太平記/巻第二十五

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巻第二十五

211 持明院殿御即位事付仙洞妖怪事

貞和四年十月二十七日、後伏見院御孫御年十六にて御譲を受させ給て、同日内裏にて御元服あり。剣璽を被渡て後、同二十八日に、萩原法皇の第一の御子、春宮に立せ給ふ。御歳十三にぞ成せ給ひける。卜部宿禰兼前、軒廊の御占を奉り、国郡を卜定有て、抜穂の使を丹波国へ下さる。其十月に行事所始め有て、已に斉庁場所を作らむとしける時、院の御所に、一の不思議あり。二三歳許なる童部の頭を、斑なる犬が噛て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。平明に御隔子進せける御所侍、箒を以て是を打むとするに、此犬孫廂の方より御殿の棟木に上て、西に向ひ三声吠てかき消様に失にけり。加様の夭怪、触穢に可成、今年の大甞会を可被停止、且は先例を引、且は法令に任て可勘申、法家の輩に被尋下。皆、「一年の触穢にて候べし。」と勘申ける中に、前の大判事明清が勘状に、法令の文を引て云、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜在叡慮。」とぞ勘申たりける。爰に神祇大副卜部宿禰兼豊一人、大に忿て申けるは、「如法意勘進して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡一陽分れて後、清濁汚穢を忌慎む事、故ら是神道の所重也。而るを無触穢儀、大礼の神事無為被行、一流の神書を火に入て、出家遁世の身と可罷成。」と無所憚申ける。若殿上人など是を聞て、「余りに厳重なる申言哉、少々は存る処有とも残せかし。四海若無事にして、一事の無違乱大甞会を被行ば、兼豊が髻は不便の事哉。」とぞ被笑ける。され共主上も上皇も、此明清が勘文御心に叶ひてげにもと被思召ければ、今年大甞会を可被行とて武家へ院宣を被成下。武家是を施行して、国々へ大甞会米を宛課せて、不日に責はたる。近年は天下の兵乱打続て、国弊民苦める処に、君の御位恒に替て、大礼止時無りしかば、人の歎のみ有て、聊も是こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒がしの大甞会や、今年は無ても有なんと、世皆脣を翻せり。


212 宮方怨霊会六本杉事付医師評定事

仙洞の夭怪をこそ、希代の事と聞処に、又仁和寺に一の不思議あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立に逢て可立寄方も無りければ、仁和寺の六本杉の木陰にて、雨の晴間を待居たりけるが、角て日已に暮にければ行前恐しくて、よしさらば、今夜は御堂の傍にても明せかしと思て、本堂の縁に寄居つゝ、閑に念誦して心を澄したる処に、夜痛く深て月清明たるに見れば、愛宕の山比叡の岳の方より、四方輿に乗たる者、虚空より来集て、此六本杉の梢にぞ並居たる。座定て後、虚空に引たる幔を、風の颯と吹上たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚、峯の僧正春雅、香の衣に袈裟かけて、眼は如日月光り渡り、觜長して鳶の如くなるが、水精の珠数爪操て坐し給へり。其次に南都の智教上人、浄土寺の忠円僧正、左右に著座し給へり。皆古へ見奉し形にては有ながら、眼の光尋常に替て左右の脇より長翅生出たり。往来の僧是を見て、怪しや我天狗道に落ぬるか、将天狗の我眼に遮るかはと、肝心も身にそはで、目もはなたず守り居たる程に又空中より五緒の車の鮮なるに乗て来る客あり。榻を践で下を見れば、兵部卿親王の未法体にて御座有し御貌也。先に座して待奉る天狗共、皆席を去て蹲踞す。暫有て坊官かと覚しき者一人、銀の銚子に金の盃を取副て御酌に立たり。大塔宮御盃を召れて、左右に屹と礼有て、三度聞召て閣せ給へば、峯僧正以下の人人次第に飲流して、さしも興ある気色もなし。良遥に有て、同時にわつと喚く声しけるが、手を挙て足を引かゝめ、頭より黒烟燃出て、悶絶■地する事半時許有て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦れ死にこそ死けれ。穴恐しや、是なめり、天狗道の苦患に、熱鉄のまろかしを日に三度呑なる事はと思て見居たれば、二時計有て、皆生出給へり。爰に峯僧正春雅苦し気なる息をついて、「さても此世中を如何して又騒動せさすべき。」