半七捕物帳 第七巻/薄雲の碁盤

提供:Wikisource

薄雲の碁盤[編集]

[編集]

ある日、例のごとく半七老人を赤坂の家(うち)にたずねると、老人はあたかも近所の碁会所から帰って来たところであった。
「あなたは碁がお好きですか」と、わたしは訊(き)いた。
「いいえ、別に好きという程でもなく、いわゆる髪結床将棋のお仲間ですがね」と、半七老人は笑った。「ご承知の通りの閑人(ひまじん)で、からだの始末に困っている。と云って、毎日あても無しにぶらぶら出歩いてもいられないので、まあ、暇潰しに出かけると云うだけの事ですよ」
それから糸を引いて、碁や将棋のうわさが出ると、話のうちに老人はこんなことを云い出した。
「あなたはご存じですか。下谷坂本(しもやさかもと)の養玉院(ようぎょくいん)という寺を……」
「養玉院……」と、わたしは考えた。「ああ、誰(だれ)かの葬式で一度行ったことがあります。下谷の豊住町(とよずみちょう)でしょう」
「そうです、そうです。豊住町というのは明治以後に出来た町名で、江戸時代には御切手町(ごぎってちょう)と云ったのですが、普通には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺と云うのですが、宗対馬守(そうつしまのかみ)の息女養玉院の法名を磨取って養玉院と云うことになりました。この寺に高尾(たかお)の碁盤と将棋盤が残っているのをご存じですか」
「知りません」
「吉原(よしわら)の三浦屋(みうらや)はこの寺の檀家(だんか)であったそうで、その縁故で高尾の碁盤と将棋盤を収めたと云うことになっています。高尾は初代といい、二代目といい、確かなことは判(わか)りませんが、ともかくも古い物で、わたくしも一度見たことがあります。今でも寺の什物(じゅうもの)になっている筈ですから、あなたなぞも一度ご覧になってもいいと思います。いや、その碁盤で思い出しましたが、ここにまた、薄雲(うすぐも)の碁盤というのがありました」
「それも養玉院にあるんですか」
「違います。その碁盤は深川六間堀(ふかがわろっけんぼり)の柘榴伊勢屋(ざくろいせや)という質屋から出たのです」と、老人は説明した。「ところで、その碁盤については怪談めいた由来話が付きまとっているのです。ご承知の通り、高尾と薄雲、これは昔から吉原の遊女の代表のように云われていますが、どちらも京町(きょうまち)の三浦屋の抱妓(かかえ)で、その薄雲は玉(たま)という一匹の猫を飼っていました。すると、ある時その猫が何かにじゃれて、床の間に飛びあがったはずみに、そこに置いてある碁盤に爪を引っかけて、横手の金蒔絵(きんまきえ)に疵(きず)を付けました。もちろん大きな疵でもなく、薄雲のふだんからその猫を可愛がっていつので、別に叱(しか)りもしないでそのままにして置きました」
「碁盤は金蒔絵ですか」
「なにしろその頃の花魁(おいらん)ですからね。その碁盤もわたくしは見ましたが、すこぶる立派なものでした。木地は榧(かや)だそうですが、四方は黒の蠟色(ろういろ)で、それに桜と紅葉を金蒔絵にしてある。その蒔絵と木地へかけて小さい爪のあとが残っている。それが玉という猫の爪の痕(あと)だそうで……。爪のあとが無かったら猶(なお)よかろうと思うと、そうで無い。前にも申す通り、ここに一場の物語ありと云うわけです。
ある日のこと、薄雲が二階を降りて風呂場へゆくと、かの猫があとから付いて来て離れない。主人と一緒に風呂へはいろうとするのです。いくら可愛がっている猫でも、猫を連れて風呂へはいるわけにはいかないので、薄雲は叱って追い返そうとしても、猫はなかなか立去らない。ふだんと違って、ふさまじい形相で唸(うな)りながら、薄雲のあとを追おうとする。これには持て余して人を呼ぶと、三浦屋の主人も奉公人も駈けて来て、無理に猫を引放そうとしたが、猫はどうしても離れない。
こうなると、猫は気が狂ったのか、さもなければ薄雲を魅(み)こんだのだろうと云うことになって、主人は脇差(わきざし)を持って来て、猫の細首を打落すと、その首は風呂場へ飛び込みました。見ると、風呂場の竹窓のあいだから一匹の大きい蛇が這(は)い降りようとしている。猫の首はその蛇の喉(のど)に啖(くら)い付いたので、蛇も堪(たま)らずどさりと落ちる。その頃の吉原は今と違って、周囲に田圃(たんぼ)や草原が多いので、そんな大きな蛇がどこからか這い込んで来たとみえます。猫はそれを知って主人を守ろうとしたのかと、人びとも初めて覚(さと)ったがもう遅い。薄雲は勿論(もちろん)、ほかの人びとも猫の忠義をあわれんで、その死骸を近所の寺へ送って厚く弔ってやりました。
