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日本女性美史 第二話

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第二話

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木花開耶姬

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皇孫 瓊瓊杵尊は日向の高千穗の峰に天降りまして、宮居をさだめられた。
ある日のこと、尊はお一人で海邊を步いてゐられた。すると向ふから一人の美くしい女が近づいて來た。尊が言葉をかけられた。
「あなたは、どなたのお娘ですか」
美女はあでやかにはぢらひ、さわやかにお答へした。
「私は、大山祇神(おほやまつみのかみ)の娘でございます。名は神我田鹿葦津姬(かみあたかあしつひめ)、亦の名は木花開耶姬(このはなさくやひめ)と申します。そして、姉に、磐長姬(いはながひめ)と申しますものがをります」
尊はその言葉を聞きながらも、姬の美くしさに見入つてゐられた。「亦の名」と云ふのは世間で姬の美くしさをたゝへた愛稱のことであらう。それをそのまま、「木花開耶姬と申します」と云はれたのは、姬の無邪氣と、心の明るさを思はせる。さるにても、どうして、姉のことまでつけ加へて申し上げたのであらう――。
尊は、ためらふこともなく姬に仰せられた。
「私は、あなたを妻にしたいと思ひます。いかがでせう」
姬はすぐお答へした。
「私には父の大山祇神がございます。どうぞ父に仰せ下さいまし」
尊はなるほどと思し召した。何事も父のゆるしを得てからのことである。私たちはここで、父權とか、父系とか云ふむつかしいことは考へなくてよい。(實際は、母系制であつたと推定されてゐる。)たゞ古代人がこの會話を傳承することによつて、父の子たる自覺と禮とを忘れない娘の心を、めで傳へてゐたことを思へばよろしい。
尊は早速、大山祇神を訪づれたまひ、
「私は、あなたのお娘を見ました。妻に迎へたいと思ひます」
と申入れられた。
大山祇神は大さう喜んで、姉の磐長姬をも出來るだけ美しくよそほはせ、木花開耶姬ともども、いろいろの御馳走を多くの臺に載せて運ばせた。
私はここに、この一篇の物語の作者たる古代人になつかしさを感じる。それは、姉から先に――と云ふ親心、妹の思ひやりを、情味豐かに現はしてゐるからである。げに、はじめ木花開耶姬が、姉の名を尊に申し上げた心もさうこそとうなづかれる。
思ふに、姬は今までも何度となく、率直な求婚の言葉をかけられたことであらう。その度ごとに、姉の淋しさを思はないではゐられなかつた。さればこそ、あの時は、尊のお人柄に打たれて、すぐに尊の御注意をうながしまゐらせたのであつた。然るに尊は姬の心も察せられず、ひたぶるに姬へのあこがれを現はしたまふた。或ひは、尊も姉の名を心にとめさせられたかも知れない。それなればこそ、姬へのあこがれを强くなされたのであらう。なぜなら磐長姬と云ふ名からして、凡そその姿が想像出來るのであつた。いつたい、神神のお名がすべて端的に、その髮の風丰や御身の上を現はしたものであつた。猿田彥などは聞くだにおかしげな御姿が思ひうかぶのである。
さてこの饗宴である。
私は神代に描かれてゐる時代を年代的に考へようとするのではないが、その用ひられた武器や器具や樂器などから考へて、可成り身近なある時代を聯想することが出來る。內藤湖南博士は、神武天皇の御姿が、決して世の常の畫家の描くやうな簡素なお姿ではなく、もつと豪華な色彩の高貴な御衣服または御武裝でゐらせられたことを注意してゐる。日本書紀をひもとくと、神武天皇のことは、この、木花開耶姬のことのすぐ次に記されてゐるのだから、年代のへだたりは兎も角として、一聯の時代相の中にこの饗宴を想見することが出來るであらう。而して、その時代は正しく石器時代の末期であり、日本の處々で發掘される、魚骨や、貝類や、土器や、武器や、裝身具などによつて、古代人の生活ぶりを描き出すことが出來のである。
こころみに、土屋喬雄氏の「日本經濟史槪要」をひらいて、古代人がどのやうな物を食べてゐたかをしらべてみよう。土屋氏は記す――。
「食糧殘滓としての魚類の遺骸は、貝塚から發見されるものが少なくない。その種類は(と、三十餘の種類をあげてある中から私が抄錄すれば)あかえひ、にしん、こひ、うなぎ、たら、ぶり、さば、まぐろ、ひらめ、ふぐ、など淺海魚、深海魚、淡水魚を含んでゐる」
