日本女性美史 第三十一話

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第三十一話[編集]

大正時代の女性[編集]

大正時代は女性史の上から、一つの別箇の時代を現出してゐる。ここに、生活の內面的な惱みがあり、ここに社會人としての組織制度に對する惱みがあつた。
最初に婦人の惱みを聽いて慰安と救濟を與へようとしたのは牧師綱島佳吉であつた。ここには祈りと云ふ逃避の術があつた。もちろん綱島牧師は答へられない問題を、祈りで解決するほど淺薄――祈り、そのことは崇高であり深遠であるが――ではなかつた。十分に現實的な解決を下し得たのであるが、根本は神とキリストによる救ひであつたことは當然である。
同じくクリスチヤンではありながらも、その經驗と人柄とから、もつと若い女の惱を共感し、常識的に解決し得た人は羽仁とも子であつた。羽仁とも子は、羽仁とも子を好む者と好まざる者とによつて、そのえらさ加減が天地ほどちがふ。だから私がここに羽仁とも子をして大正女性の煩悶解決者たらしめることは、本書の讀者に對して冒險である。而して冒險はそれ自體が樂しいことである。幸ひなるかな、「羽仁とも子全集」第五卷「惱める友のために」には彼女の解決が集めてある。乞ふ、その中より拔かしめよ。
一人の女は「妾の子たる惱み」について訴へる。
「私はまだ高女四年の少女でございます。父は實業家です。私の今の母は父の正妻でありますけれども、妻は夫に絕對に服從すべきもの、といふ敎の下に暮してゐるのです。從つても父も家庭の樂を他に求めるのでせう、妾宅を置くやうになり、その妾が私の實母なのでございます。父の庶子としてこちらへまゐりました。繼母の實母に對する反感は私に向つてます〱加へられて來ますし、社會の冷たい目は絕えず、お前は妾の娘ぢやないか、とおびやかします。私も繼母のことを可哀さうな人だと思つてゐますけれど、つい反感を持つては爭つております。こちらにゐると世界の交際も廣いのですから、私はます〱妾の子といふことが多くの人の頭に浸み込んで行きます。實母のもとなら物資上の惠は少なくても母の愛に抱かれることができます。私はこの運命の岐路に立つて迷つてゐるのでございます」
その答え、
「あなたは兩親の罪の結果に苦しんでおいでになる。その罪の結果から御自分を淸くするための希望にみちた努力をしてゐらつしやる。どうか殊勝にその苦しみを忍んで下さいませ。本妻としての今の母上が、あたなの母上について思ひ出す無念や憎しみや不愉快さが、必ずいろいろあるでせう、それであなたに當ることもありませう。そのへんのことを思ひ、あきらめて、今の母上に同情し、自分から愛深い言動によつて、今の母上の美くしい人情を湧き上らせて下さい。尙ほ妾の子といはれるのは辛いでせうがその苦しみに堪へて下さい、その深みから來る光はやがてあなたの人格をまばゆく見せると思ひます」
次に「不道德な稼業の禍」から來る惱み。
「私はいろ〱な義理で今の夫と結婚して四人の子供の母になりました。夫は敎育もない人です。私は北海道でいよ〱窮境に落ち、ある土地の遊郭で小さな飮食店を開きました。思はしく行きませんので遂に女を置くことになりました。いつの間にか夫はうちの女二人までもと親しくなりました。私はこの商賣をやめることをすゝめてみましたが良人は、いやなら出て行けと申します。今までかうした夫の心持を知らずにゐた私が殘念でございます」
その答。
「すべて正しくない商賣は、他人が汚される前に、先づ十分に自分が汚れることになつてゐます。然し今、あなたが夫の不品行のことから水商賣に嫌氣がさしたのは大切な機會です。自分と夫と子供の人格のために一日も早く家業をすてなさい。そのためには、與へられる限りのあらゆる機會や事柄を利用して夫の魂の覺醒を助けておあげなさい。信じて、つとめて下さいませ」
次は三角關係の惱み。
「私はまだ二十歲にならない若い女でございます。母と弟の三人ぐらしです。昨年の夏からある會社に勤め、家が遠いので會社に寢泊りする身となりました。そのうちKさんと互ひに身の上などを打ち開ける仲となりました。Kさん御夫婦は双方氣の合はないことがわかりながらも、奧さんは優しい內氣な方ですからわかれるわけにも行かないのでした。私はKさんと淸い昔の仲に還らうと云ひましたが、Kさんは何事も運命と思ひ自分の隱れた話相手になつてくれと云ひます。私ども二人の愛が深くなればなるほど、二人の苦しさは加はつて行くのだらうと思ひます。もはや私も去るに去れない重い身になつております。私は決心して、身の輕くなり次第一人で去らうと思ひますが、子供もさぞ無情な母親とうらむでせう」
その答。
「知り合つて多くの年月も經たないのに、親切にしてくれるからと云つて異性とすぐ懇意になるのは、あなたの世慣れないせいもありませうが、またやはりあなたの不德、卽ち人格上の缺點の現はれであらうと思ひます。ことに、妻のある人とさうした關係に落ちたと云ふことは罪深いことです。然し、あなたは自分の心をこまかく見ることのできる方です。眞劍になつて今の不幸からのがれて下さいませ。またKが自分の妻を心から嫌つてゐるのなら、Kさんの奧さんをも今の僞の境遇から自由にしてあげる方が、せめても奧さんに對する人の罪を輕くする道でせう、それをおすゝめになる方が正しいと思ひます。もしまたKが、兩手に花といふ氣なら、あなたが身を引かなくてはなりません。そしてあなたの子はKの奧さんに引とつておもらひなさい。私どもは罪を犯した時は、更に詐をつくらないやうに、眞實と責任とをもつて始末をつけなくてはなりません」