と宣へば、忠円僧正末座より進出て、「其こそ最安き事にて候へ。先左兵衛督直義は他犯戒を持て候間、俗人に於ては我程禁戒を犯さぬ者なしと思ふ我慢心深く候。是を我等が依所なる大塔宮、直義が内室の腹に、男子と成て生れさせ給ひ候べし。又夢窓の法眷に妙吉侍者と云僧あり。道行共に不足して、我程の学解の人なしと思へり。此慢心我等が伺処にて候へば、峯の僧正御房其心に入替り給て、政道を輔佐し邪法を説破させ給べし。智教上人は上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔が心に依託して、師直・師泰を失はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守・越後守が心に入替て、上杉畠山を亡ぼし候べし。依之直義兄弟の中悪く成り、師直主従の礼に背かば、天下に又大なる合戦出来て、暫く見物は絶候はじ。」と申せば、大塔宮を始進せて、我慢・邪慢の小天狗共に至るまで、「いしくも計ひ申たる哉。」と、一同に皆入興して幻の如に成にけり。夜明ければ、往来の僧京に出、施薬院師嗣成に、此事をこそ語りたりけれ。四五日有て後、足利左兵衛督の北方、相労る事有て、和気・丹波の両流の博士、本道・外科一代の名医数十人被招請て脈を取せらるゝに、或は、「御労り風より起て候へば、風を治する薬には、牛黄金虎丹・辰沙天麻円を合せて御療治候べし。」と申す。或は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収る薬には、兪山人降気湯・神仙沈麝円を合せてまいり候べし。」と申。或は、「此御労は腹の御病にて候へば、腹病を治〔す〕る薬には、金鎖正元丹・秘伝玉鎖円を合て御療治候べし。」とぞ申ける。斯る処に、施薬院師嗣成少し遅参して、脈を取進せけるが、何なる病とも不弁。病多しといへ共束て四種を不出。雖然泯散の中に於て致料簡をけれ共、更に何れの病共不見、心中に不審を成処に、天狗共の仁和寺の六本杉にて評定しける事を屹と思出して、「是御懐姙の御脈にて候ける。しかも男子にて御渡候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞ける者共、「あら悪の嗣成が追従や、女房の四十に余て始て懐姙する事や可有。」口を噤めぬ者は無りけり。去程に月日重、誠に只ならず成にければ、そゞろなる御労りとて、大薬を合せし医師は皆面目を失て、嗣成一人所領を給り、俸禄に預るのみならず、軈て典薬頭にぞ申成されける。猶懐姙誠しからず、月比にならば、何なる人の産たらむ子を、是こそよとて懐き冊かれむずらんとて、偏執の族は申合ひける処に、六月八日の朝、生産容易して、而も男子にてぞ坐しける。蓬矢の慶賀天下に聞へしかば、源家の御一族、其門葉、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻・太刀・々・馬・車・綾羅・金銀、我人にまさらんと、引出物を先立て、賀し申されける間、賓客堂上に群集し、僧俗門に立列る。後の禍をば未知、「哀大果報の少き人や。」と、云はぬ者こそ無りけれ。


213 藤井寺合戦事

楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、「思様あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝は河内へ帰て、君の何にも成せ給はんずる御様を、見はて進せよ。」と申含めしかば、其庭訓を不忘、此十余年我身の長を待、討死せし郎従共の子孫を扶持して、何にも父の敵を滅し君の御憤を休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめて思ひける。光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、供仏施僧の作善如所存致して、今は命惜とも不思ければ、其勢五百余騎を率し、時々住吉天王寺辺へ打出々々、中島の在家少々焼払て、京勢や懸ると待たりける。将軍是を聞給て、「楠が勢の分際思ふにさこそ有らめ。是に辺境を侵奪れて、洛中驚き騒ぐこと、天下嘲哢武将の恥辱也。急ぎ馳向て退治せよ。」とて、細川陸奥守顕氏を大将にて、宇都宮三河入道・佐々木六角判官・長左衛門・松田次郎左衛門・赤松信濃守範資・舎弟筑前守範貞・村田・奈良崎・坂西・坂東・菅家一族共、都合三千余騎、河内国へ差下さる。