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古事談/第六

 
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古事談 第六
 
 
亭宅諸道
 
南殿桜樹者、本是梅樹也。桓武天皇遷都之時、所植也。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。其後天徳四年〈九月廿三日〉内裏焼亡に焼失了。仍造内裏之時、所植重明親王〈式部卿〉家桜木也。〈件木本吉野山桜木と云々。〉橘木は本自所生託也。遷都以前、此地者橋大夫家之跡也。

東三条者、重明親王之旧宅也。親王夢に、日輪入家中と見給ひて、無指事過畢。為大入道殿御領之後、前一条院所誕生也云々。

東三条者、李部王家也。彼王夢に、東三条の南面に、金鳳来りて舞ひけり。仍李部王雖即位之由、不相叶而大入道殿伝領之後、一条院乗鳳輦西廊の切間より令出給云々。

有国は伴大納言後身也。伊豆国図伴大納言影、与有国容貌敢不違云々。又善男臨終云、当生必今一度可奉公云々。

入道殿被東三条之時、有国奉行之。西の千貫の泉透廊、南へ長く差出したる中程、一間不上長押。殿下御覧之、など不長押哉、下も土にて弱きにと被仰けれど、無何申成して止畢。然る間上東門院立后之後、始入内給之時、此上長押あらば、不其煩之処、御輿安らかに令出給之間、有国砌に候ひけるが、頗こわづくろひを申したりければ、殿下遣御覧たるに、指をさして上長押を見遣たりけり。いかにも可此儀と存じて、御輿の寸法を計りて、不長押云々。思慮深者也。

大入道殿姫君庚申夜、脇息に寄懸つて、令死給畢。仍彼御一門には、女房之庚申永被止云々。

宇治殿、京極殿を御車後に乗せて御行ありけるに、二条東洞院二町を築籠めて、大二条殿被造作候けるを御覧じて、京中の大路をも斯く籠め作るにやと令申給ひけオープンアクセス NDLJP:94れば、打任せては不有事なれども、我等がせむをば、誰かは可咎哉と仰せけり。仍高陽院をば、四町を築籠めて令作給云々。

石田殿は泰憲民部卿、〈春宮亮泰通男〉近江任之時、選勝地構造之別荘也。而宇治殿仰云、子息少僧在園城寺、可然者坊舎一可求出云々。依之以石田之別業、奉覚円僧正之後、為園城寺平等院領云々。

花山院者、貞保式部卿宮家也。貞信公伝領時、人号東之宮。主人住給西町〈小一条今宗形〉之故也。九条殿伝領件家之後、為東宮御在所〈於此処立坊是知世俗之詞有_徴云々。件所一名東一条云々。

京極大殿御時、摸大内春日町造給〈伊予守泰仲朝臣造之〉之後、于今不焼之処也。寝殿上長押有七星之節云々。又吉平朝臣符之故云々。故左府之時修理之間、自天井上出種々厭物〈多分小社人形等也、〉吉平末葉等之処、此物体等総申習伝之由云々。仍如本被納置云々。

平等院宝蔵に、水龍といふ笛は、唐土笛也。唐人渡此朝之時、於海中船欲沈。舟人等奇之、種々財物を令海に、皆以不沈。仍入件笛之時、即沈之。無為着岸之後、本主沙金千両を儲けて、龍王に相伝へんと誓ひて、欲於海之時、件笛を令買取給ひて、令宝蔵給云々。

村上御時、朝忠卿祗候御前。舎弟朝成始昇殿候小板敷。主上御覧自小蔀て、にくさげなりけり。聞食吹笛之由、雲火を給ひたりければ、内裏も破れぬ計りに吹きたりけるに、貌も忽美麗云々。

伶人助元〈助種父〉府役懈怠事、被籠右近府下倉。此下倉には、蛇𧑀なる〔集るイ〕ものをと怖畏の間、夜半計大蛇出来、其頭如祇園師子頭、其眼如銀提、其舌三尺計にて、大口をあきて己欲害。助元心神如無。雖然わなゝく笛を抜出して、吹還城楽破。爰大蛇来り留りて、頸を高く持上げて、有笛之気色。暫聞きて搔帰去畢云々。

