或る女

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新橋を渡る時、発車を知らせる二番目のベルが、霧とまでいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子ようこは平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。して車が、鶴屋という町の角の宿屋を曲って、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりをけぬける時、停車場の入口の大戸を閉めようとする駅夫と争いながら、八分がた閉りかかった戸の所に突っ立ってこっちを見戍みまもっている青年の姿を見た。
「まあおそくなってみませんでした事……まだ間に合いますか知ら」
と葉子が云いながら階段を昇ると、青年は粗末な麦稈むぎわら帽子を一寸脱いで、黙ったまま切符を渡した。
「おや何故なぜ一等になさらなかったの。そうしないといけない訳があるから代えて下さいましな」
と云おうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけいている改札口へと急いだ。改札はこの二人の乗客を苦々にがにがしげに見やりながら、左手を延して待っていた。二人がてんでに切符を出そうとする時、
「若奥様、これをお忘れになりました」
と云いながら、羽被はっぴの紺のにおいの高くするさっきの車夫が、薄い大柄なセルの膝掛を肩にかけたままあわてたように追い駈けて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声かんしゃくごえをふり立てた。
青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみ怒鳴どなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫の方に向きなおった。
「そう御苦労よ。家に帰ったらね、今日は帰りが遅くなるかも知れませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそう云っておくれ。それから横浜の近江おうみ屋――西洋小間物屋の近江屋が来たら、今日こっちから出かけたからって云うようにってね」
車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるように慌てていた。改札の顔は段々険しくなって、あわや通路を閉めてしまおうとした時、葉子はするするとその方に近よって、
「どうも済みませんでした事」
といって切符をさし出しながら、改札の眼の先きで花が咲いたように微笑ほほえんで見せた。改札は馬鹿になったような顔付をしながら、それでもおめおめと切符にあなを入れた。
プラットフォームでは、駅員も見送人も、立っている限りの人々は二人の方に眼を向けていた。それを全く気付きもしないような物腰で、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包物の中には何があるかててみろとか、横浜のように自分の心をく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとか云って、音楽者のようにデリケートなその指先きで、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女のようにはにかんで、かも自分ながら自分を怒っているのが葉子には面白くながめやられた。
一番近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポケットに突っ込んで、靴の爪先きで待ち遠しそうに敷石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼子を鳴らした。して青年(青年の名は古藤ことうといった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛おうてきが前方で朝の町のにぎやかなさざめきを破って響き渡った。
葉子は四角なガラスをめた入口の繰戸くりどを古藤が勢よく開けるのを待って、中に這入はいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻のように鋭く眼を走らしたが、左側の中央近くに新聞を見入った、せた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむ程驚いた。然しその驚きはまたたく暇もない中に、顔からも脚からも消えせて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頰にだけ浮べながら、古藤に続いて入口に近い右側の空席に腰を下ろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指を何んとも云えない形に折り曲げた左手で、びん後毛おくれげをかきでるついでに、地味に装って来た黒のリボンにさわって見た。青年の前に座を取っていた四十三四のあぶらぎった商人ていの男は、あたふたと立ち上って自分の後ろのシェードを下ろして、折ふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
紺の飛白かすりに書生下駄をつっかけた青年に対して、素姓すじょうの知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらかずにはおかなかった。乗客一同の視線はあやをなして二人の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じをこころよく迎えてでもいるように、青年に対して殊更ことさら親しげな態度を見せた。
品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見据みすえる眼をまゆのあたりに感じておもむろにその方を見かえった。それは葉子が思った通り、新聞に見入っているかの痩せた男だった。男の名は木部孤笻きべこきょうと云った。葉子が車内に足を踏み入れた時、誰よりも先きに葉子に眼をつけたのはこの男であったが、誰よりも先きに眼をらしたのもこの男で、すぐ新聞を眼八分にさし上げて、それに読み入って素知そしらぬふりをしたのに葉子は気がついていた。して葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めた頃になって、彼は本気に葉子を見詰め始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那せつなに対する態度を決めていたから慌ても騒ぎもしなかった。眼を鈴のように大きく張って、親しいびの色を浮べながら、黙ったままで軽く点頭うなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向き加減になった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じて微笑みかわす様子のないと云う事だった。実際男の一文字眉は深くひそんで、その両眼は一際ひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気のいい頰のあたりに落ちた。古藤は繰戸のガラス越しに、切割りのがけを眺めてつくねんとしていた。
「又何か考えていらっしゃるのね」
葉子は瘠せた木部にこれ見よがしと云う物腰ではなやかに云った。
古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじりとその顔を見守った。その青年の単純なあからさまな心に、自分の笑顔の奥のにがい渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろいだ程だった。
「何んにも考えていやしないが、蔭になった崕の色が、余りに綺麗きれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかかって来たんですよ」
青年は何も思っていはしなかったのだ。
「本当にね」
葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。瘠せた木部の眼は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直ると共に、その男のひとみの下で、悒憂ゆううつな険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべき筈である。

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葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋のまとだった。それは丁度日清にっしん戦争が終局を告げて、国民一般は誰れ彼れの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていた頃であったが、木部は二十五という若いとしで、或る大新聞社の従軍記者になって支那しなに渡り、月並みな通信文の多い中に、際立きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博して目出度めでた凱旋がいせんしたのであった。その頃女流基督キリスト教徒の先覚者として、基督教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、或る日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄で白皙はくせきで、詩吟の声を悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。
葉子はその時十九だったが、既に幾人もの男に恋をし向けられて、そのかこみを手際てぎわよくりぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは十分に持っていた。十五の時に、はかまひもで締める代りに尾錠びじょうで締める工夫をして、一時女学生界の流行を風靡ふうびしたのも彼女でる。そのあかい唇を吸わして主席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校に這入ってヴァイオリンの稽古けいこを始めてから二ヵ月程の間にめきめき上達して、教師や生徒の舌をかした時、ゲーベル博士一人は渋い顔をした。してある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想に云って退けた。それを聞くと「そうで御座いますか」と無造作に云いながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。基督教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男勝まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高い而して意志の弱い良人おっとを全く無視して振舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指ぼしと食指との間にちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の眼にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男を可なり近くまでもぐり込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、或る機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂が何処どこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情容赦なさけようしゃもなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子をうらむよりも自分達の獣性を恥じるように見えた。而して彼等は等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。何故というと、彼等は一人として葉子に対して怨恨えんこんを抱いたり、憤怒ふんぬを漏したりするものはなかったから。而して少しひがんだ者達は自分の愚を認めるよりも葉子を年不相当にませた女と見る方が勝手だったから。
それに恋によろしい若葉の六月の或る夕方だった。日本橋の釘店くぎだなにある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵せんじんの抜けきらないような風をして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢きゃしゃ可憐かれんな姿をした葉子が、慎しみの中にも才走った面影を見せて、二人の妹と共に給仕に立った。而していられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手もかなでたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気の漲りあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。而して運命は不思議な悪戯いたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌――骨細ほねぼそな、顔の造作の整った、天才風に蒼白あおじろなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗せんれいな割合に下顎骨ががくこつの発達した――まで何処か葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見付け出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかき抱いて、葉子は又才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴きょうえんはさりげなく終りを告げた。
木部の記者としての評判は破天荒はてんこうといってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々しさを噂󠄀(うわさ)し合った。殊に日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者は或る人々からは英雄ヒーローの一人とさえして崇拝された。その感想的な、同時に何処か大望に燃え立ったようなこの青年の活気は、家中の人々の心を捕えないでは置かなかった。殊に葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為ゆうい多望な青年だとめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。而して心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑えがたくつのり出したのは勿論もちろんの事である。
かの六月の夜が過ぎてから程もなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄になっていた。こう云う場合葉子がどれ程恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかは云うに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というその頃まで、熱心な信者で、清教徒風の誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれ程真剣になっていたかは想像する事が出来る。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見出す事が屡々しばしばだった。
その中に二人の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてから或る事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬しっととも思われる程厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないと云うべき境を通り越していた。世故せこに慣れ切って、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺戟しげきされてたくらみ出すと見える残虐ざんぎゃく譎計わるだくみは、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、はらわたも通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りに藻掻もがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨身な態度が生れ始めた。葉子は自分で造り出した自分のおとしあなに他愛もなく酔い始めた。葉子はこんな眼もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生れて始めて芽をふき始めた。而して解剖刀メスのような日頃の批判力は鉛のようににぶってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人おっとまでを道具につかったり、本部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの智力をしぼった懐柔策も、何んの甲斐かいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気よく続ければ続ける程、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気けなげにもか弱い女の手一つで戦った。而して木部の全身全霊を爪の先きおもいの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとうを折った。而して五カ月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋の或る午後、木部の下宿の一間でり行われた。而して母に対する勝利の分捕品ぶんどりひんとして、木部は葉子一人のものとなった。
木部はすぐ葉山に小さな隠れの様な家を見付け出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋は然しながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対して見事に勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈む度毎に減じて行った。それ等はそれとして一番葉子を失望させたのは同棲どうせい後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかった女々めめしい弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせず朝から晩まで葉子に膠着こうちゃくし、感傷的な癖に恐ろしく我儘わがままで、今日々々の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なお坊ちゃんみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めの中は葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思って見た。而してせっせせっせと世話女房らしく切り廻す事に興味をつないで見た。然し心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱しんぼうがいつまで続こうぞ。結婚前までの葉子の方が迫って見たにもかかわらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪どんらん陋劣ろうれつな情慾の持主で、かもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出喰でっくわすと、葉子は今まで自分でも気がかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着がつのれば募る程、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生れて来たのではないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持が又木部に響いた。木部は段々監視の眼を以て葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲してから半ヵ月もたたない中に、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨に沁みる程知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力は又磨みがきをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似寄った姿なり性格なりを木部に見出すという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事をおもい、あんな事を云うのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷けられた。
外の原因もある。然しこれだけで十分だった。二人が一緒になってから二ヵ月目に、葉子は突然失踪しっそうして、父の親友で、所謂いわゆる物事のよくわかる高山という医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日ばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男の為めに眼のくらんだ自分の不覚を泣きくやんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。「あなたの将来のお為めに屹度きっとなりませんから」と何気なげに云って退けた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺ふうしを見出しかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。
葉子と木部との間柄はこんな他愛もない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までして見たが、総ては全く無益だった。一旦いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。
それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩ぶんべんしたが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえ或る他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさす程の生活をあえてしていたのだった。然し母は眼敏めざとくもその赤坊に木部の面影をさぐり出して、基督教徒にあるまじき悪意をこの憐れな赤坊に加えようとした。赤坊は女中部屋に運ばれたまま、祖母の膝には一度も乗らなかった。意地の弱い葉子の父だけは孫の可愛さからそっと赤坊を葉子の乳母うばの家に引き取るようにしてやった。而してそのみじめな赤坊は乳母の手一つに育てられて定子という六歳の童女になった。
その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾きょうらんのような生活に身をまかせた。衆議院議員の候補に立っても見たり、純文学に指を染めても見たり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。而してその総てに一々不満を感ずるばかりだった。而して葉子が久し振りで汽車の中で出遇であった今は、妻子を里に返してしまって、或る由緒ゆいしょある堂上華族の寄宿者となって、これと云ってする仕事もなく、胸の中だけには色々な空想を浮べたり消したりして、兎角とかく回想に耽り易い日送りをしている時だった。

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その木部の眼は執念しゅうねくもつきまつわった。然し葉子はそっちを見向こうともしなかった。而して二等の切符でもかまわないから何故一等に乗らなかったのだろう。こう云う事が屹度あると思ったからこそ、乗り込む時もそう云おうとしたのだのに、気がかないっちゃないと思うと、近頃になく起きぬけからえしていた気分が、沈みかけた秋の日のようにかげったり滅入めいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳の透間すきまという透間をかたく閉ざした。たまらなくなって向いの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードが下ろしてあって、例の四十三四の男が厚い唇をゆるく開けたままで、馬鹿な顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっとしてその男の額から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢はっしと眼でむちうった。商人は、本当に鞭たれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめ方をして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に眼を移せば三四人先きに木部がいた。その鋭い小さな眼は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂げっこうした神経を両手に集めて、その両手を握り合せて膝の上のハンケチの包みを押えながら、下駄の先きをじっと見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座となりざにいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的めいそうてきな無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶と少しも縁が続いていないで、二人の間には金輪際こんりんざい理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変った自分の境界に、そっとうかがい寄ろうとする探偵をこの青年に見出すように思って、その五分刈ごぶがりにした地蔵頭じぞうあたままでが顧みるにも足りない木のくずか何んぞのように見えた。
痩せた木部の小さい輝いた眼は、依然として葉子を見詰めていた。
この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人の中年の紳士の口から起った。その笑い声と葉子と何んの関係もない事は葉子にも分り切っていた。然し彼女はそれを聞くと、もう慾にも我慢がし切れなくなった。而して右の手を深々と帯の間にさし込んだまま立ち上りざま、
「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
と捨てるように古藤に云い残して、いきなり繰戸くりどを開けてデッキに出た。
大分高くなった日の光がぱっと大森田圃たんぼに照り渡って、海が笑いながら光るのが、並木の向うに広過ぎる位一どきに眼に這入るので、軽い瞑眩めまいをさえ覚える程だった。鉄の手欄てすりにすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明らさまに現われていた。
「ひどく痛むんですか」
「ええ可なりひどく」
と答えたが面倒だと思って、
「いいから這入っていて下さい。大袈裟おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
と云い足した。古藤はいてとめようとはしなかった。而して、
「それじゃ這入っているが本当に危のう御座んすよ……用があったら呼んで下さいよ」
とだけ云って素直に這入って行った。
「Simpleton!」
葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞ忘れてしまって、手欄にひじをついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締った空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑やあいや黄色の外、これと云って輪廓のはっきりした自然の姿も眼に映らない。ただ涼しい風が習々そよそよびんの毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしい程の快速力で走っていた。葉子の心は唯渾沌こんとんと暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も左から右に、右から左に廻っていた。こうして葉子に取っては永い時間が過ぎ去ったと思われる頃、突然頭の中を引っ掻きまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川ろくごうがわの鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっとして夢からさめたように前を見ると、釣橋の鉄材が蛛手くもでになって上から下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退いて、両袖で顔を抑えて物を念じるようにした。
そうやって気を静めようと眼をつぶっている中に、まつげを通し袖を通して木部の顔と殊にその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮び上って来た。葉子の神経は磁石じしゃくに吸い寄せられた砂鉄のように、堅く一つの幻像のうえに集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいて汽車は段々と歩度をゆるめていた。田圃のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた広告看板がつらねて建ててあった。葉子は袖から顔を放して、気持の悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。処々ところどころに火が燃えるようにその看板は眼に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻きょうかんを持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯ちゅうじょうとう」という文字を、何気なしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。而してその父なる木部の姿は、かかる乱雑な聯想れんそうの中心となって、又まざまざと焼きつくように現われ出た。
その現われ出た木部の顔を、わば心の中の眼で見つめている中に、段々とその鼻の舌からひげが消えせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温みを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。稍々やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢つやは、神経的な青年の蒼白あおじろはだの色となって、黒く光った軟かいつむりの毛が際立って白い額を撫でている。それさえがはっきり見え始めた。列車は既に川崎停車場のプラットフォームに這入って来た。葉子の頭の中では、汽車が止り切る前に仕事をしおおさねばならぬという風に、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。而して列車が動かなくなった時、葉子はその人の傍にでもいるように恍惚うっとりとした顔付で、思わずらず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟かいびんおくれ毛をかき上げていた。これは葉子が人の注意を牽こうとする時にはいつでもする姿態しなである。
この時、繰戸がけたたましく開いたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
而かもその最後から、涼しい色合のインバネスを羽織った木部が続くのを感付いて、葉子の心臓は思わずはっと処女の血をったように時めいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにその側を通り抜けようとした時、二人の眼はもう一度しみじみと出遇であった。木部の眼は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、直ぐに物を言い出しそうに唇さえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わず微笑ほほえみかけたのであったが、その瞬間燕返つばめがえしに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢きょうまんな光をその眸から射出いだしたので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯葉のように、二人の間を空しくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわて方を見ると、車内で彼から受けた侮辱に可なり小気味よくむくい得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部は瘠せたその右肩を癖のようにいからしながら、急ぎ足に闊歩かっぽして改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出す為めに立ち止った時、深い悲しみの色を眉の間にみなぎらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に眼を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮辱の一瞥いちべつをも与えなかった。
木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の眼がじっとその後姿をいかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。而してその眼には寂しく涙がたまっていた。
「又会う事があるだろうか」
葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそう云っていたのだった。

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列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄てすりりかかりながら木部の事を色々と思いめぐらした。稍々やや色づいた田圃の先きに松並木が見えて、その間から低く海の光る、平凡な五十三次風な景色が、電柱で句読くとうを打ちながら、空洞うつろのような葉子の眼の前で閉じたり開いたりした。赤蜻蛉あかとんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石ひうちいしから打ち出される火花のように、赤い印象を眼の底に残して乱れあった。何時いつ見ても新開地じみて見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいた頃には、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂もみじざかの桜並木を黄色く見せる程に暑く照らしていた。
煤煙ばいえんで真黒にすすけた煉瓦れんが壁のかげに汽車がとまると、中から一番先きに出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先きを越してしまって、二人は一番あとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場附きの車夫が、待合部屋べやの前にかたまりながら、やつれて見える葉子に眼をつけて何かと噂し合うのが二人の耳にも這入った。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中にはまじっていた。開港場のがさつな卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびりびり感じて来た。
何しろ葉子は早く落ち付く所を見付け出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って行って見たが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにも馬鹿にしたような断り方をしたといった。二人は仕方なくうるさく附きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った小さな運河を渡って、或る狭いきたない町の中程にある一軒の小さな旅人宿に這入って行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構そとがまえで、美濃紙みのがみのくすぶり返った置行燈おきあんどんには太い筆付で相模屋さがみやと書いてあった。葉子は何んとなくその行燈に興味を牽かれてしまっていた。悪戯いたずら好きなその心は、嘉永かえい頃の浦賀にでもあればありそうなこの旅籠屋はたごやに足を休めるのも恐ろしく面白く思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれたような女中までが眼に留った。而して葉子がていよく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
何処どこか静かな部屋を案内して下さい」
と無愛想に先きを越してしまった。
「へいへい、どうぞこちらへ」
女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と眼を見合せて、さげすんだらしい笑いを漏らして案内に立った。
ぎしぎしと板ぎしみのする真黒な狭い階子段はしごだんを上って、西に突き当った六畳程の狭い部屋に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元えりもとを思い出させるような、西に出窓のある薄汚い(うすぎたな)い部屋の中を女中はひっくるめてにらみ廻しながら古藤は、
外部そとよりひどい……何処か他所よそにしましょうか」
と葉子を見返った。葉子はそれには耳もさずに、思慮深い貴女きじょのような物腰で女中の方に向いて云った。
隣室となりいていますか……そう。夜までは何処も明いている。……そう。お前さんがここの世話をしておいで?ならほかの部屋もついでに見せておもらいましょうか知らん」
女中はもう葉子には軽蔑の色は見せなかった。而して心得顔に次ぎの部屋とのあいふすまを開ける間に、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、
「少し加減が悪いし、又色々お世話になるだろうから」
と云いながら、それを女中に渡した。而してずっと並んだ五つの部屋を一つ一つ見て廻って、掛軸、花瓶かびん団扇うちわさし、小屏風こびょうぶ、机と云うようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり取りかえて、すみから隅まで綺麗に掃除をさせた。而して古藤を正座に据えて小ざっぱりした座布団に坐ると、にっこり微笑みながら、
れなら半日位我慢が出来ましょう」
と云った。
「僕はどんな所でも平気なんですがね」
古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、
「気分はもうなおりましたね」
と附け加えた。
「ええ」
と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して眉をひそめた。葉子には仮病けびょうを続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸どうきが」
と云いながら、地味な風通ふうつう単衣物ひとえものの中にかくれた華やかな襦袢じゅばんの袖をひらめかして、右手を力あげに前に出した。而してそれと同時に呼吸をぐっとつめて、心臓とおぼしあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手頸てくびしばらく撫で廻していたが、眽所みゃくどころに探りあてると急に驚いて眼を見張った。
如何どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
「いいえ、おなかも痛みはじめたんですの」
「どんな風に」
ぎゅっきりででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
古藤は静かに葉子の手を離して、大きな眼で深々と葉子をみつめた。
「医者を呼ばなくっても我慢が出来ますか」
葉子は苦しげに微笑んで見せた。
「あなただったら屹度きっと我慢出来ないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代りあなた永田さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事まで御願いしちゃあ……う御座んす、私、車でそろそろ行きますから」
古藤は、女というものはこれ程の健康の変調をよくもこうまで我慢するものだと云うような顔をして、勿論自分が行って見ると言い張った。
実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調ととのえかたがた、米国行きの船の切符を買う為めに古藤を連れてここまで来たのだった。葉子はその頃既に米国にいる或る学士と許嫁いいなずけの間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわかっていたからの事だった。
それは葉子が私生子を設けてから暫く後の事だった。或る冬の夜、葉子の母の親佐おやさが何かの用でその良人おっとの書斎に行こうと階子段を昇りかけると、上から小間使がまっしぐらけ下りて来て、危く親佐にっ突かろうとしてその側をすりぬけながら、何か意味の分らない事を早口に云って走り去った。その島田髷まげや帯の乱れた後姿が、嘲弄ちょうろうの言葉のように眼を打つと、親佐は唇をみしめたが、足音だけはしとやかに階子段を上って、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止って、しわぶきを一つして、それから規則正しく間をおいて三度戸をノックした。
こう言う事があってから五日とたたぬ中に、葉子の家庭即ち早月さつき家は砂の上の塔のようにもろくも崩れてしまった。親佐は殊に冷静な底気味悪い態度で夫婦の別居を主張した。而して日頃の柔和に似ず、傷ついた牡牛おうしのように元通りの生活を恢復かいふくしようとひしめく良人や中に這入って色々云いなそうとした親類達の言葉を、きっぱりしりぞけてしまって、良人を釘店くぎだなのだだっ広い住宅にたった一人残したまま、葉子とともに三人の娘を連れて、親佐は仙台に立ち退いてしまった。木部のとめるのも聴かず、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、普段ならば一も二もなく父をかばって母にたてをつくべき所を、素直に母のする通りになって、葉子は母と共に仙台にうずもれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、出来るだけ世間に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶くんとうとかいう事を折あるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽と云う利子を払わねばならなかった。一方にみ消す為めには一方にどんと火の手を挙げる必要がある。早月さつき母子おやこが東京を去ると間もなく、或る新聞は早月ドクトルの女性に関するふしだらを書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴ふいちょうしたついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基くものだ。その為めに彼女は基督教婦人同盟の副会長という顕揚けんような位置さえ投げ棄てたのだと書き添えた。
仙台に於ける早月親佐は暫くの間は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸種家達のサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善市や、音楽会というようなものが形を取って生れ出た。殊に親佐が仙台支部長として働き出した基督教婦人同盟の運動は、その当時野火のびのような勢で全国に拡がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家そほうかの奥さん達もその集会には列席した。而して三ヵ年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親と何処か似過ぎている為めか、似たように見えて一調子違っている為めか、それとも自分を慎しむ為めであったか、はたの人には判らなかったが、かく葉子はそんなはなやかな雰囲気に包まれながら、不思議な程沈黙を守って、碌々ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間には吸い寄せられる人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控目ひかえめなしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く種となって、葉子という名は、多才で、情緒のこまやかな、美しい薄命児を誰にでも思い起させた。彼女の立ちすぐれた眉目形みめかたちは花柳の人達さえうらやましがらせた。而して色々な風聞が、清教徒風に質素な早月の侘住居わびずまいの周囲をかすみのように取り捲き始めた。
突然小さな仙台市は雷にでも打たれたように或る朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売敵がたきである或る新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人に同時に慇懃いんぎんを通じているという、全紙にわたった不倫極まる記事だった。誰も意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
この髪の毛のい、口の大きい、色白な一人の青年を乗せた人力車が、仙台の町中をせわしく駈け廻ったのを注意した人は恐らくなかったろうが、その青年は名を木村といって、日頃から快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で、早月親佐の冤罪えんざいすすがれる事になった。この稀有けう大袈裟おおげさな広告が又小さな仙台の市中をどよめき渡らした。然し木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事は出来なかった。
こんな騒ぎが持ち上ってから早月親佐の仙台に於ける今までの声望は急に無くなってしまった。その頃丁度東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしおに親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。
木村はその後すぐに早月母子を追って東京に出て来た。而して毎日入りびたるように早月家に出入りして、殊に親佐の気に入るようになった。親佐は病気になって危篤におちいった時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、一番気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあの我儘な、男を男と思わぬ葉子に仕えるようにして行く事が出来ると思った。而して基督教婦人同盟の会長をしている五十川いそがわ女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあと云うような不思議な曖昧あいまい切盛きりもりで、木村は、何処か不確実ではあるが、兎も角葉子を妻とし得る保障を握ったのだった。

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郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退けまいと云うので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買物をする事になった。古藤はそんなら其処そこらをほッつき歩いて来ると云って、例の麦稈むぎわら帽子を帽子掛から取って立ち上った。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、
「あなた先刻さっきパラソルは骨が五本のがいいと仰有おっしゃてね」
と云った。古藤は冷淡な調子で、
「そういったようでしたね」
と答えながら、何か他の事でも考えているらしかった。
「まあそんなにとぼけて……何故五本のがお好き?」
「僕が好きと云うんじゃないけれども、あなたは何んでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」
「何処までも人をおからかいなさる……ひどい事……行っていらっしゃいまし」
と情を迎えるように行って向き直ってしまった。古藤が縁側に出ると又突然呼びとめた。障子しょうじはっきり立姿をうつしたまま、
「何んです」
と云って古藤は立ち戻る様子がなかった。葉子は悪戯いたずら者らしい笑いを口のあたりに浮べていた。
「あなたは木村とは学校が同じでいらしったのね」
「そうですよ、級は木村の……木村の方が二つも上でしたがね」
「あなたはあの人を如何どうお思いになって」
丸で少女のような無邪気な調子だった。古藤は微笑ほほえんだらしい語気で、
「そんな事はもうあなたの方がくわしいはずじゃありませんか……しんのいい活動家ですよ」
「あなたは?」
葉子はぽん高飛車たかびしゃに出た。而してにやりとしながらがっくりと顔を上向きにはねて、床の間の一蝶のひどい偽物まがいものを見やっていた。古藤が咄嗟とっさの返事に窮して、少しむっとした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落して、如何いかにもたよりないという風に、
「日盛りは暑いから何処ぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来て下さいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所でも心細う御座んすから……よくって」
古藤は何が平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。
朝のうちだけからっと破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、真白な雲が太陽の面を撫でて通る毎に暑気は薄れて、空一面が灰色にかき曇る頃には、はだ寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨しぐれらしく照ったり降ったりしていた雨の脚も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたな部屋へやの中は、殊更湿しとりが強く来るように思えた。葉子は居留地の方にある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思い切った贅沢ぜいたくな買物をした。買物をして見ると葉子は自分の財布のすぐ貧しくなって行くのをおそれないではいられなかった。葉子の父は日本橋では一かどの門戸を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親佐が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並々ならぬ才能を、少しも家の事に用いなかった為め、その死後には借金こそ残れ、遺産と云っても憐れな程しかなかった。葉子は二人の妹を抱えながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそしおおせて来たようなものだった。誰にも貧乏らしい気色けしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚々々の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだけのに眼の前に異国情調の豊かな贅沢品を見ると、彼女の貪慾は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中のありったけの買物をしてしまったのだ。使をやって正金銀行でえた金貨は今鋳出いだされたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それを如何どうする事も出来なかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持に合槌あいづちを打つように見えた。古藤はうまく永田から切符を貰うことが出来るだろうか。葉子自身が行き得ない程葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんな風に扱ったろう。永田の口から古藤は色々な葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱ゆううつが生み出す反抗的な気分になって、湯をわかせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒シャンペンを取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
夜になったら泊客とまりきゃくがあるかも知れないと女中の云った五つの部屋は矢張りからのままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく眼を覚まして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりと眺めていた。
その時じたッじたッと濡れた足で階子段を昇って来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側をつたって来たが、ふと立ち止ると大きな声で帳場の方に怒鳴どなった。
「早く雨戸を閉めないか……病人がいるんじゃないか。……」
「この寒いのに何んだってあなたも言い付けないんです」
今度はこう葉子に云いながら、建付たてつけの悪い障子を開けていきなり中に這入ろうとしたが、その瞬間にはっと驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃにした暖かいいきれがいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋の隅々までは見えないが、光りの照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内ぐんないの布団の上に掻巻かまきを脇の下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、派手な長襦袢一つで、東欧羅巴ヨーロッパ嬪宮ひんきゅうの人のように、片臂かたひじをついたまま横になっていた。而して入浴と酒とでほんのりほてった顔を仰向けて、大きな眼を夢のように見開いてじっと古藤を見た。その枕許には三鞭酒の瓶が本式に氷のなかにつけてあて、飲みさしのコップや、華奢きゃしゃな紙入れや、かのオリーヴ色の包物を、しごきの赤が火のくちなわのように取り巻いて、その端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。
「お遅う御座んした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、お這入りなさいまし。そんなもの足ででもどけて頂戴、散らかしちまって」
この音楽のようなすべすべした葉子の声を聞くと、古藤は始めてillusionから目覚めた風で這入って来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっと延して、そこにあるものを一払いに払いのけると、花壇の土を掘り起したように汚い畳が半畳ばかり現われ出て、古藤は自分の帽子を部屋の隅にぶちなげて置いて、払い残された細形の金鎖を片付けると、、どっか胡坐あぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、
「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」
と云ってふところの中を探りにかかった。葉子は一寸改まって、
「ほんとに難有ありがとう御座いました」
と頭を下げたが、忽ちroughishな眼付をして、
「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」
と云いながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の眼は何かに激昂しているように輝いていた。
「僕は飲みません」
「おや何故なぜ
「飲みたくないから飲まないんです」
このかどばった返答は男を手もなしあやし慣れている葉子にも意外だった。それでその後の言葉を如何どう継ごうかと、一寸躊ためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口を切った。
「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思い切って尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、かくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙で云ってあげるから、早く帰れって云うんです、頭から。失敬な奴だ」
葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持を変えようと思った。而して驀地まっしぐらに何か云い出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、
「あなたは一体まだ腹が痛むんですか」
きっぱり云って堅く坐り直した。然しその時に葉子の陣立ては既に出来上っていた。初めの微笑みをそのままに、
「ええ、少しはよくなりましてよ」
と言った。古藤は短い兵急たんぺいきゅうい、
「それにしても中々元気ですね」
とたたみかけた。
「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」
と三鞭酒を指した。
正面からはね返された古藤は黙ってしまった。然し葉子も勢に乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃やごろを計って語気をかえてずっ下手したでになって、
「妙にお思いになったでしょうね。悪う御座いましたね。こんな所に来ていて、お酒なんか飲むのは本当に悪いと思ったんですけれど、気分がふさいで来ると、私にはこれより外にお薬はないんですもの。先刻さっきのように苦しくなって来ると私はいつでも湯を熱めにしてはいってから、お酒を飲み過ぎる位飲んで寝るんですの。そうすると」
と云って、一寸云いよどんで見せて、
「十分か二十分ぐっすり寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持に……。それから急に頭がかっと痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気が滅入めいり出して、もうもう如何どうしていいか分らなくなってこ共のように泣きつづけると、その中に又眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとその後はいくらかさっぱりするんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類達から余計な世話をやかれたり、他人力ひとぢからなんぞをあてにせず妹二人を育てて行かなければならないと思ったりすると、私のような他人様ひとさまと違って風変りな、……そら、五本の骨でしょう」
と淋しく笑った。
「それですものどうぞ堪忍して頂戴。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんな私みたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男の方にはこの心持はおわかりにはならないかも知れないけれども」
こう云ってる中に葉子は、ふと木部との恋が果敢はかなく破れた時の、我れにもなく身に沁み渡る淋しみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずも今日まのあたり見た木部の、しんからやつれた面影などを思い起した。而して更に、母の死んだ夜、日頃は見向きもしなかった親類達が寄り集まって来て、早月家には毛の末程の同情もない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気儘きままな事を親切ごかしにしゃべり散らすのを聞かされた時、如何どうにでもなれと云う気になって、暴れ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の頭んは人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。
「母のしょ七日の時もね、私はたて続けにビールを何杯も飲みましたろう。何んでも瓶がそこいらにごろごろころがりました。そして仕舞しまいには何が何んだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんの膝を枕に、泣寝入りに寝入って、夜中よなかをあなた二時間のも寝続けてしまいましたわ。親類の人達はそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何も滅茶苦茶になったんですって。母の写真を前に置いといて、私はそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやな奴でしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」
「ええ」
と古藤は眼も動かさずにぶっきらぼうに答えた。
「それでもあなた」
と葉子はせつなそうに半ば起き上って、
外面うわつらだけで人のする事を何んとか仰有るのは少し残酷ですわ。……いいえね」
と古藤の何か云い出そうとするのをさえぎって、今度はきっと坐り直った。
「私は泣き言を云って他人様ひとさまにも泣いて頂こうなんて、そんな事はこれんばかりも思やしませんとも……なるなら何処かに大砲おおづつのような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に怒って、葉子のような人非人ひんぴにんはこうしてやるぞと云って、私を押えつけて心臓でも頭でもくだけて飛んでしまう程折檻せっかんをしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃんと自分を忘れないで、いい加減に怒ったり、いい加減に泣いたりしているんですからねえ。何んだってこう生温なまぬるいんでしょう。
義一さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)あなたが今朝、しんの正直な何んとかだと仰有った木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。五十川いそがわが親類中に賛成さして、晴れがましくも私を皆んなの前に引き出しておいて、罪人にでも云うように宣告してしまったのです。私が一口でも云おうとすれば、五十川の云うには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたが仰有ったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母の方は何んとかしようが娘の方は保証が出来ないと仰有ったんですとさ」
云い知らぬ侮蔑の色が葉子の顔にみなぎった。
「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母の名を出してあの広告をしたんですの。
母だけがいい人になれば誰だって私を……そうでしょう。その挙句あげくに木村はしゃあしゃあと私を妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物のたとえがですわ。それとも言葉では何んと云っても無駄だから、実効的に私の潔白を立ててやろうかとでも云うんでしょうか」
そう云って激昂し切った葉子は嚙み捨てるように甲高かんだかほほと笑った。
「一体私は一寸ちょっとした事で好き嫌いの出来る悪いたちなんですからね。と云って私はあなたのような一本でもありませんのよ。
母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道じみちに暮さなければ母の名誉を汚す事になる。妹だって裸かでお嫁入りも出来まいといわれれば、私立派に木村の妻になって御覧に入れます。その代り木村が少しつらいだけ。
こんな事をあなたの前で云ってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直まっすぐなあなただと思いますから、私もその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。私の性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいる私がこう考えるのにし間違いがあったら、どうか遠慮なく仰有って下さい。
ああいやだった事。義一さん、私こんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、今日は如何したんでしょう、何んだか遠い旅にでも出たような淋しい気になってしまって……」
弓弦ゆづるを切って放したように言葉を消して葉子は俯向うつむいてしまった。日は何時いつの間にかとっぷり暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿しとった夜風が細々とかよって来て、湿気でたるんだ障子紙をそっあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ廻して、何んとも返答をしていいのか、云うべき事は腹にあるけれども言葉には現わせない風だった。部屋は息気いき苦しい程しんとなった。
葉子は自分の言葉から、その時の有様から、妙にやる瀬ない淋しい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめて欲しいような頼りなさを感じた。して横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はやや暫くしてから何か決心したらしくまともに葉子を見ようとしたが、葉子の切なそうな憐れな様子を見ると、驚いた顔付をして我れ知らず葉子の方にいざり寄った。葉子はすかさずひょうのようななめらかに身を起して逸早いちはやくもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。而して、
「義一さん」
と震えを帯びて云った声は存分に涙に濡れているように響いた。古藤は声をわななかして、
「木村はそんな人間じゃありませんよ」
とだけ云って黙ってしまった。
駄目だったと葉子はその途端に思った。葉子の心持と古藤の心持とはちぐはぐになっているのだ。何んという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。然し様子にはそんな心持を少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよなかな線を風の前のてっせんつるのように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
暫くしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも眼に溜ってはいなかった。而していとしい弟でもいたわるように布団ふとんから立ち上りざま、
「済みませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
と云いながら、腹の痛むのを堪えるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのり赤らんだ素足に古藤の眼が鋭くちらっと宿ったのを感じながら、障子を細目に開けて手をならした。
葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋のたわむれには何んの面白味もなさそうな古藤、木村に対してと云わず、友達に対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そう云う男に対して葉子は今まで何んの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢わからずやと見限って、口先きばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。然しその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜の中に木村とは顔を合わせる事の出来ない人間にして見たくって堪らなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくて堪らなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている慾念を葉子の蠱惑力チャームで掘り起して見たくって堪らなくなった。
気取けどられない範囲で葉子があらん限りの謎を与えたにも拘らず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずる気色けしきのないのを見ると葉子は益々いらだった。而してその晩は腹が痛んで如何どうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿ってくれと云い出した。然し古藤は頑として聴かなかった。而して自分で出かけて行って、品もあろう事か真赤な毛布を一枚買って帰って来た。葉子はとうとうを折って最終列車で東京に帰る事にした。
一等の客車には二人の外に乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見もくろみに失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中では又色々と話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝の側で毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台傭やとって、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝に放り出して、左のびんをやさしくかき上げながら、
「今日のお立替たてかえをどうぞその中から……明日屹度きっと入らしって下さいましね……お待ち申しますことよ……左様なら」
と云って自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚が這入はいっている。而して葉子は古藤がそれをくずして立替を取る気遣きづかいのないのを承知していた。

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葉子が米国に出発する九月二十五日は明日に迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、何時までたっても定まらないで、気違きちがい日和ひよりとも云うべき照り降りの乱雑は空合そらあいが続き通していた。
葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵のかげになった自分の小部屋に這入って、前々から片付けかけていた衣類の始末をし始めた。模様やしまの派手なのは片端からほどいて丸めて、次ぎの妹の愛子にやるようにと片隅に重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世さだよに着せても似合わしそうな大柄のものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。而して今度は船に持ち込む四季の晴衣はれぎを、床の間に前にある真黒に古ぼけたトランクの処まで持って行って、ふたを開けようとしたが、不図ふとその蓋の真中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を控えた。是れは昨日古藤が油絵具と画筆えふでとを持って来て書いてくれたので、乾き切らないテレピンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字かしらもじY・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先きで丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太腹ふとっぱらな鋭い性格と、波瀾はらんの多い生涯の極印ごくいんがすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時程のいとわしい思いを葉子に起させなかった。黒い髪の毛をぴったりと綺麗に分けて、かしい中高の細面ほそおもてに、健康らしい薔薇ばら色を帯びた容貌や、甘過ぎる位人情におぼれ安い殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。然し実際顔と顔とを向い合せると、二人は妙に会話さえはずまなくなるのだった。そのかしいのがやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的な癖に恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵際まで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえ小ましゃくれて見えた。殊に東京生れと云ってもいい位都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土を嗅ぎ出した時には嚙んで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合せた時に厭だと思った印象に移って行った。而して手に持った晴衣をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もその頃にはようやく白み始めて、蠟燭ろうそくの黄色い焔が光の亡骸なきがらのように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間に静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店くぎだなの狭い通りを、河岸かしで仕出しをした若い者が、大きな掛声でがらがらと車をきながら通るのが聞こえ出した。葉子は今日一日に眼まぐるしい程ある沢山の用事を一寸胸の中で数えて見て、大急ぎで其処らを片付けて、錠を下ろすものには錠を下ろし切って、雨戸を一枚って、そこから射し込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷に包み込んだ。而してそれを抱えて、手燭を吹き消しながら部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。
「もう起きたんですね……片付いたかい」
と挨拶してまだ何か云いたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々おおしい風采ふうさいをしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、何処どこまでも貧相に見える女だった。葉子の眼はその帯しろ裸かな、肉の薄い胸のあたりをちらっとかすめた。
「おやお早う御座います……あらかた片付きました」
と云ってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪に一杯垢あかのたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
「あのお前さんが片付ける時にと思っていたんだがね。明日のお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。お母さんのもので間に合うのは無いだろうか知らん。明日だけ借りれば後はちゃんと始末をして置くんだから一寸見ておくれではないか」
葉子は又かと思った。働きのない良人に連れ添って、十五年の間丸帯一つ買って貰えなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのを憐れまないでもなかったが、物怯じしながら、それでいて、慾にかかると図々しい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾むしずが走る程憎かった。然しこんな思いをするのも今日だけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々しく気の毒だとか済まないとか云い続けながら錠を下ろした簞笥たんすを一々開けさせて、色々と勝手に好みを云った末に、りゅうとした一揃そろえを借る事にして、それから葉子の衣類までをかく云いながら去りがてにいじくり廻した。台所からは、味噌汁の香がして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声を、叔父が叔母を呼び立てる事とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいい加減な返事をしながらその声に耳を傾けていた。而して早月家の最期の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話は或る銀行の重役をしている親類がいい加減な口実を作って只持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品こっとうひんは蔵書と一緒に糶売せりうりをされたが、売上げ代はとうとう葉子の手には這入らなかった。住居は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後に何かに尽力じんりょくしたという親類の某が、二束三文にそくさんもんで譲り受ける事に親族会議できまってしまった。少しばかりある株券と地所とは愛子と貞世との教育費にてる名義で某々が保管することになった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。若し葉子が素直な女だったら、却って食い残しという程の遺産はあてがわれていたに違いない。然し親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所よそに嫁入って行くのをいい事に遺産の事には一切関係させない相談をした位は葉子はうに感付いていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかと云って長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事を無益なのも知っていた。で「犬にやる積りでいよう」とほぞを堅めてかかったのだった。今、後に残ったものは何がある。切り廻しよく見かけを派手にしている割合に、不足勝ちな三人姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない淋しさと「裸になるなら綺麗さっぱり裸かになって見せよう」という火のような反抗心とが、無茶苦茶に葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持になって、先程の手紙の包を抱えて立ち上りながら、俯向いて手ざわりのいい絹物をで廻している叔母を見下ろした。
「それじゃ私まだ外に用がありますししますから錠を下ろさずにおきますよ。御緩ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのは私が持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいて下さい」
と云い捨てて、ずんずん部屋を出た。往来には砂埃すなほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
二階に上って見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起した。愛子は驚いたように大きな美しい瞳を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり厳重な調子で、
「あなたは明日から私の代りをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていて如何するの。あなたがぐずぐずしているとさあちゃんが可哀そうですよ。早く身じまいをして下のお掃除でもなさいまし」
にらみつけた。愛子は羊のように柔和な眼をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子は何んとなくしょうの合わないこの妹が、階子段を降り切ったのを聞きすまして、そっと貞世に近づいた。おもざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり附いて、頰は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉のいとしさに思わず微笑ませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽がいに軽く抱きすくめた。而してしみじみとその寝顔に眺め入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わる度に、葉子の心は妙に滅入って行った。同じはらを借りてこの世に生れ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響がひそんでいた。葉子は吸い取られるようにその響に心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろと留度とめどなく流れ出るのだった。
一家の離散を知らぬ顔で、女の身空みそらを唯独り米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別何んとも思っていなかった。振分髪ふりわけがみの時分から、くまで意地の強い眼はしのく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中を傍眼わきめもふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつの間にかあたり前の女の生活をすりぬけて、たった一人見も知らぬ野末に立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女達は、葉子におどおどしい同性の恋を捧げながら、葉子にinspreされて、我れ知らず大胆な奔放な振舞いをするようになった。その頃「国民文学」や「文学界」に旗挙げをして、新しい思想運動をおこそうとした血気なロマンティックな青年達に、歌の心を授けた女の多くは、大方葉子から血脈を引いた少女等であった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもその頃から猜疑さいぎの眼を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的とも云うべき衝動の為めにあてもなくゆらぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、而して自分をさげすみながら、真暗まっくらな大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、仕舞には驀地まっしぐらに走り出した。誰も葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。偶々たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表の見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はその頃から何処か外国に生れていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事の出来る女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持で年を取って行く間に葉子は勿論何度もつまずいてころんだ。而して独りで膝の塵を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、一所に葉子と走っていた少女達は、うの昔に尋常な女になりすましていて、小さく見える程遠くの方から、憐れむようなさげすむような顔付をして、葉子の姿を眺めていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもう出来なかった。出来たところで引き返そうとする気は微塵みじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子は又訳もなく不思議な暗い力に引っ張られた。こう云うはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細ささいな話だった。境遇でも変ったら何か起るかも知れない。元のままかも知れない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近には見当らなかった。
然し一つあった。葉子の涙は唯訳もなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らず罪なく眠りつづけていた。同じはらを借りてこの世を生れ出た二人の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響に心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分を憐れむとも妹を憐れむとも知れない切ない心に先き立たれて、思わずぎゅっと貞世を抱きしめながら物を言おうとした。然し何を云い得ようぞ。のどもふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく眼を開いた。而して暫くの間、涙に濡れた姉の顔をまじまじと眺めていたが、やがて黙ったまま小さい袖でその涙を拭い始めた。葉子の涙は新しくき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙を拭いつづけた。而して仕舞にはその袖を自分の顔に押しあてて何か云い云いしゃくり上げながら泣き出してしまった。