見らるゝごとく、惱みを訴へる者はいまだ思慮足らざる、または敎養豐ならざる婦人ばかりである。もつとも敎養ある婦人ならその惱みを羽仁もと子には訴へない。しかもこのやうな、惱みを訴へる女の多いことが大正時代の一つの姿だつたのである。而して、利を追ふに汲々たる低級卑俗のジヤーナリストは好んで煽情的な吿白を揭げて男と女との好奇心をそゝり立つた。これは大正ジヤーナリストの百世に恥づべき編輯方針であつたが、然しこれによつて男子が、あんまり女性に對する輕蔑や壓迫とをしなくなつたとすれば、ジヤーナリストの罪も幾分減免してよいかも知れない。
而して、大正女性としてかかる惱みを訴へしむるにいたつた――男子をして橫暴ならしめた――原因は、もつぱら日本の民法中の親族法におけるもろもろの規定が、男子をして性的放從〔ママ〕を(良心を棄てさへすれば)自由ならしめてゐることに歸着する。今それを遂條的に記すのいとまとてもないが、最も普通に引例されてゐるのは、民法第八百十三條の裁判上の離婚に關する規定中の第二項および第三項である。卽ち、良人は妻の姦通を知つた場合當然離婚し得るが、良人の場合(相手が有夫の女でなく、しかも强姦でもない場合)は妻の方から離婚を請求しても法律上成立しないのである。尤も、これは一方、公娼制度の認められてゐる限り、また女に經濟的獨立能力乏しく往々にして男の好意に依存する限り、改めることの至難な條項である。むしろ重點を第五項の、「配偶者より同居に耐えざる虐待または重大なる侮辱を受けたる時」に置いて、妻の離婚の請求を實現せしむるに如くはないのである。さうきめておいても、妻の方では體面や子供のことなどで、無闇に離婚は請求しないだらうから、社會の動搖を生ずる惧れもあるまいと思はれるが、それだとまた、「重大なる侮辱」が平氣で行はれる――どうもこの邊は、筆者たる私に至純至高至良至正の倫理意識が無いので甚だもつてあいまいもことしてゐるが、要するに男性自身が純潔であること以外には、この女性の惱みは救はれないのである。
大正十年、大阪において大阪朝日新聞社の一事業として、全關西の婦人團體を糾合する婦人會が發足した。のちの、關西婦人聯合會である。
社員恩田和子が事務に當つた。これは一新聞社の宣傳のためと云へばそれまでであるが參加した各府縣の婦人團體は年々定時に開かれる會合において婦人解放または向上に關する多くの問題を檢討した。のみならず各種の社會事業にも協力した。就中、兵庫縣の婦人聯合會は、神戶市に多くの敎養ある進取的婦人があつたため目ざましい活躍をしてゐたのである。新進婦人會や左翼の婦人團體に對してはよく批判的態度をとつて中正なる途を進むことが出來た。それは塚本ふじや望月くになどのすぐれた指導者がゐてよく協力し經營したからであつた。
大正十二年九月、關東に大震災があつた。多くの女性がその災害を受け、そして多くの女性が復興に努力した。
大正も末期になつたころ、アメリカから映畫が多く輸入され出した。日本においても企業として映畫事業が發達した。天下の美女、麗人が女優として映畫界に集まつた。粟島すみ子が長くその第一人者として稱えられてゐた。入江たか子がそれにつづいた。