堀川院御時、召南都僧徒、被大般若御読経けるに、明暹在此中。于時主上御笛をあそばしけるが、様々に調子を替へて、令吹給ひけるに、明暹毎調子声を違へずオープンアクセス NDLJP:95経を上げければ、主上奇み給ひて、此僧を召しければ、明暹跪候庭上。依勅昇候簀子。笛や吹くと令問給ければ、おろ吹き候と申すに、さればこそとて、御笛を給ひて被吹に、万歳楽をえもいはず吹きたりければ、叡感ありて、其御笛を給ひけり。件笛般若丸と付けて、秘蔵して持ちたりけり。伝々して今在八幡別当幸清之許云々。

放鷹楽といふ楽をば、明暹已講只一人習伝へたりけり。白川院野行幸あさてといふ夜、山階寺三面僧坊にありけるが、今夜は戸なさしそ、尋人あらむものぞといひて侍りけるに、如案有来入之人、問之是秀也。放鷹楽習ひにかといひければ、然也と答ひ、房の内に入りて令楽たり。

元正下向八幡御領備中国吉阿保〈二条御神楽保、〉上洛之間、於室泊俄心神違例如亡。片鬚如雪変也。成奇異之思巫卜之処、吉美津宮託宣給云々。適下向当国、依其曲祟也云々。忽押帰参詣彼宮、吹皇帝己下秘曲等之間、白髪立尋常云々。

保延五年正月廿六日、六条大夫某参入礼部禅門語申云、八幡所司永秀、古時無左右笛吹也。正近同時者也。永秀常吹笛、隣里悪之、四隣無人。如此之間、避人里住男山南面。件近辺不草、依笛声歟。嫌多分笛不吹、只以寄竹笛一管随身吹之。件笛不慮伝来故正清許、正清不正近、売八幡別当光清、光清進白川院畢。件永秀・正近共居宿院水中門。永秀吹桃李花、令正近。正近密屈指計其拍子、其屈指透狩衣〈木賊色〉顕然。永秀畏之云、雖笛声、不其拍子、是非直之人云云。又正近或時吹皇代。永秀障子内聞之、令其譜。後日勘之、二拍子注落云云。又語云、大殿被仰管絃間事共、少々注置之、漸成大巻云々。故大殿令琵琶給、御師資近・故後二条殿同令琵琶給。〈御師経信卿。〉当時大殿御笛。〈御師、按察使中納言宗俊。〉

月夜吹笛有猪鼻之者。元正於山井私宅之、不聞知之楽也。成奇走登大坂、隠藪見之、青衣を被て帯劒之僧也。元正問云、何人乎。其時衣被を脱ぎて、法師ぞかしといふ。見之山路権寺主永真也。元正重問云、所吹何楽哉。永真答云、万歳楽を逆に吹く也。若し逆に吹けと申人もあらばとて、所吹習也云々。件永真、宮寺所司也。永秀若同人歟。此両事式賢所語也。オープンアクセス NDLJP:96大納言宗俊、笙は時光の弟子也。大食調入調、今にとて不授、送年月之間、或五月廿余日之頃、甚雨夜、時光来臨申云、今夜彼入調欲授云々。大納言喜悦之間、時光申云、此殿中にては、耳恥かしき者も侍らむ。いささせ給へとて、忽到大極殿、共には時光一人也。〈亜相乗車、時光簑笠を着歩行。〉已臨欲秘曲之時、時光が云、斯る所には、耳聞く者も侍るぞやとて、執炬火見廻之処、着簑笠之者一人居柱隠。誰人ぞと問之処、武吉也。笙上手云々。仍さればこそとて不授帰畢云々。京極殿召此武吉笙。其曲優美、仍被師匠之処、依分明、被仰云、猶可時光之弟子云々。依之翌日到時光之許。時光調笙弘庇にあり。武吉居庭上、自懐中出名符、給于時光。時光驚、携手引昇堂上、乍悦問云、年来其曲をいとなみて互奉公、何忽如此哉。武吉答云、年来も乍存、自然罷過之間、昨日依殿下仰参入也云々。時光興云、先何曲可伝哉。武吉云、大食調入調所大望也。時光云、公里小童にて前に居りけるを、件曲彼童未授也。授畢彼童之後、不秘云々。其時武吉云、被小児事、非只今事歟。武吉已老爛、不其時とて、乞返二字退帰畢云々。仍件曲を懸心令伺之間、甚雨夜到大極殿云々。

博雅三位箏譜奥書云、案万秋楽自序、始て六の帖の畢まで、無落涙。予誓世々生々在々所々以箏生万秋楽之身歟。調子盤渉調殊に勝る、楽中万秋楽殊勝也云々。博雅者依此調子此楽。生都卒外院之由、見経信卿伝云々。

