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大塚徹・あき詩集/死刑陰影

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死刑陰影

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この法廷には
一人の傍聽者もいない。
検事も弁護士も書記も 監守もいない。
白昼であるか――深夜であるか――それもわ
 からない。
裁判長である 老翁が
孤り 黙想として 端坐している。
――自らの暗欝あんうつな陰影を囚人として。
風沙の崩れる音――寂けく――杳く
裁判長は一頁――一頁 刻明に調書をめくる。

うぶの日――難産にして逆児さかごなりき
 匍うの日――歩むの日――乳房を噛み 糞
 尿を掴み
 悪童にして爛漫。天才にして早熟。
 あしたに花鳥をあやめ――ゆうべに西瓜を盗みき。
 日に月に荒たけの――かくて故郷に恐げなる
 恍惚を撒きつつ……)
 耳を澄ませば――夜潮のごとく 盛りあがり
 ゆく戦車の轟き。
 おお老翁の額に燃えあがるもの。――若き日
 の黎明のあけか。
〈セキズイの疼き――欝勃として青春を拗ね
 歎きつつ怒りつつ国禁の書を漁り、社会主
 義者と交わり、家産を破り、
 人妻を恋い、げに血涙熱き男子おのこ
 哀れ、無頼にして純情、飄逸にして奇行。
 開戦の朝、ああ遂に捕縛されて此處に裁か
 る〉
裁判長は深く瞑想している。――音もなく流
 れやまぬ時空の……
咄!天譴の叱咜。――起立して自らの陰影に
 判決する。

〈被告を――死刑に処す〉

〈昭和十五年、日本詩壇〉