日本女性美史 第十四話

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第十四話[編集]

淸少納言、その他[編集]

淸少納言の傳記は明らかでない。母の名はわかつてゐない。父は淸原元輔、聞いたやうな名だと思ふも、ことわりなり、百人一首にある
ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末のまつ山なみこさじとは
の作者である。八十三歲まで生きた。ついでながら、祖父の深養父も儒家として聞こえ歌も上手であつた。「夏の夜はまだよひながら」の作者である。そして三代目に「夜をこめて」の淸少納言だ。祖父と淸少納言とは、歌留多で取り易い歌をのこした。
淸少納言は正曆二年(皇紀千六百五十一年)のころ、定子中宮御所に宮仕へした。紫式部、和泉式部の宮仕えより十數年も早い。彼女の年、二十七、八歲であつた。その後十年ばかり仕へたらしい。この年齡の考證に從ふと、彼女の宮中生活の末期は四十を越してゐる。のみならず、紫式部とは宮中で會つてゐるうかどうかも判然としてゐない。(和泉式部とは歌の贈答をしてゐる)會つてゐればどこか、ほかのところではなかつたか。それほどの間柄ながら、紫式部の日記には淸少納言を痛罵してゐる。
「淸少納言こそしたり顏(人を小馬鹿にしてゐると見られたらしい)にいみじう侍りける人。さばかり賢(さか)しだち、眞名(漢字)書き散らして侍る程も、よく見ればまだいと堪へぬ(堪能でない)こと多かり」
などと書いて、終に、こんな人の行末はどうせろくなことはあるまい、と惡態をついてゐる。よくよく氣に入らぬ女に見えたらしい。ある學者は、當人を見ずに、枕草子を讀んだだけで、その人を想像して書いたのだらうとまで云つてゐる。案ずるに、紫式部の才の方面が、淸少納言の更に銳い才の尖端と觸れ合つたからであらう。才女はとかくこのやうなことを云ふものである。
彼女についてだれでもすぐ思ひ起す逸話は例の香爐峰の雪である。皇后定子のお言葉に應じて簾を捲き上げた、と云ふのだが、彼女はいつもお側近くお仕へして御信任ことのほか厚く、このことありしのち、皇后から內侍に推薦されたくらゐであるから(それは實現されなかつた)皇后の御愛讀書はたいてい知つてゐたに違ひない。だから、「香爐峰の雪は」との仰せに、「あ、あのことか」とすぐわかつたのではあるまいか。
枕草子にも、
「(皇后の)の御前にて物語などするついでにも、すべて人には一におもはれずば更に何にかせん」
と書いてゐる。その心構へのほどが知られるではないか。
さて、枕草子である。
これはだいたい、長德年間に書かれたらしく、卽ち彼女が宮仕へしてから四、五年目に思ふこと、見たことのくさぐさを書きとめたものと思はれる。
初めて宮仕へしたころのことを次のやうな思ひ出としてゐる。
「宮に始めて參りたるころ、物のはづかしき事のかず知らず、淚も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳のうしろにさぶらふに、(中宮が)繪など取り出でて見せさせ給ふを、手も得さし出づまじうわりなし。(中宮が)これは、とあり(これは、こんなことである)かれは、かかり(あれはかうである)などの給はす」
才氣いまだ喚發せず、ひたすらお役目大切と、おどおどして仕へる間にも、早くも中宮に認められてゐたのである。
このやうな淸少納言が、長德元年(四年のち)のころはだいぶ羽ぶりもよくなり、身邊にいつも、藤氏一門の貴族や藏人頭はさらなり、下つては修理職の亮(次官)(宮城の造營修理に當る職))にいたるまで近寄つて、彼女と談笑することを樂しむにいたつた。そのころの一つの情景を枕草子に見よう。
藤原齊信(ただのぶ)は頭(藏人頭)の中將たり、道長とともに榮達したきけものである。この職にあつた時、年二十八、九歲。淸少納言は三十一、二歲。この頭中將、曾ては彼女とよく親しみ合つてゐたが、何かのはづみから――才女往々にして愛人を怒らすこと、今、昔、同じ――たいさう淸少納言を嫌ひ出した。彼女の聲が聞こえると袖を上げて顏をふさぎ顏を合さぬやうにして通つた。それくらゐだのに、また何となく彼女への思慕の念もあつて、(よくよく好きだつたらしい)ほかの女房にそれとなく、彼女が何か云つてはゐなかつたかと尋ねるのであつた。
その頭中將からある日文が屆けられた。返事も書かず、すぐにも見ずにゐると、かさねて使をもつて、讀まぬなら文を返せ、と云つて來た。そのまま返すわけにも行かぬので讀んでみると――見ずにゐるうちは色つぽい文かと內々樂しんでゐたのに――案外、それ以上なのだ。
「蘭省華時錦帳下」
と書いて、このあとは何か、「末はいかにいかに」とある。これは戀文以上の親しみである。これをまともに受けて、右の白氏文集中の次の句
「廬山雨夜草庵中」
と書いて返したら彼女の負である。ことに、使をして、すぐ返事をせよとせき立てさせたことと思ひ合せて、間をおいてゐるだけになほ惡い。そこで彼女は、いかにも去りげなくお答するとの氣持を傳へるために、裏側に消炭で、
「草のいほりをたれか尋ねむ」
と書いて返した。この下の句にも古歌に類句があり、どこまでも才女ぶりであり、衒學的なのである。
この返事を受けた頭中將が、やはり棄てがたい女だと喜ぶ、それを中將以上に淸少納言を好いてゐる二十七歲の經房が翌朝わざわざ知らせに來る。經房よりも更に彼女に好かれようとしてゐる修理の亮(すけ)則光が同じことを知らせに來て、先づ、「いみじきよろこびを申しに」來たと云ふ。それを知つてをりながら、淸少納言が空とぼけて則光に、何に任官されたのですか、と尋ねて同じことを報吿させる――このあたり、淸少納言の男を好きながらも飜弄するさまがわかるのであるが、女の小ざかしさもここまで來ると何かなし、聰明な女にきらはれるものである。恐らく紫式部が「したり顏にいみじう侍りける人」とけなし、進んで、「かく人に異ならむと思ひ好める人は必ず見劣りし、行末うたてのみ侍れば(淺間しくなる)云々」と行末まで輕蔑してゐるのも、この一節の氣障なのに耐えられなかつたのであらう。然し、身邊に學才の乏しい女ばかり見なれてゐる後代の學者(男)はこの才走つた女をとてもよく見たがるもので、今尙ほ淸少納言を王朝才女の華として、紫式部と竝べ稱してゐるやうである。
枕草子にはこのほか、自然、世間、人事、行事について面白い、すぐれた文章が澤山あるが、ここには彼女の人として、女としての面目を躍如たらしめる一情景をあげるにとどめる。
私が年代の順序を外にして、紫式部の次に和泉式部を擧げ、敢て淸少納言を三位に置く所以も、彼女を王朝女流文學者として代表的な地位に置くことの、いかにその時代の多くの才女たちをして憤慨せしむるであらうかを想ふがゆえである。淸少納言を愛せざるにあらず、和泉式部を愛すること更に深きがゆえである。
これで王朝女性の代表的なるものを擧げたと思ふが、尙ほつけ加へて、この三人とも、佛典についての敎養のあつたことを注意しておきたい。
王朝文化の荷擔者が僧侶と貴族であつたことは前に記したがこの二つのものは佛事、祈禱、學問、寫經など、いろいろのことで交涉があつた。皇族、貴族と僧侶との交涉はこの時代の文化的特性であつた。一條天皇から御三代前の冷泉天皇の第二皇女にあらせられる尊子內親王の命を奉じて、三寶繪詞三卷がつくられたが、これは說話文學の形で、佛敎功德の例話を集めたものであつた。
一條天皇の御代、宮廷の女官たちが佛典に親しんだのは、尊子內親皇〔ママ〕のやうな佛敎讃仰のためばかりでなく、むしろ一ぱん的敎養として讀まれたらしく、源氏物語にも枕草子にも、字句や歌意をせんさくすれば限りのないほど佛敎に關する文字が出て來る。また、病氣平癒の祈願のためにある種のお經を讀むこともこの時代の風習であつた。紫式部日記には、中宮御產平安のために三七日間晝夜間斷なく讀經することが記されてあり、枕草子には經文を學ぶのに苦勞して、「かへすがへす同じところを讀む」と吿白し、いつになつたらほかの人のやうに、すらすら讀めるやうになるだらうとも記してゐる。


