東洋歴史辭典 (小竹文夫) あ行

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愛琿(あいぐん)条約[編集]

一八五八年露清間に結ばれた条約。清が太平天国の乱やアロー号事件による英仏両国との紛争に悩んでいるのに乗じ露国のムラヴィョフ(Muraviev)が黒竜江下流に進出し清に迫って奕山(えきざん)との間に結んだもの。これによって露国は黒竜江を国境としてその以北の地域を譲らせ、更に松花江等の航行権を得た。

アクダ(阿骨打)[編集]

金を見よ

アクバル(Akbar)[編集]

ムガール帝国第三代の王。治世四十年の間に領土を南方デカン高原を除く印度の大部分と、ベルチスタン全土に拡めた。また法制を整え、交通を開き、学芸を保護する等大いに治績を挙げたので、アクバル大帝と呼ばれた。(ムガール帝国参照)

アジャンター(Ajantā)石窟[編集]

印度のデカン高原の北部、ボンベイの東南にある石窟で無数の仏像彫刻や壁画が残っている。中世印度芸術の一大宝庫でその制作はグプタ朝(Gupta 三二〇-五二〇)に始まり七世紀頃までかかつた。仏像彫刻は形式をガンダーラ式、手法を印度式に取り超越的な印度芸術を優れた技巧で現わし、壁画は特色ある印度画の陰影法を用い、東洋美術の極致を現わすものといわれる。

アショカ王(Asoka 阿育王)[編集]

印度のマウルヤ(Maurya 孔雀)王朝第三代の英王(前二七二-二三二)ほぼ現在の全印度を統一し王朝の最盛期を現出した。深く仏教を信じ内政に意を用いると共に国外諸地方に布教指導者を派遣し仏教の興隆伝道保護に努めた。王の救建になる仏教伝道の石柱碑が今日もなお各地に残つている。(マウルヤ王朝参照)

アダム・シャール(Adam Schall)[編集]

明末に中国に来たドイツ人の耶蘇会宣教師で、中国名は湯若望という。明朝の信任を得て布教を行いつつ、同時に暦書の改訂、大砲の鋳造を行つたが、明亡び清となるや、北京の欽天監正(天文台長)に任ぜられ、天文・暦書に関し幾多の貢献をした。

アッバス(Abbasm)朝[編集]

マホメッドの伯父アッバスの玄孫アブ アッバス(Abul Abbas)が七五〇年にウマイア(Umayya)朝を倒して建てたサラセン帝国の一王朝。間もなくバグダートに都して東カリフ国となり、この後コルドヴァーを中心とした西カリフ国と対立した。歴代、文学・技芸を奨励したのでバグダートは当時の文化の中心となり大学も設けられていた。後、次第に衰退し蒙古のフラーグの西征の際亡ぼされた。(一二五八)唐ではこの国を大食とよんだ。(サラセン帝国参照)

アフガニスタン(Afghanistan)[編集]

中央アジアのインド・イランの間にある国。古くはペルシア・サラセンの支配下にあり、十九世紀のアフガン戦争の結果イギリスの保護国となった。第一次大戦後、独立運動が盛んになり、一九二一年イギリスはその独立を承認した。

アヘン(鴉片)戦争[編集]

アヘン問題を中心に一八三九-四一年英清の間に起つた戦争。英国の東洋貿易は中国に関する限り十七世紀以降十九世紀の初に至るまで全くの片貿易で中国から持出される茶と絹に対し英国からの代償品はほとんどなく、その差額は銀で支払われたのである。この額はすこぶる巨額で中国に銀が豊富になつたのもこれが一大原因であつた。それでこの負担を苦痛とする英国が貿易のバランスを取るために考え出したのがアヘンである。十八世紀の中頃からその輸入が始まつたがすこぶる中国人の嗜好に合したちまち全国的な風習となつて需要が急増した。清廷では道徳衛生に害ありとしてその輸入を禁止したが(一八〇〇)需要のあるところ密輸を止めることができず、遂には茶と絹の合計額をも越えることになり逆に中国から銀が流出するようになつた。このため一八三〇年代には銀価が騰貴して銅銭が下落し一般の生活が強く圧迫されるようになつた。ので、アヘン密輸は中国にとつて真剣な問題となり、一八三九年林則徐が欽差大臣として広東に派遣され英国商人所有のアヘンを没収したのである。そこでかねて貿易の自由と合法化を要求していた英国はこれを機会に軍艦を派遣し遂に兩国の開戦となつた。しかし優秀な英軍の火器の前に清軍はたちまち粉砕され、この結果一八四三年南京条約が結ばれた〈南京条約、林則徐参照)