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葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手な字で唐紙牋とうしせんに書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼こうぎを受けていたが、貴女に対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(即ちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣もほろろに書き連ねて、追伸に、先日貴女から一言の紹介もなく訪問して来た素性すじょうの知れぬ青年の持参した金はらないからお返しする。良人おっとの定まった女の行動は、申すまでもないがつつしむが上にも殊に慎しむべきものだと私共は聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替かわせが同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病けびょうをつかって宿屋に引きこもったのも、実を云うと船商売をする人には珍らしい厳格なこの永田に会う面倒を避ける為めだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引きこうとしたが、ふと思い返して、丹念に墨をすりおろして一字々々考えて書いたような手紙だけずたずたに破って屑籠くずかごに突っ込んだ。
葉子は地味な晴行衣よそいきに寝衣を着かえて二階を降りた。朝食はべる気がなかった。妹達の顔を見るのも気づまりだった。
姉妹三人のいる二階の、すみから隅まできちんと小奇麗に片付いているのに引きかえて、叔母一家の住まう下座敷は変に油ぎって汚れていた。白痴のが赤坊同様なので、東の縁に干してある襁褓むつきから立つ塩臭い匂いや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父が、えりの真黒に汗じんだ白い飛白かすりを薄寒そうに着て、白痴の子を膝の上に乗せながら、朝っぱらから柿をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙屑とごったになって敷石の上に散っていた。葉子は叔父に一寸挨拶をして草履ぞうりさがしながら、
「愛さん一寸ここへお出で。玄関が御覧、あんなによごれているからね、綺麗に掃除しておいて頂戴よ。――今夜はお客様おあるんだのに……」
と駈けて来た愛子にわざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くであてこすられたのを感じた風で、
「おお、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構うて下さるな、おいお俊――お俊というに、何しとるぞい」
のろまらしく呼び立てた。帯しろ裸かの叔母がそこへやって来て、又くだらぬ口論くちさかいをするのだと思うと、泥の中でいがみ合う豚か何んぞかを思い出して、葉子はかかとの塵を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店くぎだなの往来は場所柄だけに門並かどなみ綺麗に掃除されて、打水うちみずをした上を、気のきいた風体ふうていの男女が忙しそうに往き来していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草の袋の千切ちぎれたのが散らばってほうきの目一つない自分の家の前を眼をつぶって駈けぬけたい程の思いをして、ついそばの日本銀行に這入ってありったけの預金を引き出した。而してその前の車屋で始終乗りつけの一番立派な人力車を仕立てさして、その足で買物に出かけた。妹達に買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産みやげ品や、新しいどっしりしたトランクなど買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。而して午後の日がやや傾きかかった頃、大塚窪町くぼまちに住む内田という母の友人を訪れた。内田は熱心な基督教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎だかつのように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才肌の人だった。葉子は五つ六つの頃、母に連れられて、よく其の家に出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思った事を可愛らしい口許くちもとから云い出す葉子の様子が、始終人からへだてをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でも機嫌を直して、せまった眉根まゆねを少しは開きながら、「又子猿が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱを撫で廻したりなぞした。そのうち母が基督教婦人同盟の事業に関係して、たちまちの中にその牛耳ぎゅうじを握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐ機嫌を損じて、早月親佐を責めて、基督の精神を無視した俗悪な態度だと息捲いきまいたが、親佐が一向にそれに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々うとうとしいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞと云ったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった一人の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日頃の自分を忘れたように甘々しい顔付をした。人が恐れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈しゅんれつな性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並木道などを散歩したりした。或る時内田はもう娘らしく成長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私の唯独りの道伴れだ」などと云った。葉子は不思議な甘い心持でその言葉を聞いた。その記憶は永く忘れ得なかった。
それがあの木部との結婚問題が持ち上ると、内田は否応いやおうなしに或る日葉子を自分の家に呼びつけた。而して恋人の変心をなじり責める嫉妬しっと深い男のように、火と涙とを眼からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂げっこうさせられた。「誰がもうこんな我儘な人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣いけがきの多い、家並やなみまばらな、わだちの跡の滅入めいりこんだ小石川の往来を歩き歩き、憤怒ふんぬの歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇の催した晩秋だった。然しそれと同時に何んだか大切なものを取り落したような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつんと切れたような不思議な淋しさの胸にせまるのを如何どうする事も出来なかった。
「基督に水をやったサマリヤの女の事を思うから、この上お前には何も云うまい――他人ひとの失望も神の失望もちっとは考えて見るがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
そんな事があってから五年を過ぎた今日、郵便局に行って、永田から来た為替を引き出して、定子を預かってくれている乳母の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束をかぞえながら、不図ふと内田の最期の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持で葉子は人力車を大塚の方に走らした。
五年経っても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた垣添いの桐の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子こうし戸を開けて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君と顔を合せた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」と云ったが、その瞬間にはっためらったような様子になって、急いで内田の書斎に這入って行った。しばらくすると嘆息しながら物を云うような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのか勝手だがおれが会う事はないじゃないか」と云ったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は自分の爪先を見詰めながら下唇をかんでいた。
たがて細君がおどおどしながら立ち現われて、先ずと葉子を茶の間に招じ入れた。それと入れ代りに、書斎では内田が椅子を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸を開けて出て行ってしまった。
葉子は思わずふらふらッと立ち上ろうとするのを、何気ない顔でじっこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思い切り云いたい事を云って退けたかった。何処に行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ち摧くなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷やかにむごく思われた。
「こんな事を云っては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事を色々に云って来る人があるもんですからね、あの通りの性質でしょう。どうも私には何んとも云いなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議な程だと私思いますの。この頃は殊更ことさら誰にも云われないようなごたごたが家の内にあるもんですから、余計むしゃくしゃしていて、本当に私如何したらいいかと思う事がありますの」
意地も生地きじも内田の強烈な性格の為めに存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思い諦めた表情を浮べて、捨身の生活のどん底にひそむ淋しい不足をほのめかした。自分より年下で、かも良人から散々悪評を投げられている筈の葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯痒はがゆかった。眉と口とのあたりにむごたらしい軽蔑の影が、まざまざと浮び上るのを感じながら、それを如何する事も出来なかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故せこに慣れ切った三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変った)
「歯痒くはいらっしゃらなくって」
と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「私だったら如何どうでしょう。すぐおじさんと喧嘩けんかして出てしまいますわ。それは私、おじさんを偉い方だとは思っていますが、私こんなに生れついたんですから如何どうしようもありませんわ。一から十まで仰有る事をはいはいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなた見たいな方に、そう笠にかからずとも、私でもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がお出来になるんですのね、私だけはけ物ですけれども、世の中は中々よくいっていますわ。……あ、それでも私はもう見放されてしまったんですものね、いう事はありやしません。本当にあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合せですわ。あなたは辛抱しんぼうなさる方。おじさんは我儘でお通しになる方。もっともおじさんにはそれが神様のお思召しなんでしょうけれどもね。……私も神様のお思召しか何んかで我儘で通す女なんですからおじさんとは如何しても茶碗ちゃわんと茶碗ですわ。それでも男は良う御座んすのね、我儘が通るんですもの。女の我儘は通すより仕方がないんですから本当に情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
内田の細君は自分より遥か年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日あたり結ったままの束髪だった。癖のない濃い髪にはまきの灰らしい灰がたかっていた。糊気のりけのぬけ切った単衣ひとえも物寂しかった。その柄の細かい所には里の母の着古しというようなにおいがした。由緒ある京都の士族に生れたその人の皮膚は美しかった。それが尚更なおさらその人を憐れにして見せた。
「他人の事なぞ考えていられやしない」暫くすると葉子は捨鉢にこんな事を思った。而して急にはずんだ調子になって、
「私明日あす亜米利加アメリカちますの、独りで」
突拍子とっぴょうしもなく云った。余りの不意に細君は眼を見張って顔をげた。
「まあ本当に」
「はあ本当に……而かも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
細君がうなずいてなお仔細しさいを聞こうとすると、葉子は事もなげに遮って、
「だから今日はお暇乞いとまごいの積りでしたの。それでもそんな事は如何でもう御座いますわ。おじさんがお帰りになったらよろしく仰有って下さいまし、葉子はどんな人間になり下るかも知れませんって……あなたどうぞお体をお大事に。太郎さんはまだ学校で御座いますか。大きくおなりでしょうね。何んぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
と云いながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上った。
玄関に送って出た細君の眼には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動こどうが止る程葉子の心はかっとなった。而して唇を震わしながら、
「もう一言ひとことおじさんに仰有って下さいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度位は人のとがも許して上げて下さいましって。……尤もこれは、あなたのお為めに申しますの。私は誰にあやまっていただくのもいやですし、誰にあやまるのもいやな性分なんですから、おじさんに許して頂こうとはてんから思ってなどいはしませんの。それもついでに仰有って下さいまし」
口のはたに戯談じょうだんらしく微笑を見せながら、そう言っている中に、大濤おおなみどすんどすん横隔膜おうかくまくにつきあたるような心地がして、鼻血でも出そうに鼻のあなが塞がった。門を出る時も唇はなお口惜くやしそうに震えていた。日は植物園の森の上にうすづいて、暮方近い空気の中に、今朝から吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、今朝早く風の吹き始めた頃に、土蔵わきの小部屋で荷造りをした時の心とを較べて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。而して門を出て左に曲ろうとして不図道傍みちばたの捨石にけつまずいて、はっと眼が覚めたようにあたりを見廻した。矢張り二十五の葉子である。いいえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨石を見た。その時に日は……矢張り植物園の森のあの辺にあった。而して道の暗さもこの位だった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロと基督との間に取り交わされた寛恕かんじょに対する問答を例に引いた。いいえ、それは今日した事だった。今日意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろう筈がない……変な……。それにしてもあの捨石には覚えがある。あれは昔からすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒ってその捨石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮べた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぽっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり眼先きに現われた。と思うとやがてその輪廓が輝き出して、眼も向けられない程耀かがやいたが、すっ惜気おしげもなく消えてしまって、葉子は自分の体が中有ちゅううからどっしり大地にり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口からあごを伝って胸の合せ目をよごした。驚いてハンケチをたもとからさぐり出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
という声に驚かされて、葉子は始めて自分の後に人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨石のある所はもう八九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
こたえながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾こんのれんを所せましくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこに這入って、人目を避けながら顔を洗わして貰おうとした。
四十恰好かっこう克明こくめいらしい内儀かみさんがわが事のように金盥かなだらいに水を移して持って来てくれた。葉子はそれへ白粉気おしろいけのない顔を思う存分に冷やした。而して少し人心地ひとごこちがついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつの間にか真二つにれていた。先刻けつまずいた拍子に敗れたのか知らんと思って見たが、それ位で破れる筈はない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。何んだかそうらしくも思えた。それとも明日の船出の不吉を告げる何かのわざかも知れない。木村との行末の破滅を知らせる悪い辻占つじうらかも知れない。又そう思うと葉子は襟元えりもとこおった針ででも刺されるように、ぞくぞくとわけの分らない身慄みぶるいをした。一体自分は如何なって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮みきわめられない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先きの運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱ゆううつな眼付をして店を見廻した。帳場に坐り込んだ内儀さんの膝にもたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の眼を迎えて葉子を見詰めていた。せぎすで、痛々しいほど眼の大きな、その癖黒眼の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹼の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破れたのと縁でもあるらしく眺められた。葉子の心は全く普段落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立っても坐ってもいられないようになった。馬鹿なと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
暫くの間葉子はこの奇怪な心の動揺の為めに店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふと如何にでもなれという捨鉢な気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった、これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていた其の心組みさえ物憂かった。定子に会った所が如何なるものか。自分の事すら次ぎの瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子ひとりごであろうとも――などを考えるだけが馬鹿な事だと思った。而してもう一度そこの店から巻紙を買って、硯箱すずりばこを借りて、男恥かしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れる積りだったが、それが出来なくなったから、この後とも定子を宜しく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替の金を封入して、その店を出た。而していきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛をはぐって、蹴込けこみに打ち付けてある鑑札かんさつしっかり眼を通しておいて、
「私はこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」
と車夫に云いつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今更のようにきょときょと見やりながら空俥からぐるまを引いて立ち去った。大八車が続けさまに田舎いなかに向いて帰って行く小石川の夕暮の中を、葉子はかさを杖にしながら思いにふけって歩いて行った。
こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子の顳顬こめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行方ゆくえを見失っていた。而して自分では真直に釘店くぎだなの方に急ぐつもりでいた。ところが実際は眼に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時には何時いつの間にか、乳母が住む下谷したや池のはたの或る曲角まがりかどに来て立っていた。
そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷の高台に隠れて、往来にはくりやの煙とも夕靄ゆうもやともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯が殊に赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈かいわいの空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚を撫でた。心よりも肉体の方が余計に定子のいる所にき付けられるようにさえ思えた。葉子の唇は暖かい桃の皮のような定子の頰のはだざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のあるやわらかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。眼には、曲角のちかかった黑板塀くろいたべいとおして木部からけた笑窪えくぼの出来る笑顔が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頰に微笑を浮べてあたりをぬすむように見廻した。と丁度そこを通りかかった内儀かみさんが、何かを前掛の下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
葉子は悪事を働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。而してこそこそとそこを立ち退いて不忍しのばずの池に出た。而して過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中の蓮の実の一つに眼を定めて、身動きもせずに小半時立ち尽していた。

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日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来の灯ばかりが足許あしもとの便りとなる頃、葉子は熱病患者のように濁り切った頭をもてあまして、車に揺られる度毎たびごとに眉を痛々しくしかめながら、釘店に帰って来た。
玄関には色々の足駄や靴がならべてあったが、流行を作ろう、少くとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物はきものと云っては一つも見当らなかった。自分の草履を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分の為めに親戚や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身を馬鹿にし切ったことのようにしか思われなかった。こんな位なら定子の所にでもいる方が余程増しだった。こんな事のある筈だったのを如何どうして又忘れていたものだろう。何処どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持で、拾いかけた草履をたたきに戻そうとしたその途端に、
「姉さんもういや……いや」
と云いながら、身を震わして矢庭やにわに胸に抱きついて来て、乳の間の窪みに顔を埋めながら、成人おとなのするような泣きじゃくりをして、
「もう行っちゃいやですと云うのに」
からく言葉を続けたのは貞世だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝から不機嫌になって誰の云う事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っ張られて階子段はしごだんを昇って行った。
階子段を昇り切って見ると客間はしんとしていて、五十川女史の祈禱きとうの声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンと言う声の一座の人々から挙げられるのを待って室に這入った。列座の人々はまだ殊勝らしく頭を首垂うなだれている中に、正座近くすえられた古藤だけは昂然こうぜんと眼を見開いて、ふすまを開けて葉子がしとやかに這入って来るのを見戍みまもっていた。
葉子は古藤に一寸眼で挨拶をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝をついて、一同に遅刻の詫びをしようとしていると、主人座に坐り込んでいる叔父おじが、我が子でもたしなめるように威儀を作って、
「何んたら遅い事じゃ。今日はお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするが済まんから、今五十川さんに祈禱をお頼み申して、はしを取って頂こうと思った所であった……一体何処を……」
面と向っては、葉子に口小言一つ云い切らぬ器量なしの叔父が、場所も折もあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴やかな色を顔に浮べながら、
「ようこそ皆様……遅くなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
と誰にともなく云っておいて、するすると立ち上って、釘店の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭を撫でながら、自分の上に注がれる満座の視線を小うるさそうに払いけた。而して片方の手で大分乱れたびんのほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤の方に走った。
「暫くでしたね……とうとう明朝あしたになりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……・そう」
と軽い調子で云ったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物の見事に遮られてしまった。葉子は古藤にそれだけの事を云うと、今度は当の敵とも云うべき五十川女史に振り向いて、
小母おばさま、今日途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
と云いながら男女併あわせて八人程列んだ親類達にずっと眼を配って、
「車で駈け通ったんですから前も後もよくは解らないんですけれども、大時計の角の所を広小路に出ようとしたら、その角に大変な人だかりですの。何んだと思って見て見ますとね。禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急拵ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍らしいという事はないんですけれども、その演説している人が……誰だとお思いになって……山脇さんですの」
一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻さっきしかめつららしい顔をした叔父はもう白痴のように口をけたままで薄笑いを漏しながら葉子を見つめていた。
「それが又ね、いつもの通りに金時のように頸筋くびすじまで真赤まっかですの。『諸君』とか何んとか云って大手を振り立てて饒舌しゃべっているのを、肝心の禁酒会員達は呆気あっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいと面白がってたかっているのも全く尤もですわ。その中に、あ、叔父さん、箸をおつけになるように皆様に仰有おっしゃって下さいまし」
叔父があわてて口の締りをして仏頂面ぶっちょうづらに立ち返って、何か云おうとすると、葉子は又それには頓着なく五十川女史の方に向いて、
「あのお肩のりはすっかりなおりになりまして」
と云ったのへ、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父の云い出そうとする言葉は気まずくも鉢合せになって、二人は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底の方に気持の悪い暗流をひそめながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史の側に坐って、神経質らしく眉をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴せかけていたが、いたたまれない様子で著と居住いをなおすと、ぎくしゃくした調子で口を切った。
「葉子さん、あなたもいよいよ身の堅たまる瀬戸際までぎ付けたんだが……」
葉子は隙を見せたら切り返すからと云わんばかりに緊張した、同時に物を物ともしない風でその男の眼を迎えた。
「何しろ私共早月家の親類に取ってはこんな目出度い事は先ずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つ私共の顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいが如何いかがです。木村君は私もよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍らしくはきはき出来るし、若いのに似合わぬ物の分ったじんだ。こんなことまで比較に持ち出すのは如何か知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、私などは初めっから不賛成だった。今度のはじだい段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、私もけしからんと云った実は一人だが、今になって見ると葉子さんはさすがに眼が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上るにきまっている。れからは何んと云っても信用と金だ。官界に出ないのなら、如何しても実業界に行かなければうそだ。擲身てきしん報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのような真面目まじめな信者にしこたま金を造って貰わんじゃ、神の道を日本に伝え拡げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修行をすると口癖のように妙な事を云ったもんだが(ここで一座の人は何んの意味もなく高く笑った。恐らくは余りしかつめらしい空気を打ち破伝手、何んとかそこに余裕ゆとりをつける積りが、皆んなに起ったのだろうけれども、葉子に取ってはそれがそうは響かなかった。その心持は解っても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼等の浅はかさがぐっと癪にさわった)新聞記者はも角も……じゃない、そんなものになられては困り切るが(ここで一座はまた訳もなく馬鹿らしく笑った)米国行の願はたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。後の事は私共がたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方のしめしにもなる程の奮発を頼みます……ええと、財産の方の処分は私と田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。如何いかがでしょう皆さん(そう云って彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合せが出来ていたらしく一同は待ち設けたように点頭うなずいてみせた)如何どうじゃろう葉子さん」
葉子は乞食の歎願を聞く女王のような心持で、〇〇局長と云われるこの男の云う事を聞いていたが、財産の事などは如何でもいいとして、妹達の事が話題に上ると共に、五十川女史を向うに廻して詰問のような対話を始めた。何んと云っても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中では一番年配でもあったし、一番はばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈な骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心ははやり熱した。
「いいえ、我儘だとお思いになっては困ります。私は御承知のような生れで御座いますし、是れまでも度々御心配をかけて来て居りますから、人様同様に見ていただこうとは、是れっぱかりも思っては居りません」
と云って葉子は指の間になぶっていた楊枝ようじを老女史の前にふいと投げた。
「然し愛子も貞世も妹で御座います。現在私の妹で御座います。口幅ったいと思召おぼしめすかも知れませんが、の二人だけは私縦令たとい米国に居りましても立派に手塩にかけて御覧に入れますから、どうかお構いなさらずに下さいまし。それは赤坂学院も立派な学校には違い御座いますまい。現在私も小母さまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくは御座いませんが、私のような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生れつきも御座いましょうとも、御座いましょうけれども、私を育て上げたのはあの学校で御座いますからねえ。何しろ現在居て見た上で、私この二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校では一体何んと見て居るので御座んすか知らん……」
こう云っている中に葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上った。葉子は其の学校の寄宿舎で一箇の中性動物として取り扱われたのを忘れる事が出来ない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生れたままの美しい好意と欲念との銘ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳頃の葉子に、学校は祈禱と、節慾と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとした頃、葉子は不図ふと思い立って、美しい四寸幅程の角帯のようなものを絹糸で編みはじめた。あいに白で十字架と日月をあしらった模様だった。物事に耽り易い葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上で如何して神様の御手に届けよう、と云うような事はもとより考えもせず、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、仕舞には夜の目も碌々合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかた出来上った。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合せにした小さな笹縁ささべりのようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形いびつにならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上りが近づくと葉子は片時も編針を休めてはいられなかった。或る時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見付けられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じ易い乙女心にどうしてこの夢より果敢はかない目論見もくろみを白状する事が出来よう。講師はその帯の色合いろあいから推して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。して葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。而して恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持主たるべき人の名を迫り問うた。
葉子はふと心の眼を開いた。而してその心はそれ以来峰から峯を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさまに翻弄ほんろうした。青年は間もなく自殺同様な死方をした。一度生血なまちの味をしめた虎の子のような渇慾が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
「古藤さん愛と貞はあなたに願いますわ。誰がどんな事を云おうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私昨日田島さんの塾に行って、田島さんにお会い申してよくお頼み申して来ましたから、少し片付いたらはばかり様ですがあなた御自身で二人を連れていらしって下さい。愛さんも貞ちゃんも分りましたろう。田島さんの塾に這入はいるとね、姉さんと一緒にいた時のような訳には行きませんよ……」
「姉さんてば……自分でばかり物を仰有って」
いきなり恨めしそうに、貞世は姉の膝をゆすりながらその言葉をさえぎった。
「さっきから何度書いたか分らないのに平気でほんとにひどいわ」
一座の人々から妙な子だという風にながめられているのにも頓着なく、貞世は姉の方に向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖の下に入れて、そのてのひらを食指で仮名を一字ずつ書いて手の平で拭き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字を辿たどって見ると、
「ネーサマはイイコダカラ『アメリカ』ニイツテはイケマセンヨヨヨヨ」
と読まれた。葉子の胸は我れ知らず熱くなったが、いて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない児だこと、仕方がない。今になってそんな事を云ったって仕方がないじゃないの」
とたしなめさとすように云うと、
「仕方があるわ」
と貞世は大きな眼で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
と云って、くるりと首を廻して一同を見渡した。貞世の可愛い眼は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただ何んと云う事もなく思いりのない笑い方をした。叔父は殊に大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままで俯向いて淋しく笑っていた愛子は、沈んだ恨めしそうな眼でじっと叔父をにらめたと思うと、忽ち湧くように涙をほろほろ流して、それを両袖で拭いもやらず立ち上ってその部屋をかけ出した。階子段の処で丁度下から上って来た叔母と行きったけはいがして、二人が何か云い争うらしい声が聞こえて来た。
一座は又白け渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
れまで何かとお世話になって有難う御座いましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申した通り塾に入れてしまいますし、この後はこれと云って大した御厄介はかけない積りで御座います。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってほんとに済みませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏籤くじを背負い込んだと思召して、どうか二人を見てやって下さいましな。いいでしょう。こう親類の前でははっきり申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったように、なさって下さいまし。あちらへ着いたらと私又屹度きっとどうとも致しますから。屹度そんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けて下さいまして?」
古藤は少し躊躇ちゅうちょする風で五十川女史を見やりながら、
「あなたは先刻さっきから赤坂学院の方がいいと仰有るように伺っていますが、葉子さんの云われる通りにして差仕つかえないのですが。念の為めに伺っておきたいのですが」
と尋ねた。葉子は又あんな余計な事を云うと思いながらいらいらした。五十川女史は日頃の円滑な人ずれのした調子に似ず、何かにひどく激昂した様子で、
「私は亡くなった親佐さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いと仰有るなら、その上かく云いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方ですから、田島さんの塾は前から嫌いでね……よろしゅう御座いましょう、そうなされば。私は兎に角赤坂学院が一番だと何処どこまでも思っとるだけです」
と云いながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじ眺めた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして眼の前の壁の方に顔を向けていた。例えばばらばらと投げつけられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のように。
古藤は何か自分一人で合点がてんしたと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の眼八分の所をじっと見詰めた。
一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間で一番早く機嫌を直して相好そうごうを変えたのは五十川女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年甲斐としがいないとでも思ったように、気を変えてきさくに立ち支度をしながら、
「皆さんいかが、もうおいとまに致しましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
「お祈りを私のようなものの為めになさって下さるのは御無用に願います」
葉子は和らぎかけた人々の気分には更に頓着なく、壁に向けていた眼を貞世に落して、いつの間にか寝入ったとの人の艶々つやつやしい顔を撫でさすりながらきっぱりと言い放った。
人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつの間にか膝の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
最後の客が帰って行った後でも、叔父叔母は二階を片付けには上って来なかった。挨拶一つしようともしなかった。葉子は窓の方に顔を向けて、煉瓦れんがの通りの上にぼうっと立つ灯の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙って坐り続けていた。間遠まどおに日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店くぎだなの人通りは寂しい程疎まばらになっていた。
姿は見せずに、何処かのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
「愛さん……さあちゃんが寝ましたからね、一寸お床を敷いてやって頂戴な」
我れながら驚く程やさしく愛子に口をきく自分を葉子は見出した。しょうが合わないと云うのか、気が合わないというのか、普段愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事についけても猫のように従順で少しも情というものを見せないのが殊更憎かった。然しその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直に立ち上って、はなをすすりながら黙って床と取っている間に、葉子は折々往来の方から振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏布団の畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにその方に眼を定めた。そうかと思うと又今更のように、食い荒らされた食物や、敷いたままになってる座布団のきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐ側に西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先きはがされずに残っていた。
「姉さま敷けました」
暫くしてから、愛子がこうかすかに隣りで云った。葉子は、
「そう御苦労さまよ」
と又しとやかにこたえながら、貞世を抱きかかえて立ち上ろうとすると、又頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合せ目に流れ落ちた。

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底光りのする雲母色きららいろの雨雲が縫目なしにどんよりと重く空一杯にはだかって、本牧ほんもくの沖合まで東京湾の海は物凄ものすごいような草色に、小さく浪の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。昨日の風がいでから、気温は急に夏らしい蒸暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱り切った労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
靴の先きで甲板を'こつこつたたいて、俯向うつむいてそれを眺めながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤は独言ひとりごとのように葉子に云った。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、本当はさして注意もせずに、丁度自分の眼の前に、沢山の見送り人に囲まれて、応接も暇もなげな田川法学博士の眼尻の下った顔と、その婦人の痩せぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭く眺めやっていた。可なり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送人とで縁日のように賑っていた。葉子の見送りに来た筈の五十川女史は先刻から田川夫人の側に附き切って、世話好きな、人の好い叔母さんというような態度で、見送人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子の方へは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三間離れた所に蜘蛛くものような白痴の児を小婢こおんなに背負はして、自分は葉子から預かった手鞄てかばん袱紗ふくさ包みとを取り落さんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送人のむれを見て呆気あっけに取られていた。葉子の乳母は、どんな大きい船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔付をして、サルンの入口の戸の蔭にたたずみながら、四角に畳んだ手拭を真赤になった眼の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたように隅の方にかたまっていた。
葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやると云い聞かせられていた。田川と云えば、法曹界ほうそうかいでは可なり名の聞こえた割合に、何処と云って取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人の噂の為めに世人の記憶に鮮かであった。感受力の鋭敏な而して何等かの意味で自分の敵に廻さなければならない人に対して殊に注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は永い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、情のほしいままな、野心の深い割合に手練タクトの露骨な、良人おっとを軽く見てややともすると笠にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底出来ない、わばしんの弱い強がりではないか知らんと云うのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でもり当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを旨の中で微笑ほほえまずにはいられなかった。
「何んだか話が混雑したようだけれども、それでも云って置いて下さい」
ふと葉子は幻想レベリーから破れて、古藤の云うこれだけの言葉を捕えた。而して今まで古藤の口から出た伝言の文句は大抵聞き漏らしていた癖に、空々しげにもなくしんみりとした様子で、
「確かに……けれどもあなた後から手紙ででも詳しく書いてやって下さいましね。間違いでもしていると大変ですから」
と古藤をのぞき込むようにして云った。古藤は思わず笑いを漏らしながら、「間違うと大変ですから」と云う言葉を、時折り葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。而して、
「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床バースの枕の下に置いときましたから、部屋に行ったら何処にでもしまっておいて下さい。それからそれと一緒にもう一つ……」
と云いかけたが、
「何しろ忘れずに枕の下を見て下さい」
この時、突然「田川法学博士万歳」という大きな声が、棧橋さんばしからデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互に不快な顔をしながら、手欄てすりから下の方を覗いて見ると、すぐ眼の下に、その頃人の少し集まる所には何処にでも顔を出すとどろきという剣舞の師匠だか激剣の師匠だかする頑丈な男が、大きな五つ紋の黒羽織に白っぽい鰹魚縞かつおじまはかまをはいて、棧橋さんばしの板をほおの木下駄で踏み鳴らしながら、ここを先途せんどわめいていた。その声に応じて、デッキまでは昇って来ない壮士ていの政客や某私立政治学校の生徒が一斉に万歳を繰り返した。デッキの上に外国船客は物珍らしさに逸早いちはやく、葉子がり掛っている手欄の方に押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲った角に身を引いた。田川夫婦も微笑みながら、サルンから挨拶の為め近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤の側に寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、びんのほつれをかき上げながら、頭を心持左にかしげてじっと田川の眼を見やった。田川は棧橋の方に気を取られて急ぎ足で手欄の方に歩いていたが、突然見えぬ力にぐっと引きつけられたように、葉子の方に振り向いた。
田川夫人も思わず良人の向く方に頭を向けた。田川の威厳に乏しい眼にも鋭い光がきらめいては消え、更にきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の眼を迎えた。額の狭い、顎の固い夫人の顔は、軽蔑と猜疑さいぎの色をみなぎらして葉子に向った。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今眼の前に見たように、恭々うやうやしさと親しみとのまじり合った表情で之に応じた。而してすぐそのそばから、夫人の前にも頓着なく、誘惑のひとみらしてその良人おっとの横顔をじっと見やるのだった。
「田川法学博士夫人万歳」「万歳」「万歳」
田川その人に対してより更に声高こわだかな大歓呼が、棧橋にいてかさを振り帽子を動かす人々の群れから起った。田川夫人はせわしく葉子から眼を移して、群集に取ったときの笑顔を見せながら、レースで笹縁ささべりを取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐ側に立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、棧橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高く挙げて万歳を叫んだ。デッキの上は又一しきりどよめき渡った。
やがて甲板の上は、こんな騒ぎの外に何んとなく忙しくなって来た。事務員や水夫達が、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにも彼処かしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送人がボーイ長にせき立てられて、続々舷門げんもんから降り始めた。それと入れ代りに、帽子、上衣、ズボン、襟飾えりかざり、靴などの調和の少しも取れていない癖に、無闇むやみに気取った洋装をした非番の下級船員達が、濡れた傘を光らしながらけこんで来た。その騒ぎの間に、一種生臭なまぐさいような暖かい蒸気が甲板の人を取りいてフォクスルの方で、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機クレーンの音が突然やむと、かーんとする程人々の耳は却って遠くなった。へだたった所から互に呼びかわす水夫等の高い声は、この船にどんな大危険でも起ったかと思わせるような不安をき散らした。親しい間の人達は別れの切なさに心がわくわくして碌に口もきかず、義理一遍の見送人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんな慌だしい抜錨ばつびょうの間際になった。葉子の前にも、急に色々な人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な仇にも田川の眸が時々自分に向けられるのを意識して、その眸を驚かすようななまめいた姿体ポーズや、頼りなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶した。叔父と叔母とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一遍の事を云うと、預り物を葉子に渡して、手の塵をはたかんばかりにすげなく、真先に舷梯げんていを降りて行った。葉子はちらっと叔母の後姿を見送って驚いた。今の今まで何処とて似通う所の見えなかった叔母もその姉なる葉子の母の着物を帯びまで借りて着込んでいるのを見ると、はっと思う程その姉にそっくりだった。葉子は何んと云う事なしにいやな心持がした。而してこんな緊張した場合にこんなちょとした事にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間もあらせず、こんどは親類の人達が五六人ずつ、口々に小やかましく何か云って、憐れむようなねたむような眼つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の眼と記憶とから消えて行った。丸髷まるまげに結ったり教師らしい地味な束髪に上げたりしている四人の学校友達も、今は葉子とかけ隔った境界の言葉づかいをして、皆葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々しい涙を見せたりして、雨に濡らすまいとたもとを大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯を消えて行ってしまった。最期は物怯ものおじする様子の乳母が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄てすりに身を寄せたまま、気抜けでもしたように、眼を据えて自分の二三間先きをぼんやり眺めていた。
「義一さん、船の出るのも間が無さそうですからどうか此女これ……私の乳母ですの……の手を引いて下ろしてやって下さいましな。すべりでもするとこわうござんすから」
と葉子に云われて古藤は始めて我に返った。而して独言ひとりごとのように、
「この船で僕も亜米利加あめりかに行って見たいなあ」
呑気のんきな事を云った。
「どうか棧橋まで見てやって下さいましね。あなたもその中是非いらっしゃいましな……義一さんそれでは是れでお別れ。本当に、本当に」
と云いながら葉子は何んとなく親しみを一番深くこの青年に感じて、大きな眼で古藤をじっと見た。古藤も今更のように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹達を見てやって下さいまし。あんな人達にはどうしたって頼んではおけませんから。……左様なら」
「左様なら」
古藤は鸚鵡おうむ返しに没義道もぎどうにこれだけ云って、ふいと手欄を離れて、麦稈むぎわら帽子を眼深まぶかかぶりながら、乳母に附き添った。
葉子は階子の上り口まで行って二人に傘をかざしてやって、一段々々遠ざかって行く二人の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨に濡れた傘の辺を幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とは是非見送りがしたいと云うのを、葉子は叱りつけるように云ってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、何んの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢を掻こうとしたくしもろくもぽきりと折れた。それを見ると愛子は堪え堪えていた涙のせきを切って声を立てて泣き出した。貞世は始めから腹でも立てたように、燃えるような眼から止度とめどなく涙を流して、じっと葉子を見詰めてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の眼の前にちらついたのだ。一人ぼっちで遠い旅に鹿島立かしまだって行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持になると忙しい間にも葉子はふと田川の方を振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまって丁度告別をしている所だった。附き添いのもりの女が少女を抱き上げて、田川夫人の唇をその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事ひとごとながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜をも化して牝豚めぶたにするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から眼を移して舷梯の方を見た。然しそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
たちまち船首の方からけたたましい銅鑼どらの音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺ぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手で支えながら、あたりの空気に激しい動揺を起す程の勢で急いで葉子の傍を通りぬけた。見送人は一斉に帽子を脱いで舷梯の方に集まって行った。その際になって五十川女史ははたと葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何か云っておいて葉子のいる所にやって来た。
「いよいよお別れになったが、いつぞやお話した田川の奥さんにおひきあわせしようから一寸ちょっと
葉子は五十川女史の親切振りの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にかされて、その後について行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
「葉子さん」
と突然云って、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返ると麦酒ビールの酔の匂いがむせかえるように葉子の鼻を打って、眼のしんまで紅くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっと身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょ濡れになった酔どれの腕でがっしりと捲かれていた。
「葉子さん、覚えていますか私を……あなたは私の命なんだ。命なんです」
という中にも、その眼からはほろほろと煮えるような涙が流れて、またうら若いなめらかな頬をつたった。膝から下がふらつくのを葉子にすがって危く支えながら、
「結婚をなさるんですか……お目出度う……お目出度う……だがあなたが日本になくなると思うと……いたたまれない程心細いんだ……私は……」
もう声さえ続かなかった。而して深々と息気いきをひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。誰だとも、何時いつ何処でったとも思い出す由がない。木部孤笻と別れてから、何と云う事なしに捨鉢な心地になって、誰れ彼れの差別もなく近寄って来る男達に対して勝手気儘を振舞ったその間に、偶然に出遇って偶然に別れた人の中の一人でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。兎に角葉子には少しも思い当るふしがなかった。葉子は其の男から離れたい一心に、手に持った手鞄と包物を甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩ほうばい達の事あれがしな眼が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛い程身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣ひとえの目を透して、葉子のはだに沁みこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪の匂いもつい鼻の先きで葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持がいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻うずまいた。葉子は、
「さ、もう放して下さいまし、船が出ますから」
ときびしく云って置いて、嚙むんで含めるように、
「誰でも生きてる間は心細く暮すんですのよ」
とその耳許みみもとにささやいて見た。若者はよく解ったという風に深々とうなずいた。然し葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
物々しい銅鑼どらの響は左舷から右舷に廻って、又船首の方に聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合したように葉子の方を見守っていた。先刻から手持無沙汰そうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思い切って近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首の方に群がって仕事をしながら、此の様子を見守っていた水夫達は一斉に高く笑い声を立てた。而してその中の一人わざと船中に聞え渡るようなくさめをした。抜錨ばつびょうの時刻は一秒々々にせまっていた。物笑いの的になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変って行った。
「さ、お放し下さい、さ」
と極めて冷酷に云って、葉子は助けを求めるようにあたりを見廻した。
田川博士の側にいて何か話していた一人の大兵たいひょうな船員がいたが、葉子の当惑し切った様子を見ると、いきなり大股おおまたに近づいて来て、
「どれ、私が下までお連れしましょう」
と云うや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右脇にかいこんで、易々やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずにその後に続いた。しばらくすると若者は棧橋の群集の間に船員の手から下ろされた。
けたたましい汽笛きてきが突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送人はこの声でかつを入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を棧橋に連れて行た、かの巨大な船員は、大きな体軀たいくましらのように軽くもてあつかって、音も立てずに棧橋からしずしず離れて行く船の上に唯一条の綱を伝って上って来た。人々は又その早業はやわざに驚いて眼を見張った。
葉子の眼は怒気を含んで手欄てすりから暫くの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を拡げて船に駈け寄ろうとするのを、近所に居合せた三四人の人が慌てて引き留める。それを又すり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思い切り嚙みしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎けうとく船の上まで聞こえて来た。見送人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に眼を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。と云って葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者の方には眼もくれずにじっと足許を見詰めているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴着を借着していい心地になっているような叔母の姿も眼に映っていた。船の方に後ろを向けて(恐らくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手拭をしっかりと両目にあてている乳母も見逃してはいなかった。
何時の間に動いたともなく船は棧橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻くろありのように集まったそこの光景は、葉子の眼の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の眼は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その眼は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納みおさめに眺めようとせず、凝然ぎょうぜんとして小さくうずくまる若者のらしい黒点を見詰めていた。若者の叫ぶ声が、棧橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎら光る海に、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布ほぬのの端から余滴したたりぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」

一〇[編集]

始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事が出来ないようだった。跡始末の為めに忙しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの昂奮こうふんじっとしてはいられないような顔付をして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分達が側近く見ていた棧橋の方に眼を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄にりかかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場はとばの方を眺めていたが、けれどもその眸には何んにも映ってはいなかった。其の代り眼と脳との間と覚しいあたりを、親しい人やうとい人が、何か訳もなくせわしそうに現われ出て、銘々めいめいに一番深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりとして注意するとともなうその姿に注意をしていた。而してその半睡の状態が敗れでもしたら大変な事になると、心の何処かの隅で考えていた。その癖、それを物々しく恐れるでもなかった。身体までが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
若者が現われた。(どうしてあの男はそれ程の因縁もないのに執念しゅうねく附きまつわるのだろうと葉子は他人事ひとごとのように思った。その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。嚙みしめたその左の腕から血がぽたぽたしたたっていた。その滴りが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にきらきらとともえを描いて飛びおどった。
「……私を見捨てるん……」
葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時が、眼が覚めたようにふっあらためて港を見渡した。而して、何んの感じも起さない中に、熟睡から一寸驚かされた赤児が、又他愛なく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色は何時の間にか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ附いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながら如何どうしてこんな変な心持になるのだろう。血のせいとでも云うのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないか知らんなどと呑気に自分の身の上を考えていた。云わば悠々閑々ゆうゆうかんかんと澄み渡った水の隣りに、薄紙一重のさかいも置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心はその静かな方の水に浮びながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事のように眺めやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さに呆((あき)れながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄てすりによりかかってじっと立っていた。
「田川法学博士」
葉子は又ふと悪戯者いたずらものらしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷の藤椅子とういすに腰かけて、世辞々々しく近寄って来る同船者と何か戯談口じょうだんぐちでもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想は又かの若者に還って行った。葉子はふと右の肩に暖みを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような眼付をして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から棧橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今までめしいていたような眼に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような眼を見開いたまま、船員の濃い眉から黒い口髭くちひげのあたりを見守っていた。
船はもう可なり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側から吐き出される捨水すてみずの音がざあざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一足飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく眼の前に立っている船員を見て、何んという事なしにぎょっと本当に驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍らしくもない筈の一人の男を見やった。
「随分長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
と云ってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指した。がっしりした肩をゆすって、勢よく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた。胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人ですな」
塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子は又黙ったまま軽くうなずいた。
船はやがて乗りたての船客の足許にかすかな不安を与える程に速力を早めて走り出した。葉子は船員から眼を移して海の方を見渡して見たが、自分の側に一人の男が立っているという、強い意識から起って来る不安はどうしても消す事が出来なかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物を云いかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれが出来なかった。今何か物を云ったら屹度きっと不自然な物の云い方になるに決っている。そうかと云ってその船員には無頓着にもう一度前のような幻想に身を任せようとしても駄目だった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙った霧雨の彼方かなたさえ見透せそうに眼がはっきりして、先程のおっかぶさるような暗愁は、いつの間にか果敢はかない出来心の仕業として考えられなかった。その船員が傍若無人ぼうじゃくぶじん衣嚢かくしの中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉をしかめながら、えりの折り返しについた汚点しみを、拇指おやゆびの爪でごしごしと削ってははじいていた。
葉子の神経はそこにいたたまれない程ちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股で這入り込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄から離れて自分の船室の方に階子段を降りて行こうとした。
「何処にお出でです」
後ろから、葉子の頭から爪先きまでを小さなものでもあるように、一目にめて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
と答えない訳には行かなかった。その声は葉子の目論見もくろみに反して恐ろしくしとやかな響を立てていた。するとその男は大股で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
船室カビンならば永田さんからのお話もありましたし、お独旅ひとりたびのようでしたから、医務室の傍に移しておきました。御覧になった前の部屋より少し窮屈かも知れませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
と云いながら葉子をすり抜けて先きに立った。何か芳醇ほうじゅんな酒のしみ葉巻煙草シガーとの匂いが、この男固有の膚の匂いででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしんどしんと狭い階子段を踏みしめながら降りて行くとその男の太いくびから広い肩のあたりをじっと見やりながらその後に続いた。
二十四五脚の椅子が食卓に背を向けてずらっと列べてある食堂の中程から、横丁のような暗い廊下を一寸這入と、右の戸に「医務室」と書いた頑丈な真鍮しんちゅうの札がかかっていて、その向いの左の戸には「No.12早月葉子様」と白墨で書いた漆塗うるしぬりの札が下っていた。船員はつかつかとそこに這入って、いきなり勢よく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上衣を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、慌てて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり掃除が出来たろうね」
と云うと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。綺麗きれいになってる筈ですが、御覧なすって下さい。私は今一寸」
と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃ一体船医の私室プライベートなんですが、あなたの為めにお明け申すって云ってくれたもんですから、ボーイに掃除するように云いつけておきましたんです。ど、綺麗になっとるか知らん」
船員はそうつぶやきながら戸を開けて一わたり中を見廻した。
「むむ、いいようです」
而して道を開いて、衣嚢かくしから「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「私が事務長をしとります。御用があったら何んでもどうか」
葉子は又黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。而して自分の部屋ときめられたその部屋の高いしきいを越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
と尋ねながら田川博士がその夫人を打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目指めざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつかつかと寄って来て眼鏡めがねの奥から小さく光る眼でじろりと見やりながら、
「五十川さんがうわさしていらっした方はあなたね。何とか仰有おっしゃいましたねお名は」
と云った。「この何んとか仰有いましたね」という言葉が、名もないものを憐れんで見てやるという腹を十分に見せていた。今まで事務長の前で、珍らしく受身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになって我れに返った。如何どう云う態度で返事をしてやろうかという事が、一番に頭の中で二十日鼠はつかねずみのように烈しく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手したてに尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、叮嚀ていねいに低くつむりを下げながら、
「こんな所まで……恐れ入ります。私早月葉さつきようと申しますが、旅に不慣れで居りますのに独旅ひとりたびで御座いますから……」
と云って眸を稲妻のように田川に移して、
「御迷惑では御座いましょうが何分よろしく願います」
と又つむりを下げた。田川はその言葉の終るのを待ち兼ねたように引き取って、
「何不慣れは私の妻も同様ですよ。何しろこの船の中には女は二人ぎりだからお互です」
と余りなめらかに云って退けたので、妻の前でも憚るように今度は態度を改めながら事務長に向って、
「チャイニース・ステアレージには何人程いますか日本の女は」
と問いかけた。事務長は例の塩から声で、
「さあ、まだ帳簿も碌々ろくろく整理して見ませんから、しっかりとはわかり兼ねますが、何しろこの頃は大分えました。三四十人も居ますか、奥さんここが医務室です。何しろ九月と云えば旧の二八月にっぱちがつの八月ですから、太平洋の方はける事もありますんだ。たまにはここにも御用が出来ますぞ。一寸船医もご紹介しておきますで」
「まあそんなに荒れますか」
と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色を変えた。事務長は事もなげに、
けますんだ随分」
と今度は葉子の方をまともに見やって微笑みながら、折から部屋を出て来た興録こうろくという船医を三人に引き合わせた。
田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋に這入った。さらぬだに何処かじめじめするような船室カビンには、今日の雨の為めに蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭い匂いが殊に強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台バースを取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見廻しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の附いた簞笥たんすの上には、果物の籠が一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前をくつろげながら、誰からよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、その側から厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらし、髪を束髪にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取残されたる千代より」としてあった。そんなものを興録が仕舞い忘れる筈がない。わざと忘れた風に見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬しっとなりをあおり立てようとする、あまり手許てもとの見え透いたからくりだと思うと、葉子はさげすんだ心持で、犬にでもするようにぽいとそれを床の上にほうりなげた。一人の旅の婦人に対して船の中の男の心が如何どう云う風に動いているかをその写真一枚が語りがおだった。葉子は何んと云う事なしに小さな皮肉な笑いを唇の所に浮べていた。
寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、其の中から浴衣ゆかたを取り出していると、ノックもせずに突然戸を開けたものがあった。葉子は思わず羞恥しゅうちから顔を赤らめて、引き出した派手な浴衣をたてに、しだらなく脱ぎかけた長襦袢ながじゅばんの姿をかくまいながら立ち上って振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身をしゃにして立った葉子の姿は、男の眼にはほしいままな刺戟しげきだった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎして這入ろうにも出ようにも所在に窮して、しきいに片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「飛んだ風をしていまして御免下さいまし。さ、お這入り遊ばせ。何んぞ御用でもいらっしゃいましたの」
と葉子は笑いかまけたように云った。興録はいよいよ度を失いながら、
「いいえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕の下にこの手紙を残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
と云いながら衣嚢かくしから二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを眼だけに浮べて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、この娘の写真を床の上から拾い上げた。而してわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここに落ちて居りましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。お綺麗ですこと」
と云いながらそれをつき出した。
興録は何か言い訳のような事を云って部屋を出て行った。と思うと暫くして医務室の方から事務長らしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子は我れにもなくはっとなって、思わず着かえかけた衣物きもの衣紋えもんに左手をかけたまま、俯向うつむき加減になって横眼をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。而して医務室の戸をさっと開けたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature ten,eh?」と乱暴に云う声が聞こえたが、それと共にマッチをる音がして、やがて葉巻をくわえたままの口籠くちごもりのする言葉で、
「もうじき検疫けんえき船だ。準備はいいだろうな」
と云い残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかな匂いが葉子の部屋にも通って来た。
葉子は聞耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何と云う事なしに微笑を漏らした。而してすぐ{{傍点|ぎょっ}}としてあたりを見廻したが、我れに返って自分一人きりなのに安堵あんどして、いそいそと衣物を着かえ始めた。

