部補は即死を遂げた。避難し得た署員等は直に協力して、僚友の救助に努めつつある。うち、約二十分にして署の南方なる某外人住宅より発した火は、忽ちにして署庁舎に延焼し、内田警部補の死体および下敷となったままの安達巡査部長および中村巡査は之を救い出だすのひまなく、一同は署の東南方約四町なる独逸病院跡に避難するの已むなきに至った。当時拘留囚三名は釈放したけれども、取調中の少年一名は圧死した。派出所および駐在所十一箇所の約半は焼失した。その後本署は三時頃、山手公園内に幹部を置いて、避難民の救護に従事しつつ夜を徹し、翌二日には本牧町字箕輪の一民家に移ると共に、非番員の召集し得らるる者を召集して、合体勤務せしむることとした。当時騒擾状態を呈した山元町方面を警戒する為め、根岸町字柏葉の民家に署の出張所を設け、四日には根岸橋の辺りにも出張所を置き、警戒および救護に努めたが、斯くする中、諸府県より来援の警察隊も配置され、戒厳令も布かれて、警備状態は行渡った。その後の活動に関しては記述を略する。十月十三日、本牧町字大鳥に急造された署仮庁舎が落成したので、即日之に引移った。直後の騒擾状態状態は当署部内に於いて最も甚だしかったのであって、之が鎮圧をなすの苦心は一方でなかったのみならず、管内には恰好の避難場所多く、その後も残存家屋を目指して来る者相次ぎ、之が保護・取締には多大の苦心を払ったことであった。

3 伊勢佐木警察署[編集]

伊勢佐木警察署は市内の最も殷賑なる地域を管轄し、伊勢佐木町一丁目なる吉田橋畔に在った。激震の襲うや、煉瓦建の庁舎は忽ちにして崩壊し、一部は河中に落込んだ。署内に執務中なりし芝署長以下署員三十四名は逸早く署外に避難したが、署員一名並に使丁一名は不幸にして圧死した。当日拘留囚二十二名、行政処分未済の者七名、保護中の者一名居たが、拘禁設備の崩壊したのが幸となって、その大部分は解放し得たけれども、拘留囚の中一名および保護人一名は圧死したらしく思われる。署員一同は、差当り署附近に於ける罹災民の救助に尽くしていたが、直後町内その他附近各町より発した火は、忽ちにして署に延焼した。当時間近に在った消防署も倒潰類焼して、何等い方途を執り得なかった。最早斯くなりては万事休す矣。署長は已むなく署員一同をして任意罹災民の救助および避難地の指示に当らしめ、火災終了後は直に集合すべき旨を命ずるの外はなかった。斯くて管内の大部分は一望の焦土と化し、殃死者を出だすこと一万余、市内各署中最も多きを算した。二日取敢えず久保山派出所を以て本署仮事務所となし、署長以下当番非番を問わず、六十八名出揃い、なお桜木町・庚耕地・井士ヶ谷・富士見耕地・お三宮・弘明寺の各地に警部補以下数名、多きは十一名を配置して、救護および治安の保持に努めしめ、状況の変化に応じて配置所を増加し、不眠不休の活動を開始した。四日以来諸府県より末浜せる警察の応援もあり、殊には戒巌令も布かれて、治安上には危惧を感せざるに至った。六日署仮事務所を久保山なる太田小学校に移した。震災当日、管轄内に在る派出所・駐在所二十二箇所の中十六箇所焼失したことなどは、殆ど物の数でもないのである。が、部内の損害としては記さぬ訳にゆかぬ。越えて十三年秋、地を梅ヶ枝町に相して、庁舎の半永久的建築を為すの運びに至った。

4 寿警察署[編集]