アルタン(俺答)汗[編集]

ダヤン(達延)汗の孫で西蒙古中亜及びチベットを経略しその威を振つた。また中国にも侵寇したので明は順義王に封じて(一五八〇)和を結び、その居城を帰化城と名づけた。チベット経略後、喇嘛教を信奉した。(ダヤン汗参照)

アロー(Arrow)号事件[編集]

一八五六年、広東に碇泊中のアロー型英国船を犯人捜査の目的をもつて清国官憲が臨検し英国旗を下したことに端を発し英清両国の問題となつた事件。この船は中国側の主張する如く中国の海賊船で、ただ香港政庁に登録していたため英籍船舶とされていたに過ぎず、この点英本国議会でも香港政庁の抗議を不当としたが、英国旗侮辱の点で強硬態度をを取り、これを機会に南京条約以後もなお各開港場における清国側の排外的態度を改めさせんとし、仏国と共に軍隊を派遣して英仏聯軍の役を起すに至つた。(天津条約参照)

アンコールの遺跡[編集]

クメール建築の代表である。大体九世紀末と十二世紀初が一大隆盛期であり、前者はアンコール・トムによつて、後者はアンコール・ワットに代表される。アンコール・トム(Angkor Thom)はカンボジア王ヤシーヴァルマンのの創建に係るといわれ、バイヨンの伽藍は有名である。アンコール・ワット(Angkor Vat)はその南に位し、スールヤヴァルマン二世の創建といわれる。ヴィシヌの神祠であると共に同二世を祀つたものであるが後に仏寺になつた。アンコールの彫刻はブラーマン教と仏教との両教の教典から取材されている。この遺跡は密林の中に忘却されていたが、十六世紀ポルトガルの宣教師に発見され、十九世紀中葉仏人ミュオーにより探検紹介された。

安南[編集]

古く交趾といわれ、秦代に象郡が設置されて以来、中国の支配するところで唐代には安南都護府が置かれた。十世紀頃から中国の支配を離れ呉・丁・黎などの王朝を経て李朝に至り国を大越と称した。ついで陳朝になり蒙古軍を退け黎朝には宿敵占城を討つて国勢一時振つたが、阮鄭二氏の権力争いから内乱が起り結局フランスの援けによつて阮氏の一族が阮朝を立てた。この独立期間にも中国との関係を絶つたわけでなく常に朝貢を行い、その冊封を受けるなど藩属国状態で文化も中国風であつた。しかし阮朝以来フランス勢力が漸次強くなり一八八二年その保護国となつた。これに対し清朝はその宗主権を主張したが清仏戦争(一八八四)の結果またフランスの保護権を認めざるを得なかった。

安禄山[編集]

もと唐の営州の胡人ママ、機敏にして勇略あり、幽州節度使の部下として軍功をたて、後巧みに中央に取り入つて玄宗の殊寵をを受け、平盧・范陽・河東の三節度使を兼ね強大な権勢をもつに至つた。玄宗の晩年、唐の綱紀が紊乱し軍政が弛壊したのに乗じ、三鎮及び奚・契丹の兵十五万を以て兵を挙げ洛陽を陥れて大燕皇帝を称し、翌年長安を侵して玄宗を四川へ走らしめた。しかし内訌によつて間もなく暗殺され、その軍は部将史思明により受けつがれたので、この乱を安史の乱(七五五-七六三)という。


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イスラム(Islam)教[編集]

七世紀にマホメットによつて創始された宗教。マホメット教とも呼ばれ中国では回々教、回教又は天方教、清真教という。アラーを最高とする厳粛な一神教でコーランを経典とする。広くアラビヤ人に信仰を得、サラセン帝国時代には広く各地に伝つた。印度にも流布し又唐代から中国にも伝つた。現在、アラビヤ、アフリカ北部、トルコ、ペルシャ、中央アジヤ、印度、中国におよぶ広大なイスラム教圏を形成している。(マホメット、サラセン帝国参照)

