日本女性美史 第六話

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第六話[編集]

上代女性の社會生活[編集]

私は神代と、それにつづく人皇しろしめすころの女性を、その時代の人々と、女の埴輪によつてうかがひしのんだ。その純情と、簡素の中の美くしさとに觸れた。
彼女たちは社會的にどのやうな待遇をうけ、どのやうに振舞つてゐたであらうか。
國初から大化の改新まで、凡そ七百年間を上古または上代と呼ばれてゐるが、この間の社會の仕組を見ながら、そこに含まれる女性について思を馳せることとしよう。
上代は氏族制度の末期であつた。血のつながりで結ばれた一團の氏族が、氏(うぢ)の上(かみ)なる首長の統制の下に、敬神と勤勞と情操の生活をつづいえてゐたのである。そして氏の上は神をまつり、神意をおそれ、神意によつてよろづのことを裁斷してゐた。氏の上は世襲であつた。
これだけの事實から更に女性の役割について考へる。
先づ、氏の上たる男子が氏族を統べる、といふのは正常の社會單位の狀態であつた。恐らくこの制度にあきたらず思ひ自由活闥の境地にあこがれた者もあつたことと思はれる。或ひは、王化あまねからざる地に行て、惡者の群に身を投じた者もあつたのではあるまいか。この推察は九州の土蜘蛛に關する日本書紀の記事によつて下されたのである。ことにある惡漢の集團が女を頭目にいただいてゐたことから、私は女性の變則なる社會的發展に興味を持つものである。
日本書紀卷第七景行天皇の十二年のくだりに次のやうなことが記してある。
「ここに女人あり、神夏磯姬(かむなつしひめ)と曰ふ。その徒衆(やから)甚だ多し。一國の魁師(ひとのかみ)なり。(この用字によつて賊の頭であることがわかる。)天皇の使者至ると聽えて、(降伏の意を表するためにそのころの習俗によつて)則ち、磯津(しづ)山の賢木をこじとりて、上枝には八握(つかの)劔をとりかけ、中枝には八咫(やたの)鏡をかけ、(もちろん、神器ではない、あのやうな形の鏡である。)下枝には八尺瓊(やさかにのたま)をかけ、また白幡(はた)を船舳(ふなのへ)にたて、(天皇の御前に)參向(そね)りて曰く、願はくば兵をなつかはしそ」
また、この話につづいてすぐ、速見邑(はやみむら)といふところで、速津姬(はやつひめ)といふ女が土蜘蛛の居どころをお知らせすることが書いてある。やはり女賊の頭であつたと思はれる。
男が女にしたがふのは一種の變態心理でもあるが、この時代は、神に仕え、神をまつるには女の方が適任とされてゐた。氏族の場合でもさうであるが、土賊の集團にあつても、神罰はおそろしかつたので、女を頭目として神をまつつたのである。
この祭神の點から考へて瀧川政治郞氏は、「太古の社會における氏族なる團體は、普通人の考へてゐるやうな血族的親和力によつて結合されていゐたのではなくて、氏の上の魔術的なる力によつて統制されてゐたのである」と斷定してゐるが、かりに「魔術的」なる力で結ばれたとすれば、それは土賊、乃至、土蜘蛛の團體において最も然りであつたので、恐らく(これは私の推斷であるが)頭といただいた女も若く美くしい處女であつた――だれもが仕へる女は處女であり得る――と思うはれる。
ところが、大陸との交通がひらけるに從つて、池を掘つて水を供給し、歷によつて季節を知る時代になると、もう日常生活に天地自然を拜し神意をはかり魔術は力を失ひ、人々は科學する生活を營み、理性の判斷によつて一切のことを解決するやうになつた。
さうなると、もう、神々と女性との交涉はいらなくなつた。然し、それは一ぺんにやんだわけではあるまい。いらなくなつても、しきたりとして、氏の上があつたやうに、神意をきくこと尙ほ、昭和の時代にも雨乞ひが行はれると同じことである。そこで、神に仕へる女の仕草や言葉が、すつかり人間世界のこととつながりのあることと見られ、女も笑ひながら神前から下るやうになつた。
それから今一つの上古の女性の、男性に對して優越感を持ち得る條件があつた。それは、「語り部」の語る役目がもつぱら女性によつて果されてゐたことである。これは、後の世の文學が先づ女流作家によつて日本風に書かれ、しかもその作品が「物語」の名稱で云ひ現はされたことによつて立證されてゐる。卽ち、長谷川如是閑氏は「日本的性格」においていふ。
「特に敎育の機關のなかつた時代においても、日本の國民一般の間には、傳踊による敎育が非常に普及してゐた。而してその敎育の內容も、上層の階級と下層のそれとのあひだに、さう大きい差別はなかつたのである。古事記の內容のやうな歷史物語が、上、下一樣に傳踊されてゐたのである。(中略)しかして、日本國民の思想、感情は、卽ちその傳踊の敎育によつて養晴れてゐたのであつた。而して、この傳踊の敎育に當るものは古い時代から女子であつた。それは宗敎上の儀式に關聯してゐたのである。階級の上下を問はず、女子が傳踊の敎育の受け手であつた。(中略)國民一般の敎養は、男性の敎育さへ女子が受け持つてゐた。かかる傳統があればこそ、純日本文學が起つた時に、主として女子がその開拓者たる榮譽を擔ふこととなつたのである」
古事記が語り部の傳踊を綜合して作られたのは皇紀千三百七十二年(和同五年)であり大化改新ののちいまだ多くの年を經てゐないのであるから、ここに觸れてゐる上古の、いはゆる氏神制度末期における總明なる女性がいかに男性に對して智的に優越してゐたかを知るに足るであらう。もちろん、傳踊そのことは智識ではなく、いはば口調と興味とによる口うつしの物語なのだが、それが「古い事の記錄」とされたほど代々傳へられるうちには語る者の創意も加はり、木花開耶姬の物語のごときは最も熱と精彩とをもつて語られたことと思はれる。私は古事記の筆記者が、或ひは餘りに多辨多才の女による多彩多材の物語多きに、樂しみもし、閉口もしたであらうと――これは私の空想である。
さてまた、上古の社會には、嚴重なる階級があつた。大まかにいつて、氏姓階級の下に公民階級があり、その下に奴隷階級があつた。奴隷は氏の家にれいぞくする「夜都古(ヤツコ)」と呼ばれる階級であつた。ヤツコは途中で氏姓の人に會うと土下座した。そのころの日本歷史を側面からみる有力な史料となつてゐる、魏(ぎ)志倭(ワ)人傳の中に、
「下戶(ヤツコ)大人(氏姓)と道路に逢へば、逡巡して草に入り、辭を傳へ、事を說く。或いはうづくまり、或ひはひあまづく」
とあるから(むろん私には孫引である)よほどへり下つてゐたものと見える。ヤツコは借金が返せなくなつたものもあつた。もとより、男も女もゐたのである。女性のヤツコについてのローマンスは、のちに萬葉女歌人のくだりに說く。ここにはたゞ、上古女性の一つの姿としてヤツコのあつたことを記すにとどめる。

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