コンテンツにスキップ

古事談/第五

 
オープンアクセス NDLJP:80
 
古事談 第五
 
 
神社仏寺
 
延暦十年八月五日子刻、有盗人、焼大神宮正殿一宇・時殿二字御門瑞垣等。御体出火中、懸座御前松樹枝云々。

同十四日発使参議紀古佐美・参議神祇伯・大中臣諸魚以下参伊勢、被火事由

同廿三日仰伊勢・美濃・尾張・参河等国、令進件殿舎等、遣大工以下番〔匠〕内人等。度会郡司断大祓。外宮司禰宜等断上祓不解。今年七月以後至同十四年征夷事。大将軍乙麿・田村麿等也。

 十二年有遷都、同十三年遷平安宮

長久元年七月二十七日夜、大風大雨之間子刻計、伊勢太神宮正殿及東西宝殿神宮瑞垣御門等皆悉顛倒、已如地云々。〈此事見于祭主永輔解状。〉此事公卿勅使宰相中将良頼卿可下向云々。仍給寮御馬一疋。又一疋借給。依近将也。雖然神宮御託宣事、自斎宮示、公卿勅使停止、只捧宸筆宣命於庭中、毎夜有御拝云々。敦実親王奉立大菩薩御影二体〈一体僧形、一体俗形、〉御供、被祈請之後、被拝見之処、僧形の御供に被御箸云々。依之以法体御体、奉置外殿、多被進田園云々。件御体、保延炎上之時、不取出焼失云々。

件御体権俗別当兼貞不不審、供御供之次、奉白檀僧形、首戴月輪、御手令翳給云々。兼貞此事之故、不運而止云々。

勝光明院宝蔵に御座する御影は、弘法大師御渡唐之時、手自令図絵給之御影也。 〈僧形戴日輪錫杖給。〉大師帰朝之後、被置高雄寺。荒廃之後、鳥羽上皇尋召〈年紀可考記置件宝蔵云々。

昔有一僧、常住筥崎之宮菩提心而年久。臨老衰之後、離件宮居於山林之夜、夢着紅直垂之人、従御前詠云、

オープンアクセス NDLJP:81   筥崎の松吹く風は波の音と尋ね思へば四〔徳イ〕波羅密

放生会被行幸之儀式の事は、延久二年始也。上卿大納言隆国云々。初年計は、壺胡録浅沓也。自第二年平胡録靴沓云々。八幡臨時祭後朝使下馬場之時、陪従等〔并イ〕山城令引率者先例也。而隆季卿殿上人左馬頭問勤仕使之時、式部大夫惟盛、いとよりかけたるしだりやなぎといふ今様を歌ふ云々。若有先例歟。

六条右府放生会、上卿之時、雅俊卿為参議下向之間、服蒜之後五十余日、可忌否之由被宮寺之処、別当頼清申、可七十日之由、俗別当輔任、申五十日之由、仍就輔任説下向云々。

経成卿為検非違使別当之時、中納言闕所望之間、詣石清水、以神主某、強盗百人刎頸者也。依件功労拝任。今度納言闕之由。可申祈云々。神主云、吾神者禁断殺生放生。可其由哉云々。経成重云、御断放生之旨御託宣文明白歟。件託宣之末、為国家臣、殺者出来之時非此限と侍る。何事とか令知哉、猶可申云々。神主令其旨之間、果任中納言畢云々。

花園左府着装束沓をはきて、自京歩行にて、七ヶ夜令八幡宮給。還御之時騎馬云々。御供の人々も、いかばかりの事を令祈請給ふやらむと、不審しけるに、満七ヶ日之夜奉幣之時、幣を取継ぐ人近く候ひて聞きければ、臨終正念往生極楽と涙、を流して令祈申給ひけり。果被往生畢云々。

