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日本女性美史 第一話

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第一話

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神代の女性

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日本の歷史は極めて嚴肅たる肇國の大精神をもつて初まるのであるが、同時にまた、多くの明朗な神話をも交へてゐる。それらの神話はすべて、史實を神話の形で傳へたものであるから、今の世の知識ではそのままには、受け入れることのできないお話のうちにも、われらの祖先の性格と生活とをしのぶことができるのである。
はるかに遠い昔のこと、伊弉諾尊は伊弉冉尊と天浮橋の上にお立ちになり、
「底つ下に
豈、國なからんや」
と仰せられて、天の瓊矛(ぬほこ)もてお探りになると、目もはるかに靑海原がひらかれた。その御矛からしたゝる潮は、凝つておのころ嶋となつた。御二柱の尊はこの嶋を國の中の御柱となされ、陽神(をがみ)は左から、陰神(めがみ)は右から、わかちめぐりて會ひたまふ。陰神(めがみ)先づ、
「あな、うれしや
可美(うまし)をとこに遇ふぬ」
とのたまへば、陽神(をがみ)悅ばせたまはず、のたまふらく、
「吾はこれ、
男子(ますらを)なり。
理(ことわり)まさに
先づ唱ふべし。
いかんぞ婦(たをやめ)の
反(かへ)つて言光(ことさい)たつや。
事すでに不祥(さがなし)
宜(むべ)、もつて改めめぐるべし」
かくてやがて、大八洲を生みたまふたのである。
のちに、兩神の生みませる素戔嗚尊(すさのをのみこと)が御姉、天照大神のしろしめす高天原(たかまがはら)を侵したまふや 天照大神は、おんみづから雄々しく武裝したまひ、兵をひきゐてあらはれました。
およそこれらのお話を思ふに、神々はじめたてまつり、天孫民族は女性のやさしくもまた强かりしうちに榮えたのである。女性は明るく强かつた。さうしてやさしく、正しかつた。
今からおよそ一千二百年前、皇紀千三百七十年、元明天皇の御代に「古事記」が作られ十年ののち 元正天皇の御代に、「日本書記」は完成した。「古事記」は「語部(かたりべ)」と呼ばれる人々の語り傳へたお話を、當時の學者が謹撰したのである。「語部(かたりべ)」の中には多くの女性があつた。總明な女性のなだらかな言葉は、この崇嚴な國史を作つた。彼女たちは祖先の女性のかくも潑剌として明朗であつたことを、どんなにかほこらしげに語り傳へたのであらう。
もとより肇國の神々はその聖業によつて尊いのであつて、女性にておはすがゆえに尊いのではない。天照大神は生成化育の御神德のゆえに尊いのであつて、女性におはすことのために尊いのではないと思ふ。
然し天孫民族の女性に對する觀念はかくも淸らに美はしかつた。のちの世の日本民族がどうして女性をなをざりに考へ扱ふことができようぞ。
げにげに、藝文の歷史をさかのぼれば、「萬葉集」四百五十年間の歌は、槪ね相聞、思慕の情、いづれ女性への讃歌ならぬはない。すでに拂敎、儒學は傳へられてゐたが、いまだ唐(から)やうの思想ははびこらず、日本民族固有の情感は、正しい倫理觀によつてととのへられ、防人、官吏、野人、手兒奈、たれかは戀を歌はざらん、自由闊闥の詩藻は展開された。
佛敎の女性觀が日本人に受け入れられたのは今を去ること千年よりはるか遠くはあるまい。すなはち日本古來の女性は、何ら、外國の思想敎化にわづらはされることなく、長い間、母として妻として、男性とともに生々向上の途を進んだのである。


これはいづれの國の女性史にも見ることのできない特質である。しかも、神代に傳はる日本女性は、更に多くの愛すべく親しむべき情景として語られてゐた。武器をとつて立つ女性もあれば、樂器をかなで舞を舞ふ女性もあり、大蛇ののろひにおののく女性、男神の無情をうらむ女性、さまざまの物語をのこしてゐる。
神は尊し、愛情は變らず。歷史は嚴然たり、物語は靄(あい)然たり。さらば、君よ、しばらく記紀の中に、われらに身近な情感の世界をしのばうではないか――。

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