埃及マカリイ全書/第十六講話

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動
wikisource:宗教 > 埃及マカリイ全書

第十六講話[編集]

<< しんぞくするひとびとげんざいよりながるるわくかんなんとにぞくすること。 >>

一、 すべてれいあるじったいすなはちてんれいこんまきとをぞうせいしゃせいけつなるものおよさいじゅんなるものにつくりたまへり。しかれどもかれうちあるものまよふてあくりしは、これそのせんによりてしょうぜり、なんとなればかれじこゆうによりとうぜんりょよりはなれたればなり。されどもしぞうせいしゃかれあくなるものつくれりといはば、これすなはちサタナつかはすのかみもつふぎしんぱんしゃづくるなり。さりながらたんしゃあり、だんていしていふ、ぶっしつはじめなきものにして、かれなり、こんぽんちからなり、さればかみひとしきちからあるものなりといふ。これにたいしてはただしろんしてふべし、いかなるちからつひかちせいするかと。かみちからなりとこたへざるをざるべし。しかれどもかかるあいおいたれたるものもはやちしものどうなる、あるひどうりょくなるにあらざるべし。あくどくりつそんなるをだんていするものなにらざるなり。けだしかみよくなるとかみせいとによるに、かみにはなんどくりつそんあくあるなし。しかれどもわれおいてはあくはあらゆるけつよくぼうしんじゅんして、すべてのちからかんやすきとをもつこうす、さりながらわれともようかいするは、あるひとさけみづとのこんごうにたとへていふごとくなるにあらず。いつでんちゅうむぎみづからせいちょうはぐさみづからせいちょうするごとく、あるひいつうちぞくべつはなれてしゅべつはなれてるがごとくなるべし。

二、 いづみみづそそだせども、そのそこでいのあるあり。もしたれでいをかきみだすときは、いづみはすべてにごらん。かくのごとたましひもかきみださるるときは、じゃあくともようかいするなり、ゆえにサタナたましひあるひいつなるとのとなるべく、ふたつのしんいんこうあるひさつじんときにあたりてあるひいつたるをさん。ゆえにいふ『いんものはこれといったいとなる』〔コリンフ前六の十六〕、しかれどもたじにはどくりつなるたましひみづからこうしておのれおこなひい、ていきゅうとうしてみづからかみおくせん。さりながらもしたましひつねあくぼつするならば、いかんぞこれをすをん、けだしサタナざんにんなればひとびとほんぜんとしてかいすることをいかんしてもほつせざるなり。ぢょだんはいぐうしたるのちかれいつたらん、しかれどもたじにはかれたがひあひはなるるなり、なんとなればそのいつしてせいぞんすることしばしばこれあればなり。たましひせいしんしんするもこれとおなじかるべし、たましひかれいつしんとならん。『しゅものしゅいつしんとなる』〔コリンフ前六の十七〕。しかれどもこれひとおんちょうもつまるるのときにあるべし。

三、 ひとあり、かみかんすであじはへて、なほはんたいしゃせいりょくぞくす、さればかれけいけんにより、かみめぐみくだりしのちハリストスみつときにもねんせいりょくをあらはすにおどろかんとす。さりながらじょうたいいたるものはこれにおどろかざるべし、これなほひさしくれんしゅうしたるろうのうごとし、かれほうじょうなるときにも、ぜんぜんけいせざるものとなりらずして、きんきゅうぼうとをつ、しかれどもこれにはんしてきんあるひきゅうぼういたるあらんときも、ときへんせんするをりてのぞみまったくはうしなはざるなり。れいかいおいてもかくのごとし、たましひしゅじゅゆうわくそうぐうするときも、おどろかずまたしつぼうせざるべし、けだしかみほうにんによりあくたましひこころかつばつするをゆるすをればなり、これにはんしておほいなるとみへいあんとのときにも、けいせざるものとならずしてかいへんつ。たいようぶったいなり、じゅぞうぶつなり、さりながらでいけつをみちみてるあくしゅうはつするしょらして、すこしもがいをうけず、あるひけがされずんば、いはんやせいけつにしてせいなるしんあくしゃせいりょくしたところたましひとどまるも、これよりなんかんけいもうけざるべし、けだし『ひかりくらきり、くらきはこれをおほはざればなり』〔イオアン一の五〕。