その時に例の碁盤も一緒に添えて、その寺へ納めたのだそうですが、それから百年ほど経(た)って、明和(めいわ)五年四月六日の大火で、吉原廓内は全焼、その近所もだいぶ焼けました。猫を葬った寺のその火事で焼けて、それっきり再建しないので、寺の名はよく判りません。しかしどうして持出されたのか、その碁盤だけは無事に残っていてそれからそれへと好事家(こうずか)の手に渡ったのちに、深川六間堀の柘榴伊勢屋という質屋の庫(くら)に納まっていました。この伊勢屋は旧(ふる)い店で、暖簾(のれん)に柘榴を染め出してあるので、普通に柘榴伊勢屋。これにも由来があるのですが、あまり長くなりますから略すことにして、ともかくもこの伊勢屋では先代の頃から薄雲の碁盤というのを持っていました。物好きに買ったのではなく、商売の質流れで自然と引取ることになったのです。
そこで、養玉院にある高尾の碁盤と将棋盤、これは今日(こんにち)まで別条無しに保存されているのですが、一方の薄雲の方は大いに別条ありで、それが為にわたくしどももひと汗かくような事件が出来しました」
ここまで話して来た以上、どうで聞き流しにする相手でないと覚悟しているらしく、老人はひと息ついてまた話しつづけた。
「質屋の庫に鼠(ねずみ)は厳禁です。質に取った品は預かり物ですから、衣類にしろ、諸道具にしろ、鼠にかじられたりすると面倒ですから、どこの店でも鼠の用心を怠りません。ところが、不思議なことには、例の碁盤を預かって以来、伊勢屋の庫に鼠というものがちっとも出なくなりました。碁盤には猫の爪のあとが残っているばかりでなく、おそらく猫の魂も残っているので、鼠の眷族も畏(おそ)れて近寄らないのだろうという噂󠄀(うわさ)でした。昔はとかくにこんな怪談めいた噂󠄀が伝わったものです。また、そういう因縁付きの品には、不思議になにかの事件が付きまとうものです。
お話は文久(ぶんきゅう)三年十一月、あらためて申すまでもありませんが、その頃は幕末の騒がしい最中で、押込みは流行(はや)る、辻斬(つじぎ)りは流行る、放火(つけび)は流行る。将軍家は二月に上洛、六月に帰府、十二月にはふたたび上洛の噂がある。猿若町(さるわかちょう)の三芝居も遠慮の意味で、吉例の顔見世狂言を出さない。十一月十五日、きょうは七五三の祝い日だと云うのに、江戸城の本丸から火事が出て、本丸と二の丸が焼ける。こんな始末で世間の人気は甚だ穏かでありません。それに付けても、わたくしどもの仕事は忙がしくなるばかりで、今になって考えると、よくもあんなに働けたと思うくらいです。
その二十三日の朝のことでした。本所堅川通(ほんじょたてかわどお)り、二つ目の橋のそばに屋敷を構えている六百五十石取りの旗本、小栗昌之助(おぐりしょうのすけ)の表門前に、若い女の生首が晒(さら)してありました。女は年ごろ二十二三で、顔にうす痘痕(あばた)はあるが垢抜(あかぬ)けのしたいい女。どう見ても素人らしくない人相、髪は散らしているので、どんな髪に結っていたか判りません。その首は碁盤の上に乗せてありました」
「碁盤……。薄雲の碁盤ですか」と、わたしはすぐに訊き返した。
「そうです。例の薄雲の碁盤です」と、老人はうなずいた。「勿論、それと知れたのは後のことで、そのときは何だか判らず、ただ立派な古い碁盤だと思っただけでしたが、なんにしても女の生首を碁盤に載せて、武家の門前に晒して置くなどは未曾有(みぞう)の椿事(ちんじ)で、世間でおどろくのも無理はありません。それに就いて又いろいろの噂󠄀が立ちました。
前にも申す通り、なにぶん血なまぐさい世の中ですから、人間の首も今ほどに珍らしく思われない。現にこの六月頃にも、浪人の首二つが両国橋(りょうごくばし)の際に晒されていた事があります。しかし女の首は珍らしい。そこで、この女も隠密(おんみつ)のような役目を勤めていた為に、幕府がたの者に殺されたか、攘夷組(じょういぐみ)に斬られたか、二つに一つだろうという噂󠄀が一番有力でしたが、さてどこの者か一向に判りません。
迷惑したのは小栗家で、自分の屋敷の門前に据えてあったのですから、係り合いは逃れられません。橋の上にでも晒してあったのなら格別、この屋敷の前に据えてあった以上、なにかの因縁がありそうに思われても仕方がありません。小栗家でもひどく迷惑して、用人の淵辺新八(ふちべしんぱち)という人がわたくしの所へ駈けて来て、一日も早くこの事件の正体を突き留めてくれという頼みです。用人が来たのは検視その他が済んだ後で、二十三日の夕方でした。
用人の話によると、小栗の屋敷はどこまでも係り合いで、女の首と碁盤とはひとまずその屋敷の菩提寺(ぼだいじ)、亀戸(かめいど)の慈作寺(じさくじ)に預けることになったと云うのです。まったく関係の無いものなら、飛んだ災難です」
「武家には首はめでたいと云ったそうですが……」
