半七捕物帳 第七巻/地蔵は踊る

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地蔵は踊る[編集]

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ある時、半七老人をたずねると、老人はわたしに訊(き)いた。
「あなたに伺ったら判(わか)ると思うのですが、几董(きとう)という俳諧師(はいかいし)はどんな人ですね」
時は日清(にっしん)戦争後で、ホトトギス一派その他新俳句勃興の時代であったから、わたしもいささかその心得はある。几董を訊かれて、わたしはすぐに答えた。彼は蕪村(ぶそん)の高弟で、二代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。
「そうですか。実はこのあいだある所へ行きましたら、そこへ書画屋が来ていて、几董の短冊というのを見せていました。わたくしは俳諧の事なぞは盆暗(ぼんくら)で、いっさい判らないのですが、その短冊の句だけは覚えています」
「なんという句でした」
「ええと……、誰(た)が願(がん)ぞ地蔵縛りし藤の花……。そんな句がありますかえ」
「あります。たしかに几董の句で、井華集(せいかしゅう)にも出ています。おもしろい句ですね」
「わたくしのような素人にも面白いと思われました」と、老人はほほえんだ。「縛られ地蔵を詠んだ句でしょうが、俳諧だから風流に藤の花と云ったので、藤蔓(ふじつる)で縛るなぞは滅多に無い。みんな荒縄で幾重にも厳重に引っくくるのだから、地蔵さまも遣り切れません。なにかの願掛けをするものは、その地蔵さまを縛って置いて、願が叶えば縄を解くと云うわけですから、繁昌する地蔵さまは年百年中縛られていなければなりません。それが仏の利生方便(りしょうほうべん)、まことに有難いところだと申します」
「どの地蔵さまを縛ってもいいんですか」
「いや、そうは行かない。むやみに地蔵さまを縛ったりしては罰があたる。縛られる地蔵さまは『縛られ地蔵』に限っているのです。縛られ地蔵は諸国にあるようですが、江戸にも二、三ヵ所ありました。中でも、世間に知られていたのは小石川茗荷谷(こいしかわみょうがだに)の林泉寺(りんせんじ)で、林泉寺、深光寺、良念寺、徳雲寺と四軒の寺々が門をならべて小高い丘の上にありましたが、その林泉寺の門の外に地蔵堂がある。それを茗荷谷の縛られ地蔵といって、江戸時代には随分信仰する者がありました。地蔵さまの尊像は高さ三尺ばかりで、三間四方ぐらいのお堂のなかに納まっていましたから、雨かぜに晒(さら)されるようなことは無かったのですが、荒縄で年中ぐいぐいと引っくくられるせいでしょう、石像も自然に摺れ損じて、江戸の末期の頃には地蔵さまのお顔もはっきりとは拝めないくらいに磨滅していました。林泉寺には門前町もあって、ここらではちょっと繁昌の所でしたが……」
何事をか思い泛(う)かべるように、半七老人は薄く眼を瞑(と)じた。それが老人の癖であると共に、なにかの追憶であることをわたしはよく知っていた。わたしは懐中の手帳をさぐり出して膝(ひざ)の上に置くと、その途端に老人は眼をあいた。
「あなたも気が早い。もう閻魔帳(えんまちょう)を取出しましたな。あなたに出逢うと、こっちが縛られ地蔵になってしまいそうで。あはははは」
地蔵縛りし藤の花――几董の句のおかげで、きょうもわたしは一つの話を聞き出した。
「そのお話と云うのは、まあこうです」と、老人は語り出した。「林泉寺は茗荷谷ですが、それから遠くない第六天町(だいろくてんちょう)に高源寺(こうげんじ)という浄土の寺がありました。高源寺か高厳寺か、ちょっと忘れてしまいましたが、まあ高源寺としてお話をいたしましょう。これもかなりの寺でしたが、この寺の門前にも縛られ地蔵というものが出現しました。林泉寺にくらべると、ずっと新しいもので、なんでも安政(あんせい)の大地震後に出来たものだそうです」
「そういう地蔵を新規に拵(こしら)えたんですか」
「まあ、拵えたと云えば云うのですが……。高源寺の住職の夢に地蔵尊があらわれて、我は寺内の墓地の隅にあって、土中に埋められること二百余年、今や結縁(けちえん)の時節到来して人間(じんかん)に出現することとなった。我を縛って祈願するものは、諸願成就うたがい無からん。夜が明ければ、墓地の北の隅にある大銀杏(おおいちょう)の根を掘ってみよ、云々(うんぬん)というお告げがあったので、その翌朝すぐに掘ってみると、果して大銀杏の下から三尺あまりの石地蔵があらわれ出たと云うわけで……。嘘(うそ)か本当か、昔はしばしばこんな話がありました。そこで、高源寺でもその地蔵さまを門前に祀(まつ)って、やはり小さいお堂をこしらえて、林泉寺同様の縛られ地蔵を拝ませる事になりました。場所が近いだけに、なんとなく競争の形です。
いつの代でもそうかも知れませんが、昔は神ほとけに流行(はや)り廃りがありまして、はやり神はたいへんに繁昌するが、やがて廃れる。そこで、流行らず廃らずが本当の神仏だなぞと云ったものですが、新しきを好むが人情とみえて、新しく出来た神さまや仏さまは一時繁昌するのが習いで、高源寺の縛られ地蔵も当座はたいそう繁昌、お線香やお賽銭(さいせん)がおびただしいものであったと云います。どうで縛るならば、繁昌の地蔵さまを縛った方が御利益があるだろうと云うわけでしょう。
その御利益があったか無かったか知りませんが、前にも申す通り、流行りものは廃れる道理で、一時繁昌の縛られ地蔵も三、四年の後にはだんだんに寂れて、参詣(さんけい)の足はふたたび本家の林泉寺にむかうようになりました。これからのお話は安政六年七月以後の事とご承知ください。去年の安政五年は例の大コロリで、江戸じゅうは火の消えたような有様でしたから、ことしの夏はふたたびそんな事の無いようにと誰も彼もびくびくしていると、六月の末頃からコロリのような病人が、又ぽつぽつとあらわれて来ました。もちろん去年ほどの大流行ではありませんが、吐くやら瀉(もど)すやらで死ぬ者が相当にあるので、世間がおだやかではありません。なにしろ去年の大コロリに悸(おび)え切っているので、寄れば触ればその噂󠄀(うわさ)でした。又その最中に不思議な噂󠄀が立ちました。高源寺の縛られ地蔵が躍ると云う……」
「地蔵が躍る……」
