孟子/萬章上

卷之九

萬章章句上

萬章問曰：「舜往于田，號泣于旻天。何爲其號泣也？」孟子曰：「怨慕也。」萬章曰：「父母愛之，喜而不忘；父母惡之，勞而不怨。然則舜怨乎？」曰：「長息問於公明高曰：『舜往于田，則吾既得聞命矣；號泣于旻天、于父母，則吾不知也。』公明高曰：『是非爾所知也。』夫公明高以孝子之心爲不若是恝。『我竭力耕田，共爲子職而已矣；父母之不我愛，於我何哉？』帝使其子九男二女，百官牛羊倉廩備，以事舜於畎畝之中。天下之士多就之者，帝將胥天下而遷之焉。爲不順於父母，如窮人無所歸。天下之士悅之，人之所欲也，而不足以解憂。好色，人之所欲；妻帝之二女，而不足以解憂。富，人之所欲；富有天下，而不足以解憂。貴，人之所欲；貴爲天子，而不足以解憂。人悅之、好色、富貴無足以解憂者，惟順於父母，可以解憂。人少則慕父母，知好色則慕少艾，有妻子則慕妻子，仕則慕君，不得於君則熱中。大孝終身慕父母，五十而慕者，予於大舜見之矣。」

〈萬章（ばんしやう）問ふ、曰く、舜（しゆん）は田（でん）に往（ゆ）き、旻天（びんてん）に號泣（がうきふ）す、何爲（なんすれ）ぞ其れ號泣するや。孟子曰く、怨慕（ゑんぼ）するなり。萬章曰く、父母（ふぼ）之を愛（あい）せば、喜（よろこ）んで忘（わす）れず、父母之を惡（にく）めば勞（らう）して怨（うら）みず。然（しか）らば則ち舜は怨みたるか。曰く、長息（ちやうそく）、公明高（こうめいかう）に問（と）うて曰く、舜（しゆん）の田（でん）に往（ゆ）くは、則（すなは）ち吾（わ）れ既（すで）に命（めい）を聞（き）くを得（え）たり。旻天（びんてん）に父母（ふぼ）に號泣するは、則ち吾（わ）れ知（し）らざるなりと。公明高曰く、是（こ）れ爾（なんぢ）が知る所（ところ）に非（あら）ざるなり。夫（か）の公明高は孝子（かうし）の心（こゝろ）を以て、是（かく）の若（ごと）く恝（かつ）ならずと爲（な）す。我（われ）力（ちから）を竭（つく）し田（でん）を耕（たがや）し、子たる職（しよく）を共（きよう）するのみ。父母の我（われ）を愛（あい）せざるも、我に於て何（なん）ぞや。帝（てい）其の子九男（だん）二女（ぢよ）をして、百官（くわん）、牛羊（ぎうやう）、倉廩（さうりん）を備（そな）へ、以て舜（しゆん）に畎畝（けんぽ）の中（うち）に事（つか）へしむ。天下（てんか）の士（し）之（これ）に就（つ）く者多（おほ）し，帝（てい）將（まさ）に天下を胥（とつ）て之に遷（うつ）さんとす。父母（ふぼ）に順（じゆん）ならざる爲めに、窮人（きうじん）の歸（き）する所（ところ）なきが如し。天下の士（し）之を悅（よろこ）ぶは、人の欲（ほつ）する所なり。而して以て憂（うれへ）を解（と）くに足（た）らず。好色（かうしよく）は人（ひと）の欲（ほつ）する所（ところ）、帝（てい）の二女（ぢよ）を妻（つま）として、而して以て憂（うれへ）を解（と）くに足（た）らず。富（とみ）は人の欲（ほつ）する所（ところ）、富（とみ）天下を有（たも）ちて、而して以て憂（うれへ）を解（と）くに足（た）らず。貴（たふと）きは人の欲（ほつ）する所、貴きこと天子（てんし）と爲（な）り、而して以て憂を解くに足らず。人之を悅（よころ）ぶ、好色（かうしよく）富貴（ふうき）、以て憂（うれへ）を解（と）くに足（た）る者なし，惟（た）だ父母（ふぼ）に順（じゆん）にして、以て憂を解くべし。人（ひと）少（わか）ければ則（すなは）ち父母（ふぼ）を慕（した）ふ。好色（かうしよく）を知（し）れば則（すなは）ち少艾（せうがい）を慕（した）ふ。妻子有れば則ち妻子を慕ふ。仕（つか）ふれば則ち君（きみ）を慕（した）ふ。君（きみ）に得ざれば則（すなは）ち熱中（ねつちう）す。大孝（たいかう）は終身（しゆうしん）父母（ふぼ）を慕（した）ふ。五十にして慕（した）ふ者（もの）は、予（よ）大舜（たいしゆん）に於（おい）て之を見る。〉