実政卿依宇佐宮訴、罪名事議定日、鳩居軒廊辺云々。

八幡故検校僧都成清は、光清第十三郎之弟子、小大進〈三宮女房〉腹也。小大進所生子息八人皆女子也。仍慕男子一人之間有夢告。熊野権現に可申祈云々。依之即企参詣。還向之後、不幾程懐妊、所産生之子也。生年九歳之時、本師入滅之間、相具小大進、祇候于花園左大臣殿家。憐愍之余十二歳之時、及首服之沙汰。但為宮司之氏人、祈請可左右とて、先づ髪を分けて引入鳥帽子、仮成其体祈請之間、六ヶ日之夜、木工允頼行〈大臣家侍也〉夢想、後朝申云、自南方御帳之中、有細光〔光イ〕〔足イ〕奇、伺見御帳中之所、御あとに臥したる児の額に当れり。又尋光之根元男山云々。此夢之後被首服之儀、召乗御車後、被参高野御室〈公光師仲等有御供。〉オープンアクセス NDLJP:82後頗携管絃祇候、十六歳出家。〈号甲斐君。〉然間花園殿薨逝給之後、於事無縁。依渡世之計、偏思無上菩提、一身歩行詣高野山、参籠千余日之間、寸白所労依法、為於医家京。九月下旬早旦、向典楽頭重基之許、指入門内之、頭有人之気色、座持仏堂広庇少僧、参而招入堂中。先づ若し八幡の人にてや御座すと問事の体。丁寧ありのまゝに示畢。其時頭涕泣云、我は殊奉仕八幡之者也。且依年来之宿願、来月〔九イ〕日於宝前養五部大乗経。当時も其間之事営入候之間、去夜夢中若宮御前鴇毛御馬に駕御して、此縁の際に打寄せ御して、令白杖御して、此堂中へ令差入御やうにて、被仰云、吾に契縁の者、いとほしく思食すが、為病事、是に可来也。それはさせる病症にあらざるなり。吾を欲別離之故物惜也云々。覚夢之後、やがて是にて所待也云々。小僧も聞此言、拭感涙退散了。所労又愈了。雖其憑、母さへ逝去の後、弥失為方、籠居仁和寺辺間、鳥羽法皇御灸治の時、あつさ慰めさせ御座せむとて、御前に祗候の人々、巡物語可仕と、少々利口物語など令申之間、粟田口座主行玄御持僧にて祗候申云、此物語同者仏事霊験の事を可語申云々。尤可然之由有勅定。人々皆令語申之間、重基が番になりて、往事は皆人々所知とて、此成清事夢想之次第、委令語申之間、法皇及御落涙随喜給了。忽召光安、件僧在所を可尋之由被仰。光安即山城介業光といふ郎等を召して、仰含可尋仁和寺辺之由、申して遣すに、即尋会奏聞事由畢。又殿上方に職事や候と有御尋、令蔵人治部大輔雅頼候之由。即被召仰云、重基之夢如此。祠官は以神慮之輩、専可補事也。而も件僧光清之弟子也。宜抽補者歟之由、可関白云々。雅頼参関白殿〈法性寺殿〉帰参申云、件成清、事外名誉者候。尤可抽補候歟。適権別当最清〈成清兄〉逝去候云々。次第輔任修理別当、闕に被補候者為善政歟之由、可申之由所役候也云々。仍被仰下之処、宮寺二ヶ条訴申云、一者非宮寺之挙状、不所司云々。一者重服之間、不任云々。仰云、挙状事早可宮寺、重服事可成清云々。成清申云、例不外。別当頼清正月三日入滅。先師光清二月補別当云々。依之被官府畢。為凡僧修理別当多年出仕之間、甥三人為権別当。於事雖面目、更無退心仕神事之間、行幸之時、修理別当雖オープンアクセス NDLJP:83賞之例、始而関白賞叙法橋。其後次第昇進無違乱、遂補別当検校、歴法印大僧都。剰擬僧正香染。又兼帯弥勒寺宝塔院之上、始而被大隅正宮香椎社等承門跡之由。於神恩先代之人也。甲斐君之昔仁和寺之弊房より、歩行大路一身百ヶ夜参詣御山。〈入夜出仁和寺暁更還向。〉此外苦行不勝計云々。

