太平記/巻第二十四

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

巻第二十四

206 朝儀年中行事事

暦応改元の比より兵革且く静り、天下雖属無為京中の貴賎は尚窮困の愁に拘れり。其故は国衙・荘園も本所の知行ならず。正税官物も運送の煩有て、公家は逐日狼戻せしかば、朝儀悉廃絶して政道さながら土炭に堕にける。夫天子は必万機の政を行ひ、四海を治給ふ者也。其年中行事と申は、先正月には、平旦に天地四方拝・屠蘇白散・群臣の朝賀・小朝拝・七曜の御暦・腹赤の御贄・氷様・式兵二省内外官の補任帳を進る。立春の日は、主水司立春の水を献る。子日の若菜・卯日の御杖・視告朔の礼・中春両宮の御拝賀。五日東寺の国忌・叙位の議白。七日兵部省御弓の奏。同日白馬節会。八日大極殿の御斉会。同日真言院の御修法・太元の法・諸寺の修正・女叙位。十一日外官の除目。十四日殿上の内論議。十五日七種の御粥・宮内省の御薪。十六日蹈歌節会・秋冬の馬料・諸司の大粮・射礼・賭弓・年給の帳・神祇官の御麻。晦日には御巫御贖を奉る。院の尊勝陀羅尼。二月には上の丁日尺奠・上の申日春日祭。翌日卒川祭。上の卯日大原野祭・京官の除目・祈年の祭・三省考選の目録・列見の位禄・季の御読経・仁王会を被行。三月には三日御節供・御灯・曲水の宴。七日薬師寺の最勝会・石清水の臨時の祭・東大寺の花厳会授戒。同日鎮花祭あり。四月には朔日の告朔。同日掃部寮冬の御座を徹して夏の御座を供ず。主水司始て氷を献り、兵衛府御扇を進る。山科・平野・松尾・杜本・当麻・当宗・梅宮・大神の祭・広瀬立田の祭あり。五日は中務省妃・夫人・嬪。女御の夏の衣服の文を申す。同日准蔭の位記。七日は擬階の奏也。八日は潅仏。十日は女官、春夏の時の飾り物の文を奏す。内の弓場の埒。斉内親王の御禊。中の申日国祭。関白の賀茂詣。中の酉日賀茂の祭。男女の被馬。下の子日吉田宮祭。東大寺の授戒の使。駒牽神衣の三枝の祭あり。五月には、三日六衛府、菖蒲并花を献る。四日は走馬の結番、并毛色を奏す。五日端午の祭、薬玉御節供・競馬・日吉祭・最勝講を被行。六月には、内膳司忌火の御飯を供ず。中務省暦を奏す。造酒司の醴酒。神祇官の御体の御占。月次。神今食。道饗。鎮火の祭。神祇官の荒世の御贖を奏す。東西の文部、祓の刀を奏す。十五日祇薗の祭。晦日の節折、大祓。七月には、朔日の告朔。広瀬竜田の祭に可向。五位の定め。女官の補任帳。二日最勝寺の八講・七夕の乞巧奠。八日の文殊会。十四日盂蘭盆。十九日尊勝寺の八講。二十八日相撲節会。八月には、上の丁の尺奠。明る日内論議。四日北野祭。十一日官の定考・小定考。十五日八幡放生会。十六日駒引・仁王会・季御読経あり。九月には、九日重陽の宴。十一日伊勢の例幣・祈年・月次・神甞・新甞・大忌風神。十五日東寺の灌頂。鎮花・三枝・相甞・鎮魂・道饗の祭あり。十月には、掃部寮夏の御座を徹して、冬の御座を供ず。兵庫寮鼓吹の声を発し、刑部省年終断罪の文を進る。亥日三度の猪子。五日弓場始。十日興福寺の維摩会。競馬の負方の献物。大歌始あり。十一月には、朔日に内膳司忌火の御飯を供じ、中務省御暦を奏す。神祇官の御贖。斎院の御神楽。山科・平野・春日・森本・梅宮・大原野祭。新甞会。賀茂臨時祭あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳司忌火の御飯を供ず。御体の御占。陰陽寮来年の御忌を勘禄して、内侍に是を進る。荷前の使。御仏名。大寒の日、土牛の童子を立、晦日に宮内省御薬を奏す。大禊。御髪上。金吾四隊に列て、院々の焼灯不異白日。沈香火底に坐して吹笙と云ぬる追儺の節会は今夜也。委細に是を註さば、車に載とも不可尽。唯大綱を申許也。是等は皆代々の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機なれば、一度も不可断絶事なれ共、近年は依天下闘乱一事も不被行。されば仏法も神道も朝儀も節会もなき世と成けるこそ浅猿けれ。政道一事も無きに依て、天も禍を下す事を不知。斯れ共道を知者無れば、天下の罪を身に帰して、己を責る心の無りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉、年々に有て、蒸民の苦みとぞ成にける。


207 天竜寺建立事

武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。


208 依山門嗷訴公卿僉議事

同八月に上皇臨幸成て、供養を可被逐とて、国々の大名共を被召、代々の任例其役を被仰合。凡天下の鼓騒、洛中の壮観と聞へしかば、例の山門の大衆忿をなし、夜々の蜂起、谷々の雷動無休時。あはや天魔の障碍、法会の違乱出来ぬるとぞみへし。三門跡是を為静御登山あるを、若大衆共御坊へ押寄て、不日に追下し奉り、頓て三塔会合して大講堂の大庭にて僉議しける。其詞に云、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武皇帝建平安城也。契将来於吾山、伝教大師開比叡山也。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議しければ、三千大衆一同に皆尤々とぞ同じける。同七月三日谷々の宿老捧款状陳参す。其奏状に云、延暦寺三千大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千大衆法師等上とぞ書たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此事可有如何と僉議あり。去共大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿進で被申けるは、「先就山門申詞案事情、和漢の例を引て、此宗を好む世は必不亡云事なしと申条、愚案短才の第一也。