大塚徹・あき詩集/母の紐

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母の紐[編集]

夕べ
風もなく 音もなく
白い葩が散るので
母はやるせなかったのであろう
若く かなしく
青い眉 ほのかに忿らせて
杏の樹に 縛りつけた
悪童の
 杳い――とおい 春のいたみであった。

戒めの もろてをあげて
杏の樹をゆすれば
ほろほろと 白い葩こぼれ 熱い泪こぼれ
ああ むらさきの母の紐よ
厨べに
味噌汁煮く匂いも
おぼろおぼろに

悪童は
 いつか――泣き疲れて眠ったが――

来る春に 住く春に
白い葩 咲かせつつ……散らせつつ……
杏の樹
朽ちていまは哀れに
母もまた 老いて
なかなかに忿り給わず
ああ、色褪せたむらさきの母の紐よ
悪童は
鬚も――こわげに いたずらのとし月も数えて

夕べ
うつつなく 夢となく
まぼろしの 白い葩が散るので
母はひとしおなつかしいのであろう
古しえの 清く優しく
いまになお 青い眉 ほのかに忿らせて
杏の樹に縛りつける
悪童の
心に――暮れのころ むらさきの母の紐。

〈昭和十六年、日本詩壇・生活風景〉