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横浜市震災誌 第一冊/第3章

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第3章 本市を中心として見たる震災の諸学説および調査

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第1節 今次の大震特に横浜の大震に就いて

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神奈川県測候所長技師 高木健 述 

1 今次地震の震源および震央

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今次の大地震はその惨害および地変の程度に於いて、慥かに全世界の記録を破ったものである。大帝都の半と大貿易港の殆んど全部を焼失したのみならず、その他都邑村落の毀却、焼却されたもの数知れず、貴重の人命を喪ったこと無慮十万余に及ぶの大惨禍を呈したのであるが、更に地変に於いて見ても、相模湾の海底には新たに四百米の沈降箇所を生じ、反対に二百五十米の降起箇所を生じて、都合六百五十米(二千四百五十尺)すなわち相州大山の半腹以上に相当する一大地変を起したのであって、実に地学上の一新事実として、世界の学界を聳動せしめたものである。そこでかくの如き大惨害、大地変を惹起せしめた大地震の震央はそもそも何処であるかというと、或人は伊豆大島北方の相模灘なりと云い、或人は小田原の直ぐ北方なりと云い、或人は丹沢山塊の北方なりと云い、最近また外国の学者は、房州南西沖合の海底にありと称し、諸説区々にして一致せぬが、自分の研究した所では、この地震は恐らく相模海溝と酒匂川地震帯(いわゆる酒匂川弱線)とを連ねる相模地溝の深き地底に起ったもので、しかもそれが小区域でなく、細長い区域互って陥落したものであろうと想われるのである。震源を右の如くに考えれば、前記各説の震央とする所は、何れもことごとく肯定し得られることとなる。すなわちこれを要言すれば、今次の震源は相模弱線の深き地下にある長さを有したもので、その波動が、南は安房の南西沖合から北は丹沢山塊の北背までの諸点所々に現れて、震央となったものと云うべきであろう。

2 横浜市の被害劇甚なりし理由

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震災地は何れとて惨状を呈せざるはないのであるが、別して横浜市の惨害は実に言語に絶していて、その各方面被害の計数は市が小なるだけ東京には及ばないけれども、その被害率から云えば、はるかに東京以上に及ぶのである。横浜の被害がかく特に激甚であったのは、第一にその震動の度合が大きかったためでもあろうが、また一つには、市の大部分の地盤が脆溺であったためでもあり、更にまた、直後に起った劫火が市街地の殆んど全部を焼尽くしたためででもあろう。前項既に述べた如く、今次横浜は震央とはならなかったのであるけれども、しかも横浜が震央地よりの距離に比較して、横須賀および東京よりはるかに家屋の倒潰率多かったゆえんのものは、これ全く市の大部分が最近代の埋立地であって、地盤が脆弱であるからである。天然であり且つ堅固な地盤の所であると、震動も幾分か少なく、地面の動き方も一様である、けれども人工的であり、かつ脆弱な地盤の所は、岩盤と地層とが別々の動きをなす上に、埋立層が多少揺り下げられることを免かれないから、その上に在る建築物の損害は、どうしても多大である。今回の地震後、茅ヶ崎町今泉なる相模川の旧流路に図らずも顕われた数多の橋杭の如きが、地盤揺り下げの好適例で、横浜市内にも電信の隠し杭の露われたのが所々あるとのことである。また、小田原・茅ヶ崎および有馬村等が、これ等と程遠からぬ国府津・大磯・江ノ島等に比して被害の甚大であったのも、東京で江東の二区が他区よりも惨害を呈したのも、云うまでもなく地盤が弱いためである。

次に火災であるが、何にしても市街地の九分通を焼失して、殆んど全滅と謂われる程の大火災を伴ったのであるから、この惨害は推して知るべしで、あの大火災さえなかったならば、たしかにあれ程の惨害は呈さなかったのである。本邦に於ける古来の大地震に徴すると、上中古のことはしばらく記さず、弘化四年に於ける善光寺平の大地震は、区域は狭かったけれども、潰れ家および焼け家の数に対して、死者の数が四割余に上ぼり、本邦で最も死亡率の多い地震であった。それに次いでは今回の地震で、その割合は二割五分六厘に当たるのである。そのつぎは元禄十六年に於ける相房の大地震で、海嘯(津波)も併発し死者の割合は二割五分三厘すなわち今次のとほぼ同一程度であった。明治二十四年十月二十八日朝の濃尾大地震は、当時では安政以来のものであったが、火災が甚だしくなかったので、死者の割合は五分一厘に過ぎなかった。すなわちたとえ大地震でも、火災や海嘯が酷くないならば、人命の損傷はそれ程でもないのであるが、今次のは未曾有の大火災が伴ったのであり、ことに横浜は全焼という程度であるから、その惨状もしたがって最も酷くなったのである。もっとも震度が東京よりも大きかった結果、家屋の倒潰率も圧死率も東京のそれよりははるかに多かったのであるが、ただし震度そのものとしては、小田原などよりは幾らか弱いようである。弱いにも拘わらず小田原以上の惨害を呈したのは、前記の如く全く埋立地であることと、さらに火災の甚だしかった結果である。すなわち市内では第一震で煉瓦造の家屋倉庫が倒潰し、第二震で小さい木造家屋までも倒潰したようである。また、当測候所の火元調および火災図(もっとも、火災図には火元の密接した部分は略してある)にも見る如く、確かなりと認められる火元だけでも二百九十八筒所の多数に上ぼり、そのうち正午過ぎ十分までの間に発火したのが既に十数箇所もあって、その後次々と諸所より発火し、しかも主風の外に火熱のため、局所的に所々風位が急変したので、全市ことごとく風下になったような状態で、加えるに気圧不連続線のために強風を起こし、数十の旋風も発生して、火勢は層一層猛烈となり、午後四時半頃風位が北に変ずると共に、それまで辛くも焼け残った部分までもことごとく焼き払われて、他と運命を同じくするに至った。