一一[編集]

絵島丸が横浜を抜錨ばつびょうしてからもう三日たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山沖あたりからは航路を東北にむけて、驀地まっしぐらに緯度を上って行くので、気温は二日目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影は何時の間にか船のどの舷からも眺める事は出来なくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したように淋しい声できながら、船の周囲を群れ飛ぶ外には、生き物の影とては見る事も出来ないようになっていた。重い冷たい潮霧ガスが野火の煙のように濛々もうもうと南に走って、それが秋らしい狭霧さぎりとなって、船体を包むかと思うと、忽ちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議な位たやすい旅だった。普段以上に食慾さえ増していた。神経に強い刺戟が与えられて、兎角とかく鬱結うっけつし易かった血液も濃く重たいなりにも滑らかに血管の中を循環し、海から来る一種の力が体の隅々すみずみまで行きわたって、うずうずする程な活力を感じさせた。漏らし所のないその活気が運動もせずにいる葉子の体から心に伝わって、一種の悒鬱ゆううつに変るようにさえ思えた。
葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生れてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみたかったし、又船中で顔見知りの誰れ彼れが出来る前に、是れまでの事、是れからの事を心にしめて考えても見たいとも思った。然し葉子が三日の間船室に引き籠り続けた心持には、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客達から激しい好奇の眼で見られようとしているのを知っていた。立役たてやくは幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ち草臥くたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんな狡獪ずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。
三日目の朝電燈が百合ゆりの花のしぼむように消える頃葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて眼を覚ました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸気の冷えた滴りが落ちて立てる激しい響が聞こえて、部屋の中は軽く汗ばむ程暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいて坐り疲れ寝疲れのした葉子、狭苦しい寝台バースの中に窮屈に寝ちぢまった自分を見出すと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、体を仰向けにした。して一度開いた眼を閉じて、美しい円味まるみを持った両の腕を頭の上に伸して、寝乱れた髪をもてあそびながら、ぎわの快い眠りに又静かに落ちて云った。が、程もなく本当に眼をさますと、大きく眼を見開いて、あわてたように腰から上を起して、丁度眼通りのところにある一面に水気で曇った眼窓めまどを長い袖で押しぬぐって、ほてった頰を冷や冷やするその窓ガラスにりつけながら外を見た、夜は本当には明け離れていないで、窓の向うには光のない濃い灰色がどんよりと拡がっているばかりだった。而して自分の体がずっと高まってやがて又落ちて行くなと思わしい頃に、窓に近い舷にざあっとあたって砕けて行く波濤はとうが、単調な底力にある振動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせず眼にその灰色をながめながら、嚙みしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。然し葉子の眼には女らしい涙は浮ばなかった。活気のずんずん恢復かいふくしつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。聯絡れんらくのない終りのない絵巻が次ぎ次ぎに拡げられたり捲かれたりした。基督キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作ってささげようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐かれんな少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭もくらんの香までがそこいらに漂っているようだった。国分寺跡の、武蔵野の一角らしいくぬぎの林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直な心になってしまって、孤笻こきょうの膝に身も魂も投げかけながら、涙と共にささやかれる孤笻の耳うちのように震えた細い言葉を、唯「はいはい」と夢心地にうなずいて呑み込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸のがけの上から広瀬川を越えて青葉山を一面に見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白いこいしの河原の間を真青まっさおに流れる川の中には、赤裸な少年の群が赤々とした印象を眼に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、華やかな色合のパラソルに日をよけながら、黙って思いにける一人の女――その時にはどの意味からも女だった――何処までも満足の得られない心で、段々と世間から埋もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道をふみちがえたとも思い、踏みちがえたのは、誰がさした事だと神をすらなじって見たいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起る強い快い赤児の産声うぶごえ――やみがたい母性の意識――「我れ既に世に勝てり」とでも云って見たい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。明日をも頼み難い命の夕闇にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻想を断ち切る程の強さで現われ出た。思い入った決心を眉に集めて、日頃の楽天的な惰性にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔付で大事の決着を待つ木村の顔。母の死を憐れむとも悲しむとも知れない涙を眼にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、俯向いたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像まぼろしが或はつぎつぎに、或は折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。而して記憶は段々と過去から現在の方に近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見出したようにはっとなると、その幻像は他愛もなく消えて、記憶は又遠い過去に返って行った。それが又段々現在の方に近づいて来たと思うと、最後には屹度きっと倉地の姿が現われ出た。
それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現ゆめうつつの境から本当に眼ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓めまどから眼をそむけて寝台バースを離れた。葉子の神経は朝からひどく昂奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気いき苦しい程だった。
船に乗ってから碌々ろくろく運動もせずに、野菜気やさいけすくない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、手のさきへまでも通うようだった。寝台から立ち上った葉子は瞑眩めまいを感ずる程に上気して、氷のような冷たいものでもひしと抱きしめたい気持になった。で、ふらふらと洗面台の方に行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり浸した手拭をゆるく絞って、ひやっとするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっとあてがって見た。強い激しい動悸どうきが押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頰をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物凄い程なまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑を湛えて見た。
それでもその中に葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。静まって行くにつれ、葉子は今までの引き続きで又瞑想的めいそうてきな気分に引き入れられていた。然しその時はもう夢想家ではなかった。極く実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子は濡手拭を洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子に腰をおろした。
笑い事ではない。一体自分は如何どうする積りでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけて見た。小さい時からまわりの人達にはばかられる程才はじけて、同じ年頃の女の子とはいつでも一調子違った行き方を、するでもなくして来なければならなかった自分は、生れる前から運命にでものろわれているのだろうか。それかと云って葉子はなべての女の順々に通って行く道を通る事は如何しても出来なかった。通ってみようとした事は幾度あったか解らない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見出してしまっていた。而してつまずいては倒れた。まわりの人達は手に取って葉子を起してやる仕方も知らないような顔をして唯馬鹿らしく侮笑あざわらっている。そんな風にしか葉子には思えなかった。幾度もそんなにがい経験が葉子を片意地な、少しも人を頼ろうとしない女にしてしまった。而して葉子はわば本能の向せるように向いてどんどん歩いてゆくより仕方がなかった。葉子は今更のように自分のまわりを見廻して見た。何時の間にか葉子は一番近しい筈の人達からもかけ離れて、たった一人でがけきわに立っていた。そこで唯一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中にきながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦わぼくを示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村という首桎くびかせを受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十弗ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村をたよらなければならないのは眼の前にも分っていた。後詰ごづめになってくれる親類の一人もないのは勿論の事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではと云うように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起り得ない木村ばかりが、葉子に対する唯一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑チャームおちいったばかりで、早月家の人々から否応なしにこの重い荷物を背負わされてしまっているのだ。
如何してやろう。
葉子は思い余ったその場のがれから、簞笥の上に興録から受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪で丹念に細く破り取って、手筋は立派ながらまだ何処どこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
「あなたはおさんどんになるという事を想像して見る事が出来ますか。おさんどんという仕事が女にあるという事を想像して見る事が出来ますか。僕はあなたを見る時は何時でもそう思って不思議な心持になってしまいます。一体世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事が出来得るものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさることはどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃんと出来ているように思われるからでしょうか。
僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡に避暑をして居られた時ですから、あなたにいては僕は、何んにも知らないと云っていい位です。僕は第一一般的に女と云うものについて何んにも知りません。然し少しでもあなたを知っただけの心持から云うと、女の人と云うものは僕に取っては不思議な謎です。あなたは何処まで行ったら行きづまると思ってるんです。あなたは既に木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人おっとに行きづまるのが女の人の当然の道ではないでしょうか。木村君で行きづまって下さい。木村君にあなたを全部与えて下さい。木村君の親友としてれが僕の願いです。
全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕の云う事などは頓着なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱりした物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕の云う事にも権威がある筈だと思います。
僕はそう云いながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、可哀そうなように思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情をび起すようにも思います。僕は心の底に起るこんな働きをも強いて押しつぶして理窟りくつ一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではない積りです。それだからと云って、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起りません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕は敢てこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。

古藤義一

木村葉子樣」
それは葉子に取っては本当に子供っぽい言葉としか響かなかった。然し古藤は妙に葉子には苦手だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、馬鹿々々しい事が云われていると思いながらも、一番大事な急所を偶然にようにしっかりと捕えているようにも感じられた。本当にこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にも憐れまれるはめになりそうな気がしてならなかった。葉子は何んと云う事なく悒鬱ゆううつになって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝の上に置いたまま眼をすえて、じっと考えるともなく考えた。
それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っているがけきわから先きには、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明かに見せているのだ。結婚というものが一人の女に取って、どれ程生活という実際問題と結び付き、女がどれ程その束縛の下に悩んでいるかを考えて見る事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思っても見た。
是れから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでに色々と想像しないではいられなかった。米国の人達はどんな風に自分を迎え入れようとするだろう。兎に角今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何のかかわりもない社会の中に乗り込むのは面白い。和服よりも遥かに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事が出来る。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的なきずなから解き放されて、その力だけに働く事の出来る制圧がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分のまわりの人に認めさす事の出来る生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸の出来る生活がそこにはあるに違いない。少くとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を想像するとむずむずする程快活になった。そんな心持で古藤の言葉を考えて見ると、丸で老人の繰言くりごとのようにしか見えなかった。葉子は永い黙想の中から活々いきいきと立ち上った。而して化粧をすます為めに鏡の方に近付いた。
木村を良人おっととするのに何んの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるという程に軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思って微笑ほほえんだ。而して乱れかかる額際ひたいぎわの髪を、振り仰いで後ろにでつけたり、両方のびんを着ようにかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。濡れた手拭で、鏡に近づけた眼のまわりの白粉おしろいを拭い終ると、唇を開いて美しくそろった歯並みを眺め、両方の手の指を壺の口ののように一所に集めて爪の掃除が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣ひとえのじみな衣物は、世捨人のようにだらりと寂しく部屋のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手なあわせをトランクの中から取り出して寝衣ねまきと着かえながら、それに眼をやると、肩にしっかりとしがみ附いて、泣きおめいたの狂気じみた若者の事を思った。と、すぐその側から若者を小脇に抱えた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套がいとうも着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を棧橋さんばしの上に下して、ちょっと五十川女史に挨拶して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上って来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
夜はいつの間には明け離れていた。眼窓の外は元のままに灰色はしいているが、活々とした光が添い加わて、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との跫音あしおとこつこつ快活らしく聞えていた。化粧をすました葉子は長椅子にゆつくり腰をかけて、両脚を真直まっすぐに揃えて長々と延ばしたまま、うっとりと思うともなく事務長の事を思っていた。
その時突然ノックをしてボーイが珈琲コーヒーを持って這入はいって来た。葉子は何か悪い所でも見附けられたように一寸ぎょっとして、延ばしていた脚の膝を立てた。ボーイは何時ものように薄笑いをして一寸頭を下げて銀色の盆を畳椅子の上においた。而して今日も食事は矢張り船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にして下さい」
葉子は嬉しい事でも云って聞かせるようにこう云った。ボーイは真面目臭って「はい」と云ったが、ちらりと葉子を上眼で見て、急ぐように部屋を出た。葉子はボーイが部屋を出てどんな風にしているかがはっきり見えるようだった。ボーイはすぐにこにこと不思議な笑を漏しながらケータ・ウォークの足つきで食堂の方へ帰って行ったに違いない。程もなく、
「え、いよいよ御来迎ごらいごう?」
「来たね」
と云うような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高に取りかわされるのを葉子は聞いた。
葉子はそんな事を耳にしながら矢張り事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じ籠っているのに、何んという事務長だろう、一遍も見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。而してその一方では縁もゆかりもない馬のように唯頑丈な一人の男が何んでこう思い出されるのだろうと思っていた。
葉子は軽い溜息をついて何気なく立ち上った。而して又長椅子に腰かける時には棚の上から事務長の名刺を持って来て眺めていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝みんちょうはっきり書いてある。葉子は片手で珈琲をすすりながら、名刺を裏返してその裏を眺めた。而して真白なその裏に無いか長い文句でも書いてあるかのように、二重になる豊かなあごを襟の間に落して、少し眉をひそめながら、永い間まじろぎもせず見詰めていた。

一二[編集]

その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思い切って地味なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十を越すや越さずに見える、眼の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠あいねずみは、何んとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向いが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣りに取ってあった。その外の船客も大概は既に卓に向っていた。葉子の跫音あしおとが聞こえると、逸早いちはやく眼くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向い合って食卓の他の一端にいたひげの白い亜米利加人の船長であった。慌てて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔を真赤にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇ものずきらしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を廻って自分の席まで行くと、田川博士はぬすむように夫人の顔を一寸窺うかがっておいて、ふとった体をよけるようにして葉子を自分の隣りに坐らせた。
坐り住いをただしている間、沢山の注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地悪い程に感じた。やがてきちんと慎ましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、先ず第一に田川夫人の方に眼をやってそっと挨拶すると、今までの角々かどかどしい眼にもさすがに申訳程の笑みを見せて、夫人が何か云おうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長の方を向いて何か云おうとした所であったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合せた。一座の人々も、日本人と云わず外国人と云わず、葉子に集めていた眸を田川夫妻の方に向けた。「失礼」と云ってひかえた博士に夫人は一寸頭を下げておいて、皆んなに聞こえる程はっきり澄んだ声で、
「とんと食堂にお出でがなかったんで、お案じ申しましたのに、船にはお困りですか」
と云った。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落して会釈えしゃくするのをそう不快には思わぬ位だった。二人の間の挨拶はそれなりで途切れてしまったので、田川博士はおもむろに事務長に向ってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
然し話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起っているのを、葉子はすぐ見て取った。思い通りに一座の気分を動揺させる事が出来るという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。而してボーイ長の指図でボーイ等が手器用に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士の方の話に耳を立てた。
葉子が食堂に現われて自分の視界に這入って来ると、臆面もなくじっと眼を定めてその顔を見やった後に、無頓着に食匙スプーンを動かしながら、時々食卓の客を見廻して気を配っていた事務長は、下唇を返して鬚の先きを吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義の本体は」
と話の糸目を引っ張り出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏おもぶせな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めの中は、北米の独立諸州に対して欧羅巴ヨーロッパの干渉をこばむと云うだけのものであったのです。ところが其の政策の内容は年と共に段々変っている。モンローの宣言は立派な文字になって残っているけれども、法律と云う訳ではなし文章も融通がきくように出来ているので、取りようによっては、どうにでも伸縮することが出来るのです。マッキンレー氏などは随分極端にその意味を拡張しているらしい。尤も之れにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人有名な黒幕がある筈だ。どうです斎藤君」
と二三人おいた斜向はすかの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、真赤になって、今まで葉子に向けてた眼を大急ぎで博士の方にらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、更に赤くなってすべない身振りをした。これ程な席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性すじょうがその慌て方に十分見え透いていた。博士は見下みくだしたような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務所の方を向こうとした時、突然遥か遠い食卓の一端から、船長が顔を真赤にして、
「You mean Teddy the roughrider?」
と云いながら子供のような笑顔を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれ程に思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、一寸返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、
「Good hit for you,Mr.Captain!」
と癖のない発音で云って退けた。これを聞いた一座は、殊に外国人達は、椅子から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人の眼にはつきかねるほどの敏捷すばしこさで葉子の方を窺った。葉子は眉一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
慎しみ深く大匙おおさじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何か際立きわだった印象を与えようとして、色々な真似まねきそい合っているような人々の様を心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。殊に若い人達の間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物を云う時、彼等は知らず知らず激昂げっこうしたような高い調子になっていた。殊に一番年若く見える一人の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄の高い生れに違いないと思った――などは、葉子と一眼顔を見合わしたが最後、震えんばかりに昂奮して、顔を得上えがげないでいた。それだのに事務長だけは、一向動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子に顔を合せた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬような熟視は、却って葉子の視線をたじろがした。人間を眺めあきたような気倦けだるげなその眼は、濃い睫毛まつげの間からinsolentな光を放って人を射た。葉子はこうして思わず眸をたじろがす度毎に事務長に対して不思議な憎しみを覚えると共に、もう一度その憎むべき眼を見すえてその中にひそむ不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長の方にき附けられるように視線を送ったが、その度毎に葉子の眸はもろくも手きびしく追い退けられた。
こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終った。一同は座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子を引いてくれた田川博士にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子は矢張り事務長の挙動を仔細しさいに見る事になかば気を奪われていた。
「少し甲板に出て御覧になりましな。寒くとも気分は晴々しますから。私も一寸部屋に帰ってショールを取って出て見ます」
こう葉子に云って田川夫人は良人と共に自分の部屋の方に去って行った。
葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じ籠ってばかりいると左程にも思わなかったけれども、食堂程の広さの所からでもそこに来て見ると、息気いきづまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から古藤が油絵具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥だちょうの羽のボアを取り出して、西洋臭いその匂いを快く鼻に感じながら、深々と頸をいて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段はしごだんをややよろよろしながら昇って、重い戸を開けようとすると外気の抵抗が中々激しくて押しもどされようとした。きりっしぼり上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
甲板には外国人が五六人厚い外套にくるまって、堅いティークの床をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢よく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はその辺にはまだ見出されなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じ籠っていた葉子の肺を押し拡げて、頰には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄によりかかりながら、波又波と果てしもなく連なる水の堆積たいせきをはるばると眺めやった。折り重った鈍色にぶいろの雲の彼方に夕方の影は跡形もなく消え失せて、闇は重い不思議な瓦斯ガスのように力強く総ての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その闇とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、りんのような、淋しい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤はとうの彼方には、更に黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをめた檣燈しょうとうが空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。閃く度に船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足から体に伝わって感ぜられた。
葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわがわる眼の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛を透して寒さがしんしんと頭の中にみこむのが、初めの中は珍らしくいい気持だったが、やがてしびれるような頭痛に変って行った。……と急に、何処をどう潜んで来たとも知れない、いやな淋しさが盗風とうふうのように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のようにえ出した元気はぽっきりしんから留められてしまった。顳顬こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれの後に似た不愉快な睡気ねむけの中に、胸をついて嘔気はきけさえ催して来た。葉子は慌ててあたりを見廻したが、もうそこいらには散歩の人足も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかりと額を押えて、手欄てすりに顔を伏せながら念じるように眼をつぶって見たが、云いようのない淋しさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊かいにんしていた時の烈しい悪阻つわりの苦痛を思い出した。それは折から痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうそのしとねには堪えないと云うように頭を振って、気をまぎらす為めに眼を開いて、留度とめどなく動く波のたわむれを見ようとしたが、一眼見るやぐらぐらと眩暈めまいを感じて一たまりもなく又突っ伏してしまった。深い悲しい溜息が思わず出るのを留めようとしても甲斐かいがなかった「船に酔ったのだ」と思った時には、もう体中は不快は嘔感の為めにわなわなと震えていた。
けばいい」
そう思って手欄から身を乗り出す瞬間、体中の力は腹から胸元に集まって、背は思わずも激しく波打った。その後はもう夢のようだった。
しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンケチで口許くちもとを拭いながら、頼りなくあたりを見廻した。甲板の上も波の上のように荒涼として人気がなかった。明るく灯の光の漏れていた眼窓は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみは又急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。例えば高くつるした大石を切って落したように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日まで、張りつけ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しいこころよさ。葉子はその空しい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起した額は死人のように冷え切って、泣きながらも葉子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。而してははっと何かに驚かされたように眼を開くと、また底の知れぬ哀愁が何処からともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食が哀れみを求めたり、老人が愚痴を云うのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。然しその夜に限っては、葉子は誰の前でも素直な心で泣けるような気がした。誰かの前でさめざめと泣いて見たいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持で葉子は小娘のように他愛もなく泣きつづけていた。
その時甲板のかなたから靴の音が聞こえて来た。二人らしい跫音あしおとだった。その瞬間までは誰の胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっという間もなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押し拭いながら、くびすを返して自分の部屋に戻ろうとした。が、その時はもう遅かった。洋服姿の田川夫妻がはっきりと見分けがつく程の距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事はしなかった。涙を拭い切ると、左手で挙げて髪のほつれをしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
「あらあなたでしたの。私共は少し用事が出来ておくれましたが、こんなにおそくまで室外そとにいらしってお寒くはありませんでしいいたか。気分はいかがです」
田川夫人は例の目下の者に云い慣れた言葉を器用に使いながら、はっきりとこう云ってのぞき込む様にした。夫婦はすぐ葉子が何をしていたかを感付いたらしい。葉子はそれをひどく不快に思ったあ。
「急に寒い所に出ましたせいですかしら、何んだかつむりがぐらぐら致しまして」
「おもどしなさった……それはいけない」
田川博士は夫人の言葉を聞くと尤もと云う風に、二三度こっくりとうなずいた。厚外套にくるまった肥った博士と、暖かそうなスコッチの裾長すそながの服に、露西亜帽ロシアぼうを眉際までかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背丈こそ高いが、二人の娘ほどに眺められた。
「どうだ一緒に少し歩いて見ちゃ」
と田川博士が云うと、夫人は、
う御座いましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴の音と、自分の上草履うわぞうりの音とを淋しく聞きながら、夫人の側に引き添って甲板の上を歩き始めた。ギーイときしみながら、船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持が胸元にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振舞おうとした。
博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物を云うので、折角の話は腰を折られた。葉子は然し結句けっくそれをいい事にして、自分の思いに耽りながら二人に続いた。暫く歩きなれて見ると、運動が出来た為めか、段々嘔気は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山よもやまの噂話を取り交わし始めた。不思議な程に緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想をさまたげる騒音のようにうるさく思っていた。と、不図ふと田川夫人が事務長と云ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっっとして、黙想から取って返して聞耳ききみみを立てた。自分でも驚く程神経が騒ぎ立つのを如何どうする事も出来なかった。
「随分したたか者らしゅう御座いますわね」
そう夫人の云う声がした。
「そうらしいね」
博士の声には笑いがまじっていた。
賭博ばくちが大の上手ですって」
「そうかねえ」
事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子は何んとなく物足らなくなって、又何か云い出すだろうと心持ちにしていたが、その先きを続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
暫くすると夫人がまた事務長の噂をし始めた。
「事務長の側に坐って食事をするのはどうもやでなりませんの」
「そんなら早月さんに席を代って貰ったらいいでしょう」
葉子は闇の中で鋭く眼をかがやかしながら夫人の様子を窺った。
「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
こう戯談じょうだんらしく夫人は云って、一寸葉子の方を振り向いて笑ったが、別にその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気付きでもしたように、色々と身の上などをさぐりを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさ程遠くない返事をしていたものの、話が段々深入りして行くにつれて、田川夫人と云う人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはありうちの質問だったかも知れない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっとせずにはいられなかった。知った処が何んにもならない話を、木村の事まで根ほり葉ほり問いただして一体如何しようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつな人だ。自分ですらそっと手もつけないでませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地にかかってこんな悪戯わるさをするのだと思うと激しい敵意から唇をかんだ。
然しその時田川博士が、サルンから漏れて来る灯の光で時計を見て、八時十分前だから部屋に帰ろうと言い出したので、葉子は別に何も云わずにしまった。三人が階子段を降りかけた時、夫人は、葉子の気分には一向気付かぬらしく、――しそうでなければ気付きながらわざと気付かぬらしく振舞って、
「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
突拍子とっぴょうしもなくいきなり問いかけた。それを聞くと、葉子の心は何と云う事なしに理不尽りふじんな怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落付いた調子で、
「いいえちっともお見えになりませんが……」
と空々しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持には少しも気付かぬ風で、
「おやそう。私の方へは度々たびたびいらして困りますのよ」
と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後あとさきなしにこう心の中に叫んだが一言も口には出さなかった。敵意――嫉妬とも云い代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士を楯に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意かくいのない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言も云わずに黙礼したまま二人に別れて部屋に帰った。
室内はむっとすうる程暑かった。葉子は嘔気をもう感じてはいなかったが、胸元が妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床の上に捨てたまま、投げるように長椅子に倒れかかった。
それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余す程鋭く働いて、誰も気のつかない匂いがたまらない程気になったり、人の着ている衣物きものの色合が見ていられない程不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜ふぬけな木偶でくのように甲斐なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚が瞑眩めまいがする程めまぐるしく見えたりして、我慢にもじっとしていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の抹消まっしょうが、まるで大風にったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は脚と脚とをぎゅっとからみ合せてそれに力をこめながら、右手の指先きを四本そろえてその爪先きを、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくんで見たりした。悪寒おかんのような小刻みな身ぶるいが絶えず足の方から頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑い為めにそうなるのかよく分らなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。眼はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに眼をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げると真二つに引きいてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうんと手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く眸でまじまじとあたりを見廻していた。と、カーテンを引き忘れていいた。恥かしい様子を見られはしなかたかと思うと胸がどきんとしていきなり立ち上ろうとした拍子に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった、田川夫人のようでもあった。然しそんな筈はない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。而して何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次ぎの瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれを抱えて、逃げる人のように、あたふたと部屋を出た。
船のゆらぐごとに木と木との擦れあう不快な音は、大方おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞せきばくの中に際立って響いた。自動平衡へいこう器の中にともされた蠟燭ろうそくは壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやりと光っていた。
戸を開けて甲板に出ると、甲板のあなたは先刻さっきのままの波又波の堆積だった。大煙筒から吐き出される煤煙ばいえんは真黒い天の河のように無月むげつの空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。

一三[編集]

そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れる位思い切って暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上ぐれば、眼のまわる程遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近くせまっている鋼色はがねいろの沈黙した大空が、際限もなく羽を垂れたように、同じ暗色の海原に続く所から波がいて、闇の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄して聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底の方に、
「おーい、おい、おい、おーい」
と云うかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、舷をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにして辛く重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物蔭まで辿たどりついて、ショールで深々とくびから下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いたがこいに身を寄せかけて立った。たたずんだ所は風下かざしもになっているが、頭の上では、おおばしらから垂れ下った索綱さくこうの類が風にしなってうなりを立て、アリウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬ程寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体は然しさして寒いとは思わなかった。寒いとしても寧ろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く衣物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それに佇んでいるのに脚が爪先きから段々に冷えて行って、やがて膝から下は知覚を失い始めたので、気分は妙にうわずって来て、葉子の幼ない時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然ぎょうぜんと見定めた眼の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポを調ととのえゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声とあり、その間を「おーい、おい、おい、おーい」と心の声とも波のうめきとも分らぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波又波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は眼で聞いたり耳で見たりしていた。何んの為めに夜寒を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子は驀地まっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましい程めきっていた。葉子はつばめのようにその音楽的な夢幻界をけ上りくぐりぬけて様々な事を考えていた。
屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、一面に塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目ぐるましく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性に払いけようと試みたが無駄だった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、き乱された水の中を、小さな泡が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上の方に遠ざかって行った。先ずよかったと思うと、事務長のinsolentな眼付が低い調子の伴音となって、じっと動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛ひとみの奥を網膜まで見透す程ぎゅっと見据えていた。「何んで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。何んの因縁で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の眼を迎え慣れたびの色を知らず知らず上瞼うわまぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向って眼を閉じた時にあやをなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱りょうらんとして心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっと腹を立てた。その憤りの膜の中で総ての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、後には感激の更にない死のような世界が果てしもなくどんよりよどんだ。葉子は暫くは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
やがて葉子はまた徐ろに意識のしきいに近づいて来ていた。
煙突の中の黒いすすの間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴の中を右左によろめきながら奥深く辿たどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底の又底にある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔の一番奥に、赤い衣物きものを裾長に着て、まばゆい程に輝き渡った男お姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ばったり静まってしまって、耳の底がかーんとする程空恐ろしい寂寞の中に、船のへさきの方で氷をたたき破るような寒い時鐘ときがねの音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時の鐘だと考えて見る事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌がおぼろに浮んで来るだけで、どう見直してもはっきりした事はもどかしい程分らなかった。木村ではある筈はないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村は私の良人おっとではないか。その木村が赤い衣物を着ているという法があるものか。……可哀そうに、木村はサン・フランシスコから今頃はシヤトルの方に来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、私はこんな事をしてここで赤い衣物を着た男なんぞを見詰めている。千秋の思いで待つ?それはそうだろう。けれども私が木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いで私を待ったりした木村がどんな良人に変るか知れ切っている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……又事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生き方をしよう。木村だって打てば響く位はする男だ。……彼地あっちに行ってまとまった金が出来たら、何んと云ってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い衣物を着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い衣物の男を見た。事務長の顔が赤い衣物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっとした。してその顔をもっとはっきり見詰めたい為めに重い重いまぶたいて押し開く努力をした。
見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色こげちゃいろのマントを来た事務長が立っていた。而して、
「どうなさったんだ今頃こんな所に、……今夜はどうかしている……岡さん、あなたの仲間がもう一人ここにいますよ」
と云いながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろの方を振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに昂奮こうふんして顔を得上げないでいた上品な彼の青年が、真青な顔をして物にじたように慎ましく立っていた。
眼はまざまざとお開いていたけれども葉子はまだ夢心地だった。事務長のいるのに気付いた瞬間からまた聞こえ出した波濤の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。然し葉子は今の境界が本当に現実の境界なのか、先刻不思議な音楽的な錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見界みさかいがつかない位ぼんやりしていた。而してあの荒唐こうとうな奇怪な心のadventureをかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、眼の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的こわくてきな気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎた処に溜めといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩の積りで甲板の見廻りに出ると岡さん」
と云いながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いのに手欄てすりから体を乗り出してぽかんと海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出喰でっくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何が面白いかな。お寒いかありませんか、ショールなぞも落ちてしまった」
何処の国訛なまりとも解らぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人とりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終ると、始めてはっきり眼がさめたように思った。而して簡単に、
「いいえ」
と答えながら上眼づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとりと事務長のしぶとそうな顔を見やった。而してそのまま黙っていた。
事務長は例のinsolentな眼付で葉子を一目に見くるめながら、
「若い方は世話が焼ける……さあ行きましょう」
と強い口調で云って、からからと傍若無人ぼうじゃくぶじんに笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声はdiabolicなものだった。「若い方」……老成ぶった事を云うと葉子は思ったけれども、然し事務長にはそんな事を云う権利でもあるのかのように葉子は皮肉な竹箆返しっぺがえしもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長の云うままにその後に続こうとして驚いた。処が長い間そこに佇んていたものと見えて、磁石で吸い付けられたように、両脚は固く重くなって一寸も動きそうにはなかった。寒気の為めに感覚の麻痺まひしかかった膝の間接は強いて曲げようとすると、筋をつ程の痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出した上体を辛く後ろに支えて、情なげに立ちすくみながら、
「ま、一寸ちょっと
と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くと逸早いちはやく足を止めて葉子の方を振り向いた。
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをして本当に何んで御座いますが、一寸お肩を貸していただけませんでしょうか。何んですか足の先きが凍ったようになってしまって……」
と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉がこぶしとなって続けさまに胸を打つとでも云ったように、暫くの間どきまぎ躊躇ちゅうちょしていたが、やがて思き切った風で、黙ったまま引き返して来た。身のけも肩幅も葉子とそう違わない程華車きゃしゃな体をわなわなと震わせているのが、肩に手もかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三間のかなたに遠ざかっていた。
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後姿をあだかたきでもあるかのように鋭く見詰めてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇ほうじゅんな甘い酒の香が、まだ酔から醒めきらない事務長の身のまわりを毒々しいもやとなって取り捲いていた。放縦という事務長の心の蔵は、今不用心に開かれている。あの無頓着そうな肩のゆすりの蔭にすさまじいdesireの火が激しく燃えている筈である。葉子は禁断の木の実が始めて喰いかいだ原人のような渇慾を我れにもなくあおりたてて、事務長の心の裏を引っ繰り返して縫目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車とは云いながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人の男が与える奇怪な刺戟しげきはほしいままにからみあって、恐ろしい心を葉子に起させた。木村……何をうるさい、余計な事は云わずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯葉のように払いのけながら、眼の前に見る蠱惑こわくおぼれて行こうとのみした。口からのどあえぎたい程干からびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。而して熱をこめて湿うるんだ眼を見張って、事務長の後姿ばかりを見詰めながら、五体はふらふらと他愛もなく岡の方にりそった。吐き出す息気いきは燃え立って岡の横顔を撫でた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓に気をくばって歩いている。
葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
と聞いて見た。その声はいつものように澄んではいなかった。而して気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激の為めに一入ひとしお震えた。とみには返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病そうに、
「あなたは」
とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまで参るつもりですの」
「僕も……私もそうです」
岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱりと答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
岡は非常にあわてたようだった。何んと返事をしたものか恐ろしくためらう風だったが、やがて曖昧あいまいに口の中で、
「ええ」
とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇の中で眼をかがやかして微笑んだ。而して岡を憐れんだ。
然し青年を憐れむと同時に葉子の眼は稲妻のように事務長の後姿を斜めにかすめた。青年を憐れむ自分は事務長に憐れまれているのではないか。始終一歩ずつ上手うわてを行くような事務長が一種の憎しみを以て眺めやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事も出来なかった。
二人に別れて自分の船室に帰った葉子は殆んどdeliriumの情態にあった。眼睛ひとみは大きく開いたままで、盲目めくら同様に部屋の中の物を見る事をしなかった。冷え切った手先きはおどおどと両のたもとつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアをかなぐり捨てて、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根枕で両手をひしと抱いて顔を伏せた。何故なぜと知らぬ涙がその時堰せきを切ったように流れ出した。而して涙は後から後からみなぎるようにシーツを湿うるおしながら、充血した唇は恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
一時間程そうしている中に泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りにおちいって行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿を画いたように照らしていた。

一四[編集]

何んといっても船旅は単調だった。縦令たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲はあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠けんたいの視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり遮断しゃだんされた船の中には、極く小さな事まで眼新しい事件の起る事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へ心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何か淋しい過去を持つらしい、妖艶ようえんな、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。
かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまた普段の通りに、如何にも足許あしもとがあやうく見えながら少しも破綻はたんを示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔付をして、船客等と言葉を交わしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈にうんじ果てた人人には、物好きな期待を与えた。或る時は葉子はつつしみ深い深窓の婦人らしく上品に、或る時は素養の深い若いディレッタンドのように高尚こうしょうに、又或る時は習俗から解放されたadventuressとも思われる放胆ほうたんを示した。その極端な変化が一日の中に起って来ても、人々はさして怪しくは思わなかった。それ程葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気いきをふき返した人魚のような葉子の傍において見ると、身分、閲歴れつれき学殖がくしょく、年齢などといういかめしい資格が、却って夫人を固い古ぼけた輪廓にはめこんで見せる結果になって、唯神体のない空虚な宮殿のようなそらいかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感付いたらしかった。夫人の耳許に響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士までが、夫人の存在を忘れたような振舞をする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向い合う夫妻が他人同士のような顔をして互々にぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。と云って今まで自分の子供でもあしらうように振舞っていた葉子に対して、今更夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面を被って人をおとしいれたという女らしいひねくれねたみひがみが、明かに夫人の表情に読まれ出した。然し実際の処置としては、口惜しくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるより仕方がなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子は固より夫人の慌てたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合せであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何等かの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子は何時いつの間にか田川夫人と対等で物を云い合っても少しも不思議とは思わせない程の高みに自分を持ち上げてしまっていた。落目おちめになった夫人は年甲斐としがいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしく馬鹿叮嚀ていねいに物を云いかけたり、或は突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇ののたうち廻るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷やかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤かっとうを見やっていた。
単調な船旅に倦き果てて、したたか刺戟にえた男の群れは、この二人の女性を中心にして知らずらず渦巻のようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面に少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男達に自然に刺戟を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起す小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一かどの事件だった。男達は何故ともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
田川夫人の微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心の隅々を探り廻しているようだったが、遂にここぞと云う急所を摑んだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような叮嚀さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、咳が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取り交わすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室に繁く出入りするばかりか、事務長は大抵たいていの夜は田川夫妻の部屋に呼び迎えられた。田川博士は固より船の正客である。それを)らすような事務長ではない。倉地は船医の興録までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍らしくなかった。
葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑あざわらっているのみだった。既に自分が勝味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長をとりこにしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人は余計な見当違いをして、痛くもない腹を探っている。事務長が如何どうしたと云うのだ。母のはらを出るとそのまま何んの訓練も受けずに育ち上ったようなぶしつけな、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのか分らないようなたかが事務長に何んの興味があるものか。あんな人間に気を引かれる位なら、自分はうに喜んで木村の愛にうなずいているのだ。見当違いもいい加減にするがいい。そう歯がみをしたい位な気分で思った。
或る夕方葉子はいつもの通り散歩しようと甲板に出て見ると、遥か遠い手欄てすりの所に岡がたった一人しょんぼりとりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっと足音を盗んで、忍び忍び近付いて、いきなり岡と肩をすり合せるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いた風で、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応いやおうなしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中では殊更ことさらデリケートな可憐かれんなものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々あわあわしい愛を覚えた。
「何を泣いてらしったの」
小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるようなに、肩に手を置きそえながら聞いて見た。
「僕……泣いていやしません」
岡は両方の頰を紅くいろどって、こう云いながらくるりと体をそっぽうに向けえようとした。それがどうしても少女のような仕草だった。抱きしめてやりたいようなその肉体を、肉体につつまれた心。葉子は更にすり寄った。
「いいえいいいえ泣いてらっしゃいましたわ」
岡は途方に暮れたように眼の下の海を眺めていたが、のがれるすべのないのを覚って、大ぴらにハンケチをズボンのポケットから出して眼を拭った。而して少し恨むような眼付をして、始めてまともに葉子を見た。唇までがいちごのように紅くなっていた。青白い皮膚にめ込まれたその紅さを、色彩に敏感な葉子は見逃す事が出来なかった。岡は何かしら非常に昂奮していた。その昂奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄ごとじっと押えた。
「さ、これでお拭き遊ばせ」
葉子のたもとから美しい香の籠った小さなリンネルのハンケチが取り出された。
「持ってるんですから」
岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
「何をお泣きになって……まあ私ったら余計な事まで伺って」
「何いいんです……唯海を見たら何んとなく涙ぐんでしまったんです。体が弱いもんですから下らない事にまで感傷的になって困ります。……何んでもない……」
葉子はいかにも同情するように合点々々がてんがてんしいた。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどく嬉しがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄の上においたまま、
「私の部屋へもよろしかったらいらっしゃいまし。又ゆっくりお話しましょうね」
となつこく云ってそこを去った。
岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事あって後は、二人はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種のない、極く初心うぶな世慣れない青年だったけれども、葉子は僅かなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。而して打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、而してかしい青年だった。若い女性にはそのはにかみやな所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くおうに親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持で岡を可愛がった。
その頃からだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。然し事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時時葉子に事務長の噂をして聞かした。而して表面はあれ程粗暴のように見えながら、考えの変った、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だと云ったりした。もっと交際して見るといいとも云った。その度毎に葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話相手にするのは実際不思議な暗いだ。あの人の何処どこに岡と共通するようなすぐれた処があろうなどとからかった。
葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。午餐ごさんが済んで人々がサルンに集まる時などは団欒だんらんが大抵三つ位に分れて出来た。田川夫妻の周囲には一番多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川の方に来る人もあり、日本の政治家実業家連は勿論我れ先きにそこにせ参じた。そこから段々細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それから又段々太くつながれて、葉子と少年少女等の群れがいた。食堂で不意の質問に辟易へきえきした外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離ふそくふりの態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子にれ親しむのは子供達だった。真白なモスリンの衣物を着て赤い大きなリボンを装った少女達や、水兵服で身軽に装った少年達は葉子の周囲に花輪のよに集まった。葉子がそういう人達をかたみがわりに抱いたりかかえたりして、お伽話とぎばなしなどして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人達は自分等の間の話題などは捨てておいてこの可憐な光景をうっとり見やっているような事もあった。
ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一隅ひとすみで小さな卓をかこんで、その卓のうえにはウヰスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。一番いい香の煙草のけむりもそこから漂って来た。彼等は何かひそひそ語り合っては、時々傍若無人ぼうじゃくぶじんな高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くの方から突然皮肉の茶々ちゃちゃを入れる事もあった。誰云うとなく人々はその一団を犬儒派けんじゅはと呼びなした。彼等がどんな種類の人でどんな職業に従事しているか知る者はなかった。岡などは本能的にその人達をみ嫌っていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。而して表面は一向無頓着に見えながら、自分に対して十分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。
如何どうしても然し葉子には、船にいる総ての人の中で事務長が一番気になった。そんな筈、理由のある筈はないと自分をたしなめて見ても何んの甲斐もなかった。サルンで子供達と戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的こわくてき姿態しなが何時でも暗々裡あんあんりに事務長の為めにされているのを意識しない訳には行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供達をあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人達はきまってつまらなそうな顔をしたり欠伸あくびをしたりした。葉子はそうした様子を見ると更に興味を失った。而してそのまま立って自分の部屋へ帰ってしまうような事をした。それにもかかわらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子を益々不快にした。夜など甲板の上を漫歩そぞろあるきしている葉子が、田川博士の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声を漏れ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、鉄の壁すうら射通しそうな鋭いひとみを声のする方に送らずにはいられなかった。
或る日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客達は船の動揺に辟易へきえきして自分の船室に閉じこもるものが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋の角になった所に折れ曲って据えてあるモロッコ皮のディワンに膝と膝を触れ合さんばかりに寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日頃そういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子は面白いものに見やりながら、断続的に言葉を取りわした。
「あなたもシカゴにいらっしゃると仰有おっしゃってね、あの晩」
「ええ云いました。……これで切ってもいいでしょう」
「あらそんなもので勿体ない……もっと低いものはもありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
「これでいいでしょうか……よく分らないんです」
「よく分らないって、そりゃおかしゅう御座んすわね、そんな事お決めなさらずに米国あっちにいらっしゃるって」
「僕は……」
「これでいただきますよ……僕は……何」
「僕はねえ」
「ええ」
葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔ざんげでもする人のように、面を伏せて紅くなりながら札をいじくっていた。
「僕の本当に行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
葉子は珍らしい事を聞くように岡に眼をすえた。岡は益々云い憎そうに、
「あなたにお逢い申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
と段々語尾を消してしまった。何んという可憐さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
「お気にさわったら許して下さい……僕は唯……あなたのいらっしゃる所にいたいんです。如何どういう訳だか……」
もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
その瞬間にいきなり事務長が激しい勢でそこに這入はいって来た。而して葉子には眼もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々いいとしてその後に随った。
葉子はかっとなって思わず座から立ち上った。而して思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長は何処かで自分達を見守っていたに違いない」
突っ立ったままの葉子の顔に、乳房を見せつけられた子供のような微笑みがほのかに浮び上った。

一五[編集]