扇町五丁目なる寿警察署は市内の中枢に近き釣鐘新田地域の南部および大岡川以南、堀割川以西の丘陵地全部を管轄する。署の庁舎は大正十年の新築に係るブロックコンクリートの二階建物で、当時市内の各署中最新最堅のものであっただけに、今次の大震でも極めて最小の損害を受けただけであったが、只庁舎の敷地底に施設してあった水道の大鉄管が破裂して土台に緩みを生じた為に、庁舎は幾分傾斜していた。然るに午後一時頃に至り、長者町方面の火を受けて、遂に書類・什器諸共焼失するに至った。

当日、之より先き署長長谷川警視は、郷里山梨県へ賜暇旅行中で、出志久保首席警部が代って署務を統べていたが署員約三十名は何れも窓より遁がれ出でて、一人の死傷もなかった。当時留置場に監禁してあった六名の者は、直に正規の解放を為し、なお横浜区裁判所に署員附添い、同行中の一名は、該署員と共に奇蹟的にも死を免かれ、そのまま解放された。程なく管下随所より発火して本署もまた類焼するや、署長代理以下署員一同は、単に署附近に於ける人命救助をなすより外に採るべき方法とてはなく、各自之が為に必死に働いたけれども、火災の刻一刻に猛烈となるや、個々の人命を救助するよりは、火焔の包圍に気付かざる多数の民衆を安全地域に誘導するの緊急適切なるを認め、主として之に全力を注ぎ、多くは中村町および根岸町方面の丘地に避難せしめた。部内の派出所二十三箇所、その過半は焼失したが、詰員も多くは同様の方途に出でた。必ずしもその偽のみではないが、部内は戸口多きに比較しては死傷者を多く出ださなかった。当日午後三時頃、本署の幹部は中村町なる唐沢派出所に集まって、此処を仮署となしたが、同所もまた危険に頻したので、四時頃唐沢の民家に移り、四日更に同所の植木会社倉庫に、九日同町字山田の民家に移ったが、十月九日に至り、中村町字道楊なる県揮発庫跡に仮庁舎の建築が成って之に引移った。当時採った応急措置の仔細に亘って記るすことは略するが、部内八幡橋派出所詰の羽根井巡査が、該地界隈の秩序著るしく、みだれたるを憂い、二日正午頃、土地の有志新井国三郎外六名と相議り、一同磯子町に碇泊中の発動機船に搭乗して横須賀軍港に急航し、鎮守府司令長官に面接して実情を述べ、その結果同夜十一時半巡洋艦五十鈴外駆逐艦二隻の来浜を得、陸戦隊上陸して秩序の維持に従事し、日ならずして民心の安定を見るに至ったことは、実に当意即妙の殊功として特筆すべき事である。と謂わなければならない。

5 戸部警察署[編集]

戸部警察署は戸部町六丁目に在って、戸部町その他市の西部一帯を管轄地域とする。震災の起るや木造二階建の庁舎は忽ち壁崩れ、瓦落ち、櫓傾きて大破程度に及んだけれども、半潰にも至らなかった。署長遠藤警視は、之より先き午前十時頃所用あって県警察部へ出頭していて、署員一同は悉く庁外に避難し、両三名の負傷者を出だすに過ぎなかった。直に拘留囚および行政留置者七名を解放した上、専ら附近民衆の人命救助および避難場所の指示に従事し、午後一時には署長も帰署した。その中、各方面に火災が起ったので、署長は署員を手別けして之に向わしめ、消防に従事すべき旨を命じた。当時水道断絶したる上、烈風吹き荒んだこととて、猛火に対することは実に容易の業でなかったのである。が、而も署員は地元住民と力を協わせて、或は破壊作業を為し、或は溝水を注ぎなどして、必死の力を揮った結果、両三箇所は幸に火勢を挫き得て、遂に延焼を免かれしめたのであった。此間、塩田方面よりの火は本署員および消防署員極力の活動もその功を奏せず、午後四時頃に至って遂に類焼するの已むなきに至ったが、書類帳簿の一部は辛うじて搬出することを得た。午後六時、藤棚派出所を以て仮署となし、二日午後五時には第一中学校に移った。署外に在った署員の遭難は、伊藤・福島の二巡査部長であったが、中にも伊藤部長の如きは家族五名と共に殃死して、一家全滅の悲運を見たのである。救護事務に就て記述することは略する。十月十二日、焼失庁舎跡に建築のバラック庁舎が竣工したので之に引移った。