一条鞭法(いちじようべんぽう)[編集]

明の嘉靖末から万暦初年にわたつて行われた税法。徴税を簡便にし田家の収入を確実にするため従来の田賦(土地税)と徭役(ようえき)の二つをママにして銀で徴取したもので納税者は土地所有額と丁口数に応じて額が決定された。従つて直接労働に服する徭役ははなくなり、貨幣納となつたわけである。この税制は初め江南、浙江地帯に施行され、後、北方にも及んだ。

イリ(伊犂)条約[編集]

一八八一年清露両国間に結ばれた条約。十九世紀以後、露国はしばしばアジアに侵入し遂に伊犂地方を占領したので清はこれに抗議しペテルスブルグで本条約を結んだ。内容は霍爾果斯(こるこず)河を両国の境とし(伊犂西部を露国へ割譲)新疆における露国の商業上の特権を承認したものである。

イル(伊児)汗國[編集]

十三世紀イランに建てられた蒙古の一汗国。チンギス汗の孫、旭烈兀(ふらぐ)がアッバス朝のカリフ政権を倒し、アゼルバイヂャンのメラガ(Meraga)に都してこの汗国を建てた。一四一一年チムールに滅ぼさる。

殷(いん)[編集]

夏王朝につぐ中国古代王朝。夏は今日のところまだ伝説の域を出ないが、殷は殷墟(殷墟参照)の発掘などで、史実が大分明らかである。殷というのは後に殷に都したため周人がつけた名で自身は商と称した。大体に黄河の中下流一帯に拠つた国で始祖湯王から十七世、三十一代約六百年間続き紂王の時周にほろぼされた。宗教的原始信仰にもどずく卜占政治が行われ(甲骨文字参照)上流階級では青銅器が、一般には土器・木器が使用され、東南太平洋から華中・華南までも交易圏のあつたことが考古学的にしられる。

殷墟(いんきよ)[編集]

河南省の安陽県小屯村に残る殷代の郡城址。一八九九年に発見され、一九二八-一九三六年の間に、前後十五回発掘された。この結果、「書経」や「史記」に伝えられた殷王朝の存在が実証され、甲骨文・青銅器・土器・子安貝・象牙等の夥しい発掘遺物は、殷代の政治・思想・生活・交易圏などを明かにするにいたつた。大体前一五〇〇-一二〇〇年頃にわたつて存在した王朝と推定される。(殷、甲骨文字参照)

インダス(Indus)文明[編集]

アーリア人の印度侵入以前インダス河流域にさかえた先住民族の文明。前三千年前後と推測されインダス河畔のモヘンジョ・ダロ(Mohenjo-daro)に当時の都市の遺址がある。下水・舗道・浴場・煉瓦民家等をもつ総代な規模は誠に驚くべきで西方シュメル文化とも関係があるらしい。農作物には小麦・大麦等があり、家畜には牛・羊・山羊・水牛・象・鷄などがあつたことが分り彩文土器や金・銀・銅・宝石類でつくつた装身具・武具・紡錘車などもあつた。

インド[編集]

中国では古く天竺(てんじく)、身毒などと呼んだ。ドラヴィダ族が先住民であつたが前二千年乃至千五百年頃イラン系アーリア人がパンジャブ地方に入り次第にドラヴィダ族を駆逐して中印度を占拠した。釈迦が出た頃ガンジス河流域にマカダ国があり漸次領域を拡め阿育王の時には南部を除いて殆んど全印度を統一した。その後大月氏に併合せられたが、グプタ王朝の時また印度の大半を統一し更にアクバルが出てムガール帝国を建設するや、十六世紀から十七世紀に亘って大帝国を維持した。十七世紀より西方の東漸が始り葡萄牙・西班牙に次で和蘭および英仏二国が進出したが十八世紀に英は仏をおさえてインドを英国王の直轄地とし、更にヴィクトリア女王の時印度女帝を兼ねて全く英国領となつた。然るにインド国民は英国の政策を快しとせず、今世紀以来国民会議派のガンジーが中心となつて反英抗争を起し第二次世界大戦後一九五〇年遂に独立して印度連邦とパキスタンの両共和国を作った。(ムガール帝国、東印度会社、ガンジー・インド国民会議、印度連邦等参照)

インド・アーリア人(Indo-Aryans)[編集]