葉子は或る朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度は段々下って行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、何んと云っても秋立った空気は朝毎に冷え冷えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板に出て見た。右舷を廻って左舷に出ると計らずも眼の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上って続いていた。葉子は好奇な眼をかがやかしながら、思わず一旦めた足を動かして手欄てすりに近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しく噛みよせる岸辺まで密生したバンクーバー島の低い山波がそこにあった。物凄ものすごく底光りのする真青な遠洋の色は、いつの間にか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変って、その先きに見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横わっていた。それはみじめな姿だった。へだたりの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起らないで、荒涼たるその景色は何時までも眼の前に立ち続いていた。古綿に似た薄雲を漏れる朝日の光が力弱くそれを照す度毎たびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の眼には陸地の印象は寧ろ汚ないものでも見るように不愉快だった。もう三日程すると船はいやでもシヤトルの桟橋に繋がれるのだ。向うに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかり平地となった所に、ここに一つ彼処かしこに一つと云うように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれて段々多くなって、仕舞いには一かたまりの家屋が出来る。それがシヤトルであるに違いない。うら淋しく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる処に、この小さな絵島丸が疲れ切った船体を横える時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、亜米利加風になりすましたらしい物腰で、まわりの景色に釣り合わない景気のいい顔をして、船梯子ふなばしごを上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
「いやだいやだ。如何しても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京へ帰ってしまおう」
葉子はだだっ子らしく今更そんな事を本気に考えて見たりしていた。
水夫長と一人のボーイとが押し並んで、靴と草履の音をたてながらやって来た。而して葉子の側まで来ると、葉子が振り返ったので二人ながら慇懃いんぎんに、
「お早う御座います」
と挨拶した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、殊に水夫長は、
「御退屈で御座いましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお蔭様で大助かりをしまして、昨夕ゆうべからきわだてよくなりましてね」
と附け加えた。
葉子は一等船客の間の話題のまとであったばかりでなく、上級船員の間の噂の種であったばかりでなく、この長い航海中に、何時の間にか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、或る老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、いかりの鎖に足先きを挾まれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駈けつけた。結びこぶのように丸まって、痛みの為めに藻掻もがき苦しむその老人の後に引きそって、水夫部屋の入口までは沢山の船員や船客らが物珍らしそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中に這入るのを躊躇ちゅうちょした。どんな秘密がひそんでいるか誰も知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見做みなされていただけに、その入口さえが一種人をおびやかすような薄気味悪さを持っていた。葉子は然しその老人の苦しみ藻掻もがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔者扱いにされてあの老人は殺されてしまうかも知れない。あんなとしまでこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人には頼りになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりが留度とめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気はれ上るように人を襲って、蔭の中にうようようごめく群れの中唐は太くびた声が投げかわされた。闇に慣れた水夫達の眼は矢庭に葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の昂奮が部屋の隅々にまであふれて、それが奇怪なののしりの声となって物凄く葉子にせまった。だぶだぶのズボン一つで、筋くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中ひとなかから立ち上ると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔をあなの開くほどにらみつけて、聞くにたえない雑言ぞうごんを高々と罵って、自分の群れを笑わした。然し葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には眼もくれずに老人の傍に引き添って、臥安ねやすいように寝床を取りなおしてやったり、枕をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しい汚ない処にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子は何んと云う事なしに涙が後から後から流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っ張って来た。而して権威を持った人のように水夫長にはっきりした指図さしずをして、始めて安心して悠々とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮んでいた。水夫達は暗い中にもそれを見遁みのがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人として葉子に雑言をげつけるものがいなかった。それから水夫等は誰云うことなしに葉子の事を「姉御々々あねごあねご」と呼んで噂をするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。
葉子はしんみに色々と病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。而して水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みは大抵なくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、又陸の方に眼をやった。水夫長とボーイとの跫音あしおとは廊下の彼方かなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足許にはただかすかなエンジンの音と波がふなばたを打つ音とが聞こえるばかりだった。
葉子は又自分一人の心に帰ろうとしてしばらじっと単調な陸地に眼をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣ねまきの上に厚い外套がいとうを着て葉子の方に近づいて来たのを、葉子は視角に一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、何処で如何してそれを知るのか、何時の間にか岡が屹度きっと身近かに現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
「朝はまだ随分冷えますね」
と云いながら、岡は少し人にれた少女のように顔を赤くしながら葉子の傍に身を寄せた。葉子は黙ってほほ笑みながらその手を取って引き寄せて、互に小さな声で軽い親しい会話を取り交わし始めた。
と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
「倉地さんがね、今日あなたに是非願いたい用があるって云ってましたよ」
と云った。葉子は、
「そう……」
く軽く受ける積りだったが、それが思わず息気いき苦しい程の調子になっているのに気がついた。
「何んでしょう、私になんぞ用って」
「何んだか私ちっとも知りませんが、話をして御覧なさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
「まだあなただまされていらっしゃるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人嫌いですわ。……でも先方むこうで会いたいと云うのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来て下さいましな。会いたいなら会いたいようにするがう御座んすわ」
葉子は実際激しい言葉になっていた。
「まだ寝ていますよ」
「いいから構わないから起しておやりになればよござんすわ」
岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそとけて行った。その後姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめきを覚えて、眉の上の所にさっと熱い血の寄って来るのを感じた。それがまたいきどおろしかった。
見上げると朝の空を今までおおうていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色に汚れていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁ささべりをつけていた。海は眼も綾な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固な沈黙ばかり守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などは遠の昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、その後にはただ何となしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたようなweirdな激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらも何処までもいて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方むこうき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいた是れまでの心持と、この時湧くが如く持ち上がって来た心持とは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思い切りよく投げ棄ててしまって、身も心も何か大きな力に任し切るその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地にした。そんな心持の相違を比べて見る事さえ出来ない位だった。葉子は子供らしい期待に眼を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
「駄目ですよ。床の中にいて戸を明けてくれずに、寝言ねごと見たいな事をいってるんですもの」
と云いながら岡は当惑顔で葉子の側に現われた。
「あなたこそ駄目ね。ようござんすわ、私が自分で行って見てやるから」
葉子はそこにいる岡さえなかった。少し怪訝けげんそうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段はしごだんを降りた。
事務長の部屋は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬ程勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生暖かい蒸気の匂いと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑おがくずを塗りこめてざらざらと手触りのいやな壁をでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見廻して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをする隙もないようなせかせかした気分になっていた。戸は音も立てずに易々やすやすいた。「戸も開けてくれずに……」と岡の言葉から、てっきりかぎがかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、当り前にも思えた。然しその瞬間には葉子は我れ知らずはっとなった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先きに立って、葉子は前後のわきまえもなく、殆んど無意識に部屋に這入ると、同時にばたんと音をさせて戸を閉めてしまった。
もう総ては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上ったらしい事務長は、荒い棒縞ぼうじまのネルの筒袖つつそで一枚を着たままで、眼のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然這入って来た葉子をぎっと見守っていた。遠の昔に心の中は見透みすかし切っているような、それでいて言葉も碌々ろくろく交わさないほどに無頓着に見える男の前に立って、葉子はさすがに暫くは云い出すべき言葉もなかった。あせる気を押ししずめ押し鎮め、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようと勉めたが、今までに覚えない惑乱の為めに、頭はぐらぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑を漏らす愚かさをどうする事も出来なかった。倉地は葉子がその朝その部屋に来るのを前からちゃんと知り抜いてでもいたように落ち付きを払って、朝の挨拶もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽だ」
といつもの通りな少し見下ろした親しみのある言葉をかけて、昼間な長椅子代りに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうで御座いますが……」
固くなりながら云って、ああ又見え透く事を云ってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用は後で云います。まあおかけなさい」
と云ってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はその云いなり放題になるより仕方がなかった。「お前は結局ここに坐るようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知し切っているのが葉子の心を一種の捨鉢なものにした。「坐ってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心は唯訳もなくひしがれていた。葉子はつかつかと進みよって事務長を押し並んで寝台に腰かけてしまった。
この一つの挙動が――この何んでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分の方にたぐり戻した。而して事務長を流し目に見やって、一寸ほほえんだその微笑には、先刻の微笑の愚しさが潜んでいないのを信ずる事が出来た。葉子の性格の深みから湧き出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいてさかしげに締りのいい二つの唇にふさわしいものとなっていた。
「今日船が検疫所けんせきじょに着くんです、今日の午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
事務長は朋輩ほうばいにでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形かぎがたにまげて、たぐるような恰好かっこうをして見せた。葉子が一寸判じかねた顔付をしていると、
「だから飲ましてやらんならんのですお。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
となお手まねを続けながら、事務長は枕許まくらもとにおいてある頑固なパイプを取り上げて、指の先きで灰を押しつけて、吸い残りの煙草に火をつけた。
「船をさえ見ればそうした悪戯わるさをしおるんだから、海坊主を見るような奴です。そういうと頭のつるりとした水母くらげじみた入道らしいが、実施は元気のいい意気な若い医者でね。面白い奴だ。一つ会って御覧。私でからがあんな所に年中置かれればああなるわさ」
と云って、右手に持ったパイプを膝頭に置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。然しその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。丁度葉子の向側にある事務卓テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍らしそうに眺めやって、右手の行先きを軽く器用に動かしながら、煙草の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分をおとりにまで使おうとする無礼なあなたなればこそ何んとも云わずにいるのだという心を事務長もさすがにすいしたらしい。然しそれにもかかわらず事務長は言い訳一つ云わず、一向平気なもので、綺麗きれいな飾紙のついた金口煙草の小箱を手を延ばして棚から取り上げながら、
「どうです一本」
と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
「あれはどなた?」と写真の一つに眼を定めた。
「どれ」
「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
「どれ」と事務長はもうう一度云って、葉子の大きな眼をまじまじと見入ってからその視線を辿たどって、暫く写真を見分けていたが、
「ははれか。あれはね私の妻子ですんだ。荊妻けいさい豚児とんじ共ですよ」
と云って高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、けわしい眼で葉子をちらっと見た。
「まあそう。ちゃんと御写真をお飾りなすって、おやさしゅう御座んすわね」
葉子はしんなりと立ち上ってその写真の前に行った。物珍らしいものを見るという様子をしていたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物けだものであるかを見極めてやるぞという激しい敵愾心てきがいしんが急に燃えあがっていた。前には芸者でもあったのか、それとも良人の心を抑える為めにそう造ったのか、何処か玄人くろうとじみた綺麗な丸髷まるまげの女が着飾って、三人の少女を膝に抱いたり側に立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔を開くほどじっと見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙が暫くそこに続いた。
「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動き出来ないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のようなassaultに出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、そのassaultを、心ばかりでなく、肉体的な好奇心を以て待ち受けていたのだったが、かくまで突然、何んの前触れもなく起って来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥しゅうちから起る貞操の防衛に駆られて、熱し切ったような冷え切ったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑ぶべつを極めた表情を二つの眼に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷やかな眼の光は仮初かりそめの男の心をたじろがす筈だった。事務長の顔は振返った葉子の顔に息気いきのかかる程の近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには眼もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強く煽り立てたものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息の総ての精気を十分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つ総てのものを投げ入れても惜しくなと思う程の力が籠っていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の気持を見せながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引けんいんの力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気せわしく吐く男の溜息はあられのように葉子の顔を打った。火と燃え上らんばかりに男の體からはdesireのほむらがぐんぐん葉子の血脈にまで拡がって行った。葉子は我れにもなく異常な昂奮にがたがた震え始めた。


  • **


ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危く踏み止って眼を開くと、倉地が部屋の戸に鍵をかけようとしている所だった。鍵が合わないので、
くそっ」
と後向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。
倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、総ての力が急に何処かに消えてしまうのを感じた。後に残るものとては底のない、頼りない悲哀ばかりだった。今まで味って来たすべての悲哀よりも更に残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさす位だった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。して俯伏うつぶしになったまま痙攣的けいれんてきに激しく泣き出した。倉地がその泣き声に一寸躇ためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。
「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。私は勝った。何んと云っても勝った。こんな悲しいのを何故早く殺してはくれないのだ。この哀しみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」

一六[編集]

葉子は本当に死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔でいすいして、事務長の部屋から足許も定まらずに自分の船室に戻って着たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にっ倒れた。眼のまわりに薄暗いかさの出来たその顔はにぶい鉛色をして、瞳孔どうこうは光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの唇から漏れる歯並みまでが、光なく、唯白く見やられて、死を聯想れんそうさせるような醜い美しさが耳の附根まで漲っていた。雪解ゆきげどきの泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくき上っていたその胸には、底の方に暗い悲哀がこちんよどんでいるばかりだった。
葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかな果敢はかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もわば堪え切れぬ程の切なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと眼を覚ましそうになったり、意識の仮睡かすいに陥ったりした。猛烈な胃痙攣けいれんを起した患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的かんけつてきに起る痛みの為めに無意識に顔をしかめながら、麻薬の恐ろしい力の下に、ただ昏々こんこんと奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物凄い沈滞のふちに落ちて行くのだった。葉子の意志は如何いかんに手を延しても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、唯ぼーと黄色く煙っていた。その黄色い煙の中を時々紅い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駈け通った。息気いきづまるような今朝の光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末程も心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂こだまのようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距りを、葉子は恐れげもなく、或るがままに任せて置いて、重く澱んだ絶望的な悲哀に唯訳もなく何処までも引っ張られて行った。その先きには暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたは段々打ち開いたままの瞳を蔽って行った。少し開いた唇の間からは、うめくような軽いいびきが漏れ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上に俯向うつむきになったまま、何時とはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
どの位眠っていたか分らない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと眼を開いて頭をもたげる。ずきずきずきと頭のしんが痛んで、部屋の中は火のように輝いて面も向けられなかった。もう昼頃だなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚きょうかんが船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のように弄んだ。暫くしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟元えりもとをかき合せながら、静かにソファの上に膝を立てて、眼窓から外面とのものぞいて見た。今朝までは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺青の色は日の光の為めに奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生え茂った岩がかった岸がすぐ眼の先きに見えて、海はいかにも入江らしく可憐なさざなみをつらね、その上を絵島丸は機関の動悸を打ちながらしずかに走っていた。幾日の荒荒しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった
岩の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。その傍には英国の国旗が微風に煽られて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生れ代ったようにはっきりとなって行った。して頭がはっきりして来ると共に、今迄切り放されていた総ての過去があるべき姿を取って、明瞭に現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながら又ソファの上に臥伏ねたおれた。頭の中は急にむらがり集まる考えを整理する為めに激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上から顳顬こめかみの所を押えた。而して少し上眼をつかって鏡の方を見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
葉子はかく恐ろしいがけきわまで来てしまった事を、而して殆んど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わない訳には行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――兎も角木村と一緒になろう。而して生れ代った積りで米国の社会に這入りこんで、自分が見付けあぐねていた自分というものを、さぐり出して見よう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置に坐る事が出来るかためして見よう。自分は如何どうしても生るべきでない時代に、生るべきでない所に生れて来たのだ。自分の生るべき時代と処とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥かしくない程の力をもつ事が出来る筈なのだ。生きているうちにそこを探し出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつの間にか自分を裏切って、何時どんな処にでも平気で生きていられるようになり果てた女達の鼻をあかさしてやろう。若い命を持った中にそれだけの事を是非してやろう。木村は自分のこの心のたくらみを助ける事に出来る男ではないが、自分の後にいて来られない程の男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清戦争が起った時から葉子位の年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人むほんにんのように知らず知らず自分のまわりの少女達に或る感情的な教唆きょうさを与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸際せとぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。その頃の葉子は事毎ことごとに自分の境遇が気にわないでただいらいらしていた。その結果は唯思うままに振舞って行くより仕方がなかった。自分はどんな物からも本当に訓練されてはいないんだ。而して自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強み(弱味とも云わば云え)になるべき優れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法めくらめっぽうに動いて行った。殊に時代の不思議な目覚めを経験した葉子に取っては恐ろしい敵な男だった。葉子はその為めに何度つまずいたか知れない。然し、世の中には本当に葉子をたすけ起してくれる人がなかった。「私が悪ければ直すだけの事をして見せて御覧」葉子は世の中に向いてこう云いはなってやりたかった。女を全く奴隷の境界に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではなんだ。女がじっとしている間は慇懃いんぎんにして見せるが、女が少しでも自分で立ち上ろうとすると、打って変って恐ろしい暴王になり上るのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかそのにがい汁をめさせられた。而して十八の時木部孤笻きべこきょうに対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽して燃え上った仮初かりそめの熱情は、圧迫のゆるむと共にもとくもえてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。如何して失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、又色々な男にもてあそばれかけて、却って男の心というものを裏返してとっくりと見極めたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活に於ては見下げ果てた程貧弱で簡単な一書生との心といて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身震いする程失望して木部と別れてしまったのだ。
葉子のめた総ての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。然し何んという自然の悪戯いたずらだろう。それと共に葉子は、男というものなしには一刻も過されないものとなっていた。砒石ひせきの用法をあやまった患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びのみなもとを、まかり違えば、生そのものをむしばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマにおちいってしまったのだ。
肉慾の牙を鳴らして集まって来る男達に対して、(そう云う男達が集まって来るのは本当は葉子自身がふりく香の為だとは気付いていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛くものように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい四手網よつであみにからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。唯あの妖力ようりょくある女郎蜘蛛のように、生きていたい欲求から毎日その美しい網を四つ手に張った。而してそれに近づきもし得ないで罵り騒ぐ人達を、自分の生活とは関係ない木か石ででもあるように冷然と尻目にかけた。
葉子は本当は云うと、必要に従うという外に何をすればいのか分らなかった。
葉子に取っては、葉子の心持を少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の眼から見た親類という一れは唯貪慾どんよく賤民せんみんとしか思えなかった。父は憐れむべく影の薄い一人の男性に過ぎなかった。母は――母は一番葉子の身近かにいたと云っていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵きゅうてきのような感じを持った。母は新しい型をわが子に取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱うすべは知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人の間には第三者から想像も出来ないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお蔭で曲折の面白さと醜さとを加えた。然し何んと云っても母は母だった。正面からは葉子のする事為す事に批点ひてんを打ちながらも、心の底で一番よく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。而して始終張りつめた心持と、失望から湧き出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、何処からともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱ゆううつの沼に蹴落した。自分は荒磯より一本流れよった流木ながれぎではない。然しその流木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯葉ではない。然しその枯葉より自分はうら淋しい。こんな生活より外にする生活はないのか知らん。一体何処に自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうした淋しさに促されて、乳母の家を尋ねたり、突然大塚の内田にいに行ったりして見るが、そこを出て来る時には唯一入ひとしおの心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余って又みだらな満足を求める為めに男の中に割って這入るのだった。然し男が葉子の眼の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢きょうまんな女王のように、その捕虜から面をそむけて、その出来事を悪夢のようにみ嫌った。冒険の獲物はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人を兎も角その良人おっとに選んで見た。葉子は自分が何んとかして木村にそりを合せる努力をしたならば、一生涯木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活が出来ないものでもないと一時思うまでになっていた。然しそんなつぎはぎな考え方が、どうしていつまでも葉子の心の底をむしばむ不安をいやす事が出来よう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えて見ると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はけ物になるか、邪魔者になる外はないようにも思えた。木村と暮そう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形を玩具箱に仕舞ったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇ちゅうちょする少女の心に似たぞんざいためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生れて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地を憐れみもしおそれもした。今まで誰の前に出ても平気で自分の思う存分振舞っていた葉子はこの男の前では思わず知らず心にもない矯飾きょうしょくを自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのと丁度反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけは唯望ましい事ばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めて燃え上るのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない慾望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。その癖表面うわべでは事務長の存在をすら気が附かないように振舞った。殊に葉子の心を深く傷けたのは、事務長の物懶ものうげな無関心な態度だった。葉子がどれ程に人の心を牽きつける事を云った時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日とつのって行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
然し葉子はとうとう今朝の出来事に打っ突かってしまった。葉子は恐ろしいがけの際から目茶目茶に飛び込んでしまった。葉子の眼の前で今まで住んでいた世界はがらっと変ってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木葉微塵こっぱみじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜と思おう。倉地を自分独りに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
葉子の心はこんなに順序立っていた訳ではない。然し葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持を果てしもなくみしめた。而して追想は多くの迷路を辿りぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿のように立ち上って、過去と未来とを断ち切った現在刹那せつなめくらむばかりな変身に打ちふるいながら微笑んだ。
その時碌々ノックもせずに事務長が這入って来た。葉子のただならぬ姿には頓着なく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、然しあなたのは大分資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談じょうだんらしく云った。
「はあ」葉子は何んの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚く程蠱惑こわくの力がめられていた。
事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳おどりして飛び廻った。而して飛び廻りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、堪え切れないようにぬすみ笑いをした。

一七[編集]

事務長のさしがねはうまいつぼにはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかりった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたり前ならば、何んとかとか必ず苦情の持ち上るべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放蕩者らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこで機嫌よく帰って行く事になった。
とまるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側を離れるのを待っていた。折目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座かじざに立ち上って、手欄てすりから葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談を取り交わした。船梯子ふなばしごの下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて合図をすると、船梯子はきりきりと水平にき上げられて行く、それを事もなげに身軽く駈け上って来た。検疫官の眼は事務長への挨拶もそこそこに、思い切り派手な装いをらした葉子の方に吸い付けられるらしかった。葉子はその眼を迎えて情をこめた流眄ながしめを送り返した。検疫官がそのせわしい間にも何かしきりに物を云おうとした時、けたたましい汽笛が一抹いちまつの白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起り始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音そうおんにもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにこと微笑みながら点頭うなずいて見せた。而して唯一時の悪戯心いたずらごころから髪にしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足許にすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱かじづなりながら、有頂天うちょうてんになってそれを拾おうとするのを見ると、船舷ふなばたに立ちならんで物珍らしげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見廻りした。西洋の婦人達はひとしく葉子を見やって、その花々しい服装から、軽率かるはずみらしい挙動を苦々にがにがしく思うらしい顔付をしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
検疫官は絵島丸が残して行った白沫の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集は又思い出したように漫罵まんばを放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよく解る白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥かしげな眼を葉子に送ったが、葉子ははしたない群集の言葉にも、苦々しげな船客の顔色にも、少しも頓着しない風で、微笑み続けながらモーター・ボートの方を見守っているのを見ると、未通女おぼこらしく更に真赤になってその場をはずしてしまった。
葉子は何事も屈託なく唯面白かった。体中をくすぐるような生の歓びから、ややもすると何んでもなく微笑が自然に浮び出ようとした。「今朝から私はこんなに生れ代りました御覧なさい」といって誰にでも自分の喜びを披露ひろうしたいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、その方に向って走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室での今日の思出笑おもいだしわらいをしながら、手欄を離れて心あてに事務長を眼で尋ねた。と、事務長は、遥か離れた船艙せんそうの出口に田川夫妻とかなえになって、何かむずかしい顔をしながら立話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているか位はすぐ見て取るのだが、その日は唯浮々した無邪気た心ばかりが先きに立って、誰にでも好意ある言葉をかけて、同じ言葉で酬いられたい衝動に駆られながら、何んの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく眼に物を言わせているのがさとられた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「又おせっかいだな」
一秒の躊躇もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の眼使いにも無頓着に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻の方に近づいて行った。それを事務長もどうすることも出来なかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげておくをかき上げながら顔中を蠱惑的こわくてきな微笑みにして挨拶した。田川博士の頰には逸早いちはやくそれに応ずる物やさしい表情が浮ぼうとしていた。
「あなたは随分な乱暴をなさる方ですのね」
いきなり震えを帯びた冷やかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的な調子で震えていた。田川博士はこの咄嗟とっさの気まずい場面をつくろう爲め何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立ってつのるばかりだった。然し夫人は口に出してはもう何んにも云わなかった。
女の間に起る不思議な心と心との交渉から、葉子は何んという事なく、事務長と自分との間に今朝起ったばかりの出来事を、輪廓だけではあるとしても田川夫人が感付いているなと直覚した。唯一言ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎ふきんしんな態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子は心のすみから隅までを、留飲の下るような小気味よさが小躍りしつつせめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというように少ししゃあしゃあした無邪気な顔付で、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海中は兎に角私葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
初めはしとやかに落ち付いて云う積りらしかったが、それが段々激して途切れ勝ちな言葉になって、夫人は仕舞には激動から息気いきをさえはずましてた。その瞬間に火のような夫人の瞳と、皮肉に落ち付き払った葉子の瞳とが、ばったりくわして小ぜり合いをしたが、又同時に蹴返すように離れて事務長の方に振り向けられた。
御尤もっともです」
事務長はあぶに当惑した熊のような顔付で、柄にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「私も事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせん積りですが」
ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
「そう無気むきになる程の事でもないじゃありませんか。高が早月さんに一度か二度愛嬌あいきょうを云うていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上も無駄をせにゃならんのですて」
田川夫人が益々せき込んで、矢継早やつぎばやにまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
「それにしてからがお話は如何いかがです。部屋で伺いましょうか。外のお客様の手前もいかがです。博士、例の通り狭っこい所ですが、甲板ではゆっくりも出来ませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたも如何です」
と笑い笑い云ってからくるりッと葉子の方に向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂な顔を一寸して見せた。
横浜で倉地の後に続いて船室への階子段を下る時始めてぎ覚えたウイスキーと葉巻のまじり合ったような甘いたるい一種の香が、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それを嗅ぐと葉子は情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風つむじかぜの如く頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉の間に浮び上った。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。然し田川博士は自分の妻の大人げないのを憐れむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、ていよく事務長にことわりを云って、夫人と一緒にそこを立ち去った。
「一寸いらっしゃい」
田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長は碌々ろくろく葉子を見むきもしないでこう云いながら先きに立った。葉子は小娘のようにいそいそとその後について、薄暗い階子段にかかると男におぶいかかるようにして小世話こぜわしく降りて行った。而して機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸を開けた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、nonchalantなdiabolicな男の姿を今更のよに一種の畏れとなつかしさとをめて打ち眺めた。
部屋に這入はいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしく面倒臭そうに吐息一つして、帳簿を事務卓テーブルの上に放りなげておいて、又戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。而して戸を閉めきると、始めてまともに葉子に向きなおった。而して腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」と云ったような調子で云って、脚を開いてakimboをして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
そこにボーイが戸の後から顔だけを出した。
「シャンペンだ。船長の所のバーから持って来さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
事務長は葉子の方を向いたままこう云ったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。
余りに事なげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにられなくなった。今朝の記憶のまだ生々しい部屋の中を見るにつけても、激しくたかぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸にせまるのだった。今までは丸きり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心に煽り立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心も唯一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共に総ての女に対しても同じ力で働くのではないか。その沢山の女の中の影の薄い一人の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難く思われる今朝の出来事があった後でも、ああ平気でいられるその呑気のんきさはどうしたものだろう。葉子は物心ついてから始終自分でも言い現わす事の出来ない何物かをい求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりと摑む事は如何どうしても出来ず、その癖いつでもその力の下に傀儡かいらいのようにあてもなく動かされていた。葉子は今朝の出来事以来何んとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。然しそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来事に対して、こっちから進んで情をそそるような事を自分は何という事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事が出来るのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。然し同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。如何してもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾にごうを煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を唇のあたりに宿して、黙ったまま陰鬱に立っていた。今までそわそわと小魔のように葉子の心をめぐおどっていた華やかな喜び――それは何処)どこに行ってしまったのだろう。
事務長はそれに気附いたのか気が附かないのか、やがてりかかりのない円い事務榻じむいすに尻をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児同様の無邪気さで犯し得るたちの男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先きを越されているのか知らんという不安までが心の平衡へいこうをさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿馬鹿で、田川の奥さんは悧口りこう馬鹿と云うんだ。はゝゝゝゝ」
そう云って笑って、事務長は膝頭をはしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
葉子は笑うよりも腹立たしく、腹立たしいとよりも泣きたい位になっていた。唇をぶるぶると震わしながら涙でも溜ったように輝く眼はけんを持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑えあまる恨みつらみを云い出すには、心があまりに震えてのどが乾き切っているので、下唇を噛みしめたまま黙っていた。
倉地はそれを感付いているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のない淋しさを感じていた。
ボーイがシャンペンと酒盃コップとを持って這入って来た。而して丁寧にそれを事務卓テーブルの上に置いて、先刻のように意味ありげな微笑を漏しながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の眼は然しボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をしたという風に、すぐ慎み深い給仕らしく、そこそこに部屋を出て行った。
事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子の方にさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延した。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいい加減乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で捲かれたように冷たくうとくなった。胸から喉許のどもとにつきあげて来る冷たい而して熱い球のようなものを雄々しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると眼頭めがしらを熱くうるおして来た。薄手うすで酒盃コップに泡を立てて盛られた黄金色の酒は葉子の手の中で細かいさざなみを立てた。葉子はそれを気取られまいと、強いて左の手を軽くあげてびんの毛をかき上げながら、洋盃を事務長のと打ち合せたが、それをきっかけがんでもほどけたように今まで辛く持ちこたえていた自制は根こそぎ崩されてしまった。
事務長が洋盃を器用に唇にあてて、仰向き加減に飲みほす間、葉子は盃をもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉を見つめていたが、いきなり自分の盃を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
めるつもりで云ったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。而してせきを切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切歯いときりばで噛みきるばかりに強いて喰いとめた。
事務長は驚いたらしかった。眼を大きくして何か云おうとする中に、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知ってますとも……。あなたはほんとに……ひどい方ですのね。私何んにも知らないと思ってらっしゃるの。ええ、私は存じません、存じません、ほんとに……」
何を云う積りなのか自分でも分らなかった。唯激しい嫉妬しっとが頭をぐらぐらさせるばかりにこうじて来るのを知っていた。男が或る機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういう忌々いまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめな真暗まっくらな思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守る程惨めで真暗だった。この人を自分から離れさす位なら殺して見せる、そう葉子は咄嗟とっさに思いつめて見たりした。
葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動を強いてじっとこらえながら、綺麗に整えられた寝台にようやく腰を下ろした。美妙な曲線を長く描いて長閑のどかに開いた眉根は痛ましく眉間みけんに集まって、急にせたかと思う程細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股の切れあがった痩せ形なその肉を痛ましくしいたげた。長い袖の下で両手の指を折れよとばかり組み合せて、何もかもいて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑えながら、葉子はつばも飲みこめない程狂おしくなってしまっていた。
事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔をして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落したその白足袋の足許から、やや乱れた束髪までをしげしげと見上げながら、
如何どうしたんです」
いぶかる如く聞いた。葉子はひったくるようにさそくと返事をしようとしたけれども、如何してもそれが出来なかった。倉地はその様子を見ると今度は真面目になった。而して口のはたまで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上りながら、
「どうしたんです」
ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
という事が出来た。二人の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない。葉子はこの上の圧迫には堪えられなくなって、はなやかなすそを蹴乱しながら驀地まっしぐらに戸口の方に走り出ようとしたあ。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子は遮られて是非なく事務卓の側に立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ。そんな事を思うばかりだった。こらえにこられていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近かに飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくると共に両手にあらん限りの力をめて、人殺しでもするような気負きおいでずたずたに引き裂いた。而してみくたになった写真のくずを男の胸もとおれと投げつけると、写真のあたったその所に噛みつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子は我れにもなく我武者がむしゃにすり入って、男の胸に顔を伏せた。而して両手で肩の服地を爪も立てよと摑みながら、しばらく歯を喰いしばって震えている中に、それが段々すすり泣きに変って行って、仕舞にはさめざめと声を立てて泣きはじめた。而して暫くは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋の中の静かさをかき乱して響いていた。
突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛び退いた。倉地に泣きながらすがり付いた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れ切っていたのに、優しい言葉でもかけて貰えるかの如く振舞った自分の矛盾にも呆れて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋の隅に退さがって行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫に見込まれた金糸雀カナリアのように身悶みもだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気に有らん限りの力を出してさからった。然しその時の倉地はもう普段の倉地ではなくなっていた。今朝写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた怒った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力が嵐のように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子に驀地まっしぐらに摑みかかった。
「又俺を馬鹿にしやがるな」
という言葉が喰いしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
ああこの言葉――このむき出しなう有頂天な昂奮こうふんした言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くと共に、心の隅に軽い余裕の出来たのを感じて自分というものが何処かの隅に頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対が出来そうにさえなった。葉子は前通りすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすら交っていた。
「いやです放して」
こう云った言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。然し倉地は反対に葉子の一語々々に酔いしれて見えた。
「誰が離すか」
事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。その癖その態度は反対に益々頼りなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「本当に離して下さいまし」
「いやだよ」
葉子は倉地の接吻せっぷんを右に左によけながら、更に激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣のように呻いた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は程を見計みはからっていた。而して男の張りつめた情慾の糸が断ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっと倉地の顔を振り仰いだ。その眼からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「本当に放していただきます」
きっぱり云って、葉子は機敏に一寸ゆるんだ倉地の手をすりぬけた。而して逸早く部屋を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたは今朝この戸に鍵をおかけになって、……それは手籠てごめです……私……」
と云って少し情に激して俯向いて又何か言い続けようとするらしかったが、突然戸を開けて出て行ってしまった。
取り残された倉地は呆れて暫く立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛じゅそを口走りながら、いきなり部屋を出て葉子の後を追って来た。而して間もなく葉子の部屋の所へ来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物を云いながら船医の興録こうろくの部屋に這入るのが聞こえた。
葉子は興録があ事務長のさしがねで何んとか云いに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところが何んとも云って来ないばかりか、船医室からは時々あたりを憚らない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋をでて行きそうな気配もなかった。葉子は昂奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿を色々想像していた。外の事は一つも頭の中には這入って来なかった。而してつくづく自分の心の変りかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子!定子!」葉子は隣りにいる人を呼び出すような気で小さな声を出して見た。その最愛の名を声にまで出して見ても、その響の中には忘れていた夢を思い出した程の反応こたえもなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変り果てるものだろう。葉子は定子を憐れむよりも、自分の心を憐れむ為めに涙ぐんでしまった。而して何んの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた。その頃日本では珍らしいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いて見た。
「女の弱き心につけ入り給うはあまりにむごき御心を唯恨めしく存じまいらせ候妾の運命はこの船に結ばれたるしきえにしや候いけん心がらとは申せ今は過去の総て未来の総てを打ち捨てて唯眼の前の恥かしき思ひに漂うばかりなる根なし草の身となり果てまいらせ候を事もなげに見やり給うが恨めしく恨めしく死」
と何んの工夫もなく、よく意味も解らないで一寫しゃ千里に書き流して来たが、「死」という字に来ると葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長に云ってやるのは、思い存分自分をもてあそべと云ってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きで汚していた。
と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子は我れにもなくつむりを上げて、暫く聞耳を立ててから、そっと戸口に歩寄ったが、後はそれなり又静かになった。
葉子は恥かしげに座に戻った。而して紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いて見たりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっひじをついた片手で押えて何んと云う事もなく考えつづけた。
念が届けば木村にも定子にも何んの用があろう。倉地の心さえ摑めば後は自分の意地一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用が無くなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつの間にか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこな思いがひそんでいたかと思うと、抱いてでさすってやりたい程自分が可愛ゆくもあった。而して木部と別れて以来絶えて味わなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
やがて酔いつぶれた人のようにつむりを擡げた時には、とうに日がかげって部屋の中には華やかに電燈がともっていた。
いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突きあたった人の気配がして、「早月さつきさん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上ってたじろぎながら部屋の隅に逃げかくれた。而して体中を耳のようにしていた。
「早月さんお願いだ。一寸開けて下さい」
葉子は手早く小机の上の紙を屑籠くずかごになげ棄て、ファウンテン・ペンを物蔭に放りこんだ。而してせかせかとあたりを見廻したが、あわてながら眼窓のカーテンを閉め切った。而して又立ちすくんだ。自分の心の恐ろしさにまどいながら。
外部では握拳にぎりこぶしで続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前をかき合せて、肩越しを鏡に見やりながら涙を吹いて眉を撫でつけた。
「早月さん!!」
葉子はややしばとつおいつ躊躇していたが、とうとう決心して、何か慌てくさって、鍵をがちがちやりながら戸を開けた。
事務長はひどく酔って這入って来た。どんなに飲んでも顔色をかえない程の強酒ごうしゅな倉地が、こんなに酔うのは珍らしい事だった。締め切った戸に仁王立ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたにれていたんだ。それが分らないあなたじゃないでしょう。暴力?暴力が何んだ。暴力は愚かなった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩めまいを感ずる程有頂天になった。
「あなたに木村さんというのが附いてる位は、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕は勿論知りませんさ。知らんが僕の方があなたに深惚ふかぼれしとる事だけは、この胸三寸でちゃんと知っとるんだ。それ、それが分らん?僕は恥も何もさらけ出して云っとるんですよ。これでも分らんですか」
葉子は眼をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。噛みしめた。而してみ込んだ。
こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。

一八[編集]

その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に’’Car to the Town. Far 15¢’’と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓から見やられた。米国への上陸が禁ぜられている支那の苦力(クリー)がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜は遂に葉子の部屋に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなる程葉子は例えようのない平和を感じた。生れて以来、葉子は生に固着した不安からこれ程まで綺麗(きれい)に遠ざかり得るものとは思いも設けなかった。而(し)かもそれが空疎(くうそ)な平和ではない。飛び立って躍りたい程のecstasyを苦もなく押え得る強い力の潜んだ平和だった。総ての事に飽き足った人のように、又二十五年に亙(わた)る長い苦しい戦に始めて勝って兜(かぶと)を脱いだ人のように、心にも肉にも快(こころよ)い疲労を覚えて、謂(い)わばその疲れを夢のように味いながら、なよなよとソファに身を寄せて燈火を見つめていた。倉地がそっこにいないのが浅い心残りだった。けれども何んと云っても心安かった。ともすれば微笑が唇の上を漣(さざなみ)のようにひらめき過ぎた。
けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は掌(てのひら)を返えしたように変ってしまった。一夜の間にこれほどの変化を惹起(ひきおこ)す事の出来る力を、葉子は田川夫人の外に想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人を持って、人の眼に立つ交際をして、女盛りと云う条、もういくらか降り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にして見ても恥かしくない才能と容貌とを持った若々しい葉子の便(たよ)りなげな身の上とが、二人に近づく男達に同情の軽重を起させるのは勿論だった。然し道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。而して船客達の葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心とも云えない程の野心――もう一つ云い換(か)ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍(ゆうかん)な男として、美貌な男として残りたいと云う程な野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事の出来るのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段で逸早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子は忽(たちま)ち船中の社交から葬られてしまった。少くとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々(よそよそ)しい態度をして見せるようになった。中にも一番憐れなのは岡だった。誰が何んと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく眼を覚して甲板に出て見ると、毎時(いつ)ものように手欄(てすり)に倚りかかって、もう内海になった波の色を眺(なが)めていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその馬を外(はず)して、何処へか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子が如何(どうう)かしてその姿を見つけたかと思うと、次ぎの瞬間にはもう見えなくなっていた。その癖葉子は思わぬ時に、岡が何処かで自分を見守っているのを確かに感ずる事が度々だった。葉子はその岡を憐れむ事すらもう忘れていた。
結句(けっく)船の中の人達から度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果には一向無頓着だった。もう船は今日シヤトルに着くのだ。田川夫人やその外の船客達の所謂(いわゆる)「監視」の下に苦々しい思いをするのも今日限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
然し船がシヤトルに着くという事は、葉子に外の不安を持ち来(きた)さずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添う外はあるまいとも思った。然し木部の時でも二ヵ月とは同棲(どうせい)していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。然しこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和を強いてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなく迚(とて)も出来なかった。
葉子はその癖、船客と顔を見合せるのが不快でならなかったので、事務長の頼んで船橋にい上げてもらった。船は今瀬戸内(せとうち)のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリヤで傭い入れた水先案内と二人へ併(なら)んで立っていたが、葉子を見るといつも通りの顔を真赤にしながら帽子を取って挨拶した。ビスマークのような顔をして、船長より一(ひと)がけも二(ふた)がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向き直って、
「Charmin' little lassie! Wha' is that?」
とスコットランド風な強い発音で船長に尋ねた。葉子には解らない積りで言ったのだ。船長が慌てて何かささやくと、老人はからからと笑って一寸首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、乾いて晴れ渡った秋の朝の空と何んとも云えない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。而してその老人の背中でも撫でてやりたいような気になった。船は小動(こゆる)ぎもせずに亜米利加松の生え茂った大島小島の間を縫って、舷側に来てぶつかる漣(さざなみ)の音も長閑(のどか)だった。而して昼近くなって一寸した岬をくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国の官憲の検査が型(かた)ばかりあるのだ。崩した崕(がけ)の上で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生生しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並みが、嶮(けわ)しい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽をゆるゆる動かしながら、かったんこっとんと呑気らしく音を立てて廻っていた。鷗(かもめ)が群をなして猫に似た声で啼(な)きながら、船の周(まわ)りを見ずに近く長閑に飛び廻るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍らしさだった。飴屋(あめや)の呼び売りのような声さえ町の方から聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁に凭(もた)れかかって、ぽかぽかと射す秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿を眺めやった。而して十四日の航海の間に、いつの間にか海の心を心としていたのに気が付いた。放埓(ほうらつ)な、移り気な、想像も及ばぬパッションにのたうち廻って呻き悩むあの大海原――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺(しわ)を見やりながら、遥かな海の上の旅路を思いやった。
「早月さん、一寸そこからでいい、顔を貸して下さい」
直ぐ下で事務長のこう云う声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のようん、嬉しさに心をときめかせながら、船橋の手欄から下を見下ろした。そこに事務長が立っていた。
「One more over there, look!」
こう云いながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。管理は点頭(うなず)きながら手帳に何か書き入れた。
船は間mなくこの漁村を出発したが、出発すると間もなく事務長は船橋に昇って来た。
「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
船長にともなく葉子にともなく云って置いて、水先案内と握手しながら、
「Thanks to you.」
と附け足した。而して三人で暫く快活に四方山(よもやま)の話をしていたが、不図(ふと)思い出したように葉子を顧みて、
「これから又当分は眼が廻る程忙しくなるで、その前に一寸御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
と云った。葉子は船長に一寸挨拶を残して、すぐ事務長の後に続いた。階子段(はしごだん)を降りる時でも、眼の先きに見える頑丈な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼(せま)る事はもうなかった。自分の部屋の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸を開けた。部屋の中には三四人の男が濃く立ち罩(こ)めた煙草の煙の中に処狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたまま這入って行った。
それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さな卓を囲(かこ)んでウヰスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにも嫌味に見える亜米利加風の背広も、そして取ってつけたようには見えない程、太平洋を幾度も往来したらしい人達で、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子は這入って行っても、彼等は格別自分達の名前を名乗るでもなく、一番安楽な椅子に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、既に一人腰かけている寝台に曲りこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐ又前通り平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目(いちもく)置いているらしく、又事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそう云う人達の間にあるのを結句(けっく)気安く思った。彼等は葉子を下級船員の所謂「姉御」扱いにしていた。
「向うに着いたらこれで悶着(もんちゃく)ものだぜ、田川の嚊(かかあ)め、あいつ、一味噌(ひとみそ)擦(す)らずにおくまいて」
「因業(いんごう)な生れだなあ」
「何んでも正面から打つ突かって、いさくさ云わせず決めてしまう外はないよ」
などと彼等は冗談(じょうだん)ぶった口調で親身な心持を云い現わした。事務長は眉も動かさずに、机に倚りかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録の外に三人いた。その中には一人甲斐絹(かいき)のどてらを着ていた。
「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺(うかが)い窺い云うと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶(ものう)げに葉子を見やりながら、
「私もそう思うんだがどうだ」
と訊ねた。葉子は、
「さあ……」
と生返事(なまへんじ)をする外なかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかわ物を云うのがさすがに億劫(おっくう)だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別ぶった顔をさし出して、
「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸した処が急に動くようにはなれない。又そういう体では検疫が兎(と)や角(かく)やかましいに違いないし、この間のように検疫所で真裸にされるような事でも起れば、国際問題だの何んだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃる方がいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。而(そう)しておいて船の出際(でぎわ)になって矢張り如何(どう)してもいけないと云えばそれっ限(き)りのもんでさあ」
「なに、田川の奥さんが木村って云うのに、味噌さえしこたま擦ってくれれば一番ええのだが」
と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思う通りをぶっきらぼうに云ってのけた。
木村はその位な事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでも随分色々な噂が耳に這入った筈なのに「僕はあの女の欠陥も弱点も皆んな承知している。私生児のあるのも固(もと)より知っている。唯(ただ)僕はクリスチャンである以上、何んとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像して見給え。僕はその時一番理想的なbetter halfを持ち得ると信じている」と云った事を聞いている。東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のし切れない嫌悪の種だったのだ。
葉子は黙って皆んなの云う事を聞いている中に、興録の軍略が一番実際的だと考えた。而して忸(な)れ忸れしい調子で興録を見やりながら、
「興録さん、そう仰有(おっしゃ)れば私仮病(けびょう)じゃないんですの。この間中から診(み)ていただこうか知らと幾度か思ったんですけれども、あんまり大袈裟(おおげさ)らしいんで我慢していたんですが、如何いうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹(なか)のここが妙に時々痛むんですのよ」
と云うと、寝台に曲りこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子は一寸その男を睨(にら)むようにして一緒に笑った。
「まあ機(しお)の悪い時にこんな事を云うもんですから、痛い腹まで探(さぐ)られますわね……じゃ興録さん後程(のちほど)診ていただけて?」
事務長の相談というのはこんな他愛もない事で済んでしまった。
二人きりになってから、
「では私これから本当の病人になりますからね」
葉子は一寸倉地の顔をつついて、其の唇に触れた。而してシヤトルの市街から起る煤煙(ばいえん)が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。而して洋風の白い寝衣(ねまき)に着かえて、髪を長い編下げにして寝床に這入った。戯談のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際可(か)なり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂したりした後では、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、暫くの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事が出来て、幾年ぶりかで申し所nない健康のよろこびを味ったのだったが、近頃は又段々痛みが激しくなるようになったママ〕来ていた。半身が麻痺(まひ)したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍らしくなかった。葉子は寝床に這入ってから軽い疼(いた)みのある所をそっと平手で擦(さす)りながら、船がシヤトルの波止場に着く時の有様を想像して見た。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。唯何んでもいいせっせと手当り次第支度をしておかなければ、それだけの心尽しを見せて置かなければ、目論見(もくろみ)通り首尾が運ばないように思ったので、一遍横になったものを又むくむくと起き上った。
先ず昨日来た派手な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中に仕舞いこんだ。臥(ね)る時まで着ていた着物は、わざと華やかな長襦袢(ながじゅばん)や裏地が見えるように衣紋竹(えもんだけ)に通して壁にかけた。
事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは叮嚀(ていねい)に抽斗(ひきだし)に隠した。古藤が木村と自分とに宛(あ)てて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕の下に差しこんだ。鏡の前には二人の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気が付いて、廊下越しに興録を呼び出して薬瓶や病床日記を調(ととの)えるように頼んだ。興録の持って来た薬瓶から薬を半分がた痰壺(たんつぼ)に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるような色々な物が出て来た。香(にお)いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
葉子は忙(せわ)しく働かしていた手を休めて、部屋の真中に立ってあたりを見廻して見た。萎(しぼ)んだ花束が取り除(の)けられて無くなっているばかりで、あとは横浜を出た時の通りの部屋の姿になっていた。旧(ふる)い記憶が香のように染みこんだそれらの物を見ると、葉子の心は我れにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
フォクスルでは起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼のように唯どんよりと澱(よど)んでいた。体は何んの訳もなくだるく物懶(ものう)かった。
食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを合図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港に這入った合図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終ったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業の為めに来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながら本当に来ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心を強(し)いて押し鎮(しず)めながら、船の着くのを埠頭(ふとう)に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の眼は木村や二人の妹の写真の方にさまよって行った。それと併(なら)べて写真を飾っておく事も出来ない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝に抱き上げて愛撫(あいぶ)してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池の端(はた)の淋しい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像して見るのも悲しかった。泣いているかと想像して見るのも憐れだった。而して胸の中が急にわくわくとふさがって来て、堰(せ)きとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台の側に駈(か)けよって、枕許(まくらもと)においといたハンケチを拾い上げて眼頭(めがしら)に押しあてた。素直な感傷的な涙が唯訳もなく後から後から流れた。この不意の感情の裏切りには然し引き入れられるような誘惑があった。段々底深く沈んで哀(かな)しくなって行くその思い、何んの思いとも定めかねた深い、侘(わび)し、悲しい思い。恨みや怒りを綺麗に拭い去って、諦めたように総てのものを唯しみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母……何故こんなになつかしい世に自分の心だけがこう悲しく一人坊(ぼっ)ちなのだろう。何故世の中は自分のようなものを憐れむ仕方を知らないのだろう。そんな感じの零細(れいさい)な断片がつぎつぎに涙に濡れて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかりすがり附こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯(はてし)のない悲哀が、愛憎の総てを唯一色に染めなして、どんよりと拡がっていた。生を呪うよりも死が願われるような思いが、逼(せま)るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり附いた。葉子は果ては枕に顔を伏せて、本当に自分の為めにさめざめと泣き続けた。
こうして小半時(こはんとき)もたった時、船は桟橋に繋(つな)がれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶(ものう)げに頭を擡(もた)げて見た。ハンケチは涙の為めにしぼる程濡れて丸まっていた。水夫等が繫綱を受けたりやったりする音と、鋲釘(びょうくぎ)を打ちつけた靴で甲板を歩き廻る音とが入り乱れて、頭の上は宛(さなが)ら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽した子供のようなぼんやりした取りとめのない心持で、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋です」
という声がした。それが丸で雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておく積りでいながら何んの準備も出来ていない事も思った。今の心持は平気で木村に会える心持ではなかった。おろおろしながら立ちは上ったが、立ち上っても如何(どう)する事も出来ないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと伏さってしまった。
戸が開いた。
戸が開いた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中で呻(うめ)いた。而して息気(いき)もとまる程身内がしゃちこばってしまっていた。
「早月さん、木村さんが見えましたよ」
事務長の声だ。ああ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁の方に顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。兎に角二人の顔を見る事は如何しても出来ない。葉子は二人に背(うし)ろを向け益々壁の方に藻掻(もが)きよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。忽ち高く忽ち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生(ごしょう)ですから今この部屋を……出て下さいまし……」
木村はひどく不安げに葉子に倚りそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪との為めに身をちぢめて壁に獅噛(しが)みついた。
「痛い……いけません……お腹が……早く出て……早く……」
事務長は木村を呼び寄せて何か暫くひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら跫音(あしおと)を盗んでそっと部屋をでて行った。葉子はなおも息気(いき)も絶え絶えに、
「どうぞ出て……あっちに行って……」
と言いながら、いつまでも泣き続けた。