其故は異国に此宗を尊崇せし始を云ば、梁武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺に禅坐し給しより以来、唐代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也。我朝には武臣相摸守此宗に傾て、九代累葉を栄へたり。而に幼帝の時に至て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初に当て、高時一家を亡事は、全非禅法帰依咎、只政を乱り驕を究し故也。何必しも治りし世を捨て、亡びし時をのみ取んや。是■濫謀訴也。豈足許容哉。其上天子武を諱とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎此夢窓は三代の国師として四海の知識たり。山門縱訴を横すとも、義を知礼を存せば、過言を止て可仰天裁。漫疎石法師を遠島へ遣し、天竜寺を犬神人に仰て可破却と申条、奇怪至極也。罪科不軽。此時若錯刑者向後の嗷訴不可絶。早三門跡に被相尋、衆徒の張本召出し、断罪流刑にも可被行とこそ存候へ。」と、誠に無余儀被申ける。此義げにもと覚る処に、日野大納言資明卿被申けるは、「山門聊嗷訴に似て候へ共、退て加愚案一義有と存候。其故は日本開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺専とす。故に乱政行朝日は山門是を諌申し、邪法世に興る時は衆徒是を退る例其来尚矣。先後宇多院御宇に、横岳太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其儀を被止畢。又以往には土御門院御宇元久三年に、沙門源空専修念仏敷演の時、山門訴申て是を退治す。後堀河院御宇嘉禄三年尚専修の余殃を誡て、法然上人の墳墓を令破却。又御鳥羽院御宇建久年中に、栄西・能忍等禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺共起て及嗷訴。而に建仁寺建立に至て、遮那・止観の両宗を被置上へ、開山以別儀可為末寺由、依被申請被免許候き。惣て仏法の一事に不限。百王の理乱四海の安危、自古至今山門是を耳外に不処、所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執て、此平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門独捧奏状、終に遷都の儀を申止畢ぬ。是等は皆山門の大事に非ずといへども、仏法与王法以相比故、被裁許者也。抑禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は祖師の行迹也。然に今の禅僧之心操法則、皆是に相違せり。其故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼れ上天の下、一人の上たるべき依有約、如何なる大刹の長老、大耆旧の人も、路次に行会時は膝をかゞめて地に跪き、朝庭に参会する時は伸手沓を取致礼といへり。我朝には不然、無行短才なれども禅僧とだに云つれば、法務・大僧正・門主・貫頂の座に均からん事を思へり。只今父母の養育を出たる沙弥喝食も、兄を超父を越んと志あり。是先仁義礼智信の法にはづる。曾て宋朝に無例我朝に始れり。言は語録に似て、其宗旨を説時は、超仏越祖の手段有といへども、向利に、他之権貴に媚る時は、檀那に諂ひ富人に不下と云事なし。身には飾五色食には尽八珍、財産を授て住持を望み、寄進と号して寄沙汰をする有様、誠に法滅の至りと見へたり。君子恥其言過其行と云り。是豈知恥云乎。凡有心人は信物化物をみじと可思。其故は戒行も欠、内証も不明ば、所得の施物、罪業に非と云事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば心に懸る事なし。中機は一念浮べ共、人我無理を観ずる故に二念と相続で無思事。下機は無相の理までは弁ぜね共、慙愧懺悔の心有て諸人を不悩慈悲の心あり。此外に応堕地獄者有べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非を顕す此等也。凡寺を被建事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗道備て尤可然。宝堂荘厳に事を寄、奇麗厳浄を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持し人を謗して徒に明し暮さば、仏法興隆とは申難かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕して諸有所得の心を離て清浄を修すべきに、今禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師行儀如此ならんや。昔摩羯陀国の城中に一人の僧あり。毎朝東に向ては快悦して礼拝し、北に向ては嗟嘆して泪を流す。人怪みて其謂を問に答て云、「東には山中に乗戒倶に急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て年久し。仏法繁昌す。故に是を礼す。北には城中に練若あり。数十の堂塔甍を双べ、仏像経巻金銀を鏤たり。此に住する百千の僧俗、飲食衣服一として乏しき事なし。雖然如来の正法を究めたる僧なし。仏法忽に滅しなんとす。故に毎朝嗟傷す。」と、是其証也。如何に寺を被造共人の煩ひ歎のみ有ては其益なかるべし。朝廷の衰微歎て有余。是を見て山門頻に禁廷に訴ふ。