「笑っちゃあいけない。そこが古今の人情の相違です。地蔵が躍るといえば、あなたはすぐに笑うけれども、昔の人はまじめに不思議がったものです。たとい昔でも、料簡(りょうけん)のある人たちはあなたと同様に笑ったでしょうが、世間一般の町人職人はまじめに不思議がって、その噂󠄀がそれからそれへと拡がりました。もとより石の地蔵さまですから、普通の人間のように、コリャコリャと手を叩いて踊り出すのじゃあない。右へ寄ったり、左へ寄ったり、前へ屈(かが)んだり、後へ反ったり、前後左右にがたがた揺れるのが、踊っているように見えると云うわけです。昼間から踊るのではなく、日が暮れる頃から踊りはじめる。いくら七月でも、地蔵さままでが盆踊りじゃああるまいと思っていると、誰が云い出したのか、又こんな噂󠄀が立ちました。この踊りを見たものは、今年のコロリに執り着かれないと云うのです」
「地蔵は始終踊っているんですか」と、わたしは訊いた。
「日が暮れてから踊り出すのですが、夜なかまで休み無しに踊っているのじゃあない。時どきに踊って又やめる。それを拝もうとするには、どうしても気長に半時(一時間)ぐらいは待っていなければならない。それには丁度いい時候ですから、夕涼みながらに山の手は勿論(もちろん)、下町からも続々参詣に来る。そのなかには面白半分の弥次馬もありましたろうが、コロリ除けのおまじないのように心得て、わざわざ拝みに来る者も多い。そんなわけで、高源寺の縛られ地蔵はまた繁昌しました。
それが寺社かたの耳にはいって、役人が念のために出張すると、なるほど跡かたの無いことでもなく、地蔵は時どきに踊るのです。そこで役人もいったんは無事に引揚げたのですが、妖言妄説の取締りを厳重にする時節柄、こういうことを黙許していて善いか悪いか、次第によっては地蔵堂の扉を閉じさせて、参詣を一時さし止めなければなるまいという意見も出ましたが、それがいずれとも決着しないうちに、七月も過ぎて八月になると、その十二月から十三月にかけて大風雨(おおあらし)、七月の二十五日にも風雨がありましたが、今度の風雨はいっそう強い方で、屋根をめくられたのも、塀を倒されたのもあり、近在には水の出た所もありました。
その風雨も十三日の夕方からやんで、十四日はからりとした快晴、陽気もめっきりと涼しくなりました。日が暮れると例の如く、高源寺には大勢の参詣人が詰めかけて、お線香を供えるのもあり、お賽銭をあげるのもあり、いずれも念仏合掌して、今か今かと待ち受けていましたが、どういうわけか、今夜に限って地蔵さまは身動きもしない。待てど暮らせど、いっこうに踊り出さないのです」
「不思議ですね」
「不思議です。みんなも不思議だと云いながら、四ツ(午後十時)頃までは待っていたのですが、地蔵さまは冷たい顔をしてびくとも身動きしないので、とうとう根負けがしてぞろぞろと引揚げました。八月十四日で、今夜はいい月でした。明くる晩は月見ですから、参詣人も少ない。それから十六、十七、十八、十九の四日間、地蔵さまはちっとも踊らないので、みんな的(あて)がはずれました。
陽気も涼しくなって、コロリもおいおい下火になったので、地蔵さまも踊らなくなったのだと云い触らす者もありましたが、ともかくも地蔵さまはもう踊らないと云う噂󠄀が立ったので、参詣人もぱったりと絶えてしまいました。すると、ここに又ひとつの事件が出来(しゅったい)しました」
「どんな事件が……。やはり高源寺に起ったんですか」
「そうですよ」と、老人はうなずいた。「八月二十四日の朝、小石川御簞笥町(おたんすちょう)に屋敷を持っている、今井善吉郎(いまいぜんきちろう)という小旗本の中間(ちゅうげん)武助(ぶすけ)がなにかの用で七ツ半(午前五時)頃に、この高源寺門前を通りながら、何心なく地蔵堂をのぞくと、薄暗いなかに人らしい姿が見える。近寄ってよく見ると、ひとりの女が縛られている。女は荒縄で厳重に縛られているのです」
「縛られ地蔵んい女が縛られている……。面白いですね」
「面白いどころじゃない。女はもう死んでいるらしいので、武助もおどろきました。しかし自分は先を急ぐので、そんな事に係り合ってはいられない。丁度に表の戸を明けかかった近所の酒屋の若い者にそれを教えて、自分はそこを立去りました。さあ大騒ぎになって、近所の人たちが駈(か)けあつまると、女は十九(つづ)か二十歳(はたち)ぐらい、色白の小奇麗(こぎれい)な娘ですが、見るからに野暮な田舎娘のこしらえで、引っ詰めに結った銀杏返しがむごたらしく頽(くず)れかかっていました。まったくあなたの云う通り、縛られ地蔵に女が縛られていて、しかもそれが死んでいると云うのですから、普通の変死以上にみんなが騒ぎ立てるのも無理はありませんでした」


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寺門前の出来事であるから、高源寺から寺社方へ訴え出て、係り役人の検視を受けたのは云うまでもない。女は縊(くび)られて死んだのである。その死体は石地蔵をうしろにして、両足を前に投げ出し、あたかも地蔵を背負ったような形で、荒縄を幾重にも捲(ま)き付けてあった。その縄が彼女(かれ)の首にもかかっていたが、そこで絞め殺されたのではなく、すでに絞め殺した死体を運んで来て、縛られ地蔵に縛り付けたものであることは、検視の役人にも推定された。
この場合、女の身許(みもと)詮議(せんぎ)が第一であるが、高源寺ではそんな女をいっさい知らないと答えた。近所の者もそれらしい女の姿を見かけた事はないと申立てた。その風俗をみても、江戸の者でないらしい事は判(わか)っていた。女は木綿の巾着(きんちゃく)にちっとばかり小銭を入れているだけで、ほかに証拠となるような品物を身に着けていなかった。死体はひとまず高源寺に預けられて、心あたりの者の申出でを待つのほかは無かった。
しかしそれが他殺である以上、ただそのままに捨て置くわけには行かない。八丁堀(はっちょうぼり)同心の高見源四郎(たかみげんしろう)は半七を呼び付けた。
「高源寺の一件はおめえも薄うす聞いているだろうが、寺社の頼みだ。一つ働いてくれ」
「女が殺されたそうですね」と、半七は眉(まゆ)をよせた。
「うむ。寺社がそもそも手ぬるいからよ。地蔵が踊るなんでばかばかしい。早く差止めてしまえばいいのだ」
「わたくしは見ませんが、子分の亀吉(かめきち)は話の種に、地蔵の踊るのを身に行ったそうですから、あいつと相談して何とか致しましょう」
半七は請合って帰った。彼はすぐに亀吉を呼んで相談にかかった。
「その地蔵の踊りをおめえは見たのだな」
「見ましたよ」と、亀吉は笑いながら云った。「世間にゃあどうして盲が多いのかと、わっしも実に呆(あき)れましたね。地蔵が踊るのじゃあねえ、踊らせるのですよ」
「そうだろうな」