一九[編集]

暫くの間食堂で事務長と通り一遍の話でもしているらしい木村が、頃を見計(みはから)って再度葉子の部屋の戸を敲(たた)いた時にも、葉子はまだ枕に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻(うずまき)の中に心を浸(ひた)していたが、木村が一人で這入って来たのに気付くと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口のまくれた真白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、堪(こら)え堪えていた感情が更に嵩(こう)じたものか、涙をあふれんばかり限頭にためて、厚ぼつたい唇を震わせながら、痛々しげに葉子の顔付を見入って突立った。
葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶(ものう)かったし、木村は何んと云い出したものか迷う様子で、二人の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙は然し感傷的という程度であるには余りに長く続き過ぎたので、外界の刺戟(しげき)に応じて過敏なまでに満干(みちひ)の出来る様子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮々々(ひとかわひとかわ)平調に還(かえ)って、果てはその底に、こう嵩じては厭(いと)わしいと自分ですらが思うような冷やかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合せたむずかゆいような手を引っ込めて、眼元まで布団を被(かぶ)って、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲笑(あざわら)って見たいような心にすらなってた。永く続く沈黙が当然惹(ひき)起す一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、何んとかして二人の間の気まずさを引裂(ひきさ)くような、心の切なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤(うるお)った低い声で、もう一度、
「葉子さん」
と愛するものの名を呼んだ。それは先程呼ばれた時のそれに比べると、聞き違える程美しい声だった。葉子は、今まで、これ程切な情を籠(こ)めて自分の名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名に際立(きわだ)って伝奇的(でんきてき)な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合せた手に力をこめて、更に何んとか言葉をつがせて見たくなった。その眼も木村の唇に励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
「一日千秋の思いとはこの事です」
とすらすらと滑(なめ)らかに云って退(の)けた。それを聞くと葉子は見事期待に背負投(しょいな)げを喰(く)わされて、その場の滑稽(こっけい)に思わず噴き出そうとしたが、如何に事務長に対する恋に溺れ切った女心の残虐(ざんぎゃく)さからも、さすがに木村の他意ない政実を笑い切る事は得しないで、葉子は唯心の中で失望したように「あれだから嫌になっちまう」とくさくさしながら喞(かこ)った。
然しこの場合、木村と同様、葉子も恰好(かっこう)な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じ籠(こも)ってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いもよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になって見ると、葉子は如何(どう)木村をもてあつかって好(よ)いのか、はっきりした目論見(もくろみ)は出来ていなかった。然し考えて見ると、木部孤笻(こきょう)と別れた時でも、葉子には格別これという謀略(ぼうりゃく)があった訳ではなく、唯その時々に我儘(わがまま)を振舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企(たくら)みと手練(てくだ)を示したかのように人に取られていた事も思った。何んとかして漕(こ)ぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、先ず落ち付き払って木村に椅子をすすめた。木村が手近かにある畳椅子を取り上げて寝台の側に来て坐ると、葉子は又しなやかな手を木村の膝の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
「本当に暫くでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
と云って見た。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。而(そ)してわくわくと流れ出る涙が見る見る眼から溢(あふ)れて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一雫(ひとしずく)が気まぐれにも、俯向(うつむ)いた男の鼻の先きに宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
「随分色々と苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、私の方も御承知の通りでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、有ったけのものを払ったりして、漸(ようや)く間に合はせた位だったもんですから……」
なお云おうとするのを木村は忙しく打ち消すように遮(さえぎ)って、
「それは十分分っています」
と顔を上げた拍子に涙の雫がぽたりと鼻の先きからズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いた為めに妙に脹(は)れぼつたく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先きが急に気になり出して、悪いとは知りながらも、兎もするとそこへばかり眼が行った。
木村は何から如何(どう)話し出していいか分らない様子だった。
「私の電報をビクトリヤで受取ったでしょうね」
などともてれ隠しのように云った。葉子は受取った覚えもない癖にいい加減に、
「ええ、難有(ありがと)う御座いました」
と答えておいた。而して一時(いっとき)も早くこんな息気(いき)づまるように圧迫して来る二人の間の心のもつれから逃れる術(すべ)はないかと思案していた。
「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったと云っていましたが、一体何処が悪かったんです。嘸(さぞ)困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようおなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたは本当に知れんの受けつづけと云うもんですね。何処でした悪いのは」
葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけに病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌(い)みながら、当らずさわらず、前からあった胃病が、船の中の食物と気候との変った為めに、段々嵩じて来て起きられなくなったように云い繕(つくろ)つた。木村は痛ましそうに眉(まゆ)を寄せながら聞いていた。
葉子はもうこんな程々な会話には堪え切れなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台時代や、母の死というような事にも可なり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変える為めに強いていくらか快活を装って、
「それはそうとこちらの事業はいかが」
と仕事とか様子とか云う代りに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
木村の顔付は見る見る変った。而して胸のポッケットに覗(のぞ)かせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわりと丸めておいて、ちんと鼻をかんでから、又器用にそれをポッケットに戻すと、
「駄目です」
といかにも絶望的な調子で云ったが、その眼は既に笑っていた。桑港(サンフランシスコ)の領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視(しっし)が激しいので、桑港での事業の目論見は予期以上の故障に遇(あ)って大体失敗に終った事、思い切った発展は矢張り想像通り米国の西部よりも中央、殊にシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸に、桑港で自分の話に乗ってくれる或る手堅い独逸(ドイツ)人に取次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見出しかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしている可(か)なりの鉄物商の店に先ず住み込んで米国に於ける取引きの手心を呑み込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直(じか)取引を始める算段であるという事、シカゴの住いはもう決って、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋の明いた部分を又貸しすれば、大して高いものにもつかず、住(すま)い便利は非常にいいという事……そう云う点にかけては、中々綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変って来ると、葉子は始めて泥の中から足を抜き上げたよおうな気軽な心持になって、ずっと木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞耳を立てていた。木村の容貌は暫くの間に見違える程refineされて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのする程磨(みが)きがかけられて、日本人とは思えぬまでに滑らかなのに、油で綺麗に分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪には又見られぬような趣きのある対照をその白皙(はくせき)の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも気のつかぬ凝(こ)り方を見せていた。
「会いたてからこんな事を云うのは恥かしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにも碌々(ろくろく)旅費がない騒ぎでしょう」
と云ってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。その癖木村の胸にはどっしりと重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村の云う事を聞きながらその指に眼をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取交(とりかわ)した純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれを嵌(は)めていなかったのを思い出して、何喰わぬ様子で木村の膝の上から手を引込めて顎(あご)まで布団を被(かぶ)ってしまった。木村は引込られた手に追いすがるように椅子を乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。
「葉子さん」
「何?」
又Love-sceneか。そう思って葉子はうんざりしたけれども、すげなく顔を背(そむ)ける訳にも行かず、やや当惑していると、折よく事務長が型ばかりのノックをして這入って来た。葉子は寝たまま、眼でいそいそと事務長を迎えながら、
「まあ好(よ)うこそ……先程は失礼。何んだか下らない事を考え出していたもんですから、つい我儘をしてしまって済みません……お忙しいでしょう」
と云うと、事務長はからかい半分の冗談をきっかけに、
「木村さんの顔を見るとえらい事を忘れていたに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、私ゃビクトリヤのどさくさでころりと忘れとったんだ。済まん事でした。こんな皺(しわ)になりくさった」
と云いながら、左のポッケットから折目に煙草の粉がはさまって揉みくちゃになった電報紙を取出した。木村は先刻葉子がそれを見たと確かに云ったその言葉に対して、怪訝(けげん)な顔付をしながら葉子を見た。些細(ささい)な事ではあるが、それが事務長にも関係を持つ事だと思うと、葉子も一寸どぎまぎせずにはいられなかった。然しそれは唯一瞬間だった。
「倉地さん、あなたは今日少し如何(どう)かなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃんと拝見したじゃありませんか」
と云いながらすばやく眼くばせすると、事務長はすぐ何か訳があるのを気取(けど)ったらしく、巧みに葉子にばつを合せた。
「何?あなた見た?……おおそうそう……これは寝呆(ねぼ)け返っとるぞ、はゝゝゝ」
而して互に顔を見合わせながら二人はしたたか笑った。木村は暫く二人をかたみがわりに見較(みくら)べていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性に可笑(おか)しくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を眼の前に据えておきながら、互の感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
然しこんな悪戯(いたずら)めいた事の為めに話は一寸途切れてしまった。下らない事に二人から湧(わ)き出た少し仰山(ぎょうさん)過ぎた笑いは、かすかながら木村の感情を害(そこ)ねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向いになるのが得策(とくさく)だと思ったので、程もなく生真面目な顔付に返って、枕の下を探(さぐ)って、そこに居れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
「これをあなたに古藤さんから。古藤さんには随分お世話になりましてよ。でもあの方のぶざま加減ったら、それはじれったい程ね。愛や貞の学校の事もお願みして来たんですけれども心許(こころもと)ないもんよ。きっつと今頃は喧嘩腰(けんかごし)になって皆んなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分の方に移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけにした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っていると云わんばかりに、色々と話し出した。事務長は暫く風向きを見計って立っていたが突然部屋を出て行った。葉子はすばやくその顔色を窺(うかが)うと妙にけわしくなっていた。
「一寸失礼」
木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断って、古藤の手紙の封を切った。西洋罫紙(けいし)にペンで細かく書いた幾枚かの可なり厚いもので、それを木村が読み終るまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、お甲板で盛んに荷揚げしている人足等の騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根を寄せながら、手紙を読み耽(ふ)ける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色が往ったり来たりした。読み終ってからほっとした溜息と共に木村は手紙を葉子に渡して、
「こんな事を云ってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」
と云った。葉子は別に読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うので兎に角眼を通して見た。
「僕は今度位不思議な経験を甞め(な)めた事はない。兄が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思っても出来はしないが、若(も)し明白に云わせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
「僕は女の心には全く触れた事がないと云っていい程の人間だが、若し僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――若しそんなのが恋と云えるなら――大分余裕があると思うね」
「これが女のtactというものかと思ったような事があった。然し僕には解らん」
「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎしてしまって碌々(ろくろく)物も云えなくなる。処(ところ)が葉子さんの前では全く異った感じで物が云える。これは考えものだ」
「葉子さんという人は兄が云う通り優れた天賦(てんぶ)を持った人のようにも実際思える。然しあの人は何処(どこ)か片輪じゃないかい」
「明白に云うと僕はああ云う人は一番嫌いだけれども、同時に又一番牽(ひ)き附けられる、僕はこの矛盾を解きほごして見たくなって堪らない。僕の単純を許してくれ給え。葉子さんは今までの何処かで道を間違えたのじゃないか知らん。けれどもそれにしては余り平気だね」
「神は悪魔に何一つ与えなかったがAttractionだけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんのAttractionは何処から来るんだろう。失敬々々。僕は乱暴を云い過ぎてるようだ」
「時々は憎べき人間だと思うが、時々は何んだか可哀そうで堪(たま)らなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、恐らく唾(つば)でも吐きかけたくなるだろう。あの人は可哀そうな人の癖に、可哀そうがられるのが嫌いらしいから」
「僕には結局葉子さんが何が何んだかちっとも分らない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。然しこうなった以上は、兄は全力を尽して彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄等の生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」
こんな文句が断片的に葉子の心に沁みて行った。葉子は激しい侮蔑(ぶべつ)を小鼻に見せて、手紙を木村に戻した。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見透(みすか)そうとあせるような表情が現われていた。
「こんな事を書かれてあなた如何(どう)思います」
葉子は事もなげにせせら笑った。
「如何も思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
木村の意気込みは然しそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子は面倒くさくなって少し険(けわ)しい顔になった。
「古藤さんの仰有る事は古藤さんの仰有る事。あなたは私と約束なさった時から私を信じ私を理解して下さっていらっしゃるんでしょう」
木村は恐ろしい力をこめて、
「それはそうですとも」
と答えた。
「そんならそれで何も云う事はないじゃありませんか。古藤さんなどの云う事――古藤さんなんぞに分られたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱり何処か私を疑っていらっしゃるのね」
「そうじゃない……」
「そうじゃない事があるもんですか。私一旦こおうと決めたら何処までもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちの隅(すみ)あっちの隅と小さな事を捕えて尤(とが)めだてを始めたら際限はありませんさ。そんな馬鹿な事ったらありませんわ。私見たいな気随(きずい)な我儘者はそんな風にされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょう。私がこんなになったのも、つまり、皆んなで寄ってたかって私を疑い抜いたからです。あなただってやっぱりその一人かと思うと心細いもんですのね」
木村の眼は輝いた。
「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
而して自分が米国に来てから嘗め尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそ出来たので、若し葉子がそれに同情と鼓舞(こぶ)とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく訊いていたが、
「うまく仰有るわ」
と留(とど)めをさしておいて、暫(しばら)くしてから思い出したように、
「あなた田川の奥さんにお遇(あ)いなさって」
と尋ねた。木村はまだ遇わなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
「いまに屹度(きっと)お遇いになってよ。何時所にこの船でいらしったんですもの。而して五十川(いそがわ)の小母さんが私の監督をお頼みになったんですもの。一度お遇いになったらあなたは屹度私なんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
「如何してです」
「まあお遇いなさって御覧なさいまし」
「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」
「えゝえゝえゝ沢山しましたとも」
「田川夫人に?あの賢夫人の批難を受けるとは、一体どんな事をしたんです」
葉子はさも愛想が尽きたという風に、
「あの賢夫人!」
と云いながら高々と笑った。二人の感情の糸は又も糾(もつ)れてしまった。
「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、私から申しておく方が早手廻しですわね」
と葉子は半分皮肉な半分真面目な態度で、横浜出帆以来夫人から葉子が受けた暗々裡(あんあんり)の圧迫に尾鰭(おひれ)をつけて語って来て、事務長と自分との間に何か当り前でない関係でもあるような疑いを持っているらしいと云う事を、他人事(ひとごと)でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、然し葉子に特有な火のような情熱があ閃(ひらめ)いて、その眼は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやりと聞いていた。言葉だけにも何処までも冷静な調子を持たせ続けて葉子は総てを語り終ってから、
「同じ親切にも真底(しんそこ)からのと、通り一遍のと二つありますわね。その二つが如何(どう)かしてぶつかり合うと、毎時(いつ)でも本当の親切の方が悪者扱いにされたり、邪魔者に見られるんだから面白う御座んすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、如何しましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度々々食堂にはお出になるのに、一度も私の方へはいらっしって下さらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いも尤(もっと)もと云えば尤もですの。それに私が胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情して下さって、色々として下さるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけが私を親切にしてくださって、外の方は皆んな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げて下さる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げ方が一番足りなかったんでしょうよ」
と言葉を結んだ。木村は唇を噛(か)むように聞いていたが、いまいましげに、
「判(わか)りました判りました」
合点(がてん)しながらつぶやいた。
葉子は額の生(は)え際(ぎわ)の短い毛を引張っては指に捲いて上眼で眺めながら、皮肉な微笑を唇のあたりに浮ばして、
「おわかりになった?ふん、如何ですかね」
と空嘯(そらうそぶ)いた。
木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
「私が悪かった。私は何処までもあなたを信ずる積りでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えて下さい。私は親類や友人の総ての反対を犯して此処まで来ているのです。もうあなたなしには私の生涯は無意味です。私を信じて下さい。屹度十年を期して男になって見せますから……若(も)しあなたの愛から私が離れなければならんような事があったら……私はそんな事を思うに堪えない……葉子さん」
木村はこう云いながら眼を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずる程だった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果て、葉子の前に誓を立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一隅に感ぜずにはいられなかった。然しそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭(せば)めたものは、底のない物凄(ものすご)う不安だった。木村とは如何しても連れ添う心はない。その木村に……葉子は溺れた人が岸辺を望むように事務長を思い浮べた。男というものの女に与える力を今更に強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。然し……如何にでもなれ。如何かしてこの大事な瀬戸を漕ぎぬけなければ浮ぶ瀬はない。葉子は大(だい)それた謀反人(むほんにん)の心で木村のcaressを受くべき身構え心構えを案じていた。


二〇[編集]

船の着いたその晩、田川夫妻は見舞の言葉も別れの言葉も残さずに、大勢の出迎人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋を訪ずれて来たものが数人はあったけれども、葉子は如何にも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、後まで心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来て、狭っつこいboudoirのような船室で晩(おそ)くまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度程岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方(せんかた)なくボストンの方に旅立つ用意をするだろう。而して軈(やが)て自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしても何んという上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのも然し束(つか)の間で、その追憶は心の戸を敲(たた)いたと思うと果敢(はか)なくも何処かに消えてしまった。今は唯木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動(こゆる)ぎもせず蹲(うずくま)っているのみだった。
荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いた後の絵島丸は、泣きわめく遺族らに取り囲まれた虚(うつ)ろな死骸のように、がらんと静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧(ざっとう)の間に淋しく横わっている。
水夫が、輪切りにした椰子(やし)の実で汚れた甲板を単調にごしごしごしごしと擦(こす)る音が、時というものをゆるゆる磨(す)り減(へ)らすやすりのように日がな日ねもす聞こえていた。
葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供染みた考えの外には、おかしい程その外の興味を失ってしまって、他郷の風景に一瞥(いちべつ)も与えることも厭(いと)わしく、自分の部屋の中に籠り切って、ひたすら発船の日を待ち侘(わ)びた。尤も木村が毎日米国という香を鼻をつくばかり身の廻りに漂わせて、葉子を訪ずれて来るので、葉子はうっかり寝床を離れる事も出来なかった。
木村は来る度毎(たびごと)に是非米国の医者に健康診断を頼んで、大事がなければ思い切って検疫官(けんえきかん)の検疫を受けて、兎も角も上陸するようにと勧めて見たが、葉子は何処までもいやを云い通すので、二人の間には時々危険な沈黙が続く事も珍らしくなかった。葉子は然し、何時(いつ)でも手際(てぎわ)よくその場所々々を操(あやつ)って、それから甘い歓語を引き出すだけの機才(ウイツト)を持ち合していたので、この一ヵ月程見知らぬ人の間に立ち交って、貧乏の屈辱を存分に嘗(な)め尽した木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄(ぶとう)やバナナを器用に経木(きょうぎ)の小籃(かご)に盛ったり、美しい花束を携(たずさ)えたりして、葉子の朝化粧がしまったかと思う頃には木村が欠かさず尋ねて来た。而して毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞き糺(ただ)した。興録はいい加減な事を云って一日延ばしに延ばしているので堪(たま)らなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりも更に要領を得ない受け答えをした。仕方なしに木村は途方に暮れて、又葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種にした。
葉子は何んと云う事なしに、木村を困らして見たい、いじめて見たいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣(あくらつ)な手で思うさま飜弄(ほんろう)して見せるのを眺めて楽しむのが一種の痼疾(こしつ)のようになった。而して葉子は木村を通して自分の過去の総てに血の滴(したた)る復讐を敢てしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよく何処かでうろ覚えにしたクレオパトラの挿話(そうわ)を思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷を目の前に引き出さして、それを毒蛇の餌食(えじき)にして、その幾人もの無辜(むこ)の人々が悶(もだ)えながら絶命するのを、眉も動かさずに見ていたという挿話を思い出していた。葉子には過去の総ての呪詛(じゅそ)が木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母を虐(しいた)げ、五十川女史の術数(じゅつすう)、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦(きゆ)、女の苟合(こうごう)などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心が企(たくら)み出す残虐(ざんぎゃく)な仕打ちのあらん限りを瀉(そそ)ぎかけようとするのであった。
「あなたは丑(うし)の刻参(こくまい)りの藁人形(わらにんぎょう)よ」
こんな事を如何かした拍子に面と向つて木村に云って、木村が怪訝(けげん)な顔でその意味を酙(く)みかねているのを見ると、葉子は自分にも訳の分らない涙を眼に一杯溜めながらヒステリカルに笑い出すような事もあった。
木村を払い捨てる事によって、蛇が殻を抜け出ると同じに、自分の総ての過去を葬ってしまうことが出来るようにも思いなして見た。
葉子は又事務長に、どれ程木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の眼の前では随分乱暴な事を木村に云ったりさせたりした。時には事務長の方が二人を見兼ねて二人の間をなだめにかかる事さえある位だった。
或る時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合せた事があった。葉子は枕許(まくらもと)の椅子に木村を腰かけさせて、東京を発(た)った時の様子を委(くわ)しく話して聞かせている所だったが、事務長を見るといきなり様子をかえてさもさも木村を疎(うと)んじた風で、
「あなたは向うにいらしって頂戴」
と木村を向うのソファに行くように眼で指図して、事務長をその跡に坐らせた。
「さ、あなたこちらへ」
と云って仰向けに寝たまま上眼をつかって見やりながら、
「いいお天気のようですことね。……あの時々ごーっと雷のような音のするのは何?……私うるさい」
「トロですよ」
「そう……お客様がたんとおありですってね」
「さあ少しは知っろつものがあるもんだで」
「昨夕(ゆうべ)もその美しいお客がいらしったの?とうとうお話にお見えにならなかったのね」
木村を前に置きながら、この無謀(むぼう)とさえ見える言葉を遠慮会釈(えしゃく)もなく云い出すのには、さすがの事務長もぎょっとしたらしく、返事も碌々しないで木村の方を向いて、
「どうですマッキンレーは。驚いた事が持上りおったもんですね」
と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなった或る日、当時の大統領マッキンレーは兇徒の短銃に斃(たお)れたので、この事件は米国での噂(うわさ)の中心になっているのだった。木村はその当時の模様を委しく新聞紙や人の噂で知り合せていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子は膠(にべ)もなく遮(さえぎ)って、
「何んですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかし位ではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しい方です。亜米利加生粋(きっすい)の人ってどんななんでしょうね。私、見たい。遇わして下さいましな今度来たら。ここに連れて来て下さるんですよ。他(ほか)のものなんぞ何んにも見たくはないけれど、是(こ)ればかりは是非見とう御座んすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあ野暮(やぼ)なもんですことよ」
と云って、木村のいる方を遥かに下眼(しため)で見やりながら、
「木村さんどう?こっちにいらしってからちっとは女のお友達がお出来になって?Lady Friendというのが?」
「それが出来んで堪(たま)るか」
と事務長は木村の内行(ないこう)を見抜いて裏書きするように大きな声で云った。
「所が出来ていたらお慰み、そうでしょう?倉地さんまあこうなの。木村が私を貰いに来た時にはね。石のように堅く坐りこんでしまって、まるで命の取りやりでもし兼ねない談判の仕方ですのよ。その頃母は大病で臥(ふせ)っていましたの。何んとか母に仰有ってね、母に。私、忘れちゃならない言葉がありましたわ。ええと……そうそう(木村の口調を上手に真似ながら)『私、若し外の人に心を動かすような事がありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」
木村は少し怒気をほのめかす顔付をして、遠くから葉子を見詰めたまま口をきかないでいた。
事務長はからからと笑いながら、
「それじゃ木村さんは今頃は神様の前にいいくら加減罪人になっとるでしょう」
と木村を見返したので、木村も已むなく苦(にが)り切った笑いを浮べながら、
「己れを以て人を計る筆法ですね」
と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしては稍々(やや)軽過ぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強過ぎるので、木村の顔色は妙にぎこちなくこだわてしまって何時までも晴れなかった。葉子は唇だけに軽い笑いを浮べながら、胆汁(たんじゅう)の漲(みなぎ)ったようなその顔を下眼で快(こころよ)げにまじまじと眺(なが)めやった。而して苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透かしていた。
やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉をひそめて快からぬ顔をして木村を、強いて又旧(もと)のように自分の側近くに坐らせた。
「いやな奴っちゃないの。あんな話でもしていないと、外に何んにも話の種のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
と云いながら、事務長にしたように上眼に媚(こび)を集めてじっと木村を見た。然し木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようと企らむわざとな改まり方も見えた。葉子は悪戯者(いたずらもの)らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた眼付で眺め続けた。木村の心の奥には何か云い出して見たい癖に、何んとなく腹の中が見透かされそうで、云い出しかねている物があるらしかったが、途切れ勝ちながら話が小半時(こはんとき)も進んだ時、とてつもなく、
「事務長は、何んですか、夜になってまであなたの部屋に話しに来る事があるんですか」
とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾は我れにもなく震えていた。葉子は陥穽(わな)にかかった無智な獣を憫(あわれ)み笑うような微笑を脣に浮べながら、
「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えても御覧なさいまし。さき程私が云ったのは、この頃は毎晩夜になると暇なので、あの人達が食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声で色んな下らない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それに作者(ゆうべ)あの人が来なかったからからかってやっただけなんですのよ。この頃は質(たち)の悪い女までが隊を組むようにしてどっさりこの船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」
木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子は可愛い眼を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。而して事務長が這入(はい)って来た時途切らした話の糸口を見事に忘れずに拾い上げて、東京を発つ時の模様を又仔細(しさい)に話しつづけた。
こうした風で葛藤(かっとう)は葉子の手一つで勝手に紛(まぎ)らされたりほごされたりした。
葉子は一人の男をしっかりと自分の把持(はじ)の中に置いて、それが猫が鼠でも弄(な)ぶるように、勝手に弄ぶって楽しむのをやめる事が出来なかったと同時に、時々は木村の顔を一眼見たばかりで、虫唾(むしず)が走る程厭悪(えんお)の情に駆り立てられて、我れながら如何(どう)していいか分らない事もあった。そんな時には一図(いちず)に腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れに有り合せたものを取って床の上に抛(ほう)ったりした。もう何もかも云ってしまおう。弄(もてあそ)ぶにも足らない木村を近づけておくには当らない事だ。何もかも明かにして気分だけでもさっぱりしたいとそう思う事もあった。然し同時に葉子は戦術家の冷静さを以て、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃してはならない。「宿屋きめずに草鞋(わらじ)を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのをも思い出したりして、葉子は一人でも苦笑いもした。
そうだ、まだ木村を逃してはならぬ。葉子は心の中に書き記(しる)してでも置くように、上眼を使いながらこんな事を思った。
また或る時葉子の手許(てもと)に米国の切手貼られた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞ宛てて手紙をよこす人はない筈だがと思って開いて見ようとしたが、又例の悪戯な心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手(すで)で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。而してどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶を残したまま上陸した岡から来たものだった。如何(いか)にも人柄に不似合いな下手な字体で、葉子がひょっとすると上陸を見合せてそのまま帰るという事を聞いたが、若しそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみた仕業とお笑いになるかも知れないが、自分は如何(どう)考えて見てもそれより外に道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子と生れながら、体が弱いのと母が継母である為めに、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事は出来ぬ。兄妹のない自分には葉子が前世(ぜんせ)からの姉とより思われぬ。自分を憐れんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけの憐れみを得たいばかりに、家族や後見人の譏(そし)りも何んとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んで貰いたい。という事が、少し甘い、然し真率(しんそつ)な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。それを聞いていたが、そんな人なら是非遇ってはなしをして見たいと云い出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。而して木村が嫉妬(しっと)と憤怒(ふんぬ)とで真黒になって帰って来た時、それを思うまま操って又元の鞘(さや)に納めて見せよう。そう思って葉子は木村の云うままに任せて置いた。
次の朝、木村は深い感激の色を湛(たた)えて船に来た。而して岡と会見した時の様子を委しく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいと云って困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬うようにもてなして、稍々(やや)落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬(どうけい)の程を打ち明けたので、木村は自分の云おうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切な情にほだされて、貰い泣きまでしてしまった。二人は互に相憐れむというようななつかしみを感じた。是れを縁に木村は何処までも岡を弟とも思って親しむ積りだ。が、日本に帰る決心だけは思い止るように勧めて置いたと云った。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつを想像に任せて、はしたなく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事に就(つ)いては何んとも云わなかった。葉子の期待は全く外(はず)れてしまった。役者下手(べた)な為めに、折角の芝居が芝居にならずにしまったことを物足らなく思った。然しこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮ぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車な青春の姿がどうかするといとし思い出となって、葉子の心の隅に潜(ひそ)むようになった。
船がシヤトルに着いてから五六日経って、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。その頃から木村は突然傍目(わきめ)にもそれと気が附く程考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落して慌(あわ)てたりする事があった。而して或る時とうとう一人胸の中には納めていられなくなったと見えて、
「私にゃあなたが何故あんな人と近しくするか分りませんがね」
と事務長の事を噂のように云った。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのを殊更(ことさら)誇張して脇腹を左手で押えて、眉をひそめながら聞いていたが、尤もらしく幾度も点頭(うなず)いて、
「それは本当に仰有(おっしゃ)る通りですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまで随分世話になっていますしね、それにああ見えていて思いの外親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でも怖(こわ)がりながらなついていますわ。おまけに私お金まで借りていますもの」
とさも当惑したらしく云うと、
「あなたお金は無しですか」
木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
「それはお話したじゃありませんか」
「困ったなあ」
木村は余程困り切ったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまま暫く思案に暮れていたが、
「いくら程借りになっているんです」
「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますか知らん」
「あなたは金は全く無しですね」
木村は更に繰返して云って溜息気(ためいき)をついた。
葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
「それに万一私の病気がよくならないで、一先ず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、先(さ)き先(ざ)きまでの考えをつけておくのが旅にあれば一番大事ですもの」
木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、何んにも云わず、身動きもせず考え込んでいた。
葉子は術(すべ)なさそうに木村のその顔を面白く思いながらまじまじと見やっていた。
木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。而して黙ったまま深々と歎息した。
「葉子さん。私は何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身の為めばかり思っても云う方がいいかとも思うんですが……」
「では仰有って下さいましな何んでも」
葉子の口は少し親しみを籠めて冗談らしく答えていたが、その眼からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事を苟(いやし)くも云って見るがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその眼はたしかに云っていた。
木村は思わず自分の眼をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも眼で続けさまに木村の顔を鞭(むち)うった。君等はその笞(しもと)の一つ一つを感ずるようにどぎまぎした。
「さ、仰有って下さいまし……さ」
葉子はその言葉には何処までも好意と信頼とを罩(こ)めて見せた。木村は矢張り躊躇(ちゅうちょ)していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。而して半分起き上ってその耳に近く口を寄せながら、
「あなた見たいに水臭い物の仰有り方をなさる方もないもんね。何んとでも思っていらっしゃる事を仰有って下さればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いいえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだか仰有って下さいまし、ね、さ。何んでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おお痛い……一寸此処のところを押えて下さいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
と云いながら、眼をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹(ひばら)を押えさして、つらそうに歯を喰いしばってシーツに顔を埋めた。肩でつく息気がかすかに雪白(せっぱく)のシーツを震わした。
木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。


二一[編集]

絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜(ともづな)を解いて帰航する筈になっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子は如何(どう)しいても一先ず帰国させる方が安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心(したごころ)を朧(おぼ)ろげながら見て取って、それを飜(ひるが)えす事は出来ないと諦めていた。運命に従順な羊のように、然し執念(しゅうね)く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来る様はすさまじいものだった。海岸線に沿うて遥か遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷりと雪がかかって、穏やかな崩れた色の寒い霰雲(あられぐも)に変って、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海沿いに生え揃(そろ)った亜米利加松の翠(みどり)ばかりが毒々しい程黒ずんで、眼に立つばかりで、濶葉樹(かつようじゅ)の類は、何時の間にか、葉をを払い落した枝先きを針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並があると思われる辺からは――船の繫(つな)がれている処から市街は見えなかった――急に煤煙(ばいえん)が立ち増さって、忙(せ)わしく冬支度を整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来る真白な寒気に対して覚束(おぼつか)ない抵抗を用意するよに見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き廻る人々の姿にも、不安と焦燥(しょうそう)との窺(うかが)われる忙(せ)わしい自然の移り変りの中に、絵島丸は慌(あわた)だしい発航の準備をし始めた。絞盤(こうばん)の歯車のきしむ音が船首と船尾からやかましく冴(さ)え返って聞こえ始めた。
木村はその日も朝から葉子を訪ずれて来た。殊に青白く見える顔付は、何かわくわくと胸の中に煮え返る想(おも)いをまざまざと裏切って、見る人の憐れを誘う程だった。背水の陣と自分でも云っているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払(おあら)いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、何時でも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手許(てもと)には些(いささ)かの銭も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあてにしていたのが見事に外(はず)れてしまって、葉子が帰るにつけては、無けなしの所から又々何んとかしなければならないはめに立った木村は、二三日の中に、糠(ぬか)喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかった。
葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来る外に道のない事を察していた。
木村は果して事務長を葉子の部屋に呼び寄せ手もらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何か余程せわしそうに見えた。木村はまあと云って倉地に椅子を与えて、今日は毎時(いつも)のすげない態度に似ず、折入って色々と葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙しそうだった様子に引きかけて、どっしりと腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身(しんみ)に耳を傾けた。木村の様子の方が却ってそわそわしく眺めやられた。
木村は大きな紙入れを取り出して、五十弗(ドル)の切手を葉子に手渡しした。
「何もかも御承知だから倉地さんの前で云う方が世話なしだと思いますが、何んと云ってもこれだけしか出来ないんです。こ、これです」
と云って淋しく笑いながら、両手を出して拡げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまで嵌(は)められていた指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」と云った。
「葉子さん、私はどうにでもします。男一匹なりゃ何処にころがり込んだからって、――そんな経験も面白い位のものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目もないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいい加減世話をしていただいて何んとも済みませんが、私共二人はお打ち明け申した処、こう云うていたらくなんです。横浜へさえおとどけ下さればその先きは又如何(どう)にでもしますから、若し旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑序(ついで)に何んとかしてやって頂く事は出来ないでしょうか」
事務長は腕組みをしたまままじまじと木村の顔を見やりながら聞いていたが、
「あなたはちっとも持っとらんのですか」
と聞いた。木村はわざと快活に強(し)いて高く笑いながら、
「綺麗なもんです」
と又チョッキをたたくと、
「そりゃいかん、何、船賃なんぞ入りますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配入りませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文なしでは心細いもんですよ」
と例の塩辛声(しおからごえ)でやや不機嫌らしく云った。その言葉には不思議に重々しい力が罩(こも)っていて、木村は暫く彼是れと押問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直(すぐ)な心から色々と旅中の世話を頼みながら、又大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
「よしよしそれで何も云う事はなし。早月(さつき)さんはわしが引受けた」
と不敵な微笑を浮べながら、事務長は始めて葉子を見返った。
葉子は二人を眼の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。当り前なら、葉子は大抵の場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。如何(どん)な時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっとなって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇も惨め(みじ)めな程便りない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にも湧いて来なかった。齢(とし)の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能の華(はな)やかさというようなものを便りにする男達の蠱惑(こわく)の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵の如く対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
何んという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり不自由な浮世のどん底に放(ほう)り出されながら、めげもせずにせっせと働いて、後指をさされないだけの世渡りをして、誰からも働きのある行方頼母(たのも)しい人と思われながら、それでも心の中の淋しさを打ち消す為めに思い入った恋人は仇(あだ)し男に反(そむ)いてしまっている。それを又そうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決った約束をのがすまいとしている。……葉子は強いて自分を説服するようにこう考えて見たが、少しも身にしみた感じは起って来ないで、動(やや)もすると笑い出したいような気にすらなっていた。
「よしよしそれで何も云う事はなし。早月さんはわひが引き受けた」
という声と不敵な微笑とがどやすように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮べてそれに応じようとした。が、その瞬間、眼ざとく木村の見てるのに気がついて、顔には笑いの影は微塵(みじん)も現わさなかった。
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙(せわ)しいで行きますよ」
ぶっきらぼうに云って事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、暫くは互に顔を見合わすのも憚(はばか)って黙ったままでいた。
事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事が丸で芝居でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼(せま)って来た。葉子の眼には木村を憐れむとも自分を憐れむとも知れない涙がいつの間にか宿っていた。
木村は痛ましげに黙ったままで暫く葉子を見やっていたが、
「葉子さん今になってそう泣いて貰っちゃ私が堪りませんよ。機嫌を直して下さい。又いい日も廻って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるか如何か知らないが――お母さんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合には尚更(なおさら)同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこに私は撓(たゆ)まない希望をつないで行きます」
決心した所があるらしく力強い言葉でこう云った。何の希望!葉子は木村の事については、木村の所謂神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望に而(そう)して絶望に終るだけのものだ。何の信仰!何の希望!木村は葉子が据えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇り降りする雲の梯(かけはし)のように思っている。ああ何の信仰!
葉子はふと同じ眼を自分に向けて見た。木村を勝手気儘にこづき廻す威力を備えた自分は又誰に何者に勝手にされるのだろう。何処かで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命を操っている。木村の希望が果敢なく断ち切られる前、自分の希望が逸早(いちはや)く断たれてしまわないとどうして保障する事が出来よう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつの間にか純な感情に捕えられていた。
「木村さん、あなたは屹度(きっと)、仕舞には屹度祝福をお受けになります……どんな事があつても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善い方が不幸にばかりお遇(あ)いになる訳がありませんわ。……私が生れるときから呪われた女なんですもの。神、本当は神様を信ずるより……信ずるより憎む方が似合っているんです……ま、聞いて……でも、私卑怯(ひきょう)はいやだから信じます……神様は私見たいなものを如何(どう)なさるか、しっかり眼を明いて最後まで見ています」
と云っている中に誰にともなく口惜しさが胸一杯にこみ上げて来るのだった。
「あなたはそんな信仰はないと仰有るでしょうけれども……でも私にはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
と云ってきっぱり思い切ったように、火のように熱く眼に溜ったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゆっと押拭いながら、暗然(あんぜん)と頭を垂(た)れた木村に、
「もうやめましょうこんなお話。こんな事を言ってると、云えば云う程先きが暗くなるばかりです。ほんとに思い切って不仕合せなひとはこんな事をつべこべと口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分の方から滅入(めい)ってしまって、私の云った事位で何んですねえ、男の癖に」
木村は返事もせずに真青になって俯向(うつむ)いていた。
そこに「御免なさい」と云うかと思うと、いきなり戸を開けて這入って来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先きをくじかれながらも、見ると、何日(いつ)ぞや錨鋼で足を怪我した時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚(びっこ)になっていた。而して水夫のような仕事には迚(とて)も役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持って兎(と)に角(かく)暮しを立てている甥(おい)を尋ねて厄介(やっかい)になる事になったので、礼かたがた暇乞(いとまご)いに来たというのだった。葉子は紅くなった眼を少し恥かしげにまたたかせながら、色々と慰めた。
「何ねこう老いぼれちゃ、こんな家業をやってるがてんでうそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とが可哀そうだと云って使ってくれるで、いい気になったが罰があたったんだね」
と云って臆病に笑った。葉子がこの老人を憐れみいたわる様は傍目(わきめ)にもいじらしかった。日本には伝言を頼むゆな近親(みより)さえない身だというような事を聞く度に、葉子は泣き出しそうな顔をして合点々々(がてんがてん)していたが、仕舞には木村の止めるのも聞かず寝床から起き上って、木村の持って来た果物をありったけ籃(かご)につめて、「陸(おか)に上ればいくらもあるんだるけれども、これを持ってお出で。而してその中に果物でなく這入っているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
と云ってそれを渡してやった。
老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかな普段の気分になった。而して例の悪戯らしいにこにこした愛嬌(あいきょう)を顔一面に湛えて、
「何んという気さくなんでしょう。私、あんなお爺さんのお内儀(かみ)さんになって見たい……だからね、いいものを遣(や)っちまった。
きょとりとしてまじまじ木村のむっつりとした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
「あなたから頂いたエンゲーシ・リングね、あれをやりましてよ。だって何んにも無いんですもの」
何んとも云えない媚(こび)をつつむおとがいが二重になって、綺麗な歯並みが笑いの漣(さざなみ)のように唇の汀(みぎわ)い寄せたり返したりした。
木村は、葉子という女は如何(どう)してこうむら気で上すべりがしてしまうのだろう。情けないと云うような表情を顔一面に漲らして、何か云うべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたという風で、黙ったままでほっと深い溜息をついた。
それを見ると今まで珍らしく押えつけられてた反抗心が、又もや旋風のように葉子の心に起った「ねちねちさったらない」と胸の中でいらいらさせながら、序(つ)での事に少しいじめてやろうという企みが顔を擡(もた)げた。然し顔は何処までも前のままの無邪気さで、
「木村さんお土産(みやげ)を買って頂戴な。愛も貞もですけれども、親類達や古藤さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今頃は田川の奥さんの手紙が五十川の小母さんの所に着いて、東京では屹度大騒ぎをしているに違いありませんわ。発つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかんとしてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村も一体きむらじゃあいかと云われるのが、私、死ぬよりもつらいから、少しは驚く程のものを買って頂戴。先程のお金で相当のものが買(と)れるでしょう」
木村は駄々児(だだっこ)をなだめるようにわざとおとなしく、
「それは宜(よろ)しい、買えとなら買いもしますが、私はあなたがあれを纏(まとま)ったまま持って帰ったらと思っているんです。大抵の人は横浜に着いてから土産を買うんですよ。その方が実際恰好(かっこう)ですからね。持ち合せもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産は……あなた横浜の仕入れのものはすぐ知れますわ…・・御覧なさいあれを」
と云って棚の上にある帽子入れのボール箱に眼をやった。
「古藤さんに連れて行って頂いてあれを買った時は、随分吟味した積りでしたけれども、船に来てから見ている中にすぐ倦きてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿見たら、我慢にも日本で買ったものを被(かぶ)ったり着たりする気にはなれませんわ」
そう云っている中に木村は棚から箱をおろして中を覗(のぞ)いていたが、
「成程型はちっと古いようですね。だが品はこれならこっちでも上の部ですぜ」
「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほど見っともないんですもの」
暫くしてから、
「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
木村は慌てて弁解的に、
「いいえ、あれはどの道あなたに上げる積りでいたんですから……」
と云うのを葉子は耳にも入れない風で、
「ほんとに馬鹿ね私は……思いやりも何んにもない事を申上げてしまって、如何(どう)しましょうねえ。……もう私どんな事があってもそのお金だけは頂きません事よ。こう云ったら誰が何んと云ったって駄目よ」
きっぱり云い切ってしまった。木村は固(もと)より一度云い出したら後へは引かない葉子の性分を知り抜いていた。で、云わず語らずの中に、その金は品物にして持って帰らすより外に道のない事を観念したらしかった。


               *                    *                       *
その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋に来ると、葉子は何か気に障(さ)えた風をして碌々(ろくろく)もてなしもしなかった。
「とうとう形(かた)がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
と云う事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝(けげん)な顔付で見やっている。
「悪党」
と暫くしてから、葉子は一言これだけ云って事務長を睨(にら)めた。
「何んだ?」
と尻上りに云って事務長は笑っていた。
「あなた見たいな残酷な人間は私始めて見た。木村を御覧なさい可哀そうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」
「何?」
と事務長は尻上りに大きな声で云って寝床に近づいて来た。
「知りません」
と葉子はなお怒って見せようとしたが、いかにも刻(きざ)みの荒い、単純な、他意のな男の顔を見ると、体の何処(どこ)かが揺られる気がして来て、わざと引き締めて見せた唇の辺から思わずも笑いの影が潜(ひそ)み出た。
それを見ると事務長は苦い顔と笑った顔とを一緒にして、
「何んだい下らん」
と云って、電燈の近所に椅子をよせて、大きい長い脚を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて眼を通し始めた。
木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見える程だった。上向けた靴の大きさには葉子は吹き出したい位だった。葉子はで撫(な)でたりさすったりするようにして、この大きな子供見たような暴君の頭から足の先きまで見やっていた。ごわっごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積荷があらかた片付いた船室の夜は静かに更(ふ)けて行った。
葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締(しま)らない中にいくらか買物をして、それを小脇に抱えながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着く頃には、町々に燈(ひ)がともって、寒い靄(もや)と煙との間を労働者達が疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのに沢山出遇っているだろう。小さなストーヴに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電燈の光だけが、鞭(むち)うつようにがらんとした部屋の薄穢(うすぎたな)さを煌々(こうこう)と照しているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子に腰かけて、ストーヴの火を見つめながら木村が考えている。暫(しばら)く考えてから淋しそうに見るともなく部屋の中を見廻して、又ストーヴの火に眺め入るだろう。その中にあの涙の出易い眼からは涙がほろほろと留度もなく流れ出るに違いない。
事務長が音をたてて新聞を折り返した。
木村は膝頭(ひざがしら)に手を置いて、その手の中に顔を埋めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から眼を放して、上眼を使いながら木村の祈(いのり)の声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切ない祈の声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉を寄せて注意力を集中しながら、木村が本当にどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮べて見る事が出来なかった。
事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
葉子ははっとして淀みに支えられた木の葉が又流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それが段々岡の上に移って行った。哀れな岡!岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーヴの前に蹲(うずくま)っているのは……更けるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先きから這上って来る。男はそれにも気が付かぬ風で椅子の上にうなだれている。総ての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
ここまで想像して来ると小説に読み耽(ふけ)っていた人が、ほっと溜息をしてばたんと書物をふせるように、葉子も何とはなく深い溜息をしてはっきりと事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時の通り無関心のpathoosをかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地に云って見た。大きな声をするのも憚(はばか)られる程あたりはしんと静まっていた。
「う」
と返事はしたが事務長は煙草をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
やや暫くしてから事務長もほっと溜息して、
「どれ寝るかな」
と云いながら椅子から立って寝床に這入った。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかな鼾(いびき)が葉子の唇から漏れて来た。
倉地は暗闇の中で長い間まんじりともせず大きな眼を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけて見た。
然し葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の眼は尋常に眉の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の顙から黒血がどっくどくと流れた。男は死んでも物凄くにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めの中は声が小さかったが段々大きくなって数も殖えて来た。その「木村々々」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り捲(ま)き始めた。葉子は一心に手を振ってそこから遁(のが)れようとしたが手も足も動かなかった。
         木村……
       木村
     木村  木村……
   木村  木村
 木村  木村  木村……
   木村  木村
     木村  木村……
       木村
         木村……
ぞっとして寒気を覚えながら、葉子は闇の中に眼をさました。恐ろしく凶夢の名残は、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探(てさぐ)りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震える声で呼んで見たが男は深い眠りの中にあった。何んとも云えない気味悪さがこみ上げて来て、葉子は思い切り男の胸をゆすぶって見た。
然し男は材木のように感じなく熟睡していた。