高野御室、御寵童共の師匠の料に、孝博を鳴滝に家作りて居給ひて、種々御いとほしみありて、常在には琵琶、参川には箏、各器量も相叶ひて、秘曲ども授けゝり。参川に千金調子授けてけりと、富家入道殿聞食して、孝博を召して、実にや千金調子、御室なる児に教へたんなると令問給ふに、孝博申云、召して可聞食云々。依之御室へ、箏よく弾く童の候なる、給ひて聞き候はゞやと令申給ひたりければ、御室入興給ひて、被参川けり。御前に召して、楽などあまた被引て後に、千金調子を弾かせらるゝに、無正体僻事共也。童退出之後、又召孝博仰云、千金調子為僻事之由可申也云々。孝博今暫可助給、忽まどひ候ひなむと申しけれど、僻事也。汝も吾も存生之時、不謝顕者、為後代之狼藉歟とて、ありのまゝに被御室オープンアクセス NDLJP:97間、孝博不日預追却畢云々。

箏流

 延喜聖主──貞信公──村上帝──済時卿──山城守為舜─┐
 ┌──────────────────────────┘
 ├─少倉供奉賢円─嵯峨供奉院禅孝博┬─季通朝臣┬─安芸
 │                └─妙音院 └─善興寺
 └─箏少将┬─大宮右府──宗俊卿┬─富家入道──妙音院
      └─五節命婦     └─京極大相国──若御前尼

村上聖主、明月之夜於清涼殿昼御座、玄上を水牛角の撥にて引澄して、只一所御座しけるに、如影之者自空飛参りて、孫庇に居ければ、彼は何物ぞと令問給ふの処、申云、大唐琵琶博士廉承武に候。只今此虚を罷通る事候ひつるが、御琵琶の撥音のいみじさに所参入也。恐くは昔貞敏に授貽す曲の侍るを、欲授云々。聖主有叡感之気、御琵琶を令差置給ひたりければ、かきならして、是は廉承武の琵琶に候。貞敏に二つ給ひ候内に候と申しけり。終夜御談話ありて、玄上石上曲をば奉授云々。貞敏をば妙音院入道は、常に祖師守宮令と被仰けり。玄上の事を、江中納言に人の問ひければ、不慥説。延喜頃、玄上宰相といひける琵琶引の琵琶やらんとぞ被答ける。

貞敏渡唐成廉承武之聟。一年之間究習琵琶之曲云々。帰朝之時、紫檀琵琶二面得之云々。又以金与廉承武云々。玄上者、件琵琶之其一也云々。

玄上撥面絵事、師時卿記云、打毬之唐人二騎歟。是左府仰也云々。

師時記云、保安元八廿、左大臣殿云、故二条殿孝通語次云、玄上絵様於馬上打毬者、指毬於腰舞形也。良道撥面様付体図之。良道是紫藤琵琶也。留世者即皮而見在定、其体顕然歟。

妙音院入道、自配所土佐国帰洛之時、資賢卿参向彼亭面謁之次、何事共か候ひけんと被申ければ、返事はなくて、韓康独往之栖といふ句を詠出し給ひたりければ、按察落涙退出云々。

オープンアクセス NDLJP:98京極殿御堂供養之式、宗俊卿作之。黄鐘調子為本云々。而経信卿云、いかにまれ如此事者、以壱越調本也。母調子とて、往昔以来然也。

舞人助忠為傍輩正道〈一者〉殺害〈祇園林〉畢。仍堀川天皇御歎息過法之間、久我大相国被奏云、何故強御歎候哉云々。被仰云、神楽秘曲・胡飲酒・采桑老、此等三箇事亦無相伝説之人、已欲絶。争不歎思食哉云々。重被奏云、神楽は所残なく令伝説御畢。子息等成長之時、選器量授給之。采桑老は召天王寺舞人習。胡飲酒者某可教候云々。依之兄忠方被胡飲酒、弟近方給神楽、被采桑老云々。