萬章問曰：「《詩》云：『娶妻如之何？必吿父母。』信斯言也，宜莫如舜。舜之不吿而娶，何也？」孟子曰：「吿則不得娶。男女居室，人之大倫也。如吿則廢人之大倫以懟父母，是以不吿也。」萬章曰：「舜之不吿而娶，則吾既得聞命矣。帝之妻舜而不吿，何也？」曰：「帝亦知吿焉則不得妻也。」萬章曰：「父母使舜完廩，捐階，瞽瞍焚廩。使浚井，出，從而掩之。象曰：『謨蓋都君咸我績。牛羊父母，倉廩父母，干戈朕，琴朕，弤朕，二嫂使治朕棲。』象往入舜宮，舜在床琴。象曰：『郁陶思君爾。』忸怩。舜曰：『唯茲臣庶，汝其于予治。』不識舜不知象之將殺己與？」曰：「奚而不知也？象憂亦憂，象喜亦喜。」曰：「然則舜僞喜者與？」曰：「否。昔者有饋生魚於鄭子產，子產使校人畜之池。校人烹之，反命曰：『始舍之圉圉焉，少則洋洋焉，攸然而逝。』子產曰：『得其所哉！得其所哉！』校人出，曰：『孰謂子產智？予既烹而食之，曰：「得其所哉！得其所哉！」』故君子可欺以其方，難罔以非其道。彼以愛兄之道來，故誠信而喜之。奚僞焉？」

〈萬章（ばんしやう）問（と）うて、曰く、詩（し）に云ふ、妻（つま）を娶（めと）るは之を如何（いかん）せん。必（かなら）ず父母（ふぼ）に吿（つ）ぐと。斯（こ）の言（げん）を信（しん）ぜば、舜（しゆん）の如くなる莫（な）かるべし。舜の吿げずして娶（めと）るは何ぞや。孟子（まうし）曰く、吿（つ）ぐれば則ち娶るを得（え）ず。男女（だんぢよ）室（しつ）に居るは、人の大倫（たいりん）なり、如（も）し吿（つ）ぐれば則（すなは）ち人の大倫（たいりん）を廢（はい）し、以て父母（ふぼ）を懟（うら）む。是（これ）を以て吿げざるなり。萬章曰く、舜の吿げずして娶（めと）るは、則（すなは）ち吾（わ）れ既（すで）に命（めい）を聞（き）くを得たり。帝（てい）の舜に妻（めあ）はして吿（つ）げざるは何ぞや。曰く、帝も亦（また）吿ぐれば則ち妻（めあ）はすを得ざるを知ればなり。萬章曰く、父母、舜をして廩（くら）を完（をさ）めしめ、階（かい）を捐（す）つ。瞽瞍（こそう）廩（くら）を焚（や）く。井（ゐ）を浚（さら）はしむ、出（い）づ。從（したが）つて之を掩（おほ）ふ。象（しやう）曰く、都君（とくん）を蓋（がい）するを謨（はか）るは咸（み）な我（わ）が績（いさをし）なり。牛羊（ぎうやう）は父母（ふぼ）、倉廩（さうりん）は父母、干戈（かんくわ）は朕（わ）れ、琴（こと）は朕（わ）れ、弤（てい）は朕（わ）れ、二嫂（さう）は朕（わ）が棲（ねどこ）を治（をさ）めしめん。象（しやう）往（ゆ）き舜（しゆん）の宮（きう）に入（い）る。舜（しゆん）床（しやう）に在（あ）りて琴（こと）ひく。象曰く、郁陶（うつたう）として君（きみ）を思（おも）ふのみと。忸怩（ぢくぢ）たり。舜曰く、唯（こ）れ茲（こ）の臣（しん）庶（しよ）、汝（なんぢ）其（しばら）く予（よ）に于（お）いて治（をさ）めよと。識（し）らず舜は象（しやう）の將に己（おのれ）を殺（ころ）さんとするを知（し）らざるか。曰く、奚（なん）ぞ知（し）らざらんや。象（しやう）憂（うれ）ふれば、亦（また）憂（うれ）へ象（しやう）喜（よろこ）べば亦（また）喜（よろこ）ぶ。曰く、然（しか）らば則ち舜（しゆん）は僞（いつは）り喜（よろこ）ぶものか。曰く、否（いな）、昔者（むかし）生魚（せいぎよ）を鄭（てい）の子產（しさん）に饋（おく）るあり。子產校人（かうじん）をして之を池（いけ）に畜（やしな）はしむ。校人（かうじん）之を烹（に）て、反命（はんめい）して曰く、始（はじ）め之を舍（はな）てば圉圉焉（ぎよぎよえん）たり。少（すこ）しくすれば則ち洋洋焉（やうやうえん）たり。攸然（いうぜん）として逝（ゆ）くと。子產（しさん）曰く、其所（ところ）を得（え）たるかな、其の所を得たるかなと。校人出（い）でて曰く、孰（たれ）か子產（しさん）を智（ち）と謂（い）ふ。予（よ）既（すで）に烹（に）て之を食（くら）へり、曰く、其所（ところ）を得（え）たるかな、其所（ところ）を得たるかなと。故（ゆゑ）に君子（くんし）は欺（あざむ）くに其方（はう）を以てすべし。罔（しふ）るに其道（みち）に非（あら）ざるを以てし難（がた）し。彼（かれ）は兄（あに）を愛（あい）するの道（みち）を以て來（きた）る。故（ゆゑ）に誠（まこと）に信（しん）じて之を喜（よろこ）ぶ。奚（なん）ぞ僞（いつは）らん。〉

萬章問曰：「象日以殺舜爲事，立爲天子，則放之，何也？」孟子曰：「封之也。或曰放焉。」萬章曰：「舜流共工于幽州，放驩兜于崇山，殺三苗于三危，殛鯀于羽山，四罪而天下咸服。誅不仁也。象至不仁，封之有庳。有庳之人奚罪焉？仁人固如是乎？在他人則誅之，在弟則封之。」曰：「仁人之於弟也，不藏怒焉，不宿怨焉，親愛之而已矣。親之，欲其貴也；愛之，欲其富也。封之有庳，富貴之也。身爲天子，弟爲匹夫，可謂親愛之乎？」「敢問『或曰放』者何謂也？」曰：「象不得有爲於其國，天子使吏治其國，而納其貢稅焉，故謂之放。豈得暴彼民哉？雖然，欲常常而見之，故源源而來。『不及貢，以政接于有庳』，此之謂也。」