二二[編集]

何処からか菊の香がかすかに通(かよ)って来たように思って葉子は快い眠りから眼を覚ました。自分の側には、倉地が頭からすっぽりと蒲団を被って、鼾も立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい華手(はで)な縮緬(ちりめん)の夜具の上にはもう大分高くなったらしい秋の日の光が障子(しょうじ)越しに射していた。葉子はお往復一ヵ月の余を船に乗り続けていたので、船脚の揺(ゆら)めきの名残りが残っていて、体がふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳の間に大きな軟(やわらか)い夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地よさは格別だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟かい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目を見やっているのも、珍らしい事のように快かった。
稍々(やや)小半時もそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかに乾いた空気を伝って葉子の部屋まで響いて来た。と、倉地がいきなり夜具をはね除(の)けて床の上に上体を立てて眼をこすった。
「九時だな今打ったのは」
と陸で聞くとおかしい程大きな塩がれ声で云った。どれ程熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子が何んの事はなく葉子を微笑(ほほえ)ました。
倉地が立つと、葉子も床を出た。而してその辺を片付けたり、煙草を吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋に帰って来た。而して制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとおれを手伝った。倉地特有な西洋風に甘ったるいような一種の匂いがその体にも服にもまつわっていた。それが不思議に何時でも葉子の心をときめかした。
「もう飯を喰っとる暇はない。又暫く忙(せわ)しいで木っ葉微塵だ。今夜は晩(おそ)いかも知れんよ。俺れ達には天長節も何もあったもんじゃない」
そう云われてみると葉子は今日が天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶(かんかつ)になった。
倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄(てすり)から下を覗いて見た。両側に桜並木のずっとならんだ紅葉坂は急勾配をなして海岸の方に傾いている、そこを倉地の紺羅紗(こんらしゃ)の姿が勢よく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅(しんく)に紅葉して、軒並みに掲(かか)げられた日章旗が、風のない空気の中に鮮やかに列(なら)んでいた。その間に英国の国旗が一本交って眺められるのも開港場らしい風情(ふぜい)を添えていた。
遠く海の方を見ると税関の桟橋に繋(もや)われた四艘(そう)程の汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸もまじっていた、真青に澄み亙った海に対して今日の祭日を祝賀する為めに檣(ほばしら)から檣にかけわたされた小旌(こばた)が翫具(おもちゃ)のように眺められた。
葉子は長い航海の始終を一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の身に起った大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々した心で手欄(てすり)を離れた。部屋には小ざっぱりと身支度をした女中が来て寝床を挙げていた。一間半の大床の間に飾られた大花活けには、菊の花が一抱え分も活けられていて、空気が動く度毎に仙人じみた香を漂わした。その香を嗅(か)ぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだと云う事がしっかり思わされた。
「いいお日和(ひより)ね。今夜あたりは忙(せわ)しんでしょう」
と葉子は朝飯の膳に向いながら女中に云って見た。
「はい今夜は御宴会が二つばかり御座いましてね。でも浜の方(かた)でも外務省の夜会に入来(いら)っしゃる方も御座いますから、たんと込み合いは致しますまいけれども」
そう応(こた)えながら女中は、昨夜遅く着いて来た、一寸得体の知れないこの美しい婦人の素性(すじょう)を探ろうとするように注意深い眼をやった。葉子は葉子で「浜」と云う言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
短くなってはいても、何んにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京へ帰るまでの間に、買物でも見て歩きたいのだけれども、土産物は木村が例の銀行切手を崩してあり余る程買って持たしてよこしたし、手許には哀れな程より金は残っていなかった。一寸でもじっとしていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに註文した華手(はで)過ぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。
「そうだ古藤に電話でもかけて見てやろう」
葉子はこれはいい思案だと思った。東京の方で親類達がどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事が如何(どう)響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事な事だった。そう葉子は思った。而して女中を呼んで東京に電話を繋ぐように頼んだ。
祭日であった故(せい)か電話は思いの外早く繋がった。葉子は少し悪戯(いたずら)らしい微笑を笑窪(えくぼ)の入るその美しい顔に軽く浮べながら、階段を足早に降りて行った。今頃になって漸(ようや)く床を離れたらし男女の客がしどけない風をして廊下の此処(ここ)彼処(かしこ)で葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には眼もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしりと戸をしめてしまった。而して受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
「あなた義一さん?ああそう。義一さんそれは滑稽(こっけい)なのよ」
ひとりでにすらすらと云ってしまって我れながら葉子ははっと思った。その時の浮々した軽い心持ちから云うと、葉子にはそう云うより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それでは余りに自分というものを明白にさらけ出していたのに気が付いたのだ。古藤は案の定答え渋っているらしかった。頓(とみ)には返事もしないで、ちゃんと聞えているらしいのに、唯(ただ)「何んです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の葉子を飲み込んだように思った。
「そんな事如何(どう)でもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
と云って見ると「ええ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけに殊更すげなく響いて来た。而して今度は古藤の方から、
「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
はっきり聞えて来た。葉子はすかさず、
「はあ会いましてよ。相変らず丈夫でいます。難有(ありがと)う。けれども本当に可哀相でしたのよ。義一さん……聞えますか。明後日(あさって)私東京へ帰りますわ。もう叔母の所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢(すきや)町のね、雙蔓館(そうかくかん)……つがいの鶴……そう、お分りになって?……雙蔓館に往きますから……あなた来て下される?……でも是非聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そう是非どうぞ。明々後日(しあさって)の朝?難有うきっとお待ち申していますから是非ですのよ」
葉子がそう云っている間古藤の言葉は仕舞まで奥歯に物のはさまったように重かった。而して動(やや)ともすると葉子との会見を拒(こば)もうとする様子が見えた。若し葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子の云う事を聞いてはいなかったかも知れないと思われる程だった。
朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つの為めに妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそは中々容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二分に覚悟して、その備えをしておいた積りではいたけれども、古藤の口うらから考えて見ると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにいられなかった。葉子は電話室を出ると今朝始めて顔を合わした内儀(おかみ)に帳場格子(こうし)の中から挨拶されて、部屋にも伺いに来ないで忸々(なれなれ)しく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、怱々(そうそう)三階に引上げた。
それからはもう本当に何んにもする事がなかった。唯倉地の帰って来るのばかりがいらいらする程待ちに待たれた。品川台場沖あたりで打出す祝砲が幽(かす)かに腹にこたえるように響いて、子供等は往来でその頃頻(しき)りにはやった南京(なんきん)花火をぱちぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中達ははしゃぎ切った冗談などを云いあらゆる部屋を明け放して、仰山(ぎょうさん)らしくはたきや箒(ほうき)の音を立てた。而して唯一人この旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除せずに、いきなり縁側に雑巾(ぞうきん)をかけたりした。それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。
「何処か掃除の済んだ部屋があるんでしょう。暫くそこを貸して下さいな。而してここも綺麗にして頂戴。部屋の掃除もしないで、雑巾がけなぞしたって何んにもなりはしないわ」
と少し剣を持たせて云ってやると、今朝来たのとは違う、横浜生れらしい、悪ずれのした中年の女中は、始めて縁側から立上って小面倒(こめんどう)そうに葉子を畳廊下一つ隔てた隣りの部屋に案内した。
今朝まで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢だの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋の隅(すみ)にはまだ置いたままになっていた。開け放した障子から乾いた暖かい光線が畳の表三分ほどまで射(さ)しこんでいる、そこに膝を横崩しに坐りながら、葉子は眼を細めて眩(まぶ)しい光線を避けつつ、自分の部屋を片付けている女中の気配に用心の気を配った。どんな所にいても大事な金目(かねめ)のものをくだらないものと一緒に放り出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達(だて)で寛濶(かんかつ)な心を見せているようだったが、同時に下らない女中づれが出来心でも起しはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣りの部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋の隅に几帳面(きちょうめん)に折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞と云うものに眼を通さなかったのを思い出して、手に取り上げてみた。テレビン油のような香がぷんぷんするのでそれが今日の新聞である事がすぐ察せられた。果して一面には「聖寿万歳」と肉太に書かれた見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一ヵ月の余も遠退(とおの)いていた新聞紙を物珍らしいものに思ってざっと眼をとおし始めた。
一面にはその年の六月に伊藤内閣を交迭(こうてつ)して出来た桂内閣に対して色々な註文を提出した論文が掲げられて、海外通信には支那領土内に於ける日露の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の慷慨(こうがい)などが見えていた。二面には富口という文学博士が「最近日本に於ける所謂(いわゆる)婦人の覚醒」と云う続き物の論文を乗せていた。福田と云う女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。然し今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
三面に来ると四号活字で書かれた木部孤笻(こきょう)と云う字が眼に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっと驚かされてしまった。
〇某大汽船会社船中の大怪事
事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
先客は木部孤笻の先妻
こういう大業(おおぎょう)な標題が先ず葉子の眼を小痛(こいた)く射つけた。
「本邦にて最も重要な位置にある某汽船会社の所有船〇〇丸の事務長は、先頃米国航路に勤務中、嘗(かつ)て木部孤笻に嫁(か9して程もなく姿を晦(くら)ましたる莫連(ばくれん)女某が一等船客として乗込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめず窃(ひそ)かに連れ帰りたる怪事実あり。而(し)かも某女と云えるは米国に先行せる婚約の夫まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担(にな)うべき事務長にかかる不埒(ふらち)の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、某汽船会社の体面にも影響する由々しき大事なり。事の仔細は漏れなく本紙の察知したる所なれども、改悛(かいしゅん)の余地を与えん為め、暫く発表を見合せおくべし。若(も)しある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道に陥(おちい)りたる二人を懲戒し、併(あわ)せて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目(かつもく)してその時を待て」
葉子は下唇を噛(か)みしめながらこの記事を読んだ。一体何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻して見ると、麗々と「報正新聞」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りの為めに爪の先きまで青白くなって、抑えつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新聞」と云えば田川法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人と云う女は何処まで執念(しゅうね)く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新聞」はこの通信を受けると、報道の先鞭(せんべん)をつけておく為めと、読者の好奇心を煽(あお)る為めとに、逸早くあれだけの記事を載せて、田川夫人から更に委しい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推(すい)した。若しこれが外の新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表は揉(も)み消さなければならないと胸に定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意を籠(こ)めてさせている仕事だとして見ると、どの道書かずにはおくまいと思われた。郵船会社の方で高圧的な交渉でもすれば兎に角、その外には道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こう一図に思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱に今更にまざまざと心に浮べた。
「お掃除が出来ました」
そう襖越(ふすまご)しに云いながら先刻(さっき)の女中は顔を見せずにさっさと階下に降りて行ってしまった。葉子は結句(けっく)それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除の仕方で、はたきまでが違い棚の下におき忘られていた。過敏に几帳面で綺麗好きな葉子はもう堪(たま)らなかった。自分でてきぱきとそこいらを片付けて置いて、パラソルと手携(てさ)げを取上げるが否やその宿を出た。
往来に出るとその旅館の女中が四五人早仕舞(はやじまい)をして昼間の中を野毛山の大神宮の方にでも散歩に行くらしい後姿を見た。そそくさと朝の掃除を急いだ女中達の心も葉子には読めた。葉子はその女達を見送ると何んという事なしに淋しく思った。
帯の間に挾んだままにしておいた新聞の切抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引出して手携げに仕舞いかえた。旅館は出たが何処に行こうと云うあてもなかった葉子は俯向(うつむ)いて紅葉坂を下りながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解(しもど)けになった土を一足々々(ひとあしひとあし)突きさして歩いて行った。何時(いつ)の間にかじめじめした薄汚い狭い通りに来たと思うと、端(はし)なくもいつか古藤と一緒に上った相模屋の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置行燈(おきあんどん)の紙までがその時のままで煤(すす)けていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日は華やかに照り満ちて、思ったより数多い群集が運河にかけ渡したいくつかの橋を賑(にぎ)やかに往来していた。葉子は自分一人が皆んなから振向いて見られるように思いなした。それが当り前の時ならば、どれ程多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今忌々(いまいま)しい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮臭(やぼくさ)い綿入れを着ている葉子であった。服装に塵ほどでも批点(ひてん)の打ちどことがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しい程後悔された。
葉子はとうとう税関波止場の入口まで来てしまった。その入口の小さな煉瓦(れんが)造りの事務所には、年の若い監視補達が二重金釦(きんぼたん)の背広に、海軍帽を被って事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、昨日上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手造(はでづく)りな姿を眼に定めるらしかった。物好きなその人達は早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事にかけても愚痴(ぐち)っぽくひけ目になる自分を見出した。葉子は然しそうした風に見つめられながらもそこを立去る事が出来なかった。若しや倉地が昼飯でも喰(た)べにあの大きな五体を重重しく動かしながら船の方から出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
葉子はそろそろと海岸通りをグランド・ホテルの方に歩いて見た。倉地が出て来れば、倉地の方でも自分を見つけるだろうし、自分の方でも後ろに眼はないながら、出て来たのを感付いて見せるという自信を持ちながら、後ろも振向かずに段々波止場から遠ざかった。海沿いに立て連ねた石杭(いしぐい)を繫(つな)ぐ頑丈な鉄鎖には、西洋人の子供達が犢(こうし)程な洋犬やあまに附き添われて事もなげに遊び戯(たわむ)れていた。而して葉子を見ると心安立てに無邪気に微笑(ほほえ)んで見せたりした。小さな可愛いい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子を思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合は殊更(ことさら)そうだった。見ていられない程それらの子供達は悲しい姿に葉子の眼に映った。葉子はそこから避けるようにして足を返して又税関の方に歩近づいた。監視課の事務所の前を来たり往ったりする人数は絡繹(らくえき)として絶えなかったが、その中に事務長らしき姿は更に見えなかった。葉子は絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補達の眼にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁の方に引き返した。


二三[編集]

その夕方倉地が埃にまぶれ汗にまびれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾(しきい)を跨(また)がずに桜の並木の下などを徘徊(はいかい)して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催(もよお)した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れに交って不機嫌そうに顔をしかめた倉地は真向(まっこう)に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を恢復(かいふく)したようになって、すぐ跳(おど)り出して来る悪戯心のままに、一本の桜の木を楯(たて)に倉地をやり過しておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押列んだ。倉地はさすがに不意を喰ってまじまじと寒さの為めに少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の眼を見やりながら、「何処から湧(わ)いて出たんだ」と云わんばかりの顔付きをした。一つの船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、今日始めて半日の余も顔を見合わさずに過して来たものが思った以上に物淋しく、同時にこんな所で思いもかけず出遇(であ)ったが予想の外に満足であったらしい倉地の顔付きを見て取ると、葉子は何もかも忘れて唯嬉しかった。その真黒に汚れた手をいきなり引摑(ひっつか)んで熱い唇で噛みしめて労(いたわ)ってやりたい程だった。然し思いのままに寄添う事すら出来ない大道であるのを如何(どう)しよう。葉子はその切ない心を拗(す)ねて見せるより外なかった。
「私もうあの宿屋には泊りませんわ。人を馬鹿にしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手に独(ひと)りで行らっしゃい」
「如何して……」
と云いながら倉地は当惑したように往来に立止ってしげしげと葉子を見なおすようにした。
「これじゃ(と云って埃に塗(まみ)れた両手を拡げ襟頸(えりくび)を抜き出すようにし延ばして見せて渋い顔をしながら)何処にも行けやせんわな」
「だからあなたはお帰りなさいましと云ってるじゃありませんか」
そう冒頭(まえおき)して葉子は倉地と押並んでそろそろ歩きながら、女将(おかみ)の仕打ちから、女中のふしだらまで尾鰭(おひれ)をつけて讒訴(いいつ)けて、早く雙鶴館に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽを見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなった頃もう一度立止って、
「今日雙鶴館(あそこ)から電話で部屋の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそう吩咐(いいつ)けられながら今まですっかり忘れていたのを思い出して、少してれたように首を振った)……ええわ、じゃあ電報を打ってから先きに行くがいい。俺(わ)しは荷物をして今夜後から行くで」
そう云われて見ると葉子は又一人だけ先きに行くのがいやでもあった。と云って荷物の始末には二人の中どちらか一人居残らねばならない。
「どうせ二人一緒に汽車に乗る訳にも行くまい」
倉地がこう云い足した時葉子は危く、では今日の「報正新報」を見たかと云おうとする所だったが、はっと思い返して喉(のど)の所で抑えてしまった。
「何んだ」
倉地は見かけの割りに恐ろしい程敏捷(びんしょう)に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇(ちゅうちょ)を見て取ったらしくこ詰(なじ)るように尋ねたが、葉子が何んでもないと応えると、少しも拘泥(こうでい)せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
如何しても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に分れる事にした。倉地は力の籠った眼で葉子をじっと見て一寸点頭(うなず)くと後をも見ないでどんどんと旅館の方へ闊歩(かっぽ)して行った。葉子は残り惜しくその後姿を見送っていたが、それに何んと云う事もない軽い誇りを感じて微(かす)かに微笑みながら、倉地が登って来た坂道を一人で降りて行った。
停車場に着いた頃にはもう瓦斯(ガス)の灯がそこらに点(とも)っていた。葉子は知った人に遇うのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々(めいめい)デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつも通りその人達は不思議に人を牽(ひ)き付ける葉子の姿に眼を欹(そばだ)てた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折曲げて、左の鬢(びん)のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態(しな)をして見せる気は無くなっていた。室の隅に腰をかけて、手携(てさ)げとパラソルとを膝に引きつけながら、たった一人その部屋の中にいるもののように鷹揚(おうよう)に構えたいた。偶然顔を見合せても、葉子は張りのあるその眼を無邪気に(本当にそれは罪を知らない十六七の乙女の眼のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人達の年齢がどの位で容貌がどんな風だなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中には唯倉地の姿ばかりが色々に描かれたり消されたりしていた。
列車が新橋に着くと葉子はしとやかに車を出たが、丁度そこに、気の利(き)いた若い者が電報を片手に持って、眼ざとく葉子に近づいた。それが雙鶴館からの出迎えだった。
横浜にも増して見るものにつけて聯想(れんそう)の群(むら)がり起る光景、それから来る強い刺戟(しげき)……葉子は宿から廻された人力車の上から銀座通の夜の有様を見やりながら、危(あやう)く幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子も貞世もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ち侘(わ)びているだろう。あの叔父叔母がどんな激しい言葉で自分をこの二人の妹に描いて見せているか。構うものか。何んとでも云うがいい。自分は如何あっても二人を自分の手に取り戻して見せる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがい。……ふと人力車が尾張町の角を左に曲ると暗い細い通りになった。葉子は目指す旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色沙汰(いろざた)でなく贔屓(ひいき)にしていた芸者が或る財産家に落籍(ひか)されて開いた店だと云うので、倉地から予(あらかじ)め懸(か)け合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出遇う前に感ずる一種の軽い敵愾心(てきがいしん)が葉子の心を暫くは余の事柄から切り放した。葉子は車の中で衣紋(えもん)を気にしたり、束髪の形を直したりした。
昔の煉瓦建てをそのまま改造したと思われる漆喰(しっくい)塗りの頑丈な、角(かど)地面の一構えに来て、煌々と明るい入口の前に車夫が梶棒(かじぼう)を降ろすと、そこにはもう二三人の女の人達が走り出て待ち構えていた。葉子は裾前(すそまえ)をかばいながら車から降りて、そこに立ち併(なら)んだ人達の中からすぐ女将を見分ける事が出来た。背丈けが思い切って低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別の備わった、きかん気らしい、垢(あか)ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をその人に対して持つ事が出来たので、殊更快い親しみを持ち前の愛嬌に添えながら、、挨拶をしようとすると、その人は事もなげにそれを遮(さえぎ)って、
「いずれ御挨拶は後ほど、嘸(さぞ)お寒う御座いましてしょう。お二階へどうぞ」
と云って自分から先きに立った。居合せた女中達は眼はしを利かして色々と世話に立った。入口の突当りの壁には大きなぼんぼん時計が一つかかっているだけで何んにもなかった。その右手の頑丈な踏み心地のいい階子段を上りつめると、他の部屋から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形(かぎがた)に続いていた。塵一つすえずにきちんと掃除が届いていて、三ヵ所に置かれた鉄瓶から立つ湯気で部屋の中は軟(やわら)かく暖まっていた。
「お座敷へと申す所ですが、御気散苦(ごきさく)にこちらでおくつろぎ下さいまし……三間(ま)ともとっては御座いますが」
そう云いながら女将は長火鉢の置いてある六畳の間へと案内した。
そこに坐って一通りの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子は本当に暫くなりとも一人となって見たかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬(ちりめん)の羽織を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取出して見ると、凝(こ)りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、可(か)なり強い疲れを一時に感じながら、猫板の上に肘(ひじ)を持たせて居住いを崩して凭(もた)れかかった。古びを帯びた蘆屋釜(あしやがま)から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、綺麗(きれい)にかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣(かつぎ)の下でほんのりと赤らんでいるのも、精巧な用箪笥(ようだんす)の嵌(は)め込まれた一間(けん)の壁に続いた器用な三尺床に、白菊を挿(さ)した唐津(からつ)焼きの釣花活(つりはない)けがあるのも、幽(かす)かにたきこめられた沈香(じんこう)の匂いも、目のつんだ杉柾(すぎまさ)の天井板も、細(ほ)っそりと磨(みが)きのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、硬(こわ)い、堅い船室から漸く開放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかり眺(なが)められた。こここそは屈強の避難所だと云うように葉子はつくづくあたりを見廻した。而して部屋の隅にある生漆(きうるし)を塗った桑の広蓋(ひろぶた)を引き寄せて、それに手携(てさ)げや懐中物を入れ終ると、飽く事もなくその縁(ふち)から底にかけての円味(まるみ)を持った微妙な手触(てざわ)りを愛(め)で慈(いつく)しんだ。
場所柄とてそこここからここの界隈(かいわい)に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけに今日は殊更それが賑やかなのかも知れない。戸外にはぽくりやあずま下駄の音があ少し冴(さ)えて絶えずしていた。着飾った芸者達が磨き上げた顔をびりびりするゆな夜寒に惜しげもなく伝法(でんぽう)に曝(さら)して、さすがに寒気に足を早めながら、招(よ)ばれた所に繰出して行くその様子が、まざまざと履物(はきもの)の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合乗りらしい人力車の轍(わだち)の音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈では葉子は眦(まなじり)を反(かえ)して人から見られる事はあるまい。
珍らしくあっさりした、魚の鮮(あたら)しい夕食を済ますと葉子は風呂をつかって、思い存分髪を洗った。足(た)しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねちねちと垢の取れ切れなかったものが、触(さわ)れば手が切れる程さばさばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将も食事を終えて話相手になりに来た。
「大変お遅う御座いますこと、今夜の中にお帰りになるでしょうか」
そう女将は葉子の思っている事を魁(さきが)けに云った。「さあ」と葉子もはっきりしない返事をしたが、小寒くなってきたので浴衣(ゆかた)を着かえようとすると、そこに袖だたみにしてある自分の衣物につくづく愛想が尽きてしまった。この辺の女中に対してもそんなしつっこいけばけばしい柄の衣物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子は遮二無二(しゃにむに)それが堪らなくなってくるのだ。葉子はうんざりした様子をして自分の衣物から女将に眼をやりながら、
「見て下さいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作って見たんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生。あなたの所に何か普段着(ふだんぎ)の明(あ)いたのでもないでしょうか」
「どうしてあなた。私はこれで御座んすもの」
と女将は剽軽(ひょうきん)にも気軽くちゃんと立上って自分の背丈けの低さを見せた。而(そう)して立ったままで暫く考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではたと膝の上をたたいて、
「ようございます。私一つ倉地さんをびっくらさして上げますわ。私の妹分に当るのに柄と云い年恰好(としかっこう)といい、失礼ながらあなた様とそっくりなのがいますから、それのを取寄せて見ましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、私がすっかり仕立てて差上げますわ」
この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
その晩十一時を過ぎた頃に、纏(まと)めた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が雙鶴館に着いて来た。葉子は女将の入智慧(ぢえ)でわざと玄関には出迎えなかった。葉子は悪戯者(いたずらもの)らしく独笑(ひとりわら)いをしながら立膝をして見たが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿(もも)の上に積み乗せるようにしてその足先きをとんびにして坐って見た。丁度そこに可なり酔ったらしい様子で、倉地が女将の案内も待たずにずしんずしんという足どりで這入(はい)って来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋を間違えたと思ったらしく、少し慌(あわ)てて身を引こうとしたが、直ぐ櫛巻(くしま)きにして黒襟wかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔を崩して笑いながら、
「何んだ馬鹿をしくさって」
とほざくように云って、長火鉢の向座(むかいざ)にどっかと胡坐(あぐら)をかいた。跟(つ)いて来た女将は立ったまま暫く二人を見較(みくら)べていたが、
「ようよう……変てこなお内裏雛様(だいりびなさま)」
と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃんとそこに坐り込んだ。三人は声を立てて笑った。
と、女将は急に真面目に返って倉地に向い、
「こちらは今日の報正新報を……」
と云いかけるのを、葉子はすばやく眼で遮った。女将は危い土端場(どたんば)で踏み止った。倉地は酔眼を女将に向けながら、
「何」
と尻上りに問い返した。
「そう早耳を走らすと聾(つんぼ)と間違えられますとさ」
と女将は事もなげに受け流した。三人は又声を立てて笑った。
倉地と女将との間に一別以来の噂話(うわさばなし)が暫くの間取交(とりか)わされてから、今度は倉地が真面目になった。而して葉子に向ってぶっきらぼうに、
「お前もう寝ろ」
と云った。葉子は倉地と女将を併(なら)べて一眼見たばかりで、二人の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝て後(あと)の相談と云うても、今度の事件を上手に纏めようというについての相談だと云うことが呑(の)み込めていたので、素直に立って座を外(はず)した。
中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話は折々可なりはっきり漏れて来た。葉子は別に疑いをかけると云うのではなかったが、矢張りじっと耳を傾けないではいられなかった。
何かの話の序(ついで)に入用な事が起ったのだろう、倉地は頻りに身のまわりを探(さぐ)って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携(てさ)げに入れたか知らん」という声がしたので葉子ははっと思った。あれには「報正新報」の切抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行っても遅いと思って葉子は断念していた。やがて果して二人は切抜きを見つけ出した様子だった。
「何んだあいつも知っとったのか」
思わず少し高くなった倉地の声がこう聞えた。
「道理でさっき私がこの事を云いかけるとあの方が眼で留めたんですよ。矢張り先方(あちら)でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
そう云う女将の声もした。そして二人は暫く黙っていた。
葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。然し今夜は二人に任せておく方がいいと思い返して蒲団を耳まで被った。而して大分夜が更けてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

二四[編集]

その次ぎの朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日が可なり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒(からすはぐろ)の縮緬(ちりめん)の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜更(よふか)しにも係らずその朝早く横浜の方に出懸けた後だった。今日も空は菊日和(きくびより)とでも云う美しい晴れ方をしていた。
葉子はわざと宿で車を頼んで貰わず、煉瓦通りに出てから綺麗そうな辻待ちを傭(やと)ってそれに乗った。而して池の端(はた)の方に車を急がせた。定子を眼の前に置いて、その小さな手を撫でたり、絹糸のような髪の毛を弄(もてあそ)ぶ事を思うと葉子の胸は我れにもなく唯わくわくとせき込んで来た。眼鏡(めがね)橋を渡ってから突当りの大時計は見えながら中々そこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝の上に乗せた土産の翫具(おもちゃ)や小さな帽子などをやきもきしながらひねり廻したり、膝掛けの厚い地をぎゅっと握り締めたりして、逸(はや)る心を押鎮(おししず)めようとして見るけれどもそれを如何する事も出来なかった。車が漸く池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々(かどかど)で指図した。而して岩崎の屋敷裏にあたる小さな横町の曲り角で車を乗り捨てた。
一ヵ月の間来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈が少しも変化しないで元の通りなのが却って不思議なようだった。じめじめした小溝に沿うて根際(ねぎわ)の腐れた黒板塀の立ってる小さな寺の境内を突切って裏に廻ると、寺の貸地面にぽっつり立った一戸建ての小家が乳母の住む所だ。没義道(もぎどう)に頭を切り取られた高野槇(こうやまき)が二本旧(もと)の姿で台所前にに立っている。その二本に干竿(ほしざお)を渡して小さな襦袢(じゅばん)や、丸洗いにした胴着が暖かい日の光を受けてぶら下っているのを見ると葉子はもう堪らなくなった。涙がぼろぼろと他愛もなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落着ける為めに案内を求めずに入口に立ったまま、そっと垣根から庭を覗(のぞ)いて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人、葉子にはしごき帯を長く結んだ後姿を見せて、一心不乱にせっせと少しばかりの壊(こわ)れ翫具(おもちゃ)をいじくり廻していた。何事にもまれ真剣な様子を見せつけられると、――傍目(わきめ)もふらず畑を耕す農夫、踏切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房、汗をしとどに垂(た)らしながら坂道に荷車を押す共稼(ともかせ)ぎの夫婦――訳もなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一眼見たばかりで、人間力ではどうする事も出来ない悲しい出来事にでも出遇ったように、しみじみと淋しい心持ちになってしまった。
「定ちゃん」
涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子が喫驚(びっくり)して後ろを振向いた時には、葉子は戸を開けて入口を駈け上って定子の側にすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しい程華車(きゃしゃ)な作りの定子は、何処にどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然側近くに現われたのに気を奪われた様子で、頓(とみ)には声も出さずに驚いて葉子を見守った。
「定ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。而してよく一人でおとなにして……」
もう声が続かなかった。
「ママちゃん」
そう突然大きな声でいって定子は立上リざま台所の方に駈(か)けて行った。
「婆やママちゃんが来たのよ」
と云う声がした。
「え!」
と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、慌(あわ)てたように台所を上って、定子を横抱きにした婆やが、被っていた手拭を頭(つむり)から外しながら転(ころ)がり込むようにして座敷に這入(はい)って来た。二人は向き合って坐ると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
「ちょと定ちゃんをこっちにお貸し」
暫くしてから葉子は定子を婆やの膝から受取って自分の懐(ふとこ)ろに抱きしめた。
「お嬢さま……私にはもう何が何んだかちっとも分りませんが、私は唯もう口惜しゅう御座います……どうしてこう早くお帰りになったんで御座いますか……皆様の仰有(おっしゃ)る事を伺っているとあんまり業腹(ごうはら)で御座いますから……もう私は耳をふさいで居ります。あなたから伺った所がどうせこう年を取りますと腑(ふ)に落ちる気遣いは御座いません。でもまあお体がどうかと思ってお案じ申して居りましたが、御丈夫そうで何よりで御座いました……何しろ定子様がお可哀そうで……」
葉子に溺(おぼ)れ切った婆やの口からさも口惜しそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子は淋しい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌(もうろく)したと自分では云いながら、若い時に亭主に死別れて立派に後家を通して後指一本指されなかった昔気質(むかしかたぎ)のしっかり者だけに、親類達の蔭口や噂で聞いた葉子の乱行に呆(あき)れ果てていながら、この世で唯一人の秘蔵物として葉子の頭から足の先きまでも自分の誇りにしている婆やの切ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取囲(とりかこ)まれて、落着いた、しとやかな、而して安穏(あんのん)な一生を過すのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。殊に婆やと定子とを眼の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活を眺めると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
然し同時に倉地の事を一寸でも思うと葉子の血は一度に湧き立った。平穏な、その代り死んだも同然な一生が何んだ。純粋な、その代り冷えもせず熱しもしない愛情が何んだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取り代えっこをする位に愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でも如何(どう)する事も出来ない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽(さわ)ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難なく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙脆(なみだもろ)く、ある時には極端に残虐(ざんぎゃく)だった。まるで二人の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事っもあった。それが時には忌々(いまいま)しかった、時には誇らしくもあった。
「定(さあ)ちゃま。よう御座いましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字も仰有らなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり考えてでもいらっしゃるようなのがお可哀そうで、一時はお体でも悪くなりはしないかと思う程でした。こんなでも中々心は働いていらっしゃるんですからねえ」
と婆やは、葉子の膝の上に巣喰うように抱かれて、黙ったまま、澄んだ瞳で母の顔を下から覗くようにしている定子と葉子とを見較べながら、述懐めいた事を云った。葉子は自分の頰を、暖かい桃の膚(はだ)のように生毛(うぶげ)の生えた定子の頰にすりつけながら、それを聞いた。
「お前のその気象で分らないとお云いなら、くどくど云った所が無駄かも知れないから、今度の事については私は何んにも話すまいが、家の親類達の云う事なんぞは屹(きっ)と気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人が一寸した気まぐれからある事無い事を取りまぜてこっちに云ってよこしたので、事あれがしと待ち構えていた人達の耳に這入ったんだから、これから先きだってどんなひどい事を云われるか知れたもんじゃないんだよ。お前も知っての通り私は生れ落ちるとから旋毛曲(つむじまが)りじゃああったけれども、あんなに周囲(まわり)からこづき廻されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それは誰れよりもお前が知っててお呉(く)れだわね。これからだって私は私なりに押通すよ。誰れが何んと云ったって構うもんですか。その積りでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策(しくじり)をしでかしても、心から思いやってくれるのは本当にお前だけだわ。……今度から私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定ちゃん、よく婆やの云う事を聞いていい子になって頂戴よ。ママちゃんは此処(ここ)にいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のお仕度でもしましょうね。今日はママちゃんがおいしい御馳走(ごちそう)を作(こし)らえて上げるから定ちゃんもお手伝いして頂戴ね」
そう云って葉子は気軽そうに立ち上って台所の方に定子と連れだった。婆やも立ち上りはしたがその顔は妙に冴えなかった。そして台所で働きながら動(やや)ともすると内所(ないしょ)で鼻をすすっていた。
そこには葉山で木部孤笻と同棲(どうせい)していた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子を側においてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日は何んと云っても近頃覚えない程しみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足勝ちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品ほど作った。定子はすっかり喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」と云って庖丁(ほうちょう)をあっちに運んだり、皿をこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓に就いた。而して夕方まで水入らずにゆっくり暮した。
その夜は妹達が学校から来る筈になっていたので葉子は婆やの勧める晩飯も断って夕方その家を出た。入口の所につくねんと立って婆やに両肩を支えられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇にまぎれた幌(ほろ)の中で葉子は幾度かハンケチに眼をあてた。
宿に着く頃には葉子の心持は変っていた。玄関に這入って見ると、女学校でなければ履(は)かないような安下駄の汚なくなったのが、お客と女中達の気取った履物の中に交(まじ)って脱いでるのを見て、もう妹達が来て待っているのを知った。早速に出迎えに出た女将に、今夜は倉地が帰って来たら他所(よそ)の部屋で寝るように用意をしておいて貰いたいと頼んで、静々と二階へ上って行った。
襖を開けて見ると二人の姉妹はぴったりくっつき合って泣いていた。人の足音を姉のそれだと十分に知りながら、愛子の方は泣き顔を見せるのが気まりが悪い風で、振向きもせず一入(ひとしお)首垂(うなだ)れてしまったが、貞世の方は葉子の姿を一眼見るなり、跳(はね)るように立上って激しく泣きながら葉子の懷(ふとこ)ろに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢の傍の自分の座に坐ると、貞世はその膝に突伏してすすり上げすすり上げ可憐(かれん)な背中に浪を打たした。これ程までに自分の帰りを待ち侘(わ)びてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉の愛着からも、妹だけは少くとも自分の掌握(しょうあく)の中にあるとの満足からも、葉子はこの上もなく嬉しかった。然し火鉢から遥か離れた向側に恭(うやうや)しく居住いを正して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しいお辞儀をするのを見ると葉子はすぐ癪(しゃく)に障(さわ)った。如何(どう)して自分はこの妹に対して優しくする事が出来ないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作を見ると一々気に障らないではいられないのだ。葉子の眼は意地悪く剣(けん)を持って冷やかに小柄で堅肥(かたぶと)りな愛子を激しく見据えた。
「会いたてからつけつけ云うのも何んだけれども、何んですねえそのお辞儀のしかたは、他人行儀らしい。もっと打解けてくれたっていいじゃないの」
と云うと愛子は当惑したように黙ったまま眼を上げて葉子を見た。その眼は然し恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のようなあ、睫毛(まつげ)の長い、形のいい大きな眼が、涙に美しく濡れて夕月のようにぽっかりと列んでいた。悲しい眼付のようだけれども、悲しいと云うのでもない。多恨な眼だ。多情な眼でさえあるかも知れない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の眼を見て不快に思った。大多数の男はあんな眼で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥(いちべつ)を受取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早く考えの中に附け加えた。貞世が広い帯をしているのに、愛子が少し古びた袴(はかま)をはいているのさえ蔑(さげすま)れた。
「そんな事はどうでもよう御座んすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
葉子はやがて自分の妄念(もうねん)をかき払うようにこう云って、女中を呼んだ。
貞世は寵児(ペット)らしくすっかりはしゃぎ切っていた。二人が古藤に伴(つ)れられて始めて田島の塾に行った時の様子から、田島先生が非常に二人を可愛がってくれる事から、部屋の事、食物の事、さすがに女の子らしく細かい事まで自分一人の興に乗じて談(かた)り続けた。愛子も言葉少なに要領を得た口をきいた。
「古藤さんが時々来て下さるの?」
と聞いて見ると、貞世は不平らしく、
「いいえ、ちっとも」
「ではお手紙は?」
「来てよ、ねえ愛姉さま。二人の所に同じ位ずつ来ますわ」
と、愛子は控え目らしく微笑みながら上目越(うわめご)しに貞世を見て、
「貞ちゃんの方に余計来る癖に」
と何んでもない事で争ったりした。愛子は姉に向って、
「塾に入れて下さると古藤さんが私達に、もうこれ以上私のして上げる事はないと思うから、用がなければ来ません。その代り用があったら何時でもそう云っておよこしなさいと仰有ったきりいらっしゃいませんのよ。而(そう)してこちらでも古藤さんにお願いするような用は何んにもないんですもの」
と云った。葉子はそれを聞いて微笑みながら古藤が二人を塾に伴(つ)れて行った時の様子を想像して見た。例のように何処(どこ)の玄関番かと思われる風体(ふうてい)をして、髪を刈る時の外(ほか)剃(そ)らない顎鬚(あごひげ)を一二分程も延ばして、頑丈な容貌や体格に不似合いな羞(はに)かんだ口弁(くちつき)で、田島という、男のような女学者と話をしている様子が見えるようだった。
暫くそんな表面的な噂話などに時を過ごしていたが、いつまでもそうはしていられない事を葉子は知っていた。この年齢(とし)の違った二人の姉妹に、どっちにも堪念(たんねん)の行くように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さないように仕向けるのはさすがに容易な事ではなかった。葉子は先刻(さっき)から頻りにそれを案じていたのだ。
「これでも召上れ」
食事が済んでから葉子は米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草を吸った。貞世は眼を丸くして姉のする事を見やっていた。
「姉さまそんなもの吸っていいの?」
と会釈(えしゃく)もなく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。
「ええこんな悪い癖がついてしまったの。けれども姉さんにはあなた方の考えても見られないような心配な事や困る事があるものだから、つい憂(う)さ晴らしにこんな事を覚えてしまったの。今夜はあなた方に判るように姉さんが話して上げて見るから、よく聞いて頂戴よ」
倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたようにその頑丈な、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女と云うよりももっと子供らしい様子は、二人の妹を前に置いてきちんと居住いを正した葉子の何処にも見出されなかった。その姿は三十前後の、十分分別のある、しっかりした一人の女性を思わせた。貞世もそう云う時の姉に対する手心(てごころ)を心得ていて、葉子から離れて真面目に坐り直した。こんな時うっかりその威厳を冒(おか)すような事でもすると、貞世にでも誰れにでも葉子は少しの容赦もしなかった。然し見た所はいかにも慇懃(いんぎん)に口を開いた。
「私が木村さんの所にお嫁に行くようになったのはよく知ってますね。米国に出懸けるようになったのもその為めだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先にお嫁入りした人を貰うような方ではなかったんだしするから、本当は私如何(どう)しても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃんと守って行くには行ったの。けれどもね先方(むこう)に着いて見ると私の体の具合が如何もよくなくって上陸は迚(とて)も出来なかったから仕方なしに又同じ船で帰るようになったの。木村さんは何処までも私をお嫁にして下さる積りだから、私もその気ではいるのだけれども、病気では仕方がないでしょう。それに恥かしい事を打明けるようだけれども、木村さんにも私にも有り余るようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目の方にお世話にならなければならなかったのよ。その方が御親切にも私をここまで連れて帰って下さったばかりで、もう一度あなた方にも遇う事が出来たんだから、私はその倉地と云う方――倉はお倉の倉で、地は地球の地を書くの。三吉というお名前は貞世ちゃんにも分るでしょう――その倉地さんには本当にお礼の申しようもない位なんですよ。愛さんなんかはその方の事で叔母さんなんぞから色々な事を聞かされて、姉さんを疑っていやしないかと思うけれども、それには又それで面倒な訳のある事なのだから、夢にも人のいう事なんぞをそのまま受取って貰っちゃ困りますよ。姉さんを信じてお呉れ、ね、よござんすか。私はお嫁なんぞ行かないでいい、あなた方とこうしている程嬉しい事はないと思いますよ。木村さんの方にお金でも出来て、私の病気が治(なお)りさえすれば結婚するようになるかも知れないけれども、それは何時(いつ)の事とも分らないし、それまでは私はこうしたままで、あなた方と一緒に何処かにお家を持って楽しく暮しましょうね。いいだろう貞ちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもよう御座んすよ」
「お姉さま私は寄宿では夜になると本当は泣いてばかりいたのよ。愛姉さんはよくお寝になっても私は小さいから悲しかったんですもの」
そう貞世は白状するように云った。先刻まではいかにも楽しそうに云っていたその可憐な同じ唇から、こんな哀れな告白を聞くと葉子は一入(ひとしお)しんみりとした心持ちになった。
「私だってもよ。貞ちゃんは宵(よい)の口だけくすくす泣いても後はよく寝ていたわ。姉様、私はいままで貞ちゃんにも云わないでいましたけれども……皆んなが聞えよがしに姉様の事を彼れ是(こ)れ云いますのに、偶(たま)に悪いと思って貞ちゃんと叔母さんの所へ行ったりなんぞするお、それは本当にひどい……ひどい事を仰有るので、どっちに云っても口惜しう御座いましたわ。古藤さんだってこの頃はお手紙さえ下さらないし……田島先生だけは私達二人を可哀相がって下さいましたけれども……」
葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。
「もういい勘弁して下さいよ。姉さんが矢張り至らなかったんだから。お父さんがいらっしゃればお互にこんないやな眼には遇わないんだろうけれども(こう云う場合葉子はおくびにも母の名は出さなかった)親のない私達は肩身が狭い和ね。まああなた方はそんなに泣いちゃ駄目。愛さん何んですねあなたから先きに立って。姉さんが帰った以上は姉さんに何んでも任して安心して勉強して下さいよ。而(そう)して世間の人を見返しておやり」
葉子は自分の心持ちを憤(いきどお)ろしく云い張っているのに気が付いた。何時の間にか自分までが激しく昂奮(こうふん)していた。
火鉢の火は何時か灰になって、夜寒が秘(ひそ)やかに三人の姉妹に這いよっていた。もう少し睡気(ねむけ)を催して来た貞世は、泣いた後の渋い眼を手の甲でこすりながら、不思議そうに昂奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は瓦斯(ガス)の燈に顔を背けながらしくしくと泣き始めた。
葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いて見たいような衝動をつき返しつき返し視水落(みぞおち)の所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
生れかわらなければ恢復しようのないような自分の越し方行く末が絶望的にはっきり葉子の心を寒く引き締めていた。
それでも三人が十六畳に床を敷いて寝て大分たってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣りの部屋に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえって暫く妹達の寝息気(いき)を窺(うかが)っていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬をしてよく寝入っているのを見窮(みきわ)めると、そっとどてらを引かけながらその部屋を脱け出した。


二五[編集]