此勢八月十四日の午剋に、藤井寺にぞ著たりける。此陣より楠が館へは七里を隔たれば、縦ひ急々に寄する共、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢由断して或は物具を解て休息し、或は馬鞍をおろして休める処に、誉田の八幡宮の後ろなる山陰に、菊水の旗一流ほの見へて、ひた甲の兵七百余騎、閑々と馬を歩ませて打寄せたり。「すはや敵の寄たるは。馬に鞍をけ物具せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前に進で、喚て懸入る。大将細川陸奥守よろいをば肩に懸たれ共未上帯をもしめ得ず、太刀を帯べき隙もなく見へ給ける間、村田の一族六騎小具足計にて、誰が馬ともなくひた/\と打乗て、如雲霞群りて磬へたる敵の中へ懸入て、火を散してぞ戦たる。され共つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族六騎は一所にて討れにけり。其間に大将も物具堅め、馬に打乗て、相順ふ兵百余騎しばし支て戦ふたり。敵は小勢也。御方は大勢也。縦進で懸合するまではなく共、引退く兵だに無りせば、此軍に京勢惣て負まじかりけるを、四国中国より駈集たる葉武者、前に支へて戦へば、後ろには捨鞭を打て引ける間、無力大将も猛卒も同様にぞ落行ける。勝に乗て時を作懸々々追ける間、大将已に天王寺渡部の辺にては危く見へけるを、六角判官舎弟六郎左衛門、返合て討れにけり。又赤松信濃守範資・舎弟筑前守三百余騎命を名に替て討死せんと、取ては返し/\、七八度まで蹈留て戦けるに、奈良崎も主従三騎討れぬ。粟生田小太郎も馬を射られて討れにけり。此等に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危き命を助て、皆京へぞ返り上りにける。


214 自伊勢進宝剣事付黄粱夢事

今年、古安徳天皇の壇の浦にて海底に沈めさせ給し宝剣出来れりとて、伊勢国より進奏す。其子細を能々尋ぬれば、伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨円成と云山法師あり。大神宮へ千日参詣の志有ける間、毎日に潮を垢離にかいて、隔夜詣をしけるが、已千日に満ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行て遥の澳を見るに、一の光物あり。怪く思て、釣する海人に、「あれは何物の光りたるぞ。」と問ければ、「いさとよ何とは不知候。此二三日が間毎夜此光物浪の上に浮で、彼方此方へ流ありき候間、船を漕寄せて取らんとし候へば、打失候也。」とぞ答へける。かれを聞に弥不思議に思て、目も不放是を守て、遠渚海づらを遥々と歩行処に、此光物次第に礒へ寄て、円成が歩むに随てぞ流て来ける。さては子細有と思て立留たれば、光物些少く成て、円成が足許に来れり。懼しながら立寄て取上たれば、金にも非ず石にも非る物の、三鈷柄の剣なんどのなりにて、長さ二尺五六寸なる物にてぞ有ける。是は明月に当て光を含なる犀の角か、不然海底に生るなる珊瑚樹の枝かなんど思て、手に提て大神宮へ参たりける。爰に年十二三許なる童部一人、俄に物に狂て四五丈飛上々々けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云歌を高らかに詠じける間、社人村老数百人集て、「何なる神の託させ給ひたるぞ。」と問に、物付き口走申けるは、「神代より伝て我国に三種の神器あり。縦ひ継体の天子、位を継せ給ふといへ共、此三の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是を見ずや、承久以後代々の王位軽くして、武家の為に威を失せ給へる事、偏に宝剣の君の御守と成せ給はで海底に沈める故也。剰へ今内侍所・璽の御箱さへ外都の塵に埋れて、登極天子空く九五の位に臨ませ給へり。依之四海弥乱て一天未静。爰に百王鎮護の崇廟の神、竜宮に神勅を被下て、元暦の古へ海底に沈し宝剣を被召出たる者也。すは爰に立て我を見るあの法師の手に持たるぞ。便宜の伝奏に属て此宝剣を内裏へ進らすべし。云処不審あらば是を見よ。」とて、円成に走懸て、手に持たる光物を取て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入たる体に見へて、物の気は則去にけり。神託不審あるべきに非れば、斎所を始として、見及処の神人等連署の起請を書て、円成に与ふ。