日本女性美史 第九話
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第九話
[編集]女性の佛法讃仰
[編集]- 聖德太子は佛敎を日本國民全體におひろめになつた。そして、聖武天皇、光明皇后のあつき佛敎御讃仰によつて、佛敎は非常にさかんになつた。
- 光明皇后は熱烈なる御信仰を救民の聖業にあらはしたまふた。皇后宮職の經費を御節約になつて、施藥院を設けられ、藥草を栽培したまふた。また悲田院を置かれて、飢えたる者、病みたる者を療養せしめたまふた。傳へらるるところによると、皇后は御みづから千人の惡い病の患者を療養したまふたのである。
- 光明皇后はこのやうに尊いお方であらせられるのに、世のためにおつくしになつたのであるが、日本女性の昔から傳へて來た淸らかにやさしいうちにも强い信念のある特性は、早くから佛敎の光にふれて讃仰の生活に入る者を出してゐたのである。以下、臣下の女性にしても社會的に信仰の生活をしたものの事蹟をしのぶとしよう。
- 孝謙天皇の御代に(皇紀千四百年代の初)和氣淸麻呂の姉、和氣廣虫(わけのひろむし)と云ふ婦人があつた。備前國藤野の人で、幼ない時から才學すぐれ、佛敎の信仰があつかった。良人に死別してからのちは得度して法均尼と稱し、不幸の人を救ふことにつとめた。
- そのころ、藤原仲麻呂が僧道鏡と爭ひ、その一味の者三百七十五人が叛逆者として死刑に處せられようとした。法均尼は佛敎の信仰によつて、天皇に奉したので、天皇は死刑をおゆるしになつて、流刑に處せられた。
- この亂がしづまつてのち、凶年で五穀みのらず、飢えて子を捨てる者が多かつた。法均尼は所々に人をつかはして八十三人の幼兒を援ひ、自分の養子として愛育した。牛乳のなかつたころに、乳兒をどうして育てたかを知りたいのだがざんねんながらわかりかねる。天皇は尼の德行をたゝへられ、從四位の封戶、位錄、位田をたまはつた。
- 皇紀千四百二十九年(稱德天皇神護景雲三年)弓削道鏡が天位をうかがふた。道鏡は當時皇室の佛敎御愛護をよいことにして、政治上にも出しやばつており、當代佛敎に對する政策をひとりで處理してゐた。たとへば僧侶が寺を去つて山林の中で修業することを禁じたりしてゐた。その權勢をたのんで遂にこの極惡無道のことを考へ出したのである。
- 孝謙天皇は皇位繼承の重大事であることを思し召され、詔して法均尼に、宇佐八幡宮の神吿を受けさせようとせられた。法均尼がいかに天皇の御信任深かりしやを察するに足る。しかも、かよはい尼の遠路を氣づかはせられ改めて弟淸麻呂にこの大任を仰せつけられた。淸麻呂の複奉は嚴として皇統の尊きをまもり奉るものであつた。道鏡は怒つて淸麻呂とともに法均尼をも流罪に處し、名をも俗名の刑部狹虫と變へさせた。廣蟲より狹蟲の方が女らしく聞こえてよささうに思へるが道鏡は感がにぶかつた。だが、遂に天日は明らかに、道鏡は流され、法均尼は淸麻呂とともにゆるされて、やがて典藏の役をさづけられ、宮中の出納をつかさどるの光榮に浴し、光仁天皇の御代まで引つづきその職にあつた。光仁天皇は法均尼に一ども人をそしる言葉のなかつたのを御ほめになつた。
- 法均尼は七十歲で卒去した。のちに遺德をたゝへられて、正三位を贈られた。
- 飛鳥、奈良時代にはこのほかに多くの佛敎讃仰の婦人の佳話がある。
- 敏達天皇の朝(皇紀千二百年代)日本民間に初めて百濟から佛像が渡つて來た。それは百濟王が、わが皇室に佛像、經論を獻じた皇紀千二百十二年からやつと十年餘りを過ぎたことのことである。