3 横浜に襲来する地震と横浜市民の覚悟

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初めに述べた所の相模地溝なるものを説明せねばならぬ。元来関東方面では小田原および伊豆宇佐美辺から南四十五度東に幅約六里に亘り、相模海溝と名づける。またこれと反対に小田原より富士山と丹沢山塊との中間に向かって、酒匂川流城を辿る所の地殻の弱線がある。これを酒匂川弱線と名づける。この海溝と弱線とは共に連続して殆んど同じ方向に横たわっているのであるから、両者を併称して自分は仮に相模地溝又は相模弱線と呼ぶ。この弱線の間はしばしば地震が起り易いのであって、既に述べるが如く今次の地震も自分はこの弱震に起ったものと推測するのであるが、しかもなおこの外に千島列島の南方から長く琉球附近にまで亘っている所の、いわゆる日本外側地震帯に発する地震や、東京湾口に集まっている所の江戸川および鬼怒川地震帯に起る地震、それ等の何れかに発する地震で、それがもし強震である場合には、横浜のみならず神奈川県では直にその影響を受けるのおそれがある。瓦や壁が落ちたり、建て付けの悪い家や古い建物が倒潰する程の地震に遭遇することは、平均十箇年または二十七箇年に1回位あると思わなければならぬ。それ以上の大地震になると、平均二十八年目ないし三十七年目位にあると思わなければならぬ。更にまた今回の如く相模地溝から大地震の起るのは平均七十年位の隔たりがある。すなわち要するに横浜市否神奈川県では、約三十年目に一回位は破壊的の大地震の襲来するおそれがあるのであるから、市民・県民は予め常に覚悟していなければならぬ。したがって今後復興事業に着手し、建築をなすに当たっては、よく各方面専門家の意見を徴してたとえ大地霙が襲来しても、今次の如き大惨害を再び繰返すことなきよう、充分注意することが肝要である。特に今次の苦がき経験に鑑み、地震時に起り易き火災に就いては、防止の方途を予め充分講ぜられるよう切望する次第である。

4 神奈川県測候所の被害と応急復興処置

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イ 被害概況
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当日、本測候所では、備付の中村式徴動計(倍率50倍)が発震と共に初期微動を記象したのみで、直後に起った第一回の大波動のために破壊し、験測不可能となった。庁舎は桟橋際に在ったものであるが、もとより傾斜大破を免れず、構内は海岸の石垣崩潰すると共に、海岸寄の方面より崩落を始め、一震毎に段々崩れて、遂に観測野場の大半は跡形もなきまでになった。かかる次第で、僅かに発震時だけ読み取ることが出来たけれども、標準時と比較するのひまはなかった。爾後は辛うじて震動程度や時刻等を目測しつつあるに過ぎなかったのである。しかも所長技師朝倉慶吉は、是よりさき事務打合せのため隣接の港務部に往き、部長と対談中、同庁舎の倒潰すると共に下敷となって職務に殉じ、悲愴の最期を遂げた。しかる折しも本測候所の向側なる旧居留地より発した火は、瞬く間に英一番館を焼き落し、本所に火焔を吹きつけるので、所員・傭人等は挙がって観測原簿類の搬出をなし、これを抱えてあるいは桟橋に、あるいは手近の端艇に避難しようと努めたのであるが、火はますます迫り来り、雪崩をなして殺到する避難民のために蹂躙せられて、折角運び出した簿書類も遂に散逸にまかすの已むなきに至った。かくて各自は思い思いに避難したのであるが、見る見るうちに本所も焼け落ち、機械什器はもとよりのこと、明治二十九年本所創立以来約三十年間の努力に係る貴重の観測原簿および研究資料等をことごとく滅却してしまったことは、ただ本所のみならず、観測界にとって実に惜みてもなお余りある次第である。

ロ 応急処置
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観測事務は須臾〔少しの間〕も欠かしてならぬけれども如何せん、災後本所は観測すべき器械はもとよりのこと、記録すべき紙片も鉛箪もなく、これには困却した。そのうち所員荻原壽は所長事務取扱を命ぜられ、一同鋭意して救急および観測復旧事務に従事し、六日より推測に依って地方天気予報を発し、十三日ようやくにして空盒晴雨計を得、且つ焼跡を発掘して地中寒暖計を取出だしたので、これに依っておぼつかなくも器械観測を開始した。当時の記入野帳はザラ洋紙数枚を綴じたもので、かかる野帳は恐らく世界諸国の観測界にも類例がないであろう。十四日より中央気象台の天気図に依って地方天気予報を発することとなった。

ハ 観測復旧
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十一月七日、海岸通九番地先なる東波止場報時球跡に本所仮庁舎を開き、十四日、中央気象台より 水銀晴雨計を、二十日、風力計を借用し、その他、百葉箱および寒暖計類を購入備え付けて、ようやく正式に観測を開始した。二十四日、高木健、新たに所長として東京より来任、十二月二十一日より正式なる地方天気予報および地方暴風警報を発することとし、二十二日、中央気象台より雨量計を借用して、降水量を観測することとした。その後漸次に各種観測器械を購入して据付け、十三年一月一日よりやや完備せる観測を始め、同月二十四日、経線儀を備付け、二月九日、無線電信受信器を備え付けて標準時を受けることとし、同年九月十五日には地震計を据付ける等、観測事務も次第に復旧したけれども、製造に多くの日子を要する器械類が未だ到着せぬので、完備の域に達するには、なお多少の年月を要するであろう。