四、 ゆえひとおんちょうふかきにありて、これにまさるるや、そのときにもじゃあくどくなほひとそんするあり、しかれどもひとたすくるほごしゃまたひとそんするあるなり。ゆえにたれかんなんあるひじょうよくだいじょうらんうちにあるときものぞみうしなふべからず、なんとなればしつぼうによりつみはいよいよたましひりて、これをふとらすればなり。しかれどもたれかみだんのぞみゆうするときは、あくはさながらびびとしてひとるもののごとし。もしひとありすいじゃくし、そこなはれたるたいゆうし、げきしょうねつくるしみてわづらふあらば、これつみよりしょうずるなり。なんとなればつみばんあくにして、こころよくぼうしきりょとはこれよりおこればなり。いづみのながるるや、これにかこまるるしっけありてうるほされん。されどもえんねついたるあるや、いづみもそのきんにあるとちただちかんそうせん。おんちょうおほいあまりあるかみしょぼくもかくのごとし、おんちょうあくしゃためおこさるるよくぼうをもてんねんよくぼうをもかわかさん、なんとなればこんにちかみひとびとだいいちアダムよりうへにあればなり。

五、 かみかぎられざるかつかこまれざるものにして、いづこにもおのれをあらはさざるなし、てんてんよりくだごとく、こうしょよりおつしょうつるにはあらずして、やまにも、うみにも、したごくにもあり、かれてんにもあり、かれここにもあるなり。さりながらなんぢはん、いかんしてかみごくにあるをべきか、あるひはいかんしてかれあんこくに、あるひサタナあるひあくしゅうのあるところにあるをべきかと。なんぢこたへん、かみよくなるものにしてすべてをかこまざるなし、なんとなればかぎられざるものなればなり。かみぞうぶつたるサタナかみもつしばらる、しかれどもぜんなるものけがされざるべく、くらまされざるべし。もしかみごくをもサタナをもすべてかこまざるなしとだんていせずんば、かれあくしゃところしょもつかぎらるるものけつせられて、かれよりさらうへなるかみたづねざるをざるべし、けだしかみいづこにもいっさいうへにあらざるべからざればなり。さりながらしんせいおうみょうなるとせいなるとによるにかれかこまるるやみかれかこまざるなり。あくかみにあるところせいけつあづかるものとなるあたはず。ゆえにかみためにはどくりつそんあくあるなし、なんとなればかれなによりもがいけざればなり。

六、 しかれどもわれためにはあくあり、なんとなればかれあくなるけつなるおもひあんすすれ、こころはたらき、このりょとなして、われきよとうささぐるをさまたぐればなり。かれたましひほねしきしょくかんす。たとへばサタナくうちゅうらんに、かみもかしこにともりて、これがためにすこしもわづらはされざるごとく、つみれいちゅうれど、かみおんちょうはまたすこしもわづらはされずしてともおなじるなり。ぼくしゅじんかたはらるならば、すべてそのかたはらあいだせんせんきょうきょうとしてしゅじんによらずしてはなにもなさざるべし。かくのごとわれしゅさいこころハリストスまへふくして、そのおもひていし、かれむかつてらいぼうとをゆうせんことをようす、なんとなればかれさかえなり、かれちちなり、かれとみなればなり。ゆえになんぢはいりょいくとをつねりょうしんゆうすべし。されどもしひとおのれうちうえられてかくりつせるかみおんちょういまゆうせずんば、じじおのれゆうどうし、かつけいせいしてぜんむかはしむるところのものににちたましひもつかんこと、てんねんなるものにくがごとくせざるべからず。すくなくもひとにははいりょと、いくと、つうと、つねおのれにかくりつせるかいこころとをそんすること、てんねんなるかはらざるもののごとくならしむべし。