円成是を錦の袋に入て懸頚、任託宣先南都へぞ赴きける。春日の社に七日参篭して有けるが、是こそ事の可顕端よと思ふ験も無りければ、又初瀬へ参て、三日断食をして篭りたるに、京家の人よと覚しくて、拝殿の脇に通夜したる人の有けるが、円成を呼寄て、「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に挙達せよと云示現を蒙て候。御辺は若伊勢国よりや被参て候。」とぞ問ける。円成うれしく思て、始よりの有様を委細に語りければ、「我こそ日野大納言殿の所縁にて候へ。此人に属て被経奏聞候はん事、最安かるべきにて候。」とて、軈て円成を同道し京に上て、日野前大納言資明卿に属て、宝剣と斎所が起請とをぞ出たりける。資明卿事の様を能々聞給て、「誠に不思議の神託也。但加様の事には、何にも横句謀計有て、伝奏の短才、人の嘲哢となす事多ければ、能々事の実否を尋聞て、諸卿げにもと信を取程の事あらば可奏聞。何様天下静謐の奇瑞なれば引出物せよ。」とて、銀剣三振・被物十重、円成にたびて、宝剣をば前栽に崇め給へる春日の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何にも日本記の家に可存知事なれば、委く尋給はんとて、平野の社の神主、神祇の大副兼員をぞ召れける。大納言、兼員に向て宣ひけるは、「抑三種の神器の事、家々に相伝し来る義逼也といへ共、資明は未是信。画工闘牛の尾を誤て牧童に笑れたる事なれば、御辺の被申候はん義を正路とすべきにて候。聊以事次に、此事存知度事あり。委く宣説候へ。」とぞ被仰ける。兼員畏て申けるは、「御前にて加様の事を申候はんは、只養由に弓を教へ、羲之に筆を授けんとするに相似て候へ共、御尋ある事を申さゞらむも、又恐にて候へば、伝る処の儀一事も不残申さんずるにて候。先天神七代と申は、第一国常立尊、第二国挟槌尊、第三豊斟渟尊。此時天地開け始て空中に物あり、葦芽の如しといへり。其後男神に泥土瓊尊・大戸之道尊・面足尊、女神に沙土瓊尊・大戸間辺尊・惶根尊。此時男女の形有といへ共更に婚合の儀なし。其後伊弉諾伊弉冊の男神女神の二神、天の浮橋の上にして、此下に豈国なからむやとて、天瓊鉾を差下して、大海を掻捜り給ふ。其鉾の滴、凝て一の島となる、をのころ島是也。次に一の州を産給ふ。此州余りに少かりし故、淡路州と名付、吾恥の国と云心なるべし。二神此島に天降り給て、宮造りせんとし給ふに、葦原生繁て所も無りしかば、此葦を引捨給ふに、葦を置たる所は山となり、引捨たる跡は河と成。二神夫婦と成て栖給ふといへ共、未陰陽和合の道を不知給。時に鶺鴒と云鳥の、尾を土に敲けるを見給て、始て嫁ぐ事を習て、喜哉遇可美小女焉読給。是和歌の始なり。角て四神を生給ふ。日神・月神・蛭子・素盞烏尊是也。日神と申は天照太神、是日天子の垂跡、月神と申は、月読の明神也。此御形余りにうつくしく御坐、人間の類にあらざりしかば、二親の御計ひにて天に登せ奉る。蛭子と申は、今の西宮の大明神にて坐す。生れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪に坐せしかば、いはくす船に乗せて海に放ち奉る。かぞいろは何に哀と思ふらん三年に成ぬ足立ずしてと読る歌是也。素盞烏尊は、出雲の大社にて御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸荒く坐せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或は天に上り、或は海に放たれ、或流し給し間、天照太神此国の主と成給ふ。爰に素盞烏尊、吾国を取らんとて軍を起て、小蝿なす一千の悪神を率して、大和国宇多野に、一千の剣を掘り立て、城郭として楯篭り給ふ。天照太神是をよしなき事に思召て、八百万神達を引具して、葛城の天の岩戸に閉ぢ篭らせ給ひければ、六合内皆常闇に成て、日月の光も見へざりけり。此時に島根見尊是を歎て、香久山の鹿を捕へて肩の骨を抜き、合歓の木を焼て、此事可有如何と占なはせ給ふに、鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出と、占に出たり。香久山の葉若の下に占とけて肩抜鹿は妻恋なせそと読る歌は則此意也。さて島根見尊、一千の神達を語ひて、大和国天の香久山に庭火を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。