今日のインド人の祖先。もと中央アジヤの草原地帯で半農半牧の生活をしていたアーリヤ人が前一千年頃インドの西北に侵入しインダス河の上流パンジャブ(Panjab)地方に農耕を営んで定住したもの。その後漸次インド各地に発展しインド民族の主流となる。アーリヤとは彼等自身の呼称で貴い人の意味。同じアーリヤ人がペルシャ方面に入つたのがイラン人で、アーリヤもイランも同じ語源から出た言葉である。

インド国民会議[編集]

一九世紀の末インドに作られた一種の政治団体で、毎年各州の主要都市を巡り大会をひらいて施政改善を論じたので、民衆の政治的教養が高まると共に会議員の勢力も増大してきた。これが後の国民会議派となるのであるが、会議派内では漸次急進派が指導権を握り今世紀の初め以来、各種のスワラジ運動を展開してイギリスに反抗した。これに対しイギリスは行政に印度人の参加を認める等種々の緩和策を取つたが、一九二〇-三〇年にはいよいよ反英運動が激しくなつた。一九三〇年からガンジー主導の無抵抗主義的闘争方針に従い独立運動と英貨排斥を全国的に実行した。イギリスはガンジー以下国民会議派の首脳を捕え円卓会議を開いたがなんらの成果もなかつた。しかしこの頃から会議派とイスラム教徒との内部的対立が激化し独立運動もはかばかしい進展がなくなつた。とくにイスラム教徒はヒンズー教徒の国家とは別に彼等自身の国家すなわちパキスタンを作ろうとし、統一した印度の独立を主張する会議派と事毎に対立した。今次大戦後一九四七年に独立が承認されたが、インドとパキスタンに分れたのもこの両派の対立による。

インドネシヤ(Indonesia)共和国[編集]

太平洋戦争中、和蘭領インドネシヤは日本から名目的な独立を与えられたが一九四五年日本軍敗退と同時に自ら独立を宣言しスカルノを大統領に選出した。しかし和蘭はこの独立によつて大打撃を受けるので武力弾圧を図りインドネシヤ軍と各地に抗争したが国際連合の調停およびインドネシヤの独立を支援する世界の輿論に押され一九四九年遂にこれを承認して正式に独立した国家。

インド・ヨーロッパ(Indo-Europa)語族[編集]

整然たる文法をもつ言語を使い、もとコーカサス地方から各地に広がつたと想像されるヨーロッパ系種族で大体次のように分類される。
西方系 スラブ系 ロシア人・ポーランド人・ブルガリア人
ラテン系 イタリア人・フランス人・イスパニア人
チュートン系 イギリス人・ドイツ人・オランダ人
ギリシア系 ギリシア人
東方系 インド人・ペルシア人・ヒッタイ人等

(ウラル・アルタイ語系参照)

インド連邦[編集]

インドにおける独立運動は第一次大戦後いよいよ盛んとなり英国との間にしばしば衝突を起したが、第ママ次大戦が起るや英国は印度の援助と協力を必要とし遂に戦後の独立を約束した。しかしヒンズー教徒と回教徒との間には信仰の相違からかねて対立があり、独立の形式についてもガンジーを主とする国民会議派が統一インドの独立を主張するのに対し、ジンナーを中心とするイスラム教徒連盟は別に回教徒だけのパキスタンを作ることを主張した。英国は初め統一案に賛成であつたが、イスラム教徒連盟の反対にあつて印度全民衆の自由にまかすこととし、かくて一九四七年八月十五日インドの独立と共にインド連邦とパキスタンの二国が出来上つたのである。独立後、連邦の首都はニューデリーに置かれ旧印度帝国の副王マウントバッテンが臨時総督に就任(翌年印度人ラジャゴパタが正式初代総督となる)ネール首相以下の新内閣が成立した。(インド国民会議、ガンジー参照)

陰陽五行説[編集]

宇宙および人間社会のあらゆる現象を陰陽の二原理の消長から説いたのが陰陽説であり、この影響を受け万物の生成消滅を木・火・土・金・水の五大要素の変転から説いたのが五行説である。共に戦国時代に起り秦漢時代に盛んであつたが、この思想は後世まで中国人の心に深く浸み込み、中国の医学や兵学など一般学術にも影響を与えた。

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ウイグル(回紇)[編集]

