<< 神に属する人々も原罪より流るる試惑と患難とに属する事。 >>
一、 すべて霊智ある実体、即天使と霊魂と魔鬼とを造成者は清潔なる者及び最醇なるものにつくり給へり。しかれども彼等の中或者が迷ふて悪に入りしは、これその自擅によりて生ぜり、何となれば彼等は自己の自由により當然の思慮より離れたればなり。されどもし造成者は彼等を悪なる者に造れりといはば、これ即サタナを火に遣すの神を以て不義の審判者と名づくるなり。さりながら異端者あり、断定していふ、物質は始なきものにして、彼は根なり、根本の力なり、されば神と等しき力あるものなりといふ。これに対しては正く論破して言ふべし、如何なる力は終に勝を制するかと。神の力なりと答へざるを得ざるべし。然れどもかかる場合に於て勝たれたる者は最早勝ちし者と同時なる、或は同力なるにあらざるべし。悪の独立自存なるを断定する者は何も知らざるなり。けだし神の無欲なると神の性とによるに、神には何等の独立自存の悪あるなし。然れども我等に於ては悪はあらゆる不潔の欲望を浸潤して、すべての力と感じ易きとを以て行為す、さりながら我等と共に溶解するは、或人が酒と水との混合にたとへていふ如くなるにあらず。一の田中に麦も自から成長し莠も自から成長する如く、或は一家の中に賊も別に離れて居り家主も別に離れて居るが如くなるべし。
二、 泉は清水を注ぎ出だせども、其底に泥土のあるあり。もし誰か泥土をかきみだすときは、泉はすべて濁らん。かくの如く霊魂もかきみださるるときは、邪悪と共に溶解するなり、ゆえにサタナは霊魂と或は一なるとのとなるべく、二つの神は淫行或は殺人の時にあたりて或は一たるを成さん。ゆえにいふ『淫婦に合ふ者はこれと一体となる』〔コリンフ前六の十六〕、然れども他時には独立なる霊魂は自から行為して己の行を悔い、涕泣祈祷してみづから神を記憶せん。さりながらもし霊魂は常に悪に没するならば、いかんぞこれを為すを得ん、けだしサタナは残忍なれば人々の翻然として悔悟することをいかんしても欲せざるなり。女子も男子と配耦したる後、彼と一たらん、しかれども他時には彼等互に相離るるなり、何となれば其一は死して他は生存することしばしばこれあればなり。霊魂の聖神と親與するもこれと同じかるべし、霊魂は彼と一神とならん。『主に合ふ者は主と一神となる』〔コリンフ前六の十七〕。然れどもこれ人が恩寵を以て呑まるるの時にあるべし。
三、 人あり、神の甘味を既に味へて、猶反対者の勢力に属す、されば彼等は無経験により、神の惠の下りし後ハリストスの機密の時にも思念が勢力をあらはすに驚かんとす。さりながら此の状態に老いたる者はこれに驚かざるべし、これ猶久しく練習したる老農の如し、彼等は豊饒なる時にも、全然掛意せざるものとなり居らずして、飢饉と窮乏とを待つ、しかれどもこれに反して飢饉或は窮乏の至るあらんときも、時の変遷するを知りて望を全くは失はざるなり。霊界に於てもかくの如し、霊魂が種々の誘惑に遭遇するときも、驚かず又失望せざるべし、けだし神の放任により悪に霊魂を試み且罰するを許すを知ればなり、これに反して大なる富と平安との時にも、掛意せざる者とならずして改変を待つ。太陽は物体なり、受造物なり、さりながら汚泥と不潔をみちみてる悪臭を発する場所を照らして、少しも害をうけず、或は汚されずんば、況んや清潔にして聖なる神は悪者の勢力の下に在る所の霊魂に止まるも、これより何の関係もうけざるべし、けだし『光は暗に照り、暗はこれを蔽はざればなり』〔イオアン一の五〕。