〈萬章（ばんしやう）問ふ、曰く、象（しやう）は日に舜（しゆん）を殺（ころ）すを以て事（こと）と爲（な）す。立（た）ちて天子（てんし）と爲（な）れば則（すなは）ち之を放（お）くは何（なん）ぞや。孟子（まうし）曰く、之を封（ほう）ずるなり。或ひと曰く、放（お）くと。萬章曰く、舜は共工（きようこう）を幽州（いうしう）に流（なが）し、驩兜（かんとう）を崇山（すうざん）に放（はな）ち、三苗（さんべう）を三危（さんき）に殺（ころ）し、鯀（こん）を羽山（うざん）に殛（きよく）し、四罪（ざい）して天下（てんか）咸（み）な服（ふく）す。不仁（ふじん）を誅（ちう）するなり。象（しやう）至（いた）つて不仁なり、之を有庳（いうひ）に封（ほう）ず。有庳の人奚（なん）の罪（つみ）かある。仁人は固（もと）より是（かく）の如（ごと）きか。他人（たにん）に在（あ）りては則ち之を誅（ちう）し、弟（おとうと）に在（あ）りては則ち之を封ず。曰く、仁人の弟に於ける、怒（いかり）を藏（かく）さず、怨（うらみ）を宿（とゞ）めず、之を親愛（しんあい）するのみ。之に親（したし）めば其の貴（たふと）きを欲（ほつ）するなり。之を愛すれば其富（とみ）を欲（ほつ）するなり。之を有庳（いうひ）に封（ほう）ずるは之を富貴（ふうき）にするなり。身（み）は天子（てんし）たり。弟（おとうと）は匹夫（ひつぷ）たらば、之を親愛（しんあい）すと謂ふべきか。敢（あへ）て問（と）ふ。或ひと曰く、放（お）くとは、何の謂ひぞ。曰く、象は其國（くに）に爲（な）す有（あ）るを得（え）ず、天子（てんし）吏（り）をして其國（くに）を治（をさ）めしめ、而して其貢稅（こうぜい）を納（い）れしむ。故（ゆゑ）に之を放（お）くと謂（い）ふ。豈（あ）に彼（か）の民（たみ）を暴（ばう）するを得（え）んや。然（しか）りと雖（いへど）も、常常（じやうじやう）にして之を見（み）んと欲（ほつ）す。故に源源（げんげん）として來（きた）る、貢（こう）に及（およ）ばず、政（まつりごと）を以て有庳（いうひ）に接（せつ）すと。此れの謂なり。〉

咸丘蒙問曰：「語云：『盛德之士，君不得而臣，父不得而子。』舜南面而立，堯帥諸侯北面而朝之，瞽瞍亦北面而朝之。舜見瞽瞍，其容有蹙。孔子曰：『於斯時也，天下殆哉，岌岌乎！』不識此語，誠然乎哉？」孟子曰：「否，此非君子之言，齊東野人之語也。堯老而舜攝也，《堯典》曰：『二十有八載，放勛乃徂落，百姓如喪考妣。三年，四海遏密八音。』孔子曰：『天無二日，民無二王。』舜既爲天子矣，又帥天下諸侯以爲堯三年喪，是二天子矣。」咸丘蒙曰：「舜之不臣堯，則吾既得聞命矣。《詩》云：『普天之下，莫非王土；率土之濱，莫非王臣。』而舜既爲天子矣，敢問瞽瞍之非臣如何？」曰：「是詩也，非是之謂也，勞於王事而不得養父母也。曰：『此莫非王事，我獨賢勞也。』故說詩者，不以文害辭，不以辭害志；以意逆志，是爲得之。如以辭而已矣。《雲漢》之詩曰：『周餘黎民，靡有孑遺。』信斯言也，是周無遺民也。孝子之至，莫大乎尊親；尊親之至，莫大乎以天下養。爲天子父，尊之至也；以天下養，養之至也。《詩》曰：『永言孝思，孝思惟則』，此之謂也。《書》曰：『祗載見瞽瞍，夔夔齋栗，瞽瞍亦允若』，是爲父不得而子也。」

