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太平記の地震史料

提供:Wikisource
太平記卷第二

天下怪異事

嘉暦二年の春の比南都大乘院禪師房と六方の大衆と、確執の事有て合戰に及ぶ。金堂、講堂、南圓堂、西金堂、忽に兵火の餘煙に燒失す。又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出來て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する處の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊國千里濱の遠干潟、俄に陸地になる事二十餘町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事數百丈也と。

卜部の宿祢、大龜を燒て占ひ、陰陽の博士、占文を啓て見に、「國王位を易、大臣遭災。」とあり。「勘文の表不穩、尤御愼可有。」と密奏す。寺々の火災所々の地震只事に非ず。今や不思義出來と人々心を驚しける處に、果して其年の八月二十二日、東使兩人三千餘騎にて上洛すと聞へしかば、何事とは知ず京に又何なる事や有んずらんと、近國の軍勢我も我もと馳集る。京中何となく、以外に騷動す。兩使已に京着して未文箱をも開ぬ先に、何とかして聞へけん。「今度東使の上洛は主上を遠國へ遷進せ、大塔宮を死罪に行奉ん爲也。」と、山門に披露有ければ、八月二十四日の夜に入て、大塔宮より潛に御使を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度東使上洛の事内々承候へば、皇居を遠國へ遷奉り、尊雲を死罪に行ん爲にて候なる。今夜急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未調、官軍馳參ぜざる先に、凶徒若皇居に寄來ば、御方防戰に利を失ひ候はんか。且は京都の敵を遮り止んが爲、又は衆徒の心を見んが爲に、近臣を一人、天子の號を許れて山門へ被上せ、臨幸の由を披露候はゞ、敵軍定て叡山に向て合戰を致し候はん歟。去程ならば衆徒吾山を思故に、防戰に身命を輕じ候べし。凶徒力疲れ合戰數日に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却て京都を被攻んに、凶徒の誅戮踵を回すべからず。國家の安危只此一擧に可有候也。」と被申たりける間、主上只あきれさせ玉へる計にて何の御沙汰にも及玉はず。尹大納言師賢・萬里小路中納言藤房・同舍弟季房三四人上臥したるを御前に召れて、「此事如何可有。」と被仰出ければ、藤房卿進で被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫其難を避て還て國家を保は、前蹤皆佳例にて候。所謂重耳は□に奔り、大王□に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を榮し候き。兔角の御思案に及候はゞ、夜も深候なん。早御忍候へ。」とて、御車を差寄、三種の神器を乘奉り、下簾より出絹出して女房車の體に見せ、主上を扶乘進て、陽明門より成奉る。御門守護の武士共御車を押へて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問申ければ、藤房・季房二人御車に隨て供奉したりけるが、「是は中宮の夜に紛て北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣たりければ、「さては子細候はじ。」とて御車をぞ通しける。兼て用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六條少將忠顯、三條河原にて追付奉る。此より御車をば被止、怪げなる張輿に召替させ進せたれども、俄の事にて駕輿丁も無りければ、大膳大夫重康・樂人豐原兼秋・隨身秦久武なんどぞ御輿をば舁奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解で折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣する京家の靑侍なんどの、女性を具足したる體に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。古津石地藏を過させ玉ひける時、夜は早若々と明にけり。此にて朝餉の供御を進め申て、先づ南都の東南院へ入せ玉ふ。彼僧正元より貳ろなき忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで衆徒の心を伺聞に、西室顯實僧正は關東の一族にて、權勢の門主たる間、皆其威にや恐れたりけん、與力する衆徒も無りけり。かくては南都の皇居叶まじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入せ玉ふ。此は又餘りに山深く里遠して、何事の計畧も叶まじき處なれば、要害に御陣を召るべしとて、同二十七日潛幸の儀式を引つくろひ、南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。


太平記卷第三十六

大地震竝夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社佛閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云數を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲來て、在家一千七百餘宇、悉く引鹽に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鷄犬、一も不殘底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る處に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飮て身を暖め火を燒爐を圍む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野徑の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者數を不知。