「ふるい云い伝えに、元禄(げんろく)十四年正月元旦(がんたん)、永代橋(えいだいばし)の大河内(おおこうち)という屋敷の玄関に女の生首を置いて行った者がある。屋敷じゅうの者はみんなびっくりすると、主人はおどろかず、たとい女にもせよ、歳の始めに人の生首を得たというのは、武家の吉兆であると祝って、その首の祠(ほこら)を建てたという話があります。昔の武家はそんなことを云ったかも知れませんが、後世になってはそうもいきません。縁もない人間の首なんぞ押付けられては、ただただ迷惑に思うばかりです。わたくしもそれを察していたので、自分の縄張り内ではありませんが、なんとかしてやることになりました」
云いかけて、老人は笑った。
「こう云うと、たいそう俠気(おとこぎ)があるようですが、これをうまく片付けてやれば、屋敷からは相当の礼をくれるに決まっている。時どきにこういう仕事も無ければ、大勢の子分どもを抱えちゃあいられませんよ」


[編集]

この年の冬は雨が少ないので、乾き切った江戸の町には寒い風が吹きつづけた。その寒い風に吹きさらされながら、二十四日の朝から半七は子分の松吉(まつきち)を連れて、亀戸の慈作寺をたずねた。小栗の屋敷の用人から頼まれて来たことを打明けると、寺でも疎略には扱わなかった。それはご苦労でござると早速に奥へ通して、茶菓などをすすめた。
問題の首は小さい白木の箱に納めて、本堂の仏前に置かれてあった。碁盤も共に据えてあった。但しその碁盤が名妓(めいぎ)の遺物であるか無いか、又それが深川の柘榴伊勢屋から出たものであるか無いか、その当時の半七はまだなんにも知らなかったのである。二人は線香の烟(けむ)りのなかから彼(か)のふた品を持出して、縁側の明るいところでいちいちに検(あらた)めた。
用人はあくまでも無関係のように云っているが、そこに何かの秘密がないとは限らない。半七は住職に逢(あ)っていろいろの質問を試みた後に、いずれ又まいりますと挨拶(あいさつ)して、門前町の霜どけ路へ出た。
「いい塩梅(あんばい)に風がちっと凪(な)ぎましたね」と、松吉は云った。
「もう午(ひる)だ。そこらで飯でも食おう」
半七は先に立って、近所の小料理屋の二階へあがった。誂(あつら)え物の来るあいだに、松吉は小声で訊いた。
「親分。どうです、見込みは……」
「まだ見当が付かねえ」と、半七は烟管(きせる)を下に置いた。「首だけでも大抵見当は付く。あの女は確かに堅気の素人じゃあねえ。どこかで見たような顔だが、どうも思い出せねえ」
「いや、それですよ」と、松吉もひと膝(ひざ)乗り出した。「実はわっしも見たことがあるように思うんですがね。親分もそう思いますか」
二人の意見は一致したが、さてそれが何者であるかは容易に思い出せなかった。やがて女中が運んで来た膳(ぜん)を前にして、二人は寒さ凌(しの)ぎに一杯飲みはじめた。話の邪魔になる女中を遠ざけて、松吉はまた云い出した。
「一体この一件はまったく小栗の屋敷に係り合いがないんでしょうか」
「用人はなんにも心当りがないと云っている。首になっている女の顔も曾(かつ)て見たことがないと云う。しかしそれが本当だかどうだか判らねえ。そこでこの一件は、まず第一に小栗の屋敷に係り合いがあるか無いかを突き留める事と、もう一つは、なぜあんな碁盤に首を乗せて置いたかと云うことを詮索(せんさく)しなけりゃあならねえ」
「小栗の主人は碁を打つのでしょうか」
「おれもそれを考えたが、用人の話を聞いても、住職の話を聞いても、小栗の主人は碁も将棋も嫌いで、そんな勝負事をした例(ためし)は無いと云うのだ」
小栗家の主人昌之助は三十一歳で、妻のお道(みち)とのあいだに、昌太郎(しょうたろう)お梅(うめ)の子供がある昌之助の弟銀之助(ぎんのすけ)はことし二十二歳で、深川籾蔵前(もみぐらまえ)の大瀬喜十郎(おおせきじゅうろう)という二百石取りの旗本屋敷へ養子に貰(もら)われている。昌之助と銀之助は兄弟仲も悪くない。現に五、六日前にもたずねて来て、夕飯を食って帰ったと、用人は話した。銀之助は碁を打つらしいが、それとても道楽という程ではないとの事であった。
「こうなると、碁盤の方の手がかりはねえようだ」と、半七は云った。「もし小栗の屋敷に係り合いが無いとすれば、どこへか持って行く途中、なにかの故障で小栗の屋敷の前に置き捨てて行ったと鑑定するのほかはねえ。碁盤は重い、その上に人間の首を乗せたのじゃあ、おそらく一人で持運びは出来めえ。ひとりは碁盤、ひとりは首、二人がかりで運んで行くにゃあ、余ほどの仔細(しさい)がなけりゃあならねえが……」
「そうですねえ」と、松吉も首をかしげた。
「なにしろ昼間から錨(いかり)を卸しちゃあいられねえ。早く出かけよう」
早々に飯を食って、二人はここを出た。風のやんだのを幸いに、亀戸の通りをぶらぶら来かかると、天神橋(てんじんばし)の袂(たもと)で二人づれの女に出逢った。女は柳橋芸者(やなぎばしげいしゃ)のお蝶(ちょう)と小三(こさん)である。芸者たちは半七らをみて会釈した。
「どこへ行く。天神さまかえ」と、半七は笑いながら訊いた。
「あしたはお約束で出られないもんですから、繰上げて今日ご参詣(さんけい)にまいりました」と、お蝶も笑いながら答えた。