- そのころ、一ぱんには、いまだ佛敎が理解されてゐなかつたが、歸化人司馬達等の娘、島(鞍部島女と名のる)深く感ずるところあつて、大臣(おおほみ)蘇我馬子、父の達等(たつと)らのはからひで、わづか十一歲の蕾の身をもつて、播磨の修行者惠便(ゑべん)から得度(出家受戒)を受け、わが國初の出家となり、法名を善信尼と云つた。司馬達等(しばたつと)は支那の南北朝の末に梁(りょう)(國の名)からのがれて來た歸化人で、その當時の支那では亂世に生きる苦しみを佛敎に歸依してまぬかれてゐたからで、司馬達等もすでに佛敎を知つてゐたのである。このやうな因緣だから、善信尼と同時に、同じく支那からの歸化人の女二人も出家して、善信尼の弟子となつた。
- 蘇我馬子は三人の若い尼のために一つの精舍を營み與へた。たまたま、疫病が流行したのを、佛敎排斥派の物部(もののべ)氏らが、佛像禮拜のたヽりであるとして、信者に壓迫を加へた。善信尼ら三人の尼も捕へられて法衣を奪はれ、禁錮せられ、引き出されては鞭で打たれたが、善信尼はよくその苦痛に耐えて信仰を捨てなかつた。
- 膳信尼はのちに、他の二人の尼とともに、ゆるされていよいよ讃仰の念を深うした。ゆるされて數年ののちのこと、善信尼は大臣蘇我馬子に請ふて、百濟にわたつて戒律を受けるゆるしをうけ、百濟からの使者恩率(おんそつ)首信について、二人の尼とともに百濟に入り、一年間留學して歸朝した。そののちの尼は大和の櫻井寺で二人の尼とともども修業をつづけ、且つ、多くの人を信仰に導き出家させた。まことに善信尼は、女性史の上にも佛敎史の上にもかぐはしい名をのこしてゐるのである。
- 齊明天皇のころ(皇紀千三百十年代)百濟の歸化人の女で法明尼と云ふ尼があつた。天皇、內大臣中臣鎌子(なかをみのかまこ)(同名が二人あるが、これは藤原鎌足の初めの名である)の病に臥したのを深くうれひたまふた。その時法明尼は維摩經を讀誦すれば必ず靈驗ある旨を奏した。おゆるしを受けてみずから鎌子の邸に行き維摩經を讀誦したら、いまだ終らざるに鎌子の病は平癒した。天皇は法明尼に御感賞をたまはつた。これが興福寺の維摩會の起源である。これによつて女性の佛敎讃仰が識智、信仰とともに進んでゐたことが思はれ、且つ皇室にまで女性の信仰が認められてゐたこともわかる。
- 今一つのお話は、芝居にもなつて名を親しまれてゐる中將姬卽ち法如尼の事蹟である。法如尼は奈良朝に時めいた右大臣藤原豐成(とよなり)の女で長谷(はせ)觀音の授かり子として育てられた。三歲の時母に死別し、繼母の手で冷たく育てられた。幼いころから信心深く、ある時、
- 初瀨寺(はつせでら)救世(くせ)の誓ひをあらはして女も法(のり)の國をむかへん
- といふ歌をよんで大人たちを感心させた。
- やや長じて父豐成が讒言によつて貶せられたのをかなしんで天平七年大和の當麻寺に入り、黑髮をおろして法如尼となつた、とも傳へられてゐるが、もとより幼時からの信仰により、且つは繼母育ちのはかなさから出家したことも考へられる。死んだのは二十九の年である。お芝居では二十すぎの姿でまだ黑髮長き麗人として登場するが、尼では役者もなりたがらないからであらう。法如尼の名の傳へられる所以は蓮の糸で曼荼羅(まんだら)を織つたといふこと以外には、繼母のために虐められたり殺されようとしたりしたことが俗人の間に傳へられてゐるだけである。女性史上の人物としては、佛門ことに淨土敎に入つて信仰あつく觀無量壽經をよく讀誦し、一大圖樣を創作して曼陀羅をつくつたことを稱えれば足る。そして、この時代に、上流の美くしいお姬樣が生れながらに佛緣ありとして育てられたり、出家したりした、その一つの社會的傾向をうかがひ知ればよいわけである。
- 奈良朝から平安朝の時代に入ると、更に多くの法敎讃仰の婦人の出現を見た。然し、私は平安朝の女性をもつとひろく、文化史上の群星として眺めるであらう。
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