言之者無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申処有其謂歟とこそ存候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此両義相分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴を静めたり。良有て三条源大納言通冬卿被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦山門申処雖事多、肝要は只正法与邪法の論也。然らば禅僧与聖道召合せ宗論候へかしとこそ存候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡宗論の事は、三国の間先例多く候者を。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開見候しに、彼祇園精舎の始を尋れば、舎衛国の大臣、須達長者、此国に一の精舎を建仏を安置し奉らん為に、舎利弗と共に遍く聚落園林を廻て見給ふに、波斯匿王の太子遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子に此地を乞奉る。祇陀太子、「吾逍遥優遊の地也。容易汝に難与。但此地に布余す程の金を以て可買取。」とぞ戯れ給ける。長者此言誠ぞと心得て、軈て数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負せ、祇陀園八十頃の地に布満て、太子に是を奉る。祇陀太子是を見給て、「吾言戯れ也。汝大願を発して精舎を建ん為に此地を乞。何の故にか我是を可惜。早此金を以て造功の資に可成。」被仰ければ、長者掉首曰、「国を可保太子たる人は仮にも不妄語。臣又苟不可食言、何ぞ此金を可返給。」とて黄金を地に棄ければ、「此上は無力。」とて金を収取て地を被与。長者大に悦で、軈て此精舎を立んと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参て申けるは、「祇陀太子、為瞿曇沙門須達に祇陀園を与て精舎を建んとし給。此国の弊民の煩のみに非ず。世を失ひ国を保給ふまじき事の瑞也。速に是を停給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給て、「さらば仏弟子と外道とを召合せ神力を施させ、勝負に付て事を可定。」被宣下しかば、長者是を聞て、「仏弟子の通力我足の上の一毛にも、外道は不及。」とぞ欺給ひける。さらばとて「予参の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既其日に成しかば、金鼓を打て見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉集、重膝連座。斯る処に六師外道が門人、如雲霞早参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅座して定より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗我師の威徳に臆して退復し給ふ。」と笑欺ける処に、舎利弗定より起て衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事如師子王来り給ふ。此時不覚外道共五体を地に著て臥ける。座定て後外道が弟子労度差禁庭に歩出て、虚空に向ひ目を眠り口に文咒したるに、百囲に余る大木俄に生出て、花散春風葉酔秋霜。見人奇特の思をなす。後に舎利弗口をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風となり、此木を根より吹抜て地に倒ぬ。労度差又空に向て呪する。周囲三百里にみへたる池水俄に湧出して四面皆七宝の霊池となる。舎利弗又目を揚て遥に天を見給へば、一頭六牙の白象空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。此象舌を延て、一口に彼池水を呑尽す。外道又虚空に向て且咒したるに、三の大山出現して上に百余丈の樹木あり。其花雲を凝し、其菓玉を連たり。舎利弗爰に手を揚て、空中を招き給ふに、一の金剛力士、以杵此山を如微塵打砕く。又外道如先呪するに、十頭の大龍雲より下て雨を降雷を振ふ。舎利弗又頭を挙て空中を見給ふに、一の金翅鳥飛来、此大龍を割喰。外道又咒するに、肥壮多力の鉄牛一頭出来て、地を■て吼へ忿る。舎利弗一音を出して咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄師子走出て此牛を喰殺す。外道又座を起て咒するに、長十丈余の一鬼神を現ぜり。頭の上より火出て炎天にあがり、四牙剣よりも利にして、眼日月を掛たるが如し。人皆怖れ倒れて魂を消処に、舎利弗黙然として座し給ひたるに、多門天王身には金色の胄を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、此鬼神怖畏して忽に逃去ぬ。其後猛火俄に燃出、炎盛に外道が身に懸りければ、外道が門人悉く舎利弗の前に倒れ臥て、五体を地に投、礼をなし、「願は尊者慈悲の心を起して哀愍し給へ。」と、己が罪をぞ謝し申ける。此時舎利弗慈悲忍辱の意を発し、身を百千に化し、十八変を現して、還て大座に著給ふ。見聞の貴賎悉宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して正法宗に帰服す。是より須達長者願望を遂て、祇園精舎建しかば、厳浄の宮殿微妙の浄刹、一生補処の菩薩、聖衆此中に来至し給へば、人天大会悉渇仰の頭を傾ける。