大山祇神のすすめた食卓にこのうちのどれだけがあつたか判然としないが、まさかふぐはすすめなかつたであらう。然し、うなぎのあつたことは想像される。うなぎは萬葉歌人も保健のために愛食してゐた。大伴家持が、やせた男の吉田連石麻呂によせた歌に、
「石麻呂に吾物申す夏やせによしといふものぞむなぎとり召せ」(卷十六)
と云ふ歌がある。うなぎを燒いて鹽水で味をつけただけでも立派な御馳走である。ひそかに思ふに木花開耶姬も、うなぎを食べて健康美を保つてゐたのではあるまいか――。
瓊瓊杵尊は絕えず木花開耶姬の姿に見入つてをられたやうである。日本書紀のままを記すと、
「時に皇孫、姉は醜しとおぼしめさず、罷(ま)けたまふ。妹はかほ、よし、とおぼして、めして幸(みとあたへま)す。則ち一夜にしてはらみぬ」
とある。これは饗宴のあとのことと考へられる。
姉の磐長姬は大にはぢ、呪詛する心も强くなつた。大山祇神も不快の心を抱いてゐた。磐長姬は尊が妹、木花開耶姬に御心を寄せられたことをおうらみ申し上げた。そして一人で呪ひの心を次のやうに吐露した。
「尊がもし、わたくしをお斥けあそばさないで、お召しになつたのなら、生まれる子は壽命の長いこと、常磐、堅磐(かきは)のやうであらうに。あゝ、もう、きまつたのだ、ただ、妹だけをお召しになつた。きつと、きつと、生まれる子は、木の花のやうに、もろく散り落ちるにちがひない」
さて、木花開耶姬は尊に召され、一夜にして身持となつた。やがて、四柱のみ子を生んだ。姬は四柱のみ子を尊にお目にかけて奏上した。
「わたくし、天孫のみ子を生みました。おろそかにはできないと存じます」
すると、尊は、み子たちを見そなはして、嘲るやうにのたまふた。
「ほんとにいゝ子ばかりですね。よくまあおめでたくも生れたものですね」
これは明らかに反語であつた。もとより姬には銳くそれと感じられたので、怒つて申し上げた。
「どうしてそのやうに、わたくしを、お嘲りになります」
尊のたまふやう、
「わたくしは、心に疑はしく思つてゐるからです。それで嘲けるのです。なぜと申すに、いかに天つ神の子だとて、どうして、一夜のうちにやどすことができませう。きつと、わたくしの子ではありますまい」
姬は怒つた。やさしい姬ではあるが、貞操を疑はれては凛然として、身のあかしを立てずにはゐられなかつた。姬は尊をおうらみ申し上げ、無戶室(うつむろ)を作つてその內にこもり、誓つて云ふのであつた。
「わたくしの生んだみ子が、もし、天つ神のみ子でなかつたなら、きつと燒け失せるにちがひない。もし、ほんとうに天つ神のみ子ならば、傷もつかないにちがひない」
そして、內から火を付けて室を焚いた。火の燃えさかることから衰へ出すころまで、つぎつぎにみ子が名乘り出て、みんな、
「わたくしのお父うさま、どこにゐらつしやる。兄弟たちはどこにをられるのか」
と、云はれた。
最後に、姬が燃えのこりの中から出て、そこに立つてゐられた尊に、ほこりやかに奏上した。
「わたくしの生んだみ子たちも、わたくしも、火のわざわひにあひましたけれど、ごらんなさいまし、少しも異狀はございません。いかがでございます。尊もごらんあそばしたでせう」
尊は答へてのたまふた。
「わたくしは初から、みんなわたくしの子だと知つてゐたのです。ただ、あなたが一夜にして身持となつたので、疑ふ者があつてはならないと心ぱいして、みんなに、ほんとうにわたくしの子であること、一夜で身持になることもあると云ふこと、を知らせてやりたかつたのです。そして、あなたのお心が氣高く總明でゐらつしやることと、み子がほかの子たちとちがつて、すぐれたいきほひのあることを、明らかにしたかつたのです。それで、さきの日、わざとあなたを嘲つたのです」
四柱のみ子は天の神のみ子たるあかしを立てられた。その一柱は彥火火出見尊にておはす。卽ち神武天皇の御祖父にあたらせられる。
また一說に、富士山の淺間神社は木花開耶姬をまつる、と。


木花開耶姬のやさしくもまた凛々しい御氣性は、古代人の最も愛し好んで傳承したところであつた。思ふにこの姬の御氣性はまた古代女性の理想であり、何ほどか共通に持つてゐる氣立であり、靈であつた。
天孫民族の女性の特性はこのやうに、明朗で禮儀正しく、純潔、貞操を尊び、優雅のうちにも凛々しいところがあつた。そして、磐長姬に見るやうに、一圖に戀ひわびては呪詛する心を起す純眞さもあつたのだ。卽ちわれらの身近に感じる女性でもあつたのである。

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