「あの寺はね、林泉寺の向うを張って、縛られ地蔵を流行らせたが、長いことは続かねえ。そこで今度はその地蔵を躍らせて、それを拝んだ者はコロリに執り着かれねえなんて、いい加減なことを云い触らして、つまりはお賽銭かぜぎの山仕事ですよ。なにしろ寺でやる仕事で、町方が迂闊(うかつ)に立入るわけにも行かねえから、わっしも指をくわえて見物していましたが、今に何事か出来(しゅったい)するだろうと内々睨(にら)んでいると、案の通り、こんな事になりました。こうなったら遠慮はねえ、山師坊主を片っぱしから引挙げて泥を吐かせましょうか」
「そう手っ取り早くも行かねえ」と、半七はすこし考えていた。「まあひと通りは順序を踏んで、こっちでも調べるだけの事は調べて置かなけりゃあならねえ。相手に悪強情(わるごうじょう)を張られると面倒だ。そこで、その地蔵が十四日から踊らなくなったと云う……。おめえはその訳を知っているか」
「コロリもだんだん下火になったのと、寺社から何だか忌(いや)なことを云われそうにもなって来たので、ここらがもう見切り時だと諦めて、踊らせないことにしたのでしょう」
「そうかな」と、半七は又かんがえた。「それにしても、殺された女が高源寺に係り合いがあるかどうだか、そこはまだ確かに判らねえ。地蔵を踊らせたのは坊主どもの機関(からくり)にしても、女の死体は誰が運んで来たのか判らねえ。寺の坊主が殺したのなら、わざわざ人の眼に付くように、地蔵に縛り付けて置く筈(はず)はあるめえと思うが……」
「山師坊主め、それを種にして又なにか云い触らすつもりじゃあありませんかね」
「そんな事がねえとも云えず、あるとも云えねえ。ともかくも念のために、小石川へ踏み出してみよう。現場を見届けてからの分別だ」
半七と亀吉と二人づれで、神田三河町(かんだみかわちょう)の家(うち)を出たのは、二十四日の七ツ(午後四時)過ぎであったが、日が詰まったと云ってもまだ八月である。足の早い二人が江戸川端(えどがわばた)をつたって小石川へ登った頃にも、秋の夕日はまだ紅く残っていた。高源寺は相当に広い寺で、花盛りの頃には定めし見事であったろうと思われる百日紅(さるすべり)の大樹が門を掩(おお)っていた。
往来の人や近所の者が五、六人たたずんで内を覗(のぞ)いていたが、寺中はひっそりと鎮まっていた。門前の左手にある地蔵堂は、寺社方の注意か、寺の遠慮か、板戸や葭簀(よしず)のような物を入口に立て廻して、堂内に入ること無用の札を立ててあった。二人は立寄って戸の隙間(すきま)から覗くと、石の地蔵はやはり薄暗いなかに立っていて、その足もとにはこおろぎの声が切れぎれにきこえた。
「はいって見ましょうか」と、亀吉は云った。
「断わらねえでも構わねえ。はいってみよう。おめえは外に見張っていろ」
亀吉に張番をさせて、半七はそこらを見まわすと、形ばかりに立て廻してある葭簀のあいだには、くぐり込むだけの隙間が容易に見いだされたので、彼は体を小さくして堂内に忍び込むと、こおろぎは俄(にわか)に啼(な)きやんだ。試みに石像を揺すってみると、像は三尺あまりの高さであるが、それには石の台座も付いているので、手軽にぐらぐら動きそうもなかった。半七はさらに身をかがめて足もとの土を見まわした。
「おい、亀、手を貸してくれ」
「あい、あい」
亀吉も這(は)い込んで来た。
「この地蔵を動かすのだ。これでも台石が付いているから、一人じゃあ自由にならねえ」と、半七は云った。
二人は力をあわせて石像を揺り動かした。それから少しく擡(もた)げて、その位置を右へ移すと、その下は穴になっていた。周囲の土の崩れ落ちないように、穴の壁には大きい石塊(いしころ)や古い石塔が横たえてあった。
「そんなことだろうと思った」
半七はその穴へ降りてみると、深さは五、六尺、それが奥にむかって横穴の抜け道を作っている。その抜け道は幅も高さも三尺に過ぎないので、大の男は這って行くのほかは無かった。半七も土竜(もぐら)のように這い込むと、まだ三間とは進まないうちに、道はふさがって行く手をさえぎられた。彼はよんどころなく後退(あとずさ)りをして戻った。
「行かれませんかえ」と、亀吉は訊いた。
「抜け裏じゃあねえ」と、半七はからだの泥を払いながら笑った。「途中で行きどまりだ。だが、もう判った。あいつらは抜け道から土台下へ這い込んで、地蔵をぐらぐら踊らせていたに相違ねえ。へえ、子供だましのような事をしやあがる。これで手妻(てづま)は判ったが、さてその女がこの一件に係り合いがあるかねえか、その判断がむずかしいな」
小声で云いながら、二人は葭簀をかき分けて出ると、そこには一人の女が窺(うかが)うように立っていたので、物に慣れているかれらも少しぎょっとした。女は十六七で、顔に薄い疱瘡(ほうそう)の痕(あと)をばらばらと残しているのを瑕(きず)にして、色の小白い、容貌(きりょう)の悪くない娘であった。
「おめえはどこの子だえ」と、半七は訊いた。
「はい。そこの……」と、娘が門内を指さした。
門をはいると左側に花屋がある。彼女(かれ)はその花屋の娘であるらしい。半七はかさねて訊いた。
「今朝はここに女が死んでいたと云うじゃあねえか」
「ええ」と、娘はあいまいに答えた。
「その後に誰か死骸(しがい)をたずねに来たかえ」
「いいえ」
「死骸は奥に置いてあるのかえ」
「ええ」と、彼女はふたたびあいまいに答えた。
とかくにあいまいの返事をつづけているのが、半七らの注意をひいた。亀吉はやや嚇(おど)すように訊いた。
「おめえに両親はあるのか。おめえの名はなんと云うのだ」
母のお金(きん)は先年病死した。父の定吉(さだきち)は花屋を商売にしているほかに、この寺内が広いので、寺男の手伝いをして草取りや水撒きなどもしている。自分の名はお住(すみ)、年は十七であると彼女は答えた。
「おめえたちは門のそばに住んでいながら、ゆうべから今朝にかけて、ここへ死骸を持込んだことをなんにも知らなかったのかえ」と、半七は入れ代って訊いた。
「なんにも知りませんでした」
この時、ひとりの若い僧が門内から出て来た。まだ灯を入れていないが、手には高源寺としるした提灯(ちょうちん)を持って、彼は足早に通りかかったが、半七らのすがたを見て俄に立停まった。彼は仔細(しさい)らしく二人を眺めていた。
半七もすぐに眼をつけた。
「もし、お前さんはこちらのお寺さんですかえ」
「そうです」と、若い僧は徐(しず)かに答えた。
「実はこれからお寺へ行こうと思っているのですか、今朝このお堂で死んでいた女は、まだそのままですかえ」
「いや、それに就いて唯今(ただいま)お訴えに参るところで……。女の死骸が見えなくなりました」
「死骸が見えなくなった……」と、半七と亀吉は顔を見あわせた。「誰かが持って行ったのですか。それとも生き返って逃げたのですか」
「さあ。何者にか盗み出されたのか、本人が蘇生して逃げ去ったのか。それは一向に判りません」