半七は何か思い出したように、お蝶のそばへ摺(す)り寄った。
「だしぬけに変なことを訊くようだが、お俊(しゅん)は相変らず達者かえ」
「あら、ご存じないんですか。お俊ちゃんはこの六月に引きましたよ」
「ちっとも知らなかった。誰に引かされて、どこへ行った」
「深川の柘榴伊勢屋の旦那(だんな)に引かされて、相生町(あいおいちょう)一丁目に家(うち)を持っていますよ」
「相生町一丁目……。回向院(えこういん)の近所だね」
「そうです」
「お俊は薄あばたがあったかね」
「いいえ」
お蝶は小三をかえりみると、彼女もうなずいた。
「お俊ちゃんは評判の容貌(きりょう)よしで、あばたなんかありませんわ」
「そうだな」と、半七もうなずいた。
芸者たちに別れて歩き出すと、松吉はあとを見かえりながら云った。
「だれの眼も違わねえもので、あの女たちに逢った時に、わっしもふっと思い出しました。例の女は柳橋のお俊に似ていると……。だが、今の話じゃあ薄あばたはねえと云う。おなじ仲間が云うのだから間違いはありますめえ。それを聞いてがっかりしましたよ」
「むむ、おれも当てがはずれてしまった」と、半七は溜息(ためいき)をついた。「あいつらの顔をみると、急にお俊を思い出して、こりゃあ占めたと思ったが、他人の空似でやっぱりいけねえ。柳橋を引いてから疱瘡(ほうそうをしたと云えば云うのだが、例の女の顔はきのう今日の疱瘡の痕じゃあねえ。だが、おれたちの商売に諦(あきら)めは禁物だ。どうだ、帰り道だから回向院前へ廻って、お俊の様子をよそながら見届けようぜ」
お俊は相生町一丁目に住んでいるとすれば、小栗の屋敷から三、四町を隔てているに過ぎない。何ものかがお俊の首をそこまで運んで行くということがないとは云えない。あばたがあろうが無かろうが、ともかくも一度は探索の必要があると半七は思った。松吉は気のないような顔をして、親分のあとに付いて来た。
「回向院前……。回向院前……」と、半七はひとり言のように繰返した。
吉良(きら)の屋敷跡の松坂町を横に見て、一つ目の橋ぎわへ行き着いて、相生町一丁目のお俊の家をたずねると、それは竹本駒吉(たけもとこまきち)という義太夫(ぎだゆう)の女師匠の隣りであると教えてくれた者があった。
「お俊だけに義太夫の師匠の隣りに住んでいるのか。それじゃあ堅川でなくって、堀川(ほりかわ)だ」と、半七は笑った。
しかも二人は笑っていられなかった。たずねるお俊の家はいつか空家になって、かし家の札が斜めに貼られてあった。
「やあ、空店(あきだな)だ」と、松吉は眼を丸くした。
「隣りで訊いてみろ」
松吉は義太夫の師匠の格子をあけて、何か暫(しばら)く話していたようであったが、やがて忙がしそうに出て来た。
「親分。お俊の家はきのう急に世帯を畳んで、どこへか引っ越してしまったそうです。知らねえ人が来て、諸道具をどしどし片付けて、近所へ挨拶もしねえで立去ったので、近所でも不思議に思っていると云うことです。ちっと変ですね」
「引っ越しの時に、お俊は顔を見せねえのか」と、半七は訊いた。
「だしぬけにばたばた片付けに来たので、近所隣りでもよく判らねえのですが、どうもお俊の姿は見えなかったらしいと云うことです。ここらで例の首を見た者はないかと、念のために訊いてみると、その噂を聞いて、五、六人駈け着けたが、気味が悪いので誰もはっきりとは見とどけずに帰って来た。なにしろ薄あばたがあると云うのじゃあ、お俊とは違っていると云うのです」
「近所へ挨拶はしねえでも、家主(やぬし)には断わって行ったろう。家主はどこだ」
「二丁目の角屋(すみや)という酒屋だそうですから、そこへ行って訊きましょう」
二人はさらに相生町二丁目の酒屋をたずねると、帳場にいる番頭は答えた。
「お俊さんの家では二、三日前から引っ越すという話はありました。そこで、きのうの朝、知らない男の人が来て、これから引っ越すとことわって、家賃や酒の代もみんな綺麗(きれい)に払って行きましたから、わたしの方でも別に詮議(せんぎ)もしませんでした。引っ越し先は浅草(あさくさ)の駒形(こまがた)だということでした」
「お俊は柳橋の芸者だったと云うが……」と、半七は訊いた。「その店請人(たなうけにん)は誰ですね」
「お俊さんの旦那は深川の柘榴伊勢屋だそうで、店請はその番頭の金兵衛(きんべえ)という人でした」
「お俊というのはどんな女でした」
「商売人あがりだけに、誰にも愛嬌(あいきょう)をふりまいて、近所の評判も悪くなかったようです。わたしどもの店へ寄って、時どきに話して行くこともありましたが、ひどく鼠が嫌いな人で、あの家には悪い鼠が出て困るなぞと云っていました」
お俊と鼠、それを結び付けて考えても、差し当たりいい知恵が出そうもないので、ほかに二、三のうわさ話を聞いた後、半七らは角屋の小僧に案内させて、お俊の空家を一応あらためたが、ここにはなんの獲物もなかった。