天慶二年之頃、粟田口山科北里有一神祠藤尾寺。南辺有別道場、件所有一尼、自先年石清水八幡大菩薩像、安置年尚。凡厥霊験触事多端。仍遠近僧尼貴賤男女帰依如林、輻湊成市。彼石清水宮寺、毎八月十五日、必設法会、号之放生会。上下諸人莫来会。而件尼同日更設此会、画則迎伶人、尽舞楽之妙曲。夜又啒名僧菩薩之大戒会。飲食布施尽美尽善。因玆僧徒伶人等不本宮云々。法会頗以寂寥。爰本宮道俗相議云、設法会於同日、成障碍於本宮。今此所行為之如何。仍自本宮新宮云、八月十五日者、是本宮放生会也。改他日新宮会云云。而件尼蔑如本宮之告、経年無改定。爰本宮神人等数千人、発向件山科新宮、壊棄其社、殿縛彼尼身于其霊像者、奉石清水本宮云々。或説云、護国寺御体者此霊像云々。

勢田尼上〈神祇伯顕重母〉常参詣賀茂社之人也。或時御料之刻限に参会して被見ければ、諸の魚鳥を供しけり。仍氏人に、大明神は何物をか令好給哉と被問ければ、答云、我不知。給古老者可申云々。其日通夜之間、尼上之夢に、大明神開宝殿戸、被仰云、我弥陀念仏を好也、常可申也云々。依之於社頭僧侶七ヶ日 念仏。結願夜又夢中に、御社の跡池になりて、蓮花開敷。神主成重申云、是は念仏人可生蓮花也云々。

範兼卿者奉仕賀茂社之人也。毎参詣之度心経参けり。而依此事三熱苦之由示現之後、金泥にて書かれけり。往日通夜片岡社辺して、大明神御本地は何にて御座す哉らんと祈請して、きと睡眠之間、端厳女房令出現給、致渇仰之誠申云、毛車にのせさせ給へ。其時うなづかせ給ひ、又申云、母にさきだたせ給ふな。其時者有御顧盼。又本地は何にて御座すぞと申す時、等身正観音の蓮花令持給ひたるに、令変御て即火炎に令焼御て、くろと令成御と奉見けり。依之等身オープンアクセス NDLJP:84正観音奉造立、安置東山堂云々。果叙三品母先立了。子孫繁昌、偏大明神之利生也。

式部大夫実重は、参詣賀茂無双之者也。依先生之微運、不過分之利生歟。人の夢に、大明神又実重来りたりとて、令歓給之由見之云々。実重可御本地之由、毎年祈請之、或夜通夜下社之時、夢中に主上参詣之間、なか〔をイ〕きの程にて奉行幸、百官供奉如常。実重片藪に隠れて見之。鳳輦内に、金泥経一巻令立御たり。其外題に、一称南無仏皆已成仏道と被書たりけり。夢即覚了。

鴨社禰宜季〔継イ〕、保延六年正月廿三日、依当番夜御社之間、夢に八幡宮よりとて、獅子頭や鋒など体の物神宝等、多く持運びて、舞殿に置きければ、彼者何事哉と問へば、神人等答云、八幡宮焼失候へば、大菩薩是へ令渡御也云々。夢覚之後、天曙之後朝に、三の権守親重宮廻しけるに、斯る不思議の夢をこそ見つれと語る間、自京参詣之人云、去夜亥時、八幡宮焼失云々。

住吉大明神託宣云、昔伐新羅之時、吾為大将軍、日吉為副将軍。其後伐将門之時、日吉為大将軍、住吉為副将軍。是依天台宗之繁昌、日吉受法施限、威徳倍増之故也云々。

日吉客人宮者、白山権現云々。依或人夢想小社、所祝居也。而慶命座主之時、無サシタル証拠者、無詮小社也。又可御座者可不思議云々。件夜入座主之夢託宣之旨等。後朝小社上計白雪一尺積みたりけり。六月云々。其後霊験掲焉云々。」

一条院御宇、北野天神御贈位贈官。〈正二従一位左大臣云々。〉件位記詔書等勅使菅原輪正𭅪正。正暦四年八月十九日、太宰府到来。同二十日未刻参着安楽寺、御位記筥を置案上、再拝読申時、絶句詩化現云々。道風之手跡云々。