「夜でもあることか、真っ昼間にお預かりの死骸を紛失させるとは、飛んだことですね」と、半七は詰問するように云った。
「納所(なっしょ)の了哲(りょうてつ)に番をさせて置いたのですが……」と、僧も面目ないように云った。「その了哲がちょっとほかへ行った隙(すき)に……。どうも不思議でなりません」
死骸のことに就いて、お住がとかくにあいまいの返事をしていたのも、死骸紛失の為であると察せられた。女の死骸紛失を発見したのは八ツ(午後二時)過ぎのことで、一応は墓地その他を詮索(せんさく)するやら、寺僧が集まって評議するやら、うろたえ騒いで時刻を移した末に、所詮(しょせん)どうにも仕様がないから、何かのお咎(とが)めを受ける覚悟で寺社方へ訴え出ることに決着した。若い僧はその難儀な使に出て行くところで、眼鼻立ちの清らかな顔を蒼白くしていた。彼は二十一歳で、名は俊乗(しゅんじょう)であると云った。


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俊乗に別れて、半七は寺にはいった。高源寺住職の祥慶(しょうけい)は六十余歳で、見るからに気品の高そうな白髪まじりの眉の長い老僧であった。祥慶は二人を書院に案内させて、丁寧に挨拶(あいさつ)した。
「どなたもお役目ご苦労に存じます。思いもよらない椿事(ちんじ)出来(しゅったい)、その上に寺中の者どもの不調法、なんとも申訳がございません」
地蔵を踊らせて賽銭稼ぎをするような山師坊主と、多寡をくくっていた半七らは、すこしく予想がはずれた。年配といい、態度といい、なんだか有難そうな老僧の前に、二人は丁寧に頭を下げた。
「こちらのお寺はお幾人(いくたり)でございます」と、半七は訊いた。
「わたくしのほかに俊乗、まだ若年でござりますが、これに役僧を勤めさせて居ります」と、祥慶は答えた。「ほかは納所の了哲と小坊主の智心(ちしん)、寺男の原右衛門(げんえもん)、あわせて五人でござります」
「寺男の源右衛門というのは幾つで、どこの生れですか」
「源右衛門は二十五歳、秩父(ちちぶ)の大宮(おおみや)在の生れでござります」
「これも若いのですね」
「源右衛門は門内の花屋の定吉の甥(おい)で、叔父をたよって出府いたした者でござりますが、そのころ丁度寺男に不自由して居りましたので、定吉の口入れで一昨年から勤めさせて居りました」
「その源右衛門は無事に勤めて居りますか」
「それが……」と、老僧はその長い眉をひそめた。「十日(とおか)以前から戻りませんので……」
「駈落(かけおち)をしたのですか」
「ご承知の通り、十二、十三の両日は強い風雨(あらし)で、十四日は境内の掃除がなかなか忙がしゅうござりました。花屋の定吉、納所の了哲も手伝いまして、朝から掃除にかかって居りましたが、その日の夕方、ちょっとそこまで行って来ると云って出ましたまま、ふたたび姿を見せません。叔父の定吉も心配して、心あたりを探して居りますが、いまだに在所(ありか)が知れないそうで……。本人所持の品々はみな残って居りまして、着がえ一枚持出した様子もないのを見ますと、駈落とも思われず、また駈落をするような仔細も無し、いずれも不思議がって居るのでござります」
「ご門前の地蔵さまが踊ったと云うのは、ほんとうでございますか」
「踊ったと云うのかどうか知りませんが、地蔵尊の動いたのは本当で、わたくしも眼(ま)のあたりに拝みました」
「それを拝めばコロリよけのお呪(まじん)いになると云うことでしたね」
「いや、それは世間の人が勝手に云い触らしたことで、仏の御心(みこころ)はわかりません。果してコロリ除けのお呪いになるかどうか、わたくしどもにも判りません」
この場合、住職としてはこう答えるのほかはあるまいと、半七も推量(おしはか)った。さらに二、三の問答を終って二人は庫裏(くり)の方へまわって見ると、納所の了哲と小坊主の智心が空地へ出て、焚き物にするらしい枯れ枝をたばねていた。
「女の死骸はどこへ置いたのですか」と、半七は訊いた。
「日に晒しても置かれませんので、庫裏の土間に寝かして置きました」と、了哲は指さした。そこの土間には荒筵(むしろ)が敷かれてあった。
俊乗の云った通り、死骸の紛失は八ツ過ぎで、自分が便所へ立った留守の間(ひま)であると、了哲は更に説明した。わずかの間に女が蘇生して逃げ去ったとは思われない。おそらく何物かがうしろの山伝いに忍び込んで、自分の立った隙をみて死骸を担ぎ去ったのであろうと云うのである。
成程、この寺のうしろには山がある。土地では山と呼んでいるが、実は小高い丘に過ぎない。それでも古木や雑草がおい茂って、人を化かすような古貉(ふるむじな)が棲(す)んでいるなどと云う噂󠄀もある。その山を越えると、大きな旗本屋敷が三、四軒つづいている横町へ出る。平生(ふだん)は往来も少なく、昼でも寂しい場所であるから、この方面から忍び込んで死骸を担ぎ出すようなことが無いとは云えない。
それにしても、その死骸を担ぎ去るほどならば、縛られ地蔵に縛り付けて置く必要もあるまい。いったんその死骸をさらして見せて、ふたたびそれを奪って行ったのは、何かの仔細が無ければなるまい。暮れかかる森のこずえを仰ぎながら、半七はしばらく思案に耽(ふけ)っていると、その知恵の無いのを嘲(あざけ)るように、夕鴉(ゆうがらす)が一羽啼いて通った。
引返して庫裏へはいって、半七ら土間をひと通り見まわしたが、何かの手がかりになるような物も見いだされなかった。いつの間にか日も落ちて、あたりはだんだんに薄暗くなって来たので、きょうの詮索はこれまでとして、二人は寺を出た。門を出るときに見かえると、花屋の前にはかのお住が立っていた。奥の暗い行燈のもとで夕飯を食っている五十前後の男が、お住の父の定吉であるらしかった。
「親分。どうですね」と、小半町もあるき出した時に亀吉は訊いた。
「あの住職め、いやに殊勝らしく構えているので、なんだか番狂わせのような気もしたが、あいつはやっぱり狸坊主だな」と、半七は笑った。「源右衛門という寺男は駈落をしたと云うが、可哀そうに、もうこの世にはいねえだろう」
「坊主どもが殺(や)ったのかね」
「手をおろした訳でもあるめえが、どうも生きちゃあいねえらしい。そこで、亀。おれはこれから真っ直ぐに帰るから、おめえは門前町をうろ付いて、あの寺の奴(やつ)らについて何か聞き込みはねえかどうだか探ってくれ。それから、小坊主、智心とか云ったな。あいつのことを調べてくれ」
「小坊主……。初めから仕舞まで黙って突っ立っていた奴でしょう」
「そうだ。どうもあいつの眼つきが気に入らねえ。黙ってぼんやり突っ立っているように見せかけて、あいつの眼はなかなか働いていた。あいつ、まだ十六七らしいが、唯者(ただもの)じゃあねえ。そのつもりで、あいつの身許や行状を洗ってくれ」