回鶻・長兀児等とも書く。蒙古・トルキスタン方面に住んでいたトルコ系の遊牧民族。古くは匈奴の北方に居たらしいが、唐代突厥の勢力が衰えると。これに代つて約百年間蒙古高原を支配した。しかしキルギスや唐の侵入によつて四散し、その一部は東トルキスタンに移住してイラン系部族と混血してこの地方住民の主流をなすに至つた。

ウエラ(瓦刺)[編集]

明代西蒙古にいた部族。オイラートとも呼ぶ。十五世紀の中頃、エセン(也先)が出るに及んで内外蒙古を征服し頗る強力となつた。(エセン参照)

烏桓(うがん)[編集]

烏丸とも書く。漢代に東蒙古に居た東胡が匈奴に滅ぼされて南北二派に分かれたが、南方熱河地方に拠つたのを烏桓と称する。魏の曹操に滅ぼされた。

烏孫(うそん)[編集]

漢魏時代に西域に居たトルコ遊牧民。匈奴の西方に住んでいたが、漢が匈奴に対抗するため烏孫と結ばんとし史上有名になつた。

ウパニシャッド(Upanisad)[編集]

古代印度のヴェーダ文献の一。ウパニシャッドとは「師に近く侍座して奥義をきく」という意味の語で、梵書の森林書に付属して最後の章をなしているもの。哲学的問題を神秘的譬喩的に解釈したもので、宇宙の本体「梵」と人間の本質「我」との一致を説き輪廻の束縛から解脱すべきを説いている。

ウマイヤ朝(Umayyad)[編集]

サラセン帝国第一期の王朝(六六一-七五〇)オスマン家のウマイアが、四代教主アリを討ってカリフとなりダマスクスに建てた。この期におけるママの発展は著しく、カルタゴ・西ゴートを滅し、東ローマにも迫つたが、フランクとの戦いで大敗し、次いで七五〇年アッバス朝に滅ぼされた。

ウラル・アルタイ(Ural-Altai)語族[編集]

言語学的に世界の種族を大きく分類すると大体にママ、セム語族、シナ・チベット語族、マライ・ポリネシヤ語族及びウラル・アルタイ語族に分れるが、ウラル・アルタイ語族とはウラル山脈とアルタイ山脈を中心としてその東西、ユーラシヤ大陸の北部一帯に住むアジヤ系種族をいう。トルコ人、フィンランド人、マジャール人、蒙古人、満州人、朝鮮人等がこれで日本人もこれに属するといわれるが他の要素も大分入つている。

ウラン・バートル・ホト[編集]

蒙古人民共和国を見よ

雲崗[編集]

山西省大同の近くに在る小丘。南北朝の北魏時代には仏教に対する熱烈な信仰から岩壁に仏像や仏画を彫ることが盛んに行われたが北魏が平城(大同)に都した頃からこの雲崗に雄大壮麗な彫刻が営まれた。龍門と共に中国における仏教芸術を現わす二大石窟といわれ、近年日本でその精巧な写真と研究が出版された。その彫刻の手法にはガンダーラやアジャンターなどいろいろの要素が入つているといわれる。(龍門参照)


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永楽帝(明の世祖)[編集]

明朝第三代の皇帝。太祖の第四子、初め燕王に封ぜられ山西省に在つたが雄略あり大兵を擁し諸王中最も有力であつた。太祖の後、孫の恵帝が立つて諸王の勢力を削減せんとするや、兵を挙げて靖難の師と称し、京師(南京)を陥れて自ら帝位に即いた(一四〇二)。やがて都を燕京に移し北京と称した。内政に意を用い官吏の冗員の整理や租税の減免を行い刑罰を厳格にしまた永楽大典の編纂など文化事業にも業績を示した。対外的にはもとの元の一族が漠北に拠つて勢を回復したので之を親征し、ついでこれに代つた北西蒙古の瓦刺(うえら)部を撃ち、漠北に親征すること前後五回。南方に対しては安南を討つて交趾布政司を設け、更に宦官鄭和(ていわ(をして南海諸国を招撫せしめた。

駅・駅站(えき・えきたん)[編集]