音樂界においても多くのすぐれた女流獨唱家やピアニストなどが輩出した。ピアニストには久野久子があつた。外國で不幸な死を遂げたがその情熱は演奏にそこばくの效果を加ててゐた。


大震災ののちにおいて、日本の產業は大なる發展をなしつつあつた。多くの女性が勞働者として參加した。大正末年の社會局の調査によると、「多少の事務的、または技術的能力を有する被傭者及び營業者として獨得の地位を有する女子」として數へられた職業婦人の總數は八十六萬五千七十八人である。內譯は次の通り。
產婆三萬九千五百十五。看護婦三萬八千百三十六。灸按摩一萬八千百二十七。醫師藥劑師七萬一千百十七。小學敎員六萬一千五百四十五。その他の女敎員一萬六千三百四十八。遞信省雇三萬四千九百四十五。鐵道省雇八千五百五十四。其他官省三百七十二料理屋女中九萬六千三百三十八。待合茶屋女中七千六百二十二。飮食店女中二十五萬三千五百七十九。宿屋女中十二萬三千四百五十六。浴場雇女一萬二千二百四十八。女給一萬五千五百。劇場等雇女三千八百五十六。映畫女優遊藝師匠千五百五十四。商業事務員四萬六千七百二十。店員四萬一千十七。タイピスト五千四百三十三。交換手二萬六千四百七十。工場鑛山一萬七百二十七。髮結二萬四千七百。新聞雜誌一千。派出婦三千七百音樂家二百。
右のうち、工場勞働者としての女性のうちには勞働組合運動に參加する者もあつた。また、專門敎育を受けたる女性の中から左翼運動に參加する者を出した。文壇にあつても、左翼文藝の作家の中に女性を交へてゐた。


このやうな女性界一ぱんの模樣のままで昭和の御世に入つたのであるが、このあたりで大正の末ごろから昭和にかけて女性風俗の變遷を一瞥しておかう。
前に擧げた職業婦人の統計を見るやうに、大正時代の世相の特性として若い女性の職業への進出はまことにたくましいものがあつた。中にもタイピスト、女事務員の、男性に伍してよく働らき、それぞれの職場を色彩つてゐたことは、明治時代に見られなかつた好ましい風景であつた。そしてこれらの若い女性は必然的に洋裝を好み、その姿も次第にすつきりして來た。それはまた何ほどか、アメリカ映畫を通じて學びとる、個性を生かす新裝でもあつた。大正も初年には、まだハイヒールは外國婦人の間にでないと見られなかつたが、大正の末期から昭和にかけてハイヒールは働らく婦人の颯爽たる容姿を一だんと引き立たせた。帽子もたいへん贅澤になつた。昭和になつて、一時、洋裝の婦人は日本風の部屋では帽子をとるべきだとの議論が出た。
美容師の出現も昭和風俗の一特性である。斷髮からちぢれ毛へ、更に赤く染めるやうになるまで、日本女性の風俗は男子の好みにお構ひなく、次へ次へ變遷して行く。
昭和になつてダンスホールが繁盛し、都會におけるダンサーの氾濫はカフエーの女給の激增とともにこの時代初期の異色ある風景となつた。ダンスは良家の子女の間にも猛烈に流行し出し、關西方面の金持の家では、廣い日本間を臨時の踊り場へ變へるための、ダンス用床板まで用意されてゐた。さうして、ダンサーや女給たちの見かけの餘り華やかな風俗は、良家の子女を反省させ、「ダンサーのやうな」なりをつつしみ、「女給と見られさうな」けばけばしさを避けさせた。