又異朝に後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、如日輪光明を帯たる沙門一人、帝の御前に来て空中に立たりと御夢に被御覧、夙に起て群臣を召て御夢を問給に、臣傅毅奏曰、「天竺に大聖釈尊とて、独の仏出世し給ふ。其教法此国に流布して、万人彼化導に可預御瑞夢也。」と合せ申たりしが、果して摩騰・竺法蘭、仏舎利、並四十二章経を渡す。帝尊崇し給事無類。爰に荘老の道を貴で、虚無自然理を専にする道士列訴して曰、「古五帝三皇の天下に為王より以来、以儒教仁義を治め、以道徳淳朴に帰し給ふ。而るに今摩騰法師等、釈氏の教を伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早く彼法師を流罪して、太素の風に令復給べし。」とぞ申ける。依之、「さらば道士と法師とを召合せて、其威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕の東門に壇を高く築て、予参の日をぞ被定ける。既其の日に成しかば、道士三千七百人胡床を列て西に向ひ座す。沙門摩騰法師は、草座を布て東に向ひ座したりけり。其後道士等、「何様の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯上天入地擘山握月術を可致。」とぞ被宣下ける。道士等是を聞て大に悦び、我等が朝夕為業所なれば、此術不難とて、玉晨君を礼し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士低面失機処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入て、左右の手に捧て虚空百余丈が上に飛上てぞ立たりける。上に著所なく下に踏所なし。仏舎利より放光明、一天四海を照す。其光金帳の裏、玉■の上まで耀きしかば、天子・諸侯・卿大夫・百寮・万民悉金色の光に映ぜしかば、天子自玉■を下させ給て、五体を投地礼を成し給へば、皇后・元妃・卿相・雲客、悉信仰の首を地に著て、随喜の泪を袖に余す。懸りしかば確執せし道士共も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百余人即時に出家して摩騰の弟子にぞ成にける。此日頓て白馬寺を建て、仏法を弘通せしかば、同時に寺を造事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。自是漢土の仏法は弘りて遺教于今流布せり。又我朝には村上天皇の御宇応和元年に、天台・法相の碩徳を召て宗論有しに、山門よりは横川慈慧僧正、南都よりは松室仲■已講ぞ被参ける。予参日に成しかば、仲■既南都を出て上洛し給けるに、時節木津河の水出て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺に輿を舁居させて、案じ煩給たる処に、怪気なる老翁一人現して、「何事に此河の辺に徘らひ給ぞ。」と問ければ、仲■、「宗論の為に召れて参内仕るが、洪水に河を渡り兼て、水の干落る程を待也。」とぞ答給ひける。老翁笑て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽にだにも不及、以何可致宗論。」と恥しめける間、仲■誠と思て、十二人の力者に、「只水中を舁通せ。」とぞ下知し給ひける。輿舁、「さらば。」とて水中を舁て通るに、さしも夥しき洪水左右に■と分れて、大河俄に陸地となる。供奉の大衆悉足をも不濡渡けり。慈慧僧正も、比叡山西坂下松の辺に車を儲させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出、逆浪浸岸茫茫たり。牛童扣轅如何と立たる処に、水牛一頭自水中游出て車の前にぞ喘ぎける。僧正、「此牛に車を懸替て水中を遣。」とぞ被仰ける。牛童随命水牛に車を懸け一鞭を当たれば、飛が如く走出て、車の轅をも不濡、浪の上三十余町を游あがり、内裏の陽明門の前にて、水牛は書消様に失にけり。両方の不思議奇特、皆権者とは乍云、類少き事共也。去程に清涼殿に師子の座を布て、問者・講師東西に相対す。天子は南面にして、玉■に統■を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕を低る。法席既に定て、僧正は草木成仏の義を宣給へば、仲■は五性各別の理を立て難じて曰、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣しかば、慈慧僧正則円覚経の文を引て、「地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道。」と誦し給ふ。仲■此文に被詰て暫閉口し給処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現坐て、幽なる御声にて此文点を読替て教させ給けるは、「地獄天宮皆為浄土、有性も無性も斉成仏道。」と、慈慧僧正重て難じて曰、「此文点全法文の心に不叶。一草一木各一因果、山河大地同一仏性の故に、講答既に許具理仏性。若乍具理仏性、遂無成仏時ば、以何曰仏性耶。若又雖具仏性、言不成仏者、有情も不可成仏、有情の成仏は依具理仏性故也。」難じ給しかば、仲■無言黙止給けるが、重て答て曰、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先自身成仏の証を顕し給はずば、以何散疑。」と宣ひしかば、此時慈慧僧正言を不出、且が程黙座し給ふとぞ見へし。香染の法服忽に瓔珞細■の衣と成て、肉身卒に変じて、紫磨黄金の膚となり、赫奕たる大光明十方に遍照す。されば南庭の冬木俄に花開て恰春二三月の東風に繽紛たるに不異。