基督者の自由について/第十五節

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 今や基督は、第一の誕生を、その榮光と品位と共に有し給ふやうに、此誕 生の榮光と品位とを、彼が信ずる凡ての者に與からしめ、彼らもまた基督と共に、信仰によって、凡て祭司であるやうにし給ふのである。聖ペテロが言ふとほりだ、ペテロ前書第二章(九節)、『汝らは祭司なる王、また王なる祭司なり』。但しそのことは次のやうな事情のもとに生ずるのである、それは、基督者が、靈的には、萬物の主宰者であるほどかくも高く萬物のうへに高められるといふことだ、そは何物も基督者の祝福を妨げ得ないからである。否な、萬物は基督者に服従して基督の祝福を増進するに至るものだ。聖パウロもかく教へてをる、第八章(二十八節)、『萬物は、召されたる者の最善のために役立つなり』、萬物が、生命であらうと、死であらうと、罪であらうと、善であらうと、惡であらうと、人が名づけ得る何であらうと。更に、コリント前書第三章(二十六節以下)に、かう言ってをる、『萬物は汝らの有なり、あるひは生、あるひは現在のもの、或いは未来のもの』。このことは、地上の人々が爲すやうに、われわれ基督者が萬物を所有しもしくは萬物を使用するほど、肉體的に萬物のうへに支配權を有するといふことではないのだ。そは、われゝゝは、肉體については、死ぬよりほかはないからであり、また何人と雖も死を免れ得るわけがないからだ。同様に、われゝゝは、基督や彼の聖徒において見るやうに、なほ多くの他の事柄(死以外の)にも服従するよりほかは ないのである。そは今問題となってをる支配は靈的支配であるからである、その支配は肉體的壓迫を受けてをるときでも活動してをる支配だ、、即ち、たましひについては、どんなことにおいても、余を一層善くすることができるから、死も受苦も、必然余のために役立つやうになり、余の祝禱に必要になるのである。これは全く高貴な名譽ある品位であり、真に全能的な支配であり、靈的な王國である。そは、余が信じさへするなら、余のためにはたらいて益とならぬほど、それほど善過ぎるものもなく、またそれほど惡過ぎるものもないからだ。それでも余は何物をも必要としないのだ、反之、余の信仰が余にとって充分なのだ。見よ、これがいかばかり値高き、基督者の自由であり力であるかを―――、