いくらかの小遣いを亀吉の手に握らせて、半七は別れた。神田へ帰る途中で、半七は地蔵堂の抜け道について考えた。寺男の源右衛門はこの抜け道のなかで命を果たしたのであろうと想像された。女は蘇生して身を隠したのか、死骸を運び去られたのか、その謎(なぞ)は容易に解かれなかった。
暁(あけ)がたに大雨が降って、あくる朝は綺麗(きれい)に晴れた。やがて亀吉は顔を出したが、彼はあまり元気がよくなかった。
「あれから引っ返して寺門前へ行って、食いたくもねえ蕎麦屋(そばや)へはいったり、飲みたくもねえ小料理屋へはいったりして、出来るだけ手を伸ばして見ましたが、思わしい掘出し物もありませんでした」
「そこで、大体どんなことだ」と、半七は訊いた。「あいつも悧口だから、近所へは尻尾(しっぽ)を出さねえかも知れねえ」
「まあ、聞き出したのはこれだけの事です」と、亀吉は話し出した。「住職の祥慶というのは京都の大きい寺で修業したこともあって、なかなか学問も出来るし、字なんぞも能(よ)く書くそうです。檀家(だんか)の気受けもよし、別に悪い評判も無いと云います。俊乗という坊主は男がいいので、門前町の若い女なんぞに騒がれているそうですが、これも、今までに悪い噂󠄀を立てられた事はないと云います。これじゃあみんなよい事ずくめで、どうにもなりません。近所じゃあ山師坊主だなんて云うものは一人もありませんよ」
「小坊主はどうだ」
「小坊主は十六で年の割には体も大きく、見かけは頑丈そうですが、ふだんから薄ぼんやりした奴で、別にこうと云うほどのこともないそうです。それから了哲という納所坊主、こいつも少し足りねえ奴で、悪いこともしねえが酒を飲む。まあ、こんな事ですね」
「花屋の親子は……」
「花屋の定吉、これも近所で評判の正直者ですが、可哀そうにひどい吃(どもり)で、満足に口が利けねえ位だそうです。娘のお住はなかなか親孝行で、人間も馬鹿じゃあねえと云います」
こう列(なら)べてみると、正直か薄馬鹿か、揃いも揃った好人物で、一人も怪しい者はない。亀吉が詰まらなそうに報告するのも無理はなかった。それでも半七は根よく詮議した。
「そこで、寺男はどうだ」
「源右衛門ですか。こいつは善いか悪いか、どんな人間だか能くわからねえ。なにしろ怖ろしい偏人で、あしかけ三年、丸二年もあの寺の飯を食っていながら、近所の者と碌々(ろくろく)に口を利いた事がねえというくらいで……」
「ふうむ」と、半七も首をかしげた。「仕様のねえ奴らだな」
「まったく仕様のねえ奴らで、どうにもこうにも手の着けようがありませんよ」と、云いかけて亀吉は思い出したように声を低めた。「ただひとつ、こんな事を小耳に挟んだのですが……。なんでもひと月ほど前のことだそうで、門前町のはずれに住んでいる塩煎餅屋(しおせんべいや)のかみさんが茗荷谷の方へ用達しに出ると、その途中で花屋のお住を見かけたのですが、お住は二十歳ぐらいの小奇麗な田舎娘と一緒に歩いていたそうです」
「その田舎娘というのは縛られていた女か」と、半七はあわただしく訊き返した。
「さあ、それが確かに判らねえので……」と、亀吉は小鬢をかいた。「煎餅屋のかみさんは例の一件を聞いた時、そんなものを見るのも忌だと云って、近所でありながら覗きに行かなかったので、同じ女だかどうだか判らねえと云うのですよ。もし同じ人間なら面白いのですが……」
「同じ人間だろう。いや、同じ人間に相違ねえ」
「そうでしょうか。かみさんの話じゃあ、お住は薄あばたこそあれ、容貌(きりょう)は悪くねえ。連れの娘はあばた無し、容貌もいい。顔立ちが肖(に)ているので、ちょいと見た時には姉妹(きょうだい)かと思った……」
「おい、亀。しっかりしてくれ」と、半七は笑い出した。「おめえにも似合わねえ。それだけ種が挙がっているなら、なぜもうひと息踏ん張らねえ。よし、よし。おれがもう一度出かけよう」
「出かけますかえ」
「むむ。一緒に来てくれ」
五ツ半(午前九時)ごろに二人はふたたび小石川へ出向いた。その途中で何かの打合せをして、高源寺の門前に行き着くと、地蔵堂はきのうの通りに鎖(とざ)されていた。門内にはいると、花屋の定吉と納所の了哲が鋤(すき)や鍬(くわ)を持って何か働いていた。
「なにを働いているのです」と、半七は近寄って声をかけた。
二人は不意に驚かされたように顔を見合せていた。殊に定吉は吃であるから、こういう場合、すぐに返事は出ないらしい。了哲も渋りながら答えた。
「けさの雨で、ここらの土が窪(くぼ)みましたので……」
「ははあ、土が窪んだので埋めていなさるのか」
云いながら眼を着けると、土はところどころ落ちくぼんで、それがひと筋の道をなしているように見られた。さらに眼をやると、その道は墓場につづいて、ある墓の前に止まっているらしい。古い墓の石塔は倒れていた。
「もし、この墓は無縁ですかえ」
「そうです」と、了哲はうなずいた。
半七は引返して花屋の前に来ると、お住は奥から不安らしい眼をして覗いていた。
「おい、姐(ねえ)さん。ちょいと顔を貸してくれ」
お住を誘い出して、半七は墓場のまん中へ行った。そこには大きい桐の木が立っていた。


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「おい、お住。おめえの姉さんはどこにいる」と、半七はだしぬけに訊いた。
お住は黙っていた。
「隠しちゃあいけねえ。ひと月ほど前に、おめえが姉さんと一緒に茗荷谷を歩いていたのを、あれはちゃんと見ていたのだ。その姉さんはどこにいるよ」
お住はやはり黙っていた。
「姉さんは殺されて、地蔵さまに縛り付けられていたのだろう」
お住ははっとしたように相手の顔を見上げたが、また俄に眼を伏せた。
「その下手人をおめえは知っているのだろう。おれが仇(かたき)を取ってやるから正直に云え」
お住は強情に黙っていた。
「あの無縁の石塔を引っくり返して、その下から抜け道をこしらえて、地蔵を踊らせたのは誰だ。おめえの姉さんも係り合いがあるだろう。姉さんの色男は誰だ。あの俊乗という坊主か」
お住はまだ俯向(うつむ)いていた。
「俊乗が姉さんを絞めたのか。一体(いってえ)おめえの姉さんは生きているのか、死んだのか」と、半七は畳みかけて訊いた。「おめえはふだんから親孝行だそうだが、正直に云わねえとお父(とっ)さんを縛るぞ」
お住は泣きそうになったが、それでも口をあかなかった。
「おめえと従兄弟(いとこ)同士の源右衛門はどうした。駈落をしたと云うのは嘘で、あの抜け道のなかに埋(うま)って死んだのだろう。その死骸はどこへ隠した」