列座の三公九卿も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下に来かとぞ覚ける。爰に仲■少欺る気色にて、揚如意敲席云、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦し給ふ。此時慈慧僧正の大光明忽消て、本の姿に成給ひにけり。是を見て、藤氏一家の卿相雲客は、「我氏寺の法相宗こそ勝れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給ける処に、門外に繋たる牛、舌を低て涎を唐居敷に残せるを見給へば、慥に一首の歌にてぞ有ける。草も木も仏になると聞時は情有身のたのもしき哉是則草木成仏の証歌也。春日大明神の示給ひけるにや。何れを勝劣とも難定。理哉、仲■は千手の化身、慈慧は如意輪の反化也。されば智弁言説何れもなじかは可劣、唯雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢時の如く也。而ば法相者六宗の長者たるべし。天台者諸宗の最頂也と被宣下、共に眉目をぞ開ける。抑天台の血脈は、至師子尊者絶たりしを、緬々世隔て、唐朝の大師南岳・天台・章安・妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を続給ふ。奇特也といへども、禅宗は是を髣髴也と難じ申。又禅の立る所は、釈尊大梵王の請を受て、於■利天法を説給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中比丘衆無知事。爰摩訶迦葉一人破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を以心伝心たり。此事大梵天王問仏決疑経に被説たり。然るを宋朝の舒王翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此経失たりと申条、他宗の証拠に不足と、天台は禅を難じ申て邪法と今も訴へ候上は、加様の不審をも此次に散度こそ候へ。唯禅与天台被召合宗論を被致候へかし。」とぞ被申ける。此三儀是非区に分れ、得失互に備れり。上衆の趣何れにか可被同と、閉口屈旨たる処に、二条関白殿申させ給けるは、「八宗派分れて、末流道異也といへども、共に是師子吼無畏の説に非と云事なし。而るに何れを取り何れを可捨。縦宗論を致す共、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季なれば、如摩騰虚空に立人もあらじ、慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯如来の権実徒に堅石白馬の論となり、祖師の心印空く叫騒怒張の中に可堕。凡宗論の難き事我曾听ぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩坐き。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ。門徒二に分れ、是彼非此。或時此二菩薩相逢て、空有の法論を致し給ふ事七日七夜也。共に富楼那の弁舌を仮て、智三千界を傾しかば、無心の草木も是を随喜して、時ならず花を開き、人を恐るゝ鳥獣も、是を感嘆して可去処を忘れたり。而れども論義遂に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩は蒼天の雲を分ち遥に都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩を擘、脩羅窟に入給にけり。其後花厳の祖師香象、大唐にして此空有の論を聞て、色即是空なれば護法の有をも不嫌、空即是色なれば清弁の空をも不遮と、二宗を会し給けり。上古の菩薩猶以如斯、況於末世比丘哉。されば宗論の事は強に無其詮候歟。とても近年天下の事、小大となく皆武家の計として、万づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断候べきかとこそ存候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義可然と被同、其日の議定は終にけり。さらばとて次日軈て山門の奏状を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛督諸共に、山門の奏状を披見して、「是はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩にもならず、適公家武家帰仏法大善事を修せば、方袍円頂の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍を成んとする条返々不思議也。所詮神輿入洛あらば、兵を相遣して可防。路次に振棄奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛か可有。非拠の嗷訴を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞をぞ被経ける。武家如斯申沙汰する上は、公家何ぞ可及異儀とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、徒に款状を公庭に被棄て、失面目登山ず。依之三千の大衆憤不斜。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上奉り、祇園・北野の門戸を閉、師子・田楽庭上に相列り、神人・社司御前に奉仕す。公武の成敗拘る処なければ、山門の安否此時に有と、老若共に驚嘆す。