第2節 横浜震災前後の気象並びに火災の火道

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神奈川県測候所調査 

横浜港桟橋際に在った神奈川県測候所は第一震と共に破壊した上、間もなく襲い来た劫火のために焼尽して、気象観測をなすことが不可能に陥つたのみならず、諸記録もことごとく鳥有に帰したため、震災前後に於ける気象に就いて詳記することは得ないけれども当時港内に在泊中であった大阪商船ロンドン丸並びに東洋汽船コレア丸の観測記録と、在東京中央気象台の観測記録とに依って横浜に於ける当時の気象を大体推測することが出来る。

前記二船の観測した横浜界隈の風向・風力・気圧および気温は別表記載の通りである。但しこれ等の各要素は甲板上の観測であるから、陸上観測のものとはもとより同価値でない。またロンドン丸は舶用水銀晴雨計に依り、コレア丸は空盒晴雨計に依って観測したのであるから、前者の方が幾分正確に近いであろう。なお両船とも午後一時半ないし二時の間に岸壁を離れて沖合に出たから、その後の気温等は全く陸上のそれと相違しているであろうけれども、風向・風力と共に陸上に於ける一般的の模様はほぼ知れ得るのである。天気は陸上のそれと大差はないであろう。

八月三十日来天気やや悪変し、重苦しき程の蒸熱を感じたけれども、未だ降雨するにも至らず、風もまた強くはならなかった。超えて九月一日午前四時前後より降雨となり、南の強風吹き、しばしば驟雨模様であった。午前十時頃に至ると雨はやんだけれども、雲はなお全く散せず、依然強風吹き続き、風向は南西に変じた。かかる天候を呈したのは、比較的弱勢の台風が、能登の西方海上に来り、それに伴い生じた気圧の不連続線は、中心より北東に延びて、佐渡と新潟との間を通り、その枝線は高田附近より長野・前橋の中間を南下し、甲府附近に於いて湾曲して遠江に入り、南は分派を相模湾にも生じ、甲府盆地には別に副低気圧発生の状態を呈し、それが午前十時頃には純然たる副低気圧に発達したためである。右の不連続線はその後種々に変形して、夕刻に至って通過し去ったため、横浜界隈に於いてはその前より空霧れて、あたかも低気圧が通過してしまったような空模様であったけれども、風向・風力等には大なる変化なく、通過した夕刻頃よりして、全く北風に変化したのである。

午前十一時五十八分三十秒(標準時との照合をなし得なかったため、時刻は絶対に正しいとは云えない)を以て本測候所は、突如激震を感じた。実に従来会して無き程の激震であったが、発震後間もなく地震計が破壊したので、遺憾ながら検測は全然不能に帰した。震動は最初甚大なる水平動来り、引続き間もなく激烈なる上下動に襲われたため、市内の建物は大小となく殆んどことごとく倒潰した。ことに煉瓦建物は第一回の上下動で一たまりもなく崩潰して、おびただしき圧死者を出し、到る所凄惨を極めたが、別けても旧居留地(山下町)方面は多くは旧式の煉瓦建物であったため、数箇の鉄筋建物を除くの外ことごとく倒潰して、文字通り全滅の惨状を呈し、死傷が最も多かったのである。

かてて加えて当時はあたかも午餐時刻で、何れの家にも火気があったため、発震後間もなく火は倒潰物に燃え付き、市内至る所より発火した。本測候所の調査に係る最も確実と思われる発火点だけでも、その総計二百八十九箇所の多きに上ぼり、その中でも旧居留地・関内方面・伊勢佐木町・吉田町・南吉田町方面・野毛町附近・岡野平沼方面・塩田・神奈川駅附近等その他数十箇所の火元は、直後に発火したもので、おりから吹き募った南西の強風に煽られて、延焼の勢烈しくあるいは合して大火流となり、あるいは崖地、不燃建物に衝突して更に数条に分かれ、あるいは所々に大旋炎を起すなど、焼けに焼け、燃えに燃えて、午後三時頃には市街地の大部分を火の海と化した。火勢がかく猛烈な結果、大気は急速に上騰して雄大なる積雲(キムラス)を醸成し、東京方面よりも遥かに雲頭の上昇運動を望み得られた。何分にも風強き上に大火を起したこととて、大火は更に風を強めて、所によりては台風の程度に達したのみならず、火団の中心に於いては気温は恐らく摂氏千度以上にも昇り、湿度は全く乾燥して0%となったことと想われる。千度以上に達したという証拠には、火先に直面した硝子類や鉄類の如何に厚いのでも溶解しているのを見ても判かることで、なお火中に長時間灼かれてあった黄金・銅の如きが溶解したのを見ると、温度のたしかに千百度以上に達したことが判るのである。かく大気は驚くべき高温となり、かつ烈風を吹起したために、旋風も所在に発生し、その最も早かったのは、午後一時前後、宮川町河岸に発生したもので、引き続き一時半頃よりは所々に発生し、午後四時ないし八時の間が最も猛勢で、その総数三十箇所の多きを算した。詳細は別に記す。

如上猛烈なる火先は、初め吹南西風が吹いたので、大体北東に向っていたが、午後二過ぎに至り、一小不連続線の通過して後は、風向が南より北に変わったため、火先は南方に向いた。しかも間もなくまた南西風となったため、火先は再び北東に向かい、更に午後四時半頃に至り主不連続線通過すると共に、風向は又々北に急変したため、火先は更に南に折り返しそれまでの間、辛うじて類焼を免かれていた平沼三丁目の西部、月見橋より横浜駅に至る省線の東側、横浜駅より平戸橋停留場、杉山神社を経て西ヶ原願成寺に至る一帯より天神山通に到る低地、南吉田町日枝神社附近、中村町三吉橋より道場橋に至る一帯等までも、遂に焼き払われることとなったのである。火先がかくの如くにしばしば方向を変えたために、所によっては左右あるいは前後より火先を受けた所もあり、避難する者に取っても大脅威で、その結果避難中途にして焔に包まれたるも少なからず、所々に集団的惨死体を見るの惨状を呈したのである。

