徵兵令詔書及ヒ徵兵吿諭

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

今般全國募兵ノ儀別紙 詔書ノ通リ被 仰出徵兵令相定候條各 御趣意ヲ奉戴シ末々ニ至ル迄不洩樣布達可致總シテ細大ノ事件ハ陸軍軍兩省ヘ打合可申此旨相達候事

但徵兵令及徵募期限ハ追テ可相達事

(別紙)

詔書寫

朕惟ルニ古昔郡縣ノ制全國ノ丁壯ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵權武門ニ歸シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ實ニ千有餘年來ノ一大變革ナリ此際ニ當リ陸兵制モ亦時ニ從ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ外各國ノ式ヲ斟酌シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ吿諭セヨ

明治五年壬申十一月二十八日

徵兵吿諭

我 朝上古ノ制內擧テ兵ナラサルハナシ有事ノ日 天子之カ元帥トナリ丁壯兵役ニ堪ユルヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ工タリ又商賣タリ固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ武士ト稱シ抗顏坐食シ甚シキニ至テハ人ヲシ官其罪ヲ問ハサルノ如キニ非ス抑 神武天皇珍彥ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後軍團ヲ設ケ衞士防人ノ制ヲ定メ神龜天平ノ際ニ至リ六府二鎭ノ設ケ始テ備ル保元平治以後朝綱頽弛兵權終ニ武門ノ手ニ墜チ國ハ封建ノ勢ヲ爲シ人ハ兵農ノ別ヲ爲ス降テ後世ニ至リ名分全ク泯沒シ其弊勝テ言フ可カラス然ルニ太政維新列藩版圖ヲ奉還シ辛未ノ歲ニ及ヒ遠ク郡縣ノ古ニ復ス世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ刀劍ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ權ヲ得セシメントス是レ上下ヲ平均シ人權ヲ齊一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ從前ノ士ニ非ス民ハ從前ノ民ニアラス均シク 皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ稅アラサルハナシ以テ國用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ盡シ國ニ報セサルヘカラス西人之ヲ稱シテ血稅ト云フ其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ且ツ國家ニ災害アレハ人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス是故ニ人々心力ヲ盡シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ苟モ國アレハ則チ兵備アリ兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス是ニ由テ之ヲ觀レハ民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ偶然作意ノ法ニ非ス然而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス西洋諸國數百年來硏究實踐以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ其法極メテ精密ナリ然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス故ニ今其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ陸二軍ヲ備ヘ全國四民男兒二十歲ニ至ルハ盡ク兵籍ニ編入シ以テ緩急ノ用ニ備フヘシ鄕長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徵兵令ニ依リ民庶ヲ說諭シ國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也

明治五年壬申十一月二十八日

この著作物は1924年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているので、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。