日本女性美史 第十五話

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第十五話[編集]

平安朝の庶民の女性[編集]

平安朝、後半期の庶民階級の、女性生活を見るに當つて、先づ、この時代の世相を概觀しよう。
大まかに見て、都會、田舍を通じ、貧富の差がきわ立つて來た。どうして貧富の差ができたのだらう。大化の改新で、日本中の公民は口分田として、水田を分ち與へられた。男は二段、女はその三分の二を與へられた。そのほかに、桑、漆、蔬菜を作る畠を支給された。公民は勝手に移住することをゆるされなかつた。これだけの條件を見るとみんな安易に暮すことができた筈だが、年々の收入は減ることはあつても增えることはなかつたのに田から取り立てられる租、公の土木にしたがふ庸があり、その上、勞役に出られぬ者は作物を納めねばならなかつた。それから手工業品を收める調もふりかかつてゐた。そして、移住がゆるされないために、出稼することも出來なかつた。たゞ、養蠶が奬勵されたが、これとても年によつて出來、不出來があり、安心される副收入とはなつてゐなかつた。政府や高僧の努力によつて、水利もよくなり開墾もされたけれど、とても一ぱんの窮乏を根本的に救ふには足りなかつた。
男手がいろいろのことに取られるため、女も戶外勞働に出てわづかでも金を得ようとした。これは平安朝のよほど末ごろの記錄によるのだけれども、もつと前からの世相としてあらはれてゐたことに、女の人夫、女の船頭があつた。但し女の船頭は急流の渡しには從事しなかつた。竿をつゝぱるには可成りの力がいる。
都會では、わけても平安の都では、商業が盛になり、商家が軒をならべてゐた。宇治拾遺物語の中に、大きなあばらやの中で、女ばかりが、絹を山と積んで、八丈と交換してゐることが書いてある。そんな商もあつたらしい。
大商人の手では、唐、中央亞細亞、南洋各地からの輸入品、全日本各地からの貨物が商はれたが、その間に起つた當然の現象として、大商人、小商人のけじめがついて來て、金持はいやが上に富み、小市民はいつまでもみじめであつた。そこへ、盜人など、都近くにまで巢食ひ、良民を惱ませるのであつた。
一ぱんに、實力――財力と武力――あるものが次第にゐばり出し、次の武家時代の素地(ひたぢ)をつくりつつあつた。
このやうな世相に與へられた精神的安住の世界は佛敎であつた。平安朝に入つて最も引められた宗派は淨土敎である。その敎旨は、阿彌陀佛に救を求めて極樂淨土に行き、生れかはつて衆生を救はうと云ふのである。そのためには、念佛の道場を造るほど、念佛に心を盡した。
この宗旨は、不安の世相、貧富のへだたりに苦しむ庶民にとつてはまことに手ごろの、そして信仰しやすい宗旨であつた。その宗旨を一ぱん民衆に弘めたのは空也上人である。上人は京都で、踊り念佛と云ふものを弘めだした。
踊り念佛は空也上人が鞍馬山に參籠して、毘沙門天から鉢を授かり、念佛に合せて叩き出したのが初まりだと云ふ說や、松尾神社に參詣して、明神から太鼓を授かり、歡喜して鐘、太鼓を叩きながら念佛し出した、と云ふ說など數說あるがその說も正しいのである。つまり、この單純にして力强き布敎方法を靈感によつて弘めだしたことがわかればよいのである。なにしろ奇拔で、面白さうだから、みんなつい、一緖になつて踊つた。もつとも識者はこれを見て、苦々しいことだと思つた。踊の狂態を記して、
「ひとへに狂人のごとくにして、にくしと思ふ人をば、はゞかる所なく方言して、これをゆかしくたふとき正直のいたりなりとて、貴賤こぞりあつまりし事、さかりなる市にもなをこえたり」
と記したのは「野守鏡」と云ふ本である。眞宗では後に、「破邪顯正義」を公にしてこの念佛宗を眞ッ正面から非難したが、すわつて說敎を聽くよりも、踊つて救はれる方が當時の庶民には嬉しいことであつた。
それほどでなくとも、念佛によつて往生し、佛樣のおそばに行く、と云ふことは女性の信仰としては最もありがたいことに相違なかつた。
このやうな世相から、いろいろの市井の女の言行が傳へられてゐる。以下、宇治拾遺物語から二三の話をとる。
丹波國に老いたる尼があつた。地藏菩薩は曉どきに必ずお步きになると人に聞いて、自分も每朝早く步いて地藏菩薩をおがみたいものだと思つた。ある朝、ばくち打の徒の居るところを通りかかると、ばくち打が、この寒いのにどこに行きなさると尋ねた。仔細を語ると、地藏に會ひたいのなら連れて行てあげるから何かお禮を出しなされ、と云ふので、着てゐる衣をやらうと約束した。ばくち打はすぐ鄰の家へ連れ込んで、この家だと敎えて約束通り衣を貰つた。家の人は、へんな尼が來たと不思議に思つてゐるところへ、ぢぞうと名付けてある忰が外から歸つて來たので、「おい、ぢぞうや」と呼んだ。と、その尼はいきりり地にひれ伏して、恭しく禮拜し、ふと子供の顏を見ると、額のあたりに、えも云はれぬ尊い地藏樣のお顏が見えたので、はツとばかり感淚にむせんでおがみつゞけた。その日から間もなくこの尼は安心し切つて、大往生を遂げた。むろん、念佛を唱へながら極樂に行たのである。
淸水におまゐりする者のうちに、進命婦(しんみやうぶ)があつた。若く美しい女であつた。淸水の僧はそのころ八十歲であつた。法華經を八萬四千遍も讀み奉つたほどの淸純な僧であつたが、この若い女を見て病みついてしまつた。三ケ年、食が進まない。八十三歲まで戀ひこがれたわけである。弟子がわけを知るて氣の毒がり、進命婦のもとに行て、事情を話した。進命婦は早速僧の枕元に來て見舞つた。僧は髯も髮も銀の針のやうに伸び立つて、鬼のやうに見えたが、女は恐るる氣色おなく、やさしく云つた。私は何年來か、お坊樣を慕つております、あなたのおつしやることならどんなことでも背(そむ)きはいたしません、こんなにまでおなりにならないうちに、どうしてさうとおつしやつて下さいませんでした。この女の言葉は老僧を喜ばせた。弟子に命じて抱きおこさせ、念珠をおし揉んで云ふやうは――以下原文のまま。
「嬉しく來らせ給ひたり。八萬餘部讀み奉りたる法華經の最第一の文をば御前に奉る。俗を產ませ給はば關白攝政をも產ませたまへ。女を產ませ給はば貴き御方を產ませたまへ。僧を產ませ給はば大僧正を產ませたまへ」
かく唱え終つて、さも安心したやうに大往生を遂げた。そののち、この女、藤原賴道(道長の子、道長の次に攝政となつた)に思はれて、のちの大僧正、三井寺の覺圓座主を產んだ。
ある家の女房、さる若い僧に、曆を假名で書いて下さいと賴んだ。若い僧がおやすいこと、と、曆にその日その日のことを書いた。神佛によし、だの、凶日だの、物食はぬ日だの書いて行くうちに書くことがなくなり、「こすべからず」と何日ぶんもつづけて書いた。女は每日曆の通りに實行していたが、「こすべからず」――便所に行くな――とあるのに、おかしいなとは思ひながらもお坊さまの書かれたことによもやまちがひはあるまいと、每日こらえてゐたが、四日目にお尻を抱えてウーンと卒倒した。

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