日本女性美史 第三十三話

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第三十三話[編集]

日本女性の海外發展[編集]

私は日本女性の歷史を、もつぱらその特性の上から見て來た。日本女性はその美くしい特性をもつて、時代の花と咲き、民族の母となつて榮えた。
しかも、彼女たちは決して日本國內においてのみその特性を發揮してゐたのではない。
彼女たちのある者は、海外に雄飛して民族發展の魁となり、またその力となつてゐるのである。それは女性一人々々の傳說としては永久に傳へられないけれども、女性として民族の歷史に書きのこさるべき光榮を持つ。
光榮、然り、まさにそれは彼女たちの光榮であらねばならぬ。しかも、彼女たちの海外雄飛の姿は、必ずしもほめられてはゐなかつたし、また、彼女たち自身といへどもそれを想像したこともなかつたであらう。また正確な資料があるわけでもないから、私はそれをくわしく書くことはできない。
ただ、この種の女性の海外發展については、次の一つの佳話を書いておくから、これによつて一ぱんを推察していただきたい。
明治四十三年十月のことである。ボルネオはその當時いまだ日本人の注意を惹いてゐなかつた。その時、土佐の人、依岡省三はボルネオが將來、日本民族發展の地であることを確信して、少數の同志とともに彼地にわたり、英國人ブルツク家一統の王となつてゐるサラワツク王國に乘り込んだ。さうして遂に廣大なる土地の租借權を得て、そののち弟省輔の努力により年々優秀なる移民を送つてゐるのであるが、省三が始めてサラワツク王國の首府クチンに到着した時、そこにすでに少數の日本人が住んでゐたのである。そのうち、一二の男子は商業を營んでゐたが、より多くの女性は、女性として愧づべき職業に從つてゐたのである。
しかも彼女たちはその氣品と氣魄とにおいて斷じて日本民族の誇を失つてゐなかつた。それが果して彼女たちの一人であつたかどうかは判然としてゐないが、サラワツク王國の重臣(英國人)の一人は日本人の女性を正妻としてゐたのであつて、依岡省三が王廷の重臣と接涉するに當つては、この婦人が中間にあつていろいろ斡旋し、土地租借の談判を有利ならしめたのであつた。
もちろん、これは異例である。その他の無名の女性は永久に異邦の土と化して、民族發展を地下によろこんでゐるのである。
省三の弟省輔が大正の初になつてサラワツク王國に初めて渡航し、一日、首府郊外を步いてゐると、ふと、日本女性のお墓を發見した。その墓標にも、
はなの墓
みつの墓
と名のみ記して姓すらも記してなかつた。彼女の仲間が心ばかりの法事を營んだのであらうところの佛樣は、その生前、互ひに氏、素姓を明らかにしてゐなかつたのである。(彼女たちが多く九州の一地方から進出してゐることは常識として知られてゐる)
さて、省輔はこの墓標を眺めて抵徊去る能はなかつた。彼は同行の人々にはかり、これらの無緣の墓をまとめて一ケ所に葬り、立派な墓標を建てた。
話はこれだけである。
私は以下、正式に、移民として渡航したる日本女性について語るであらう。


