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横浜市震災誌 第一冊/第2章

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第2章 震災と横浜市

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前横浜市長 渡邊勝三郎 述 

予が桑港の商業会議所に対して電報した所の『震火は殆ど全市の九十パーセントを破壊消失せしめ、死者三万、負傷七万、生存者は寒気に直面して伝染病と飢餓とに襲われ、非常なる危険に瀕しつつあり』の数行に依って見ても、如何に当時の惨憺たる状態で在ったかを思惟せしめる。しかもこれが瀬々として来る余震と、炎々数里、数昼夜にわたってなお消えやらぬ火焔の巷に、累々たる死体を目前にして書かれたものであると思うと、吾々は戦慄、呪詛、恐怖などというあらゆる感情さえも抜き去られた呆然さに依って、只夢幻の如く当時を回想する外はないのである。

大正十二年九月一日、激震一度関東一帯の地を襲うや、数十年の建設に、極東文化の咽喉を扼し、帝都の関門を誇る壮麗な我横浜市は、瞬間にして破壊し、次いで市内約百箇所に起った火災は、おりからの狂風に捲かれて、全市一夜にして焦土と化したのであった。数万の屍は街衢の狭きまでに横たわり、市民は広茫たる灰燼の街を、食を求めて走り、流言蜚語しきりに至って人心険悪、総ての方途も施すに術なき程の混乱であった。幸いにして戒厳令は布かれ,秩序のやや回複すると共に、全国からの救援は到り、次いで地球の全面、全人類からの同情は、澎沛として潮の如く及んで、ここに破壊から建設への第一歩は始められた。焦土の上に溢れた『より大なる横浜市へ』の声を聞くまでの横浜市役所は、矢張り惨憺目も当てられないのであったのだ。当時主務大臣に対して発した電報で見ても『震災のため現金皆無、日々の支払いに差支え居るにつき、現金一万円借用したし。なるべく五円・一円と補助貨幣にて願い度し』とあるが如き混乱さにあったのだ。それが今は約一億を超える復興計画に着手されている。あれこれ思い合わすれば感慨はさらに深い。

平塚から横浜へ

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彼の地震の当時、予は平塚に避暑していた。そこでは矢張り家を破壊されて、その夜は野外に露営し、二日を迎えたのであった。回想すれば東京は全滅に近い損害を被ったと聞いたが、横浜はそれ程でもあるまいと感じていた。とにかく心配になるので、子供(大学に行っている)を連れて二日の夜から徒歩で横浜に向かって、先ず井土ケ谷に入った。『横浜の様子は何うであるか』を確かめたいので、商業学校へ行って見たが、その時はもう三日の朝で、学校には避難者の群れが充満して混乱を極め、学校当局の所在も判らない。市役所へ行って見ようと市内へ入ると、惨憺たる被害し状態に一驚を喫した。余焔はなお方々に立昇っている。橋は焼け落ちている。馬の焼死体がある。犠牲となった人々が道路に算を乱して横たわっている。その間の辿り、焼けた橋の鉄骨を伝い、ようやくにして市役所の附近まで来た所が『市役所は焼けた』と云う。公園に出張所があるというので行ってみると『今日から桜木町の職業紹介所へ移転した』という処である。そこではいろいろの掲示があり、傷病の世話などしていた。

更に桜木町に向かって職業紹介所へ入ったのは午前十時頃であったろうと思う。早速善後処置に就いて相談するために、主だった人々を呼んで協議した。青木・芝辻の両助役、田村・山田(建築)・山田(内記)各課長、朝倉電気局長、森田通訳、水谷横浜港調査会幹事、能美・大野両水道技師など十人余の人々であったと思う。地震の時からの応急的な諸処置を聴くと共に今後の救急策について協議し、ようやくにして市役所らしい市役所が出来上がった。しかしまだ秩序といって何等の回復を見ず、人心は却って悪化せんとしている程で、市役所の事情も只罹災民の救急に就いて全力を挙げて、如何なる微細な生活資料に対しても供給の方法を講じていたので、事務は混乱と複雑を免れなかった。一時市民の勝手であり台所であった市役所が、一家庭に於ける台所あるいは勝手のようにごたごたしているのはやむを得ないことであろう。