火元を職業調にすると左記の如くで、それは大体に於いて火を使用することの多い職業柄の家が多いのであるが、しかもこうした職業の家は一面火に注意するので、却って火元とならないのも少なからぬようである。さもあれ、あの時、あの場合の発火は、殆んど不可抗のことであって、是非もない次第であろう。

横浜市大震大火災火元職業調
職業 戸数
勤め人 21
工場 19
無職 16
製菓業 16
不明 16
湯屋 15
支那料理 13
西洋料理 12
料理店 11
西洋洗濯業 10
蕎麦店 10
天ぷら店 8
旅館 8
豆腐屋 8
煎餅転 8
薬品店 5
煙草店 4
質店 4
学校 4
病院 4
差配業 3
材木商 3
米穀商 3
海産物商 3
雑貨商 3
回漕店 3
酒商 3
飯屋 2
洋服店 2
会社 2
おでん屋 2
貸座敷 2
官公庁 2
倉庫 2
大工職 2
医師 2
油商 2
牛乳商 2
商館 2
職工 2
遊芸師匠 2
石材商 2
蠣灰商 1
煮豆店 1
花商 1
釣舟業 1
魚商 1
銀行 1
足袋商 1
造船業 1
馬料商 1
理髪店 1
空樽商 1
船具商 1
箱商 1
鍛冶業 1
書籍店 1
官舎 1
請負業 1
簾商 1
印刷業 1
染物業 1
氷店 1
玩具商 1
劇場 1
蒟蒻製造業 1
焼芋店 1
俥業 1
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第3節 横浜大震大火当時の旋風

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神奈川県測候所調査
(記事中に十三時とあるは午後一時、十五時とあるは午後三時)

概況 九月一日大震後間もなく十三時前後に、火勢に煽られて宮川町川岸に一小旋風発生し、続いて十三時半、末吉町三丁目にも起こり、前者は進行しなかったが、後者は北々東に向って一五〇米内外進行した。これを皮切りとして、所々に旋風続発し十六時〜二十時の間が最も猛烈で、辛うじて火先を避け得てようやく安堵したものや、安全地帯に避難しつつあった人等に火を吹きかけ、焼殺しあるいは負傷せしめた。この日発生した旋風の総数は調査し得た分だけでも三十箇所を算し、その内十七箇は中心が進行し、短きも、100米内外を走り、長きは実に2200米を走過した。500米以上の生命を保ったものは七箇、1000米以上のもの三箇を算した。左に発生時刻順にその程度を表示して見よう。

発生順 発生時刻 消滅時刻 継続時刻 発生地点 終滅地点 行程 進行方向 程度
1 13.00 - - 宮川町川岸 - - -
2 13.30 ? ? 末吉町三丁目 - 150米 北々東
3 14または15時 - - 桜木町駅前 - - -
15.00 ? ? 神奈川町元町 - 100以上 東微北
4 15.20 17.30 2時間以上 高島町八丁目 塩田橋附近 2,200 南西-南東-南西-西南西 猛烈
5 15.30 - - 富士見耕地(南太田町) - - -
15.30 ? ? 神奈川町宮之町 - 100以上 東微北
15.30 - - 東神奈川駅構内 - - -
6 16.00 ? ? 公園内 - 200 東微北
16.00 ? ? 地方裁判所 - 200
16.00 - - 船渠会社内 - - -
16.00 - - 横浜橋附近 - - -
7 17.00 - - 不老町四丁目(千秋橋附近) - - -
8 17.30 ? ? 境町(公園北門脇) - 200 北々東
9 18.00 ? ? 扇橋附近 - 150 北西 猛烈
18.00 ? ? 市役所裏 - 500 北西-吉田橋にて北々東 猛烈
18.00 - - 正金銀行西側 - - -
18.00 18.30過 30分以上 桜木町七丁目 伊勢町四丁目附近 1,100 南々東-南-南西 猛烈
18.00 18.30頃 30分以上 同前(横浜駅前) 平戸橋附近 600 西南西-南西 猛烈
10 18.30 ? ? 馬車道 - 200 西-河上にて北に変ず
19時前後 ? ? 石川仲町 - 500 北微西-19時後西に変ず
11 19.00 19.30 30分以上 桜木町七丁目 野毛山太神宮附近 1,300 南々東-南々西-西南西-南西南 猛烈
12 19.30 ? ? 扇橋寿警察署附近 - 150
19.30 - - 吉浜橋南東方 - - -
19.30 ? ? 山吹橋 - 200 南々西
13 20.00頃 - - 桜木町駅 - - -
14 20.30 - - 三吉町四丁目 - - -
20.30 - - 長島橋 - - -
20.30 3.00 30分以上 千秋橋 権三橋附近 500 北々東-東北東
15 20.40 - - 中村町揮発物貯庫 - - -


表中の時刻行程はおおよそのもので、只目安を示すに過ぎず。程度は旋風の生命の大小に関わらずにその猛烈さを小・中・大・猛烈の四階級に区分して当てはめたものである。消滅時刻およびその地点は、今回の如き場合には不明瞭なることが本当らしいが、幾人かが次々と遭遇した同一旋風に対しては、参考のため最後に見た地点および時刻を記した。第15図(図略)には横浜の火災に添えて旋風の状況を示してある。

実況 如上二十九個の旋風の実見者の談話中で代表的のも数個を記せば左の如し。

3-2 神奈川町元町 午後三時頃、神奈川元町附近に旋風起り、トタン板等を高く巻き上げた。(川名技師手記)