[編集]

「柘榴伊勢屋の亭主は船遊びが好きで、お俊が柳橋にいる頃から、一緒に大川へ出たことがあるそうだと、角屋の番頭が何ごころなくしゃべったのは、天の与えだ」と、半七はあるきながら云った。「これから柳橋へ行って船宿を調べてみよう。案外の掘出し物があるかも知れねえ」
「だが、親分。例の首はお俊じゃあ無さそうですぜ。誰に聞いても、お俊にあばたはねえと云いますから」
「そりゃあそうだが、まあ、もう少しおれに付き合ってくれ」
無理に松吉を引摺って、半七はさらに柳橋の船宿をたずねた。ここらの船宿は大抵知っているので、その一件について聞きあわせると、柘榴伊勢屋が馴染(なじみ)の船宿は三州屋(さんしゅうや)であるとすぐに判った。三州屋の店の前には、長半纏(ながはんてん)を着た若い船頭が犬にからかっていた。
「おい、よしねえよ」と、半七は笑いながら声をかけた。「いい若けえ者が酒屋の御用じゃああるめえし、犬っころを相手に日向ぼっこは面白くねえぜ」
半七の顔をみて、徳次(とくじ)という船頭は笑いながら挨拶した。
「いいお天気だが寒うござんす。まあ、親分。お上がんなさい」
「いや、上がるまでもねえ。ちょいと店先で訊きてえことがある」と、半七は店に腰をかけた。「おかみさんは留守かえ」
「「ええ、ちょっと出まして」
徳次は女中に指図して、火鉢や茶を運ばせた。托鉢僧が来かかって、ここの店先で鉦(かね)をたたいて去るあいだ、半七らは黙って茶を飲んでいた。隣りの二階では昼間から端唄(はうた)の声がきこえた。
「そこで早速だが、六間堀の伊勢屋はこの頃も出かけて来るかえ」と、半七は訊いた。
「お俊さんと時どきに見えます。このあいだも、枯野見だと云って上手(うわて)までお供をしましたが、いやどうも寒いことで……。枯野見なんて云うのは、今どき流行(はや)りませんね。雪見だって、だんだんに少なくなりましたよ」と、徳次は笑った。
「通人が少なくなったのだろう」と、半七も笑った。「おめえなら知っているだろうが、伊勢屋に贔屓(ひいき)の相撲があるかえ」
「ありますよ。万力甚五郎(まんりきじんごろう)で……」
「万力甚五郎……。二段目だな。たいそう力があるそうだが……」
「力がありますね。まったくの万力で……。近いうちに幕へはいるでしょう」と、徳次は自分の贔屓相撲のように褒め立てた。「伊勢屋の旦那は万力にたいへん力を入れて、本場所は勿論ですが、深川で花相撲がある時なんぞも、毎日見物に出かけて大騒ぎ。万力もいい旦那を持って仕合せだと、みんなに羨(うらや)まれていますよ」
「伊勢屋のほかに抱え屋敷はねえのか」
「十万石の抱え屋敷があったのですが、可哀そうにお出入りを止められてしまって、今じゃあ伊勢屋が第一の旦那場です。万力が抱え屋敷をしくじったのも、まあ伊勢屋の為ですから、伊勢屋もなおさら万力の世話をしてやらなけりゃあならない義理もあると云うわけで……」
ことしの三月、伊勢屋の亭主由兵衛(よしべえ)は万力を連れて三州屋へ来たが、花見どきではあり、天気はいいので、大抵の芸者はみな出払って、お馴染のお俊も家にいなかった。しかし前からの約束でもないので、由兵衛はそれをかれこれ云うほど野暮でもなかった。ほかの芸者二人と万力とを連れて、屋根船を徳次に漕がせて大川をのぼった。向島(むこうじま)から堤(どて)へあがって、今が花盛りの桜を一日見物して、日の暮れる頃に漕ぎ戻って来ると、あいにくに桟橋のきわには二、三艘(そう)の船が落合って、伊勢屋の船を着けることが出来ない。船頭同士が声を掛合って、伊勢屋の一行は前の船の舳(とも)を渡って行くことになった。
由兵衛と芸者ふたりは挨拶して先に渡ったが、最後に出た万力甚五郎は、船のなかを横目で視(み)ただけで、なんの挨拶もせずに渡り過ぎようとした。その船には二人の侍と一人の芸者が乗っていたが、花見帰りであるから皆酔っていたらしく、侍のひとりは声をかけて、挨拶をして行けと云った。それでも万力は知らぬ顔をして行き過ぎて、今や桟橋へ足を踏みかけた途端に、ひとりの侍は衝(つ)と寄ってきて、万力の腰の刀を鞘(さや)ぐるみ引抜いた。そうして、自分の船の船頭にむかって、早く出せと呶鳴った。
呶鳴られて船頭は棹(さお)をとった。混み合っている中であるから、思うように棹を張ることは出来なかったが、それでも一間ほどは横に開いたので、桟橋に取残された万力はあっと驚いた。腰の物を取られたからである。
武士は勿論、力士が腰の物を取られるのも、決して名誉のことではなかったが、更に万力をおどろかしたのは、その刀は十万石の抱え屋敷から拝領の品であった。それを失っては、屋敷へ出入りすることが出来なくなる。それを思うと、万力は顔の色を変えてうろたえた。あっと云っても、もう及ばない。相手の船は一間あまりも開いてしまったので、大兵(だいひょう)肥満の彼は見を跳らせて飛び込むことは出来ない。彼は実に途方に暮れた。