角ては猶も不叶とて、同十七日、剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峯・内山・日光・太平寺、其外の末寺末社、三百七十余箇所へ触送り、同十八日、四箇の大寺に牒送す。先興福寺へ送る。其牒状云、延暦寺牒興福寺衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下之謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書たりける。山門既に南都に牒送すと聞へしかば、返牒未送以前にとて、院司の公卿藤氏の雄臣等参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者以非為理事不珍候。其上今度の儀は、旁申処有其謂歟存候。就中行仏事貴僧法事も天下無為にてこそ其詮も候へ。神輿神木入洛有て、南都北嶺及嗷訴者、武家何と申共、静謐の儀なくば法会の違乱なるべし。角て又叡願も徒に成ぬと存候。只速に有聖断衆徒の鬱訴を被宥、其後御心安く法義大会をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠にも近年四海半は乱て一日も不安居、此上に又南北神訴に及び、衆徒鬱憤して忿らば、以外の珍事なるべしとて、枉諸事先院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸可成。」被仰ければ、山門是に静りて、神輿忽に御帰座有しかば、陣頭警固の武士も皆馬の腹帯を解て、末寺末社の門戸も参詣の道をぞ開きける。


209 天竜寺供養事付大仏供養事

此上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行ひ、翌日に御幸可有とて、同八月二十九日、将軍並左兵衛督路次の行装を調て、天竜寺へ被参詣けり。貴賎岐に充満て、僧俗彼れに成群、前代未聞の壮観也。先一番に時の侍所にて山名伊豆守時氏、声花に冑ふたる兵五百余騎を召具して先行す。其次に随兵の先陣にて、武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・戸次丹後守頼時・伊東大和八郎左衛門尉祐煕・土屋備前守範遠・東中務丞常顕・佐々木佐渡判官入道息男四郎左衛門尉秀定・同近江四郎左衛門尉氏綱・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・吉良上総三郎満貞・高刑部大輔師兼、以上十二人、色々の糸毛の胄に烏帽子懸して、太く逞き馬に、厚総懸て番たり。三番には帯刀にて武田伊豆四郎・小笠原七郎・同又三郎・三浦駿河次郎左衛門尉・同越中次郎左衛門尉・二階堂美作次郎左衛門尉・同対馬四郎左衛門尉・佐々木佐渡五郎左衛門尉・同佐渡四郎・海老名尾張六郎・平賀四郎・逸見八郎・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽したる色々の直垂に、思々の太刀帯て、二行に歩み連たり。其次に正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿、小八葉の車の鮮なるに簾を高く揚げ、衣冠正く乗給ける。五番には後陣の帯刀にて設楽五郎兵衛尉・同六郎、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見又三郎・同源太・小笠原蔵人・秋山新蔵人・佐々木出羽四郎左衛門尉・同近江次郎左衛門尉・富永四郎左衛門尉・宇佐美三河守・清久左衛門次郎・森長門四郎・曾我左衛門尉・伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人、衣服帯剣如先、行列の次等をぞ守ける。其次に参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義、巻纓老懸に蒔絵の細太刀帯て、小八葉の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守宗継・高播磨守師冬二人は御剣の役。長井大膳大夫広秀・同治部少輔時春御沓の役。佐々木吉田源左衛門尉秀長・同加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役。和田越前守宣茂・千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役、以上八人、布衣に上括して列を引。八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房、布衣に下括して、半靴著て、二騎充左右に打並たり。九番には、後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼・千葉新介氏胤・二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光・佐竹掃部助師義・同和泉守義長・武田甲斐前司盛信・伴野出羽守長房・三浦遠江守行連・土肥美濃守高実、以上十人、戎衣甲冑何れも金玉を磨たり。十番には外様の大名五百余騎、直垂著にて相随。土佐四郎・長井修理亮・同丹波左衛門大夫・摂津左近蔵人・城丹後守・水谷刑部少輔・二階堂安芸守・同山城守・中条備前守・薗田美作権守・町野加賀守・佐々木豊前次郎左衛門尉・結城三郎・梶原河内守・大内民部大夫・佐々木能登前司・太平六郎左衛門尉・狩野下野三郎左衛門尉・里見蔵人・島津下野守・武田兵庫助・同八郎・安保肥前守・土屋三河守・小幡右衛門尉・疋田三郎左衛門尉・寺岡九郎左衛門尉・田中下総三郎・須賀左衛門尉・赤松美作権守・同次郎左衛門尉・寺尾新蔵人、以上三十二人打混に、不守次第打たりけり。