  • 神奈川方面には三時から四時頃竜巻あり、トタン板を巻き上げツーンと落す。バケツを被って逃げる。(藤原博士手記)

4 高島長八丁目 午後三時二十分頃、高島町八丁目月見橋附近に旋風起り、山積しありたる砂およびトタン板等を巻き上ぐ。その高さは三十間ないし四十間に達し、同四時半頃には高島町五丁目附近に来り、トタン板を巻き上げ、畳等を電柱の上あたり迄も巻き上げた。
附近の石油漕所より流出せる石油に延焼し、火焔甚だしく高く昇り、猛烈を極め、ものすごかった。同五時頃には高島駅附近に来れり。同所に避難せる松本信太郎氏の語る所によれば、五時頃旋風来たりて、荷車の上に避難しおりたる病人は、車の側に落ち、同氏一家九名は南西へ約十間も持ち行かれた。その途中のことは一向不明なれども、一同無事だったと云う。(川名技手手記)

  • 三時、平戸橋の家より逃げ出して、四時頃高島駅に着いた。着くと間もなく火が移って来たから、神奈川の方へ逃げ様としたけれども、築地橋が落ちていたので行かれず。ここ(高島駅広場)で避難していた。五時頃になってライジングサン石油会社の方で非常に大きな音を立てたかと思うと、トタン板等を高く巻き上げて、向かって来た。この時ここにやはり避難していた病人を乗せた荷車は転倒して病人を落して車のみ飛んで行った。(井上書記手記)

5-2 神奈川町宮之町にては、午後三時半頃、猛烈なる旋風が物凄く、火焔、トタン板等を巻き上げているために、消防署のポンプ自動車は前進する事が出来なかった。(川名技手手記)

9-1 翁橋附近 松影町四丁目の松村石油店河岸で起る。午後八時頃から九時頃の間で、巻き上げて東方へ落す。(瓦久氏談、藤原博士手記)

  • 六時頃、松影町五丁目の角にて旋風五六回起る。附近が既に焼け落ちてから起り、長い二間位の焼柱やトタン板、瓦等を電柱の二倍位の高さまで巻き上げて、長者町の方(北西方)に落した。(井上書記手記)

9-2 市役所裏 市役所が焼けている最中、夕方旋風が七・八回起って、トタン板等を五十尺位迄巻き上げた。そして電柱等にかなり引掛った。

  • 夕方五六回、市役所方面から川に沿って旋風が来た。この時トタン板等を二三十尺高く巻き上げて尾上町交差点(馬車道)の方に去った。(吉田橋下河中に避難していた実見者談)
  • 旋風は火が暮れてから十時頃迄あった。多くは豊国橋の方から来て、正金銀行の方に去った。百五十尺位の高さまでトタン板や瓦等を巻き上げた。
  • 吉田橋附近にて、旋風は五時か六時頃、トタン板や焼けた材木等を八十尺位巻き上げて、関内の方から伊勢佐木町の方に向かう。
  • 夕方少し前に真砂町の方から、卜タン板等を巻き上げて来た。そして吉田橋の辺から曲がって楼木町の方に向かって行き、トタン板等は一尺位に見えた。(以上井上書記手記)

9-4 桜木町七丁目附近に午後六時頃起りたる旋風は、川岸に沿いて進み、花咲町九丁目より南西に折れ、掃部山の西を過ぎ、火焔を巻き上げて、戸部三丁目に出て山王山方面へ進む。(川名技手手記)

9-5 桜木町七丁目横浜駅 午後六時頃、横浜駅附近に旋風起り、火焔を巻きつつ平戸橋方面へ来り、南西へ走る。(川名技手手記)

10-1 馬車道、伊勢佐木町吉田橋際 地震後間もなく火事、火の手は東手に上る。古田橋を渡り、尾上町方面にまた火が上る。引き返す。吉田橋の際で火に巻かれ船に入る。水に入る。附近焼け落ちて後、水から出る。夕方旋風起こる。初めは港町五丁目に起り、その後火のある所へ諸方に起こる。伊勢佐木町にも起こる。東の方面は不明。後野毛山にも起る。火の柱立ち、燃えさし、トタン板等を巻き上げて落すので、あぶなくて皆ワァーと云って逃げ込む。高さは随分高し。(藤原千寿保氏談、藤原博士手記)

  • 吉田橋のところで夕方馬車道の方から旋風が来た。また指路数会の附近からも起る。共にトタン板を二三十尺も巻き上げる。方向は不明。(井上書記手記)

11 桜木町七丁目 午後七時頃、また横浜駅方面に旋風起り、最初は(9-4)と同様の道を採り猛進したるも、桜木町五丁目辺より更に西進して、掃部山の東側を掠めて、野毛山方面に七時半頃到達し、それより南西に折れて去る。9-4と、この旋風は、共に勢猛烈にして、その衝に当たりたるものは、樹木家屋はその渦巻く火焔のために、爆発的に発火し、ことごとく燃焼された。宮崎町にある正金倶楽部はために延焼し、同所の留守番男女六名は窒死した。(焼死したのではない)(川名技手手記)

  • 桜木町で夜になってから凄い旋風に遭った。どこから来たか解らぬ。八時頃らしい。(井上書記手記)
  • 太神宮境内の焼ける時(夕方)戸部方面(裏手)から旋風が来た。ただ夢中で解らぬ。(井上書記手記)
  • 太神宮の裏手の方で旋風に遭った。この時ちょうど十全病院は焼けている時であった。方向は解らぬ。(同上)
  • 太神宮境内前にて旋風に会った。四時か五時頃で、火の子を吹きまくって来たから解らぬが、戸部の方から来た。(同上)
  • 太神宮本殿前で旋風に遭った。この時本殿は焼け始めた。ちょうど夕方で本殿の焼ける時に、火の子が巻き上がったり、木が飛んで来たが、本殿が焼けてからは来なかった。(唯一回)(同上)

