序言(内村鑑三)
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※【 】は傍点つき。
聖書は神の書である、故に世界の書であり人類の書である、それ故に亦日本人の書である。眞理は普遍的なると同時に個別的である。世界の書なるが故に我書なりと稱し得る書のみが神の書であり又眞理の書である。
聖書を日本人の書と爲すは至難の業である。先づ之を原本に於て原語に由りて【讀みこな】さざるべからず。而して其精神信仰を我有と爲さざるべからず。我れ自身が聖書人と成らざるべからず。而して自身が聖書化せられ、聖書が自身に在りて日本化せられて後に、之を解し易き日本語を以つて言表はさざるべからず。まことに「誰か之に堪へんや」である。善き言語學者で、善き基督信者で、善き日本人であるに非れば爲す能はざる事業である。
永井直治君が果して以上の三資格を備へられしや否やは今日直に之を斷定する事は出來ない。然し乍ら君が篤學の士として二十余年間を新約聖書希臘語の研鑽に費され、又日本基督教會の牧師として其靈魂にキリストの福音を實驗せられ、而して又純日本人として君の母語を以つて聖書を譯述せられし所に君の長所を認めざるを得ない。君の譯は在來の所謂「委員譯」と全然異なる。數人の作に非ずして一人の作である。西洋人が原語を解して日本人が之を日本語に綴りしものに非ず。又數人の信仰見解を綜合して其平均を取りし者にあらず。大著述は如此くにして成らず。攝取も熔解も鑄造も一個の鎔爐、即ち一人の靈魂の内に行はれざるべからず、ルーナルの獨逸譯聖書、チンデールの英譯聖書に不朽の價値の存するは之が爲である。即ち譯書とは稱するものの實は原著である故である。聖書の獨逸化又は英國化であつた故である。如此くにしてユダヤ人の著なりし聖書が獨逸人又は英國人の書と成つたのである。
依て知る永井君は茲に大事を試みられし事を。君は世界第一の書なる聖書の日本化を試みられたのである。ルーテルが獨逸國の爲に、チンデール、コパデールが英國の爲に爲せし事を日本國の爲に試みられたのである。此は信仰的事業であると同時に愛國的事業である。其永遠性より考へて人が從事し得る最大の事業である。そして永井君が果して其事業に成功せられしや否やは後に到つて見なければ判明らない。君の日本譯新約聖書を日本國民の上に試みて、その果して日本人の聖書として
然し乍ら成功すると否とは何人に取ても問題でない。人は何人と雖も最善を試みて其結果は之を前に委ねまつれば
そして君の事業は決して失敗に終らないのである。縱し君の譯が日本人の聖書として
昭和三年(一九二八年)三月九日
東京市外柏木に於て
内村鑑三