四、 故に人が恩寵の深きにありて、これに富まさるるや、其時にも邪悪の毒は猶人に存するあり、しかれども人に助くる保護者も亦人に存するあるなり。ゆえに誰か患難或は情慾の大擾乱の中にあるときも望を失ふべからず、何となれば失望により罪はいよいよ霊魂に入りて、これを肥太らすればなり。しかれども誰か神に不断の望を有するときは、悪はさながら微々として人に居るものの如し。もし人あり衰弱し、傷れたる肢体を有し、劇症の熱に苦しみて煩ふあらば、これ罪より生ずるなり。何となれば罪は萬悪の根にして、心の欲望と悪しき思慮とはこれより起ればなり。泉のながるるや、これに囲まるる地は湿気ありて潤されん。されども炎熱の至るあるや、泉もその附近にある土地も直に乾燥せん。恩寵の大に餘ある神の諸僕もかくの如し、恩寵は悪者の為に起さるる欲望をも天然の欲望をも乾かさん、何となれば今日神の人々は第一のアダムより上にあればなり。
五、 神は劃られざる且囲まれざるものにして、何処にも己をあらはさざるなし、天使の天より地に降る如く、甲処より乙処に移るにはあらずして、山にも、海にも、下は地獄にもあり、彼は天にもあり、彼は此処にもあるなり。さりながら汝は問はん、いかんして神は地獄にあるを得べきか、或はいかんして彼は暗黒に、或はサタナ或は悪臭のある所にあるを得べきかと。汝に答へん、神は無慾なる者にしてすべてを囲まざるなし、何となれば劃られざるものなればなり。神の造物たるサタナは神を以て縛らる、しかれども善なる者は汚されざるべく、暗まされざるべし。もし神は地獄をもサタナをもすべて囲まざるなしと断定せずんば、彼は悪者の居る所の場所を以て劃らるる者と帰結せられて、彼より更に上なる他の神を尋ねざるを得ざるべし、けだし神は何処にも一切の上にあらざるべからざればなり。さりながら神性の奥妙なると精微なるとによるに彼に囲まるる暗は彼を囲まざるなり。悪は神にある所の清潔に與かるものとなる能はず。ゆえに神の為には独立自存の悪あるなし、何となれば彼は何よりも害を受けざればなり。
六、 然れども我等の為には悪あり、何となれば彼は悪なる不潔なる思を暗に勧め入れ、心に居て働き、智を此世の俘虜となして、我等が潔き祈祷を献ぐるを妨ぐればなり。彼は霊魂を衣て骨の組織に触感す。たとへばサタナは空中に居らんに、神もかしこに共に在りて、これがために少しも煩はされざる如く、罪も霊中に居れど、神の恩寵はまた少しも煩はされずして共に同く居るなり。僕は主人の側に居るならば、すべてその側に居る間は戦々競々として主人によらずしては何もなさざるべし。かくの如く我等も主宰と心を識るハリストスの前に俯伏して、その思を呈露し、彼に向つて依頼と希望とを有せんことを要す、何となれば彼は我が栄なり、彼は我が父なり、彼は我が富なればなり。ゆえに汝は配慮と畏懼とを常に良心に有すべし。されどもし人は己の中に植られて確立せる神の恩寵を未だ有せずんば、時々己を誘導し、且儆醒して善に向はしむる所のものに日夜霊魂を以て附かんこと、或る天然なるものに附くがごとくせざるべからず。少なくも人には配慮と、畏懼と、悲痛と、常に己れに確立せる悔悟の心とを存すること、或る天然なる変らざるものの如くならしむべし。