12-1 扇橋寿警察署附者近 長者町二丁目二五番地附近は二時頃延焼した。この附近一帯は松影町方面へかけて遅く焼けた。七八時頃寿小学校方面より旋風来りて、寿小学校の西側より川を越えて、千歳町の方に走った。この時旋方が川に沿って来る時には、川の水を持ち上げる様に見え、また川岸に立っていると霧の様に感じた。音は気付かないけれども、回数は十回以上あって、いつもトタン板等を巻き上げて来た(高さ不明)。この時は既に附近は焼け落ちていた。(同上)

13 桜木町駅では旋風のさかんなりしは八時頃か。夜十二時頃吉田橋附近へ帰る。燃え終り、死骸だらけ。この辺にも旋風起る。このために半焼けの船転覆す。船がぐるぐる廻る、水へ入らず、三箇所一度に起る時もあり、区々に起こる。(藤原博士手記)

14-2 長島橋 旋風は夜半の三時か四時最も強し(?)。日がかげつてから始まる。七時頃ならん、船でようやく防ぐ。自分の家は染物屋で客の品ある故に、最後迄残り居りし故、火許はかなり知っている。湯屋と豆腐屋と洋服屋、活版屋、シノダ製造屋、バー洋食店、田口石屋から出る。旋風は南方から始まり、キリキリと巻き始まったなと思う中、見る見る中にに通過し、附近両岸にありしもの何でも皆上げる落ちる。自分は河の中で縮んでいた。附近には誰も見えなかったが、武蔵橋の方には『おあい船』に数人乗っていた(藤原博士手記)
豊国橋の上や川にいた人は旋風を見る。瓦斯管の様なもの飛び来り、水に入りて爆発す。(藤原博士手記)

  • 蓬莱町鶴ノ橋の通りの火事は、地震と直ぐにて三十分とはなし、直ぐ後の金属屋から出る。女は船、男は河に入り、水をかけてやる。午後三時頃が一番強し。この頃人が死す、苦しい。旋風は夕方火が済んでから六時頃、この辺一面持ち上げる。トタン板でも何でも持って行く。船に噛り付いて居る。旋風は山から来る。一時間位の間来ては西を通ったりす。(藤原博士手記)
  • 酸素瓦斯倉庫(葛原)に火が入り管の口金の真鍮が溶け、破裂して飛んで来る。三時頃なり。多分他の管の破裂のためならん。まるのまま飛んで来て水に入り、水雷の様にくぐる。ビュービューと飛んで来る。一人これのため死ぬ。船の帆柱にあたり船がひっくり返える。(藤原博士手記)(以上二件、自動車店員談)
  • 長島橋附近は夜の八時煩、トタン板等を巻き上げて来た。方向解らず。(井上書記手記)

14-3 千秋橋 火は山吹橋西袂車屋から出て、北に麾く(一時頃)。向う河岸は十二時頃逃げ場なくなり、小船に乗る。朝まで居た。夜の三時頃ようやく楽になる。それまでは水をかぶって苦しむ、熱い。旋風は詳しくは解らぬが、トタン板が木の葉の様に飛んで来る。パイスケ(一半偏平なる大ざる)をかぶって助かる。附近からも上げる。橋の袂で大の男二人地割れにはさまり死す。開いたり凋まったりしたらしい。(藤原博士手記)

15 中村町揮発物貯庫 火は一時半頃北東から表へ向かって来る。橋の方と先から来る。夜旋風が起る。三吉橋の東詰めから西に見る。夜八時頃から明け方迄かと思う。トタン板等凧程に見える。場所はこの辺、貿易倉庫の上で盛にやる。三間や五間は動くも大体は位置固定。(伊藤政七氏談、藤原博士手記)

  • 一時燃える。倉庫は油と紙とあり、直ちに燃える。角の薬種屋と倉庫がはやし。旋風の無くなりしは、八時か九時、船で見る。全部トタンと紙とがグルグルブーンと音して非常なる勢で上げ、後落す、九時頃。(瓦久氏談、藤原博士手記)
  • 揮発倉庫にては旋風六時頃起り、樽を巻き上げる。(第二消防署員談、藤原博士手記)
  • 南西から火が来る。旋風は向う河岸の石油(?)倉庫にあり。黄金町から見る。最後迄(三時過ぎならん)おりて船に逃げる。船は過半数堀の内方面に逃げる。(藤原博士手記)
  • 衛生試験場附近にては、夜の八時か九時頃から焼け出した。七時か八時頃より旋風三回起り、トタン板や揮発の空樽を二十間も高く巻き上げて、山の根南東に落した。(井上書記手記)
  • この附近は七時頃旋風数回起り、石油や揮発油の空鑵を裏の山より十間も高く巻き上げた。(山の高さは五一.九米。)(井上書記手記)

