基督者の自由について/第十六節

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 我々は、王であるばかりでなく、祭司でさへもある。此祭司たることは我々を神の前に現れさせて、他人のために祈る資格あるものとするがゆゑに、王たることよりも遥か偉大なことだ。そは、神の限前に立ち、祈るといふことは、祭司以外の何人にも屬さない特權であるからだ。かく基督は、われわれのために特權を獲得して、われゝゝが互いに靈的に神の前に現れて祈ることを可能にし給ふた、恰度祭司が眼に見ゆるやうに人々を代表して祈るやうに。併し基督において信じない人には、何物もはたらい

[53]

て益とならない、かくの如き人は萬物の奴隷であり、必然、萬物に衝き當るよりほかなくなる。のみならず、彼の祈りは神に喜ばれないし、神の眼前に居きもしないのだ。誰か今や基督者の光榮と尊貴とを考えへ盡し得るものぞ!基督者は、彼の王國によって、萬物のうへに力があり、彼の祭司たることによって、神のうへに力がある。そは、神は、基督者が祈り求めることを爲し給うふからだ、詩篇(一四五・十九)に、『ヱホバは己をおそるゝ者の願望をみちたらしめ、その號呼をきゝて之をすくひ給ふ』と書かれてをるとほりだ。かくの如き光榮に基督者が達するのは、全く只だ信仰による事で、いかなるわざにもよることではないのだ。この點から、人は、次のことを明かに知ることができる、萬物から自由であり萬物のうへにあるといふことだ、従て、基督者は、義であり祝福であるためにいかなる善きわざをも必要としないといふことだ、寧ろ、信仰が、一切を、溢るゝほど基督者に齎すといふことだ。もしも、基督者が善きわざによって義になり、祝福になり、もしくは一人の基督者に爲らうとするほど、愚かである場合には、またかく思ふ場合には、一片の肉を口にして水中の影に嚙みついた犬が、肉と影とを失ったやうに、萬物と共に信仰を失ふであらう。