↑前年 隱公三年(紀元前720年) 翌年↓ < 巻の一 隱公 < 春秋左氏傳
【經】 三年、春、王の二月己巳、日之を食せること有り。三月庚戌、天王崩ず。夏四月辛卯、君氏卒す。秋、武氏の子、來りて賻を求む。八月庚辰、宋公和<卒す。冬十有二月、齊侯・鄭伯、石門に盟ふ。癸未、宋の穆公を葬る。
【傳】 三年(周ノ平王五十一年)春、王三月、壬戌、平王崩ず。(桓王林嗣ギ立ツ。)赴ぐるに庚戌を以てす。故に之を(庚戌ト)書す。
夏、君氏卒すとは聲子[1]なり。諸侯に赴げず、寢に反哭せず、姑に祔せず[2]。故に薨と曰はず。夫人と稱せず、故に、葬ると言はず、姓を書せず。公[3]の爲に故に、君氏[4]と曰ふ。
鄭の武公・莊公、(周ノ)平王の卿士[5]となる。王、虢に貳あり[6]。鄭伯、王を怨む。王曰く、『これ無し』と。故に周・鄭交〻質し。王子狐[7]、鄭に質となり、鄭の公子忽、周に質となる。王崩ぜしかば、周人、將に虢公に政を畀へんとせり。四月、鄭の祭足師を帥ゐて温の麥を取る[8]。秋、又成周禾を取る。周鄭、交〻惡む。
君子曰く『信、中よりせざれば、質も益無きなり[9]。明恕[10]にして(事ヲ)行ひ、之を要するに禮を以て[11]せば、質あること無しと雖も、誰か之を間[12]ん。苟も明信あらば、澗溪沼沚[13]の毛[14]も、蘋蘩蘊藻[15]の菜も、筐筥錡釜[16]の器も、潢汙[17]行潦[18]の水も、鬼神に薦む可く、王公[19]に羞む可し。而るを況や君子、二國の信を結ぶをや。之を行ふに禮を以てせば、又焉ぞ質を用ゐん。風[20]に采繁・采蘋あり、雅[21]に行葦、泂酌あるは、忠信(ノ義)を昭かにするなり』と。
武氏[22]の子來りて賻[23]を求むとは、王未だ葬らざればなり。
宋の穆公[24]の疾むや、大司馬[25]孔父[26]を召して殤公を屬[27]して曰く、『先君[28]、與夷[29]を舍てゝ寡人を立てたり。寡人敢て忘れず。若し大夫[30]の靈[31]を以て、首領[32]を保ちて以て沒することを得ば、先君、若し與夷を問はゞ、其れ將た何の辭を以てか對へん。請ふ子、之を奉じて以て社稷を主どらしめよ。寡人死すと雖も亦悔ゆること無けん』と。對へて曰く、『群臣は、馮[33]を奉ぜんことを願へり』と。公曰く『不可なり。先君、寡人を以て賢なりと爲して、社稷を主どらしめたり。若し德[34]を棄てゝ讓らずば、是れ先君の舉を廢するなり。豈に能く賢なりと曰はれんや。先君の令德[35]を光昭[36]せんこと、務めざる可けんや。吾子、其れ先君の功を廢つること[#「こと」は合字→今昔文字鏡]無かれ』と。公子(馮)をして出でゝ鄭に居らしむ。八月庚辰、宋の穆公卒し。殤公、位に即く。君子曰く、『宋の宣公は人を知ると謂ふべし。穆公を立てゝ、其子之を饗く[37]るは、命、義を以てすればなるかな[38]。商頌に曰く、「殷の・命を受くるは咸な宜なり。百祿を是れ荷ふ[39]」とは、其れ是の謂ひか』と。
冬、齊・鄭、石門[40]に盟ふとは、盧[41]の盟を尋[42]むるなり。庚戌、鄭伯の車、濟に僨る。[43]