〈咸丘蒙（かんきうもう）問ふ、曰く、語（ご）に云ふ、盛德（せいとく）の士（し）は、君（きみ）得（え）て臣（しん）とせず、父（ちゝ）得（え）て子（し）せず。舜（しゆん）は南面（なんめん）して立（た）ち、堯（げう）は諸侯（しよこう）を帥（ひき）ゐて北面（ほくめん）して之に朝（てう）す。瞽瞍（こそう）も亦（また）北面（ほくめん）して之に朝（てう）す。舜（しゆん）は瞽瞍（こそう）を見て、其の容（かたち）蹙（しゆく）たる有（あ）り。孔子（こうし）曰く、斯（こ）の時（とき）に於（おい）て、天下（てんか）殆（あやふ）いかな。岌岌乎（きふきふこ）たりと。識（し）らず此（こ）の語（ご）誠（まこと）に然（しか）るか。孟子（まうし）曰（いは）く、否（いな）、此（こ）れ君子（くんし）の言（げん）に非（あら）ず。齊東（せいとう）野人（やじん）の語（ご）なり。堯（げう）老（お）いて舜（しゆん）攝（せつ）するなり。堯典（げうてん）に曰く、二十有（いう）八載（さい）、放勛（はうこん）乃（すなは）ち徂落（そらく）す。百姓（せい）考妣（かうひ）を喪（さう）するが如（ごと）く、三年四海（かい）八音（いん）を遏密（あつみつ）す。孔子（こうし）曰く、天（てん）に二日（じつ）なく、民（たみ）に二王（わう）なしと。舜（しゆん）既（すで）に天子（てんし）たり、又（また）天下（てんか）の諸侯（しよこう）を帥（ひき）ゐて、以て堯（げう）に三年の喪（さう）を爲（な）さば、是（こ）れ二天子（てんし）なり。咸丘蒙（かんきうもう）曰く、舜（しゆん）の堯（げう）を臣（しん）とせざるは則（すなは）ち吾れ既（すで）に命（めい）を聞（き）くを得（え）たり。詩（し）に云ふ、普天（ふてん）の下（もと）は、王土（わうど）に非（あら）ざるなく、率土（そつど）の濱（ひん）は、王臣（わうしん）に非（あら）ざるなしと。而して舜（しゆん）既（すで）に天子（てんし）と爲（な）れり。敢（あへ）て問（と）ふ、瞽瞍（こそう）の臣（しん）に非（あら）ざるは如何（いかん）。曰く、是（こ）の詩（し）や、是（こ）の謂ひに非（あら）ざるなり。王事（わうじ）に勞（らう）して而して父母（ふぼ）を養（やしな）ふを得（え）ざるなり。曰く、此（こ）れ王事（わうじ）に非（あら）ざること莫（な）し、我（わ）れ獨（ひと）り賢勞（けんらう）するなり。故（ゆゑ）に詩（し）を說く者（もの）は文（ぶん）を以て辭（じ）を害（がい）せず、辭（じ）を以て志（こゝろざし）を害（がい）せず、意（い）を以て志（こゝろざし）を逆（むか）ふ、是（こ）れ之（これ）を得（え）たりと爲す。如（も）し辭（じ）のみを以てせば、雲漢（うんかん）の詩（し）に曰く、周餘（しうよ）の黎民（れいみん）、孑遺（げつゐ）あることなしと。斯（こ）の言（げん）を信（しん）ずれば是（こ）れ周（しう）に遺民（ゐみん）なきなり。孝子（かうし）の至（いたり）は親（おや）を尊（たふと）ぶより大（だい）なるはなし。親（おや）を尊（たふと）ぶの至（いたり）は天下（てんか）を以て養（やしな）ふより大（だい）なるはなし。天子（てんか）の父（ちゝ）となるは尊（そん）の至（いたり）なり。天下（てんか）を以て養（やしな）ふは養（やしな）ふの至（いたり）なり。詩（し）に曰く、永（なが）く言（われ）孝（かう）を思（おも）ふ。孝（かう）を思（おも）へば惟（こ）れ則（のり）と。此の謂（いひ）なり。書（しよ）に曰く、載（こと）を祗（つゝし）みて瞽瞍（こそう）に見（まみ）ゆ。夔夔（きき）として齋栗（せいりつ）す。瞽瞍（こそう）も亦（また）允若（いんじやく）すと。是（こ）れ父得（え）て子（こ）とせずとなすなり。〉

萬章曰：「堯以天下與舜，有諸？」孟子曰：「否，天子不能以天下與人。」「然則舜有天下也，孰與之？」曰：「天與之。」「天與之者，諄諄然命之乎？」曰：「否，天不言，以行與事示之而已矣。」曰：「以行與事示之者，如之何？」曰：「天子能薦人於天，不能使天與之天下；諸侯能薦人於天子，不能使天子與之諸侯；大夫能薦人於諸侯，不能使諸侯與之大夫。昔者堯薦舜於天而天受之，暴之於民而民受之。故曰：天不言，以行與事示之而已矣。」曰：「敢問薦之於天而天受之，暴之於民而民受之，如何？」曰：「使之主祭而百神享之，是天受之。使之主事而事治，百姓安之，是民受之也。天與之，人與之，故曰：天子不能以天下與人。舜相堯，二十有八載，非人之所能爲也，天也。堯崩，三年之喪畢，舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者，不之堯之子而之舜；訟獄者，不之堯之子而之舜；謳歌者，不謳歌堯之子而謳歌舜；故曰『天』也。夫然後之中國，踐天子位焉。而居堯之宮，逼堯之子，是『篡』也，非『天與』也。《泰誓》曰：『天視自我民視，天聽自我民聽』，此之謂也。」