此後は吉良・渋河・畠山・仁木・細川を始として、宗との氏族、外様の大名打混に弓箭兵杖を帯し、思々の馬鞍にて、大宮より西郊まで、無透間袖を連て支へたり。薄馬場より、随兵・帯刀・直垂著・布衣の役人、悉守次第列を引く。已に寺門に至しかば、佐々木佐渡判官秀綱検非違使にて、黒袴著せる走下部、水干直垂、金銀を展たる如木の雑色、粲に胄たる若党三百余人、胡床布衣の上に列居して山門を警固す。其行装辺りを払て見へたり。尊氏卿・直義朝臣既に参堂有しかば、勅使藤中納言資明卿、院司の高右衛門佐泰成陣参して、即法会を被行。其日は無為に暮にけり。明れば八月晦日也。今日は又為御結縁両上皇御幸なる。昨日には事の体替て、見物の貴賎も閭巷に足を立兼たり。御車総門に至しかば、牛を懸放して手引也。御牛飼七人、何れも皆持明党とて綱取て名誉の上手共也。中にも松一丸は遣手にて、綾羅を裁ち金銀を鏤めたり。上皇御簾を揚て見物の貴賎を叡覧あり。黄練貫の御衣に、御直衣、雲立涌、生の織物、薄色の御指貫を召れたり。竹林院大納言公重卿、濃香に牡丹を織たる白裏の狩衣に、薄色の生の衣、州流に鞆絵の藤の丸、青鈍の生の織物の指貫にて、御車寄に被参たり。左宰相中将忠季卿、薄色の織襖の裏無に、蔦を紋にぞ織たりける。女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。殿上人には左中将宗雅朝臣、■線綾の女郎花の狩衣に、槿を紋にぞ織たりける。薄色の生の衣、藤の丸の指貫也。頭左中弁宗光朝臣、■線綾の比金襖の狩衣、珍しく見へたりける。右少将教貞朝臣、紫苑唐草を織たる生青裏、紅の引繕木はえ/゛\敷ぞ見へし。春宮権大進時光は、■線綾に萩を経青緯紫段にして、青く織たる女郎花の生の衣二藍の指貫也。此後は下北面の輩、中原季教・源康定・同康兼・藤原親有・安部親氏・豊原泰長、御随身には、秦久文・同久幸此等也。参会の公卿には三条帥公季卿・日野中納言資明卿・別当四条中納言隆蔭卿・春宮大夫実夏・左兵衛督直義、何れも皆行装当りを耀かす。仏殿の北の廊四間を餝て、大紋の畳を重ね布き、其上に氈を被展たり。平敷の御座其北にあり。西の間に屏風を立隔て御休所に構へたり。御前に風流の島形を被居たり。表大井河景趣、水紅錦を洗ひて、感興の心をぞ添たりける。是は三宝院僧正賢俊、依武命儲進す。仏殿の裏二間を拵て御簾を懸、御聴聞所にぞ構へたる。其北に畳を布て、公卿の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄を打て、左右の伶倫十一人、唐装束にて胡床に坐す。左には光栄・朝栄・行重・葛栄・行継・則重也。右には久経・久俊・忠春・久家・久種也。鳳笙・竜笛の楽人十八人、新秋・則祐・信秋・成秋・佐秋・季秋・景朝・景茂・景重・栄敦・景宗・景継・景成・季氏・茂政・重方・重時是等也。国師既に自山門進出させ給へば、楽人巻幄乱声を奏する事、時をぞ移しける。聴聞の貴賎、此時感涙を流しけり。導師は金襴の袈裟・鞋著て、莚道に進ませ給へば、二階堂丹後三郎左衛門執蓋、島津常陸前司・佐々木三河守両人執綱にて、同く歩出たり。左右の伶倫何れも皆幄より起て、参向の儀有て、万秋楽の破を奏して、舞台の下に列を引けば、古清衆導師に従て入堂あり。南禅寺の長老智明・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏・万寿寺の友松・真如寺の良元・安国寺の至孝・臨川寺の志玄・崇福寺の慧聰・清見寺の智琢、本寺当官にて、士昭首座、是等は皆江湖の竜象也。釈尊の十大弟子に擬して、扈従の装厳重なり。其後正面の戸■を閉て、願文の説法数剋也。法会終しかば、伶人本幄に帰て舞あり。左に蘇合右に古鳥蘇、陵王荒序・納蘓利・太平楽・狛杵也。中にも荒序は当道の深秘にて容易雖不奏之、適聖主臨幸の法席也。非可黙止とて、朝栄荒序を舞しかば、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂ぞ仕たる。当道の眉目、天下の壮観無比し事共也。此後国師一弁の香を拈じて、「今上皇帝聖躬万歳。」と祝し給へば、御布施の役にて、飛鳥井新中納言雅孝卿・大蔵卿雅仲・一条二位実豊卿・持明院三位家藤卿、殿上人には、難波中将宗有朝臣・二条中将資将卿・難波中将宗清朝臣・紙屋川中将教季・持明院少将基秀・姉少路侍従基賢・二条少将雅冬・持明院前美作守盛政、諸大夫には、千秋駿河左衛門大夫・星野刑部少輔・佐脇左近大夫、金銀珠玉を始として綾羅綿繍はさて置ぬ。倭漢の間に名をのみ聞て未目には不見珍宝を持連立て如山積上たり。只是王舎城の昔年、五百の車に珍貨を積で、仏に奉りしも是には過じとぞ見へし。総て此両日の儀を見る者、悉福智の二報を成就して、済度利生の道を広せし事、此国師に過たる人は非じとて、改宗帰法、偏執の心をぞ失ける。さしも違乱に及びし大法会の無事故遂て、天子の叡願、武家の帰依、一時に望み足ぬと喜悦の眉をぞ被開ける。夫仏を作り堂を立つる善根誠に勝れたりといへ共、願主聊も■慢の心を起す時は法会の違乱出来して三宝の住持不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕建寺事一千七百箇所、僧尼を供養する事十万八千人、有功徳乎。」と問給しに、達磨、「無功徳。」と答給ふ。是誠に無功徳云には非ず。叡信■慢を破て無作の大善に令帰なり。吾朝の古、聖武天皇東大寺を造立せられ、金銅十六丈の廬舎那仏を安置して、供養を被遂しに、行基菩薩を導師に請じ給ふ。行基勅使に向て申させ給けるは、「倫命重して辞するに言なしといへ共、如此の御願は、只冥顕の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計ひ申されける。