堀川天皇令神楽給之時、天皇御于倚子、助忠候小庭、師時朝臣候小板敷、令申秘曲時、於荻戸方奉云々。

承元四年三月日、鴨禰宜祐綱奏云、為御祈祷行臨時御神楽、其次弓立宮人等、うたはせんと存候。仍可御気色也云々。上皇仰云、神楽事不食仔細合実教云々。因之左近大夫将監家綱、奉勅問彼卿。被申云、宮人者、荒涼不唱之歌也。於他之秘曲者何事候哉。至宮人者可御計候歟云々。私語云、唱宮人事、実教覚悟二ヶ度也。一度者、二条院御宇、平治乱逆静謐之後、承暦元年四月、於八条内裏行、三ヶ夜御神楽之時、成方唱之。今一度者、後白川院御薬危急之後、被日吉臨時祭之時、可仕之由被仰下、好方再三辞申、有所存歟。然而被慥仕之由。愁唱之。〈実教為御使。〉

 承暦御楽召人

  資賢朝臣  季兼朝臣拍子  忠〔義イ〕朝臣  兼雅朝臣  実家朝臣  季信

 近衛召人

  忠節  成方  好方  近人  守忠  助種 兼文人長

天永三年三月石清水臨時祭、師時卿令勤仕之時、御神楽依興、近方唱宮人之由、見于彼卿記録。然者雖勅宣、令之歟。但宮寺之外、定無其例歟。

仁平御賀之時、宇治左府息隆長列舞人、被青海波之間、知足院入道殿被覧之、未練とて師匠光行を被舞。又御覧之後、只同体也。于時被仰云、光行之父者、八十オープンアクセス NDLJP:99有余之後、授此曲之由聞食すは、実にてありけり。老耄之間、無四度計授けたりけり。摸寄波体之時は、首を左に傾けて、忽に寄之、摸引波体之時は、首を右に傾けて緩引之也とて、召光行此秘事給云々。

久我大相国被胡飲酒於忠方之時、授畢之由聞召して、天皇御覧之処、不叡慮。仍召相国其旨。相国被申云、授には能授候了。然而此曲は、頗しまひに舞ふ所の候を、天性無骨者候之間、幽玄の所を舞ひ候はぬなり云々。又被仰云、彼へ不舞所を見合せばや。仍被装束於里亭間、退直虚解脱して高枕臥、依移時刻、頻御使適到来之時、是はあらぬ面なりとて、又被他面之間、已及晩頭、遅参過法之間、有逆鱗と御使申しければ、猶乍臥、胡飲酒は参上の程ある物なりと被示て、愁に装束して被舞けり。其曲神妙、天皇被仰云、凡力不及云々。

小野篁、遣唐使に渡ると聞きて、白楽天悦びて、構望海楼待ち給ひけるに、見えざりければ、太政官符露点雖明、小野篁舟風帆未見と被書けり。

在衡大臣、才学雖絶倫、主上毎勅問、事明必申云々。是毎参内車之書一帙、於途中之、勅問事、必今日所見之事也。仍主上深思食才学由緒在之由、総夙夜恪勤超倫云々。甚雨烈風之日、左衛門陣告上云、縦雖在衡参日也云々。其詞未終に、笠をさし深沓をはきて参りければ、見る人皆感じけり。在衡・維時同時蔵人。〈藤内記、江式部云々。〉

伊陟卿、村上御宇、近被召仕之間、主上被仰云、故宮は、常に何事をかせられしと。伊陟申云、うさぎのかはごろもとかや申す物こそ、常被翫候ひしかと被申ければ、定被伝得歟、一見せばやと仰事ありければ、安く候事とて、後日書を一巻持参云々。主上は、裘などにやと被思召けるに、伝なりけり。披き御覧じければ、君暗臣詣無愬とあるをも、文盲之間不之取出云々。伊陟不覚在此事云々。

一条院御時、以言望顕官之時、有勅許気而御堂令申給云、以言者、鹿馬可迷二世情と作る者なり。争浴朝恩哉、仍不許云々。

文時之弟子分二座て座列之時、文章座には保胤為一座。才学座には称文為一座。而只藤秀才最貞令参上諍論云々。文時被由緒最貞云、切韻文字の本文、無オープンアクセス NDLJP:100之云々。文時は又史書全経専堪之者也。仍尚以称文一座云々。

時棟列宇治殿蔵人所之日、雅康為右衛門権佐、来りて問文字。時棟不答。傍なる範国朝臣云、時棟課試及第三ヶ度也。今始問文字極白物也云々。

有国与保胤文道、常不和云々。保胤をば、有国はあらめの主と号しけり。有国問本文事之時、不覚悟事をも、さる事ありといひて候。本文を問ひける時も、又さる事ありといひけり。仍あらめの主と号す云々。