6 神奈川警察署[編集]

青木町・神奈川町・子安町一帯および市外の二村を管轄する神奈川警察署は、今次の震災にその庁舎が幸に小破程度で火災をも免かれ、市内の七署中唯一の免災庁舎であった。部内の各街は海岸方面に於いて,やや甚大の震害を見、所々に火災を伴い、合計三千余戸を烏有に帰せしめ、惨状を呈したのである。けれども、関内・関外方面の被害極めて劇甚なるに比すれば、大局より観て先ず軽微であったと謂はなけれはならい。当時署として火災の防止に努め、延焼を免れしめたのみならず、その他避難民の救護・警戒警備等の応急措置等に関し、多大の活動を為したことは、他の署に於けると毫も逕庭はないのである。殊に本地域は災後の不穏状態が甚だしかったのみならず、東京に赴く要衝に当ることとて、避難民の来往するもの潮の寄するが如く、各地方よりの末援者も概ね本地域を通過したこととて、之に処置するの要務は頗る繁劇を極めたのであった。

7 横浜水上警察署[編集]

水上署は、海岸通一丁目なる西波止場入口に在って、間口十間奥行十二間三尺の木造二階建であったが、第一震と共に庁舎は大破して、前方に傾斜し、殆ど半潰状態となった上、直後一時間とも経たぬ内、隣接の県測候所・県港務部等を焼いた火は、直に延焼して、一物を取出だすのひまなく、悠ちにして類焼した。当日署内には、署長大川警視を始め警部・警部補・巡査部長以下二十数名あり、監房には留置人一名あり、激震を感ずるや、一同恙なく屋外に避難し、留置人に対しては直に大石を以て扉を打砕き、之を解放した。署の管轄する新波止場派出所も類焼し、谷戸橋・弁天の二派出所もまた地盤と共に流失したが、北港口および子安の二派出所のみは小破程度であった。なお署の活動機関たる常用船は、小蒸汽船荻・「やよひ」二隻の外に発動機艇六隻、端舟十一隻を有していたが、此内、荻一隻を残しただけで、他は悉く焼毀・沈没又は行方不明となった。署の中、半ヶ谷巡査は、刑事被告人を押送して横浜区裁判所に在りし際、同庁舎倒潰の為に圧死した。直後総て無一物のこととて、署長を始め署員は、只焼失庁舎の辺りを根拠となし之を仮庁舎と思惟して応急施為に従事するの外はなかった。港内の救護および警備としては、残存の小蒸汽船荻号一隻と、二日取敢えず借入れたる発動機船一隻とに依りて、辛うじて之に当っていたが、四日戒厳令の発布と共に、警備事務は凡て軍隊に移ることとなったので、署としては、主として物資の陸揚・配給および海上避難民の輸送、罹災者の調査等に全力を注ぎ、なお十二日よりは、県訓令に基き西波止場入口に検問所を設けて、署員を配置し、又出入の内外船舶に対しては高等係五名をして一々臨検せしめ、非違を戒め、思想上の取締を為した。

秩序の回復するに及び、元庁舎の隣接地に平家建の仮庁舎を設けられ、二十二日よりここに事務を開き、引続き所々の仮派出所も成り、なお常用船は、その後各種の艇船・端舟等を一隻・二隻と民間より借入れて使用しつつあったが、十月三日、発動機船一隻を購入したを手始めとして、漸次に発動機船二隻および小蒸汽船一隻を購入し、残存の荻号を合せて、ここに機械船の数は五隻となり、端舟も一時行方不朋となりしもの三隻を発見した外、別に購入の分を加えて、間もなく災前の勢力に劣らざるに至り、署員一同引続き活動を為しつつある。