七、 さりながらたとへば蜂は窃に蜜房を屋隅に造る如く、恩寵も其愛を窃に心中に作りて、苦きを甘きに変じ、残心を慈心に変ずるなり。またたとへば銀工及び彫刻師あり、盂に其部分に循ひて彫刻を施さんに、種々の動物を刻出して、これに被せん、されば其工竣るときは、盂は全く燦然として光をあらはさん、かくの如く真実の意匠者たる主も我等が体より移去らざる間に彫刻を以て我等の心を飾りて、奥妙にこれを新にし給ふ、されば其時霊魂の美は現然たるものとならん。器具を製してこれに動物を画かんと欲する者は、先づ蠟製の写影を作り、其模型により器を鋳造し、それによりて製造品は終に形を為さん。かくの如く罪も神的性質を有すれば、己の状態を有して、多くの形状に変化するなり。これと同じく内部の人も自己の状態と自己の形状を有する或る生活物なり、何となれ内部の人は外部の人の肖似なればなり。これ重要にして貴ぶべき器なり、何となれば神はすべての造物よりも更にこれを惠みたまひしによる。されば霊魂の善なる思念は宝石又は真珠に似たる如く、不潔なる思念は死骸ともろもろの不浄と悪臭とにみちみたさるるなり。
八、 ゆえに「ハリステアニン」は新なる世界に属し、天のアダムの子にして、新なる生出なり、聖神の子なり、ハリストスの光を発する兄弟にして、霊神界の父と光を発するアダムとに肖んとす、彼等は彼の都と彼の種属とより彼の能力を受け、此の世に属せずして他の世に属するなり。けだし主は自からいへり、汝等は『此の世に属せざること我の世に属せざる如し』〔イオアン十七の十六〕。商賈の遠方より帰るや、其都度其購求を増して、これを家人に送り遣すは、家人をして家屋、庭園、及び緊要なる衣服を得しめんが為なり、されば故郷に到着し、大なる富を自から持来るや、家人と親戚は大なる喜びを以て彼を迎へん、霊神界に於てもかくの如し。もし或者は天の富を自から購求するならば、同市者たる聖人及び天使の霊は此を聞知し、驚ていはん、『地上に居る我等が兄弟は大なる富を得たり』と。かくの如き者等は世を去るときは、おのれに主を有し、大なる喜を以て上に登るべくして、主と共に在る者等はかしこに第宅、苑囿及び照り輝く高価なる衣服をそなへて、彼等を迎へん。
九、 故に儆醒は全く要用なり、現に所有する幸福が転じて我等の害とならざらんためなり。けだし天性の善なる人ももし戒慎せずんば、漸々其善性質の為に誘はるべく、智慧を有する者も其智慧の為に窃み去らるればなり。故に人はすべてに於て節制者とならんことを要す、慈善は厳重を以て溶解すべく、智慧は小心を以て、言は行を以て溶解し、一切の希望を主に托して、自己に依頼せざらんことを要するなり。けだし徳行は多くのものを以て調味せらるべし、これ猶或る緊要なる食物は調味のために芳ばしき葡萄酒又は他の或者を要するありて、ただに蜜のみにあらず、胡椒をも要して、ただかくの如くなれば用に適するものとなるが如し。
十、 人に罪なしと断定する者はたとへば人々洪水の時にあたりて満水に溺れんとするも、これを認めず、却て『我等は水の鳴る音をきけり』といふに似たるあり。かくの如く悪習の波の深きに沈没する此者等もその智と思とに罪なしと断定するなり。然れども或者は言論を理め、演説を為すも、天の塩に調味せられず、故に王の晩餐の事を論評すれども、自からはこれを嘗めず、されば彼等は何の得る所あらざるなり。然れども又或者は直ちに王を見て、王の宝の開かるるや、入りて嗣業をうけて、彼の高価なる食物を嘗め且飲まんとす。