保胤所作庚申序云、庚申者、古人守之今人守之云々。有国奥書云、古の人守り、今の人守り、多くの人守るぞや云々。

維時中納言、始補蔵人之時、主上為前栽、被花名。納言多以仮名之時嘲之、維時聞之云、若書実字者誰人読之哉云々。後日主上召維時花目録。御覧之、被漢字之由。維時忽書之進之。時人不知一草字、競来問之、維時云、如此之故先日用仮名字、何被嘲哉云々。

敦基朝臣参法性寺殿、褒美子息等事、其後有聯句会之時、茂明候其座。殿下思食出先日事仰云、愚息称賢息、心得て、とりも敢ず令明与茂明と申しければ、頻御感ありけり。

近衛院御宇、摂政直房被除目之時、蔵人掃部助敦周取申文目録。殿下いかゞ取ると御尋ありければ、朝隆卿奉行職事にて申云、雖未練者、よくこそ取り候へ云云。于時殿下被仰云、申文今可択受、敦周無程仔細更難白と申しければ、申文に、仔細神妙なりとて御感ありけり。父茂明朝臣、うるせき由依申置、試とて被仰懸けり。

同頃東北院領、池田荘解を、朝隆卿執筆之時、執申状中云、非啻軽殿下之御威、兼又成梁上之奸濫と書きたりけるを御覧じて、此解状者、非田舎者之草、可然之学生儒者などの書きたるにこそ、尋ねよと被仰ければ、召尋荘官等之処、暫は秘蔵不申、殿下御定なりとて問ひければ、江外記康貞と申す者に、触縁誂候とありけり。仍被康貞於文殿云々。

敦光朝臣愛酒之間、不断置酒於褻居棚。或夜寝後子息弟成光放本鳥裸形取之。爰オープンアクセス NDLJP:101兄長光連句を云懸く、其詞云、酒是正衣裳。成光無程云、盗則乱礼儀云々。父朝臣空寝之間聞之、不感情落涙云々。

俊憲卿書内宴序〈西岳草嫩、馬嘶周年之風上林花穂、鳳馴漢日之露之時、持来通憲入道之許、令見合ければ、一見之後、刻限巳至、早清書といひければ、猶一両返読みなどして有沈思之気、起後入道云、こゝが法師にはまさりたるぞとて涕泣云々。件序、入道も書儲け懐中に持ちたりけれど、尚劣りたりければ不取出云々。

安芸守基明嬰子之時、正月戴餅之間、少納言入道祝言、才学者如祖父、文章者如父云々。

四条大納言参六条宮、被論申云、貫之歌仙也。宮仰云、不人丸云々。亜相被然之由。仍後日各秀歌十首被合之時、八首人丸勝、一首持、一首貫之勝之云々。

延喜御時、相人相者参来、天皇御于簾中、奉御声云、此人為国主歟、多上少下之声也。叶国体云々。天皇恥給不出給云々。次先坊〈保明太子〉・左大臣〈時平〉・右大臣〈菅家〉三人列座、依勅令相云、第一人〈先坊〉容貌過国、第二〈時平〉賢慮過国、第三〈菅家〉才能過国、各不此国、不久歟云々。爰貞信公為浅臈公卿、遥離別候給。相者遮申云、彼候人才能心操形容旁叶国定、久奉公歟。寛平法皇聞食此事仰云、三人事不見、及於貞信公、向後必可善之由所見也云々。因之以第一女王、於朱雀院西対、有嫁娶之儀。于時貞信公大弁参議云々。法皇同御于東対云々。又貞信公云、吾賢慮之条、雖兄不劣申。左大臣於他事者更不及。今相者所見尤所為恥也云々。

珍材朝臣従美作上道之路、寄宿備後国上〈沼治イ〉郡司女、令腰之間懐孕畢。其児至七歳之時、郡司相具前立之、参珍材之許、述仔細。珍材思出件事涕泣。

珍材者極相人也。仍見此児、可二位中納言の相ありといひて養育、果如父相云々。鰯の数をかぞへさせて、令始物数云々。件郡司死去之後、恒依憐愍敦舒家中給曹子養立云々。仍其家に資任等は尤親也。