それにしても予はこの瀕死の横浜をみて『もう駄目だ』とは思わなかった。しかしただ驚愕惜しく所を知らなかった。かの壮麗な横浜市を見て郊外に出て、再び帰って来た時に、その市街は『無くなっていた』のだ。『無くなるところ」を見ていなかっただけに、感慨は更により深いものがあり、ただ『驚いた』と称するより外に適当なる言葉も見出し得なかった。

印象深き諸施設

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二日から横浜船渠会者の倉庫に在る米を初めとして、市内各方面に行われた略奪に就いては、鮮人襲来の流言蜚語と共に、人心を悪化する重大な二問題であった。鮮人襲来の如き荒唐無稽なる流言蜚語が行われたのは、予が平塚を出発した当時からであった。予はそれを聞いた時、淳厚単純なる地方民が徒らに宜伝を生んだ虚構の説であるを感じ、智的洗練を経た都市人の一笑に黙殺し去ったものであろうと思っていた。勿論横浜市がこの不祥なる蜚語の源泉であろうとは感ぜず、またこれがために全市が地震以上の無秩序と混乱に置かれていようとは夢想だにもし得なかった。

略奪とこの蜚語とはますます秩序を撹乱し、人心を悪化せしめ、その底止する所を予想し得ないので、予は県庁に時の安河内知事を訪れ「この二問題は早く如何にかして解決しなければ、さらに重大な危機を招来せぬとも限らない。その流言蜚語の如き、自らの影に恐れて脱がれ得ざる滑稽さに似てはいるが、その滑稽事も放置すればますます人心は悪化し、秩序は滅裂し、底止するなきに至るであろう。この際急遽戒厳令を布いて貰う方法を講ぜねばなるまい」と提言した。しかるに安河内君は「戒厳令を布いても警察権が破壊された今、執行能力が無いから駄目であろう」と否定されたが、予は戒厳令の布かれただけでも人心を安定に導く一つの方法であると感じたので、極力これを主張した。知事はどこまでも反対したが、情報の判明と共に、これと前後して政府が戒厳令を布き、横浜もそのうちに含まれている事が判明したため、問題は自然に消滅した。

また略奪の問題に就いても、知事は『防御力がない』というので、予も方策なく、遂に軍隊の来援するまで放置することになったのだ。しかし予はこの非常に際して、略奪の如きもその物資は『近隣相寄って共に生活の資となすであろう』と思っていたので、この行為の放任は、この考えに依って僅かに慰めていたが、今から考えて見ると、余り人間性を美しいものと見過ぎていた場合も無いではなかった。

船に在る物、市の内外に在る物を通じて、市民が時に喰うものぐらいは足りるであろうとは想像していたが、殆んど全市の物資が灰儘に帰したといって良い横浜に、全市民を留まらしめて置くことは危険極まりなきことである。困る人間は総てこれを市外に流出せしめて、一時を安定せしめなければならない。即ち東京・横浜・清水港を連絡するために軍艦を出すことを海軍に交渉し、市民を流出せしめて、市内の消費を減ずる籠城の政策を採ったのであった。かくて一時四十五万市民が十八万に滅少したのは、この政策から出た影響であらうと感じたが、ここに困ったことが出来た。それは後の話であるが、ここにも一言して置きたい。この現象は勿論この政策のためと称することは出来ない切離された問題なのであるが、観察の一面からすれば、この政策のためとも言い得るもので『横浜はもう復興しない、永久にこのままの廃市となろう』という考えが有力者達を捉えたことである。この考えが財界の巨頭の間に伝わり。横浜を去ろうと云う者が続出した。市民が流出することは市を救うために適当な方法であるが、横浜復興の先駆となるべき有力者が横浜を去ることは、これ実に横浜を亡ぼすことである。要するに将師なくして籠城は無いいであるからだ。ここで予は『横浜は必ず復興する、また復興せずにもいないし、させずにも置かない』と決心を語ると共に、こうした思想が市民生活の将来を脅かし、現在の帰趨に迷い、人心は悪化するのであるから、予の意のある所を市民にも伝えるべく、『横浜は必ず復興する』というか告論を発表したのであった。