ところで、ここに、昭和初期の大阪と東京の若い女性のちがひを、谷崎潤一郞氏の「倚松庵隨筆」中にある「私の見た大阪及び大阪人」から抄錄しよう。(因に、この本は昭和七年四月に出版された)
「・・・・大阪の婦人の洋裝は何んとなくスマートな感じが乏しい。近來、心齋橋筋や梅田邊を步いてゐると、時々衣裳持ち特に五分の隙もない素晴らしいモガを見ることがあるが、そんなのは大槪東京から遊びに來た旅行者が多いやうである。關西における最もハイカラは區域と云へば阪急の夙川から御影に至る沿線であつて、あの邊に住んでゐる若夫人や令孃たちは、隨分洋服の眼も肥えてゐるし、趣味も進んでゐるし、金に不自由はないのだから、毛皮、手袋、ハンドバツクの好み迄ソツのあらう筈はないのだけれども、それでゐて何處かスツキリとしない。さうかと云つて、勿論田舎臭いのでも安つぽいのでもない。品のいゝことは飽くまでいゝのだが、つまり前に云ふ寶塚の少女と同樣に、シヤナラシヤナラして、お姬樣が洋服をお召しになつたと云ふ感じが、どうしても拔け切れないのでる。いつたい和服の色合ひでも關西の方が關東よりも派手であつて阪神沿道の暖國的風景、――濃い靑い空、翠綠の松林、白い土の反射に、そのケバケバしい色彩が非常によく調和することは事實であるが、その和服の派手な好みをそつくりそのままクレプ・ド・シンのドレスなどに持つて來るのは一寸考へ物だと思ふ。彼女たち自身はそんなつもりでないかも知れないが、今も云った氣候風土の關係で無意識のうちにさうなるのであらう。兎に角私などが見ると、阪神婦人の洋裝には友禪模樣の振袖の情趣が最後まで付いて廻つてゐる。綺麗で、きらびやかなことは無類だけれども、それが餘りに纖弱に過ぎ、優美に過ぎて、縮緬の長襦袢を着たのと撰ぶ所なく、最も肝心な洋服の「精神(エスプリ)」とでも云ふべきものが缺けてゐるやうに思はれる。きれ地は質素な紺サージでも、神戶あたりの混血兒のオフイス・ガールの方が矢張り本當の洋裝をしてゐる」


尙ほ大正時代の女性の服飾の華美になつたことについては、齋藤隆三氏の「近世世相史槪觀」の「大正期」の最後の一節をここに拜借して、この話を終る。
「婦女子の服飾は大正六七年以來、傲奢を追ふの傾向著るしくなつた。晴着としては金紗縮緬に、友禪や刺繡の總模樣に、大型に、華美を極めしもの多く、日露戰爭直後一筋二千五百圓の帶が出て人を驚かしたのも今は昔、大正七年の東京には更に縫潰しにて一筋六千五百圓といふものさへ現はれるいたつた。夏帶にも紗の變織やら茶屋辻模樣などの趣向をしたのが多く出て、紗、明石などの極めて薄手の夏羽織をすかして帶の美しさを見せることが一時の流行となつた。腕時計、寶石の指輪、腕輪など、明治の世には見られなかつた珍貴で高價な裝身具が華美を追ふ婦人の間に競ひ用ゐられた。歐洲大戰は大正八年の暮に終末を吿げて、大正九年には經濟界の恐慌、銀行會社の破綻が續出したが、亂費侈奢の風は改まらず、識者の眉をひそめさせた。この時に當り大正十二年九月一日關東一帶に稀有の大震災あり、五十年の歲月を積みて築いた有形無形の文化から、驕慢遊逸の氣風まで一掃し盡したのは、國家の損失も大きかつたが、緊縮を缺いだ當時の民衆に一つの大なる譴罰として、戒飾を與へた所も少なくはなかつた。やがて三年の後に昭和の聖代を迎へたのは、また甚だ意義のあることとしなければなるまい。」

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