一条院御時伴別当といふ相人ありけり。帥内大臣遠行をも、兼て相し申したりけり。件者物へ往きける道に、橘馬允頼経といふ武者、騎馬して、下人七八人計具しオープンアクセス NDLJP:102て逢ひたりけるを、此相人見て、往過後喚返云、是は某と申す相人に侍り、如此事令申は、有憚事侍れど、又為冥加申。今夜中及御命慎。中矢給御相令顕現給也。早令帰給。可祈謝云々。爰頼経驚云、何様の祈祷をしてか、可其難哉。相者云、取其身去大事に令思給ふ者を、不妻子殺しなんどしてぞ、若令転給ふ事も可侍云々。頼経忽打帰りて、路すがら案ずる様、大葦毛とて持ちたる馬こそ、妻子にも過ぎて惜き物なれ。それを殺さんと思しけり。帰るや遅きと褻居の前に、一疋別に立飼ひければ、かりまたをはげて馬に向つて弦引きたるに、蒭打食ひて立ちけるが、主を見て何心なく嘶きけるに、射殺之心地もせで、美麗なる妻の不思気色にて、大なる皮古に寄懸りて、苧といふ物うみて居たる方へ、引きたる弓をひねりむけて射之。中を射串して、皮古に射立畢。妻は矢に付きて死畢。而皮古の内より血流れ出で、皮古動きければ成奇開見之処、法師の腰刀抜きて持ちたる尻に、矢を被射立て、死なんとて動くなりけり。頼経帰寝之後、殺させんとて、密夫の法師を、皮古内に隠し置きたりける也。件相人非直之人歟。

洞昭側見俊賢卿云、哀目やあれをもて相せさせばやと云々。件卿、さる者には見えぬ由とて、年来不見云々。

西方院座主〈院源〉洞昭云、弟子良因は、何月日可阿闍梨哉。答全無其相之由。座主笑ひていふ、御房の相に、此事こそをかしけれ。一々毛孔にも成りぬべき闍梨也、如何云々。洞昭出房之後、対他人云、命あらばこそ、有職にも僧綱にもなれと云々。

而果如言。即卒去畢。生年廿五云々。極抜萃之人也。

洞昭参入道殿〈御堂〉御前、乍臥令謁給。于時宇治殿〈内大臣〉参給。暫ありて入母上御方給之後、洞昭申云、此君本自無止御座而、重可貴之御相已顕給云々。入道殿忽驚起給被仰云、可摂籙之由、只今心中所案也云々。

江師者極相人也。清隆卿、因幡守之時、為院御使、到江帥之許、入持仏堂念誦之間也。仍御使を縁に居ゑて、隔明障子之。清隆卿御使也。奇怪事哉と乍思、数刻問答言畢。帰参之時、障子を細目にあけて、喚返して云、そこは官は正二位中納言、命は六十六ぞよと云々。果如言。

オープンアクセス NDLJP:103六条右大臣殿は相人也。奉白川院曰、御寿命可八十。但頓死相難遁給歟云々。院令暮年給後、被仰云、右府相相叶、已及八十頓死事、弥有其憚云云。

又大外記信俊、生年八歳之時、相具兄囚獄正家俊彼殿。次に自屛風之上覧之、又令北方給云、此童可家業者也。北方被仰云、兄家俊容体太優、何不家哉。大臣不左右云々。

又令故中宮〈賢子〉退出之時、令北方給云、いみじき態哉。心憂目を見むずるは。此宮今一両年の内の人也云々。北方被仰云、まがしく、争如此被申哉。

全無〔退イ〕御座するものを。大臣被仰云、不美麗也。無生気なり給ひたるものを。不今明年人也云々。果然云々。

正家朝臣又相人也。息男右少弁〈左衛門権佐〉俊信を相云、為弁靱負佐、官位已至、然而無正家服之相、口惜態哉云々。其言果不違。又奉白川院、可八旬之由称之。仍件日久我太政大臣無執奏云々。

平大納言時望参敦実親王家。雅信年少之時出之、令時望相_之。時望相云、必至従一位太政大臣歟。下官子孫若有事者、必可許容也とて、数刻感歎云々。時望卒去之後、一条左大臣感彼知己之言、惟仲肥後公文之間、殊被芳心云々。惟仲者是時望之孫、珍材之男也。平家者自往昔累代之相人也。

宗通卿子息両人〈兄伊通公、弟季通朝臣〉童稚之時、参一条殿御許〈宗通卿母准后人也、〉忽被折敷饌、各食了退出之後、尼上云、此兄児者可大臣之人也。弟者凡卑也。不卿相也云々。果如彼言