それから一日置いた次ぎの日に古藤から九時頃に来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時過ぎにしてくれと返事させた。古藤に会うには倉地が横浜に行った後がいいと思ったからだ。
東京に帰ってから叔母と五十川女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は元より事一言半句の挨拶もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、何んとかしそうなものだ。余りと云えば人を踏みつけにした仕業だとは思ったけれども、葉子としては結局それが面倒がなくっていいとも思った。そんな人達に会っていさくさ口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏から東京の人達の心持ちも大体判る。積極的な自分の態度はその上で決めても遅くはないと思案した。
雙鶴館の女将は本当に眼から鼻に抜けるように落度なく、葉子の影身(かげみ)になって葉子の為めに尽してくれた。その後ろには倉地がいて、あの如何にも疎大(そだい)らしく見えながら、人の気もつかないような綿密な所にまで気を配って、采配(さいはい)を振っているのは判っていた。新聞記者などが何処を如何(どう)して探り出したか、始めの中は押強く葉子に面会を求めて来たのを、女将が手際(てぎわ)よく追い払ったので、近付きこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったという事がひどく記者達の興味を牽(ひ)いたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上る程いやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがある癖に、探訪などに来る人達の事を考えると一番賤(いや)しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台で、新聞社の社長と親佐と葉子との間に起った事として不倫な捏造(ねつぞう)記事(葉子はその記事の中、母に関してはどの辺までが捏造であるか知らなかった。少くとも葉子に関しては捏造だった)が掲載されたばかりでなく、母の所謂(いわゆる)冤罪(えんざい)は堂々と新聞紙上で雪(すす)がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などが益々葉子の考えを頑(かたく)なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらも何処かの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかと云う(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しが出来ないようにするのは容易な事だと葉子は思った)企(たくら)みを自分独りで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見(もくろみ)を思い止(とどま)った程だった。
その朝も倉地と葉子とは女将を話相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子が遠(とお)にそれをちゃんと知っていた事などを談(かた)り合いながら笑ったりした。
「忙しいにかまけて、あれはそのままにして居ったが……一つは余り短兵急にこっちから出しゃばると足許(あしもと)を見やがるで、……あれは何んとかせんと面倒だて」
と倉地はがらっと箸(はし)を膳(ぜん)に捨てながら、葉子から女将に眼をやった。
「そうですともさ。下らない。あなた、あれであなたの御職掌(ごしょくしょう)にでもけちが附いたら本当に馬鹿々々しゅう御座んすわ。報正新報社になら私御懇意の方も二人や三人はいらっしゃるから、何んなら私からそれとなくお話して見てもよう御座いますわ。私は又お二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もう何んとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
と女将は怜(さか)しそうな眼に真味な色を見せてこう云った。倉地は無頓着に「そうさな」と云ったきりだったが、葉子は二人のいけんが略(ほぼ)一致したらしいのを見ると、いくら女将が巧みに立廻ってもそれを揉(も)み消す事は出来ないと云い出した。何故(なぜ)と云えばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣(いしゅ)に思ってさせた事で、「報正新報」にそれが現われた訳は、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔付きをした。
「俺れは又興録の奴……あいつはべらべらした奴で、右左のはっきりひない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かと思っても見たが、成程それにしては記事の出かたが少し早過ぎるて」
そう云ってやおら立上リながら次ぎの間に着かえに行った。
女中が膳部を片付け終らぬ中に古藤が来たと云う案内があった。
葉子は一寸当惑した。誂(あつら)えておいた衣類がまだ出来ないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり似合うと讃(ほ)められるので、その朝も芸者のちょいちょい着らしい、黒繻子(くろじゅす)の襟の着いた、伝法な棒縞(ぼうじま)の身幅の狭い着物に、黒繻子と水色匹田(ひきた)の昼夜帯(ちゅうやおび)をしめて、どてらを引かけていたばかりでなく、髪まで矢張り櫛巻(くしま)きにしていたのだった。ええ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるのならのっけからあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋と云った風の家の様子に少し鼻じろみながら這入って来た。而(そう)して飛び離れて風体の変った葉子を見ると、尚更(なおさら)勝手が違って、これがあの葉子なのかと云うように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっとその姿を見た。
「まあ義一さん暫(しばら)く。お寒いのね。どうぞ火鉢によって下さいましな。一寸御免下さいよ」そう云って、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋(ひろぶた)から紋付きの羽織を引出して、坐ったままどてらと着直した。なまめかしい匂がその動作につれて密(ひそ)やかに部屋の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えても見ないようだった。十年も着慣れた普段着で昨日も会ったばかりの弟のように親しい人に向うようなとりなしをした。古藤は頓(とみ)には口もきけないように思い惑っているらしかった。多少垢(あか)になった薩摩絣(さつまがすり)の衣物を着て、観世撚(かんぜより)の羽織紐(ひも)にも、きちんとはいた袴にも、その人の気質が明らかに書き記してあるようだった。
「こんなで大変変な所ですけれどもどうか気楽になさって下さいまし。それでないと何んだか改まってしまってお話がし憎くっていけませんから」
心置きない、而して古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取(けど)らせるような葉子の態度は段々古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、その癖何処かに鋭い光のある眼を挙げてまじまじと葉子を見始めた。
「何より先きにお礼。有難う御座いました妹達を。一昨日二人でここに来て大変喜んでいましたわ」
「何んにもしやしない。唯(ただ)塾に連れて行って上げただけです。御丈夫ですか」
古藤はありのままをありのままに云った。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子は徐(おもむ)ろに探り知っておかなければならないような事柄に話題を向けて行った。
「今度こんなひょんな事で私亜米利加に上陸もせずに帰って来る事になったんですが、本当を仰有って下さいよ、あなたは一体私を如何(どう)お思いになって」
葉子は火鉢の縁に両肘(りょうひじ)をついて、両手の指先きを鼻の先きに集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮び出る凡(すべ)ての意味を読もうとした。
「ええ、本当を云いましょう」
そう決心するもののように古藤は云ってから一膝乗り出した。
「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片付くものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打捨てていましたから、この間横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。尤(もっと)も帰って来られるような話は何処かで聞いたようでしたが。而して何かそれに重大な訳があるに違いないとは思ってはいましたが。所があなたの電話を切ると間もなく木村君の手紙が届いて来たんです。それは多分絵島丸より一日か二日早く大北汽船会社の船が着いた筈だから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕は驚いてしまったんです。随分長い手紙だから後で御覧になるなら置いて行きましょう。簡単に云うと(そう云って古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓するらしく暫く黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。而してあなた程不幸な運命に弄ばれる人はない。又あなた程誤解を受ける人はない。誰れもあなたの複雑な性格を見窮(みきわ)めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、色々な風にあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起る事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならない憐れむべき女だ。他人が何んと云おうと君だけは僕を信じて……若(も)しあなたを信ずることが出来なければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたの為に戦ってくれ……本当はもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
「それで?」
葉子は眼の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打沈んでこう促した。
「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽(こっけい)だった』と云う言葉とをどう結び付て見たらいいか分らなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調んは……電話だった故(せい)か丸で呑気(のんき)な冗談口(じょうだんぐち)のようにしか聞えなかったものだから……本当を云うと可なり不快を感じていた所だったのです。思った通りを云いますから怒らないで聞いて下さい」
「何を怒りましょう。ようこそはっきり仰有(おっしゃ)って下さるわね。あれも私は後で本当に済まなかったと思いましたにょ。木村が思うように私は他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量なぞをしているのが少しは癪にさわったけれども、滑稽に見えて仕方がなかったんですのよ。そこに以て来て電話であなたのお声が聞えたもんだから、飛び立つように嬉しくって思わずしらずあんな軽はずみな事を云ってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見て下さった倉地という事務長の方もそれはきさくな親切な人じゃありますけれども、船で始めて知り合いになった方だから、お心安立てなんぞは出来ないでしょう。あなたのお声がした時には本当に敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあ然しそんな事は弁解するにも及びませんわ。それから如何なさって?」
古藤は例の厚い理想の被(かつぎ)の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような眼を、少し物惰(ものう)げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれを見やった。初対面の時には人並み外れて遠慮勝ちだった癖に、少し慣れて来ると人を見徹(みとお)そうとするように凝視(ぎょうし)するその眼は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいと云う所は少しもなかった。又故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われる程世辞に疎(うと)く、事物の本当の姿を見て取る方法に暗いながら、真正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい眼付きだった。古藤なんぞに自分の秘密が何んで発(あば)かれてたまるものかと多寡(たか)をくくりつつも、その物軟(ものやわ)らかながらどんどん人の心の中に這入り込もうとするような眼付きに遇うと、何時か秘密のどん底を誤たず摑(つか)まれそうな気がしてならなかった。そうなるにしても然しそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
こんな眼で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、更に語り続けた所によれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘店(くぎだな)の家の留守番をしていた葉子の叔母の所を尋ねてその考えを尋ねて見ようとした所が、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかりした事は云われないと思ったか、何事も打明けずに、五十川女史に尋ねて貰いたいと逃げを張ったらしい。古藤は已(や)むなく五十川女史を訪問した。女史とは築地のある教会堂の執事の部屋で会った。女史の云う所によると、十日程前に田川夫人の所から船中に於ける葉子の不埒(ふらち)を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子の独旅(ひとりたび)を保護し監督する事は迚(とて)も力に及ばないから、船から上陸する時も何んの挨拶もせずに別れてしまった。何んでも噂で聞くと病気だと云ってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分達が想像する以上に深くなっていると断定しても差支(さしつか)えない。折角依頼を受けてその責(せめ)を果さなかったのは誠に済まないが、自分達の力では手に余るのだから推恕(すいじょ)していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいい加減な捏造(ねつぞう)などをする人でないのをよく知っているからその手紙を重立った親類達に示して相談した結果、若し葉子が絵島丸で帰って来たら、回復の出来ない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって婚約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申合せをしたという事を聞かされた。そう古藤は語った。
「僕はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたは先刻(さっき)から倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。今日でも僕はあなたにお会いするのがいいのか悪いのか散々迷いました。然し約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきりするかと思って、思い切って伺う事にひたんです。……あっちにたった一人いて五十川さんから恐ろしい手紙を受取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせて下さい。僕はこんな重大な事を一方口(いっぽうくち)で判断したくはありませんから」
と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪な事を云うもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先きで弄(もてあそ)びながら少し振仰いだ顔はそのままに、憐れむような、からかうような色を微(かす)かに浮べて、
「ええ、それはお聞き下さればどんなにでもお話はしましょうとも。けれども天(てん)から私を信じて下さらないんならどれ程口を酸(すっぱ)くしてお話をしたって無駄ね」
「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
「それはあなた方のなさる学問ならそれでよう御座んしょうよ。けれども人情ずくの事はそんあものじゃありませんわ。木村に対して疚(やま)しいことは致しませんと云ったってあなたが私を信じていて下さらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友達というだけですと誓った所が、あなたが疑っていらっしゃれば何んの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろと仰有るんですか」
「そうね。…・…それでもよう御座いましょうよ。兎(と)に角(かく)それは私が御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
そう云ってる葉子の顔は、言葉に似合わず何処までも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜(さか)しく、こう縺(もつ)れて来た言葉を何処までも追おうとせずに黙ってしまった。而して「何事も明らさまにしてしまう方が本当はいいのだがな」と云いたげな眼付きで、格別虐(しいた)げようとするでもなく、葉子が鼻の先きで組んだりほどいたりする手先きを見入った。そうしたままでやや暫くの時が過ぎた。
十一時近いこの辺の町並は一番静かだった。葉子はふと雨樋(あまどい)を伝う雨垂(あまだ)れの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空は時雨(しぐ)れていたのだ。部屋の中は盛んな鉄瓶(てつびん)の湯気でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和になっているらしかった。葉子はぎこちない二人の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっと首を擡(もた)げて腰窓の方を見やりながら、
「おや何時の間にか雨になりましたのね」
と云って見た。古藤はそれには答えもせずに、五分刈りの地蔵頭を俯垂(うなだ)れて深々と溜息をした。
「僕はあなたを信じ切る事が出来ればどれ程幸だか知れないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話している方がずっと気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年頃で、――大変美しいという為めばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞは何んでも物を僻目(ひがめ)で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……如何(どう)してあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打明けて下さらないんです。僕は何んと云ってもあなたを信ずる事が出来ません。こんな冷淡なことを云うのを許して下さい。然しこれにはあなたにも責(せめ)があると僕は思いますよ。……仕方がない僕は木村君に今日あなたと会ったこのままを云ってやります。僕には如何(どう)判断のしようもありませんもの……然しお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやって下さい。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
「でも木村は、あなたに来たお手紙によると私を信じ切ってくれているのではないんですか」
そう葉子に云われて、古藤は又返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に昂奮して来たようだった。抑え抑えている葉子の気持ちが抑え切れなくなって激しく働き出して来ると、それは何時でも惻々(そくそく)として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
「それで結構。五十川の小母さんは始めからいやだいやだと云う私を無理に木村に添わそうとして置きながら、今になって私の口から一言の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようと云う人なんですから、そりゃ私恨みもします。腹も立てます。ええ、私はそんな事をされて黙って引込んでいるような女じゃない積りですわ。けれどもあなたは初手(しょて)から私に疑いをお持ちになって、木村にも色々御忠告なさった方ですもの、木村にどんな事を云っておやりになろうとも私にはねっから不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村の一番大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、私は人一倍あなたを頼りにして今日もわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じ私も信じ、私は木村を信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれども私を疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事が出来ないでいらっしゃるんですわね……こうなると私は倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただく外仕様がありません。いくら私娘の時から周囲(まわり)から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人の妹まで背負って立つ事は出来ませんからね。……」
古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。若し倉地と云う人の為めにあなたが誤解を受けているのなら……」
そう云ってまだ言葉を切らない中に、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間に這入って来た。これは葉子も意外だったので、葉子は鋭く倉地に眼くばせしたが、倉地は無頓着だった。而して古藤のいるのなどは度外視した傍若無人(ぼうじゃくぶじん)さで、火鉢の向座(むかいざ)にどっかと胡坐(あぐら)をかいた。
古藤は倉地を一眼(ひとめ)見るとすぐに倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏眼になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえと云うような顔付きを葉子にして見せた。葉子は訳が分らないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合せる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄瓶の湯を土瓶に移して、茶を二人に勧めて自分も悠々(ゆうゆう)と飲んだりしていた。
突然古藤は居住いをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれども何んだか僕は今日はこれでお暇(いとま)がしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
そう云って葉子にだけ挨拶をして座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
「失礼をしましてね、本当に今日は。もう一度でよう御座いますから是非お会いになって下さいましな。一生の御願いですから、ね」
と耳打ちをするように囁(ささや)いたが古藤は何んとも答えず、雨の降り出したのに傘(かさ)も借りずに出て行った。
「あなたったらまずいじゃありませんか。何んだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
こう詰(なじ)るように云って葉子が座につくと、倉地は飲み終った茶碗を板の上にとんと音をたてて伏せながら、
「あの男、馬鹿にしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘(ねば)り強い所があるぞ。馬鹿もあの位真直に馬鹿だと油断出来ないものだ。も少し話を続けていて見ろ、お前の遣繰(やりく)りでは間に合わなくなるから。一体何んでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、解らないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
こう云って不敵に笑いながら押付けるよに葉子を見た。葉子はぎくりと釘を打たれたように思った。倉地をしっかり握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に突然に云い当てられたように思ったからだ。然し倉地が本当に葉子を安心させる為めには、しなければならない大事な事が少くとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向き結婚の出来るだけの始末をして見せる事だ。手取早く云えばその妻を離縁する事だ。それまでは如何しても木村をのがしてはならない。そればかりではない。若し新聞の記事などが問題になて、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜(べんぎ)でもある。葉子は然し前の理由はおくびにも出さず後の理由を巧みに倉地に告げようと思った。
「今日は雨になったので出かけるのが大儀だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
そう云って早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子は強(し)いて置き返らした。


二六[編集]

「水戸とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍(ひか)されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、迚(とて)も商売をしていた人のようではありません。尤も水戸の士族のお娘御(むすめご)で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからその筈でもありますが、ちっとも擦(す)れていらっしゃらないでいて、気もお附きにはなるし、しとやかでもあり、……」
ある晩雙鶴館の女将が話に来て四方山(よもやま)の噂(うわさ)の序(ついで)に倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきりと葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優(すぐ)れた人であると聞かされれば聞かされる程妬(ねた)ましさを増すのだった。自分の眼の前には大きな障碍物(しょうがいぶつ)が真暗(まっくら)に立うさがっているのを感じた。嫌悪の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子が抱く不思議な情緒、――普段は何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけに不図(ふと)胸を引き締めて捲(ま)き起って来る不思議な情緒、一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えて見る事の出来る不幸を持っていた。又自分の生んだ子供に対する執着。それも男も女も同じ程度に厳(きび)しく感ずるものか如何かは知らない。然しながら葉子自身の実感から云うと、何んと云っても例えようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気が附く事が屡々(しばしば)だった。木部との愛着の結果定子が生れるようになったのではなく、定子というものがこの世に生れ出る為めに、木部と葉子とは愛着の韁(きずな)に繋(つな)がれたのだとさえ考えられもした。葉子は又自分の父がどれ程葉子を溺愛(できあい)してくれたかをも思って見た。葉子の経験から云うと、両親共にいなくなってしまった今、慕(した)わしさなつかしさを余計に感じさせるものは、格別是れと云って情愛の徴(しるし)を見せはしなかったが、始終軟かい眼色で自分達を見守ってくれていた父の方だった。それから思うと男と云うものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ち得るものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心を鞭(むちう)つ笞(しもと)となった。而(し)かも倉地の妻と子とはこの東京にちゃんと住んでいる。倉地は毎日のようにその人達に遇(あ)っているのに相違ないのだ。
思う男を何処から何処まで自分のものにして、自分のものにしたと云う証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打任せ切ったような心易い気分は他人事(ひとごと)のように、遠い昔の事のように悲しく思いやられるばかりだった。如何(どう)してこれほどまでに自分というものの落付き所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くする事だけをして仕舞わなければ、取り返しがつかなくなる。何処から如何手をつければいいのだ。敵を斃(たお)さなければ、敵は自分を斃すのだ。何んの躊躇(ちゅうちょ)。何んの思案。倉地が去った人達に未練を残すようならば自分の恋は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去は一切焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。皆んな捨てる、皆んな忘れる。その代り倉地にも過去という過去を悉皆(すっかり)忘れさせずにおくものか。それ程の蠱惑(こわく)の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうした一図の熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来週を恐れて宿にとじ籠(こも)ったまま、火鉢の前に坐って、倉地の不在の時はこんな妄想に身も心もかきむしられていた。段々募(つの)って来るような腰の痛み、肩の凝(こ)り。そんなものさえ葉子の心をますます焦立(いらだ)たせた。
殊に倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居たたまれなかった。倉地の居間になっている十畳の間(ま)に行って、そこに倉地の面影を少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮んで来ずに、如何(ど)んな構えとも想像は出来ないが、兎に角倉地の住居のある部屋に、三人の娘達に取り捲かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮んだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地の普段着は益々葉子の想像を擅(ほしいま)まにさせた。いつでも葉子の情熱を引摑んでゆすぶり立てるような倉地特有の膚(はだ)の香、芳醇(ほうじゅん)な酒や煙草から香(にお)い出るようなその香を葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋めながら、麻痺して行くような気持で嗅(か)ぎに嗅いだ。その香の一番奥に、中年の男に特有なふけのような不快な香、他人のであったなら葉子は一たまりもなく鼻を掩(おお)うような不快な香を嗅ぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘達に取り捲かれて楽しく一夕を過している。そう思うとあり合せるものを取って打毀(ぶちこわ)すか、摑んで引き裂きたいような衝動が訳もなく嵩(こう)じて来るのだった。
それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子は唯子供のように幸福だった。それまでの不安や焦燥(しょうそう)は何処にか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目覚めたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸に他愛なく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起った些細(ささい)な事までを、その表情の裕(ゆた)かな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているものの如く語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人の幸福は何処に絶頂があるか判らなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうあり度(た)いと思う事は葉子が予(あらかじ)めそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃんと仕遂げていた。茶碗の置き場所まで、着物の仕舞所(しまいどころ)まで、倉地は自分の手でした通りを葉子がしているのを見出しているようだった。
「然し倉地は妻や娘達を如何するのだろう」
こんな事もそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。然し倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥かしいような些細な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかり融(と)け込んだ自分を見出すのみだった。定子まで犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどと云うたくらみは余りにも馬鹿らしい取越苦労(とりこしぐろう)であるのを思わせられた。
「どうだ生れてからこのかた私の求めていたものはどうどう来ようとしている。然しこんな事がこう手近にあろうとは本当に思いもよらなかった。私見たいな馬鹿はない。この幸福の頂上が今だと誰れか教えてくれる人があったら、私はその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえが何時かは下り坂になる時があるのだろうか」
そんな事を葉子は幸福に浸(ひた)り切った夢心地の中に考えた。
葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将(おかみ)の周旋(しゅうせん)で、芝の紅葉館と道一つ隔てた苔香園(たいこうえん)という薔薇(ばら)専門の植木屋の裏にあたる二階建の家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人が或る豪商の妾(めかけ)になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構(ひとかま)えだった。雙鶴館の女将はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人か出来て少し手狭過ぎるので他処に移転しようかと云っていたのを聞き知っていたので、女将の方で適当な家を探し出してその女を移らせて、その跡を葉子が借りる事に取計らってくれたのだった。倉地が先きに行って中の様子を見て来て、杉林の為めに少し日当りはよくないが、当分の隠れ家としては屈強だと云ったので、直ぐさまそこに移る事に決めたのだった。誰れにも知れないように引越さねばならぬというので、荷物を小別けにして持ち出すのにも、女将は自分の女中達にまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだと云って知らせた。運搬人は凡て芝の方から頼んで来た。而(そ)して荷物があらかた片付いた所で、ある夜遅く、而かもっびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風の折を選んで葉子は幌車(ほろぐるま)に乗った。葉子としてはそれ程の警戒をするには当らないと思ったけれども、女将がどうしても聴かなかった。安全な所に送り込むまでは一旦お引受けした手前、気が済まないと云い張った。
葉子が誂えておた仕立おろしの衣類を着かえているとそこに女将も来合せて脱ぎ返しの世話を見た。襟(えり)の合せ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将は嬉しそうに揉み手をしながら、
「これであすこに大丈夫着いて下さりさえすれば私は重荷が一つ降りると申すものです。然しこれからがあなたは御大抵(ごたいてい)じゃ御座いませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けしていいやら私には判らなくなります。あなたのお心持ちも私は身にしみてお察し申しますが、何処から見ても批点の打ち所のない奥様のお身の上も私には御不憫(ごふびん)で涙がこぼれてしまうんで御座いますよ。でね、これからの事についちゃ私はこう決めました。何んでも出来ます事ならと申上げたいんで御座いますけれども、私には心底(しんそこ)をお打明け申しました所、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でも今日かぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうも私はこんなでいながら甲斐性(かいしょう)が御座いませんで……」
そう云いながらも女将は口を切った時の嬉しげな様子にも似ず、襦袢(じゅばん)の袖を引出す隙(すき)もなく眼に涙を一杯ためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。唯何となく親身な切なさが自分の胸にこみ上げて来た。
「悪く取るどころですか。世の中の人が一人でもあなたのような心持ちで見てくれたら、私はその前に泣きながら頭を下げて難有(ありがと)う御座いますと云う事でしょう。これまでのあなたのお心尽しで私はもう十分。又いつか御恩返しの出来る事もありましょう。……それではこれで御免下さいまし。お妹御にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
少し泣声になってそう云いながら、葉子は女将とその妹分にあたるという人に礼心に置いて行こうとする米国製の二つの手携(てさげ)をしまいこんだ違い棚を一寸見やってそのまま座を立った。
雨風の為めに夜は賑(にぎ)やかな往来もさすがに人通りが絶え絶えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の光が朧(おぼ)ろに空を明るくしている中を嵐模様の雲が恐ろしい勢で走っていた。部屋の中の暖かさに引きかえて、湿気を十分に含んだ風は裾前(すそまえ)を煽(あお)ってぞくぞくと膚に逼(せま)った。ばたばたと風に弄(なぶ)られる前幌(まえほろ)を車夫がかけようとしている隙から、女将がみずみずしい丸髷(まるまげ)を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘の蔭にも隠れようともせず、何か車夫に云い聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶棒(かじぼう)を挙げようとする時女将が祝儀袋(しゅうぎぶくろ)をその手に渡すのが見えた。
「左様なら」
「お大事に」
憚(はばか)るような車の内外(うちそと)から声が交わされた。幌にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇の中を動き出した。
向い風がうなりを立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車を煽らせて足を止める程だった。この四五日火鉢の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝かけの目まで通して襲って来た。葉子は先程女将の言葉を聞いた時には左程(さほど)とも思っていなかったが、少し程立った今になって見ると、それがひしひしと身に応(こた)えるのを感じ出した。自分はひょっとするとあざむかれている。弄(もてあそ)びものにされている。倉地は矢張り何処までもあの妻子と別れる気はないのだ。唯長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服して見ようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつが葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢も楯(たて)もたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りが喜んだその喜びはさもしい糠喜(ぬかよろこ)びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑を入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐(かれん)な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子に牽かされているか、それを誰れが語り得よう、葉子の心は幌の中に吹きこむ風の寒さと共に冷えて行った。世の中から綺麗(きれい)に離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見出されるようにも思えた。何処に嬉しさがある、楽しさがある。自分は又一つの今までに味わなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。又うまうまと悪戯者(いたずらもの)の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこの瀬戸際(せとぎわ)から引く事は出来ない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸り切らずに置くものか。葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見堺(みさかい)がつかなくなってしまっていた。魂を締(し)め木(ぎ)にかけてその油でも搾(しぼ)りあげるような悶(もだ)えの中に已むに已まれぬ執着を見出して我れながら驚くばかりだった。
ふと車が停って梶棒が卸(おろ)されたので葉子ははっと夢心地から我れに返った。恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌をはずしにかかると、真暗だった前方から幽(かす)かに光が漏れて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮騒(しおさい)のような物凄(ものすご)い響が何か変事でも湧(わ)いて起りそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調した着物の濡れるのもかまわず空を仰いで見た。漆(うるし)を流したような雲で固く鎖された空の中に、漆よりも色濃くむらむらと立騒いでいるのは古い杉の木立ちだった。花壇らしい竹垣の中の灌木(かんぼく)の類は枝先きを地につけんばかりに吹き靡(なび)いて、枯葉が渦(うず)のようにばらばらに飛び廻っていた。葉子は我れにもなくそこにべったりと坐り込んでしまいたくなった。
「おい早く這入(はい)らんかよ、濡れてしまうじゃないか」
倉地がランプの燈をかばいつつ家の中から怒鳴(どな)るのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいると云う事さえ葉子には意外のようだった。大分離れた所でどたんと戸か何か外れたような音がしたかと思うと、風はまた一しきりうなりを立てて杉叢(すぎむら)をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯(ちょうちん)の尻を風上(かざかみ)の方に斜(しゃ)に向けて眼八分(めはちぶ)に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯機嫌で待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透(す)き通る程靑ざめていた。なよなよと先ず敷台に腰を下して、十歩ばかり歩くだけで泥になってしまった下駄を、足先きで手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間に立ち上ってから、虚(うつ)ろな眼で倉地の顔をじっと見入った。
「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上り」
二階の間(ま)は電燈で昼間より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴしと鳴りはためいていた。板葺(ぶ)きらしい屋根に一寸釘でも敲(たた)きつけるように雨が降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっているようだった。横の注意の中にはそれだけの事が辛(かろ)うじて入って来た。そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっかと胡坐(あぐら)をかいた。而して自分の火照(ほて)った頰を葉子のにすり附けるとさすがに驚いたように、
「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」
と云いながらその顔を見入ろうとした。然し葉子は無性(むしょう)に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋めてしまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、嘗(かつ)て経験しない激しい情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間歇(かんけつ)的に牽(ひ)き起る啜(すす)り泣きの声を噛(か)みしめても噛みしめても止める事が出来なかった。葉子はそうしたまま倉地の胸で息気(いき)を引き取る事が出きたらと思った。それとも自分の嘗(な)めているような魂の悶えの中に倉地を捲き込む事が出来たらばとも思った。
いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上って来る葉子を見出すだろうとばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂態に驚いたらしかった。
「どうしたと云うんだな、え」
と低く力を罩(こ)めて云いながら、葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子は唯無性にかぶりを振るばかりで、駄々児(だだっこ)のように、倉地の胸にしがみついた。出来るならその肉の厚い男らしい胸を噛み破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を埋めこみたい――そう云うように葉子は倉地の着物を摑んだ。
徐(しず)かにではあるけれども倉地の心は段々葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかき抱く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息気(いき)づかいは荒くなって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。而して顔を伏せたまま涙の隙から切れ切れに叫ぶように声を放った。
「捨てないで頂戴とは云いません……捨てるなら捨てて下さってもよう御座んす……その代り……その代り……はっきり仰有(おっしゃ)って下さい、ね……私は唯引きずられて行くのがいやなんです……」
「何を云っているんだお前は……」
倉地の噛んでふくめるような声が耳許(みみもと)近く葉子にこうささやいた。
「それだけは……それだけは誓って下さい。……ごまかすのは私はいや……いやです」
「何を……何をごまかすかい」
「そんな言葉が私は嫌いです」
「葉子!」
倉地はもう熱情に燃えていた。然しそれは何時でも葉子を抱いた時に倉地に起る野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれを嬉しくも思い、物足らなくも思った。
葉子の心の中は倉地の妻の事を云い出そうとする熱意で一杯になっていた。その妻が貞淑で美しい女であると思えば思う程、その人が二人の間に挟まっているのが呪(のろ)わしかった縦令(たとい)捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪念(たんねん)が出来ないようなひた向きに狂暴は欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどううしてもそれを口の端(は)に上せる事は出来なかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥(ちりあくた)のように踏み蹂(にじ)られるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地の方から一言もそれを云わないのが恨めしかった。倉地はそんな事は云うにも足らないと思っているのかも知れないが……いいえそんな事はない。そんな事のあろう筈はない。倉地は矢張り二股かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんな淫(みだ)らな未練がある筈だ。男の心とは云うまい、自分も倉地に出遇うまでは、異姓に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いて見る事が出来たのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験の為めに責めさいなまれた。進んで恋の虜(とりこ)となったものが当然陷(おちい)らなければならない例えようのない程暗く深い疑惑は後から後から口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉通りに張り裂けようとしていた。
然し葉子の心が傷(いた)めば傷むほど倉地の心は熱して見えた。倉地が如何(どう)して葉子がこんなに機嫌を悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがて強いて葉子を自分の胸から引き離してその顔を強く見守った。
「何をそう理窟もなく泣いているのだ……お前は俺れを疑ぐっているな」
葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解(と)けて漂うような眼を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
「今日俺れはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での事をそれとなく聞き糺(ただ)そうとしおったから、俺れは残らず云って退(の)けたよ。新聞に俺れ達の事が出た時でもが、慌てるがものはないと思っとったんだ。どうせ何時(いつ)かは知れる事だ。知れる程なら、大っぴらで早いがいい位のものだ。近い中に会社の方は首になろうが、俺れは、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面(つら)に泥を塗って喜んでる俺れが馬鹿に見えような」
そう云ってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
葉子は然しそうはさせなかった。素早く倉地の膝から飛び退(の)いて畳みの上に頬を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、素直に嬉しがって、心を涙に溶(と)いて泣きたかった。然し万一倉地の言葉がその場遁(のが)れの勝手な造り事だったら……何故倉地は自分の妻や子供達の事を云って聞かせてはくれないのだ。葉子は訳の解らない涙を泣くより術(すべ)がなかった。葉子は突伏したままでさめざめと泣き出した。
戸外の嵐は気勢を加えて、物凄(ものすご)く更(ふ)けて行く夜を荒れ狂った。
「俺れの云うた事が解らんならまあ見とるがいいさ。俺れはくどい事は好かんからな」
そう云いながら倉地は自分を抑制しようとするように強いて落着いて、葉巻きを取り上げて煙草盆を引き寄せた。
葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。然し自分で自分を如何(どう)する事も出来なかった。
葉子は嵐の中に我れと我が身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。


二七[編集]

葉子はその夜倉地と部屋を別にして床に就(つ)いた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心をこめた様子で彼れ是(こ)れ云うのを、葉子はすげなく跳(は)ねつけて、折角とってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたが何時までも寝付かれないで二時近くまで言葉通り輾転反側(てんてんはんそく)しつつ、繰返し繰返し倉地の夫婦関係を種々に妄想したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗って見たりしていた。それでも果ては頭も体も疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
うつらうつらとした眠りから、突然例えようのない淋しさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が眼を醒ましたのか分らなかった――葉子は暗闇の中で眼を開いた。嵐の為に電線に故障が出来たと見えて、眠る時には点(つ)け放(はな)しにしておいた灯が何処(どこ)も此処(ここ)も消えているらしかった。嵐は然し何時の間にか凪(な)ぎてしまって、嵐の後の晩秋の夜は殊更(ことさら)静かだった。山内(さんない)一面の杉森からは深山のような鬼気がしんしんと吐き出されるように思えた。蟋蟀(こおろぎ)が隣りの部屋の隅(すみ)でかすれがすれに声を立てていた。僅(わず)かな而(し)かも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は曉前(かつきまえ)の冷えを感じて冴(さ)え冴(ざ)えと澄んでいた。葉子は先ず自分がたった一人で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかった頃はいつでも一人で寝ていたのだが、好(よ)くもそんな事が永年に亙(わた)っつてで来なものだったと自分ながら不思議に思われる位、それは今の葉子を物足らなく心淋しくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地は更になかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今までは兎(と)に角(かく)倉地の熱意に少しも変りが起った所は見えなかった。如何に恋に眼がふさがっても、葉子はそれを見極める位の冷静な眼力(がんりき)は持っていた。そんな事は十分に知り抜いている癖に、おぞましくも昨夜のような馬鹿な真似をしてしまった自分が自分ながら不思議な位だった。どんなに情に激した時でも大抵は自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥かしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それが本当だったのではないか知らんとも思われた。而(そ)して夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤(おとがい)に感じながら心の中で独語(ひとりご)ちた。
「何を私は考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事は遂(つい)ぞない事だのに」
そう云いながら葉子は肩だけ置き直って、枕頭(まくらもと)の水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷え切った水が喉許(のどもと)を静かに流れ下って胃の腑(ふ)に拡がるまではっきりと感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚が出来て舌の知らない味を味い得たと思う程快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども脚の方は反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼(せま)って来るのだった。葉子は又きびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとする程だった。然し葉子はそれをじっと耐(こら)えるだけの冷静さを恢復(かいふく)していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手際(てぎわ)よくは成し遂げられぬ。もっと冷めたい智慧に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白むのを知らずに又眠りに誘われて行った。
翌日葉子はそれでも倉地より先きに眼を覚まして手早く着がえをした。自分で板戸を繰り開けて見ると、縁先きには、枯れた花壇の草や灌木が風の為めに吹き乱された小庭があって、その先きは、杉、松、その他の喬木(きょうぼく)の茂みを隔てて苔香園(たいこうえん)の手広い庭が見やられていた。昨日までいた雙鶴館の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙(ひな)びた自然の姿が葉子の眼の前には見渡された。まだ晴れ切らない狭霧(さぎり)を罩(こ)めた空気を通して、杉の葉越しに射しこむ朝の日の光が、雨にしっとりと潤(うるお)った庭の黒土の上に、真直(まっすぐ)な杉の幹を棒縞(ぼうじま)のような影にして落していた。色さまざまな桜の落葉が、日向(ひなた)では黄に紅に、日影では樺(かば)に紫に庭を彩(いろど)っていた。彩っていると云えば菊の花もあちこちにしつけられていた。然し一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵一つさえない程、貧しく見える瀟洒(しょうしゃ)な趣味か、何処にでも金銀がそのまま捨ててあるような驕奢(きょうしゃ)な趣味でなければ満足が出来なかった。残ったのを捨てるのが惜しいとか勿体(もったい)ないとか云うような心持ちで、余計な石や植木などを入れ込んだらしい庭の造り方を見たりすると、すぐさまむしり取って眼にかからない所に投げ棄てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずする程湧き上って来た。
それから葉子は家の中を隅から隅まで見て廻った。昨日玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、逸早(いちはや)く葉子の所に飛んで来たのを案内に立てた。十八九の小奇麗(こぎれい)な娘で、きびきびした気象らしいのに、如何にも蓮葉(はすは)でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見貫(みぬ)いて、是れはいい人だと思った。それは矢張り雙鶴館の女将が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘でだった。つや(彼女の名はつやと云った)は階子段下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣りの床の間附きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関と併(なら)ぶ茶席風の六畳を案内し、廊下を通った突き当りにある思いの外(ほか)手広い台所、風呂場を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、凡(すべ)ての造作に特別な数寄(すき)が懲(こ)らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前栽は割合に荒れずにいて、眺(なが)めが美しかったが、葉子は垣根越しに苔香園の母屋(おもや)の下の便所らしい汚ない建物の屋根を見附けて困ったものがあると思った。その外には台所の側につやの四畳半の部屋が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげし附きになって、三つまでは床の間さえあるのに如何(どう)して集めたものか兎に角掛物なり置物なりがちゃんと飾られていた。家の造りや家の様子んどには可(か)なりの註文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書の事になると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生れつき機敏に働く才気のお蔭で、見たり聞いたりした所から、美術を愛好する人々と膝を併べても、兎に角余りぼろらしいぼろは出さなかったが、若い美術家などが讃(ほ)める作品を見ても何処が優れて何処に美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかない事があった。絵と云わず字と云わず、文學的の作物などに対しても葉子の頭は憐れな程通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。然し葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくはなかった。芸術家など云う連中には、骨董(こっとう)などをいじくって古味(ふるみ)と云うようなものを難有がる風流人と共通したような気取りがある。その似而非(えせ)気取りを葉子は幸にも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅物(ふくもの)を見て廻っても、本当の値打ちがどれ程のものだか更に見当がつかなかった。唯(ただ)あるべき所にそういう物のあることを満足に思った。
つやの部屋のきちんと手際(てぎわ)よく片付いているのや、二三日空家になっていたのにも係(かかわ)らず、台所が綺麗に拭き掃除がされていて、布巾(ふきん)などが清々(すがすが)しくからからに乾かして懸(か)けてあったりするのは一々葉子の眼を快く刺戟(しげき)した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔好きな女中とを得た事が先ず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
葉子はつやの汲んで出した丁度いい加減の湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜の事などは気にもかからない程心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上って行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、詫(わ)びたいような気持ちでそっと襖(ふすま)を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚(はだ)の香が暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子は我れにもなく駈(か)けよって、仰向けに熟睡している倉地の上に羽がいにのしかかった。
暗い中で倉地は眼覚めたらしかった。而して黙ったまま葉子の髪や着物から花弁のようにこぼれ落ちるなまめかしい香を夢心地で嗅いでいるようだったが、やがて物惰(ものだる)げに、
「もう起きたんか。何時だな」
と云った。丸で大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬を倉地のにすり附けると、寝起きの倉地の頰は火のように熱く感ぜられた。
「もう八時。……お起きにならないと横浜の方がおそくなるわ」
倉地は矢張り物惰げに、袖口からにょきんと現われ出た太い腕を延べて、短い散切(ざんぎ)り頭をごしごしと掻(か)き廻しながら、
「横浜?……横浜にはもう用はないわい。何時首になるか知れない俺れがこの上の御奉公をしてたまるか。是れも皆んなお前のお蔭だぞ。業(ごう)つくばり奴」
と言っていきなり葉子の頸筋(くびすじ)を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
暫(しばら)くして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろりと忘れてしまったように平気でいた。二人が始めて離れ離れで寝たのにも一言も云わないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々として何んと云う事もなく喜ばしくって堪らなかった。で、倉地を残して台所に降りた。自分で自分の食べるものを料理するという事にも嘗てない物珍らしさと嬉しさとを感じた。
畳一畳がた日の射(さ)しこむ茶の間の六畳で二人は朝餉(あさげ)の膳(ぜん)に向った。嘗ては葉山で木部と二人でこうした楽しい膳に向った事もあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較する事も出来ないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米を磨(と)いだり、火を燃(た)きつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。然し暫くの中にそんな事をする木部の心持ちがさもしく思われて来た。おまけに木部は一日々々と物臭(ものぐ)さになって、自分では手も下しもせずに、邪魔になる所に突立ったまま指図がましい事を云ったり、葉子には何等の感興も起させない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟(ぎん)じたりした。葉子はそんな眼に遇うと軽蔑し切った冷やかな眸(ひとみ)でじろりと見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんな事はてんでしなかった。大きな駄々児(だだっこ)のように、顔を洗うといきなり膳の前に胡坐(あぐら)をかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃと綺麗に片附けて行った。これが木部だったら、出す物一つ一つに知ったか振りの講釈をつけて、葉子の腕前を感傷的に賞(ほ)めちぎって、可なり沢山を喰(く)わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は眼で撫(な)でさするようにして倉地が一心に箸(はし)を動かすのを見守らずにはいられなかった。
やがて箸と茶碗とをからりと放(な)げ捨てると、倉地は所在無さそうに葉巻をふかして暫くそこらを眺め廻していたが、いきなり立ち上って尻っぱしょりをしながら裸足(はだし)のまま庭に飛んで降りた。而してハーキュリーズが針仕事でもするようなぶきっちょうな様子で、狭い庭を歩き廻りながら片隅から片附け出した。まだびしゃびしゃするような土の上に大きな足跡が縦横に印(しる)された。まだ枯れ果てない菊や萩などが雑草と一緒くたに情け容赦もなく根こそぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。而して縁際(えんぎわ)にしゃがんで柱に凭(もた)れながら、時には余りのおかしさに高く声を挙げて笑いこけずにはいられなかった。
倉地は少し働き疲れると苔香園の方を窺(うかが)ったり、台所の方に気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。而して泥になった手を後ろに廻して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先きに自分の顔を突き出してお壺口(つぼぐち)をした。葉子も悪戯(いたずら)らしく周囲に眼を配ってその顔を両手に挾みながら自分の唇を与えてやった。倉地は勇み立つようにして又土の上にしゃがみこんだ。
倉地はこうして一日働き続けた。日がかげる頃になって葉子も一緒に庭に出て見た。唯乱暴な、しょう事なしの悪戯仕事とのみ思われたものが、片附いて見ると何処から何処まで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭の隅にあった椎の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹(ぼたん)には、藁(わら)で器用に霜囲(しもがこ)いさえしつらえてあった。
こんな淋しい杉森の中の家にも、時々紅葉館から音曲の音がくぐもるように聞えて来たり、苔香園から薔薇の香りが風の具合でほんのりと香(にお)って来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑(あざわら)おうとする、葉子の旧友達に対して、嘗て葉子が抱いていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんな真似はして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものを何処かに置き忘れたように、そんな事は思いも出さないで、旧友達の通って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。


二八[編集]

こんな夢のような楽しさが他愛もなく一週間程は何んの故障も牽(ひ)き起さずに続いた。歓楽に耽溺(たんでき)し易い、従って何時(いつ)でも現在を一番楽しく過ごすのを生れながら本能としている葉子は、こんな有頂天な境界から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会う事の出来ない妹達が、休日にかけて頻(しき)りに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片附かないとか、口実を設(もう)けて拒(こば)んでしまった。木村からも古藤の所か五十川女史の所かに宛(あ)てて便りが来ているに相違ないと思ったけれども、五十川女史は固(もと)より古藤の所にさえ住所が知らしてないので、それを廻送してよこす事も出来ないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。然し葉子は何時でも思い捨てるようにその名を心の中から振り落そうと努めた。倉地の妻の事は何かの拍子(ひょうし)につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸も出来ない位引締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。而(そ)してその為めには倉地にあらん限りの媚(こ)びいと親切とを捧げて、倉地から同じ程度の愛撫(あいぶ)を貪(むさぼ)ろうとした。そうする事が自然にこの難題に解決をつける導火線(みちび)にもなると思った。
倉地も葉子に譲らない程の執着を以て葉子が捧げる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命(いのち)としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒(はてんこう)な事だったらしい。二人は、初めて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かし度(た)いとあせる、それと同じ熱情を捧げ合って互々を楽しんだ。楽しんだと云うより苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手許(てもと)に届いたけれども、倉地はその表書きさえ眼を通そおうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束にされて、葉子が自分の部屋に定めた玄関側の六畳の違い棚に空しく積み重ねられた。葉子の手許には妹達からの外(ほか)には一枚の葉書さへ来なかった。それほど世間から自分達を切り放しているのを二人とも苦痛とは思わなかった。苦痛どろこではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間に発(あば)くような事はないと倉地が云い出したのだった。
然しこんな生活を倉地に永い間要求するのは無理だと云うことを葉子は遂に感付かねばならなかった。ある夕食の後倉地は二階の一間で葉子を力強く膝の上に抱き取って、甘い私語(ささやき)を取り交(か)わしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻(せっぷん)の後にすぐ、倉地が思わず出た欠伸(あくび)をじっと噛(か)み殺したのを逸早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽が既に峠を越した事を知ったその夜は葉子には不幸な一夜だった。辛うじて築き上げた永遠の城塞が、果敢(はか)なくも瞬時の蜃気楼(しんきろう)のように見る見る崩れて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながら殆んど一夜を眠らずに通してしまった。
それでも翌日になると葉子は快活になっていた。殊更快活に振舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛(できあい)は葉子をして殆んど自然に近い容易さを以てそれをさせるに十分だった。
「今日は私の部屋で面白い事をして遊びましょう。いらっしゃいな」
そう云って少女が少女を誘うように牡牛(おうし)のように大きな倉地を誘った。倉地は煙ったい顔をしながら、それでもその後から跟(つ)いて来た。
部屋はさすがに葉子のものであるだけ、何処となく女性的な軟味(やわらかみ)を持っていた。東向きの腰高窓(こしだかまど)には、もう冬といっていい十一月末の日が熱のない強い光を射つけて、亜米利加から買って帰った上等の香水をふりかけた匂い玉から幽(かす)かながら極めて上品な芳芬(ほうふん)を静かに部屋の中にまき散らしていた。葉子はその匂い玉の下っている壁際の柱の下に、自分にあてがわれたきらびやかな縮緬(ちりめん)の座布団を移して、それに倉地を坐らせておいて、違い棚から郵便の束をいくつとなく取下ろして来た。
「さあ今朝は岩戸の隙から世の中を覗(のぞ)いて見るのよ。それも面白いでしょう」
と云いながら倉地に寄り添った。倉地は幾十通とある郵便物を見たばかりでいい加減げんなりした様子だったが、段々と興味を催(もよお)して来たらしく、日の順に一つの束からほどき始めた。
如何につまらない事務用の通信でも、交通遮断(しゃだん)の孤島か、障壁で高く囲(かこ)まれた美しい牢獄(ろうごく)に閉じこもっていたような二人に取っては予想以上の気散じだった。倉地も葉子もあり触れた文句にまで思い存分の批評を加えた。こう云う時の葉子はその迸(ほとばし)るような暖かい才気の為めに世にすぐれて面白味の多い女になった。口を衝(つ)いで出る言葉々々がどれもこれも絢爛(けんらん)な色彩に包まれていた。二日目の所には岡から来た手紙が現われ出た。船の中での礼を延べて、とうとう葉子と同じ船で帰って来てしまった為めに、家元では相変らずの薄志弱行と人毎(ひとごと)に思われるのが彼れを深く責める事や、葉子に手紙を出したいと思ってあらゆる手がかりを尋ねたけれども、如何(どう)しても解らないので会社で聞き合せて事務長の住所を知り得たからこの手紙を出すと云う事や、自分は唯々葉子を姉と思って尊敬もし慕いもしているのだから、せめてその心を通(かよ)わすだけの自由を与えて貰いたいと云う事だのが、思い入った調子で、下手な字体で書いてあった。葉子は忘却の廃址(はいし)の中から、生々(なまなま)とした少年の大理石像を掘りあってた人のように面白がった。
「私が愛子の年頃だったらこの人と心中位しているかも知れませんね。あんな心を持った人でも少し齢(とし)を取ると男はあなた見たいになっちまうのね」
「あなたとは何んだ」
「あなた見たいな悪党に」
「それはお門(かど)が違うだろう」
「違いませんとも……御同様にと云う方がいいわ。私は心だけあなたに来て、体はあの人に遣るとほんとはよかったんだが……」
「馬鹿!俺れは心なんぞに用はないわい」
「じゃあ心の方をあの人にやろうか知らん」
「そうしてくれ。お前んはいくつも心がある筈だから、有りったけくれてしまえ」
「でも可哀そうだから一番小さそうなのを一つだけあなたの分に残して置きましょうよ」
そう云って二人は笑った。倉地は返事を出す方に岡のその手紙を仕分けた。葉子はそれを見て軽い好奇心が湧くのを覚えた。
沢山の中からは古藤のも出て来た。宛名(あてな)は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られ分厚(ぶあつ)な手紙だけが封じられていた。それと同時に木村の手紙が後から二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、その凡てを詠まない中にずたずたに引裂いてしまった。
「馬鹿な事をするじゃない。読んで見ると面白かったに」
葉子を占領し切った自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこう云った。
「読むと折角の昼御飯がおいしくなくなりますもの」
そう云って葉子は胸糞(むなくそ)の悪いような顔付きをして見せた。二人は他愛なく笑った。
「報正新報社」からのもあった。それを見ると倉地は、一時は揉消(もみけ)しをしようと思ってわたりを附けたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないと云って、今度は倉地が封のままに引裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめて見たりした。然しその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
やがて郵船会社から宛てられた江戸川紙の大きな封書が現われ出た。倉地は一寸眉に皺(しわ)をよせて少し躊躇(ちゅうちょ)した風だったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしに受取った葉子は魔がさしたようにはっと思った。とうとう倉地は自分の為めに……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探(さぐ)り出した。
果してそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受取方に関する注意が事々しい行書で書いてあるのだった。葉子は何んと云っていいか分らなかった。こんな恋の戯(たわむ)れの中から斯程(かほど)な打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子に云って聞かせた言葉は本当の事だったのか。これ程までに倉地は真身(しんみ)になってくれていたのか。葉子は辞令を膝の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。眼がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った。鼻の奥が暖かく塞(ふさ)がって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
「本当に私が悪う御座いました……許して下さいまし……(そう云う中に葉子はもう泣き始めていた)……私ももう日蔭の妾(めかけ)としてでも囲(かこ)い者としてでもそれで十分に満足します。ええ、それで本当によう御座んす。私は嬉しい……」
倉地は今更何を云うと云うような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
「妾も囲い者もあるかな、俺れには女はお前一人より無いんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶(かかあ)に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
と云って胡坐(あぐら)の膝で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気(いき)をつめて、泣きやんで、呆(あき)れて倉地の顔を見た。
「葉子、俺れが木村以上にお前に深惚(ふかぼ)れしているといつか船の中で云って聞かせた事があったな。俺れはこれでいざとなると心にもない事は云わない積りだよ。雙鶴館にいる間も俺れは幾日も浜に行きはしなんだのだ。大抵は家内の親類達との談判で頭を悩ませられていたんだ。だが大抵鳬(けり)がついたから、俺れは少しばかり手廻りの荷物だけ持って一足先きにここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱりしたわ。これには雙鶴館のお内儀(かみ)も驚きくさるだろうて……」
会社の辞令ですっかり倉地の心持ちをどん底から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙に濡れひたりながらそれを拭き取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったりと横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事が既に解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきりすべき筈だった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつの間にか去られた倉地の妻その人のような淋しい悲しい自分になっているのを発見した。
倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のように真黒にふっくりと乱れた葉子の髪の毛をやさしく撫(な)で廻した。而して毎時(いつ)もに似ずしんみりした調子になって、
「とうとう俺れも埋(うも)れ木(ぎ)になってしまった。これから地面の下で湿気を喰いながら生きて行くより外にはない。――俺れは負け惜しみを云うは嫌いだ。こうしている今でも俺れは家内や娘達の事を思うと不憫(ふびん)に思うさ。それがない事なら俺れは人間じゃないからな。……だが俺れはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながら俺れは馬鹿になり腐ったらしいて」
そう云って葉子の首を固くかき抱いた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地に呑(の)み込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。私だって定子を見事に捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度も詫びるように繰り返していた。それが又自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地n胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢(じゅばん)とを通して倉地の胸を暖かく浸(ひた)す程熱していた。倉地の眼も珍らしく曇っていた。倉地は上体を前後に搖ぶって、赤子でも寝かしつけるようにした。戸外では又東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森がごうごうと鳴りを立てて、枯葉が明るい障子(しょうじ)に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立てて乾いた紙にぶつかった。それは埃(ほこり)立ったが、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえ解らなかった。唯自分の心が幸福に淋しさに燃え爛(ただ)れているのを知っていた。唯このままで永遠は過ぎよかし。唯このままで眠りのような死の淵に陥(おちい)れよかし。とうとう倉地の心を全く融け合った自分の心を見出した時、葉子の魂の願は生きようという事よりも死のうと云う事だった。葉子はその悲しい願の中に勇み甘んじて溺(おぼ)れて行った。