結論 当時人々は刻々に迫り来たる悪魔の手より如何にして免れんかと焦燥し、狼狽して、真に身も世もなかった急場であったから、火災や旋風の発した時刻や、進み行く方向等は注意の外に置かれたことは当然である。しこうして予等が本調査を始めたのは災後約半歳を経て、人々救急バラックを出て旧居住地の半永久バラックに帰りまさに営業を再開せんとする際を狙ったのである。故に人々の記憶も朦朧となっており、調査には随分苦しんだ。前に掲げた表に記るしたものは、多数の人々の談話を綜合して最も真に近しと思われるもののみであるが、併しなお時刻等は―二不安のもの無きにしもあらずである。この表以外に小規模の旋風は多数あって、殆んど到る所発生したと称しても過言でない位であるが、かくのごとくは省略した。しかし顕著なるものは殆んど全部を網羅し得たつもりである。今次の旋風の模様を見るに、強勢なるものが必ずしも進行するとも限らず、又進行するものも風に逆らうものあり。従うものありて、一様ではないが、大体に於いて風に従って流れた様である。また進行せずして一箇所に停滞せるもの、また単距離を走ったものの多くは、余焔に煽られて生じ、火焔の後面に踉随したもので、その陣風線により醸成せられたかと思わるるものは、風向に従うかないしは風向が従うかの模様が見える。旋風の発生したのは火事が下火となった十六時ないし十九時の間が最も頻繁であった。(十五時頃焼跡を通行出来た所もあって、十八時頃には大抵の所は鎮火したが、二十時頃にも火気に煽られて二三発生した)もっとも十五は揮発物貯庫がなお燃焼中に発したものである。(高木技師記)

第4節 地質学上より観たる横浜の地形変化

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第1項 緒言

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今次の大地震は関東一帯をその震域とし、これが余波はなお駿河・信濃にもおよび、神奈川県管下に於いて被害が最も甚大であった。大震の結果、到る所土地の亀裂・崩壊・低下および隆起を来し、所々に断層を生じ、地下水および温泉は変化し、局部的には海嘯を起し、家屋・宅地・道路・田畑・港湾・山林・堤防等の被害極めて大なるのみならず、四五の大小都市は火災と併発して惨状実に名状すべからざるものがあった。災後各方面の専門学者は争ってこれが調査研究に従事し、その結果の既に公にせられたものもある。今茲に地質学上の見地より、主として横浜に於ける地形の変化に就いて記述するのであるが、その前に先ず震災地域一帯に於ける地質一班を略記する。

第2項 震災地域の地質

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震災地域に於ける最古の地質は、上部古生層で、主に粘板岩および砂岩より成り、甲州街道笹子嶺の西側にやや広く分布し、それに次ぐは主に凝灰岩および角蛮岩より成る御坂層で、甲相境界山地の両側および富士山の北なる御坂峠より東西にわたる山地を占めている。頁岩・砂岩・凝灰岩・凝灰角蛮岩等より成る第三紀層は、房総半島および三浦半島の主要部を構成し、および御坂層を囲みて足柄地方より大山に達し、北に向い、更に西に転じ、甲相の境界を過ぎ、大月より河口附近に連なっている。主に凝灰岩および角蛮岩より成る第三紀層は、箱根より伊豆の所々に火山岩に被われて、小区域に露出している。主に粘士および砂礫より成る第三紀新層は、相・武・上総等の台地の下に露出している。洪積層は相・武・上総等にわたる広大なる台地を構成し、壚栂(ローム)・粘土・砂礫等より成っている。沖積層は平地および砂丘を形造り、粘土および砂礫等より成っている。火成岩のやや広域を占めるものは、石英閃緑岩で、笹子嶺より北および南西にわたる山脈および甲相の境界より東に至る山脈を構成し、玢岩・輝緑岩・蛇紋岩等は小区域に露出している。安山岩およびその他の火山噴出物は、足柄および箱根以南の地に広く分布するの外、安山岩は岩脈をなして小区域に露出している。

震災は地質の如何によりて大差がある。すなわち第三紀およびその以前の岩石並びに閃緑岩・安山岩の地方には災害少なく、洪積層の地方にもまた災害少なく、災害の激甚なりしは、沖積地および埋立地または盛立地並びに火山噴出物の堆積せる地方であった。

第2項 横浜の地質および震災

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地質に関しては、これを台地および平地に分けて記述する。台地の上部は洪積期の壚坶・砂・粘士・砂礫より成り、不整合に第三紀層を被覆している。第三紀層は台地の下部を構成して、主に凝灰頁岩より成り、薄き砂層を挟み、多くは東方又は西南西に三度に傾斜している。台地の表面は元来波状を呈していたのであるが、高きを削り、低きを埋め、また所々に盛土して、現在の市街または住宅地を成したものである。平地は沖積地および埋立地で、主要市街はこの地域にある。

家尾の倒潰数は、主要市街が焼失したために、十分明にすることを得ないけれども、各方面の資料より考察するに、左記の如くで、平地に於いて特に多かった。

    総戸数 焼失せざる区域
の倒潰家屋数
焼失区域内の
倒潰家屋数
合計 総戸数に対
する百分比
全市 100,798 9,597 18,367 27,964 27.7
台地 14,499 1,171 1,115 2,286 15.8
平地 86,299 8,426 17,252 25,678 29.8

焼失家屋数は約六万と称せられ、その内の倒潰家屋数はその推定過少なるやに想われ、また台地と平地とに於ける倒潰家屋数の比率の差は小なるやに思われる。ただし山手町には倒潰家屋数特に多く、ために台地に於ける倒潰家屋の比が大なるに至ったことと思われる。

1 台地
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掃部山・野毛山および山手の地域が焼失して、家屋倒壊の状況が明らかでなけれども、壚坶または第三紀層を基礎とせる地に建てられた家屋は被害少なく、山王山・久保山および山手町に相当多数の倒潰家屋のあったのは、つまり盛土の上に建築せらてたのが多かった結果である。西戸部町山王山なる税関官舎、同久保山なる市営住宅および療病院、柏葉なる市営住宅等の如き、台地の中、高きを削り、低きを埋め、または傾斜地を高めたる敷地、すなわち盛土の上に建築せられたるもの多き所は、概ね倒潰または半潰の厄に罹らざるはなく、特に山手町の倒潰家屋は崖地またはその辺縁に多かった。