典薬頭紀国守、〈中納言長谷雄卿祖父、〉春宮御腹病之時、令芒消黒丸兼申云、此御薬服後、可悩乱。然而遂可其験云々。聞食之後令悶絶給。依之被国守身於帯刀陣

帯刀等抜劒宮崩じ給はゞ、可殺国守之身云々。次宮平安御腹病永愈云々。後日国守謂云、宮若御命終者、国守不存歟とて、止医道畢。於子孫永不其道云々。

入道殿建立法成寺之時、日々有御出仕頃、白犬を愛して令飼給ひけり。御堂へオープンアクセス NDLJP:104も毎日御供云々。或日令寺門給之時、件犬御供に候ひけるが、御前に進みて走廻りて吠えければ、暫令立留給ひて御覧じけるに、さしたる事もなかりければ、猶令歩入給。犬御直衣のらんを咬へ奉引留ければ、いかにも可様とて、召榻て令尻給ひて、忽召遣晴明朝臣、被仔掘之処、晴明眠沈思して申云、君を奉咒咀之者、埋厭術於御路、奉超させらむと構へて待つ也。今君之御運、依止御座、御犬所吠顕也。犬者本自小神通之物也とて、差其所堀之間、土器二つを打合せて、黄色紙捻にて、十文字にからげたるを令掘出云々。晴明申云、此術者極秘事也。晴明之外、当世定無知人歟。但若道摩法師之所為歟。可其人とて、取出懐紙鳥形、唱頌投揚之処、成白鷺南飛行、此鳥の以落留之処、厭術者の住所と可知と申しければ、下部等守白鳥走行之間、落留六条坊門万里小路川原院古師織戸内。仍踏入捜拾之処、有僧一人、即捕取被由緒之間、道摩得堀川左府之語、施術之由、已以白状。雖然不罪科、被遣本国〈播磨〉畢。但永不此咒咀之由、被誓状云々。

施薬院領九条辺古所に、明道図のあるを、見る人必ず目を病むの由、雅忠朝臣申置之云々。

晴明者乍俗那智千日之行人也。毎日一時滝に立ちて被打けり。前生も無止大峯之行人云々。花山院在位御時、令頭風給。有雨気之時は、殊発動為方を不知給、種々医療更無験云々。爰晴明朝臣申云、前生は無止行者にて御座しけり。於大峯某宿入滅。答、前生之行徳、雖天子之身、前生之髑体、巌介に落ちはさまりて候か。雨気には巌ふとる物にて、つめ候の間、今生如此令痛給也。仍於御療治者不叶。御首を取出でて被広所者、定令平愈給歟とて、しかの谷底にと教へて、遣人被見之処、申状無相違。被出首後、御頭風永平愈給云々。

亀甲御占には、春日南室町西角に御座する社をば、ふとのとの明神と申す。件社を此占の時は奉念云々。

又伊豆国大島下人者、皆此占をするなり。堀川院御時、件島下人三人上洛、召して被占之処、皆奉仕此事者也云々。

オープンアクセス NDLJP:105武則公助と云、古き随身ありけり。何を父、何を子とは、不分明父子之間也。右近馬場の騎射、悪く射たりとて、子を勘当して、晴にて欧ちけるに、逃去る事もなくて被打ければ、見る人いかに不逃して、かくは被打ぞと問ひければ、老衰之父、若令逃者、追ひなどせん程に、若し顛倒しなば、極めて不便なりぬべければ、如此心ゆく限り被打ぞと申しければ、世人いみじき孝子なりとて、世のおぼえ、事の外に出来にけり云々。

御堂早旦に、人々に、私に法興院馬場にて、公時に乗競馬給ひけるに、小野宮右府乗古車、於馬場末密見物。公時勝ちたりけるに、自車纏頭云々。神妙なる紅打衣を肩に懸けて、あげて参りたりければ、御堂、あれはいかにと令驚給ふ間に、公時申云、右大将の馬場末にて見給ひ候也云々。

宇治殿若く座しける時、花形といふ揚馬を奉りけるを、兼時といひける御随身奉見て、此御馬腹立ち候により、疾く下りさせおはしませと申しければ、下りさせ給ひて、他人を乗せて御覧じければ、御馬臥まろび、乗人を咬ひなどしければ、御堂召兼時纒頭云々。

法性寺殿御時、賀茂祭使くちとりに、武正・兼行両人遣したりけり。殿下かへさの日、於紫野御見物之間、此両人御機敷之前、各けだみて通りけるを、猶所御覧、今一度北へ罷渡ると被仰ければ、両人北へ渡りにけり。兼行者猶又南へ渡るに、三ヶ度御覧畢。武正見えざりければ、いかにと御尋の処、幔の外より、南へ通り候ひぬと申しければ、猶武正無術者也と被仰けり。

