基督者の自由について/第十七節

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動

[58]

 『平信徒が凡て祭司なら、基督教界における祭司と平信徒との間の區別は如何』と汝は問ふか。余は答える、「祭司」、「牧師」、「宗教家的」及びこれに類した言に對しては、次のことによって、不當なことが生じてをるのである。それは、これらの言が、一般の基督者から、今日の所謂『宗教家』と呼ばれる少數の群れへ、關係せしめられることだ。聖書は博學者若しくは聖別されたる者を ministros, sirvus, oeconomos と呼ぶ以外、即ち「奉仕者」・僕・管理者と呼ぶ以外、他のいかなる區別をも與へてゐないのだ。所謂奉仕者・僕・管理者達は、他の基督者に、信仰と基督者の自由を説く義務があるのである。そはわれゝゝはすべて同様に祭司ではあるが、それでも、われわれは、誰も彼も福音のために仕えたり、もしくは福音のことを管理したりまた福音を説いたりすることができるものではないからだ。此意味において、聖パウロは、コリント前書第四章において(一節)、『人、よろしく我らをキリストの役者また神の奥義を司る家司のごとく思ふべし』と言ってをるのである。併し今や福音の管理者たることは世俗的な

[59]

外的な、華やかな、恐るべき支配と權力とに變化してをる。その支配と權力たるや、眞の世俗的な力でさへも斷じて拮抗し得ないものなのだ、平信徒などは基督者ではないかのやうになってをるのだ。その結果として基督教の恩寵・自由及び信仰についての全體の理解が奪ひ去られ、基督さへも奪ひ去られて、その代りにわれわれが受け取ったものは、多くの人間的な掟とわざである、われゝゝは地上において最も卑しき人々の奴隷と爲りさがってをるのである。