此鏡は思ふ様にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮の神体也。次に鋳給ひし鏡よかるべしとて、榊の枝に著て、一千の神達を引調子を調へて、神歌を歌ひ給ければ、天照太神是にめで給て、岩根手力雄尊に岩戸を少し開かせて、御顔を差出させ給へば、世界忽に明に成て、鏡に移りける御形永く消ざりけり。此鏡を名付て八咫の鏡とも又は内侍所とも申也。天照太神岩戸を出させ給て、八百万神達を遣し、宇多野の城に掘立たる千の剣を皆蹴破て捨給ふ。是よりして千剣破とは申つゞくる也。此時一千の悪神は、小蛇と成て失ぬ。素盞烏尊一人に成て、彼方此方に迷行玉ふ程に、出雲国に行玉ひぬ。海上に浮で流るゝ島あり。此島は天照太神も知せ給べき所ならずとて、尊御手にて撫留て栖給ふ。故に此島をば手摩島とは申也。爰にて遥に見玉へば、清地の郷の奥、簸の川上に八色の雲あり。尊怪く思て行て見玉へば、老翁老婆二人うつくしき小女を中に置て、泣悲む事切也。尊彼泣故を問給へば、老翁答て曰、「我をば脚摩乳、うばをば手摩乳と申也。此姫は老翁老婆が儲たる孤子也。名をば稲田姫と申也。近比此所に八岐大蛇とて、八の頭ある大蛇、山尾七谷七にはい渡て候が、毎夜人を以て食とし候間、野人村老皆食尽、今日を限の別路の遣方もなき悲さに、泣臥也。」とぞ語ける。尊哀と思食て、「此姫を我にえさせば、此大蛇を退治して、姫が命を可助。」と宣に、老翁悦て、「子細候はじ。」と申ければ、湯津爪櫛を八作て、姫が髻にさし、八■の酒を槽に湛て、其上に棚を掻て姫を置奉、其影を酒に移してぞ待給ける。夜半過る程に、雨荒風烈吹過て、大山の如動なる物来る勢ひあり。電の光に是を見れば、八の頭に各二の角有て、あはいに松栢生茂たり。十八の眼は、日月の光に不異、喉の下なる鱗は、夕日を浸せる大洋の波に不異。暫は槽の底なる稲田姫の影を望見て、生牲爰に有とや思けん、八千石湛へたる酒を少しも不残飲尽す。尽ぬれば余所より筧を懸て、数万石の酒をぞ呑せたる。大蛇忽に飲酔て惘然としてぞ臥たりける。此時に尊剣を抜て、大蛇を寸々に切給ふ。至尾剣の刃少し折て切れず。尊怪みて剣を取直し、尾を立様に割て見玉へば、尾の中に一の剣あり。此所謂天叢雲剣也。尊是を取て天照太神に奉り玉ふ。「是は初当我高天原より落したりし剣也。」と悦玉ふ。其後尊出雲国に宮作し玉て、稲田姫を妻とし玉ふ。八雲立出雲八重垣妻篭にやへ垣造る其やへ垣を是三十一字に定たる歌の始也。其より以来此剣代代天子の御宝と成て、代十つぎを経たり。時に第十代の帝、崇神天皇の御宇に、是を伊勢太神宮に献り給ふ。十二代の帝景行天皇四十年六月に、東夷乱て天下不静。依之第二の王子日本武尊東夷征罰の為に東国に下り給ふ。先伊勢太神宮に参て、事の由を奏し給ひけるに、「慎で勿懈。」直に神勅有て件の剣を下さる。尊、剣を給て、武蔵野を過給ひける時、賊徒相謀て広野に火を放て、尊を焼殺し奉らんとす。燎原焔盛りにして、可遁方も無りければ、尊剣を抜て打払ひ給ふに、刃の向ふ方の草木二三里が間、己れと薙伏られて、烟忽に賊徒の方に靡きしかば、尊死を遁させ給て朝敵若干亡にけり。依之草薙の剣とは申也。此剣未大蛇の尾の中に有し程、簸の河上に雲懸りて、天更に不晴しかば、天の群雲の剣とも名付く。其尺僅に十束なれば又十束の剣とも名付たり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に亦被召て、内裏に収られしより以来、代々の天子の御宝なればとて、又宝剣とは申也。神璽は、天照太神、素盞烏尊と、共為夫婦ありて、八坂瓊の曲玉をねふり給しかば、陰陽成生して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を生給ふ。此玉をば神璽と申也。何れも異説多端、委細尽すに不遑。蓬■に伝る所の一説、大概是にて候。」と委細にぞ答申たりける。大納言能々聞給て、「只今何の次でとしもなきに、御辺を呼候て、三種の神器の様を委く問つる事は、別の子細なし。昨日伊勢国より、宝剣と云物を持参したる事ある間、不審を開かん為に尋申つる也。委細の説大畧日来より誰も存知の前なれば、別に異儀なし。但此説の中に、十束の剣と名付しは、十束ある故也と聞つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚る。其剣取出せ。」とて、南庭に崇給へる春日の社より、錦の袋に入たる剣を取出して、尺をさゝせて見給ふに、果して十束有けり。