混乱の日は何時までも続くかと思われた。その中に在って全国各府県こと大阪を中心とした有力なる府県には頻々として応援依頼の電報を発し、日用物資の供給を依頼した。海軍が来ると共に各地の情報も伝えられ、戒厳令の布かれたことも判かり、奥平少将が陸兵を率いて警備の任に当たった。しかしそれでもまだ軍隊は不足している程だったので、予は更に増兵を要求すべく知事と少将に相談したが、少将は「自ら警備隊司令官でありながら、増兵を要求することは、自らの任務を尽くし得ないようなもので困る」と云い、知事も増兵に反対であったので、その時はそのままになって仕舞った。しこうしてそれは総ての間題がこの三名の協議に依って行なわれ、宛然たる奥平・知事・市長の三頭政治の観を呈するに至った。

あれは確かに四日であったと思う、前橋からの急援自動車が二子を渡って横浜に入った、これが急援の劈頭であったと思う。神奈川の築地橋が破壊されているため、工兵隊に依頼して応急の仮橋が出来て、自動車が通れるようになり、徒歩に依らずに東京との往復がついた訳で、政府との交渉がようやく意のままに出来ることになったのである。

予は直ちに港内の船舶からガソリンの供給を受けて、平沼市会議長と二人で上京した。首相・内相・陸相・参謀総長・福田戒厳令司令官、また予が倫敦に行った頃、英国で知合になった小林少将などにも会って、増兵の事を陳情した。すなわち

横浜の現状は混乱その極に達している有様で、秩序回復のためには到底奥平少将の率いる兵員では不足している。横浜市は東京と離れているために、皆東京に捉はれて横浜を顧みないのではないか。横浜は内に四十万の市民を擁して、その生活を脅かされているばかりでなく、開港場であって諸外人も多く駐在している。このままに放置して置いては国際的の大問題を惹起せぬとも限らない。

と力を極めて説き、遂にその夜のうちに騎兵その他が派遣されることになったのだ。この機会に感謝の意を表したいのは、平沼市会議長に対してであって、君が震災のためかの悲惨な家庭的な不幸・打撃に遭われながら、なお市のために努力せられたことである。

告諭と新聞紙の発行

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『横浜は駄目だ』とい声は東京から起こったらしい。鉄道省の者が地震と同時に横浜を視察して、『横浜港は全滅した。鉄道も破壊されて回復の見込はない』と復命したという話で、鉄道の開通が遅れたのも、横浜壊滅の議論が横浜市自身の巨頭連に盛んになったのもこの辺からの原因が多かろう。一人の軽率な言葉が重大な結果をもたらし、一人の偶然の噂が瀰漫して、流言蜚語となることは、既に鮮人騒ぎで痛ましい経験をしている。これもその類い一つであろう。しかし自分は『港が駄目になった』とはは思わなかった。横浜港は焼け残った残骸のみでも、二三流の港に比較したならば、立派過ぎる程の施設なのだ。その残骸の物資のみでも非常なものだ。港が大丈夫である限り横浜は復興する。盛んに市外へ流出している市民も、市内の秩序回復と共に必ず戻って来るものである。市外に脱がれて、他地方の土着民と競争し得るものでもなく、また住馴れた横浜の土を忘れ得るものでないからである。しかしこの『横浜は駄目だ』という一種の不安は、どうにかして除かなければならない。予は横浜市会の意思を以て『横浜は必ず復興する』と表示して貰いたかったので、確か第一回の市会の時であったろう、これを諮って見た。しかるに市会にはそのような権限はなく、またそのようなことを議決するのは違法であるとの議論があって,遂に議決に至らなかった。予の視る所では、かの非常時に際して法理論も何もないと思ったが、しかし市会で議決しないのであるからやむを得ない。したがって前にも話した通り、市長の告諭として横浜復興の意思表示したのであった。