2 平地
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神奈川駅の北東を成せる地域には、家屋の倒潰比較的少なく、平均二割以下であったが、横浜線と京浜線との分岐点附近を流れる入江川両岸および東神奈川駅附近には倒潰家屋多く、特に横浜線の西方なる入江川両岸の市街は最も多かった。けだしこの地域は、多く大正七年後の好況時代に発展した所で、建築に注意を欠いた個所も少なからず、工場および社宅並びにこれに伴える住宅・商店等が大部分を占めていたからであらう。

神奈川駅およびその以南には、埋立地多く、家屋の例潰は五割以上におよんだということである。特に大正七八年後に発展した岡野町に於いて甚だしく、近年発展した東海道西方の帷子川沿岸の工場および住宅は多く倒潰し、これに隣接した東海道東方の浅間町もまた家屋の倒潰が多かった。

横浜駅以西なる東海道両側二三町の地域内には、倒潰家屋五割以上に及び、桜木町線の東方なる緑町には、完全なる家屋なしとまで云われ、戸部町一丁目ないし六丁目の家屋もまた甚だしく倒潰した。

横浜の中枢なる関内は、震災最も激甚なりと称せられ、大岡川および中村川に囲繞せらるる三角形の地域の多くは、江戸時代の末葉に埋立てられ、関内と同じく五割以上の倒潰があったようである。大岡川の北西に沿った地域、堀川に架せる谷戸橋より中村川に架せる亀ノ橋以南の地域に於ける家屋もまた被害甚だしく、例潰五割以上に達したと云われる。

3 その他の観察
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家屋倒潰の方向 主に南北で、北々西または南々東なるものがこれに次ぐ。石碑および石柱もまた北又は南に転倒し、東又は西なるものは少ない。石碑の回転は多くは左回りで普通は二三十度、最大は四十六度であった。掃部山なる井伊銅像は四十五度回転した。

裂罅および低下 裂罅〔裂け目〕は海岸および河畔に並び生じてその数甚だ多く、かつその大なること他に多く比を見ない。その形状は区々で、海岸または河畔に沿って大なるもの数条並走し、あるいは中央部の低下せるあり、あるいは一方の低下せるあり、あるいは階段状に低下せるもあって、落差は一米以上に達するもあり、多く開口して、その幅〇.五五以上なるもあった。裂罅と共に、特に海岸埋立地の多くは低下したるものの如く、最大一米におよんだ。
台地に於いては、所々盛士の地域に小裂罅を生じた。洪積層および第三紀層にはこれを見な かった。

崩壊 崩壊も各所に生じだが、台地の辺縁なる崖地に於いて、多くは盛土の崩壊したもの、または石垣の崩壊したものである。谷戸橋より亀ノ橋に至る南方の崖地二箇所崩壊し、その下に在る多数の家屋を埋没または破壊し、谷戸坂の北、道路の海岸に接する所、特に見晴らしと云える地の絶壁が二個所崩壊したけれども、家屋の捐害は少なかった。磯子の絶璧の崩壊では、その下の大割烹店の一部を埋めて約二十名の男女を生埋にし、その堆積した崩壊土砂は小丘の如くに盛り上がった。滝頭扇ヶ谷の崖崩も大きかった。

井水の変化および泥砂の噴出 井水は地震後多くは混濁し、三四日ないし六七日にして旧態に復した。井水または裂罏より水および砂を噴出せるもあった。横浜公園の一部や俗称埋地一部に於ける水の氾濫は、水道鉄管の破壊に因るものである。

鉄路の被害 桜木町駅の北西約五百米の上り線は、延長約五百米の間、一米ないし二・五米低下したが、下り線には異状なく、神奈川・横浜両駅の間二箇所に十糎内外の低下を見た。その他所々に十糎ないし三十糎低下せるもあった。
神奈川駅附近に於いて、十糎内外の低下および鉄路の水平に十糎内外の曲折は、数個所に之を検した。横浜駅東方の引込線には、線路の低下、鉄路の水平の曲折甚だ多く、駅の東方約三十米の間二米内外低下し、鉄路は元通り残存して空に懸っていた。高島駅の東には、復線の一線は一・三米南方に曲折し、他の一線は元返りに残存した。この外、線路の低下、鉄橋の被害、石垣の崩壊等が多かった。

横浜の震災は右の如くに激甚であった。その激甚なりしは埋立地の多かった事に基因するように思われる。台地の震災は概して軽微であったに拘らず、山手町に倒潰家屋の多かったのは、盛土に対する注意を怠ったためであり、また一つには旧式煉瓦造の多かったためであろう。裂罏は殆んど埋立地・盛土地および沖積地に限られたかの如く、士地の低下も大体右の如くであった。想うに横浜附近の第三紀層は勿論洪、洪積層といえども、今回の程度の地震に対しては、常に注意を怠らざるに於いては、よくこれに耐ふることと思われる。

第3項 結論

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今次の震災で、地形の変化の著しかったのは神奈川県下で、横浜もまたもとよりその域に入っているのであるが、その最も著しかった箇所は、新に成生せられたる地質の強固ならざる区域であって、地質の良好なる地域はさしたることはなかった。しこうして今次大地震の震源に関しては、専門学者の論議未だ一致するに至らず。相模灘の海底に就いては、地形上の変化に関して詳細にこれを知るの要あるべきを想い、かつは諸学者の討議未だ尽くさざるの場合なれば、ここにはあえて記述しない。前述の如く神奈川県は、他の府県に比し最も激震の地域であれば、震源地は神奈川県によって、東・西・北の三面を囲まれる相模灘にあるらしく想うのであるけれども、これらの議論はこれを省略して、単に地変に就いて記述するに止める。

(拠 井上禧之博士 所説)


横浜震災誌第一冊終

関連項目

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