第17節 神奈川県港務部輸入獣類検査所[編集]

1 震災当日検疫所収容中家畜調[編集]
大橋慶次郎 御影丸
16
神洋丸
満州丸
日英丸
54
70 食用牛
青島
阿部五六七 10 25 35
門田龍次郎 42 42
兒波吉治 50 50 天津
田中正治 28 38 大連
竹内慶太郎 10 29 39 青島
原田勝之助 5 5
甲子正治 神洋丸 35 35 食用豚 大連
岩崎輝 伏見丸 1 1 種用豚 倫敦
農商務省 152 152 繁殖用緬羊
2 収容動物管理飼与[編集]

イ 大地震が起こると同時に、厩舎は破壊或は倒潰して、動物は鎖を切って自由に構内を駈け廻り、逃げようとするので、当日は倒れかかった舎内へ追し込み、出入口を塞いで逃げるのを防いだ。翌二日は全部整理し、所有者別に繋いで、管理人および支那人牧夫に飼与管理させた。斃死動物は危除を恐れて埋めた。

ロ 飼与 罹災家畜中食用牛は、検疫期間短期であるから、輸入業者が補給する飼料は数日で差支える程少最である。然るに震災の為、二百十九頭の飼料が欠乏し、他より補給の道なく、全く困窮した。依って空地より雑草を刈り来り、これを九月二十日の解放日まで給与したので、僅に餓死を免れたが、食牛は見るかげもなく痩せ衰えて いた。

ハ 飲料水 飲水が欠乏したので、構内の各所を発掘した処が、第九牛舎脇で、深さ六尺の所から水が出た。海水の増減に依って多少の塩分を舎んでいたが、これを唯一の飲料水として、また使用水にも用いた。

ニ 輸入獣類検疫に関する応急措置 検疫所・検査所並に獣類消毒所等は、使用の出来ないほど破壊された。当時収容家畜の飼料給水を消毒する器具・器械、消毒する薬品なども欠乏し、検疫実施上、大なる困難を来した。獣医官は斯る際に万一家畜伝染病でも発生した時は、一大事であるから家畜収容中は当分の間、横浜港へ輸入の家畜、並にその屍体消毒をする獣毛類の検疫停止する件を申請した。

大震災に依り、市内瀧頭町に在る本県港務部の輸入獣類検疫所、および獣毛消毒所は、構内に至る所亀裂を生じ、建物は全部倒潰し、使用に堪えるものはなく、また市内山下町東波止場輸入獣類検査所は、全部倒潰後全焼し、獣類の繋留検疫および獣毛消毒は実施不可能なるにより、設備復旧に至る迄、当分の内、横浜港に於いて、輸移入家畜並にその屍体(犬および支那アラビヤ以外の地より輸入移入せる鶏・鶩(アヒル)を除く)および消毒を要する輸移入獣毛類に限り、検疫停止せるよう御詮議の上、至急発令方御取計相成様致し度、此段申請候也
大正十二年九月二日
神奈川県知事安河内麻吉
農商務大臣男爵 田健次郎殿