純然たる無警察の状態、痛ましいばかりの流言蜚語、想像は更に想像を生む、無秩序は更に無秩序を生む、噂は更に噂に輪を掛けて走る、悪化せる人心は更に悪化に導かれて行く。当時もし真実を伝える一つの新聞紙があったならば、そしてその新聞紙が市民に真実を語ったならば、流言も少なく、人心の悪化もあれ程ではなかったであろう。人心の安定を得るためには、流言蜚語の荒唐無稽であることを知らせねばならない。市民生活の安定のためには、市の行政を知らしめねばならない。食糧・木材・衣類の供給並びに配給、軍隊の配置、警察力の回復、通信交通の状態等、当面の問題と共に、更により高い精神的な諸問題あるいは復興の御詔勅、 皇族を始め大臣方の視察あるいは横浜市の復興計画を伝え、あるいは政府の方針を伝えるために、すなわちより高い市民としての健全なる思想を持たせるために、何等かの報道の機関を得ねばならない。種々攻究の結果、『横浜市日報』[1]を発行する事になった。品川辺りの小さな印刷屋で、不備な活字を以て発行されたものであったが、これがために、この不備な印刷屋のために、市役所と市民との連絡が出来、諸新聞[2]の復興するまで、非常に有力な機関をなしたのであった。

復興の一歩へ

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横浜は何と云っても港を中心にせねばならない。それが先ず政府へ『横浜港は全滅した』と伝えられたことは大打撃である。

東京市が震災と同時に、東京市の船舶の連絡に、横浜港を見限って、芝浦に応急の仮施設を行ったことは明瞭なことであった。予は横浜港だけは大丈夫であると思っていたが、しかし海底が如何に変化しているかに就いては、杞憂なからざるを得なかったのである。で、警備のために入港した軍艦山城の高橋大佐に依頼して、港の調査をして貰った。その結果、港は完全であって、地盤の低下に因ってかえって水深を増した程であるというので、横浜復興の確信は更に確信づけられるに至った。

丁度十日前後の頃であろう、東京を始め全国に遷都論さえが戦わされ、人心はますます不安に導かれたため、『帝都復興の詔勅』が仰せ出されるに至り、帝都復興計画は樹立されようとしていたのである。『帝都復興の中に横浜も含まれていると思うが、もし含まれていないならば含めて貰わねば困る』という横浜市の要求と、『横浜港が完全である』とは聞いてもなお不安がりながら、それでも芝浦よりはましであらうから.......』と内務省が原田内務技監・安藝博士などに港の調査をさせたのとは殆んど同時であった。原田技監の調査の結果、横浜港の完全であることが裏書せらるるに至り、内務省も横浜復興に力を注ぐようになった。すなわち横浜に対しては『港第一』の根本方針を持って進んだことが明白である。したがって山本首相は『帝都復興計画の中には横浜も含まれている』と声明した。しかし横浜市としてはなお不安であったのである。

震災前既に隠退を声明した原富太郎君が、この震災という全市に繋る大災厄に遭うや、予の請を容れて敢然横浜市復興会を組織された。そしてその会の一番最初の運動は『帝都復興には横浜市も含まれねばならない』というのであった。また横浜市会は何れも簑笠・尻端折りの姿で、仮市役所の屋上に露天で開いて、矢張り『帝都復興には横浜も含まれねばならぬ』と決議した。

機運はかくの如くにして動いたのである。首相の声明にも更に不安を感じた吾々は、復興会長・商業会議所会頭・市会議員・市長など上京して陳情した。これは井上大蔵・犬養逓信・山内鉄道の三大臣が視察に来られた二日ばかり前であると思う。予算の陳情は強硬を極めたもので、『御詔勅に依る帝都復興という中には勿諭横浜市をもインクルーヅしているものと察せられる。しかし政府はこれに就いて如何に考えられるか。横浜は東京市の関門であり、横浜をも包含する上に於いて、初めて帝都をなすものであろうと思われる。横浜市民は、政府が横浜を見るに軽く、横浜は復興せぬのではないかとの不安に脅えている。既に政府も横浜市をインクルーヅした帝都復興であると声明するからには、不安を除くためにあるいは御詔勅に依るか、それが出来ねば総理大臣の宜言に依るか、何れにしても文書を以て内外に声明して貰いたい』というのであった。後藤・犬養・田などの諸大臣はこの陳情を以て尤ものこととして、その旨を諒せられたが、肝腎の総理は『考慮して置こう』に止まった。しかもこれが効を奏して、横浜市の復興計画は正にその第一歩を踏出すに至ったのである。