その騒ぎに由兵衛も後戻りをしてきたが、これもどうすることも出来ない。こうなったら謝るのほかはないので、由兵衛は早くあやまれと万力に注意して、自分も口を添えて詫(わ)びた。万力も幾たびか頭を下げて平謝りにあやまった。こっちの弱みに付込んで、相手はこの刀を大川に投げ込むぞと嚇(おど)した。投げ込まれては大変であるから、万力はほとんど泣かぬばかりに弱り切って、結局は桟橋に両手をついて謝った。
仮りにも天下の力士たるものに、両手をついて謝らせて、相手も胸が晴れたのであろう。刀は船頭の手から無事にもどされた。由兵衛はその船頭に相当の祝儀をやって別れた。
「まあ、そう云うわけで……」と、徳次は話し続けた。「わたしも傍(そば)に見ていたのですが、相手がお武家だからどうすることも出来ません。相撲取りの腰に差しているのだから、おおかた屋敷の拝領物だろうと見当を付けて、手っ取り早く引ったくってしまうなんて、なかなか喧嘩(けんか)馴(な)れているのだから敵(かな)いません」
「だが、万力という奴も愛嬌がねえ。なぜ最初に挨拶をしなかったのだ。それじゃあ怒られても仕方があるめえ」と、松吉が喙(くち)を容(い)れた。
「それがねえ。松さん」と、徳次は更に説明した。「万力も礼儀を知らねえ男じゃあねえのだが、ちょいと面白くねえ事があって……。と云うのは、伊勢屋の旦那の馴染のお俊がその客の船に乗合せていたので……。そりゃあ芸者稼業をしている以上は、どんな客と一緒に乗っていようと、別に不思議はねえ理窟(りくつ)ですが、万力にしてみると、自分の旦那のなじみの女がほかの客の船に乗っている。それがなんだか癪(しゃく)に障(さわ)ったので……。勿論、癪にさわる方が悪いのだが、根が正直で一本気の男だから、つい癪にさわって無愛想になったようなわけで、当人だって真逆(まさか)にこんな事になろうとは思わなかったでしょう。なにしろ相手の素早いのには驚きましたよ」
「小ッ旗本の道楽者にゃあ摺れっからしが多いから、うっかり油断は出来ねえ」と、半七は笑った。「それでも、まあ無事に済んでよかった」
「ところが、無事に済まねえんで……」と、徳次は顔をしかめた。「そこはまあ、それで納まったのですが、その一件がいつか屋敷の耳にはいって、天下の力士が拝領の刀を取られて、桟橋に両手をついて謝ったなぞとは、抱え屋敷の面目にもかかわると云うので、万力はとうとう出入りを止められてしまいました。そうなると伊勢屋の旦那も、自分が花見に連れ出してこんなことが出来(しゅったい)したと云うので、今までよりも余計に万力の世話をしてやるようになったのです。伊勢屋は旧い店で、身上(しんしょう)もなかなかいいそうですから、その後楯(うしろだて)が付いていりゃあ万力も困ることは無いでしょうが、抱え屋敷をしくじっちゃあ仲間に対して幅が利かねえ。それを思うと、一概に羨ましいとばかりも云われません。当人は肚(はら)で泣いているかも知れませんよ」
「そうだろうな」と、半七も溜息をついた。「そうして、その相手の二人侍(ににんざむれえ)は、何者だか判らねえのか」
「ひとりは本所の御旅所(おたびしょ)の近所に屋敷を持っている平井善九郎(ひらいぜんくろう)というお旗本ですが、連れの一人は判りません。刀を引ったくったのは平井さんでなく、連れのお武家の方でしたが、年頃は二十一二で小粋(こいき)な人柄でした。まあ、次三男の道楽者でしょうね」
「お俊はその平井という侍とも馴染なのか」
「別に深い馴染と云うでもありませんが、まんざら知らないお客でも無いそうです。なにしろそんな船に乗合せていたお俊も災難で、本人のした事じゃあありませんが、自然に伊勢屋の旦那のご機嫌を損じるような羽目になって、その当座はちっと縺(もつ)れたようでしたが、芸者をさせて置けばこそこんな事になるのだと云うので、この六月、急にお俊を引かせる話になりました。お俊としてみれば、災難が却(かえ)って仕合せになったかも知れません。今じゃあ川向うの一つ目に囲われて気楽に暮らしているようです」
「お俊に薄あばたは無かったかね」
「あの人は土地でも容貌よしの方で、あばたなんぞはありませんよ」と、徳次は打消すように答えた。
松吉はふたたび失望したように半七の顔を見た。


[編集]

「親分、どうしますね」と、三州屋を出ると松吉は訊いた。きょうももう八ツ(午後二時)過ぎで、寒い風がまた吹き出して来た。
「強情なようだが、おれはまだ思い切れねえ」と、半七はかんがえながら云った。「殺されたのはお俊で、殺したのは万力だ」
「碁盤はお俊の家にあったのでしょうか」
「まあ、そうだろうね。伊勢屋は旧い質屋だから、流れ物か何かで、いい品を持っていて、それをお俊の家へ持込んでいたのだろう。寒いのにご苦労だが、これから六間堀へ行って、伊勢屋の様子を探って来てくれ」
「ようがす」