「さては無不審宝剣と覚。但奏聞の段は一の奇瑞なくば叡信不可立。暫此剣を御辺の許に置て、何なる不思議も一祈出されよかし。」と宣へば、兼員、「世は澆季に及て仏神の威徳も有て無きが如くに成て候へば、何に祈候とも、誠に天下の人を驚す程の瑞相、可出来覚候はず、但今も仏神の威光を顕して人の信心を催すは、夢に過たる事はなきにて候。所詮先此剣を預け給て、三七日が間幣帛を捧げ礼奠を調、祈誓を致し候はんずる最中、先は両上皇、関白殿下、院司の公卿、若は将軍、左兵衛督なんどの夢に、此剣誠に宝剣也けりと、不審を散ずる程の夢想を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申て、卜部宿禰兼員此剣を給てぞ帰りける。翌日より兼員此剣を平野の社の神殿に安じ、十二人の社僧に真読の大般若経を読せ、三十六人の神子に、長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は垂迹五能の応化をも助くらんとぞ聞へける。其外金銀弊帛の奠、蘋■蘊藻の礼、神其神たらば、などか奇瑞もこゝに現ぜざらんと覚る程にぞ祈りける。已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かと覚へたるに、三公・九卿・百司・千官、位に依て列座す。纛の旗を建幔の坐を布て、伶倫楽を奏し、文人詩を献ず。事の儀式厳重にして大礼を被行体也。直義朝臣夢心地に、是は何事の有やらんと怪く思て、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿出来り給へるに、直義朝臣、「是は何事の大礼を被行候やらん。」と問給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進らせらるべしとて、中議の節会を被行候也。」とぞ被答ける。さては希代の大慶哉と思て、暫見居たる処に、南方より五色の雲一群立出て、中に光明赫奕たる日輪あり。其光の上に宝剣よと覚へたる一の剣立たり。梵天・四王・竜神八部蓋を捧げ列を引て前後左右に囲遶し給へりと見て、夢は則覚にけり。直義朝臣、夙に起て、此夢を語給に、聞人皆、「静謐の御夢想也。」と賀し申さぬは無りけり。其聞へ洛中に満て、次第に語伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書て、日野大納言殿に進覧す。大納言此夢想の記録を以て、仙洞に奏聞せらる。事の次第御不審を非可被残とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日是を取進せし円成阿闍梨、次第を不経直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ被下ける。只周の代に宝鼎を掘出、夏の時に河図を得たりし祥瑞も是には過じとぞ見へし。此比朝庭に賢才輔佐の臣多といへ共、君の不義を諌め政の不善を誡めらるゝは、坊城大納言経顕・日野大納言資明二人のみ也。夫両雄は必諍ふ習なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明卿申破らむとし、資明卿の被執奏たる事をば経顕卿支申されけり。爰に伊勢国より宝剣進奏の事、日野大納言被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承候へば、一向資明が阿党の所より事起て候なる。佞臣仕朝国有不義政とは是にて候也。先思て見候に、素盞烏尊古へ簸の河上にて切られし八岐の蛇、元暦の比安徳天皇と成て、此宝剣を執て竜宮城へ帰り給ひぬ。其より後君十九代春秋百六十余年、政盛に徳豊なりし時だにも、遂に不出現宝剣の、何故に斯る乱世無道の時に当て出来り候べき。若我君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其よりも先天下の静謐こそ有べく候へ。若又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間に無定相事をば夢幻と申候はずや。されば聖人に無夢とは、是を以て申にて候。昔漢朝にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才の臣を求給ふ由を聞て、恩爵を貪らん為に則楚国へぞ趣ける。