知足院殿御座宇治之時、武正陵轢、御所侍大略及死門之間、侍等参集訴申之。仍仲行を為御使、被問仔細。於武正之処申云、武正は少童之時、大殿召出御覧有御感、御沓の中三寸計を切捨て、尻首を閉合せ給ひて、はきて候ひしなりと云々。殿下いみじく申したりとて、賜酒謝遣侍等、訴訟無沙汰云々。

相撲節以後、二条帥之許に、伊遠相具男伊成て参りたりければ、前に召して酒など勧むるの間、弘光といふ相撲又出来りければ、同じく召加へて酒のませて物語の間、弘光頗酒気入りて、多言になりて申云、近代之相撲者、勢などだに大になり候ひぬれオープンアクセス NDLJP:106ば、無左右最手にも成り、脇にも立ち候也。昔は勝もせよ負もせよ、取昇進してこそ至り候へと云々。爰伊遠云、是は伊成が事を申す也。今度脇に立ち候にたり。

但きと試み候へかしと云々。于時弘光左手を指出して手乞けるを、伊成は搔合せて畏りて居たりけるを、父伊遠只被試候へかしと、度々いひければ、弘光が左手を、伊成以右手指をみじと取りたりけるを、引抜かむとしけれど、不抜ければ、戯にしなすに、以右手腰刀の束に懸けて、抜かむとする体にしける時、伊遠さて放ち候へといひければ、放畢。其時弘光云、加様手合は、さのみぞ候。不此事候也。一差仕りて見候はんとて、起走りて隠所へ寄りて、肩脱ぎて括上げて、袖引違へて進み出で、ひらとねりて、是へ下り候へといひけるを、伊成は、父に目を懸けて居たりけるを、伊遠、かく程に申候は。早罷下りて一差仕り候へといはれて、伊成も隠にて腰からみて寄合せて、弘光が手を取りて、前へ荒く引きたりければ、うつぶしに引臥してけり。弘光起上りて是は繆也。今度可仕といひけるを、伊成猶伺父之気色、いとも進まざりけるを、只責寄りて試み候へとていひければ、進寄りて取弘光之手、後ざまへ荒く突きたりけるに、のけざまに顛倒して、頭を強く打ちてけり。起上りて、烏帽子の抜けたりけるを取りて推入れて、帥の前に膝をつきて、ほろと落涙して、君の見参は今日計に候といひて退出して、やがて出家してけり。法皇聞食此事、最手脇などに昇進しぬれば、我等だにも輙不勝負事也。況私勝負の条、奇怪之事也とて、長実卿暫被出仕云々。父伊成を試みばやと思ひて、或時於塗籠之中取合ひけり。板敷の鳴る音おびたゞしくて、雷の落つるやうに、顛音しけれど、勝負は敢人不知と云々。

仏師定朝之弟子覚助をば、義絶して家中へも入れざりけり。然而為於母、定朝他行之隙などには、密々に来りけり。肇朝左近府陵王の面可打進之由、依仰下至心打出でて愛して、褻居の前なる柱に懸けて置きたりけるを、父他行の隙に覚助来りけるに、此面を取下げて見て、あな心う、此定にて被進たらましかば、浅猿しからましとて、腰刀を抜き、むずと削り直して、如本懸柱退帰了。肇朝帰来見此面云、此白物来入りけりな。不孝之者、雖他行之間入居事、奇怪事也。此陵王面作オープンアクセス NDLJP:107直してけり。但かなしく被直にけりとて、令免勘当云々。

延喜聖主召基勢法師、金御枕を御懸物にて、令囲碁給ふに、数無御勝負。或日基勢法帥奉勝、賜御枕退出之間、以蔵人召返之処申云、年来一堂建立宿願候。

思而渉日之間、早賜此懸物、帰参して若被打返参らせもぞするとて、やがて退出、自翌日立一宇堂。仁和寺北に、弥勒寺といふ堂は、此基勢之堂也。

同御時、令囲碁給ひけり。一条摂政蔵人之頭之頃、帯を懸物にて遊ばしけるに、奉負て御数多くなりければ、詠一首和歌

   白浪のうちやかへすと思ふまに浜のまさごの数ぞ積れる

 
古事談第六大尾
 
 

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