以上、三才女とは少しく色の變つたところがあるが、やはり宮仕へした女流文學者の一人に小野小町がある。平安朝初期で、時代から云へば前の三人より古い。もつとも、この歌人の傳記は詳でなく、傳說の方が大へん豐かである。
傳記として推察されてゐることは、仁明天皇の御代に、小野篁(たかむら)(この人も世に容れられぬ學者であつた)の孫として生れ、仁明天皇、文德天皇の後宮に奉仕し、淸和天皇の御時に宮を辭して、わびしく暮した。歌人としては文屋康秀、僧正遍昭、在原業平などと歌の贈答をした。作品は古今集に收められてゐる。後の人彼女を六歌仙の中に加へた。絕世の美人だつたが、老いて乞食になつたさうである。さぞあでやかな女乞食であつたであらう。
傳說のうちで一ばん有名なのは「草紙洗小町」のお話である。內裏の御歌合に、大友黑主が、小町の歌を自分の持つてゐる寫本の萬葉集に書き入れて、小町の歌は萬葉集の古歌にあると誣ひた。その席に紀貫之が居て、大へん小町を氣の毒におもひ、早速の氣轉で、小町に草紙を洗はせたら、書き入れた歌が黑色新らしいままに消えたので、黑主の惡いことがわかつた――と、云ふのである。もとより、小町と貫之とは時代が違つており、貫之は五、六十年おくれて世に出た。從つて宮中で同席するわけもないが、然し貫之は古今集の序で小町のことを、「あはれなるやうにて强からず、いはばよき女の惱みある所あるに似たり、强からぬは女の歌なればなるべし」とほめてゐる。
その生涯の片鱗(りん)をうかがふべき一二の歌を記す。
都人いかにと問はば山高み晴れぬ雲居にわふとこたへよ
侘びうれば身を深草の根を絕えて誘ふ水あらば往(い)なんとぞ思ふ
心にもかなはざりける世の中をうき身はみしと思ひけるかな
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに


赤染衞門。彼女はほかの才女のやうには華やかに傳へられない女性であつた。父は大隅守赤染時用。母はすでに一ど平兼盛に嫁して身持でもあつたが、子を生んでともに時用のもとに嫁した。時用はその子を衞門と名づけた。男のやうな名であるが、父の官名、檢非違使右衞門尉の中からとつて娘の名にしたのである。
初め、藤原道長の妻倫子に仕へた。のち、大江匡衡(まさひら)に嫁した。歌道にすぐれ、倫子に仕へたころは和泉式部と竝び稱せられた。「榮華物語」の作者は赤染衞門だとも云はれてゐるが判然としてゐない、それほどまでに彼女の才は高く見られてゐたのである。
藤原公任(きんたふ)、中納言を辭せんとして、辭表を當代の名儒に作らしめたが、どの一つも氣に入らない。よつて大江匡衡に請ふた。匡衡は學、文、ともにすぐれてゐたが、さて、かう賴まれてみると、めつたなものは作られない。學者、文人にありがちな氣の小さいところもあつたのだらう、家に歸ると、とてもゆううつな顏をしてゐた。
「どうなさいました」と妻の衞門が尋ねた。夫は、妻に明らさまに自分の惱みを打ちあけた。衞門はにつこりして云つた。
「そんなこと、なんでもないぢやございませんか。公任といふお方は氣位の高い、とかく御自慢なさるお方です。お辭めになりたい御氣持もわかります。ですから辭表にはあの御方の門地、お家柄をうんとほめてほめて書いてお上げなさいまし、そして、暗に、官位の低い不平からやめるのだと云ふことをほのめかしてお上げになるとよろしゅうございます」
匡衡、感心して、その通りに書いた。果せるかな、公任、大よろこびであつた。
赤染衞門には二人の子があつた。その一人が病氣になつた時に、住吉神社に詣でて詠んだ歌。
かはらんといのる命は惜しからでさても別れんことぞ哀しき
歌集に赤染衞門集がある。
紫式部日記に彼のことを評してゐるのは、或ひは彼女の娘の江侍從のことではないかとの說もある。しばらく赤染衞門のこととしてその人となりをうかがひたい。
「ことに、やむごとなき(普通でない)ほどならねど、まことに故々しく、歌詠みとてよろずの事につけて詠み散らさねど、聞えたるかぎりは、はかなり折節の事も、それこそ恥かしき口つきに侍れ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れたかかりたる歌を詠み出で(歌の體をなさぬやうな歌をよむことがある)えも言はぬよしばみ事しても、(自分で興ありげにしてゐても)我賢げに思ひたる人、憎くもいとほしくも覺え侍るわざなり」
たいしてほめてゐないのであるが、それは赤染衞門が才走つた詠みぶりを見せなかつたからであらう。「腰はなれぬばかり」は痛罵の言葉でなくて、紫式部の愛嬌である。
さて、私は次のくだりにおいて、この時代――主として平安朝後半期――における庶民階級の女性について記すであらう。

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