橋の上で松吉に別れて、半七はひとまず神田の家へ帰った。いつの世でも探索に従事する者は皆そうであるが、状況証拠と物的証拠のほかに自分の判断力を働かせなければならない。茶の間の長火鉢の前に坐(すわ)って、半七はきょうの獲物を胸のうちに列(なら)べてみた。あばたの有無などに拘泥(こだわ)るのは素人である。加害者は万力、被害者はお俊、この推定はどうしても動かないと彼は思った。
木枯しは夜通し吹きつづけて、明くる朝は下町も一面に凍っていた。その五ツ(午前八時)頃に、松吉は寒そうな顔を見せた。
「なるほど親分の眼は高けえ。やっぱりお俊らしゅうござんすよ。なにしろ、あの碁盤は伊勢屋から出たものに相違ありません。近所の同商売の者に訊いてみると、柘榴伊勢屋には先代から薄雲の碁盤という物があるそうです。その碁盤には、猫の魂が宿っていて、それを置くと鼠が出ないと云うので……」
「そうか、判った」と、半七はうなずいた。「酒屋の番頭の話じゃあ、お俊は鼠が大嫌いで、あの貸家に鼠が出て困ると云っていたそうだ。その鼠よけの呪(まじな)いに、伊勢屋から薄雲の碁盤を持込んだのだろう。そこで、伊勢屋の主人というのはどういう奴だ」
「伊勢屋の由兵衛は四十ぐらいで、女房のおかめは三十五、夫婦のあいだに子供はありません。あんまり万力を可愛がっているので、今に万力を養子にするのじゃあねえかと、近所じゃあ云っていますが、真逆にそうもなりますめえ。万力は二十一で、男もよし、力もあり、人間も正直でおとなしいから、今に出世するだろうと、世間じゃあ專ら噂󠄀をしています。その万力がどうして旦那の妾(めかけ)を殺したのでしょうかね」
「それに就いて、ゆうべもいろいろ考えたのだが、この一件は屋敷の次男坊に係り合いがあるらしい」と、半七は自信があるように微笑んだ。「小栗の次男は銀之助、ことし二十二で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という旗本屋敷へ養子に行っていると云う。これが平井という旗本の遊び仲間で、例の花見の一件のときに、万力の刀をひったくったのはその仕業だろうと思う。これが多分お俊に係り合いがあって、万力は旦那への忠義と、自分の遺恨とで、お俊の首を碁盤に乗せて、わざと本家の小栗の屋敷の前に晒して置いたのだろう」
「そんなら銀之助も一緒に殺(ば)らしそうなものですがね」
「殺らすつもりであったのを仕損じたのか、何かほかに仔細があったのか、どっちにしても万力の仕業に相違あるめえ。しかし相手は天下の力士だ。確かな証拠を挙げた上でなけりゃあ、むやみに御用の声は掛けられねえ。おめえはもう一つ働いて、銀之助の方を調べてくれ。万力の脇差を取ったのは確かに銀之助か、又その銀之助がお俊の家(うち)へ出這入(ではい)りしていたかどうだか、それをよく洗い上げるのだ」
「わかりました。じゃあすぐに行ってきます」
松吉は請合って出て行った。ひと足おくれて半七も家を出て、本所の小栗の屋敷に用人の淵辺新八をたずねた。そうして、大瀬の屋敷へ養子に行っている銀之助の行状をふたたび詮議すると、相手が主人の弟であるから、用人も最初は何かと取りつくろっていたが、半七が相当にくわしいことを探っているらし口吻(くちぶり)におどされて、迷惑そうにだんだん打明けた。それによると、銀之助はかなりの放蕩者(ほうとうもの)で、養家の両親と折合わず、あるいは不縁になりはしまいかと内々心配しているとの事であった。但しお俊という女と関係があるか無いか、そんなことは一切知らないと用人は云った。
「深川のお屋敷へは、いつごろからご養子においでになったのです」と、半七は訊いた。
「去年の秋からです」と、用人は答えた。「まあ、一年は客分のような形で、それから表向きの披露をすることになっていました。そこで無事に行けば、この十月にはいよいよ披露する筈だったのですが、どうも養子親と折合いがよくないので、まだその儘になっているような次第で……。したがって、世間では大瀬の屋敷へ行ったことを知らないで、いまだにこの屋敷にいるものと思っている人もあるそうです」
万力もその一人かも知れないと、半七は思った。しかし迂闊(うかつ)なことを云い出して、ここで用人らを騒がせるのはよくないので、半七はなんにも云わずに帰った。
その帰り道に、半七はふと思い付いて、相生町一丁目の竹本駒吉をたずねた。お俊の家のとなりである。格子をあけると、二十五六の女師匠が出て来た。相手は女であるから、いっそ正直に調べた方が面倒でないと半七は御用で来たことを云い聞かせると、駒吉は丁寧に内へ招じ入れた。
「お稽古(けいこ)の邪魔じゃあねえか」
「いいえ、誰も来ていやあしません」と、駒吉は急いで茶をいれる支度にかかった。
「もう構わねえがいい。遊びに来たのじゃあねえ」と、半七は直ぐに用談に取りかかった。「実は隣りのお俊の一件だが、あの女の旦那は深川の柘榴伊勢屋だね」
「そうです」