その他のこと

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一度震災の報が各方面に伝わると共に、物資に、金品に、各方面の救援は殆んど至らざるなしと称しても過言ではなかった。しかし単にそれのみではなお完全は謂われないので、市自からも救済の方法を講ぜぬ訳には行かなかった。しかしこの救済に全部市費を投ずることは勿論出来ないし、又市自身が震前に銀行に預けた金が多少はあったが、その回収など夢想すべくもなかったのである。で、予は『救済に対して市費を投ずることは市の財政が許さない』と交渉の結果、後藤内相は『全部国から出す』という声明を与えられたので、非常に順序立った救済を行うことが出来た。しかしそのうちに総ての手続は県を経なければならないことになったので、敏速を必要とする場合、非常に困難を感じた。この時大に役に立ったのは正金銀行の百万円の寄附金で、これを一時立替払いとするの方法を執ったのであった。

この機会に於いて横浜市が更に感謝の意を表明せねばならないのは、各方面の救援が、殆んどそれのみに依って完全に全市の応急救護を為し尽くし得た程に甚大なものであったことである。バラックの建設、土木用具の供給、米穀・衣類の寄贈、金品の義捐等至らざるなく、更に精神的には復興に対し鼓舞声援至らざるなき状態であった。地球全面、人類の足跡ある所、各国体から、各個人から寄せられたこの同情は、横浜市民の混乱せる生活を秩序立で、その帰趨の復興に在るを知らしめた。言い換えれば、復興の基礎をなしたものである。これに対して横浜市民は堪へ得ざる程の感激の心を持って永久に感謝の意を表朋するものである。

なおこの機会に一言を要するのは、復興事業に於いてである。震災と殆んど同時に、阪田都市計画局長の逝かれたことは、横浜市に取って大きな打撃であった。予の如きも『横浜市が帝都復興事業の中と含まれる』と決定すると共に、横浜市を如何に都市計画すべきかに困難したのである。殆んどその見当さえも著かないので、内務省と交渉の結果、牧博士の来援となり、博士はその蘊蓄を傾けて、理想の横浜市街建設に着手した。その建設案が市長案として作製を終ったのは、十月半ばであったよう思う。その案の完成に要する予算は約五億円とされた。後藤内相は『この機会に理想を実現せしめねばならない。先ず財政の如何を顧みるよりも、理想の計画を樹立するに在る』と言われていた程で、予も横浜市五億という計画の如き、吾国財政の見地からした無理ではないかと感じはしたが、もし財政が許すならば、この機会にこの理想を実現せしめるのは、為政者としてなすべき所であると思っていた。その後各機関の審議を経、政変もなお幾度か到り、更に横浜市の内にしては、幾多人事の変換もあり、ようやくにして、復興事業の確立を見るに至った。その予算は総額なお一億を超えるであろう。

かくて横浜市は極めて多幸なる前途を予想せられつつ、復興途上の努力に日もなお足らざる有様である。

今後の横浜市とその市民是

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悲痛な試練は物質的に、同時に精神的に、人類生活の行進途上に於ける一つの画線であり、一つの転機である。あるいはまた一つ行進曲であるとも観じ得られるのである。震後しきりに宣伝せられたとことの『転禍為福〔禍転じて福と為す〕』なる言葉は、かの悲痛を極めたる試練に因る充実感からほとばしり出た叫びに外ならない。既に人々の心に潜在するこの覚悟は、期せずしてより向上された生活様式の具現に高調された精神を以て、より向上された生活をその内に盛ろうとしている。かく真摯と感激とに充実した生活態度は、人類史上に於いてすら稀に見る所のもので、ある国家を建設しようとする民族の惨苦の歴史に現われて来る『偉大なる記録』に髣髴たるものがあると思考される。

我が横浜市民はこうした惨苦にして、しかも真摯である所の生活態度に依って。復興の第一歩を踏み出したのである。

開港以来数十年の星霜と、何百万かの人々に依って建設せられた横浜には、横浜としての都市と、その都市に相応しくも盛られた魂とを持っていた。一朝の災変はこの整善なる市街を崩壊し焼き尽くして、廃墟の巷と化したが、しかしながら開港以来築かれた魂までも失うことは無かった。その偉大なる精神力は、約一億の巨費を以て建設される新しい横浜の市街に盛らるる魂となって、伝統の美しさと新精神の真実さとを誇るに至るであろう。

