日本女性美史 第三十二話

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第三十二話[編集]

昭和の女性[編集]

昭和の御代に入つた。
更新の風、發剌の氣、全日本にみなぎつた。女性のうちからも新らしい、日本の婦人が現はれねばならなかつた。それは遂に出現しなかつた。


一人、麗人が現はれた。彼女の名は九條武子と云つた。彼女は昭和の若い女のあこがれの的となつた。女學生の理想の婦人の首位を占めた。
九條武子の妻として、家庭の人としての傳說は私は一切知らない。たゞ、この夫人が昭和の一才女であり、婦人のかがみであつたからでもあらう、富山房の「國中大辭典」に收められてゐるので、それによつて彼女の經歷を見たい。
九條武子は西本願寺法主大谷光尊の次女、明治二十年十月に生れた。京都師範の附屬小學校を出たのちは家庭敎師につき、二十二歲の時男爵九條良致に嫁して共に英國へ渡つた。
帶在一年半にして單身歸國、爾來、孤愁のうちに十二年をすごした。昭和三年二月沒す年四十二。
最初の著作歌集「金鈴」は大正九年六月に出版された。英國から歸つて十年ののちである。佐々木信綱氏の序によると、「硏學にいそしまるる背の君を待ちつつ、道のために地方を巡らるる外には、ひとり錦華殿のうちに、あした夕べをおくりて、あるはピアノを友とし、あるは畫筆に親しまる」といふ生活のうちにも、心の淋しさは充たされず、竹柏會に入つて歌を學び、多くの歌を作つた。
見わたせば西も東もかすむなり君は歸らずまた春や來し
ほととぎすわれにひとりの君ありといふことさへもわすれて聞きぬ
これはこれわが本心か十年の虐げられし戀のむくいか
家をすて吾をもすてん御心か吾のみ捨てむおんたくみかや
くれてゆく雨の書院にひとりゐてきくも悲しき鶯のこゑ
罪業のやみとこしへにふかうして聖者もわれをすてたまふかや
みあかしは輝きみちて誦す經に御堂の春ぞ明けそめにける
三夜莊父がいましし春の頃は花もわが身も幸多かりし
以上は、「金鈴」の歌の中から彼女の境遇をしのばせるほどの作品を拾ひ集めたのである。この歌集はいまだ多くの人にはもてはやされなかつた。昭和二年、隨筆集「無憂華」出づるや、彼女の麗容と、澄み切つた心境とは幾十萬の女人の心を打ち、九條武子の名はすべての女學生のあこがれの的となつた。この隨筆集におさめられた詩歌には、もう、「金鈴」の孤愁の銳さは無くなつて、淸澄孤高の詩心のみがただよふてゐる。
むねになにのわだかまりなう空をみれば陽はかがやけりうつくしきかな
何かしらず身にしむもののおごそかにせまりて來なり森ふかく入る
はつ秋の津輕の海に夜もすがらまさをき月のひかり浴びまし
荒磯に烏むれとび北海のまひるさびしう降り出でし雨
九條武子の死後、彼女を描いた映畫があらはれ、彼女に似た一人の女性が銀幕に面影の九條武子を再現した。


藝文藝能の昭和は多くの女性を交へて絢爛をきわめてゐる。日本畫の上村松園、油繪の龜高文子、洋樂の安藤幸子、幸田のぶ子などはそれぞれの領域において長い生命を持つ。文藝の世界にあつては、曾て、長谷川時雨の「女人藝術」が當代の女流作家をあつめたが結局、小說に精進する二、三の中堅作家の仕事がつづいてゐるだけであつた。岡本かの子早く逝いて、あとは、林芙美子、宇野千代、窪川いね子、吉屋信子ら、それぞれの領域において名品を出しつつある。最近に壺井榮、堤千代が著聞してゐる。
描かれたる昭和の女性は、映畫においても小說においても、總明ではあるが輕調浮薄、敎養は上辷りで才氣は尖光的である。願くば現實の女性からへだたりあらんことを。ことに映畫女優輩の慣用語がひろく行はれて言語の品位地に墜ちつつあるは嘆かはしい限りである。
昭和初世において、「有閑婦人」「モボ」「モガ」の語が一ぱんに用ゐられた。有閑婦人は、財力にめぐまれ、家庭の仕事にわづらはされず、社交性あり、そして時代の文化を享樂することを生活の大部分とする女性をいふので、世間から三分のねたみと七分の指彈をもつて見られた。「モガ」は一評論家によつて命名された輕調浮薄なる少女である。


當代、女性描寫にすぐれたる一人の男子作家から若い女性の片鱗をうかがひたい。
石坂洋次郞の「若い人」は、東京からはるかはなれたある地方のミツシヨン・スクールの女學生と敎師とを描いたものである。修學旅行に生徒が先生を誘ふ場面に次のやうな一節がある。
江波惠子が、正面玄關から、上着を肩に擔いで風のやうに飛びこんで來た。何か運動してゐたらしく、頰が赤く染まつて、荒々しい呼吸を吐いてゐた。
「あつ、先生。旅行に附添つて行つてよ。私、みんなから先生を納得させる全權大使にされちやつたのよ。行くウ?ね」
「行くよ」
間崎は、片手を亂暴に江波の肩に打ち下ろして、骨ごと鷲づかみに肩の肉をつまみ上げた。
「痛あい!」
江波はまだ殘つてゐる彈(はづ)んだ肉體の勢ひでグイと肩をすかし、
「私みんなを喜ばせるんだ――ニヤアちやんを獲得したつて・・・・」
上着を片腕に通しながら、江波は飛ぶやうな大股で、廊下を鍵の手に走り去つた」


滿洲國は生れた。支那事變となつた。大東亞戰爭に入つた。
社會情勢が變り、人心はひきしまつた。さうして、女性生活は更新されつつある。
その最も顕著な現象は、指導的女性の政治機構への進出である。また、一ぱんの女性は國家、社會への共同生活の一員たる意識を强うし、積極的に行動しつつある。すべての婦人團體は統合された。女子靑年團員は全國を通じて奉公の誠をつくしつつある。大陸に進出する若い女性の覺悟が他の多くの女性の心をひきしめてゐる。集團結婚と云ふ新らしい風習も生れた。また、强く總明な次代の國民をつくるために、母性の保護についても考へらえ、國家の母性への關心が深められてゐる。赤んぼが生れると御祝ひがわたるのであつた。衣類キツプが制定されて、年ごろの娘も無暗と着物を買ふことはできないことになつた。但し、お嫁入りには特別に澤山のキツプがもらへるのであつた。


それらのどのやうなことよりも、すべての家庭婦人がこぞつて、鄰組の組員としてある程度まで共同生活をいとなみ、更に進んで、協力して防空の重責に當ると云ふことは、今までの時代に見られなかつた新らしい現象である。
また、極めて少數ながら、若い職業婦人や家庭婦人の一團が市川房枝等について經濟問題を定時硏究しつつあることも、この時代の女性の社會と生活とに對する眞實なる步みを感じさせる。
大東亞戰爭に入つて勇士を訓育した母の力が强調された。華やかに散つた空の勇士が、田舍の質素な、平凡な家庭の母によつて訓育されてゐたことは國民の心に迫ることであつた。
日本の眞の女性は、永遠にほろびない存在であつた。

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