中国に古くから出来た交通通信制度で一定の距離に駅舎を設け駅馬・馬夫等をおき国家の通信や官吏の宿泊に備えたもの。元朝では特にこれを站赤(じゃむち)といい京師を中心として中国本土は勿論ヨーロッパにも及び公務を帯びて往来する使者の便に供した。

エセン(也先)[編集]

十五世紀の中頃に出た西蒙古ウエラ(瓦刺)の部長。内外蒙古を併合して汗位に登り、南下して中国を攻め明朝を土木堡(河北省)に破り(一四四九)英宗を虜にした。後、内訌のため部下に殺された。(ウエラ参照)

耶律阿保機ママ[編集]

契丹・遼を見よ

閻錫山(えんしやくざん)[編集]

山西の人。日本の陸軍ママ学校卒業後、郷里に軍人として次第に勢力を得、民国址は省長・督軍として山西の軍・政権を握つた。蒋介石に対し馮玉祥と共に一度反蒋軍を起したが、敗れた後は、終始国民政府の統制に服し、現在台湾国民政府の要職にある。

袁世凱(えんせいがい)[編集]

中華民国初代大総統。河南の人。号は項城。清末李鴻章の下に朝鮮に在つて活躍し日清戦争後は天津で新式陸軍の育成に力めた。その後、西太后の信任を得て朝廷に重用されたが、西太后の死後摂政醇親王に退けられ郷里に帰つた。(醇親王は光緒帝の弟で、先に戊戌新政の折、帝が幽閉されたのは袁が西太后に密告したためと考え、この恨に報いたものといわれる)辛亥革命には耻を忍んだ清廷の三顧の依託に起つて革命軍の討伐に当つたが途中孫文と妥協し、かえつて清廷に宣統帝の退位を迫りこのため清朝が滅亡した。中華民国が成立するや推されて初代大総統となつたが、孫文等の国民党を抑え国会を解散して帝制の復活をはかり、国号を中華帝国、自らは洪憲皇帝と称するはずであつたが、国内および日・英等外国の抗議のため中止し、不遇の中に病死した。(一九一六)


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オイラート(瓦刺)[編集]

ウェラを見よ

王安石[編集]

北宋中期の宰相で文人。江西の人。状元進士。博学能文、経論に富んだ革新政治家で年少気鋭の神宗に登用され、いわゆる新法を断行した。また学校を建てて人材を養成し、科挙の方法を替えて社会の実用に合せしめんとしたが司馬光一派の旧法党の痛烈な反対をうけ激しい悪評を浴びて僅か五カ年で辞任した。(王安石の新法参照)

王安石の新法[編集]

北宋の中期、財政軍事行政の各方面で行き詰りの打開が叫ばれていた時、王安石によつて行われた富国強兵の改革策。その富国策としては、(1)青苗法(春の植付の時、農民に種子などの農業資本を貸与し、納税の時二割の利息を共に返納させる)、(2)募役法(民の賦役を免ずる代りに免税銭をとり、その金で資金を与える人夫を雇用して各種の雑役にあてる)、(3)市易法(重要な都会に市易務をおき、民間の滞貨の買上げや物価の調節を行う)(4)均輸法(国内物資の有無を通じ物価を平均して政商の暴利を防ぐ)、(5)方田均税法(耕地整理を行いながら民戸の所有地を調査し、五等に分けて税額を定める)、があり、強兵策としては(1)保甲法(十家を保、五十家を大保、十大保を都保として、それぞれに保長、大保長、都保正ををおき、一家に二丁以上あればその一人を保丁に選んで訓練し、平時は警察、万一の時は防備にあて、以て従来の雑多な郷兵を統制し、民兵制度を確立する)、(2)保馬法(保丁に官馬を貸与するか、又は補助金を出して馬を買わせ、戦時に軍馬として徴発する)などがあつた。この新法は時宜に適した良策であつたが、当時の守旧的な議論の攻撃に遭い、また奸官のこれに乗ずるものがあつたので王安石が辞任し行われなくなつた。以後新旧両党の争が続き国力を弱めた。

王羲之[編集]

東晉時代の書家。右軍将軍になつたので王右軍とも言われ、その書は古今第一、最も草隷に巧みで、今に書聖の称がある。その子の献之も亦、書に巧みで後世の書法は多くこの二王の流を汲み世に南帖(北帖に対し)といわる。蘭亨序などの書は特に傑作とされ、書に芸術性が与えられたのは二王に負うところが多い。