初め衛の莊公齊に娶る、東宮[44]得臣の妹なり、莊姜と曰ふ。美なれども子無し。衛人、爲めに碩人[45]を賦する所たり。又、陳に娶る。厲媯と曰ふ。孝伯を生む。早く死せり。其娣戴媯[46]桓公を生む。莊姜、以て己の子と爲せり。公子州吁は嬖人の子なり。寵有りて兵を好む。公、禁ぜず。莊姜、之を惡めり。石碏[47]諫めて曰く、『臣聞く、「子を愛するものは、之に教ふるに義方を以てし、邪に納れず」と。驕奢淫泆[48]は自りて邪にする所なり。四者の來たるは寵祿の過ぐればなり。將に州吁を立てんとせば、乃ち(早ク)之を(太子ニ)定めよ、若し猶ほ未だしならば、之を階にして禍を爲さん。夫れ寵せらるれど驕らず、驕れど能く降り、降れど憾みず、憾れど能く眕[49]まるものは鮮し。且夫れ賤しくして貴きを妨げ、少くして長けたるを陵ぎ、遠くして親しきを間て、新しくして舊きを間て、小にして大を加ぎ、淫にして義を破るは、謂はゆる六逆なり。君は義に、臣は行ひ、父は慈に、子は孝に、兄は愛し、弟は敬するは、謂はゆる六順なり。順を去つて逆に效ふは、禍を速く所以なり。人に君たる者は、將に禍を是れ務めて去らんとす。而るを之を速くは、乃ち不可なること無からんや』と。(莊公)聽かず。其子厚[50]州吁と遊ぶ。之を禁ずれども、(厚)可かず。桓公立ちて、(石碏)乃ち老[51]せり。(→隱公四年)
- ↑ 隱公の母。
- ↑ 同盟國に告ぐること、正寢に反り哭すること、祖姑に祔することは夫人喪禮の三大事なり。
- ↑ 隱公。
- ↑ 公羊傳榖梁傳は、君氏を尹氏に作り、尹氏は天子の大夫なりと云ふ。
- ↑ 卿士は、王の卿の、政を執る者。
- ↑ 周王、鄭公の權を奪ひて虢に與へんとするなり。
- ↑ 平王の子。
- ↑ 取るは刈り取る也。
- ↑ 約信、中心よりせざるときは、質を取り替はすとも、何の益も無きなり。
- ↑ 明とは光明坦白にして毫も遮掩無き也。恕とは彼此相諒とする也。
- ↑ 禮を以て相要結する也。
- ↑ 間は離間する也。
- ↑ 沚は小渚なり。
- ↑ 毛は草なり。
- ↑ 四者皆草なり。
- ↑ 筐筥は竹にて作りたる器、角なるを筐と云ひ、圓きを筥と云ふ。錡釜は金屬の器、足あるを錡と云ひ、足なきを釜と云ふ。
- ↑ 潢汙はたまり水。
- ↑ 行潦は路上を流るゝ雨水。
- ↑ 王公は生きたる王公に非ず、死して祀らるゝ者をいふ。
- ↑ 詩の國風。
- ↑ 詩の大雅。
- ↑ 周の大夫の姓なり。
- ↑ 賻は喪を助くる物。香奠。
- ↑ 宋公和。
- ↑ 大司馬は官名。
- ↑ 孔父嘉。
- ↑ 屬は託する也、頼む也。
- ↑ 先君は穆公の兄宣公。
- ↑ 與夷は、宣公の子殤公。
- ↑ 大夫は孔父を指す。
- ↑ 靈は威靈。
- ↑ 非命に死せず病歿するをいふ。
- ↑ 穆公の子莊公。
- ↑ 德は恩德。
- ↑ 善美なる德。
- ↑ 光昭は、あきらかにする也。
- ↑ 饗くは、後を承くる也。
- ↑ 宣公が穆公を立つるの命、義に出でたればなるかな。
- ↑ 玄鳥の卒章。殷湯・武丁が天命を受けて王と爲るは、皆、義を以てす、故に天の諸の福祿を任荷す。
- ↑ 石門は齊の地。
- ↑ 盧は齊の地。盧の盟は春秋以前に在り。
- ↑ 尋は温むる也。
- ↑ 鄭伯、周・宋・衛と事有り、強齊に黨するに非ざれば、之に勝つに足らざるを以て、鄭伯、齊の盟に赴かんとするに急にして、危險を冒して濟水を渉らんとし、車仆れて水に墜ちたり。石門の盟に赴く時の事を追記したるなり。
- ↑ 東宮は太子。
- ↑ 詩の篇名。
- ↑ 娣は、其父母の家、他の女を以て嫁を送りて女の伴と爲す者。
- ↑ 衛の太夫。
- ↑ 驕慢奢靡亂淫放佚。
- ↑ 眕は限り止まる也。地を限りて、此より越えて進まざる義。
- ↑ 石碏の子。
- ↑ 老は退隠する也。