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日本女性美史 第十話

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第十話

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平安朝の時代相

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平安朝。これは日本女性史の一つの頂上である。女性の國家生活における生活旋律を線で現はすならば、神代において高きにあつた點が、氏族制度の時代に入つて男性氏の上の支配の下にやうやくひくめられ、その末期においては氏族制度そのものの崩壞せんとする傾向にあはせて低く低下してゐる。これは經濟的に貧富の差が大きくなり家族離散のうき目にあつたことと、文化的にいまだ自覺に入らなかつたことを意味する。さて、奈良朝に入ると、歌謠の作者として、文化史的に女性の藝術的才分がたかめられた意味で、法制上の女性のうけた束縛があつたにもかかはらず女性の生活旋律は漸くたかまつたのである。
さうして今や、平安朝に入つた。それは日本歷史の時代區分の方法によると、皇紀千四百五十四年、桓武天皇の平安奠都ののち、藤原氏一門が榮えてゆくころから、皇紀千八百四十五年、安德天皇の御代、平氏壇の浦にほろびるまで、凡そ四百年間のことである。而して、日本女性においては、もつぱらその中期とも見るべき、藤原氏一門の極盛のころについて見るのである。この時にあたつて、日本女性の生活旋律は、ほとんど神代に近き高さにのぼるのである。但し、いかなる時代にも社會上、經濟上の階級的なけじめ、へだたりがある。私は先づ平安朝中期の世相をうかがふであらう。
西田直二博士の用語によると、文化史上、文化の「荷擔者」と稱せらるる文化分擔の一群がる。「王朝」の名で呼ばれるこの時代にあつては、貴族と僧侶とが「荷擔者」であつた。私はこの言葉を借用し、以て、この時代を語る用語とするであらう。
西田博士によれば、この二つの文化荷擔者を支える柱が四つあつた。血統、經濟的關係官職位階の制度、學問、これである。
以下は博士の解說とは沒交涉である。
日本人の血統を重んずることは、平安朝における貴族の地位を、貴族自分をしても、またそれより下の階級のものをしても、嚴重に保持せしめた。ことに藤原氏が皇室と深い因緣をつくるにいたつて、貴族の文化荷擔者としての地位はいよいよ安全且つ光輝あるものとなつた。一門の榮華は、一門の血のつながりにおいて確保されてゐたのである。
次は經濟的關係。これは貴族が同時に大地主であり、しかもそこに働らく人をも支配し得た關係から、文化の物的內容を豐かにする上に缺くべからざる支柱となつた。
貴族は國家からいろいろの名目で封錄を受けてゐた。職封、位封、職田、位田、季祿、(春秋二季に賜はるもので今日のボーナスに當る)帳內(從者)資人(位階に應じて一定の使役人を下された。太政大臣には三百人下された)事力(地方官に對しその封田の耕作のため一年を期限として壯丁を下しおかれた)などがそれである。つまり、土地と勞働力とが給與されてゐたのである。
ところが、地方には土着の豪族があり、また國司がそのまま居すわつて豪族となるのもあつて、この連中は貴族に持ち地の一部の支配權を寄進して律令による以上の土地を持つことを見のがしてもらつてゐた。藤原氏はそのためいよいよ多くの收入を得られることになつた。然し中流の貴族、官吏たちは、土地は增えないのに生活はふくらんだ。(都會生活の奢侈も災した)彼等のある者はその埋め合せとして、才色すぐれた子女を宮仕へさせた。紫式部や淸少納言を有名にするためには、これら歌の一つよみのこさぬ女房たちが貴族のうしろ姿を眺めて暮してゐたのである。
宮仕へして例へば中宮などに重用されると、衣などの下されたものがあつた。和泉式部の子の小式部內侍も中宮彰子から衣をいただいた一人であつた。
攝政關白の家柄でも、道長の在世のころから、一門の末にあつては金持と結婚したがるものがあつた。宇治拾遺物語の中に、橘俊遠が公卿の一人を養子にもらふたことを記してゐる、その一節に、「されども、きんたち(公達)多くおはしましければ、橘俊遠といひて世の中の德人ありけり、その子になりて」云々とある。一門の榮華とは云ふものの、人數が多くなりすぎたので、圈外にはみ出すっものも出て來たのだ。
官職位階の制度は文學、學問の向上に大に役立つており、ことに學問することを貴族の特權とする上には、官職位階の制度が基礎となつてゐた。
學問は本來萬人のものである。この時代にあつても、地方(例へば讃岐――弘法大師も空海もこの國で敎養を授けられた)に於てもひろまつてゐたし、都會でも市民の敎養は僧侶の說敎を聽くことなどによつて何ほどか高められてゐた。
宇治大納言隆國が五月から八月までの間、平等院一切經藏南の山際にある南泉房にゐる間、往來に面したところに涼み臺を出し、往來の男女をよびとめて話をさせた。それを集めたのが宇治拾遺物語だが、そこに語られてゐる庶人の話から推しても、いろいろの智識の斷片がうかがはれる。
但し、高級の學問は、大學のほかに、各貴族の設けた私學においてひろめられた。藤原氏の私學である勸學院では、お庭の雀までが蒙求を囀つた。蒙求は唐の世に著はされた書物で、故人の事蹟をあつめて口調よく書いた本だから、雀も囀り易かつたのである。
さて、以上のやうん、いはゞ惠まれた條件の下にある貴族が、その時代の文化を、ことに文學の方面においてたかめ得たのは當然のことであるが、時代はまさに唐心醉とまで行かなくとも、唐に學ぶこと多き時代であるから、才學ありと自信するほどの貴族は好んで漢詩、漢文に親しんでゐた。書籍は、錦や香料と一緖に輸入されてゐた。もつとも、經典以外は、たいてい、渡來した書物もお互ひに知り會つてゐるものだけだつたから、一人が何か云へば、ははあ、あのことか、とすぐわかる場合が多かつた。淸少納言の香爐峰の雪などもその一例で、讀んでゐる範圍が似たりよつたりだから、ほかの才女たちも、なあんだ、小生意氣な、と思つたくらゐのものらしいのである。
さて、女流の進出であるが、これは前に古事記日本書紀が女の傳誦によつて成つたことに關聯して、王朝文化に女性が創作家としての分野を開拓し得た理由をたづねておいた。それは女性の心情をあらはすにふさはしい假名まじり文の「物語」が男(と思はれる作者)によつて書き示されてゐたので――それは紫式部の讀んだらしい一聯の先行國文學、卽ち竹取物語、伊勢物語などを云ふー―女性作家はそれをもつと美くしく、大きくすればよいのであつた。よく國文學史の著者は、この時代の女性がとくべつ、すぐれてゐたから、男子のよう着手しなかつた國文學、その主要作品たる物語や、書きよい日記を書いたのだと云ふやうに說くのであるが、それは男子の想像力が女子に劣つてゐたことにもならねばまた、小說、日記の作者として男子が女子に及ばなかつたことにもならないのである。ある學者のごときは、紀貫之の土佐日記は女流日記文學の出でんことを望んで、その誘導的な意圖で書かれたのだとまで論じてゐる。女にまかせたら女が書いたまでで、恐らく紫式部といへども宮中に聞く男子の批評にはひそかに心をかたむけてゐたにちがひない。ことに歷史の撰述においては、女子は遂に男子の敵でなかつた。而して、すぐれたる史書はそれ自體、すぐれたる文學であつた。
尙ほこの時代の世相について一附言け加へておかねばならぬことは、貴族生活を豐富にする物資(日用品、裝飾品)に、奈良朝の時代をうけて、唐、南洋、四方亞細亞からの輸入があり、非常に多彩多材であつたことである。加へては日本における美術工藝のすばらしい發達があつた。建築、繪畫、彫刻、衣服、牛車、手廻りの道具類、刀、扇子、文房具、名香、庭園、何一つきらびやかにして高雅ならぬはなかつた。