右九月三日附の申請に対し、農商務省から九月七日には布村技師、九月十日には佐藤技師、九月十二日山脇技師が来浜し、状況視察の上、知事の申請した、検疫停止方に関する件は、実状に鑑み、臨機の措置なることを認め、同時に震災当時繋留中の検疫未了の家畜の処分を先決として、一面将来の検疫方針に関し、議すことに決し、九月十六日、小野獣医官は内務省および農商務省に出張し、各省当局と熟議の結果、この際家畜牛の内特に食用牛は、検疫することにした。その理由は食用牛は輸入牛多く、且食量欠乏の際、民衆が安価な生肉を得るには、青島肉より他にはないからである。なお伝染病発生の場合には、英断的の措置を取ることを条件とし、検疫中並に隣接屠場に応急的仮設備を施し、一回五十頭に限り、検疫を行うこと、上雷必要に応じて漸次拡張することに協定した。隣接の屠場では震災の為、竹内社長以下重役全部死亡した。東京都府下大崎医町木村粂丸臨時に会社を代償して、九月十七日より修繕工事に着手し、十月二日竣工した。その後一二回食牛を輸入したが、一回五十頭では当業者が収支償わず、持久困難である。と申出たので、更に頭数を増やす計画をなし、小野獣医官は農商務省に出張し、その実状を訴え、協議の結果、山脇農商務技師が来浜して、視察の上繋留舎を増設することに協定し、既に十一月十五日を以て、別記の通り農商務省告示百五十九号が発布せられた。当時罹災地所在の屠場は多く閉鎖し、屠殺牛の輸送困難の際、食用牛の輸入を継続し、震災地に生肉供給は一機関となって、滋養食量の補給に多大な功績を挙げた。輸入は頗る順調で、検疫も成績良好で、一度も牛疫は発生しなかった。七月七日には別記の発令があって、震災時の検疫の制度は撤廃され、全く震災前の状態に復した。

農商務省告示第二百二十八号
神奈川県横浜港に於いて検疫すべきものは、大正十二年十月二日以後、当分の中、犬および青島より輸入する一回五十頭以内の畜牛、並に緬毛・ある。パカ・カシミヤ毛および肉屑等を除く外、その物に付き検疫をなすべきものは、他の検疫港に於いてその検疫を行う。
大正十二年九月十九日
農商務大臣 男爵 田健次郎


農商務省告示告示第二百五十九号
大正十二年九月十九日農商務省告示第二百二十八号は左の通り改正す。
大正十二年十一月十五日
農商務大臣 男爵 田健次郎


神奈川県横浜港に於いて検疫すべきものは、大正十二年十月二日以後、当分の中、犬および青島より輸入する一回五十頭以内の畜牛、並に緬羊毛・駱駝毛・ある。パカ・カシミヤ毛および肉屑等をなすべし。その他は他の検疫所に於いてその検疫を行う。
大正十二年九月十九日
農商務大臣 男爵 田健次郎


農商務省告示告示第二百五十九号
大正十二年九月農商務省告示第二百二十八号は左の通り改正す。
大正十二年十一月十五日
農商務大臣 男爵 田健次郎


神奈川県横浜港に於いて検疫すべきものは、大正十二年十一月十五日以後、当分の内、犬・鳥・鶩、青島より輸入する一回百頭以内の畜牛、並に緬羊毛・駱駝毛・ある。パカ・カシミヤ毛および肉屑、皮類を除く外、その物に付き検疫所をなすべきものは、他の検疫港に於いてその検疫を行う。

農商務省告示第十六号
大正十二年十一月農商務省告示第二百五十九号は之を廃す。
大正十三年七月七日
農商務大臣 高橋是清


4 検疫所設備の応急措置[編集]

大正十三年一月十六日起工、十月一十五日竣工、正門建坪十八坪半一棟、事務所、宿直室、消毒室各一棟、附属便所。

大正十二年十月十日起工、十月二十四日竣工、食用牛検疫応急設備として、敷地三百坪を地ならし、仮牛舎棟、調理室、牧夫室、検疫官詰所各一棟、仮牛舎三棟、建坪八十五坪、五十四頭収容二棟、十四頭収容一棟、調理室および牧夫室一棟、建坪十五坪、飼料置場、調理室、牧夫二区画、検疫官詰所一棟、建坪二坪二合五、その他検疫官事務室および薬品置場。検疫所および検査所復旧工事に関しては、大正十二年九月二十三日、その計画をたて、内務省当局と折衝を重ねること前後数十回にして、之が経費支出の令書を受理した。大正十二年二月三日より工事に着手し、同年の七月に竣工した。十三年七月七日、検疫制限撤廃と同時に、総ては震災前の状態に復した。