お住はあくまでも黙っていたが、嘘だとも云わず、知らないとも云わない以上、無言のうちにそれらの事実を認めているように思われたので、半七は肚(はら)のなかで笑った。
「これほど云っても黙っているなら仕方がねえ。ここでいつまで調べちゃあいられねえ。親父もおめえも連れて行って、調べる所で厳重に調べるからそう思え。さあ、こい」
幾らかの嚇しもまじって、半七はお住を手あらく引っ立てようとする時、ふと気がついて見かえると、うしろの大きい石塔の蔭から小坊主の智心が不意に現われた。彼は薪割(まきわ)り用の鉈(なた)をふるって、半七に襲ってかかった。半七は油断なく身をかわして、その利き腕を引っ捉(とら)え、まずその獲物を奪い取ろうとすると、年の割に力の強い彼は必死に争った。
そればかりでなく、今までおとなしかったお住も猛然として半七にむかって来た。彼女(かれ)はそこらの落ちている枯枝を拾って叩き付けた。苔(こけ)まじりの土をつかんで投げつけた。眼つぶしを喰って半七も少し持て余しているところへ、それを遠目に見た亀吉が駈けて来た。彼はまずお住を突き倒して、さらに智心の襟首をつかんだ。御用聞き二人に押えられて、智心は大きい眼をむき出しながら捻じ伏せられた。
「飛んでもねえやつだ。縛りましょうか」と、亀吉は云った。
「そんな奴は何をするか判らねえ。いったんは縄をかけて置け」
智心は捕縄をかけられた。二人はお住と智心を追い立てて、もとの所へ戻って来たが、もう猶予は出来ないので、さらに了哲を追い立てて本堂へむかうと、本堂の仏前には住職の祥慶が経を読んでいた。半七らの踏み込んで来たのを見て、彼は徐(しず)かに向き直った。
「昨日といい、今日といい、お役の方がた、ご苦労に存じます。おおかたこうであろうと察しまして、今朝(こんちょう)は読経(どきょう)して、皆さまがたのお出(い)でをお待ち申して居りました」
案外に覚悟がいいので、半七らも形をあらためた。
「詳しいことは後にして、ここでざっと調べますが、まず第一に地蔵さまの一件、それはお住持も勿論、ご承知のことでしょうね」と、半七はまず訊いた。
「承知して居ります」と、祥慶は悪びれずに答えた。
「わたくしは十四年前から当寺の住職に直りました。この高源寺は慶安(けいあん)年中の開基で、相当の由緒もある寺でござりますが、先代からの借財がよほど残って居ります上に、大きい檀家がだんだんに絶えてしまいました。火災にも一度罹(かか)りまして、その再建(さいこん)にもずいぶん苦労いたしました。右様の次第で、寺の維持にも困難して居ります折柄、役僧の延光(えんこう)から縛られ地蔵を勧められました。林泉寺の縛られ地蔵は昔から繁昌している。当寺でもそれに倣(なら)って、縛られ地蔵を始めてはどうかと云うのでござります。こころよからぬ事とは存じながら、何分にも手もと不如意の苦しさに、万事を延光に任せました。さりとて今まで有りもしなかった地蔵尊を俄かに据え置くのも異なものであり、且(かつ)は世間の信仰もあるまいという延光の意見で、深川寺の石屋松兵衛(まつべえ)という者に頼みまして、一体の地蔵尊を作らせ、二年あまりも墓地の大銀杏の根もとに埋めて置きまして、夢枕云々(うんぬん)と申触らして掘出すことに致しました。それが幸いに図にあたりまして、三、四年のあいだはなかなかの繁昌で、賽銭そのほか収入もござりました」
「その延光という役僧はどうしました」
「あるいは仏罰でもござりましょうか。昨年の二月、延光は流行(はやり)かぜから傷寒(しょうかん)になりまして、三日ばかりで世を去りました。延光が歿しましたので、唯今の俊乗がそのあとを継いで役僧を勤め居ります」
「縛られ地蔵もだんだんに流行らなくなったので、今度は地蔵を踊らせる事にしたのですね。それはお前さんの工夫ですかえ」
「いえ、わたくしではありません」
「俊乗ですか」
「俊乗でもありません。石屋の松蔵(まつぞう)――松兵衛のせがれでござります。松兵衛は悪い者ではありませんが、忰(せがれ)の松蔵は博奕(ばくち)に耽(ふけ)って、云わばごろつき風の良くない人間でござります。それが縛られ地蔵の噂󠄀を聞き込みまして、当寺へ強請(ゆすり)がましい事を云いかけて参りました。あの地蔵は自分の家で新しく作ったもので、墓地の土中から掘出したなどと云うのは拵え事である。自分の口からその秘密を洩(も)らせば、世間の信仰が一時に廃るばかりか、当寺でも定めし迷惑するであろうと云うのでござります。飛んだ奴に頼んだと今さら後悔しても致し方ありません。何分こちらにも弱味がありますので、延光の取計らいで幾らかずつの金をやって居りました。松蔵のような悪い奴に魅(み)こまれましたのも、やはり仏罰であろうかと思われます」
祥慶は数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)りながら暫(しばら)く瞑目(めいもく)した。うしろの山では鵙(もず)の声が高くきこえた。
「そのうちに延光は歿しました。そのあとに俊乗が直りますと、今度は俊乗を相手にして、松蔵は時どきに押掛けてまいります。俊乗は年も若し、根が正直でござりますから、松蔵のような奴に責められて、ひどく難儀して居るようでござります。わたくしも可哀そうに思いましたが、どうすることも出来ません。そこへ又ひとり、悪い奴があらわれまして、いよいよ困り果てました」
「その悪い奴は女ですかえ」と、半七は喙(くち)を容(い)れた。
「はい。お歌(うた)と申す女で……」と、老僧はうなずいた。
お歌は花屋の定吉の姉娘であった。父の定吉も妹娘のお住も正直者であるのに引換えて、お歌は肩揚げのおりないうちから親のもとを飛び出して、武州(ぶしゅう)、上州(しょうじゅう)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)の近国を流れ渡っていた。彼女は若粧(わかづく)りを得意として、実際はもう二十四五であるにも拘らず、十八九かせいぜい二十歳ぐらいの若い女に見せかけて、殊更に野暮らしい田舎娘に扮(ふん)していた。男に油断させる手段(てだて)であることは云うまでも無い。
彼女は去年の暮ごろに江戸へ帰って、十余年ぶりで高源寺をたずねて来たが、物堅い定吉は寄せ付けないで、すぐに門端(かどばた)から逐(お)い出そうとすると、お歌は門前の地蔵を指さした。わたしの口一つで、多年ご恩になったお住持さまは勿論、お前にも迷惑がかからないとは云えまいと、彼女は笑った。