 勿驚朝使排荆棘 官品高加拝感成 雖仁恩〔窟イ〕  但羞存没左遷名

此正文被外記局。于今有云々。今度勅答不快之由、群議定畢。同五年頃賜正一位太政大臣之由、被詔書之時、又有託宣之詩

 昨為北闕士 今作西都雪恥尸 生恨死歓其我奈オープンアクセス NDLJP:85 今須望足護皇基

此詩一度詠吟之人、毎日七度可守護之由有託宣云々。又御託宣〔詩イ〕云、

 家門一閉幾風煙 筆硯抛来九十年 毎蒼天往事 朝々暮々涙連々

園韓神社者、本自座太内跡。而遷都之時、造宮之使等可他所云々。于時託宣云、猶座此処帝室云々。仍座宮内省内云々。

中山社〈巌神〉者、冷泉院中島令火神給云々。其後事外放光。後冷泉院御時歟。託宣云、門前車馬多時、出入不輙、給此所一向欲_住云々。依之令他所給云々。

宇治左府被阻近衛院之時、古神祇乃不官幣や御座すると、被尋之間、愛太子給。明神四所権現を奉尋出、咒咀之。仍天皇崩給畢。然而左府不幾程、中天矢薨畢云々。

白山権現住み給ふ山に有池。相去御座所事卅六町、在深山中、縦横七八段計云々。号曰御厨池。諸龍王相集備供養之池也。件池人敢不近寄。若有臨寄人之時、雷電猛烈害人云々。仍雖古来近進。而浄蔵及最澄二聖人等、申請権現取此池水云々。伝聞此事日台聖人、参籠三七日、祈申権現、臨向彼池畔、先勤行供養法。于時天晴敢無雷雨之気、仍以瓶汲取池水二升計畢。其後心神迷惑如亡。然而相悔退帰畢。件水有病瘂之人飲之塗之、莫愈。又生々世々所遇仏法云々。

室生龍穴者、善達龍王之所居也。件龍王初住猿沢池。昔采女投身之時、龍王避而住香山〈春日南山也。〉件所下人棄死人。龍王又避住室穴。件所賢憬僧都所行出也。賢憬者、修円僧都之師也。往年日対上人、有龍王尊体拝見之志、入件龍穴、三四町計黒闇而、其後有青天所有一之宮。殿上人立其南砌。見之懸珠簾、光明照耀有風吹動珠簾間、其隙伺見彼裏、玉机上置法華経一部。頃之有人之気色、問云、何人来哉。上人答云、為見御体、上人日対所参入也。龍王云、於此所見、出此穴其趾三町計、可対面也。上人即如本出穴、於約束所衣冠給、自腰上地中。上人拝見之即消失畢。日対件所立社、造立龍王体。于今見在云々。祈オープンアクセス NDLJP:86雨之時、於件社頭、有読経等事云々。有感応之時、龍穴之上有黒雲、頃之件雲周遍天上、有雨事云々。

天喜二年九月廿日、聖徳太子御廟近辺、〈坤方〉石塔地之間、地中有筥石、掘出之筥也。〈長一尺五寸計横七寸計。〉身蓋開見之処、御記文也。仍天王寺奏聞事由。件御記文状云、

吾為利生、出彼衡山此日域。降伏守屋之邪見、終顕仏法之威徳、於所々立四十六箇之伽藍。化度一千三百余之僧尼、制紀法花勝鬘維摩等大乗義疏。断悪修善之道漸以満足矣、〈下石文也。〉今年〈歳次辛巳〉河内国石川郡礒長里有一勝地、尤足美、故点墓所云々。吾入滅以後、及千四百三十余歳、此記文出現哉。爾時国王大臣発起寺塔、願求仏法耳。〈上石文也。〉