5 震災当時繋留せる家畜の解放処分[編集]

震災当時は多数の動物を収容していたので、飼料・飲料水の欠乏に困窮した。食用牛の如きは痩せ衰えて、今にも餓死しそうであった。当業者は保護政策上、家畜の処分に就いて、農商務省に祟議した結果、東京方面の輸入業者は当局が斡旋することを主張し、左記の方法に依り、繋留家畜の解放を質施した。

大正十二年九月九日
農商務省畜産局長
神奈川県知事殿
支那畜牛屠殺に就いては、貴県輸入獣類検疫所隣接の屠場に於て施行の事に相成候処、今回の震災により、該屠場破壊し、使用不能に陥り候。ついては速に応急設備相成様致度、なお此の際臨機の措置として、現在の繋留の畜牛は、東京大崎屠場に於て、屠殺せしめ、度候。然る可く御配慮相成度候。追而打合せの為め、佐藤技師派遣致す可く候條、御承知相成度候。

右の実施に就いて、佐藤農商務技師は来浜して、橡疫官と熟議を遂げ、東京方面に向ける食用牛は、左記の条件を厳守して、東京府下大崎町帝国中央屠場株式会社経営の屠場で屠殺することを合議した。なお当業者および、東京方面の警戒と、防疫施設は農商務および警視庁に於て、監督をすること依託した。

合議条件
  • 震災当時検疫所に収容中の東京方面へ仕向けの食用牛は、今回に限り、大崎屠場を指定する事。
  • 解放頭数は、一日五十頭以内を制限すること。
  • 桧疫所より解放せる頭数は、屠場到着の場合、即日全部屠殺を終らしむること。
  • 解放牛の輸送は海路または陸路を輸送し、陸路徒歩輸送の場合は国県道を経由し、神奈川県と東京府下の管轄境界を六郷川と定め、相互に於いて、途中防疫獣医一名を派遣し付添わしめ、途中警戒規約遵守、消毒および事故発生の際は、処理等を監督の任に当たらしむること。
  • 輸送の際には、必要なる消毒薬品および汚物掃除器具を携帯せしめ、万一死体処分を要するが如き事故を生じたるときは、現所に於いて処置し、消毒の完了するにあらざれば、その地を移動せしめざること。
  • 防疫上事故発生の場合は、管轄地の当局へ公報し、英断的措置を施すこと。
  • 牛三頭毎に一名の割にて、人夫を使役し、また十頭に対して、一名の補助人夫を付添わしめること。
  • 業者には予め充分にその注意を撤底せしめ、監督者の指揮命令を遵守し、規約違反をなしたる場合は、処罰することを約定すること。
  • 今回の計画は、将来の悪例とならざることを絶対条件とすること。

斯くて輸送する道の状況を視察したところが、街路・橋梁到るところ破壊し、輸送は甚だ困難である。ことが解った。かつ掠奪が諸々に行われるというので、途中規約を実施するには、更に警戒する必要がある。ので、小野獣医官は神奈川青木町南地の戒厳司令部に、食牛輸送に対し、軍隊の警備を頼んだところ、直に承知して磯子方面警戒隊本部歩兵第五十七連隊長宛に、港務部より依頼あった時は、武装せる歩兵若干名で警備させよという命令書を受たので、陸路輸送許可の旨を輸入者等に通告し、早速実行に着手せしめた。九月十三日、東京方面の輸入業者は、準備を整えて来たが、牛を愈々牽き出そうとした時、連日の飼糧不足と給水の不足に、牛は疲労しいて、とても東京まで歩かせることは出来なかった。依りて水路輸送に変更して、当業者は漸くのことで、山羊二三十頭を積める艀船を得て、曳船に依って品川沖に回漕、大崎屠場に最も近接した地点に着き、当日屠殺すべき頭数を陸揚げして前項の約定を履行した。警視庁当局の監督の下に、屠場に繋付け屠殺することに協定した。再び左記の条件で、第二回輸送をやったところが、成績頗る良好で、かつ安全な結果を得た。引続き十月十四日より十月二十日までに、通計八十八頭を七回に海路輸送で、東京方面の食用牛の全部を解放した。某所有者の牛が一頭斃死しただけで、他に事故はなかった。