それを聞いて、定吉はぎょっとした。どうしてお歌が地蔵の秘密を知っているのかと、定吉は驚きかつ恐れて、だんだんにその仔細を詮議すると、お歌はこの頃かの松蔵と心安くしていると云うのであった。定吉はいよいよ驚いたが、こうなっては強いことも云えない。よんどころなくお歌を呼び入れて、その望みのままに俊乗に引合せると、彼もまた驚いた。迷惑ながら幾らかの口留め料をやって、無事に彼女を追い返そうとすると、お歌は案外に金は要らないと云った。お寺の迷惑にもなり、親たちの迷惑になることであるから自分は決して口外しない。その代りに、時どきのお出入りを許してくれと云った。
おとなしいような云い分ではあるが、こんな女にしばしば出入りされては困るので、祥慶は直きじきにお歌に面会して、寺へたずねて来るのは月に一度、それも近所の人に目立たないように、なるべく夜分に忍んで来てくれと云うことに相談を決めた。月に一度でも親や妹の顔が見られれば結構でござりますと、お歌は殊勝らしく答えた。
「それがやはり思惑のあることで……」と、祥慶は溜息まじりに語りつづけた。「金は一文も要らない、決して無心がましいことは云わないと申して居りましたが、お歌は慾心でもなく、色情で……。お歌はどうしてか俊乗に恋慕して居ったのでござります」
「お歌は松蔵とも係り合いがあったのでしょうね」
「さあ、本人は唯の知合いだと申して居りましたが、あんな人間同士のことですから、どういう因縁になっているか判りません」
「松蔵は相変らず出入りをしているのですか」
「はい、時どきに参ります」
お歌は色、松蔵は慾、双方から責め立てられる俊乗の難儀は思いやられた。


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「月に一度という約束でありあがら、お歌は二度も三度もまいりました」と、祥慶はまた云った。「俊乗がやがて堕落することは眼にみえて居りましたが、わたくしにはそれを遮る力がありません。お歌もさすがに昼間にはまいりませんので、幸いに近所の眼には立ちませんでしたが、仕舞には俊乗をどこへか連れ出すようになりました。可哀そうなのは俊乗で、縛られ地蔵のことも本人の発意では無し、いわば師匠のわたくしを救うが為に、こんな難儀をして居るのでござります。あるとき本人がわたくしの前に手をついて、涙を流して自分の堕落を白状いたしました時には、わたくしも思わず泣かされました。お歌のような悪魔に付きまとわれて、それを振払うことの出来なかったのは、俊乗の罪ではなく、師匠のわたくしの罪でござります。
その罪の怖ろしさを知りながら、弥(いや)が上にも罪をかさねましたのは、地蔵の踊りでござります。松蔵が執念ぶかく無心にまいりますので、俊乗も断わりました。地蔵尊の参詣人もこの頃はだんだんに遠ざかって、賽銭その他もむかしとは大きな相違であるから、毎々の無心は肯(き)かれないと申聞かせますと、それならばいい工夫がある――と云うのが地蔵の踊りで、コロリ除けと云い触らせば、きっと繁昌すると云うのでござります。忌だと云えば、縛られ地蔵の秘密をあばくと云う。俊乗も気が弱く、わたくしも気が弱く、どうで地獄へ堕ちる以上、毒食わば皿と云ったような、出家にあるまじき度胸を据えて……。いや、よんどころなく度胸を据えることになりまして……」
松蔵は石屋であるから、地蔵を動かす仕掛けは彼が引受けた。墓地にある無縁の石塔を倒して、その下から門前の地蔵堂へ通う横穴の抜け道を作った。その穴掘り役は寺男の源右衛門と納所の了哲に云い付けられたが、寺男も納所も愚直一方の人間であるので、師匠と俊乗の指図を素直に引受けた。その設計はとどこおりなく成就して、地面の下の抜け道を松蔵が最初にくぐって見た。
「穴熊(あなぐま)はうまく行ったと、本人は申して居りました」と、祥慶は云った。
「むむ。穴熊か」と、半七は思わずほほえんだ。
穴熊というのは、いかさま博奕などをする場合、その同類が床下に忍んで、細い針を畳越しに突きあげ、むしろの上に投げられた賽(さい)を自由に踊らせるのである。松蔵は穴熊の手だてを応用して、土の下から地蔵を踊らせようとしたのである。
最初の試みに成功したので、地蔵を踊らせるのは源右衛門の役になった。小坊主の智心も時どきは面白半分に手伝った。それがまた図にあたっていったんは繁昌したが、地蔵が踊るなどは奇怪であると云うので、寺社方から何かの沙汰(さた)がありそうな噂󠄀もきこえた。その詮議がむずかしくなっては面倒であるから、もうそろそろ見切りを付けようかと云っている時、八月十二日から十三日にかけて大風雨(おおあらし)がつづいた。
十四日はぬぐったような快晴であったので、月の昇る頃から源右衛門はいつものように抜け道へくぐり込んだ。しかも地蔵は踊らないで、今夜の参詣人を失望させた。源右衛門も再び出て来なかった。不思議に思って、智心をくぐらせてやると、抜け道は途中で行きどまりになっていた。二日つづきの風雨に地面の土がゆるんで、あたかも源右衛門の上に落ちかかったらしく、彼はそのまま生き埋め最後(さいご)を遂げたのであった。
その報告におどろかされて、寺中の者どもは駈け付けた。了哲と定吉が手伝って、ともかくも源右衛門を穴から引出したが、彼はもう窒息していた。もちろん表向きにすべき事ではないので、世間へは駈落と披露して、その死骸は墓地の奥に埋葬した。さなきだに見切り時と思っているところへ、こんな椿事が出来(しゅったい)したのであるから、地蔵はふたたび踊らなくなった。
抜け道は何とか始末しなければならないと思いながら、まだそのままになっていると、けさの大雨で地面の土がまたもや崩れ落ちた。今度はその道筋のところどころに窪みを生じて、あたかも抜け道の通路を示すように見えて来たので、もう打捨てて置かれなくなった。他人に覚(さと)られては大事であると、了哲がその穴埋めに取りかかっているところへ、半七と亀吉がふたたび乗込んで来たのであった。
これで地蔵の問題はひと通り解決したが、お歌の一件がまだ残っている。半七はさらに訊いた。
「地蔵さまに縛られていた女はお歌で、その下手人をお前さんはご承知なのでしょうね」
「こうなれば何もかも包まずに申上げます。お歌を絞め殺したのは智心でござります」と、祥慶っは説明した。「智心は孤児(みなしご)で、十歳(とお)のときから当寺に養われて居りますが、生れつきの鈍根で、経文なども能く覚えません。それでも正直に働きます。殊に俊乗にはよく懐(なつ)いて居りました。そこで智心は平生からかのお歌を憎んで居りまして、あの女は悪魔だ。俊乗さんを堕落させる夜叉羅刹(やしゃらせつ)だなどと申して居りました」
「お歌を殺したのはいつのことです」