此事天王寺別当桓舜僧都、依執柄仰、参向彼御廟帰洛、談申云、其所住僧前年為立私堂、掃除其辺地、其夜夢人来云、此地不堂舎、早可停止。此傍地可宜云云。依此夢〔上イ〕初地立他所畢。而初所今年掃除之間、所出此石凾也。件凾有身蓋几帳足、其色如褐色。以針之物件字也。自彼年今年四百卅六年云々。

天平十九年〈丁亥〉九月廿九日、始奉東大寺大仏、同廿五〈己丑〉正月四日、陸奥守従五位上百済王敬福進黄金九百両。本朝出来黄金之始也。依之敬福授従三位畢。同四月十八日、改為天平勝宝元年。是去正月始出来黄金之故也。同年十月廿四日、奉大仏己畢。三ヶ年之間奉鋳八ヶ度也。高五丈三尺五寸云々。去七月二日天皇〈聖武〉出家、同八年五月二日太上法皇崩。〈春秋五十七。〉

長谷寺観音は、神亀二年三月廿一日〈庚午〉供養、行基菩薩為導師。件寺者、弘福寺僧道明沙弥徳道、播磨国住人、二人相共所建立也。其仏木者自近江国流出霹靂木也。流至大和国。爰彼道明等曳此木仏、思無力。於是正三位行中務卿兼中衛大将藤原房前奏聞、公家依勅下行大和国稲三千束。因玆奉十一面観音像一体、高二丈六尺。雷公降臨被方八尺盤石、令其座矣。〈已上縁起〉起。為憲記云、長谷寺仏木元者、昔辛酉洪水之時、自近江国流出橋木也。所至火災病死、卜筮所此祟也。于時大和国流至住人出雲大満心発願、吾以此木十一面観音像。人夫曳之、上下合オープンアクセス NDLJP:87力至城下。郡只有発願之心、全無造仏之力。然間大満〔早イ〕世矣。木経八十余年、其里疾病盛発、村人同心、曳棄於長谷川之上、又経卅年。爰沙弥徳道有仏志。養老四年移置峯上。徳道無力悲、積年朝暮向木礼流涙。於是藤原朝臣房前大臣俄蒙綸旨、下行造料。仍神亀四年造畢高二丈六尺十一面観音像。徳道夢見神人告云、此山北峯在大巌矣。掘顕奉此像。覚後更昇見有方八尺大面石平如_掌。〈徳道緑起文。〉」孝謙天皇建立西大寺之時、於塔婆欲八角七重之由、被合長平大臣之処、長平申云、四角五重可足歟。被八角七重者、為国土之費歟云々。依之被四角五重畢。大臣者存公平申為後生之責、於冥途焼銅柱云々。長平子息病患之時、請名徳僧数日加持之。或日傍人俄託云、我是長平也。存生之時、依西大寺塔婆、於冥途銅柱、経年序之間、今閻魔王宮薫香烟、仍閻王奇烟、被由緒之処、冥官申云、日本国罪人長平息男〔従四イ〕位上藤原家、依病患、以一僧加持。件僧凝堅固之信心、替己身祈請、有効験。依志之深甚、香煙所来薫也云々。依之免苦患、今引率同門廿余人、生天上。仍為此旨来託也云々。

昔伝教大師、叡山建立之時、為中堂地之間、自地中蠣の殻を多被引出云云。大師奇而被申比良明神。明神答云、件事、吾の世事にあらず。古人語り侍れば、此所依布円宗法文之地、諸海神等集会して、此山を築きたる由語り侍りしかば、海底の蠣の殻等出し侍る歟。件事能久しく罷成る事なり。浄飯王の悉達太子、成仏得道して、教化諸衆生之由承り侍りしは近事也。老後所労依易行歩、不参詣侍りき云々。

天台実幢院被安置塔婆之御舎利。貞元之頃、為雷公之。爰成安阿闍梨、争でかさる事あらむとて、加持して可慥返置之由、責伏之間、黒雲出来、件舎利筥返置畢。但瑪碯のとびら二枚不返置云々。而元暦大地震之時、件瑪碯之扉出来、奇見之処御舎利失了。