路に歩疲て邯鄲の旅亭に暫休けるを、呂洞賓と云仙術の人、此客の心に願ふ事暗に悟て、富貴の夢を見する一の枕をぞ借したりける。客此枕に寝て一睡したる夢に、楚国の侯王より勅使来て客を被召。其礼其贈物甚厚し。客悦で則楚国の侯門に参ずるに、楚王席を近付て、道を計り武を問給ふ。客答ふる度毎に、諸卿皆頭を屈して旨を承くれば、楚王不斜是を貴寵して、将相の位に昇せ給ふ。角て三十年を経て後、楚王隠れ給ける刻、第一の姫宮を客に妻せ給ひければ、従官使令、好衣珍膳、心に不叶云事なく、不令目悦云事はなし。座上に客常満、樽中に酒不空。楽み身に余り遊び日を尽して五十一年と申すに、夫人独の太子を産給ふ。楚王に位を可継御子なくして、此孫子出来にければ、公卿大臣皆相計て、楚国の王に成し奉る。蛮夷率服し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国を合、漢の文慧の九夷を順へしに不異。王子已に三歳に成給ける時、洞庭の波上に三千余艘の舟を双べ、数百万人の好客を集て、三年三月の遊をし給ふ。紫髯の老将は解錦纜、青蛾の御女は唱棹歌。彼をさへや大梵高台の花喜見城宮の月も、不足見不足翫と、遊び戯れ舞歌て、三年三月の歓娯已に終ける時、夫人彼三歳の太子を懐て、舷に立給たるが、踏はづして太子夫人諸共に、海底に落入給ひてげり。数万の侍臣周章て一同に、「あらや/\。」と云声に、客の夢忽に覚てげり。倩夢中の楽みを計れば、遥に天位五十年を経たりといへ共、覚て枕の上の睡を思へば、僅に午炊一黄粱の間を不過けり。客云人間百年の楽も、皆枕頭片時の夢なる事を悟り得て、是より楚国へは不越、忽に身を捨て、世を避る人と成て、遂に名利に繋るゝ心は無りけり。是を揚亀山が謝日月詩作て云く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是を邯鄲午炊の夢とは申也。就中葛葉の関は、年来南都の管領の地にて候を、無謂召放れん事、衆徒の嗷訴を招くにて候はずや。綸言再し難しといへ共、過則勿憚改と申事候へば、速に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴事未萌前に可被止や候らん。」と委細に奏申されければ、上皇もげにもとや思召けん、則院宣を被成返ければ、宝剣をば平野社の神主卜部宿禰兼員に被預、葛葉の関所をば如元又南都へぞ被付ける。


215 住吉合戦事

去九月十七日に、河内国藤井寺の合戦に、細川陸奥守顕氏、無甲斐打負て引退し後、楠帯刀左衛門正行、勢ひ機に乗て、辺境常に侵し奪はるといへ共、年内は寒気甚して兵皆指を墜し、手亀る事有ぬべければ、暫とて閣れけるが、さのみ延引せば敵に勢著ぬべしとて、十一月二十三日に軍評定有て、同二十五日、山名伊豆守時氏・細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ被差下。顕氏は去ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負て、天下の人口に落ぬる事、生涯の恥辱也と被思ければ、四国の兵共を召集て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢たるべし。相構て面々身命を軽じて、以前の恥を洗がるべし。」と、衆を勇め気を励されければ、坂東・坂西・藤・橘・伴の者共、五百騎づゝ一揆を結んで、大旗小旗下濃の旗三流立て三手に分け、一足も不引可討死と、神水を飲てぞ打立ける。事の■実に思切たる体哉と、先涼しくぞ見たりける。大手の大将山名伊豆守時氏、千余騎にて住吉に陣をとれば、搦手の大将細川陸奥守顕氏、八百余騎にて天王寺に陣を取る。楠帯刀正行是を聞て、「敵に足をためさせて、住吉・天王寺両所に城郭を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐有ぬべし。不日に押寄て、先住吉の敵を追払、只攻につめ立て、急に追懸る程ならば、天王寺の敵は戦はで引退ぬと覚るぞ。」とて、同二十六日の暁天に、五百余騎を率し、先住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火を懸て、瓜生野の北より押寄たり。山名伊豆守是を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分て相戦へ。」とて、赤松筑前守範貞に、摂津国播磨両国の勢を差副て、八百余騎浜の手を防んと、住吉の浦の南に陣を取。