日本女性美史 第十三話

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第十三話[編集]

和泉式部[編集]

和泉式部の生れた年は天延二年と推定されてゐる。凡そ皇紀千六百三十年代の初から五十年か六十年の間を多彩、多幸に生きたらしい。父は越前守大江雅致、母は冷泉院皇后昌子內親王に仕へた女房である。
幼時は昌子內親王のおはす宮中で育てられ、十七歲にして早くも女房の役についた。さうして、二十三歲のとき和泉守橘道貞と結婚した。和泉式部の名はそこから出たらしい。道貞は和泉守だからたいてい任地にゐて式部とは別居してゐた。小式部が生れた。そのころから和泉式部については何かと噂󠄀があつた。しかも式部の良人道貞を思ふ心は常に切なるものがあつた。噂󠄀は遂に道貞を怒らせ、離緣になつた。
あらざらんこの世の外の思ひ出に今一たびのあふこともがな
と云ふ歌はその哀切の思慕の情ゆえに千古の絕唱となつたのである。
和泉式部日記はそののちの、戀愛華やかなりしころの記錄であつて、長保五年四月十日すぎから、翌、寬弘元年正月に終つてゐるから、凡そ彼女が三十から三十一までのころの手記である。紫式部が宮中に入つたのは寬弘三年であるから、紫式部が宮中の貴族たちに持てはやされたころ、彼女は京の貴族の家にあつて、同じ貴族たちに思慕されてゐたのである。貴族たちは、紫式部には思慕をよせることさへもしにくかつたが、和泉式部には親しむことができた。
和泉式部の思慕しまゐらせたのは師宮であつた。このお方のことは詳しくは和泉式部日記でも知られない。兎も角、さう呼ばれたまふお方との往來がこの日記に、いとも艷麗に記されてある。
この日記の特長は、多くのすぐれた歌の贈答にあつて、筋は歌に埋もれてゐる。その中から私の心をひく一節を記すであらう。
式部はある夜、誘ひ出されて無理に御車にのせられた。そして途中でおろされて、御一緖にそぞろあるきしながら、しみじみとしたお話を交した。
そのやうな情景のあつたあとで、またも御車で御迎へがあり、學者の考證によると、六條北烏丸西、小一條院御領なる南院に入るのであつた。いろいろ物語のあるうちに早くも夜が明けた。
「明けぬれば、
鳥の音つらき、
とのたまさせて、やをらうち乘せておはしぬれば」
とあるが、これからの一節がこの日記の絕品である。鷄の鳴くのにせき立てられて二人で車に乘つた。車は華やかな色彩の模樣のあるものである。
「こんな時には、きつと、あなたの方から出かけて來て下さい」
と仰せられると、式部は、
「いつもと仰せられましても」
と、お答へする。
式部を家までその車でお送りになつた。しばらくしてからお手紙が來た。以下原文である。
「今朝は憂かりつる鳥の音に驚かされて、つらかりつれば殺しつ。見給へ。とて、鳥のはねに書きて、
殺してもなほあかぬかな寢ぬ鳥の折節知らぬ今朝の初聲
御返し
いかがとは我こそ思へ朝な〱鳴き聞かせつる鳥を殺せば
と思ひ給ふるを、鳥のとがならぬにや。
とあり」
この情景はよくよく和泉式部の氣に入つたと見えて、式部の家集にもわざわざこの時のさまを、「鳥の聲にはかられて急ぎ出でて憎かりつれば殺しつ、とて、羽根に文をつけたまへれば」と前書して、右の「いかゞとは」の歌を收めてゐる。
私がここに、この一節を引いたのは、この時代の女性にして尙ほ一種の嗜虐性心理が働らいてをり、それが戀愛生活を彩つてゐることを思ふからである。この日記には、文使ひの童を殺したい、と云ふ一節もあるが、それはもちろん氣まぐれのざれごとにすぎないけれども、和泉式部の心には、それが、かりそめの、思ひつきでもなかつたかのやうである――。
さて、このやうな生活もずぎて、三十を恐らく五つ六つも越えたであらうと思はれる寬弘六年の晚春に、一條天皇の中宮彰子の御許に宮仕へした。當時、中宮には赤染衞門、伊勢大輔などの才媛が多く仕へており、紫式部は和泉式部より三年早く、寬弘三年に仕へてその翌年樂府を進講し、才學を稱へられてゐる。
紫式部は早くも和泉式部のなみ〱ならぬ歌才を認めたが、同時にその品位なきを輕蔑せざるを得なかつた。和泉式部から見れば紫式部は三、四歲の年下で、その美くしさに品位があり、學才のあることもわかつたけれど、世間知らず、男知らずのくせに妙にとりすましてゐるのが癪であつた。
宮中における和泉式部については多くを知り得ないが、紫式部日記には彼女のことが次のやうに記されてある。
「和泉式部といふ人こそ面白う(文を)書き交しけれ。されど和泉は怪しからぬ方(どうかと思ふ點)こそあれ。打解けて文走り書きたるに、其の方に才のある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、(古歌などの)物覺え、歌のことわり(歌論))眞の歌詠みざまにこそ侍るらざらめれ。口に任せたる(卽興の歌)事どもに必ずをかしきひとふしの、目に留る詠み添へ侍り。それだに(さう云ふ人であるのに)人の詠みたらむ歌なん、ことわりゐたらむは、「いでやさまで(歌の)心は得じ(とてもわかるまい)口にいと(ほんの口先でばかり)歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。(他人が讀んでも讀む者の方で)恥づかしげの歌詠みや、とは覺え侍らず」
その歌に輕薄なところがあるのを非難したのである。然し、和泉式部がもしこの批判を讀んだら、「さう云ふあなたの文章は何と云ふしまりのない惡文でせう」と、やり返したかも知れない。和泉式部日記は簡潔無比の文章である。尤もこの日記は式部のことが「女」と三人稱で書かれてゐることや、その個性の判然としてゐないことによつて、他人の僞作だと云ふ人もあるが、私はその說はとらない。