寛仁四年九月頃、狂女一人登叡山、在総持院廊下云々。仍諸僧等欧縛追下畢。古老僧等歎息云々。我山建立以後、未此事。昔迷路之女、登大嵩辺、忽風雨殊甚、天気動揺。是山王被登山之女也。而今日無風雨。是山王霊験滅亡歟。可オープンアクセス NDLJP:88事也云々。

入道殿被高野奥院之時、大師開御戸出御袖給云々。依之被進五箇荘云々。

六波羅太政入道、安芸国司之時、重任之功に被高野大塔之間、材木を手自被持けり。其時着香染之僧出来云、日本国之大日如来は、伊勢太神宮と安芸の厳島なり。太神宮は余り幽玄也。汝適為国司早可仕厳島云々。守奇之、貴房をば誰とか申すと問ひければ、奥院の阿闍梨となむ申すといひて、搔消す様に失せにけり。

此僧をば国司の外、余人不之。其後神拝之頃、詣厳島。巫女に託宣して云、君は可従一位太政大臣云々。能盛・後藤太とて共にありけるを、同託宣云、汝も可当国守云々。果不相違云々。

園城寺鐘者、龍宮鐘也。昔〈時代不分明尋記粟津有男、〈号粟津冠者武勇者也、〉立一堂、欲鐘、為鉄下向出雲国。渡海之間大風俄起浪入船。乗船之輩連声叫喚。其時小船一艘、小童取梶出来云、主人可移此船、不然可海云々。乍迷惑乗移之間、風浪忽然而止。本船於此処待之由、小船入海底思之間到龍宮。宮殿楼閣不説云々。龍王出逢云、為讎敵従類多被亡了。今日殆可害、仍所迎申也。時漸至可然者、一矢可射給云々。冠者諾之昇楼相待之処、敵大蛇引率若干之眷属来臨、向ふざまにかぶら矢にて射る。入口中舌根を射切つて、喉下に射出畢。依之大蛇退帰之間、追ひざまに又射中程畢。爰龍王出来喜悦云、此悦には雖何事願可与云々。冠者云、雖一堂、未鐘、仍為鉄下向出雲国之間、不慮所参仕也云々。龍王甚安き事なりとて、龍宮寺に所釣之鐘を下して与之畢。帰粟津立堂。事移時変件寺破壊之後、纔住持之法師一人為鐘主、而去年頃鎮守府将軍清衡、施砂金千両於寺僧千人。其時三綱某乞集五十人之分、以五十両金広江寺法師。是件鐘主法師成悦売件鐘畢。上座不時刻、招寄寺僧等、終夜顛来畢。所園城寺也。件広江寺、天台末寺也。後日衆徒漏聞此事、搦件鐘主法師、不日令湖云々。

永保元年六月九日、為叡山僧徒三井寺焼。其日記云、御願十五所・堂院七十九所・塔オープンアクセス NDLJP:89三基・鐘楼六所・経蔵十五所・神社四所・僧房六百廿一所・舎屋一千四百九十三宇。広考天竺震旦本朝、仏法興廃未此破滅。智証大師入滅以後、歴百九十一年此災云々。保延寺焼之時、山僧等為悔件罪、書千部如法経。十種供養之時、忠胤僧都説法云、依此焼園城寺之罪、地獄に留まる事はよも候はじといひける時、衆徒等頗心安く思ひたる気色なりけるに、後詞云、無間地獄を打通して、風輪際へいなんずればといひける時、衆徒等皆笑ひけり。又園城寺の僧徒はにくかるべし。我山を欲傾ば、仏法経論は有何過。徒に灰燼とはなるぞといひける時、三千衆徒一同悲泣云々。

良真〔西京イ〕座主之時、寺を焼きたりけるが、僧房計を焼きて、衆徒等帰山したりければ、座主聞之、堂舎経蔵を焼きたらばこそ、甲斐にてあらめ。僧房計は無詮事なりといはれければ、翌日又発向して、始金堂、堂宇経蔵皆焼払ひけるに、頼義の舎弟なる僧のありけるが、命を棄てゝ数千僧の中へ分入りて、経蔵の宗として、聖教を取出したりける。大師御入唐の時の文書等也。件文乍不具も末代の宝物にて、被置奥院也云々。