〈萬章（ばんしやう）曰く、堯（げう）天下（てんか）を以て舜（しゆん）に與（あた）ふと。諸（こ）れありや。孟子（まうし）曰く、否（いな）、天子（てんし）は天下（てんか）を以て人（ひと）に與（あた）ふること能（あた）はず。然（しか）らば則（すなは）ち舜（しゆん）の天下（てんか）を有（たも）つや、孰（た）れか之を與（あた）ふる。曰く、天（てん）之（これ）を與（あた）ふ。天（てん）之を與（あた）ふとは諄諄然（じゆんじゆんぜん）として之（これ）を命（めい）ずるか。曰く、否（いな）、天（てん）言（ものいは）ず。行（おこなひ）と事（こと）とを以て之に示（しめ）すのみ。曰く、行（おこなひ）と事とを以て之に示すとは之を如何（いかん）。曰く、天子（てんし）能く人を天（てん）に薦（すゝ）む，天（てん）をして之（これ）に天下（てんか）を與（あた）へしむること能（あた）はず。諸侯（しよこう）能（よ）く人（ひと）を天子（てんし）に薦（すゝ）む，天子（てんし）をして之（これ）に諸侯（しよこう）を與（あた）へしむること能（あた）はず。大夫（たいふ）能（よ）く人を諸侯（しよこう）に薦（すゝ）む，諸侯（しよこう）をして之に大夫（たいふ）を與（あた）へしむること能（あた）はず。昔者（むかし）堯（げう）、舜（しゆん）を天（てん）に薦（すゝ）めて天（てん）之（これ）を受（う）け、之（これ）を民（たみ）に暴（あら）はして民（たみ）之（これ）を受（う）く。故（ゆゑ）に曰く、天（てん）言（ものいは）ず，行（おこなひ）と事（こと）とを以て之に示すのみと。曰く、敢て問（と）ふ、之を天（てん）に薦（すゝ）めて天（てん）之（これ）を受（う）け、之（これ）を民（たみ）に暴（あらは）して、民（たみ）之（これ）を受（う）くと、如何（いかん）。曰く、之（これ）をして祭（まつり）を主（つかさど）らしめて百神（しん）之（これ）を享（う）く。是（こ）れ天（てん）之（これ）を受（う）くるなり。之（これ）をして事（こと）を主（つかさど）らしめて事（こと）治（をさ）まり、百姓（せい）之（これ）に安（やす）んず。是（こ）れ民（たみ）之（これ）を受（う）くるなり。天（てん）之（これ）を與（あた）へ、人（ひと）之（これ）を與（あた）ふ。故（ゆゑ）に曰く、天子（てんし）は天下（てんか）を以て人に與（あた）ふること能（あた）はずと。舜（しゆん）、堯（げう）に相（しやう）たること二十有（いう）八載（さい）、人（ひと）の能（よ）く爲（な）す所（ところ）に非ず、天（てん）なり。堯（げう）崩（ほう）じ、三年（ねん）の喪（も）畢（をは）りて、舜（しゆん）、堯（げう）の子（こ）に南河（なんか）の南（みなみ）に避（さ）く。天下（てんか）の諸侯（しよこう）朝覲（てうかん）する者（もの）堯（げう）の子（こ）に之（ゆ）かずして舜（しゆん）に之き、訟獄（しようごく）する者（もの）堯（げう）の子（こ）に之（ゆ）かずして舜（しゆん）に之（ゆ）き、謳歌（おうか）する者（もの）堯（げう）の子を謳歌（おうか）せずして、舜（しゆん）を謳歌（おうか）す。故（ゆゑ）に曰く、天なり。夫（そ）れ然（しか）る後（のち）に中國（ちうごく）に之（ゆ）きて天子（てんし）の位（くらゐ）を踐（ふ）めり。而（しか）るを堯（げう）の宮（きう）に居（を）り堯（げう）の子（こ）に逼（せま）らば是（こ）れ篡（うば）へるなり。天（てん）の與（あた）ふるにあらざるなり。泰誓（たいせい）に曰く、天（てん）の視（み）るは我（われ）民（たみ）に自（よ）つて視（み）る、天（てん）の聽（き）くは我（われ）民（たみ）に自（よ）つて聽（き）くとは、此（こ）れの謂（いひ）なり。〉

萬章問曰：「人有言『至於禹而德衰，不傳於賢而傳於子』，有諸？」孟子曰：「否然也。天與賢則與賢，天與子則與子。昔者舜薦禹於天，十有七年；舜崩，三年之喪畢，禹避舜之子於陽城；天下之民從之，若堯崩之後不從堯之子而從舜也。禹薦益於天，七年，禹崩，三年之喪畢，益避禹子於箕山之陰；朝覲訟獄者，不之益而之啟，曰：『吾君之子也。』謳歌者不謳歌益而謳歌啟，曰：『吾君之子也。』丹朱之不肖，舜之子亦不肖；舜之相堯、禹之相舜也，歷年多，施澤於民久。啟賢，能敬承繼禹之道；益之相禹也，歷年少，施澤於民未久。舜、禹、益相去久遠，其子之賢不肖皆天也，非人之所能爲也。莫之爲而爲者，天也；莫之致而至者，命也。匹夫而有天下者，德必若舜禹，而又有天子薦之者；故仲尼不有天下。繼世而有天下，天之所廢，必若桀紂者也；故益、伊尹、周公不有天下。伊尹相湯以王於天下，湯崩，太丁未立，外丙二年，仲壬四年。太甲顛覆湯之典刑，伊尹放之於桐三年；太甲悔過，自怨自艾，於桐處仁遷義，三年以聽伊尹之訓己也，復歸于亳。周公之不有天下，猶益之於夏、伊尹之於殷也。孔子曰：『唐虞禪，夏後、殷、周繼，其義一也。』」