天子を始進せて諸卿悉世既及澆季、如何してか百万里の波涛を隔たる天竺より、俄に導師来て供養をば可被遂と大に疑をなしながら、行基の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄に、導師をば未被定。已に其日に成ける朝、行基自摂津国難波の浦に出給ひ、西に向て香花を供じ、坐具を延て礼拝し給ふに、五色の雲天に聳て、一葉の舟浪に浮で、天竺の婆羅門僧正忽然として来給ふ。諸天蓋を捧て、御津の浜松、自雪に傾歟と驚き、異香衣を染て、難波津の梅忽に春を得たるかと怪しまる。一時の奇特こゝに呈れて、万人の信仰不斜。行基菩薩則婆羅門僧正の御手を引て、伽毘羅会に共に契しかい有て文殊の御貌相みつる哉と一首の謌を詠じ給へば、婆羅門僧正、霊山の釈迦の御許に契てし真如朽せず相みつる哉と読給ふ。供養の儀則は、中々言を尽すに不遑。天花風に繽紛として梵音雲に悠揚す。上古にも末代にも難有かりし供養也。仏閣供養の有様は、尤如此こそ有べきに、此の天竜寺供養事に就て、山門強に致嗷訴、遂に勅会の儀を申止めつる事非直事、如何様真俗共に■慢の心あるに依て、天魔波旬の伺ふ処あるにやと、人皆是を怪みけるが、果して此寺二十余年の中に、二度まで焼ける事こそ不思議なれ。


210 三宅・荻野謀叛事付壬生地蔵事

其比備前国住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に属して伊予国へ越たりけるが、義助死去の後、備前国へ立帰り児島に隠れ居て、猶も本意を達せん為に、上野国に坐ける新田左衛門佐義治を喚奉り、是を大将にて旗を挙んとぞ企ける。此比又丹波国住人荻野彦六朝忠、将軍を奉恨事有と聞へければ、高徳潜に使者を通じて触送るに、朝忠悦で許諾す。両国已に日を定て打立んとしける処に、事忽に漏聞へて、丹波へは山名伊豆守時氏三千余騎にて押寄せ、高山寺の麓四方二三里を屏にぬり篭て食攻にしける間、朝忠終に戦屈して降人に成て出にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国の守護、五千余騎にて寄ける間、高徳爰にては本意を遂る程の合戦叶はじとや思けん、大将義治を引具し、海上より京へ上て、将軍・左兵衛督・高・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧ける。「勢少くては叶まじ、廻文を遣して同意の勢を集よ。」とて、諸国へ此由を触遣すに、此彼に身を側め形を替て隠れ居たる宮方の兵千余人、夜を日に継でぞ馳参りける。此勢一所に集らば、人に怪しめらるべしとて、二百余騎をば大将義治に付奉て、東坂本に隠し置き、三百余騎をば宇治・醍醐・真木・葛葉に宿し置き、勝れたる兵三百人をば京白河に打散し、態と一所には不置けり。已に明夜木幡峠に打寄て、将軍・左兵衛督・高・上杉が館へ、四手に分て夜討に可寄と、相図を定たりける前の日、如何して聞へたりけん、時の所司代都筑入道二百余騎にて夜討の手引せんとて、究竟の忍び共が隠れ居たる四条壬生の宿へ未明に押寄る。楯篭る所の兵共、元来死生不知の者共なりければ、家の上へ走り上り、矢種のある程射尽して後、皆腹掻破て死にけり。是を聞て、処々に隠居たる与党の謀反人共も皆散々に成ければ、高徳が支度相違して、大将義治相共に、信濃国へぞ落行ける。さても此日壬生の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討れける中に、武蔵国住人に、香勾新左衛門高遠と云ける者只一人、地蔵菩薩の命に替らせ給ひけるに依て、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢已に未明に四方より押寄て、十重二十重に取巻ける時、此高遠只一人敵の中を打破て、壬生の地蔵堂の中へぞ走入たりける。何方にか隠ましと彼方此方を見る処に、寺僧かと覚しき法師一人、堂の中より出たりけるが、此高遠を打見て、「左様の御姿にては叶まじく候。此念珠に其太刀を取代て、持せ給へ。」と云ける間、げにもと思ひて、此法師の云侭にぞ随ける。斯りける処に寄手共四五十人堂の大庭へ走入て、門々をさして無残処ぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰て、「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣。」と、高らかに啓白してぞ居たりける。寄手の兵共皆見之、誠に参詣の人とや思けん、敢て怪め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井の上まで打破て探せと許ぞ罵りける。爰に只今物切たりと覚しくて、鉾に血の著たる太刀を、袖の下に引側めて持たる法師、堂の傍に立たるを見付て、「すはや此にこそ落人は有けれ。」とて、抱手三人走寄て、中に挙打倒し、高手小手に禁て、侍所へ渡せば、所司代都筑入道是を請取て、詰篭の中にぞ入たりける。翌日一日有て、守手目も不放、篭の戸も不開して、此召人くれに失にけり。預人怪み驚て其迹を見るに、馨香座に留りて恰も牛頭旃檀の薫の如し。是のみならず、「此召人を搦捕し者共の左右手、鎧の袖草摺まで異香に染て、其匂曾て不失。」と申合ける間、さては如何様非直事とて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を奉見、忝も六道能化の地蔵薩■の御身、所々為刑鞭■黒、高手小手に禁し其縄、未御衣の上に著たりけるこそ不思議なれ。是を誡め奉りぬる者共三人、発露涕泣して、罪障を懺悔するに猶を不堪、忽に本鳥切て入道し、発心修行の身と成にけり。彼は依順縁今生に助命、是は依逆縁来生の得値遇事誠に如来附属の金言不相違、今世後世能引導、頼しかりける悲願也。