王国維[編集]

中華民国初年の学者。中国の文学・史学・考古学等に造詣深く、中国の古代史や宋元の戯曲その他幾多の研究がある。

汪兆銘[編集]

字は精衛。広東の人。日本に留学、早くより革命運動に従い醇親王の暗殺を企てて投獄された。辛亥革命後も孫文を助け広東に国民党政府が出来るや(一九二三)その重鎮として党を指導したが、蒋介石と意見を異にし北伐の途中武漢政府を建てて蒋の南京政府と対抗した。しかし国共が分裂するや蒋と合して国民政府の要路に立ち困難なる対日問題の処理に当つた。日本との先王が起るや日本との和協を主張し、意見容れられざるや一九三八年重慶を脱出して新たに南京国民政府を作り磁極の拾収に力めたが、一九四四年、病を以て日本で死んだ。

王莽(おうもう)[編集]

漢の外戚で前漢の末、侯に封ぜられ大司馬となつた。哀帝の死後(前一一)幼年の平帝を擁立して実権を握り、讖緯の説を利用して勢力を植え、遂に帝を毒殺して新国を建てた(八)。復古主義に則つた改革を企て、土地・奴婢の売買を禁じ、貨幣改鑄等を行つたが、当時の実情と容れず、豪族の反抗を誘発した外、外交の失敗が蛮夷の離反を促し、遂に劉秀の軍に敗れて(二三)、僅か十五年で滅んだ。

欧陽脩[編集]

北宋中期の政治家で且つ文豪。江西の人。参知政事となり、韓琦(かんき)等と協力して仁宋を輔けたが、神宗の時、王安石の青苗法に反対して退官した。唐の韓愈(かんゆ)についで古典文体の復活を主張し、その門下に蘇軾(そしよく)兄弟、曾鞏等の文人を出した。また史学にも深く新唐書、新五代文を編纂した。

王陽明[編集]

明の大儒。名は守仁、號は陽明。朱子学の繁瑣固陋を嫌い陸象山の説を継承して知行合一、致良知の説を主張しこれを大成した。その学説を陽明学と云い、我国でも中江藤樹、熊沢藩山等の学者はこの派の人である。

オゴタイママ汗国[編集]

モンゴルの太祖チンギス汗の第三子ママ(おごたい)の建てた国。チンギス汗の死後、オゴタイが本国モンゴルの帝位を継いで太宗となつたので汗位はその子孫によつて継がれた。イリ河の西北イミルを都としイルチシ河上流地域からアルタイ山脈の南麓を領した。孫カイズ(海都)の時、フビライ(世祖)とモンゴルの帝位を争つたが敗れ、その後一三一〇年チャガタイ(察舎合)汗国に亡ぼされた。

オスマン・トルコ(Osman Turks)[編集]

ママ以来セルジュク朝に代つて小アジヤに出来たトルコ人の国家。今日のトルコ国の機嫌。オスマンの建国によりこの名がある。一五世紀の中葉マホメット一世のときコンスタンチノープルを占領して東ローマ帝国を亡ぼし(一四五三)東西交通の要路を抑えたが、これがヨーロッパ人の新航路発見を誘う動機となつた。この後スレイマン二世の時には更に中央ヨーロッパへ進み再度ウィーンを囲んだが十六世紀後半にスペインとの海戦に敗れ(一五七一)十八世紀にはハンガリー地方をオーストリヤに、黒海北岸をロシヤに奪われ著しく衰退した。十九世紀に入つては国内バルカン諸民族の独立運動が盛んとなり、またロシヤの南下政策の影響を受けて国内乱れ諸民族の独立によつて領土も小アジヤの一部に局限されるに至つた。欧州大戦後一九二二年ケマル・パシャはトルコ国民党を率いて国政の改革に着手し旧元首たるスルタンはイスラム教主としての地位だけを保つこととして政教を分離し、翌年共和制をしいて大統領となり独裁権力を振つて各方面にトルコの近代化を行つた。(ケマル・パシャ参照)

オリエント(Orient)[編集]

「東方」の意。ギリシャ・ローマから見て東方、エジプトや征南アジアを指し歴史上の古代東方諸国がこれに当たる。古代文化の発祥地でその文化が東西に伝播し特にギリシャ・ローマの文明に重大な影響を与えた。