さて、彼女の仕へてゐる間に、最愛の子である小式部內侍も召されて同じ宮へ仕へたが和泉式部は、道長に重用されてゐた武人藤原保昌に嫁した。時に保昌は五十を越えてゐたが、才色すぐれた三十女は往々にして文事にうとい武張つた男や、さつぱりした商人に親しみなれること、今も昔も變りはない。式部は嫁して必ずしも幸福ではなかつたが、またこれ別箇の好生活であつた。卽ちともに任地の大和や攝津にも、また丹後にも甘んじてついて行つた。
ある時、宮中で歌合があり、小式部內侍も歌を考へてゐると、中納言藤原定賴が內侍をからかつて、
「丹後の行李は還りましたか。さぞ待ち遠いことでせうね」
と云つた。「行李」は、その中に收められた代作の歌をほのめかしたので、日ごろ、內侍の歌は和泉式部の代作や添作が多いとの蔭口が行はれてゐたので、口の輕い定賴がさう云つて、つ、と立つた。その瞬間、內侍は若いだけに反撥もあり、天才だけに歌詞もととへることが出來たのであつた。
大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
定賴はさぞ赤くなつて、且つ詫び、且つほめたことであらう――そこまでは傳はつてゐない。
ここで私は和泉式部の、佛敎讃仰の母としてのやさしさに觸れたい。
ある年、彼女は上東門院に從つて書寫山に參詣したが折惡く性空上人は留守であつた。彼女は寺の柱に一首の歌を張り付けておいた。
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかき照らせ山の端の月
上人はこの歌を見て、この作者は法話のわかる女だと思つた。それは、法華經に、
「冥從(よ)り冥に入り、永く佛名を聞かず」
とある句から心を汲んだ歌であることがすぐわかるからであつた。上人は直に一行をよびもどして法門を說いた。
子の小式部內侍が病氣になつた。內侍は枕元で泣いてゐる母に、苦しい息の中から詠んで詫びた。
いかにせむ行くべき方もおもほへず親に先だつ道を知らねば
母の式部の慰める歌、
小足たてたどり行くらん死出の山道しらうんとて歸りこよかし
內侍は若うして死んだ。式部は、內侍の常に持つてゐた手箱を見るだに追慕の心切なるものがあつた。
戀ひわぶと聽きにだに聽け鐘の音うち忘らるる時の間ぞなき
內侍の子――式部の孫――を見る心は更にかなしかつた。
とゞめ置きて誰をあはれと思ふらむ子はまさりけり子はまさるらむ
上東門院から式部にたまはつた衣に、小式部內侍と書きつけてあるのも哀しい思ひ出であつた。
もろともに苔の下には朽ちずして埋もれぬ名を見るぞ悲しき
私がこのやうに、母としての和泉式部を多く語るゆえんは、彼女は往々にして放縱淫蕩の女とばかり評されるからである。戀も離別も死別も信仰も、いづれか和泉式部の心を高うせざる。私は紫式部よりもむしろ、多彩の女として、この、おしられ易い和泉式部の心の琴線に觸れたいのである。
彼女の晚年については定說なく、餘りに多くの傳說ばかりがある。今山城國誠心院に傳はつてゐる彼女の畫像は尼の姿に描かれてゐる。さぞなまめかしい尼であつたらうと思はれる。

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