予は我が横浜市の過去の伝統と、歴史に於いて総ての中心が『港』に置かれた如く、今後も横浜を中心としたる施政経営が行われなければならないと痛感する。今更言葉を改めるまでもなく、横浜は首都の玄関である。東京市は横浜市を含むことに依って、帝都を称し得られる訳であって、横浜港を除外したならば、それは帝都として完全なる都市形成をなすものでない。既に震災復興の御詔勅は『帝部の中に横浜市も含まれている』と拝察すべきである。横浜市が如何に重要なる帝都の一部局を成すものであるかは、これを以て知られ、横浜港の経営が如何に重大なる事業でなければならないかは、これを以て察し得るのだ。

しかるに最近に於ける東京市の『東京築港論者』はますますその主張する東京築港を高調して止まない。思うに震後多数船舶の輻轃と京浜連絡の杜絶に際して、横浜港全滅の流言が行われたために、政府は一時の応急施設を芝浦に施し、無理押しにも船舶を出入せしめたので、論者は『この経験は充分に東京築港の可能を証明したものだ』と称するのであろう。が既に横浜は天然に恵まれたる良港である。如何なる巨船も悠々遊弋(ゆうよく)、到底東京沿海の水深浅きものの比ではない。しかしながら東京築港の問題は全然否定せらるべき問題でなく、横浜港が帝都の玄関としての機能を何処までも発揮し得られない場合には、必然的に肯定され、また実現せらるべきものであることは言うまでもない。すなわち此処に完全なる横浜港の成備を考えねばならぬことになる。

震前に於いて、予は横浜港調査会を組織し、横浜港の完璧を期すべく理想案の作製と、その具現の方法を策すべくこれに臨んだ。中途にして大震災に見舞われたが、略々成案を得るに至り、その諸案は今後横浜港に最も必要な諸施設であることを痛感している。その具現のためには、横浜市民は勿論のこと、帝都の咽喉をおさえる国港として、東京市民も国民も一斉に相互協力して努めねばならないのである。既に復旧事業は着々として進歩を見つつあるが、より完全なる幾多の施設は、あるいは速かに、あるいは近き将来に、是非着手されねばならぬ。焦眉の問題としては、通船の市営、船舶給水の市営、海員ホームの市設などが計画されている。また船舶へ物資を供給するため、市場の如きも計画されねばなるまい。これらは皆寄港する船舶に満足を与え、長き海上生活者のために慰安を与えるもので、是非実現を要するものである。かくて現在の規模の下に完全なる港湾施設が出来、更に進んで港の拡張と後方設備の建設があるのだ。すなわち鶴見河口までに至る広き海面を含んで一万萬五千噸級、五二隻の船舶を繋留し得る第四期計画がある。もしこれが財政的関係から速に実現せぬとしても、この計画のうちの防波堤のみは、近く実現の可能性があり、港内の面積はこれがため現在に三倍するのだ。更に京浜運河の開削は現在の不備なる京浜海上連絡を改めて間然する所なく、東京築港に巨費を投ずるの愚を敢えて行わしめざるに至るものである。又一方には現在の如く横浜港の後方地帯と陸上連絡の不備のため、東北・北陸地方の貨物の如きは両国駅に至り、ここより艀回漕に依って横浜港に至る如き、単なる一例には過ぎないが、改良の必要を知るに充分である。横浜・大宮間直通線の新設、鶴見・品川間貨物線の増設、又は京浜急行電車の敷設等、数えれば幾多の改良が行われねばならない。完全なる港と誰も、後方地帯の設備がこれに伴わざれば、充分にその機能を発揮し得ないのは当然のことである。かくして完全なる国港は出来上るのだ。横浜市民はこの基調の下に世論を作興し、政府を鞭逹して、目的の貫徹に努めねばならぬ。この覚悟と決心とを欠いたならば、横浜は新しき横浜市の建設どころでなく、単なる『船つき場』に堕ちぬとも限らないのだ。

工業の振盛も、商業の繁昌も、都市計画に依る諸施設の都市形勢の整美も、横浜港の消長の投影であることを知らねばならぬ。

悲痛な試練の後に、市民は今横浜市建設の大業をなしつつある。この機会に於いて、予は市民に提言したい。『港第一』の言葉は、どこまでも我が『市民是』でなければならない。

(大正十四年一月震災誌の編纂に臨みて)

脚注

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関連項目

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