七、 さりながらたとへばはちひそかみつぼうおくぐうつくごとく、おんちょうそのあいひそかしんちゅうつくりて、にがきをあまきにへんじ、ざんしんしんへんずるなり。またたとへばぎんこうおよちょうこくあり、はちそのぶんしたがひてちょうこくほどこさんに、しゅじゅどうぶつこくしゅつして、これにせん、さればそのこうおはるときは、はちまったさんぜんとしてひかりをあらはさん、かくのごとしんじつしょうしゃたるしゅわれたいよりうつりらざるあいだちょうこくもつわれこころかざりて、おうみょうにこれをあらたにしたまふ、さればそのときたましひげんぜんたるものとならん。きぐせいしてこれにどうぶつえがかんとほつするものは、ろうせいしゃえいつくり、そのけいによりうつわちゅうぞうし、それによりてせいぞうひんつひかたちさん。かくのごとつみしんてきせいしつゆうすれば、おのれじょうたいゆうして、おほくのけいじょうへんするなり。これとおなじくないひとじこじょうたいじこけいじょうゆうするせいかつぶつなり、なんとなれないひとがいひとしょうなればなり。これちょうようにしてたっとぶべきうつはなり、なんとなればかみはすべてのぞうぶつよりもさらにこれをめぐみたまひしによる。さればたましひぜんなるねんほうせきまたしんじゅたるごとく、けつなるねんがいともろもろのじょうあくしゅうとにみちみたさるるなり。

八、 ゆえに「ハリステアニン」はあらたなるかいぞくし、てんアダムにして、あらたなるせいしゅつなり、せいしんなり、ハリストスひかりはつするけいていにして、れいしんかいちちひかりはつするアダムとにんとす、かれみやこしゅぞくとよりのうりょくけ、ぞくせずしてぞくするなり。けだししゅみづからいへり、なんぢは『ぞくせざることわれぞくせざるごとし』〔イオアン十七の十六〕。しょうえんぽうよりかへるや、そのつどそのこうきゅうして、これをじんおくつかはすは、じんをしておくていえんおよきんようなるふくしめんがためなり、さればきょうとうちゃくし、おほいなるとみみづからもちきたるや、じんしんせきおほいなるよろこびをもつかれむかへん、れいしんかいおいてもかくのごとし。もしあるものてんとみみづからこうきゅうするならば、どうしゃたるせいじんおよてんれいこれぶんし、おどろきていはん、『じょうわれけいていおほいなるとみたり』と。かくのごとものるときは、おのれにしゅゆうし、おほいなるよろこびもつうへのぼるべくして、しゅともものはかしこにだいたくえんゆうおよかがやこうなるふくをそなへて、かれむかへん。

九、 ゆえけいせいまったようようなり、げんしょゆうするこうふくてんじてわれがいとならざらんためなり。けだしてんせいぜんなるひとももしかいしんせずんば、ぜんぜんそのぜんせいしつためいざなはるべく、ちえゆうするものそのちえためぬすらるればなり。ゆえひとはすべてにおいせっせいしゃとならんことをようす、ぜんげんじゅうもつようかいすべく、ちえしょうしんもつて、ことばおこなひもつようかいし、いっさいぼうしゅたくして、じこらいせざらんことをようするなり。けだしとくこうおほくのものをもつちょうせらるべし、これなほきんようなるしょくもつちょうのためにこうばしきどうしゅまたあるものようするありて、ただにみつのみにあらず、しょうをもようして、ただかくのごとくなればようてきするものとなるがごとし。

十、 ひとつみなしとだんていするものはたとへばひとびとこうずいときにあたりてまんすいおぼれんとするも、これをみとめず、かへつて『われみづおとをきけり』といふにたるあり。かくのごとあくしゅうなみふかきにちんぼつするこのものもそのおもひとにつみなしとだんていするなり。しかれどもあるものげんろんおさめ、えんぜつすも、てんしほちょうせられず、ゆえおうばんさんことろんひょうすれども、みづからはこれをめず、さればかれなんところあらざるなり。しかれどもまたあるものただちにおうて、おうたからひらかるるや、りてぎょうをうけて、こうなるしょくもつかつまんとす。