七月二十四日には、攝津國難波浦の澳數百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を卷釣を捨て、我劣じと拾ける處に、又俄に如大山なる潮滿來て、漫々たる海に成にければ、數百人の海人共、獨も生きて歸は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。髙く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、臺には八龍を拏はせたるが顯出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を經て後、近き傍の浦人共數百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞樣につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、數百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは彌近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元滿て、大皷は不見成にけり。

又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戰ふ體にぞ見へたりける。二の龍去る時、又大地震く動て、金堂微塵に碎にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何樣聖德太子御安置の佛舍利、此堂に御坐ば、龍王是を取奉らんとするを、佛法護持の四天王、惜ませ給けるかと覺へたり。洛中邊土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野參詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。舊記の載る所、開闢以來斯る不思議なければ、此上に又何樣なる世の亂や出來らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。


天王寺造營事付京都御祈祷事

南方には此大地震に、諸國七道の大伽藍共の破たる體を聞に、天王寺の金堂程崩れたる堂舍はなく、紀州の山々程裂たる地もなければ、是外の表事には非じと御愼有て、樣々の御祈共を始らる。則般若寺圓海上人敕を承て、天王寺の金堂を作られけるに、希代の奇特共多かりけり。先大廈髙堂の構なれば、安藝・周防・紀伊國の杣山より、大木を取んずる事、一二年の間には難道行覺へけるに、二人して抱き廻す程なる桧木の柱、六七丈なるかぶき三百本、何くより來る共不知、難波の浦に流寄て、鹽の干潟にぞ留りける。暫くは主ある材木にてぞ在らんと、尋くる人を待れけれ共求くる人も無りければ、さては天龍八部の人力を助給にてぞ有らんとて、虹の梁・鳳の甍、品々に是をぞ用ひける。又柱立已に訖、棟木を揚んとしけるに、□卷の繩に信濃皮むき千束入べしと、番匠麁色を出せり。輙く可尋出物ならねば、上人信濃國へ下て便宜の人に勸進せんと企給ける處に、難波堀江の汀に死蛇の如くなる物流寄たり。何やらんと近付見れば、信濃皮むきにて打たる大綱、太さ二尺長さ三十丈なるが十六筋まで、水泡に連てぞ寄たりける。上人不斜悦て、軈てくるまきの綱に用ひらる。是第一の奇特也とて、所用の後は、此綱を寳藏にぞ收め給ひける。又三百餘人有ける番匠の中に、肉食を止め酒を飮ぬ番匠あまたあり。上人怪く思給ひて是がする業を見給に、一人のする業、餘の番匠十人にも過たり。さればこそ直人にては無りけれと、彌怪く覺して、日暮て歸るを見送り給へば、何くへ行共不見、かき消す樣に失にけり。其數二十八人有つるは、何樣千手觀音の御眷屬、二十八部衆にてぞ御坐すらんと、皆人信仰の手を合す。されば造營日あらずして奇麗金銀を鏤たり。靈佛の威光、上人の陰德、函蓋共に相應して、奇特なりし事共也。都には東寺の金堂一尺二寸南へのきて、髙祖弘法大師南天へ飛去せ給ぬと、寺僧の夢に見ければ、洛中の御愼たるべしとて、靑蓮院の尊道法親王に被仰、伴僧二十口八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行る。聖護院覺譽親王は、二間に御參有て、九月八日より一七日、尊星王の法をぞ修せられける。是のみならず、近年絶て無りつる最勝講を行る。初日は問者叡山の尋源・東大寺の深慧、講師には、興福寺の盛深・同寺の範忠、第二日の問者は、東大寺の經辨・同良懷、講師は興福寺の實遍・山門の慈俊、第三日の問者は、興福寺の圓守・山門の圓俊、講師は、三井寺の經深・興福寺の覺成、第四日の問者は、興福寺の孝憲・同寺の覺家、講師は、叡山の良憲・三井寺の房深、結日の問者は、東大寺の義實・興福寺教快講師は、山門良壽・興福寺實縁、證義は、大乘院の前大僧正孝學・尊勝院の慈能僧正にてぞ御坐ける。講問朝夕に坐を替て、學海に玉を拾へる論談を決擇して詞の林に花開く。富樓那の辨舌、文殊の智惠も、角やと覺る許也。


