隱公元年(紀元前722年) 翌年↓ < 巻の一 隱公 < 春秋左氏傳
【經】 元年、春、王の正月。三月、公[1]、邾と蔑に盟ふ。夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ。秋七月、天王、宰咺をして來りて惠公仲子の賵を歸らしむ。九月、宋人と宿に盟ふ。冬十有二月、祭伯來る。公子益師、卒す。
【傳】 元年(周ノ平王四十九年)春、王の周の正月。即位を書せざるは攝[2]なればなり。
三月、公、邾の儀父[3]と蔑[4]に盟ふとは、邾子克なり。未だ王命あらず[5]。故に爵を書せず。儀父と曰ひしは、之を貴べるなり。公、位を攝して、好を邾に求めんと欲す。故に蔑の盟を爲せるなり。
夏四月、費伯[6]、師を帥ゐて郎[7]に城く。書せざるは、公の命に非ざればなり。
初め鄭の武公、申に娶る。武姜と曰ふ。莊公及び共叔段を生めり。莊公、寤生[8]して姜氏を驚かせし故に、名づけて寤生と曰ひ、(姜氏)遂に之を惡み、共叔段を愛して、之を立てんと欲し、亟〻武公に請へども、公許さざりき。莊公、位に即くに及び、之が爲に制[9]を請ふ。公曰く『制は巖邑[10]なり。虢叔[11]、これに死せり。他の邑ならば、唯だ命のまゝなり』と。京[12]を請ひしかば、之に居らしめ、之を京城の大叔と謂へり。祭仲[13]曰く、『都城[14]百雉[15]に過ぐるは、國の害なり。先王の制に、大都は國を參にしての一、中は五の一、小は九の一に過ぎす[16]。京は度あらず[17]、制に非ざるなり。君、將に堪へざらんとす』と。公曰く、『(母ナル)姜氏之を欲す、焉ぞ害を辟けん』と。對へて曰く、『姜氏は何の厭[18]くことか之れ有らん。早く之が所[19]を爲すに如かず。滋蔓せしむること無かれ。蔓すれば、圖り難からん。蔓草すれば猶ほ除く可からず。況や君の寵弟をや』と。公曰く、『多く不義を行はゞ、必ず自ら斃れん。子、姑く之を待て』と。既にして大叔、西鄙北鄙[20]に命じて己に貳せしむ[21]。公子呂[22]曰く、『國、貳に堪へず、君、將に之を若何にせんとする。大叔に與へんと欲するならば、臣請ふ之に事へん。若し與へざるならば、則ち請ふ之を除かん。民心を生ぜしむる無かれ[23]』と。公曰く、『(之ヲ除クコトヲ)庸ふること無し。將に自ら(禍ニ)及ばんとす』と。大叔、又、貳を收めて以つて己の邑と爲し、廩延に至れり[24]。子封曰く、『可なり。厚ければ將に衆を得んとす[25]』と。公曰く、『不義なれば昵しからず。厚くとも將に崩れんとするのみ[26]』と。大叔、完聚し、甲兵を繕め、卒乘を具へ[27]、將に鄭を襲はんとし、夫人將に之を啓かんとす。公、其期を聞きて曰く、『可なり』と。子封に命じて車二百乘を帥ゐて以て京を伐たしむ。京、大叔段に叛く。段、鄢に入る。公、これを鄢に伐つ。五月辛丑、大叔出でゝ共に奔る。書して『鄭伯、段に鄢に克つ』と曰ふは、段、不弟なるが故に、弟とは言はず。二君の如し、故に克つと曰ひ、鄭伯と稱し、教を失へるを譏るなり。之を鄭志と謂ふ[28]。出奔すと言はざるは、之を難しとしたればなり[29]。遂に姜氏[30]を城潁[31]に寘く。而して之に誓つて曰く『黄泉に及ばずんば、相見ること無けん[32]』と。既にして之を悔ゆ。潁考叔は潁谷の封人[33]たり。之を聞きて、公に獻ることあり。公、之に食を賜ふに、(考叔)食うて肉を舍けり。公、之を問ふ。對へて曰く『小人、母あり。皆、小人の食を嘗む。未だ君の羹を嘗めざれば、請はくば以て之を遺らん』と。公曰く『爾は母ありて遺る。繄我は獨り無し』と。潁考叔曰く『敢て問ふ何の謂ひぞや』と。公、之に故を語り、且つ之に悔ひたることを告ぐ。(考叔)對へて曰く、『君何ぞ(コレヲ)患へん。若し、地を闕[34]り泉に及び、隧[35]にして相見えば、其れ誰か然らずと曰はん』と。公、之に從ふ。公、入りて賦すらく、『大隧の中、其樂さや融融[36]たり』と。姜も出でゝ賦すらく『大隧の外、其樂さや泄泄[37]たり』と。遂に母子たること初の如くなりぬ。君子曰く、『潁考叔は純孝なり。其母を愛して、施いて莊公に及ぼせり。詩に曰く「孝子匱しからず、永く爾に類を錫ふ[38]」とは、其れ是れの謂か』と。
秋七月、天王、宰咺[39]をして來りて惠公仲子の賵[40]を歸らしむとは、(惠公ノ薨シタル時ヨリ見レバ)緩れたり、且た(仲子ヨリ見レバ)子氏[41]未だ薨ぜざるなり。故に名をいひしなり。天子は七月にして葬り、同軌[42]畢く至る。諸侯は五月にして、(葬リ)同盟至る。大夫は三月にして(葬リ)同位至る。士は月を逾えて(葬リ)、外姻[43]至る。死に贈つて尸に及ばず[44]、生を弔して哀に及ばず[45]、凶事を豫する[46]は、禮に非ざるなり。