十一、 たとへばははどくいつあらんに、ようがんうるはしく、そうめいにして、すべてのこうふくもつかざられ、ははぼうげてにあらんに、もしこれをほうむりしなば、ははにははやただいつえざるうれひいつなぐさめざるかなしみとのみのこらん。かくのごとかみためしたるたましひかなしみ、なみだながして、だんうれひしづみ、ちゅうしんよりいたかなしみ、いくしんとのうちにありて、つねにこうふくかつかつせんことをようするなり。かくのごとものにはつひかみおんちょうぼうきたりて、かれにははやかなしみあるなく、かへつてかれたからはっけんしたるものごとよろこぶべく、これをうしなはざらんがためさらせんせんきょうきょうたらん、なんとなればぞくおそふことあるべければなり。かつどどぞくなんにかかりたるものはこれがためそうしつわざはひをかうむり、おほいなるしんもつてこれをけたれど、そののちこうだいなるざいさんおほくのほうもつとをゆうするにおよんでは、ぞうしょくしたるとみゆえさんはやおそれざらん、かくのごとさいしょおほくのゆうわくおそるべきしょとをけいしたるれいしんかいひとびとも、そののちおんちょうにみてられ、こうふくあまりあるや、これをりゃくだつせんとほつするものすでおそれざらん、なんとなればかれとみしょうしょうにあらざればなり。さりながらかれはまたいくゆうす、これあくなるしょしんおどろかされたるひとびといくにはあらずして、おのれにたくせられたるれいしんかいおんをいかにしょせんかとのいくしんとなり。

十二、 かくのごとひとおのれもつてすべてのざいにんよりなほいやしむべきものとおもふべく、かくのごとおもひかれうえつけらるるはてんせいごとくなるべし、さればかれかみるのにんしきにいよいよふかほどはいよいよおのれもつむちしゃおもふべく、いよいよまなほどはいよいよおのれもつなにらざるものみとめん。かつしんたすくるおんちょうはこれをこころうちつくること、てんねんなるもののごとくせん。それえいしょうねんにあるならば、かれするものほつするところかれいだらん、かくのごとふかかんてつするところおんちょうして、てんに、かんぜんなるかいに、えいえんあんにのぼせん、しかれどもそのおんちょうにもていかいきゅうのあるありて、あるものおうまへゆうゆうするぐんたいぶんたいちょうごとくなれども、あるものぜんぐんしょうごとくなるべし。いへにみちみてるけぶりあふれてがいそそごとじゃあくたましひちてがいにそそぎ、さんせん。ぐんこくおもかんにんぜられたるものあるひおうほうもつたくせられしものなにもつてかおうはづかしむるあらざらんかといづれのときにもしんせん、かくのごとれいしんかいことしんにんせられしものも、つねにしんして、へいあんゆうするもゆうせざるごとくなるべし、なんとなればじょうたるたましひしんにゅうしたるあんこくくにたましひぼくせんりょうしたるばんじんくにとをたましひよりさらおひはらはんとすればなり。

十三、 おうたるハリストスとふふくしゅうしゃをつかはし、これをくるしむるものばくして、かしこにてんぐんたいせいなるしょしんれんたいとをじゅうせしむること、そのほんこくじゅうせしむるごとくせん。つひたいようしんちゅうにもひかはじめ、そのこうせんことごとくのたいとうてつして、ふかへいあんはやかしこおうたらん。しかれどもにんげんじんりょくぎょうれんたつかみしたがしんぷくとは、おんちょうはなれんとするにあたひとかたささへてかみばんとするそのときけんぜんとしてあらはれん。しかれどもなんぢへびかはししくちてんあいだにあるあんこくなるちからじょうにあるなくしてたいうちふっとうするえんのあるをるも、なんぢたいよりづるときせいしんへいをうけずんば、かれなんぢてんのぼるをゆるさずして、なんぢたましひしゃせんとするをるか。これとおなじくたましひかちことそうめいなるほんたいちょうなることくも、かみが『われぞうしょうによりてつくらん』〔創世記一の二十六〕といひしはてんことにあらずしてじんせいことなると、てんとはれど、なんぢおうたるとけいていたるとしんたるとにされたるゆえんかいするか。げんおいしんろうぞくするものはすべてしんにもぞくす、かくのごとしゅぞくするものはすべてなんぢにもしんにんせられん。けだしかれなんぢだいほうせんがためにみづからきたりてなんぢびたまへり。しかれどもなんぢはおのれになにおもひうかところなくしておのれたっときをらず。ゆえしんつうをうけたるひとなんぢらくをかなしむはとうぜんなり、いはく『ひとおのれそんけいにありてらず、むちなるちくるいのごとし』〔聖詠四十八の二十一〕。こうえいちちせいしんよよす。アミン。