十一、 たとへば母に独一の子あらんに、容顔うるはしく、聡明にして、すべての幸福を以て飾られ、母の希望は挙げて此の子にあらんに、もしこれを葬りしなば、母には最早ただ一の断えざる憂と一の慰めざる哀とのみ残らん。かくの如く智も神の為に死したる霊魂を哀み、涙を流して、不断の憂に沈み、中心より傷み哀み、畏懼と費心との中にありて、つねに幸福に飢え且渇せんことを要するなり。かくの如き者には終に神の恩寵と希望と来りて、彼には最早哀あるなく、反つて彼は宝を発見したる者の如く喜ぶべく、これをうしなはざらんが為に更に戦々競々たらん、何となれば賊の襲ふことあるべければなり。且や度々賊難にかかりたる者はこれが為に喪失の禍をかうむり、大なる辛苦を以てこれを避けたれど、其後廣大なる財産と多くの宝物とを有するに及んでは、増殖したる富の故に破産は最早恐れざらん、かくの如く最初多くの誘惑と懼るべき場所とを経過したる霊神界の人々も、其後恩寵にみてられ、幸福に餘りあるや、これを掠奪せんと欲する者等を已に恐れざらん、何となれば彼等が富は少小にあらざればなり。さりながら彼等はまた畏懼を有す、これ悪なる諸神に驚かされたる人々の畏懼にはあらずして、己れに托せられたる霊神界の恩賜をいかに処理せんかとの畏懼と費心となり。
十二、 かくの如き人は己を以てすべての罪人より尚いやしむべきものと思ふべく、かくの如き思の彼に植付らるるは天性の如くなるべし、されば彼は神を識るの認識にいよいよ深く入る程はいよいよ己を以て無知者と思ふべく、いよいよ学ぶ程はいよいよ己を以て何も知らざる者と認めん。且進歩を助くる恩寵はこれを心の中に造ること、或る天然なるものの如くせん。それ嬰児は少年の手にあるならば、彼を手に持する者は欲する所に彼を抱き去らん、かくの如く深く感徹する所の恩寵も智を手に持して、天に、完全なる世界に、永遠の慰安にのぼせん、しかれども其恩寵にも程度と階級のあるありて、或者は王の前に勇気を有する軍隊の分隊長の如くなれども、或者は全軍の将の如くなるべし。家にみちみてる煙は溢れて外気に注ぎ入る如く邪悪も霊魂に充ち満ちて外部にそそぎ、果を産せん。郡国の重き管理を任ぜられたる者、或は王の宝物を托せられし者は何を以てか王を辱しむるあらざらんかと何れの時にも費心せん、かくの如く霊神界の事を信任せられし者も、つねに費心して、平安を有するも有せざる如くなるべし、何となれば都城たる霊魂に侵入したる暗黒の国と霊魂の牧野を占領したる野蛮人の国とを霊魂より更に逐払はんとすればなり。
十三、 王たるハリストスは此の都府に復讐者をつかはし、これを苦むる者を縛して、かしこに天の軍隊と聖なる諸神の連隊とを移住せしむること、その本国に移住せしむる如くせん。終に太陽は心中にも光り始め、その光線は悉くの肢体に透徹して、深き平安は最早彼処に王たらん。しかれども人間の盡力と苦行と練達と神に従ふ心服とは、恩寵の離れんとするに方り人が堅く支へて神に呼ばんとする其時に顕然としてあらはれん。然れども汝は蛇の川と獅子の口と天地の間にある暗黒なる力と地上にあるなくして肢体の中に沸騰する火焔のあるを聞き知るも、汝が体より出づるとき聖神の聘質をうけずんば、彼等は汝の天に昇るを許さずして、汝の霊魂を遮止せんとするを知るか。これと同じく霊魂の価値の事、此の聡明なる本体の貴重なる事を聞くも、神が『我等の像と肖によりてつくらん』〔創世記一の二十六〕といひしは天使の事にあらずして人性の事なると、天と地とは過ぎ去れど、汝は王の子たると兄弟たると新婦たるとに召されたる所以を理會するか。現世に於て新郎に属するものはすべて新婦にも属す、かくの如く主に属するものはすべて汝にも信任せられん。けだし彼は汝を代保せんがために自から来りて汝を呼びたまへり。しかれども汝はおのれに何も思浮ぶ所なくして己の貴きを識らず。故に神通をうけたる人が汝の堕落をかなしむは當然なり、曰く『人は己の尊敬にありて知らず、無智なる畜類のごとし』〔聖詠四十八の二十一〕。光栄は父と子と聖神に世々に帰す。アミン。