日本女性美史 第七話

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第七話[編集]

萬葉女性歌人[編集]

萬葉集全二十卷を通じて、最も多く歌はれてゐるものは戀歌である。戀歌をふくむ一つの部門の歌を「相聞(さうもん)」と名づけてあるが、これはその讀み方が、曾ては、「あひぎこえ」であり、「したしみうた」であつたやうに、ひろく「往來の信書」としての歌として見るべきである。從つて、「戀」は「戀」だけれども、戀ひわたり、狂ほしき心となり、情痴的な情景を聯想させる、と云ふやうな「戀」ではなくて、親しみを戀の言葉であらはす、と云ふうほどの、ひろやかな心で朗誦すべきものである。もしその言葉が痛烈であり、聯想させることが深刻であるなら、それは作者の人間精神の高いことを示すものである。むしり、自然の美くしさを讀んで、萬葉集時代は戀ばかりしてゐたやうに思ふてはいけない。むしろ、自然の美くしさを歌う心や、人情の純眞さを歌ふ心とよみ合せて、いかにこの時代の人々が心を高こうし、なだらかにも高いリズムを持ち、當時の俗語をいやみなく歌ひこなしてゐたかを考へねばならぬ。歌は「作る」ものではなくて、「よむ」ものであつた。心の流るるところにうたがあつたのである。
このやうな見地から相聞歌を見るとき、萬葉歌人の、男がいかに女を見、それに親しんでゐたか、女がいかに男を見、それに親しんでゐたか、を、身近に感ずることが出來るであらう。
ここに藤原鎌足の歌がある。
われはもや安見兒得たり皆人の
得がてにすとふ安見兒得たり
宮女の中に安見兒と呼ばれる美女があつた。その美女と相知つた時のよろこびをよんだ歌である。而して、この作者は、一代の名臣、當代最も高名なる大政治家であり、比類なき名門の人である。その人がこの素朴さ、純眞さを歌ひ得たのであるから、われらは萬葉女性歌人を知る前に、まづ、男にこの心あり、と注意せざるを得ないのである。
そこで轉じて、野に咲く花の、無名女歌人の作品を見よう。
人皆今は長しとたけといへど
君が見し髮亂jれたりとも
これは三方(みかた)の沙彌(さみ)と云ふ人が女に會つたのち病んで、女に送つた歌、「たけばぬれ、たかねば長き妹が髮この頃見ぬにかきれつらむか」とあるに答へたる歌である。さてこの娘のよみかへした歌の意味は、「みなさんは私を見て、この頃は髮も長くのびて、振分髮では似つかはしくないから、早く髮を結つたらどうですかとおつしやるけれど、初めてあなたにお會ひした折の姿を變へたくないから、よしや亂れてゐてもこのままにして、病いえてのち、あなたのいらつしやるのをお待ちしております」と云ふのである。言、切にして意長く、娘ごころは永遠にやさしい。
柿本人麿の妻が良人の旅立つとき別れを惜しみたる歌。
な思ひと君はいへどもあはむ時
いつと知りてか吾が戀ひざらむ
「やがて歸つて來るから心配するな、とあなたは慰めておつしやるが、のこる身にとつては、またいつお目にかかれることやらと思ふにつけ、思はずにゐられないではありませんか」との意。卽ち、戀人ではなく良人に對して、さながら若い戀人同志のやうな氣持でよんだ歌で、しかも、わざとらしくなく、自然にこまやかな情をあらはしてある。
戀ひしたつて、しかも、何の心配もなく、互の心に安心し切つた歌もある。
今更に何をかおもはむ打なびき心は君によりにしものを
わが背子は物な思ほし事しあらば火にも水にもわれなけなくに
後の歌第二句は「何の案じることもないでせう」と云ふほどの意。「われなけなくに」は、「われあるものを」の語意を別の言葉で云つたまでで、「私と云ふ者がある、私なくしては」と云ふのである。ともに萬集女歌人の强い心である。
あまりにも總明であり、反省的でもあり得た家の娘は、時に自嘲、諧謔の言葉で中年の戀をよんでゐた。穗積皇子の孫なる廣河女王の作。
戀草に力ぐるまに七車つみて戀ふらくわがこころから
彼女たちの作つた二三の歌を見よう。
草枕旅ゆく君と知らませば岸のはにふに匂はさましを
大和道(たまとぢ)は雲がくりたりしかれども我が振る袖を無禮(なめし)と思(も)ふな
右、太宰大伴卿(大伴旅人)大納言に兼任して、京に向ひて道に上る。(中略)時に卿を送る府吏の中に遊行女婦(うかれめ)あり。その名を兒島(こじま)と曰(い)ふ。ここに娘子、この別れ易きをいたみ、彼の會ひがたきを嘆き、涕を拭ひ、自ら袖を振る歌をうたふ。
前の歌は、どうせ旅路のあなたゆえ、しばらくここで遊んでいらつしやい、と甘えいざなふ心。後の歌はもつと上品に、別れを惜しむ切なる心を袖振るそぶりに見せつつ、「無禮と思ふな」とうたふところに、反つて思慕の哀切なるを思はしめる。