土岐周済房・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門、其勢三千余騎にて、安部野の東西両所に陣を張る。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外、四国の兵五千余騎を率して、態と本陣を不離、荒手に入替ん為に、天王寺に磬へたり。大手の大将山名伊豆守・舎弟三河守・原四郎太郎・同四郎次郎・同四郎三郎は、千余騎にて、只今馬烟を挙て進みたる先蒐の敵に懸合せんと、瓜生野の東に懸出たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所に有と見てければ、多からぬ我勢を数たに分ば、中々可悪とて、本五手に分たりける二千余騎の勢を、只一手に集て、瓜生野へ打てかゝる。此陣東西南北野遠して疋馬蹄を労せしかば、両陣互に射手を進て、時の声を一声挙る程こそあれ、敵御方六千余騎一度に颯と懸合て、思々に相戦。半時許切合て、互に勝時をあげ、四五町が程両方へ引分れ、敵御方を見渡ば、両陣過半滅びて、死人戦場に充満たり。又大将山名伊豆守、切疵射疵七所迄負はれたれば、兵前に立隠して、疵をすひ血を拭ふ程、少し猶預したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許なる若武者、和田新発意源秀と名乗て、洗皮の鎧に、大太刀小太刀二振帯て、六尺余の長刀を小脇に挟み、閑々と馬を歩ませて小哥歌て進みたり。其次に一人、是も法師武者の長七尺余も有らんと覚たるが、阿間了願と名乗て、唐綾威の鎧に小太刀帯て、柄の長一丈許に見へたる鑓を馬の平頚に引副て、少しも不擬議懸出たり。其勢事がら、尋常の者には非ずと見へながら、跡に続く勢無ければ、あれやと許云て、山名が大勢さしも驚かで控たる中へ、只二騎つと懸入て、前後左右を突て廻に、小手の迦・髄当の余り・手反の直中・内甲、一分もあきたる所をはづさず、矢庭に三十六騎突落して、大将に近付んと目を賦る。三河守是を見て、一騎合ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是を取篭よ。」と、百四五十騎にて横合に被懸たり。楠又是を見て、「和田討すな続けや。」とて、相懸に懸て責戦ふ。太刀の鐔音天に響き、汗馬の足音地を動す。互に御方を恥しめて、「引な進め。」と云声に退兵無りけり。されども大将山名伊豆守已に疵を被り、又入替る御方の勢はなし、可叶共覚へざりければ、歩立になる兵共、伊豆守の馬の口を引向て、後陣の御方と一処にならんと、天王寺を差て引退く。楠弥気に乗て、追懸々々責ける間、山名三川守・原四郎太郎・同四郎次郎、兄弟二騎、犬飼六郎、主従三騎、返合せて討れにけり。二陣に控たる土岐周済房・佐々木六郎左衛門三百余騎にて安部野の南に懸出て、暫し支て戦けるが、目賀田・馬淵の者共、三十八騎一所にて討れにける間、此陣をも被破て共に天王寺へと引しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺の勢も、大河後にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引れなば一人も生て帰る者不可有。先橋を警固せよとて、渡辺を差て引けるが、大勢の靡立たる習にて、一度も更に不返得、行先狭き橋の上を、落とも云はずせき合たり。山名伊豆守は我身深手を負のみならず、馬の三頭を二太刀切られて、馬は弱りぬ、敵は手繁く懸る。今は落延じとや被思けん、橋爪にて已に腹を切らんとせられけるを、河村山城守只一騎返合せて近付敵二騎切て落し、三騎に手を負て、暫し支へたりける間に、安田弾正走寄て、「何なる事にて候ぞ。大将の腹切所にては候はぬ者を。」と云て、己が六尺三寸の太刀を守木に成し、鎧武者を鎧の上に掻負て橋の上を渡るに、守木の太刀にせき落されて、水に溺るゝ者数を不知。播磨国住人小松原刑部左衛門は、主の三河守討れたる事をも不知、天神の松原まで落延たりけるが、三川守の乗給ひたりける馬の平頚、二太刀切れて放れたりけるを見て、「さては三川守殿は討れ給ひけり。落ては誰が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返し、向ふ敵に矢二筋射懸て、腹掻切て死にけり。其外の兵共、親討れ共子は不知、主討死すれ共郎従是を不助、物具を脱ぎ棄弓を杖に突て、夜中に京へ逃上る。見苦しかりし分野也。