↑前年 桓公十六年(紀元前696年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 十有六年、春正月、公、宋公・蔡侯・衞侯に曹に會す。夏四月、公、宋公・衞侯・陳侯・蔡侯に會して、鄭を伐つ。秋七月、公、鄭を伐つより至る。冬、向に城づく。十有一月、衞侯朔・出でゝ齊に奔る。
【傳】 十六年(周ノ莊王元年)春正月、曹に會するは、鄭を伐たんと謀るなり。夏、鄭を伐つ。秋、七月、鄭を伐つより至る[1]とは、飲至の禮を以てすればなり。
冬、向に城づくとは、時なるを書するなり。
初め、衞の宣公、夷姜[2]に烝[3]して、急子を生み、これを右公子に屬す。之[4]が爲に齊より娶りしに美なり。公、之を取り、壽及び朔を生めり。壽を左公子に屬す。夷姜縊る。宣姜[5]、公子朔と與に急子を構ふ[6]。公、これを齊に使せしめ、盜をしてこれを莘[7]に待たしめ、將に之を殺さんとす。壽子、之を告げ、行らしめんとするに、(急子)可かずして曰く、『父の命を棄て[8]ば、惡ぞ子たるを用ゐん。父なきの國あらば則ち可なり』と。行くに及び、(急子ニ)飲ましむるに酒を以てし、壽子、其旌を載せて以て先だつ[9]。盜、之を殺す。急子至りて曰く、『我をこれ求むるならん。此れ[10]何の罪かある。請ふ我を殺せ』と。又、之を殺す。(桓公十三年→)二公子[11]、故に惠公[12]を怨む。十一月、左公子洩、右公子職、公子黔牟を立つ。惠公、齊に奔る。
- ↑ 伐つより至ると始めて書す、故に傳重ねて例を示す。
- ↑ 宣公の庶母。
- ↑ 烝は上と淫するをいふ。
- ↑ 之は急子をさす。
- ↑ 宣公の取る所の急子の妻。
- ↑ 過失を構造して讒するなり。
- ↑ 衞の地。
- ↑ 父命じて使せしむるに、奔らば、是れ父の命を棄つるなり。
- ↑ 壽子身がはりに立ちしなり。
- ↑ 此れは壽子をさす。
- ↑ 急子の保護者右公子職と壽子の保護者左公子洩。
- ↑ 惠公は即ち朔なり。