水路輸送の規約
  • 曳船内に検疫官が適当と認むる責任者を同乗せしむること。
  • 船内に於いて牛が死んだ時は、死体は検疫所に返却処分をなすこと。
  • 船内に汚物用四斗樽二個、掃除具および消毒薬を携帯せしむること。
  • 桧疫所へ返還した汚物は、検疫所に於いて処分すること。
  • 航海中の事故、陸揚げ後の状況、屠殺数は桧疫所に報告すること。

次に横浜市内の当業者は、食用牛に対しては、倒壊した隣りの屠場の一部を供用し、必要な応急修繕を施し、県当局と協議し、衛生上遺懺のない程度で、毎日少数の屠殺を命じ、九月十一日より同月二十日までに、通計八十七頭を解放した。

  • 食用豚二十六頭も隣接屑揚に於いて屠殺し、一部は東京方而へ屠肉として供給し、九月二三日に解放した。
  • 八月十一日、英国から輸入した種用牡豚は、検疫の結巣、肺疫と決定したので、隔離して治療をなし、十月八日まで予防採称を施した。健康次第に恢復したので、輸入者に、当分隔離し、予防注射を継続するように勧告して、十月十四日、仮解放をなし、健康恢復の場合は検疫宜が出張して再診することにした。一月十三日、検診の出願があったので小野医官が検疫した。
  • 政府輸入の緬羊一百五十頭は農商務省畜産課に於いて、一時支部種羊場へ避難される計画で九月二十四日、銭道開通と同時に無事輸送した。

是より先き、平時には楡入獣類検疫が終った時には、税関へ通知を発し、通関手続を終らなければ、一切解放しない規定であったので、獣医官は取扱い手続に関し合議の結果、震災時に於ける繋留動物に限り、検疫官に解放および処分方法を一任し、解放の後、物件および数最を通知することとした。九月二十二日附緬羊百五十一頭、九月二十五日附食用牛二百七十一頭、食用豚二十六頭および、種豚一頭の解放済みの通知を発した。左に解放家畜の数表を示す。

罹災食用検疫成績
船名 収容月日 収容頭数 隣接屠場へ
解放屠殺
大崎屠場へ
水路解放指定
検疫中
斃死埋却
御影丸 8月20日 274 11 30 1 41
神洋丸 8月27日 38 24 13 1 38
済洲丸 8月27日 50 11 37 2 50
日英丸 8月31日 151 41 104 5 150
279
罹災輸入豚検疫成績
船名 収容月日 収容頭数 隣接屠場へ
解放屠殺
大崎屠場へ
水路解放指定
検疫中
斃死埋却
神津丸 8月27日 35 26 9 35
伏見丸 8月11日 1 1 県下子安
岩崎農園
罹災緬羊検疫成績
船名 収容月日 収容頭数 隣接屠場へ
解放屠殺
大崎屠場へ
水路解放指定
検疫中
斃死埋却
アラビヤ丸 8月29日 152 151
支部種羊場へ避難
6 震災時特別勤務[編集]

震災害により、一般常務以外に所内の警備、食糧の供給、公衆救護、秩序維持等に相当尽力しなければならないので、九月四日、獣医官は職務の分掌を定め、専ら勤務の統一を計り、特に負傷者救護に従事した。九月二日福田衛生課長と協議し、罹災負傷者に急救治療を施すことの承認を得て、負傷者の治療に従事した。また市民の食糧輸送、罹災者保護、外国人保護等に力を尽くした。