淸氏叛逆事付相摸守子息元服事

此等をこそ、すはや大地震の驗に、國々の亂出來ぬるはと驚き聞處に、京都に希代の事有て、將軍の執事細河相摸守淸氏・其弟左馬助・猶子仁木中務少輔、三人共に都を落て、武家の怨敵と成にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木佐渡判官入道々譽と、細河相摸守淸氏と内々怨を含事有しに依て、遂に君臣豺狼の心を結ぶとぞ聞へし。先加賀國の守護職は、富樫介、建武の始より今に至るまで一度も變ずる事無して、而も忠戰異他成敗依不暗、恩補列祖に復せしを、富樫介死去せし刻其子未幼稚也とて、道譽、尾張左衞門佐を聟に取て、當國の守護職を申與んとす。細河相摸守是を聞て、さる事や可有とて富樫介が子を取立て、則守護安堵の御教書をぞ申成ける。依之道譽が鬱憤其一也。次に備前の福岡の庄は頓宮四郞左衞門尉が所領也。而るを頓宮が軍忠中絶の刻、赤松律師是を申給る。後、頓宮、細河が手に屬して忠有しかば、細河是を贔屓して、安堵の御教書を申與ふ。然共則祐は道譽が聟也ければ、國を押へられ上裁を支られて、頓宮所領に還住せず。是淸氏が鬱憤の其一也。次に攝津國守護職をば道譽無謂申給て、嫡孫近江判官秀詮に持せたりけるを、相摸守本主赤松大夫判官光範に安堵せさせんと、時々異見を獻ずる事所憚なし。依之道譽が鬱憤其二也。次に今度七夕の夜は、新將軍、相摸守が館へをはして、七百番の謌合をして可遊也と兼て被仰ければ、相摸守誠に興じ思て、樣々の珍膳を認、哥讀共數十人誘引して、已に案内を申ける處に、道譽又我宿所に七所を粧て、七番菜を調へ、七百種の課物を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中將殿を招請し奉ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾は珍き遊なるべしとて、兼日の約束を引違、道譽が方へをはしければ、相摸守が用意徒に成て、數寄の人も空く歸にけり。是又淸氏が鬱憤の其二也。加樣の事共互に憤深く成にければ、兩人の確執止む事を不得。上にはさりげなき體なれども、下には惡心を插めり。されば始終は如何と被思遣たり。此相摸守は氣分飽まで侈て、行迹尋常ならざりけれ共、偏に佛神を敬ふ心深かりければ、神に歸服して、子孫の冥加を祈んとや思れけん、又我子の烏帽子親に可取人なしとや思けん、九と七とに成ける二人の子を八幡にて元服せさせ、大菩薩の烏帽子々に成て、兄をば八幡六郞、弟をば八幡八郞とぞ名付ける。此事軈て天下の口遊と成ければ、將軍是を聞給て、「是は只當家の累祖伊豫守頼義三人の子を八幡太郞・賀茂次郞・新羅三郞と名付しに異ず。心中にいかさま天下を奪んと思ふ企ある者也。」と所存に違てぞ思はれける。佐渡判官入道道譽是を聞て、すはや憎しと思ふ相摸守が過失は、一出來にけるはと獨笑して、薮に□し居たる處に、外法成就の志一上人鎌倉より上て、判官入道の許へをはしたり。樣々の物語して、「さても都は還て旅にて、萬づさこそ便なき御事にてこそ候らめ。誰か檀那に成奉て、祈なんどの事をも申入候。」と問れければ、「未甲斐々々敷知音檀那等も候はで、いつしか在京難叶心地して候つるに、細河相摸殿よりこそ、此一兩日が先に一大事の所願候。頓に成就ある樣に祈てたび候へとて、願書を一通封して、供具の料足一萬疋副て、被送て候しか。」と、語り給ひければ、道譽、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切に被所望。生強に語りは出しつ、さのみ惜まん事も難叶ければ、無力此願書をぞ取寄て披見させける。道譽此願書を内へ持て入て、「只今些急ぐ事候間外へ罷出候。此願書は閑に披見候て返進べし。明日是へ御渡候へ。」とて、後の小門より出違ひければ、志一上人重て云入るゝに言なくして、宿所へぞ歸り給ひける。