次に男の作つた歌によつて、旅路にうかれ女のゐたことをしのぶとしよう。うかれ女のことをそのころ手兒(てご)と呼んだ。
あづま路の手兒のよび坂越えかねて山にか寢むも宿りはなしに
手兒はまた「手兒奈」とも呼ばれてゐる。うかれ女である場合もあるが、また、一ぱんに、他人の家に使役される身分の女でもあつた。
眞間の手兒奈を歌へる歌がそれを語つてゐる。下總國葛飾郡の眞間に住んでゐた乙女のことである。ここに揭げるのは、その乙女をよめる歌四つの中の一つで、常陸國の役人である高橋連虫麻呂の作れる歌である。
鷄が鳴く吾妻の國に
古にありける事と
今まで絕えず言ひ來る
葛飾の眞間の手兒奈が(以上、傳へ聞く乙女のことをしのぶ言葉)
麻衣に靑衿(えり)著け
ひたき麻を裳には織り著て
髮だにも搔きは梳(けず)らず
履(くつ)をだにはかず行けども(以上、その身なりのお粗末であつたことを)
錦綾の中につつめる
齋兒(いはひご)も妹にしかめや(以上、天成の美しさあ美裝の上流婦人も及ばぬと)
望(もち)月のたれる面(おも)わに
花のごと笑みて立てれば
夏虫の火に入るがごと
水門(みと)入りに船漕ぐごとく
よりかくれ人のいふ時
いくばくも生けらぬものを(以上、多くの男に云ひよられたことを)
何すとか身をたな知りて(この一句、自分の身をどう思つたことかとの意)
浪の音騷ぐ湊(みなと)の
奧津城(おくつき)の妹がこやせる(以上、海に身を投げて死んだことを)
遠き代に有りける事を
昨日しも見けむがごとも
思ほゆるかも(以上、あまり人々の云ひ傳へるのでつい、このほどのことと思へると)
葛飾の眞間の井見ればたちならし
水汲ましけむ手兒奈し思はゆ
そこで、この乙女の美くしさと、なぜ自殺したかと云ふわけとについて、いろいろのことが考へられるのであるが、兎に角、當時、奈良の都にまで聞こえた美女であつたことはわかる。この乙女が決して職業的なうかれ女ではなく、人の家に使はれる女であつたことは身なりが粗末であつたとの云ひ傳へによつてわかる。それなら、そのやうな身分の女がどうして都の人々に知られてゐたか。思ふに、當時の習俗として、非常に美くしい女のもとに男が云ひ寄つたり、話をしに行つたりすることは、男女の身分の如何にかかはらず、自由であつたのであらう。彼女を使つてゐる人も、都から來る役人などに、彼女が應接することを咎めなかつたと見える。(一說には單に貧家の美女と解すべきで、あながちに人に使はれた者ではなかつたとのことである。それにしては歌の「水汲ましけむ」の意が判然としなくなる)それをユーモラスに、「夏虫の火に入るやうに」と比喩で歌つたのである。だから、ある詩人が東國へ任官になると、きまつて同役や友人の人々から、「下總に行たら眞間の手兒奈を見るのがしみでせう」などと羨しがられた。
それほどに多くの男に愛せられた乙女がなぜ自殺したか。彼女を「女奴隷」として考へる人の解釋では、主人が死んだので殉死したのではないか、殉死は公には禁止せられてゐたが當時まだ一ぱんに行はれてゐたのだから、とのことである。然しこれもそれと確證もなく、一つの推量にすぎないのであつて、むしろ、乙女心に、「自分はどうしたらいゝのだらう」と思ひ餘つて身を投げたと解してよいのではあるまいか。昔も今も乙女心は單純にして不可解である。また、それほど單純であつたればこそ、都の女を見馴れた人たちには强く心をひかれてゐたのにちがひない。
さて、そのやうな身の上の乙女のことが、この歌の作られた時より更に「遠き」代にあつたことなのだ。もつとも、この「遠き代」が非常に古い時代と云ふことではなくて、「いつのころだつたか、ある時」と云ふほどの意であることは、貧富の差の甚しい時で、そして遠い地方の人までも云ひ寄つたと云ふことによつて考へられることである。現在、この眞間の地に手兒奈神社が建立されてをり境內の老松はその墓標だと云ひ傳へられてゐる。
最後に、「巫女としての萬葉時代の女性」をある學者の解說によつて記しておかう。
上は后妃から、女官にいたるまで、宮巫として宮廷の神および神なる君に仕へられた。また、氏長、國造の家々にも、巫女が澤山ゐた。宮廷の女官は、女官であると同時に、もつと大切なことには「巫女」であつたのだ。
大伴坂上郞女(おほとものさかのうへのいらつめ)が神を祭る歌を見よう。
久方の天の原より
あれ來たる神の命
奧山の柳が枝に
白髮つく木綿とりつけて
齊(いは)い甁(べ)をいはひほりすゑ
竹玉をしゞに貫(ぬ)き垂り
しもじもの膝折りふせ
手弱女のおすひ取りかけ
かくだにも吾れはこひなむ
君にあはじかも
反歌
木綿だゝみ手に取り持ちてかくだにも吾れは乞ひなむ君にあはじかも

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