〈萬章（ばんしやう）問（と）ひて曰く、人（ひと）言（い）へることあり。禹（う）に至（いた）つて德（とく）衰（おとろ）へ、賢（けん）に傳（つた）へずして子（こ）に傳（つた）ふと。諸（こ）れありや。孟子（まうし）曰く、否（いな）、然（しか）らざるなり。天（てん）賢（けん）に與（あた）ふれば則ち賢（けん）に與（あた）へ、天（てん）子（こ）に與（あた）ふれば則（すなは）ち子（こ）に與（あた）ふ。昔者（せきしや）舜（しゆん）禹（う）を天（てん）に薦（すゝ）むること十有（いう）七年（ねん）、舜（しゆん）崩（ほう）じ、三年（ねん）の喪（も）畢（をは）つて、禹（う）、舜（しゆん）の子（こ）に陽城（やうじやう）に避（さ）く、天下（げんか）の民（たみ）之（これ）に從（したが）ふこと、堯（げう）崩（ほう）ずるの後（のち）、堯（げう）の子に從（したが）はずして舜（しゆん）に從（したが）ふが若（ごと）し。禹（う）、益（えき）を天（げん）に薦（すゝ）むること七年、禹（う）、崩（ほう）じ三年の喪（も）畢（をは）りて、益（えき）、禹（しゆん）の子（こ）に箕山（きざん）の陰（きた）に避（さ）く。朝覲（てうかん）訟獄（しようごく）する者（もの）益（えき）に之（ゆ）かずして啟（けい）に之（ゆ）く。曰く、吾（わ）が君（きみ）の子（こ）なりと。謳歌（おうか）する者、益を謳歌（おうか）せずして啟（けい）を謳歌（おうか）す。曰く、吾（わ）が君（きみ）の子（こ）なりと。丹朱（たんしゆ）の不肖（ふせう）、舜（しゆん）の子（こ）亦（また）不肖（ふせう）、舜（しゆん）の堯（げう）に相（しやう）たる、禹（う）の舜（しゆん）に相（しやう）たる、年を歷ること多（おほ）く、澤（たく）を民（たみ）に施（ほどこ）すこと久（ひさ）し。啟賢（けいけん）にして能（よ）く敬（つゝし）んで禹（う）の道（みち）を承繼（しようけい）す。益（えき）の禹（う）に相（しやう）たる年（とし）を歷（ふ）ること少（すくな）く、澤（たく）を民（たみ）に施（ほどこ）すこと未（いま）だ久（ひさ）しからず。舜（しゆん）・禹（う）・益（えき）相（あひ）去（さ）ること久遠（きうえん）、其子（そのこ）の賢（けん）不肖（ふせう）は皆（みな）天（てん）なり。人の能く爲（な）す所（ところ）に非（あら）ざるなり。之（これ）を爲（な）す莫（な）くして爲（な）る者（もの）は天（てん）なり。之れを致（いた）す莫（な）くして至（いた）る者は命（めい）なり。匹夫（ひつぷ）にして天下（てんか）を有（たも）つ者は、德（とく）必（かなら）ず舜（しゆん）・禹（う）の若（ごと）くにして又（また）天子（てんし）の之（これ）を薦（すゝ）むる者（もの）あり。故（ゆゑ）に仲尼（ちうじ）は天下（てんか）を有（たも）たず。世を繼（つ）ぎて天下（てんか）を有（たも）つ。天（てん）の廢（はい）する所（ところ）必（かなら）ず桀紂（けつちう）の若（ごと）くなる者（もの）なり。故（ゆゑ）に益（えき）・伊尹（いいん）・周公（しうこう）は天下（てんか）を有（たも）たず。伊尹（いいん）、湯（たう）に相（しやう）として以て天下（たんか）に王（わう）たらしむ。湯（たう）崩（ほう）じて太丁（たいてい）未（いま）だ立（た）たず。外丙（ぐわいへい）は二年（ねん）、仲壬（ちうじん）は四年、太甲（たいかふ）、湯（たう）の典刑（てんけい）を顛覆（てんぷく）す。伊尹（いいん）之（これ）を桐（とう）に放（お）くこと三年、太甲（たいかふ）過（あやまち）を悔（く）い、自（みづか）ら怨（うら）み自（みづか）ら艾（をさ）めて、桐（とう）に於（おい）て仁（じん）に處（を）り義（ぎ）に遷（うつ）る三年、以（もつ）て伊尹（いいん）の己（おのれ）を訓（をし）ふるを聽（き）く。亳（はく）に復歸（ふつき）す。周公（しうこう）の天下（てんか）を有（たも）たざるは猶（な）ほ益（えき）の夏（か）に於（お）ける、伊尹（いいん）の殷（いん）に於けるがごときなり。孔子（こうし）曰く、唐虞（たうぐ）は禪（ゆづ）り、夏（か）・殷（いん）・周（しう）は繼（つ）ぐ、其義（そのぎ）一なりと。〉

萬章問曰：「人有言『伊尹以割烹要湯』，有諸？」孟子曰：「否，不然。伊尹耕於有莘之野，而樂堯舜之道焉。非其義也，非其道也，祿之以天下弗顧也，繫馬千駟弗視也。非其義也，非其道也，一介不以與人，一介不以取諸人。湯使人以幣聘之。囂囂然曰：『我何以湯之聘幣爲哉？我豈若處畎畝之中，由是以樂堯舜之道哉？』湯三使往聘之。既而幡然改曰：『與我處畎畝之中，由是以樂堯舜之道，吾豈若使是君爲堯舜之君哉？吾豈若使是民爲堯舜之民哉？吾豈若於吾身親見之哉？天之生此民也，使先知覺後知，使先覺覺後覺也。予，天民之先覺者也。予將以斯道覺斯民也，非予覺之而誰也？』思天下之民匹夫匹婦有不被堯舜之澤者，若己推而內之溝中。其自任以天下之重如此，故就湯而說之以伐夏救民。吾未聞枉己而正人者也，況辱己以正天下者乎？聖人之行不同也，或遠或近，或去或不去，歸潔其身而已矣。吾聞其以堯舜之道要湯，未聞以割烹也。《伊訓》曰：『天誅造攻自牧宮，朕載自亳。』」