なお獣医官等は、警備係・食糧係・連絡係・救護係・夜警係等の各勤務に分けて、各自これを分担して活動した。二日後、市内各所から流言蜚語が伝えられ、各自の家庭を放任しておくのは危険なので、獣医官は家族全部を検疫所に召集し、相互一団となって、睦しく実務に当った。又検疫所の構内に各自協力して、仮宿泊所を急造し、一同合宿することになった。家族は自ら進んで職員来客の接待、傷病者の看護、罹災者慰問等に尽力した。九月十一日より港務部の事務開始するや、小野獣医官・三橋獣医官補・宮原検疫官・斉藤守警取締等が応援した。

間もなく市内一般に秩序が回復したので、九月廿四日には合宿所を解散し、夜間の警戒は、宿直員を設けて交代に勤めた。食糧およびその他の配給に関して、獣医官が県庁および市役所に出頭し、市の田村庶務課長に合議し、検疫所内避難民五十五名、隣接屠場管理人家族人員八名、繋留動物牧夫十八名、船塵消毒所員五名、長浜検疫所員四十五名の食糧を別に配給してくれるように交渉の結果、磯子町方面へ配給の際、配給してくれることになった。九月十日以後配給は、港務部本部より受けた。

発動機艇および自動車の運用 震災当日から常務を廃することは出来なかったので、直に実施の用意をした。而し本部と本港とは遠く離れていたので、若し交通機関が杜絶した時には、実務の遂行上不便で、最も苦痛とするところであった。然るに常備の発動機艇鳩丸は本部に回航してあり、破損はしてないが、モーター油がないため、使用せずある。とのことであったから、五日午後直に検疫所に回航するように機関士に命じた。当夜途中で故障を生じ、翌六日早朝検疫所に回航した。而し揮発油が欠乏していて運転が出来ないので禅馬工場・各自動車会社等あらゆる方面を探索して、ようやく八幡橋の金沢自動車会社からモーター油を手に入れ、運転が出来たので、直に河線連絡通路を調資したところ、途中橋梁墜落し、護岸は崩壊していたので、交通することが出来なかった。更に海面連絡を開始した。同日午後磯子自動車会社からモーター油二十二缶を購入することを得た。その後は日々の連絡事務検疫船へ臨検等の常務は極めで敏活かつ遺憾なく遂行された。殊に中村町から磯子方面一体の市民救済係小宮山市主事の活動は、非常な功績を挙げた。また税関倉庫からの配給米の輸送にはいつも敏捷に援助した。

続いて陸上交通機関の計画をなし、市内を捜査せしめ、九月十日根岸町セールフレーザー自動車会社から乗用自動車一台を徴発し、水陸交通の便を与えたのは、顕著なる活動であった。

第18節 神奈川県測候所[編集]

第一冊八九頁以下を見よ。


第17節 震災直後に於ける市内官衙公署の立退場所[編集]

横浜市内の諸官衙は、震災後の応急執務を左記に仮設した。(九月以降十一月まで)

神奈川県県庁 桜木町海外渡航検査所内
市役所 桜木町中央職業紹介所内
横浜地方区裁判所 海外渡航検査所内
横浜税関 西戸部山王山税関長官舎内
生糸検査所 従前通り
航路標識管理所 同前
横浜刑務所 同前
神奈川県港務部 コレア丸
横浜税務署 西戸部町池坂一六〇四
横浜郵便局 高島町社会館
長者町郵便局 従前通り
神奈川郵便局 青木小学校
横浜駅前郵便局 従前通り
市水道瓦斯局 中央職業紹介所内
市電気局 従前通り
伊勢佐木警察署 太田小学校内
戸部警察署 県立第一中学校内
加賀町管察署 三井物産内
寿警察署 中村町
山手警察署 根岸町成和商会内
神奈川警察署 旧庁舎
水上警察署 旧庁舎前前
植物檎査所 根岸町三一三〇(所長青木町桑名伊之吉方)
絹業試験場 西戸部町九六三税関官舎芳賀方

関連項目[編集]