以上は平安朝の總括的な文化雰圍氣であり、社會情勢であつたが、それはどこまでも財產、收入のある貴族にして初めて享樂して得る世界であつて、すべての官職にある者がみんなこの貴族社會の文化圈に在り得るわけではなかつた。
ある學者はこの時代に女が男より多かつたことを數字で(統計とまでは行かないが)示して、女が結婚難に苦しんでゐたことを說き、且つ、中流の官職に在る者が收入のために子女を宮中に奉仕させることを望んでゐた、と說明してゐる。幸にして宮仕へし得た女は幸福であつた。そこでやがて男に見出されて結婚した者もある。再婚ながら、和泉式部はその一例であつた。
私は王朝才女の群の出身――親、兄弟の官職から考へ、またその職田、位田、賜田が差迫つた經費のために賈りに出てゐたと云ふ經濟史上の史實をも考へ合せて、才女群の宮仕へが親の生活のため、自分たちの生活と、宮廷へのあこがれのためであつたことに贊同せざるを得ない。これは王朝文化の經濟的支柱が道長以後において崩壞し、やがて武門の有に歸する筋道から考へても、承認さるべき情勢であつた。
王朝女流文學の花は、このやうにぜい弱な花園の大地に咲きにほふてゐたのである。
さて、これから、平安朝の女性を、貴族の女性、女流文學者、庶民中の女性の三つにわけて記さうと思ふ。
平安朝貴族の女性については、櫻井秀氏が、「平安朝史」下の一にまとめてゐる「時代人」の硏究の中の、女性に關するものによつて記す。
女子の頭髮は――これは貴族に限らないが――黑色、直毛であり、ことにその長いのをよしとしてゐた。「榮華物語」にあ、小一條院女御寬子の御ぐし、皇太后姸子の御髮、いづれも六尺ばかりであつたとある。貴人の用ゐた義髮の長さは七尺であった。「空穗物語」には女御の御ぐしが「いと多くうつくしげにて八尺ばかりあり」と記してある。
尙ほ「榮華物語」はつ花の卷によつてこの時代の貴族の姿をしのぶこととしよう。
京極殿と呼ばれてゐた藤原道長の家、卽ち上東門院には、寬引五年の春、のちの三條院の后姸子、卽ち中將君、後の一條天皇の后威子、卽ち小君姬(どちらも道長の女)をはじめ多くの女官がつどふている。中姬君は十四五ばかり、
「いろ〱の御衣どもをぞ奉りて(お召になつて)居させ給へる。御ぐしの、紅梅の織物の御衣の裾にかゝらせ給へろほど、隙なう楊糸(柳のいと)かけたるやうにて、御長には(よりは)七八寸ばかりは餘らせ給へらんかし」
小姬君は九つ十ばかりで、まるでおひな樣のやうに美くしく、萌黃の小うちき(表は浮織物、裏は平絹の御衣)を着てゐる。中宮の御髮は身の長より二尺ばかりも餘り、御色白くうるはしく、「ほほづきなどを吹きふくらめて、すゑたらんやうに」見えた。「紅の御衣の上に白き浮文の御衣」を召してゐられる。
なべて、この時代の貴人には丸顏は少なく細面が多かつた。鼻の形のいゝのは「后鼻(きさきはな)」と云つてたゝへられた。