二九[編集]

この事があってから又暫くの間、倉地は葉子と唯二人の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。而(そ)して葉子が家の中をいやが上にも整頓して、倉地の為めに住み心地のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遥(しょうよう)を楽しませる為めに精魂を尽した。何時苔香園との話をつけたものか、庭の隅に小さな木戸を作って、その花園の母屋からずっと離れた小逕(こみち)に通い得る仕掛けをしたりした。二人は時時その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人達は二人の心を察するように、成るべく二人から遠ざかるように勉(つと)めてくれた。十二月の薔薇の花園は淋しい廃園の姿を目の前に拡げていた。可憐(かれん)な花を開いて可憐な匂を放つ癖にこの灌木は何処か強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先きにはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようと藻掻(もが)いているらしかった。種々な色の蕾(つぼみ)が大方葉の塵尽くした梢(こずえ)にまで残っていた。然しその花弁は存分に霜に虐(しいた)げられて、黄色に変色して互に膠着(こうちゃく)して、恵み深い日の目に遇っても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館のだらだら坂を東照宮の方まで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて人通りは稀(ま)れで二人が彷(さまよ)う道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行き遇う女の人達の衣装を物珍らしく眺めやった。それがどんなに粗末な不格好(ぶかっこう)な、いでたちであろうとも、女は自分以外の女の服裝を眺めなければ満足出来ないものだと葉子は思いながらそれを倉地に云って見たりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装(よそお)わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。本当は二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはその淋しい坂道の上下から、立派な馬車や抱え車が続々坂の中段を目ざして集まるのに遇う事があった。坂の中段から紅葉館の下に当る辺に導かれた広い道の奥からは、能楽のはやしの音が床(ゆか)しげに漏れて来た。二人は能楽堂での能の催しが終りに近づいているのを知った。同時にそんな事を見たのでその日が日曜日である事にも気が付いた位二人の生活は世間からかけ離れていた。
こうした楽しい孤独も然しながら永遠には続き得ない事を、続かしていてはならない事も鋭い葉子の神経は根ざとく覚って行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやに云いつけて反古紙(ほごがみ)を集めた箱を自分の部屋に持って来さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を選(え)り出そうとする自分を見出していた。色々な形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の眼に曝(さら)し出した。暫くの間葉子は引きつけられるようにそう云う紙片を手当り次第に手に取り上げて読み耽(ふけ)った。半成の画が美しいように断簡には云い知れぬ情緒が見出された。その中に正しく折り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子に逼(せま)って来るようにさえ思え出した。葉子は我れにもなくその思い出に浸(ひた)って行った。然しそれは長い時が過ぎる前に壊(くず)れてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。而して凡ての過去は嘔気(はきけ)のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。
然しこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。而してそれが如何(どう)してもいい徴候でない事を知った。そればかりではない。二人は霞を喰って生きる仙人のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長位の給料で余財が出来ているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金遣(かねづか)いをしていた男にはなおの事だ。その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。而してそれは結局二人の為めにいい事であるに相違ない。葉子はそう思った。
或晩それは倉地の方から切り出された。長い夜を所在なさそうに読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、
「葉子。一つお前の妹達を家に呼ぼうじゃないか……それからお前の子供って云うのも是非ここで育てたいもんだな。俺れも急に三人まで子を失(な)くしたら淋しくってならんから……」
飛び立つような思いを葉子は逸早くも見事に胸の中で押鎮(おししず)めてしまった。而(そう)して、
「そうですね」
と如何にも興味なげに云ってゆっくりと倉地の顔を見た。
「それよりあなたのお子さんを一人なり二人なり来て貰ったらいかが。……私奥さんの事を思うといつでも泣きます(葉子はそう云いながらもう涙を一杯に眼にためていた)けれど私は生きてる間は奥さんを呼び戻して上げて下さいなんて……そんな偽善者じみた事は云いません。私にはそんな心持ちは微塵(みじん)もありませんもの。お気の毒なという事と、二人がこうなってしまったという事とは別物ですものねえ。せめては奥さんが私を詛(のろ)い殺そうとでもして下されば少しは気持ちがいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰っていらっしゃると思うとつい身にうまされてしまいます。だからと云って私が自分が命を放(な)げ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたが私をお捨てになるまではね、喜んで私は私を通すんです。……けれどもお子さんなら私本当にちっとも構いはしない事よ。どうお呼び寄せになっては?」
「馬鹿な。今更そんな事が出来てたまるか」倉地は嚙んで捨てるようにそう云って横を向いてしまっつた。本当を云うと倉地の妻の事を云った時には葉子は心の中をそのまま云っていたのだ。その娘達の事を云った時にはまざまざとした虚言(うそ)をついていたのだ。葉子の熱意は倉地の妻を香(にお)わせるものは凡て憎かった。倉地の家の方から持ち運ばれた調度すら憎かった。況(ま)してその子が呪わしくなくって如何(どう)しよう。葉子は単に倉地の心を引いて見たいばかりに怖々(こわごわ)ながら心にもない事を云って見たのだった。倉地の噛んで捨てるような言葉は葉子を満足させた。同時に少し強過ぎるような語調が懸念でもあった。倉地の心底をすっかり見て取ったという自信を得た積りでいながら、葉子の心は何か機(おり)につけてこうぐらついた。
「私が是非というんだから構わないじゃありませんか」
「そんな負け惜しみを云わんで、妹達なり定子なりを呼び寄せようや」
そう云って倉地は葉子の心の隅々まで見抜いてるように、大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をして微笑んだ。
葉子はいい潮時を見計(みはから)って巧みに不承々々(ふしょうぶしょう)そうに倉地の言葉に折れた。而して田島の塾からいよいよ妹達二人を呼び寄せる事にした。同時に倉地はその近所に下宿することを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ妹達に打明けてなかったからだ。それはもう少し先きに適当な時期を見計って知らせる方がいいという葉子の意見だった。倉地にもそれに不服はなかった。而して朝から晩まで一緒に寝起きするよりは、離れた所に住んでいて、気の向いた時に遇う方がどれ程二人の間の戯(たわむ)れの心を満足させるか知れないのを、二人は暫くの間言葉通りの同棲(どうせい)の結果として認めていた。倉地は生活を支えて行く上にも必要であるし、不休の活動力を放射するにも必要なので解職になって以来何かの事業の事を時々思い耽っているようだったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手する為めには、当座の所、人々の出入に葉子の顔を見られない所で事務を取るのを便宜としたらしかった。その為めにも倉地が暫くなりとも別居する必要があった。
葉子の立場は段々と固まって来た。十二月の末に試験が済むと、妹達は田島の塾から少しばかりの荷物を持って帰って来た。二人は葉子の部屋だった六畳の腰窓の前に小さな二つの机を並べた。今まで何んとなく遠慮勝ちだったつやも生れ代ったように快活なはきはきした少女になった。唯愛子だけは少しも嬉しさを見せないで、只慎(つつ)しみ深く素直だった。
「愛姉さん嬉しいわねえ」
貞世は勝ち誇れるものの如く、縁側の柱に倚(よ)りかかって凝(じっ)と冬枯れの庭を見詰めている姉の肩に手をかけながら倚り添った。愛子は一所(いちところ)を瞬(またた)きもしないで見詰めながら、
「ええ」
と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
「でもちっとも嬉しそうじゃないわ」
と責めるように云った。
「でも嬉しいんですもの」
愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李(こうり)を明けて、汚れ物などを選(よ)り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。然し来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
「何んで静かな所でしょう。塾より屹度(きっと)静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったら淋しいわねえ。私ひとりでお便所(はばかり)に行けるか知らん。……愛姉さん、そら、あすこに木戸があるわ。屹度隣りのお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのお姉様。誰れのお家むこうは?……」
貞世は眼に這入(はい)るものはどれも珍らしいと云うように独(ひと)りでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭下駄をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっしの穂に出かける容子だった。
その物音を聞くと葉子はもう我慢が出来なかった。
「愛さんお待ち。お前さん方のものがまた片附いてはいませんよ、遊び廻るのは始末をしてからになさいな」
愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい眼を伏せながら座敷の中に這入って来た。
それでもその夜の夕食は珍らしく賑(にぎ)やかだった。貞世がはしゃぎ切って、胸一杯のものを前後も連絡もなくしゃべり立てるので愛子さえも思わずにやりと笑ったり、自分の事を容赦なく云われたりすると恥かしそうに顔を赤らめたりした。
貞世は嬉しさに疲れ果てて夜の浅い中に寝床に這入った。明るい電燈の下に葉子と愛子と向い合うと、久しく遇わないでいた骨肉の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておく方がいいと思って、話のきっかけに少し言葉を改めた。
「まだあなた方にお引き合せがしてないけれども倉地って方ね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落着いてうなずいて見せた)……あの方が今木村さんに成りかわって私の世話を見ていて下さるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見付けて下さったの。木村さんは米国で色々事業を企(くわだ)てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく行かないで、お金が注ぎ込みにばかりなっていて、迚(とて)もこっちには送って下されないの、私の家はあなたも知っての通りでしょう。どうしても暫くの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもその積りでいて頂戴よ。ちょくちょくここにも来て下さるからね。それにつけて世間では何かくだらない噂(うわさ)をしているに違いないが、愛さんの塾なんかでは何んにもお聞きではなかったかい」
「いいえ、私達に面と向って何か仰有(おっしゃ)る方は一人もありませんわ。でも」
と愛子は例の多恨らしい美しい眼を上眼(うわめ)に使って葉子を窃(ぬす)み見るようにしながら、
「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
「どんな新聞?」
「あらお姉様御存じなしなの。報正新報に続き物でお姉様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」
「へーえ」
葉子は自分の無智に呆れるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬと云うよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子は呆れたのだった。然しそれは愛子の眼に自分を非常に無辜(むこ)らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい眼をして姉の驚いた顔を見やった。
「何時(いつ)?」
「今月の始め頃でしたか知らん。だもんですから皆さん方の間では大変な評判らしいんですの。今度も塾を出て来年から姉の所から通いますと田島先生に申上げたら、先生も家の親類達に手紙や何んかで大分お聞き合せになったようですのよ。而(そう)して今日私達を自分のお部屋にお呼びになって『私はお前さん方から塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』と仰有るのよ。でも私達は何んだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理をお願いして帰って来てしまいましたの」
愛子は普段の無口に似ずこう云う事を話す時にはちゃんと筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり読めた。葉子の憤怒(ふんぬ)は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人は何処まで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友達には五十川と云う人もある筈だ。若(も)し五十川の小母さんが本当に自分の改悛(かいしゅん)を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、夫田川の手を経てさせる事は出来る筈なのだ。田島さんも何んとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹達に云う位なら何故(なぜ)自分は一言忠告でもしてはくれないのだ。(ここで葉子は帰朝依頼妹達を預ってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。然し事情がそれを許さないのだろう位は察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除(の)け者にされているのだ。葉子は何かたたき附けるものでもあれば、而して世間と云うものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
「古藤さんは」
「たまにお便りを下さいます」
「あなた方も上げるの」
「ええたまに」
「新聞の事を何か云って来たかい」
「何んにも」
「ここの番地は知らせて上げて」
「いいえ」
「何故」
「お姉様の御迷惑になりはしないかと思って」
この小娘はもう皆んな知っている、と葉子は一種の怖(おそ)れと警戒とを似て考えた。何事も心得ながら白々(しらじら)しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜(かんちょう)のようにも思えた。
「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
葉子は冷然として、燈の下に俯向(うつむ)いてきちんと坐っている妹を尻眼にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
その夜十一時頃倉地が下宿の方から通(かよ)って来た。裏庭をぐるっと廻って、毎夜戸じまりもせずにおく張出しの六畳の間から上って来る音が、じれながら鉄瓶の湯気を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上って猫のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。丁度敷居を上ろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、いつもの通り、立ち上りざまに葉子を抱擁(ほうよう)しようとした。然し葉子はそうはさせなかった。而して急いで戸を締め切ってから、電灯のスヰッチをひねった。火の気のない部屋の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
「どうした顔色がよくないぞ」
倉地は訝(いぶか)るように葉子の顔をまじまじと見やりながらそう云った。
「待って下さい、今私ここに火鉢を持って来ますから、妹達が寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」
そう云いながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。而して酒肴(さけさかな)もそこにととのえた。
「色が悪い筈……今夜またすっかり向腹(むかっぱら)が立ったんですもの。私達の事が報正新報に皆んな出てしまったのを御存じ?」
「知っとるとも」
倉地は不思議でもないという顔をして眼をしばだたいた。
「田川の奥さんという人は本当にひどい人ね」
葉子は歯を噛(か)みくだくように鳴らしながら云った。
「全くあれは方図(ほうず)のない悧巧(りこう)馬鹿だ」
そう吐き捨てるように云いながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、屹度その中(うち)掲載される「報正新報」の記事を見せまい為めに引越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身の上を相談した時、甲斐絹(かいき)のどてらを着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのが後で知れた。その男は名を正井と云った)からつやの取次ぎで内秘(ないひ)に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地の為めに又会社自身の為めに、極力揉(も)み消しをしたのだけれども、新聞社では一向応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段の懐金(ふところがね)を貪(むさぼ)ろうという目論見(もくろみ)ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としては黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮議(せんぎ)をした結果、倉地と船医の興録とが処分される事になたと云うのだ。
「田川の嬶(かかあ)の悪戯(いたずら)に決まっとる。馬鹿に口惜しかったと見えるて。……が、こうなりゃ結局パッとなった方がいいわい。皆んな知っとるだけ一々申訳を云わずと済む。お前はまだまだそれしきの事にくよくよしとるんか。馬鹿な。……それより妹達は来とるんか。寝顔にでもお目に懸っておこうよ。写真――船の中にあったね――で見ても可愛らしい子達だったが……」
二人はやおらその部屋を出た。而して十畳と茶の間との隔(へだて)の襖(ふすま)をそっと明けると、二人の姉妹は向い合って別々の寝床にすやすやと眠っていた。緑色の笠のかかった、電燈の光は海の底のように部屋の中を思わせた。
「あっちは」
「愛子」
「こっちは」
「貞世」
葉子は心窃(ひそ)かに、世にも艶(あで)やかなこの少女二人を妹に持つ事に誇りを感じて暖かい心になっていた。而して静かに膝をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっと撫であげて倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少からず難儀な風で、
「そうやるとこっちは、貞世は、お前によく似とるわい。……愛子は、ふむ、これは又素的な美人じゃないか。俺れはこんなのは見た事がない……お前の二の舞でもせにゃ結構だが……」
そう云いながら倉地は愛子の顔ほどもあるような大きな手をさし出して、そうした誘惑を退けかねるように、紅椿(べにつばき)のような紅いその唇に触れて見た。
その瞬間に葉子はぎょっとした。倉地の手が愛子の唇に触れた時の様子から、葉子は明らかに愛子が目覚めていて、寝たふりをしているのを感付いたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせをしてそっとその部屋を出た。


三〇[編集]

「僕が毎日――毎日とは云わず毎時間貴女(あなた)に筆を執(と)らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日貴女に書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界(きょうかい)では許されない事です。僕は朝から晩まで機械の如く働かねばなりませんから。
貴女が米国を離れてから此手紙は多分七回目の手紙として貴女に受け取られると思います。然し僕の手紙はいつまでも暇を窃(ぬす)んで少しずつ書いているのですから、僕から云うと日に二度も三度も貴女にあてて書いてる訳になるのです。然しあなたはあの後一回の音信も恵んでは下さらない。
僕は繰り返し繰り返し云います。縦令(たとい)貴女にどんな過失どんな誤謬(ごびゅう)があろとも、それを耐え忍び、それを許す事に於ては主基督(キリスト)以上の忍耐力を持っているのを僕は自ら信じています。誤解しては困ります。僕が如何なる人に対してもかかる力を持っていると云うのではないのです。唯貴女に対してです。貴方は何時でも僕の品性を尊く導いてくれます。僕は貴女によって人がどれ程愛し得るかを学びました。貴方によって世間で云う堕落とか罪悪とか云う者がどれ程まで寛容の余裕があるかを学びました。而(そう)してその寛容によって、寛容する人自身がどれ程品性を陶冶(とうや)されるかを学びました。僕は又自分の愛を成就する為めにはどれ程の勇者になり得るかを学びました。これほどまでに僕を神の眼に高めて下さった貴女が、僕から万一にも失われると云うのは想像が出来ません。神がそんな試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練を堪えるのは人力以上ですから。今の僕から貴女が奪われると云うのは神が奪われるのと同じ事です。貴女は神だとは云いますまい。然し貴女を通してのみ僕は神を拝む事が出来るのです。
時々僕は自分で自分を憐れんでしまう事があります。自分自身だけの力と信仰とで凡(すべ)てのものを見る事が出来たらどれ程幸福で自由だろうと考えると、貴女を煩わさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪(のろ)いたくもなります。同時にどれ程慕わしい束縛は他にない事を知るのです。束縛のない所に自由はないと云った意味で貴女の束縛は僕の自由です。
貴女は――一旦僕に手を与えて下さると約束なさった貴女は、遂に僕を見捨てようとして居られるのですか。如何(どう)して一回の音信も恵んでは下さらないのです。然し僕は信じて疑いません。世に若(も)し真理があるならば、而して真理が最後の勝利者ならば貴女は必ず僕に還って下さるに違いないと。何故なれば僕は誓います。――主よこの僕(しもべ)を見守り給え――僕は貴女を愛して以来断じて他の異姓に心を動かさなかった事を。この誠意が貴女によって認められない訳はないと思います。貴女は従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らず貴女の向上心を躊躇させ、貴女を稍々(やや)絶望的にしているのではないのですか。若しそうならば貴女は全然誤謬(ぼびゅう)に陥(おちい)っていると思います。凡ての救いは思い切ってその中から飛び出す外にはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけ貴女の暗い過去を暗くするばかりです。貴女は僕に信頼を置いて下さる事は出来ないのでしょうか。人類の中に少くとも一人、貴女の凡ての罪を喜んで忘れようと両手を拡げて待ち設けているもののあるのを信じて下さる事は出来ないでしょうか。
こんな下らない理窟はもうやめましょう。
昨夜書いた手紙に続けて書きます。今朝ハミルトン氏の所から至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套(がいとう)の上に又大外套を重(かさ)ね着(ぎ)していながら、風に向いた皮膚に沁み透(とお)る風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用と云うのは来年聖(セント)ルイスに開催される大規模な博覧会の協議の為め急にそこに赴(おもむ)くようになったから同行しろと云うのでした。僕は旅行の用意は何等(なんら)していなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行する事にしました。自分の部屋の戸に鍵(かぎ)かけずに飛び出したのですからバビコック博士の奥さんは驚いているでしょう。然しさすがは米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。ままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉あたりまで行くのに膝かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだ中々のものです。僕等はこの地に着くと、停車場内の化粧室で髭(ひげ)を剃(そ)り、靴を磨(みが)かせ、夜会に出ても恥かしくない仕度が出来てしまいました。而してすぐ協議会に出席しました。貴女の知って居らるる通り独逸人のあの辺に於ける勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、我々は米国に対してよりも寧ろこれらの独逸人に対して緊褌(きんこん)一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本の買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏は今度は乗気になってくれまして、高島屋と連絡をつけておく為めに兎(と)に角(かく)品物を取り寄せて自分の店で捌く(さば)かして見ようと云ってくれました。これで僕の財政は非常に余裕が出来る訳です。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷厄介だったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのは分っています。そうなったら今までと違って貴女の方にも足りないながら仕送りをして上げる事が出来ましょう。早速電報を打って、一番早い郵便で取り寄せる事にしましたから不日着荷する事と思っています。
今は夜も大分更(ふ)けました。ハミルトン氏は今夜も饗応に呼ばれて出かけました。大嫌いなテーブル・スピーチになやまされているのでしょう。ハミルトン氏は実にシャープなビズネスマンライキな人です。而して熱心な正統派の信仰を持った慈善家です僕は殊(こと)の外(ほか)信頼され重宝(ちょうほう)がられています。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。僕の前途には確かに光明が見えだして来ました。
貴女に書く事は底止(ていし)なく書く事です。然し明日の奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の`'Strenuous Life’’を訳して見た言葉です今この言葉は当地の流行語になっています)に備える為めに筆を止めねばなりません。この手紙は貴女にも喜びを分けていただく事が出来るかと思います。
昨日聖(セント)ルイスから帰って来たら、手紙が可(か)なり多数届いていました。郵便局の前を通るにつけ、郵便函を見るにつけ、脚夫に行き遇(あ)うにつけ、僕は貴女を聯想(れんそう)しない事はありません。自分の机の上に来信を見出した時は猶更(なおさら)の事です。僕は手紙の束(たば)の間をかき分けて貴女の手蹟を見出そうと勉強めました。然し僕は又絶望に近い失望に打たれなければなりませんでした。僕は失望はしましょう。然し絶望はしません。出来ません葉子さん、信じて下さい。僕はロングフェローのエヴァンジェリンの忍耐と謙遜とを以て貴女が僕の心を本当に汲み取って下さる時を待ってます。然し手紙の束の中からは僅(わず)かに僕を失望から救う為めに古藤君と岡君との手紙が見出されました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれたものでした。未だに貴女の居所を知る事が出来ないので、僕の手紙は矢張り倉地氏にあてて廻送していると書いてあります。古藤君はそうした手続きを取るのを甚(はなはだ)しく不快に思っているようです。岡君は人に漏らし得ない家庭内の紛擾(ふんじょう)や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考え過ぎて弱い体質を益々弱くしているようです。書いてある事には所々僕の持つ常識では判断しかねるような所があります。貴女から何時(いつ)か必ず消息が来るのを信じ切って、その時を唯(ただ)一つの救いとして待っています。その時の感謝と喜悦とを想像で描き出して、小説でも読むように書いてあります。僕は岡君の手紙を読むと、毎時(いつ)でも僕自身の心がそのまま書き現わされているように思って涙を感じます。
何故貴女は自分をそれ程まで韜晦(とうかい)して居られるのか、それには深い訳がある事と思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても想像がつきません。
日本からの消息はどんな消毒でも待ち遠しい。然しそれを見終った僕は屹度憂鬱に襲われます。僕に若し信仰が与えられていなかったら、僕は今如何(どう)なっていたかを知りません。
前の手紙との間に三日が経(た)ちました。僕はバビコック博士夫婦と今夜ライシアム座にウエルシ嬢の演じたトルストイの「復活」を見物しました。そこに基督教徒として眼を背(そむ)けなければならないような場面がないではなかったけれども、終りの方に近づいて行っての荘厳さは見物人の凡てを捕捉(ほそく)してしまいました。ウエルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎている位でした。貴女が若しまだ「復活」を読んで居られないのなら僕は是非それをお勧めします。僕はトルストイの「懺悔(ざんげ)」をK氏の邦文訳で日本にいる時読んだだけですが、あの芝居を見てから、暇があったらもっと深く色々研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ多くの人に知られていないと思いますが、少くとも「復活」だけは丸善からでも取寄せて読んでいただきたい、貴女を啓発する事が必ず多いのは請合(うけあ)いますから。僕等は等しく神の前に罪人です。然しその罪を悔い改める事によって等しく選ばれた神の僕(しもべ)となり得るのです。この道の外には人の子の生活を天国に結び付ける道は考えられません。神を敬い人を愛する心の萎(な)えてしまわない中にお互に光を仰ごうではありませんか。
葉子さん、貴女の心に空虚なり汚点なりがあっても万望(どうぞ)絶望しないで下さいよ。貴女をそのままに喜んで受け入れて、――苦しみがあれば貴女と共に苦しみ、貴女に悲しみがあれば貴女と共に悲しむものがここに一人いる事を忘れないで下さい。僕は戦って見せます。僕の前に事業が、而して後ろに貴女があれば、僕は神の最も小さい僕(しもべ)として人類の祝福の為めに一生を献(ささ)げます。
嗚呼(ああ)、筆も言語も遂に無益です。人と熱する誠意と祈とを籠(こ)めて僕はここにこの手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手から貴女に届いたら、倉地氏にも宜(よろ)しく伝えて下さい。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上の事については前便に書いておきましたから見て下さったと思います。願わくは神我等と共に在(おわ)し給わん事を。
明治三十四年十二月十三日」
倉地は事業の為めに奔走しているのでその夜は年越しに来ないと下宿から知らせて来た。妹達は除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどと云っていたが何時の間にか睡(ね)むくなったと見えて、余り静かなので二階に行って見ると、二人とも寝床に這入っていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所で「報正新報」を倉地に取り次いだのは、縦令(たとい)葉子に無益な心配をさせない為めだと云う倉地の注意があった為めであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし不安にもした。つやが葉子に対しても素直な敬愛の情を抱いていたのは葉子もよく心得ていた。前にも書いたように葉子は一眼見た時からつやが好きだった。台所などをさせずに、小間使いとして手廻りの用事でもさせたら顔容(かおかたち)と云い、性質と云い、取り廻しと云いこれ程理想的な少女はないと思う程だった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家の為めに蔭日向(かげひなた)なくせっせと働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を不安にしてしまった。倉地が雙鶴館の女将に対しても気の毒がるのを構わず、妹達に働かせるのが却ていいからとの口実の許に暇をやってしまったのだった。で勝手の方にも人気(ひとけ)はなかった。
葉子は何を原因ともなくその頃気分がいらいらし勝ちで寝付きも悪かったので、ぞくぞく沁み込んで来るような寒さにも係(かかわ)らず、火鉢の側にいた。而して所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を読んで見る気になったのだ。
葉子は猫板に片肘(かたひじ)を持たせながら、必要もない程高価だと思われる厚い書牋紙(しょせんし)に大きな字で書き綴(つづ)ってある木村の手紙を一枚々々読み進んだ。大人びたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思わせるような内容だった。葉子は一々精読するのが面倒なので行(ぎょう)から行に飛び越えながら読んで行った。而(そ)して日附の所まで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。然し葉子はこの以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引裂いて捨ててしまう事はしなかった。しなかった所ではない、その中には葉子を考えさせるものが含まれていた。木村は遠からずハミルトンとか云う日本の名誉領事をしている人の手から、日本を去る前に思い切ってして行った放資の回収をして貰えるのだ。不即不離(ふそくふり)の関係を破らずに別れた自分のやり方は矢張り図に中(あた)っていたと思った。「宿屋きめずに草鞋(わらじ)を脱」ぐ馬鹿をしない必要はもうない。倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。然し口にこそ出しはしないが、倉地は金の上では可なりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業と云うのは日本中の開港場にいる水先案内業者の組合を作って、その実権を自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上るのは短い日月には出来る事ではなさそうだった。殊に時節が時節がら正月にかかっているから、そう云うものの設立には一番不便な時らしくも思われた。木村を利用してやろう。
然し葉子の心の底には何処(どこ)か痛みを覚えた。散々木村を苦しめ抜いた揚句(あげく)に、なおあの根(ね)の正直な人間をたぶらかしてなけなしの金を搾(しぼ)り取るのは俗に云う「つつもたせ」の所業と違ってはいない。そう思うと葉子は自分の堕落を痛く感ぜずにはいられなかった。けれども現在の葉子に一番大事なものは倉地と云う情人の外にはなかった。心の痛みを感じながらも倉地の事を思うとなお心が痛かった。彼れは葉子を犠牲に供し、自分の職業を犠牲に供し、社会上の名誉を犠牲に供してまで葉子の愛に溺れ、葉子の存在に生きようとしてくれているのだ。それを思うと葉子は倉地の為めに何んでもして見せてやりたかった。時によると我れにもなく侵して来る涙ぐましい感じをじっと堪えて、定子に会いに行かずにいるのも、そうする事が何か宗教上の願(がん)がけで、倉地の愛を繫(つな)ぎとめる禁厭(まじない)のように思えるからしている事だった。木村にだって何時かは物質上の償(お)い目に対して物質上の返礼らけはする事が出来るだろう。自分のする事は「つつもたせ」とは形が似ているだけだ。やってやれ。そう葉子は決心した。読むでもなく読まぬでもなく手に持って眺(なが)めていた手紙の最期の一枚を葉子は無意識のようにぽたりと膝の上に落した。而してそのままじっと鉄瓶(てつびん)から立つ湯気が電燈の光の中に多様な渦紋(かもん)を画いては消え描いては消えするのを見つめていた。
暫(しばら)くしてから葉子は物憂げに深い吐息を一つして、上体をひねって棚の上から手文庫を取り下した。而して筆を噛(か)みながら又上眼でじっと何か考えるらしかった。と、急に生きかえったようにはきはきなって、上等の支那墨を眼(がん)の三つまで這入った真円(まんまる)い硯(すずり)にすり下ろした。そして軽く麝香(じゃこう)の漂うなかで男の字のような健筆で、精巧な雁皮紙(がんぴし)の巻紙に、一気に、次ぎのように認(したた)めた。
「書けばきりが御座いません。伺えばきりが御座いません。だから書きも致しませんでした。あなたのお手紙も今日いただいたものまでは拝見せずにずたずたに破って捨ててしまいました。その心をお察し下さいまし。
噂(うわさ)にもお聞きとは存じますが、私は見事に社会的に殺されてしまいまhした。如何(どう)して私がこの上あなたの妻と名乗れましょう。自業自得と世の中では申します。私も確かにそう存じています。けれども親類、縁者、友達にまで突き放されて、二人の妹を抱えて見ますと、私も眼がくらんで仕舞います。倉地さんだけが如何云う御縁かお見捨てなく私共三人をお世話下さっています。こうして私は何処まで沈んで行く事で御座いましょう。本当に自業自得で御座います。
今日拝見したお手紙も本当は読まずに裂いてしまうので御座いましたけれども、……私の居所を誰方(どなた)にもお知らせしない訳などは申し上げるまでも御座いますまい。
この手紙はあなたに差上げる最後のものかと思われます。大事にお過し遊ばしませ。蔭ながら御成功を祈り上げます。
唯今除夜の鐘が鳴ります。
大晦日(おおみそか)の夜
木村様             葉より」
葉子はそれを日本風の状袋に収めて、毛筆で器用に表記を書いた。書き終ると急にいらいらし出して、いきなり両手に握って一思いに引き裂こうとしたが、思い返して捨てるようにそれを畳の上に放(な)げ出すと、我れにもなく冷やかな微笑が口尻をかすかに引きつらした。
葉子の胸をどきんとさせる程高く、すぐ最寄(もよ)りにある増上寺(ぞうじょうじ)の除夜の鐘が鳴り出した。遠くから何処の寺のともしれない鐘の声がそれに応ずるように聞こえて来た。その音に引入られて耳を澄ますと夜の沈黙(しじま)の中にも声はあった。十二時を打つぽんぽん時計、「かるた」を読み上げるらしいはしゃいだ声、何に驚いてか夜啼(よな)きをする鶏……葉子はそんな響きを探(さぐ)り出すと、人の生きているというのが恐ろしい程不思議に思われ出した。
急に寒さを覚えて葉子は寝仕度に立ち上った。


三一[編集]

寒い明治三十五年の正月が来て、愛子達の冬期休暇も終りに近づいた。葉子は妹達を再び田島塾の方に帰してやる気にはなれなかった。田島という人に対して反感を抱いたばかりではない。妹達を再び預かって貰う事になれば葉子は当然挨拶に行って来(く)べき義務を感じたけれども、如何(どう)云うものかそれが憚(はばか)られて出来なかった。横浜の支店長の永井とか、この田島とか、葉子には自分ながら訳の分らない苦手の人があった。その人達が格別偉い人だとも、恐ろしい人だと思うのではなかったけれども、如何云うものかその前に出る事に気が引けた。葉子は又妹達が不言不語(いわずかたらず)の中に生徒達から受けねばならぬ迫害を思うと不憫(ふびん)でもあった。で、毎日通学するには遠すぎると云う理由の下にそこをやめて、飯倉にある幽蘭女学校というのに通わせる事にした。
二人が学校に通い出すようになると、倉地は朝から葉子の所で退校時間まで過すようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入した。殊に正井という男は倉地の影のように倉地のいる所には必ず居た。例の水先案内業者組合の設立について正井が一番働いているらしかった。正井と云う男は、一見放漫なように見えていて、剃刀(かみそり)のように目端(めはし)の利く人だった。その人が玄関から這入ったら、そのあとに行って見ると履物(はきもの)は一つ残らず揃(そろ)えてあって、傘(かさ)は傘で一隅にちゃんと集めてあった。葉子も及ばない素早さで花瓶の花の萎(しお)れかけたのや、茶や菓子の足しなくなったのを見て取って、翌日には忘れずにそれを買い調えて来た。無口の癖に何処かに愛嬌(あいきょう)があるかと思うと、馬鹿笑いをしている最中に不思議に陰険な眼付きをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればする程その正体が分らないように思った。それは葉子をもどかしくさせる程だった。時々葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話合いをしているのに感付いたが、それは如何にしても明確に知る事が出来なかった。倉地に聞いて見ても、倉地は例の呑気(のんき)な態度で事もなげに話題を外(そ)らしてしまった。
葉子は然し何んと云っても自分が望み得る幸福の絶頂に近い所にいた。倉地を喜ばせる事が自分を喜ばせる事である、自分を喜ばせる事が倉地を喜ばせる事である、そうした作為(さくい)のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応し得る葉子に取っては、抜目のない世話女房になる位の事は何んでもなかった。妹達もこの姉を無二のものとして、姉のしてくれる事は一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継子(ままこ)あつかいにされている愛子さえ、葉子の前には唯従順なしとやかな少女だった。愛子としても少くとも一つは如何してもその姉に感謝しなければならない事があった。それは年齢のお蔭もある。愛子は今年で十六になっていた。然し葉子がいなかったら、愛子はこれ程美しくはなれなかったに違いない。二三週間の中に愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと磨きをかけ上げたルビーと程に変っていた。小肥りで背丈けは姉よりも遥かに低いが、ぴちぴちと締った肉付と、抜け上るほど白い艶(つや)のある皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のない程肉感的な手足の指の先き細な処(ところ)に利点を見せていた。むっくりと牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩の上に据えらえたその顔は又葉子の苦心に十二分に酬(むく)いるものだった。葉子が頸際(くびぎわ)を剃ってやるとそこに新しい美が生れ出た。髪を自分の意匠(いしょう)通りに束ねてやるとそこに新しい蠱惑(こわく)が湧き上った。葉子は愛子を美しくする事に、成功した作品に対する芸術と同様の誇りと喜びとを感じた。暗い処にいて明るい方に振向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ妬(ねた)ます事が出来たろう。顔の輪廓と、稍々(やや)額際(ひたいぎわ)を狭くするまでに厚く生え揃った黒漆(こくしつ)の髪とは闇の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る光線の為めに鼻筋は、希臘人(ギリシャじん)のそれに見るような、規則正しい細長い前面の平面を際立たせ、潤(うるお)い切った大きな二つの瞳と、締って厚い上下の唇とは、皮膚を切り破って現われ出た二対の魂のようになまなましい感じで見る人を打った。愛子はそうした時に一番美しいように、闇の中に淋しく独(ひと)りでいて、その多恨な眼でじっと明るみを見詰めているような少女だった。
葉子は倉地が葉子の為めにして見せた大きな英断に酬いる為めに、定子を自分の愛撫(あいぶ)の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、如何(どう)してもそれが出来ないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時折り金を送ってやる事と、乳母から安否を知らさせる事だけは続けていた。日本に帰って来て下さった甲斐(かい)が何処にある。親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものか一寸でも考えて見て貰いたい。乳母も段々年を取って行く身だ。麻疹(はしか)にかかって定子は毎日々々ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが不思議だ。こんな事が消息の度毎(たびごと)にたどたどしく書き連ねてあった。葉子はいても立っても堪(たま)らないような事があった。けれどもそんな時には倉地の事を思った。一寸倉地の事を思っただけで、歯を喰(く)いしばりながらも、苔香園(たいこうえん)の表門からそっと家を抜け出る誘惑に打勝った。
倉地の方から手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来なかった。木村にあれほど切な心持ちを書き送った位だから、葉子の住所さえ分れば尋ねて来ない筈はないのだが、倉地にはそんな事はもう念頭に無くなってしまったらしい。誰れも来るなと願っていた葉子もこの頃になって見ると、ふと岡の事などを思い出す事があった。横浜を立つ時に葉子にかじり附いて離れなかった青年を思い出す事などもあった。然しこう云う事がある度毎に倉地の心の動き方をも屹度推察した。而しては何時でも願(がん)をかけるようにそんな事は夢にも思い出すまいと心に誓った。
倉地が一向に無頓着なので、葉子はまだ籍を移してはいなかった。尤も倉地の先妻が果して籍を抜いているか如何かも知らなかった。それを知ろうと求めるは葉子の誇りが許さなかった。凡てそう云う習慣を天(てん)から考えの中に入れていない倉地に対して今更そんな形式事を迫るのは、自分の度胸を見透(みすか)されるという上からもつらかった。その誇りという心持ちも、度胸を見透されるという恐れも、本当を云うと葉子が何処までも倉地に対してひけ目になっているのを語るに過ぎないと葉子自身存分に知り切っている癖に、それを勝手に踏み躙(にじ)って、自分の思う通りを倉地にして退(の)けさす不敵さを持つ事はどうしても出来なかった。それなのに葉子は動(やや)ともすると倉地の先妻の事が気になった。倉地の下宿の方に遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを見かけると葉子の眼は知らず識(し)らず熟視の為めにかがやいた。一度も顔を合せないが、僅かな時間の記憶から、屹度その人を見分けて見せると葉子は自信していた。葉子は何処を歩いても嘗(かつ)てそんな人を見かけた事はなかった。それが又妙に裏切られているような感じを与える事もあった。
航海の初期に於ける批点の打ち処のないような健康の意識はその後葉子にはもう帰って来なかった。寒気が募(つの)るにつれて下腹部が鈍痛を覚えるばかりでなく、腰の後ろの方に冷たい石でも釣り上げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも知った。血管の中には血の代りに文火(とろび)でも流れているのではないかと思う位寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝(こ)るのは幼少の時からの痼疾(こしつ)だったが、それが近頃になって殊更激しくなった。葉子はちょいちょい按摩(あんま)を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気付いて、ようこは婦人病であるに相違ないとは思った。然しそうでもないと思うような事が葉子の胸の中にはあった。若しや懐妊(かいにん)では……葉子は喜びに胸を躍(おど)らせてそう思っても見た。牝豚のように行く人も子を生むのは迚(とて)も耐えられない。然し一人は如何あっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運があるのかも知れないとも思った。然し前の懐妊の経験と今度の徴候とは色々な点で全く違ったものだった。
一月の末になって木村からは果して金を送って来た。葉子は倉地が潤沢(じゅんたく)につけ届けする金よりもこの金を使う事に寧(むし)ろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思い切った散財をして見たい誘惑に駆り立てられた。
ある日当りのいい日に倉地とさし向いで酒を飲んでいると苔香園の方から藪鶯(やぶうぐいす)の啼く声が聞えた。葉子は軽く酒ほてりのした顔を挙げて倉地を見やりながら、耳では鶯の啼き続けるのを注意した。
「春が来ますわ」
「早いもんだな」
「何処かへ行きましょうか」
「まだ寒いよ」
「そうねえ……組合の方は」
「うむあれが片付いたら出かけようわい、いい加減くさくさしておった」
そう云って倉地はさも面倒そうに杯の酒を一煽(あお)りに煽りつけた。
葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感付いた。それにしてもあの毎月の多額の金は何処から来るのだろう。そうちらっと思いながら素早く話を他にそらした。


三二[編集]

それは二月初旬のある日の昼頃だった。からっと晴れた朝の天気に引かえて、朝日が暫く東向きの窓に射す間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森にあたって物凄(ものすご)い音を立て始めた。何処にか春をほのめかすような日が来たりした後なので、殊更(ことさら)世の中が暗澹(あんたん)と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷(そこび)えがするので、葉子は茶の間に置炬燵(おきごたつ)を持ち出して、倉地の着代えをそれにかけたりした。土曜だから妹達は早退(はやび)けだと知りつつも倉地は物臭さそうに外出の支度にかからないで、どてらを引かけたまま火鉢の側にうずくまっていた。葉子は食器を台所の方に運びながら来たり行ったりうる序(ついで)に倉地と物を云った。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地が云いかけた。
「おいお葉(倉地は何時の間にか葉子をこう呼ぶようになっていた)俺れは今日は二人に対面して、これから勝手に出這入りの出来るようにするぞ」
葉子は布巾(ふきん)を持って台所からいそいそと茶の間に帰って来た。
「何んだってまた今日……」
そう云ってつき膝をしながらちゃぶ台を拭った。
「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」
「そうねえ」
葉子はそのままそこに坐り込んで布巾をちゃぶ台にあてがったまま考えた。本当はこれは疾(とう)に葉子の方から云い出すべき事だったのだ。妹達のいない隙(すき)か、寝てからの暇を窺(うかが)って、倉地と会うのは、始めの中こそあいびきのような興味を起させないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくない所から、自分の裏面を窺わせまいと云う心持ちとで、今までついずるずると妹達に倉地を近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いて見ると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気が附いた。又新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。
「じゃ今日にしましょう。……それにしても着物だけは着代えていて下さいましな」
「よし来た」
と倉地はにこにこしながらすぐ立ち上った。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに抱きながら、今更に倉地の頑丈な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
「それは二人ともいい子よ。可愛がってやって下さいましよ。……けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いい折を見つけて、私から上手に云って聞せるまでは知らん振りをしてね……よくって……あなたはうっかりするとあけすけに物を云ったりなさるから……今度だけは用心して頂戴」
「馬鹿だなどうせ知れる事を」
「でもそれはいけません……是非」
葉子は後ろから背延びをしてそっと倉地の後頸(うしろくび)を吸った。而して二人は顔を見合わせて微笑(ほほえ)みかわした。
その瞬間に勢いよく玄関の格子戸(こうしど)ががらっと開いて「おお寒い」と云う貞世の声が疳高(かんだか)く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっとして倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子が開いた。貞世は茶の間に駈(か)け込んで来るらしかった。
「お姉様雪が降って来てよ」
そう云っていきなり茶の間の襖(ふすま)を開けたのは貞世だった。
「おやそう……寒かったでしょう」
とでも云って迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置炬燵(おきごたつ)に這入って胡坐(あぐら)をかいている途方もなく大きな男を姉の外に見附けたので、驚いたように大きな眼を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。
「愛姉さんお客様よ」
と声をつぶすよう