道譽、其翌日此願書を伊勢入道が許へ持て行て、「是見給へ。相摸守が隱謀の企有て、志一上人に付て、將軍を呪咀し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上は、所疑にて候はず。急是を持參して、潛に將軍に見せ進せられ候へ。」とて、爪彈をして懷よりぞ取出しける。伊勢入道不思議の事哉と思て、披て是を見るに、三箇條の所願を被載たり。敬白荼祇尼天寳前一淸氏管領四海、子孫永可誇榮花事。一宰相中將義詮朝臣、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇條之所願、一々令成就者、永爲此尊之檀度、可專眞俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守淸氏と書て、裏判にこそせられけれ。伊勢入道此願書を讀畢て、眉を顰めて大息をつぐ事良久して、手迹は誰共知ね共、判形共に於ては疑なければ、宰相中將殿の見參にこそ入んずらめと思けるが、是を披露申なば、相摸殿忽に身を可被失。其上斯る事には、謀作謀計なんども有ぞかし。卒爾にはいかゞ申入べきと斟酌して、深く箱の底にぞ收めける。斯る處に羽林將軍俄に邪氣の事有て、有驗の髙僧加持し奉れ共不靜、頭の痛み日を追て增る由聞へしかば、道譽急ぎ參て、「先日伊勢入道の進じ候し淸氏が願書をば御覽ぜられ候けるやらん。」と、問奉るに、「未披露せず。」と宣ふ。「さては御勞其故と覺候。」とて、急伊勢入道を呼寄、件の願書を召出して、羽林將軍に見せ奉る。其後幾程無して邪氣立去て、違例本復し給ければ、「道譽が申處僞らで、淸氏が呪咀疑無りけり。」と、將軍是を信じ給ふ。其後又心付て、八幡に淸氏願書を篭ぬる事有べからずとて、内々社務を召て問れければ、「去願書は封して神馬と送られて候が、頓て神殿にこめて候。」と申ければ、「其取出て奉るべし、聊不審あり。」と仰有ければ、軈て取出し持參しけり。是を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我世を取んとの發願也。彌疑所なし。凡志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特の人と思ひ、同心に京・關東を取んとて、其祈祷の爲に畠山吹擧にて上られけり。其後よりは、兔やして淸氏を討まし、角やせましと、道譽一人に談合有て、案じ煩ひ給ひける處に、道譽俄に病と稱して爲湯治湯山へ下りぬ。其後四五日有て、相摸守普請の爲とて、天龍寺へ參りけるが、不例庭に入て物具したる兵共、三百餘騎召具したり。將軍是を聞給て、「さては道譽に評定せし事、はや淸氏に聞へてけり。さらんに於ては却て如何樣被寄ぬと覺るぞ。京中の戰は小勢にて叶まじ。要害に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許に、今熊野に引篭り、一の橋引落して、所々掻楯掻き車引雙て、逆木轅門を堅めて待懸給へば、今川上總守・宇都宮參川入道以下、我も我もと馳參る。俄の事なれば、何事のひしめきと、聞定たる事はなけれ共、武士東西に馳違ひ、貴賎四方に逃吟。相摸守は天龍寺にて、京中のひしめきを聞て、何條今時洛中に何事の騷ぎ可有。告る者の誤りにてぞあらんとて、騷ぐ氣色も無りけるが、我身の上と聞定てければ、三百餘騎にて天龍寺より打歸り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進せて、「洛中の騷動何事とも存知仕候はで、急馳參て候へば、淸氏が身の上にて候ける。罪科何事にて候やらん。若無實の讒に依て、死罪を行れ候はゞ、政道の亂れ御敵の嘲、不可過之。暫御糺明の後に、罪科の實否を可被定にて候はゞ、頭を延て軍門に參候べし。」とぞ申入たりけれ共、「淸氏が多日の隱謀、事已に露顯の上は、兔角の沙汰に不可及。」