史を按ずれば四百年の遠い昔にさかのぼる。皇紀二千二百三十年(元龜元年)のことである。マルチン・ド・ゴイチのひきゐるイスパニア艦隊が呂宋(ルスン)(フイリツピンのマニラの舊名)に着いて、その地の占領を宣言した時、そこにはすでに二十人の日本人が先住してゐた。支那人は四十人住んでゐた。これらの日本人の中には祖國からのがれた切支丹宗徒が交つてゐた。爾來、日本人は呂宋に發展して日本人町をつくつてゐたのである。文錄四年(皇紀二千二百五十五年)には一千人からの日本人が日本町に住んでゐたと云ふから、むろんその中には女もゐたにちがひない。日本人は更にシヤム、カンボヂヤに發展し、寬永のころは(皇紀二千二百九十年代)七八十の家族が住んでゐた。いづれも切支丹宗徒であるため本國から追放された家族づれの者ばかりであつた。
貞享年間(皇紀二千三百四十年代)シヤムに發展した日本人のうちには品位にすぐれたる日本婦人があつた。その一人はシヤムに止まつてゐた一人のギリシヤ人コンスタンス・フアウコンなるものと結婚した。その日本婦人の名はドーニヤ・グヨーマル・デ・ピーニヤと記されてあるから、恐らくポルトガル人が日本婦人をめとつて、その間に生れた日本人風の娘を、ギリシヤ人が請ひ受けたのであらうと傳へられてゐる。ピーニヤは結婚した時二十二歲であつた。色白く、髮黑く、頰豐かで、日本風の顏つきはとても優雅であつた。
そのころシヤムに革命が起つた。暴徒の一隊はギリシヤ人を襲ふた。ピーニヤはひそかに日本人町に逃げのびた。日本人町には彼女の祖母が住んでゐた。その時、年、八十四歲であつた。白髮亂れかかつてゐたが容貌は品位あり、儼として犯しがたい風格を見せてゐた。この老婆はあわてふためく家人を制して、一同を裏口からのがれさせ、自分は最後に悠々と家を退いて、同じ日本人町の、ある知人の家にのがれた。
內亂がしづまつてから、シヤム王室では日本婦人の立派な態度に感心し、ピーニヤを召して侍女頭とした。


日本民族の南方發展はこのやうな雄々しい女性の先驅者があつたのである。
さて、歷史は進んで、明治日本の海外發展となる。
日本民族の海外移植民の歷史はハワイ移民にはじまる。明治十七年、當時獨立王國であつたハワイとの間に締結された日布渡航條約、日布勞動移民契約、航海條約等によつて、翌十八年、九百五十一名の大量移民が送られた。爾來ハワイには日本の各地から男、女、家族づれ、相ついで渡航し、今日の發展を見てゐる。
南洋移民は初めは勞働者が多かつたが、日露戰爭後、賣藥業者を中心とした商業移民の進出を見るにいたり、蘭領東インドには定住の商人が增え出した。かくして、家族同伴の南洋發展は漸次南洋各地にひろがつて行つたのである。昭和十四年版の拓務要覧によると、南洋における移民の職業別統計のうち、「無業」としてあげてある妻子の數は、合計一萬九千八百六十二人であつて、全移民四萬四百六十四人の約半數を占めてゐる。このほかに南洋全體にわたつて、明治初年から明治末期にいたる間に渡航してゐた「娘子軍」――正當な移民としては數へられない職業の婦人――の數は、蘭領東インドのみにて千五百人とを超えている。


滿洲及び支那に對する日本女性の發展については、今私の手元に正確な資料が無い。ただ、年鑑によつて、滿洲國各都市に居住する日本人の人口總計、男二千百五十三萬九百五十七人、女千七百九十二萬三千六十九人であることを記しておくにとどめよう。


さて、アメリカである。
ハワイがアメリカの領有となつたのは西紀千八百九十七年であるが、千九百年には在留日本人の總人口は六萬一千十一人で、全人口の三割九分七を占め、當時の上院において議員ホーアは、「もし日本移民を沮止[ママ]しなければ、ハワイはやがて日本に倂合されるであらう」と警吿した。
アメリカ大陸においてはどうであつたか。明治十三年(西紀千八百八十年)には、アメリカ大陸在住支那人十三萬二千人に對して日本人はわづかに百四十八人に過ぎなかつた。その後、支那人は移民禁止によつて急速度にへつて行き、その制限を受けない日本人は年々激增して、昭和五年には、支那人二萬七千百七十九人、日本人十三萬九千六百三十一人となつた。
日本人の、安い給料でよく働らくことと、餘りに日本風の生活が目立つことなどのために、排日は逐年强くなつて行つた。先づ學童が白人の學校から閉め出された。次で日本の勞働者は「アメリカに住む兩親、妻、または子供と一體にならんがために來る勞働者」だけが入國することをゆるされることになり、また寫眞によつて花嫁を呼び寄せることも禁止された。アメリカ在住の日本人は男が多く女が少なくなり、男子の結婚が困難となつた。
以上が日本女性の海外發展のあらましである。日本女性は今後、家族の一員として、次第に海外に發展するであらう。それには、先づ、日本の若き女性に、健全なる身體と、海外發展の精神とを與へなければならぬ。女性移民敎育は、のこされたる大問題の一つである。

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