「十三日の晩でござります。お歌が俊乗を裏山へ誘い出して行く。その様子がいつもと違っているので、智心もそっと後を尾(つ)けて行きますと、お歌は俊乗を森のなかへ連れ込みまして、お前がこの寺にいては思うように逢うことが出来ないから、いっそ還俗(げんぞく)するつもりでわたしと一緒に逃げてくれと云う。勿論、俊乗は得心いたしません。かれこれと云い争っているうちに、お歌はだんだんに言葉があらくなりまして、お前がどうしても云うことを肯かなければ、わたしにも料簡がある。縛られ地蔵の一件を口外すれば、おまえたちは死罪か遠島だなどと云って嚇かすのでござります。毎回のことながら、この嚇かしには俊乗も困って居りますと、お歌はいよいよ図に乗って、これからすぐに訴えにでも行くような気色を見せます。それを先刻から窺っていた智心はもう我慢が出来なくなって、不意に飛びかかって、お歌の喉(のど)を絞めました。智心は年の割には力のある奴、それが一生懸命に両手で絞め付けたので、お歌はそのままがっくり倒れてしまいました」
「成程そんなわけでしたか」
智心の眼つきの穏かでない仔細はそれで判った。しかもお歌の死骸をなぜ地蔵堂へ運び込んだのか、その仔細はまだ判らなかった。祥慶は重ねて説明した。
「俊乗はお歌に迫られて、余儀なく関係をつづけて居ったので……。現に今夜もお歌に苦しめられて居ったのですが、元来は気の弱い、心の優しい人間ですから、眼の前にお歌が倒れたのを見ますと、急に悲しくなって泣き出しました。といって、医者を呼ぶ訳にも行きません。俊乗は女の死骸を抱えて、しばらくは泣いていました。智心はただぼんやりと眺めていました。やがて俊乗は叱るように智心にむかって、おまえはなぜこんな事をしたのだ、この女を殺してはならない、これから私と一緒に地蔵堂へ運んで行けと云ったそうです」
「それはどういうわけですね」
「あとで俊乗自身の申すところによりますと、その時は少し取逆上(とりのぼ)せていたのかも知れません。地蔵を縛って祈っても、自分の願が叶うのであるから、まして本人を縛って祈れば、きっと叶うに相違ないと、こう一途(いちず)に思いつめて、智心と二人でお歌の死骸を門前の地蔵堂へ運び込んで、地蔵尊にしっかりと縛り付けて、どうぞふたたび蘇生するようにと、ふた時あまりも一心不乱に祈っていたと申します」
「それで生き返りましたか」と、半七は一種の好奇心に駆られて訊いた。
「生き返りました」と、祥慶がやや厳かに云った。「すぐには生きませんでしたが、とうとう蘇生しました。俊乗は夜明け前にいったん自分の部屋に帰りましたが、宵からの疲れで、ついうとうとしているうちに、武家の中間が早朝に門前を通りかかりまして、お歌の死骸を見付けられてしまいました。こうなっては隠すことも出来ませんから型のごとく訴え出て、当寺ではいっさい知らない女だと云うことにして、ひとまず死骸を預かりました。
そこで、検視も済み、役人衆も引揚げて、死骸を庫裏の土間へ運び込みますと、それから半時も経たないうちに、お歌は自然に息を吹き返しましたので、わたくしどももおどろきました。俊乗は又もや泣いて喜びました。有合せの薬を飲ませて介抱して、ともかくも奥へ連れ込みまして、表向きは死骸紛失ということにお届けを致させました」
「お歌はそれからどうしました」
「日が暮れてから気分も快(よ)くなったと申しますので、裏山づたいに帰してやりました。本人は素直に帰ろうと申しませんでしたが、わたくしからいろいろに説得しまして、今度は俊乗にも自由に逢わせてやると約束して、無理に宥(なだ)めてともかくも帰しましたが、所詮このままに済もうとは思われません。また出直して何かの面倒を云い込んで来ることと覚悟して居りました。そこへお前さんがふたたびお乗込みになりましたので万事の破滅と、わたくしもいよいよ覚悟を決めました。智心がお手向いを致しましたのは、お歌を殺した一件で、我が身にうしろ暗いところがある為でござりましょう。しかしお歌は確かに生きて居ります」
ここまで話して来た時に、了哲が顔の色をかえて駆け込んだ。
「俊乗さんが死にました」
「どうして死んだ」と、半七は膝(ひざ)を浮かせながら訊いた。「裏山の桜に首をくくって……」
縊(くび)られたお歌は生きて、さらに俊乗が縊れたのであった。


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「お話はまずここらでお仕舞でしょう」と、半七老人はひと息ついた。「事件はちょいと面白いのですが、わたくしどもの捕物から云えば、たいして面倒な事もありませんでした」
「これに幾らかの潤色を加えると、まったく面白い小説になりそうですね」と、わたしは云った。
「なにぶん実録は、小説のように都合よく行きませんからね。こうすれば面白くなるだろうと云って、まさかに噓をまぜる訳にも行かず、まあそのつもりで聴いて頂くよりほかはありません」と、老人は笑った。「いや、まだ少し云い残したことがあります。かのお歌の一件について……
「わたしもそれを訊こうと思っていたんです。お歌はそれからどうしました」
「さあ、お歌がそれからひと働きしてくれると、小説にも芝居にもなるのですが、そこが今申すとおりの有様で……。お歌はその後しばらく姿を見せませんでしたが、その翌年の五月、詰まらない小ゆすりで挙げられて、それからいろいろの旧悪があらわれて遠島になりました。わたくしが捕ったので無いから詳しいことは知りませんが、お歌はふところに俊乗の数珠を持っていたと云いますから、よっぽど俊乗のことを思っていたに相違ありません。
遠島といえば、高源寺の住職も遠島、他は追放、これでこの一件も落着(らくぢゃく)しました。住職も弟子たちもみんな悪い人間ではなかったのですが、いったん悪い方へ踏み込むと、もう抜き差しが出来なくなって、だんだん深淵(ふかみ)へ落ちて行く。取分けて俊乗などは、いい寺にいたらば相当の出世が出来たのかも知れません。それを思うと可哀そうでもあります」
「石屋の松蔵はどうなりました」
「高源寺の噂󠄀を聞くと、こいつはすぐに影を隠しました。草鞋(わらじ)を穿(は)いて追っかけるほどの凶状でもないので、まあそのままに捨て置きましたが、あとで聞くと木更津(きさらづ)の方で変死したそうです。同職の石屋を頼って行って、そこで働いているうちに、その石屋で大きい石地蔵をこしらえている時、どうしたわけかその地蔵が不意に倒れて、松蔵は頭を打たれて死んだと云うのです。なんだか因縁話のようで、嘘は本当かよく判りませんが、まあそんな噂󠄀でした。
高源寺はその後、廃寺になってしまって、今では跡方もなくなりましたが、一方の林泉寺の縛られ地蔵は昔のままに残っています。明治以後は堂を取払って、雨曝(あまざら)しのようになっていますが、相変らずお花やお線香は絶えないようです」

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。