〈萬章（ばんしやう）問（と）うて曰く、人（ひと）言（い）へることあり。伊尹（いいん）割烹（かつぱう）を以て湯（たう）に要（もと）むと。諸（こ）れありや。孟子（まうし）曰く、否（いな）、然（しか）らず。伊尹（いいん）有莘（いうしん）の野（や）に耕（たがや）して堯舜（げうしゆん）の道（みち）を樂（たの）しむ。其義（そのぎ）にあらず、其道（そのみち）にあらざれば、之（これ）に祿（ろく）するに天下（てんか）を以てするも顧（かへりみ）ざるなり。繫馬（けいば）千駟（し）も視（み）ざるなり。其義（そのぎ）にあらず、其道（そのみち）にあらざれば、一介（かい）も以て人（ひと）に與（あた）へず、一介（かい）を以て諸れを人（ひと）に取（と）らず、湯（たう）人（ひと）をして幣（へい）を以て之を聘（へい）せしむ。囂囂然（がう〳〵ぜん）として曰く、我（われ）何（なん）ぞ湯（たう）の聘幣（へいへい）を以て爲（な）さんや。我（われ）豈（あ）に畎畝（けんぽ）の中（なか）に處（を）り、是（これ）に由（よ）りて以て堯舜（げうしゆん）の道（みち）を樂（たのし）むに若（し）かんや。湯（たう）三たび往（ゆ）きて之を聘（へい）せしむ。既（すで）にして幡然（はんぜん）として改（あらた）めて曰く、我（われ）畎畝（けんぽ）の中（なか）に處（を）り、是（これ）に由（よ）りて以て堯舜（げうしゆん）の道（みち）を樂（たのし）まんよりは、吾（われ）豈（あ）に是（こ）の君（きみ）をして堯舜（げうしゆん）の君（きみ）たらしむるに若（し）かんや。吾（われ）豈（あ）に是民（このたみ）をして堯舜（げうしゆん）の民（たみ）たらしむるに若（し）かんや。吾（われ）豈（あ）に吾身（わがみ）に於（おい）て親（した）しく之を見（み）るに若（し）かんや。天（てん）の此民（このたみ）を生（しやう）ずるや、先知（せんち）をして後知（こうち）を覺（さと）さしめ、先覺（せんかく）をして後覺（こうかく）を覺（さと）さしむ。予（われ）は天民（てんみん）の先覺（せんかく）なる者（もの）なり。予將（まさ）に斯（こ）の道（みち）を以て、斯（こ）の民（たみ）を覺（さと）さんとするなり。予（われ）之（これ）を覺（さと）すに非（あら）ずして誰（たれ）ぞやと。天下（てんか）の民（たみ）、匹夫（ひつぷ）匹婦（ひつぷ）も堯舜（げうしゆん）の澤（たく）を被（かうむ）らざる者（もの）あれば、己（おのれ）推（い）して之を溝中（こうちう）に內（い）るゝが若（ごと）しと思（おも）ふ。其（その）自（みづか）ら任（にん）ずるに天下（てんか）の重（おも）きを以てすること此（かく）の如し。故（ゆゑ）に湯（たう）に就（つ）きて之に說（と）くに夏（か）を伐（う）ち民（たみ）を救（すく）ふを以てす。吾（われ）未（いま）だ己（おのれ）を枉（ま）げて、人（ひと）を正（たゞ）す者を聞（き）かざるなり。況（いは）んや己（おのれ）を辱（はづか）しめ以て天下（てんか）を正（たゞ）す者をや。聖人（せいじん）の行（おこなひ）同（おな）じからざるなり。或（ある）ひは遠（とほ）く、或（ある）ひは近（ちか）く、或（ある）ひは去（さ）り、或（ある）ひは去（さ）らず、其身（そのみ）を潔（いさぎよ）くするに歸（き）するのみ。吾（われ）其（そ）の堯舜（げうしゆん）の道（みち）を以て湯（たう）に要（もと）むるを聞（き）く。未（いま）だ割烹（かつぱう）を以てすることを聞（き）かざるなり。伊訓（いくん）に曰く、天誅（てんちう）攻（こう）を造（な）すは牧宮（ぼくきう）よりすと。朕（ちん）亳（はく）より載（はじ）むと。〉

萬章問曰：「或謂『孔子於衞主癰疽，於齊主侍人瘠環』，有諸乎？」孟子曰：「否，不然也，好事者爲之也。於衞，主顏讎由。彌子之妻與子路之妻，兄弟也。彌子謂子路曰：『孔子主我，衞卿可得也。』子路以吿，孔子曰：『有命。』孔子進以禮，退以義，得之不得曰：『有命』。而主癰疽與侍人瘠環，是無義無命也。孔子不悅於魯衞，遭宋桓司馬，將要而殺之，微服而過宋。是時孔子當厄，主司城貞子，爲陳侯周臣。吾聞觀近臣，以其所爲主；觀遠臣，以其所主。若孔子主癰疽與侍人瘠環，何以爲孔子？」