とて、使僧に對面もなく一言の返事にも及給はねば、色を失て退出す。淸氏此上は陳じ申に言ばなし。今は定て討手をぞ向らるらん。一矢射て腹を切んとて、舍弟左馬助頼利・大夫將監家氏・兵部太輔將氏・猶子仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿取出し、馬の腹帶を堅めさすれば、重恩、新參の郞從共、此彼より馳參て七百餘騎に成にけり。今熊野には、始五百餘騎參して、「哀れ、我討手を承て向ばや。」と義勢しける者共、相摸守七百餘騎にて控へたりと聞へしかば、興醒顏に成て、此の坊中彼の在家に引入り、荒く物をも不云、只何方に落場あると、山の方をぞ守りける。相摸守は今や討手を給ると、甲の緖を縮二日まで待れけれども、向ふ敵無りければ、洛中にて兵を集め、戰を致さんと用意したるも、且は狼籍也。陣を去り都を落てこそ猶陳じ申さめとて、二十三日の早旦に、若狹を差して落て行。仁木中務少輔・細河大夫將監二人は、京に落留りぬ。相順ふ勢次第に減じぬと見へけるに、邊土洛外の郞等共、少々路に追付て、「將軍の御勢は、僅に五百騎に不足とこそ承候に、などや此大勢にて都をば落させ給候やらん。」と申せば、相摸守馬を引へて、「元來將軍に向奉て、合戰をすべき身にてだにあらば、臆病第一の取集勢四五百騎戰き居たるを、淸氏物の數とや可思。君臣の道死すれども上に逆へざる義を思ふ故に、一まども落てや陳じ申すと存て、無云甲斐體を人に見へつる悲さよ。身不肖なれば、無罪討れ進らす共世の爲に可惜命に非ず。只讒人事を亂て、將軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞ん事こそ悲しけれ。」とて、兩眼に泪を浮べ給へば、相順ふ兵共、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過て、長坂へ懸る處にて、舍弟兵部太輔といとこの兵部少輔二人を近付て、「御邊達兄弟骨肉の義依不淺、我安否を見はてんと、是まで付纏ひ給ふ志、千顆萬顆の玉よりも重く、一入再入の紅よりも猶深し。雖然、淸氏は依佞人讒不慮の刑に沈む上は力なし。御邊達兩人は讒を負たる身にも非ず、又將軍の御不審を蒙たる事もなき者が、何と云沙汰もなく、我共に都を落て、路徑に尸を曝さん事後難なきに非ず。早く此より將軍へ歸參して、淸氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ樣に計ひ給へ。是我を助る謀、又身を立る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、兩人の人々押ふる泪に咽で、暫しは返事にも不及。良暫有て、「心憂事をも承候者哉。縱是より罷歸て候共、讒人君の傍に有て、憑影なき世に立紛れ候はゞ、何つ迄身をか保候べき。將軍には心を置進せ、傍への人には指を差れ候はん事、恥の上の不覺たるべきにて候へば、何くまでも伴ひ奉て、安否を見はて進せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守、「さては彌我に隱謀有けりと、世の人の思はんずる處が悲く候へば、枉て是より歸られ候て、眞實の志あらば、後日に又音信も候へ。」と、強て被申ければ、二人の人々、「此上の事は兔も角も仰にこそ隨ひ候はめ。」とて、泣々千本より打別れて、本の宿所へぞ歸にける。京中には、合戰あらば在家は一宇も不殘と、上下萬人劇騷ぎけるが、相摸守無事故都を落にければ、二十四日、將軍軈今熊野より本の館へ歸給。何しか相州被官の者共、宿所を替身を隱たる有樣、昨日の樂今日の夢と哀也。有爲轉變の世の習、今に始ぬ事なれ共、不思議なりし事ども也。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。