八月、紀人、夷を伐つ。夷告げず。故に書せず。
蜚[47]あり。災を爲さず。亦書せず。
惠公の季年、宋の師を黄に敗りしが、公、立つて成ぎを求めたり[48]。九月、宋人と宿に盟ふとは、(隱公立チテ以来)始めて通しなり。(→隱公四年)
冬十月庚申、惠公を改葬す。公臨まざりしが故に書ぜず。惠公薨ぜしとき、宋の師あり、大子[49]少かりき、葬ること、故に闕ること有り。是を以て改め葬れるなり。衛侯來りて葬に會せしが、公を見ざれば、亦、書せず。
鄭の共叔の亂に、公孫滑[50]出でゝ衛に奔れり。衛人、之が爲めにを伐ち、廩延を取る。鄭人、王師・虢師を以て衛の南鄙を伐ち、師を邾に請ふ。邾子、公子豫[51]に私せしむ[52]。豫、行かんことを請ふ。公[53]許さず。(豫)遂に行き、邾人・鄭人と翼に盟ふ。書せざるは、公の命に非ざればなり。
新に南門を作る。書せざるは、公の命に非ざればなり。(→隱公二年)
十二月、祭伯來る。王の命に非ざるなり。
衆父[54]卒す。公、小斂[55]に與からず、故に日を書せず。
- ↑ 公は隱公。
- ↑ 攝は假なり。隱公、立てりと雖も、終に國を譲りて桓公に授くるの志あり、故に其心猶ほ假攝と爲す也。
- ↑ 名は克、字は儀父。
- ↑ 蔑は魯の地姑蔑。
- ↑ 邾は子爵の國なれども、當時未だ王命を受けざる故、魯の史には子爵たるを認めざるなり。名を書すべきを字を書したるは、之を貴びてなり。
- ↑ 魯の大夫。
- ↑ 魯の邑。
- ↑ 寤生は、さかご、逆生なり。
- ↑ 鄭國の邑。
- ↑ 四面皆山なる險阻の地。
- ↑ 東虢君なり。制の險阻なるを恃みて德を修めず、終に鄭に滅さる。
- ↑ 鄭の邑。
- ↑ 鄭の大夫。
- ↑ 都城は諸侯の子弟の封邑地をいふ。
- ↑ 方丈を堵と曰ひ、三堵を雉と曰ふ。一雉の牆は、長さ三丈、高さ一丈。
- ↑ 侯伯の城は、方五里、徑三百雉なり。故に其大都も百雉を過ぐるを得ず。大都は國城の三分の一、中都は同五分の一、小都は同九分の一。
- ↑ 京城は甚だ大にして、先王の制に合はざるなり。
- ↑ 厭は饜くなり。満足の義。
- ↑ 所は處置。
- ↑ 鄙は邊邑なり。
- ↑ 鄭伯に背きて己に從はしむ。貳は二心なり。兩屬なり。君に專屬せずして己に兩屬す故に己に貳すと曰ふ。
- ↑ 鄭の大夫子封。
- ↑ 舉國の民をして他心を生ぜしむる勿れ。
- ↑ 大叔段、鄭の邊邑の己に兩屬せるものをすべて己の手に收めたるなり。廩延は鄭の邑なり。
- ↑ 今、之を討ちて可なり。土地廣大なれば、民皆君を捨てゝ叔段に附かんとす。
- ↑ 多く不義を行へば、百姓、心を離し、相附著せず。厚しと雖も、將に崩壊せんとす。
- ↑ 城郭を繕ひ完くし、禾粟を聚めて以て軍糧に備ふる也。
- ↑ 鄭國の人の意志を孔子が取られたる也。
- ↑ 段の勢強大にして、鄭伯僅に能く之に克ち、その出でゝ奔れるは、實に大幸に出づるのみ。孔子、強臣の制し難きを見はして以て後世を戒めんと欲す。故に出でゝ奔ると言はず。傳に其意を譯する也。
- ↑ 莊公の母の武姜。
- ↑ 鄭の地。
- ↑ 黄泉は、地中の泉、地下をいふ。生きて復た相見ること無からん。死に至りて後、方に 地下に相見ん。
- ↑ 封人は封疆を典るもの。
- ↑ 闕は堀る也。
- ↑ 地中の道。
- ↑ 和樂の貌。
- ↑ 舒び散ずる貌。
- ↑ 詩の大雅既醉の第五章。孝子の德自ら他人を感化して、不孝の者も孝子となりて其朋類と爲る。德必ず鄰あるを云ふ。
- ↑ 宰は家宰。
- ↑ 賵は喪を助くる與馬の贈物。
- ↑ 子氏は仲氏。
- ↑ 車軌を同じくする天下の諸侯。
- ↑ 外姻は他國に在る姻戚を云ふ。
- ↑ 尸は未だ葬らざる時の通稱。既に葬りて後、賵を贈るは、非禮。
- ↑ 生は生きのこりたる人。死を哀しむの心薄らぎたる頃に弔慰するも非禮。
- ↑ 未だ死せざるに弔するを云ふ。
- ↑ 蜚は、負蠜、稲の害蟲。毎に稲莖上に縁りて、稲花を食ひ、實を成さゞらしむ。
- ↑ 黄は宋の邑。魯の先君惠公の末年、宋と戰ひしが、隱公、位を攝するに及び、和平を結びしなり。
- ↑ 大子は桓公なり。
- ↑ 鄭の共叔段の子。
- ↑ 魯の大夫。
- ↑ 兵を出して救はん事を、ひそかに申し入れたるなり。
- ↑ 公は魯君隱公。
- ↑ 衆父は公子益師の字。
- ↑ 斂とは衣服を以て屍を斂むる也。死の明日小斂し、又明日大斂す。小斂は戸内に於てし、大斂は阼階に於てす。