〈萬章（ばんしやう）問（と）ひて曰く、或（ある）ひと謂（い）ふ、孔子（こうし）衞（ゑい）に於（おい）ては癰疽（ようそ）を主とし、齊（せい）に於（おい）ては侍人（じじん）瘠環（せきくわん）を主とせりと。諸れありや。孟子（まうし）曰く、否（いな）、然（しか）らざるなり。事（こと）を好（この）む者（もの）之（これ）を爲（な）すなり。衞（ゑい）に於（おい）て顏讎由（がんしういう）を主（しゆ）とす。彌子（びし）の妻（つま）と子路（しろ）の妻（つま）とは兄弟（けいてい）なり。彌子（びし）、子路（しろ）に謂（い）つて曰く、孔子（こうし）我（われ）を主（しゆ）とせば、衞（ゑい）の卿（けい）は得（う）べしと。子路（しろ）以て吿（つ）ぐ、孔子（こうし）曰く、命（めい）ありと。孔子（こうし）進（すゝ）むに禮（れい）を以てし、退（しりぞ）くに義（ぎ）を以てす。之（これ）を得（う）ると得（え）ざると命（めい）ありと曰へり。而るに癰疽（ようそ）と侍人（じじん）瘠環（せきくわん）とを主（しゆ）とせば、是れ義（ぎ）なく命（めい）なきなり。孔子（こうし）魯衞（ろゑい）に悅（よろこ）ばれず、宋（そう）の桓司馬（くわんしば）將（まさ）に要（えう）して之（これ）を殺（ころ）さんとするに遭（あ）ひ、微服（びふく）して宋（そう）を過（す）ぐ。是（こ）の時（とき）孔子（こうし）厄（やく）に當（あた）れり。司城（しじやう）貞子（ていし）陳侯周（ちんこうしう）の臣（しん）となるを主（しゆ）とせり。吾（わ）れ聞（き）く、近臣（きんしん）を觀（み）るには、其（そ）の主（しゆ）となる所（ところ）を以てし、遠臣（ゑんしん）を觀（み）るには其（そ）の主（しゆ）とする所（ところ）を以てすと。若（も）し孔子（こうし）、癰疽（ようそ）と侍人（じじん）瘠環（せきくわん）とを主（しゆ）とせば、何（なに）を以てか孔子（こうし）となさん。〉

萬章問曰：「或曰：『百里奚自鬻於秦養牲者，五羊之皮。食牛，以要秦繆公。』信乎？」孟子曰：「否然，好事者爲之也。百里奚，虞人也。晉人以垂棘之璧與屈產之乘，假道於虞以伐虢。宮之奇諫，百里奚不諫，知虞公之不可諫而去。之秦，年已七十矣，曾不知以食牛干秦繆公之爲污也，可謂智乎？不可諫而不諫，可謂不智乎？知虞公之將亡而先去之，不可謂不智也。時舉於秦，知繆公之可與有行也而相之，可謂不智乎？相秦而顯其君於天下，可傳於後世，不賢而能之乎？自鬻以成其君，鄉黨自好者不爲，而謂賢者爲之乎？」

〈萬章（ばんしやう）問（と）ひて曰く、或（ある）ひと曰く、百里奚（はくりけい）自（みづか）ら秦（しん）の牲（せい）を養（やしな）ふ者（もの）に五羊（やう）の皮（かは）に鬻（ひさ）ぎ、牛（うし）を食（か）うて以て秦（しん）の繆公（ぼくこう）に要（もと）むと。信（しん）なるか。孟子（まうし）曰（いは）く、否（いな）、然（しか）らず。事（こと）を好（この）む者（もの）之（これ）を爲（な）すなり。百里奚（はくりけい）は虞人（ぐひと）なり。晉人（しんひと）垂棘（すゐきよく）の璧（へき）と屈產（くつさん）の乘（じよう）を以て道（みち）を虞（ぐ）に假（か）りて以て虢（かく）を伐（う）つ。宮之奇（きうしき）諫（いさ）む。百里奚（はくりけい）は諫（いさ）めず。虞公（ぐこう）の諫（いさ）む可からざるを知りて去（さ）りて、秦（しん）に之（ゆ）く。年（とし）已（すで）に七十なり。曾（かつ）て牛（うし）を食（か）ふを以て秦（しん）の繆公（ぼくこう）に干（もと）むる、污（を）たることを知らざるや、智（ち）と謂（い）ふ可けんや。諫（いさ）む可からずして諫（いさ）めず、不智（ふち）と謂（い）ふ可けんや。虞公（ぐこう）の將（まさ）に亡（ほろ）びんとするを知（し）りて先（ま）づ之（これ）を去（さ）る、不智（ふち）と謂（い）ふ可からざるなり。時（とき）に秦（しん）に舉（あ）げられ繆公（ぼくこう）の與（とも）に行（おこな）ふある可（べ）きを知りて之を相（たす）く、不智（ふち）と謂（い）ふ可けんや。秦（しん）を相（たす）けて其君（きみ）を天下（てんか）に顯（あら）はし、後世（こうせい）に傳（つた）ふ可くす、不賢（ふけん）にして之を能（よ）くせんや。自（みづか）ら鬻（ひさ）ぎて以て其君（そのきみ）を成（な）すは、鄉黨（きやうたう）の自（みづか）ら好（よ）みする者も爲（な）さず、而（しか）るを賢者（けんしや）之（これ）を爲（な）すと謂（い）はんや。〉