保安二年閏五月三日、園城寺焼失之頃、或時僧夢想、有褐冠之人、尋問誰人之処、答云、我新羅明神眷属也。為護此寺経廻也云々。夢中嘲之曰、仏像経論堂舎僧房尽成灰燼畢。可守護何物哉。無益守護歟云々。各行分之後、又着直衣耆老之人出来、見容体直也人。其眉長埀及口程、鬢髪皓白也。件人曰、汝所云之事、甚似仔細。本守護此寺之素意、更不堂舎僧房、唯守護出離生死之志。如此患難之時、僧徒多発道心修学、我守此人也云々。此事権大僧都覚基〈園城寺別当〉保延寺焼之時、参礼部御許語申也。

万寿二年五月頃、関寺有材木之牛。此牛大津住人等夢、多見迦葉仏化身之由。此事披露之間、貴賤上下挙首参詣彼寺、礼拝此牛云々。而件牛両三日有病気、六月二日太重、入滅之期可近歟。然間件牛出牛屋、漸歩登御堂正面、廻〔堂イ〕二匝、道俗涕泣。其後臥仏前、寺僧等念仏。又更起相扶廻一匝也。帰本所臥云々。不幾程入滅云々。実可化身歟云々。

オープンアクセス NDLJP:90清水寺者、康平六年八月十八日焼亡。但観音像奉取出云々。又応徳四年三月八日夜同焼亡。又永万元年八月焼亡山門、衆徒焼之云々。

珍皇寺別当某云、当寺鐘者、慶俊僧都鋳之。土に埋経三ヶ年、可掘出之由契つて入唐畢。而一年半計ありて、本寺の住僧等掘出之。鎚之音聞唐土。仍慶俊僧都示云、我寺之鐘声こそ聞ゆなれ。不鎚に六時に鳴らさむと思ひつるものを、太だ口惜し云々。僧都は弘法大師の祖師也。

粟田左大臣在衡、文章生之時、参詣鞍馬寺、於正面東間礼之間、十三四歳童来傍同為礼、七返計と思ひけれども、此小童之礼不終の前に、し果てたらんは悪かりなむと思ひて、不意奉礼之間、既満三千三百卅三度之時、此童失畢。爰在衡成奇異之思、致渇仰之信然。而窮屈之余、聊睡眠之間、先童装束如天童、自御帳之中出来云、官右大臣、歳は八十二云々。其後昇進如雅意〈任大臣之時無饗云々。〉左大臣八十三之時、詣彼寺申云、往日右大臣八十二之由雖示現、今已如此云々。毘沙門亦夢中示給云、官は右大臣にてありしに、依奉公労左命は、あしく見たりけり。八十〔七イ〕云々。果件歳薨逝也云々。其後彼寺正面東間をば、人以称進士間云々。

延喜御時蔵人〈失其名参内家。其母奇問之。蔵人云、天気不快。母云、早可参内。我将鞍馬寺云々。蔵人参拝主上於大床子御座、召御膳〈於石炭壇庖丁。〉大風灯消。此蔵人欹〔甲イ〕折櫃、置灯於其内。三方風不消。自此朝恩日新云々。嵯峨釈迦像者、永延元年二月十一日、斎然法橋所渡也。

法成寺建立之時、自陽明門大路南に、被南大門、近衛大路を被築籠れたりけり。其時大外記頼隆真人夢想に、陽明門額地に落ちたりければ、奇問之処、額云、吾以東山命。而今依大路之末、所地也云々。依此夢北云々。此事見于経信卿記

御堂令木幡三昧給之日、法螺を禅僧等え吹かざりければ、殿下御手に取りて令吹給ふに、高くなりたりければ、時の人感じのゝしりけり。

後朱雀院御薬危急之時、後生御事を怖畏思食しけり。而御夢中入道殿〈御堂〉参給申云、造立丈六仏之人、於子孫更不悪道云々。某奉立数体之丈六、於御菩提オープンアクセス NDLJP:91思食云々。依之被合明快座主、被立丈六仏。件仏安置天台護仏院云々。