次に貴族女性の文化的な部面をうかがふに、この時代は奈良朝に行はれた寫經が、(よほど衰へたとはいへ)まだまだ貴族女性の仕事として傳へられてゐる。それは信仰であり趣味であつた。そして、寫經に用ゐた料紙は、美くしい彩色の下繪のある扇面や冊子が愛用された。下繪はいづれもその時代の風俗を描いてあり、貴人、侍女、商人などの生活がしのばれる。また寫經用の硯に入れる水はあ、特別に比叡山、園城寺、淸水寺の三所の靈水を取り寄せてゐた。今、藤原基衡奉納の、紺紙金字一切經の一部が平泉中尊寺に傳はつてゐるが、夫人の寫經ももちろんこの中にあるわけで、每卷、見返しに金員泥にて描ける佛畫がある。尙ほ、經卷を手寫して銀製の經筒に收め、各所の靈地に埋めて供養すうる經塚の造營もこの時代の文化的仕事であつた。上東門彰子の御助力による、慈覺大師の如法經を納めた、比叡山如法堂の經塚はその著名なるものの一つである。
それから、今一つこの時代の貴族女性の特殊な一面として寺院參籠を擧げねばならぬ。お寺まゐり、神社まゐりは今の世とあまり變らないが、お寺に籠ることは、彼女たちの信仰からでもあり、生活を彩どることでもあつた。淸水納言〔ママ〕が初瀨寺にこもつた時の手記によると(枕草子)坊さんの氣をくばる有さまがまるで一流の宿屋のやうで、いかにも物なれてゐることが感じられる。法師の言葉だけを竝べると次のやうになる。
「御局(おつぼね)して侍り、はや」(お部屋のお仕度ができました。さ、どうぞこちらへ)
「千燈(供養)のお志はなにがしのため」(えゝ、只今千燈供養をいたしております。はい、丁度橘樣のなんでございまして)
「ここにかうさぶらふ」(こちらに控えております。御用がございましたら何なりと)
「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかりこもらせ給ふべきにか。しかじかの人こもり給へり」(あなた樣の御願意の赴は、よをく傳へておきました。何日くらゐ御逗留で。はいはい。丁度、只今、だれ樣、かれ樣、御こもりでございます。はあい)
と、云つたやうなお愛想ぶりである。案ずるに、紫式部の石山寺參籠もこの例の一つで願意はでたらめを云つておいて、悠々と小說を書いたらしい。和尙は紫式部があんまり紙を使ふので迷惑した――と、これは私だけの推測である。
貴族の邸宅は豪奢ながらたいてい方式がきまつており、池にのぞんだ泉殿(いずみどの)などがあつた。部屋には几帳(きちゃう)が下がつており、冬は練(ねり)絹、夏は生絹の模樣も美しかつた。これは女の日常の動作、戀愛場面の風景として何かと役立つのであつた。食器は箸の臺にいたるまで立派な塗物。平常の食事は簡素で、水かけ飯、粥なども用ひられた。今でも上方では朝粥を食ふ家が多い。お菓子は飴や蜜で甘味をつけたから、砂糖無しといへども味覺を滿足させることが出來たのである。
婦人の服裝は百人一首や繪卷物でよく見る通り、おそろしく場所をとるもので、外出の際にかぶる笠の緣から虫よけの薄物が下がつてゐたなどは用意のほど恐れ入るばかりであつた。まつたく、アブが目にはいると怒る相手もないので困る――。
乘車の牛車はあながちのろいばかりでもなかつた。淸少納言の枕草子に、「牛よくやる者の、車はしらせたる」を、こころゆくものの一つとして擧げてゐた。
次に說く女流文學者、卽ち宮仕への女たちの生活は、この貴族生活に準ずるもので、女官の中でも地位の高いものは三四流の役人などと見下してゐたやうである。

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