宇治殿令立平等院給之時、地形事など為示合、相伴土御門右府給。宇治殿被仰云、大門之便宜、非北向者他之便宜。北向有大門之寺侍乎云々。右府被覚悟之由。但匡房卿未だ無職にて江冠者とてありけるを、後車に乗せて被具たりけるを、彼こそ如然事は、うるせく覚えて候へとて、召出被問之処、匡房申云、有北向大門之寺は、天竺には奈良陀寺、唐土には西明寺、此朝には六波羅密寺云々。宇治殿大令感給云々。

円宗寺、本は円明寺也。而宇治殿被仰云、円明寺は、山崎寺号也。同庚午日可供養ぞと云々。依之さわぎて、円宗寺とは被改たり。

法勝寺五仏之時、覚尋僧正誤其座位。仍菩提房僧都済覚、奏聞事由立直云々。又寺号を、覚尋は大毘盧舎那寺と名づけたりけるを、菩提房改之為法勝寺云々。

三位祭主親定造宮之間、有立一堂之志。歎云、遇御遷宮間者、露命可期。怒生之間、欲此願。仍以此由合江中納言之処、中納言答云、蓮台寺は永頼祭主外内両宮御遷宮之中間、祈請神明、蒙神明之告建立也。然者雖造宮之間、能致祈請者、造営何事有哉云々。因之親定祈請所造営也。抑件蓮台寺は、安置普賢像、行法花三昧云々。件堂所前生之苦行庵室跡云々。永頼時々語前生事云々。件普賢天蓋頂鏡之中央居水精玉、玉大如橘云々。氏人之中可慶賀之時、件玉必照耀欲大慶之時は、玉ぶちの小玉等皆放光云々。故永実欲上総守之時、中史大玉半分照耀、人々怪之。上総任中逝去畢。凡霊験掲焉之砌也云々。此事外宮権禰宜常行参礼部禅門、所語申也。伊勢国蓮台寺者、祭主永頼建立也。永頼従神事之間、依仏事而送年月、為請此事、限三ヶ日籠内宮。夢中被御殿、乍驚奉見之処、三尺皆金色観音像也。仍其後所立之堂也。

土佐国胤間寺といふ山寺あり。件寺の住僧を、当国在庁相語云、我有大般若書写之大願、汝可成結縁。於用途者可沙汰。与傍輩語ひて可書と契約して、経オープンアクセス NDLJP:92年序畢。其後全不用途之沙汰。雖然此僧悦善縁之令_然、励自力漸終其功畢。仍件在庁に、彼御経こそ出来て御せ。用途は後にも可給。令書之輩多侍也。於今者可供養也云々。願主悦而展供養之間、俄辻風出来、件経巻を尽吹上虚空畢。聴聞集来之道俗、成奇怪之思之間、頃之経巻皆成白紙地。只大文字二句偈顕現于此紙。件文云、

 檀那不信故、文字留霊山

件偈于今在彼寺之宝蔵也。或人語云、檀那不信故、料紙還本土。経師有依故、文字留霊山云々。

六条坊門北、西洞院西有堂、号みのう堂。件堂は伊予入道頼義、奥州浮囚討夷之後、所建立也。仏は等身阿弥陀也。頼義造立此仏、恭敬礼拝して往生極楽必引導し給へと申しければ、うなづかせ給ひけり。十二年の間、戦場死亡の者の片耳を切集めてほして、皮〔籠イ〕二合に入れて持ちて上げたりけるを、件堂の土壇下に埋む云々。仍て耳納堂といふ也。みのは堂といふは僻事なり。

西行は俗名佐藤兵衛尉義清、散位康清之男云々。讃岐松山津といふ所にて、新院御座しけむ跡を尋ね侍りけるに、形もなかりければ、

   松山の波に流れてこし船のやがてはかなくなりにけるかな

と打詠めて、しろみねと申す所の御墓所に参りて、

   よしや君むかしの玉の床とてもかゝらん後は何にかはせむ

 
古事談第五
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。