「伊勢屋は始終来るのかえ」
「ちょいちょい見えるようでした」
「旦那のほかに誰が来やあしねえか。若い男でも……」
「駒吉はすこし躊躇(ちゅうちょ)したが、半七の前で隠すことも出来ないらしく、正直に話した。
「ええ、時どきに若い男の人が……。お武家さんのようでした」
「泊って行くような事もあったかえ」
「泊ることは無かったようですが、いつも一人で来て、四ツ過ぎまで遊んでいたよううです。女中の話では、なんでも深川の方の人だと云うことでした」
「女中はなんと云うのだね」
「女中はお直(なお)さんと云って、十七八のおとなしい人でした。家(うち)はやっぱり深川で、大島町(おおしまちょう)だとか云っていました」
「きのう引っ越すをする時に、お直もいたかえ」
「お直さんは見えなかったようです。あとで聞くと、もう前の日あたりに暇を取って、出て行ってしまったらしいと云うことでした」
「そうすると、おとといの晩はお俊ひとりで寝ていたわけだね」
「そうかも知れません。日の暮れる頃にどこへか出て行って、夜の更けた頃に帰って来たようです。わたくしはもう寝ていましたから、よくは存じませんが、格子をあける音がしましたから、その時に帰って来たのだろうと思っていました」
「格子をあけて帰って来て、また出て行ったような様子はなかったかね」
「さあ」と、駒吉はかんがえていた。「今も申す通り、わたくしはもう寝ていましたので、半分は夢うつつで、帰って来たらしい様子は知っていましたが、また出て行ったかどうだか、そこまでは覚えて居りません」
時どきに遊びに来るという若い武家について、半七はさらに詮議をはじめた。
「その武家というのはお俊の情人だろうね」
「そうかも知れません」と、駒吉は笑っていた。「見たところ、粋な道楽肌の人でしたから……」
「相撲取りで出這入りをする者はなかったかね」
「伊勢屋旦那がたいそうご贔屓で、万力というお相撲さんが来ることがありました」
「万力はひとりで来ることもあったかえ」
「ひとりで来たことは無いようです。大抵は旦那と一緒のようでした」
「いや、有難う。判らねえことがあったら、また訊きに来るとして、きょうはこれで帰るとしよう。御用とは云いながら、稽古所へ来て邪魔して済まなかった。こりゃあ少しだが、白粉(おしろい)でも買ってくんねえ」
辞退する駒吉に幾らかの白粉代を渡して、半七はここを出た。相変らずの寒い風に吹かれながら回向院前へ来かかると、半七は呼出しの三太に逢った。
云うまでもなく、この当時の大相撲すなわち勧進相撲は春場所と冬場所の二回で、冬場所は十月の末頃から十一月にかけて晴天十日の興行と決まっていた。その冬場所が終った後で、呼出しの三太は江戸に遊んでいるらしかった。彼は半七を見て挨拶した。
「親分、お寒うございます」
「冬場所はたいそう景気がよかったそうだね」
「世間がそうぞうしいのでどうだかと案じていましたが、お蔭でまあ繁昌でした」
「いいところでおめえに逢った。少し訊きてえことがある」
回向院の境内へ三太を連れ込んで、半七は万力甚五郎の詮議をはじめた。


[編集]

日の暮れる頃に松吉は帰って来たが、その報告は小栗の用人の話に符合していた。大瀬の屋敷の養子銀之助は、その当時の旗本の次三男にありがちの放蕩者で、近所の評判もよくない。平井善九郎そのほか五、六人の遊び友達と連れ立って諸方を押廻している。万力の刀を取上げたのも銀之助の仕業で、天下の力士に両手をついて謝らせたと、彼は自慢そうに吹聴(ふいちょう)していた。
その一件の当時、その船に乗合せていたのは確かにお俊であったが、彼女(かれ)が伊勢屋に引かされた後、銀之助がその妾宅(しょうたく)へ出入りをしていたがどうかはよく判らないと云うのであった。
しかも以上の探索で半七の肚は決まったので、その翌朝、八丁堀(はっちょうぼり)同心熊谷八十八(くまがややそはち)の屋敷に行って、委細の事情を申立てた。その許可を得て、彼はすぐに深川の北六間堀へ出向いて、柘榴伊勢屋の主人由兵衛を番屋へ呼び出した。
それと同時に、本所回向院門前に住む二段目相撲万力甚五郎の宅をあらためると、家財をそのままにして万力は駈落(かけおち)をしたと云うのである。その台所の床下から首のない女の死骸(しがい)があらわれた。


「まずこんなわけで、これだけお話をすれば、もう大抵お判りでしょう」と、半七老人は云った。「女の生首を碁盤に乗せて、武家屋敷の門前にさらして置く。――事件はすこぶる珍らしいのですが、その事情は案外に単純で、別に講釈する程のことはありません」
「そこで、伊勢屋の主人を調べたら、どんなことを申立てたんです」
「さすがは大家(たいけ)の主人だけに、何もかも正直にはきはきと答えました。万力は抱え屋敷に申訳ないと云って、腹を切ろうとまで覚悟したのを、由兵衛がいろいろに宥(なだ)めて、まあ無事に済ませたのだそうです。それからお俊を引いて本所に世帯を持たせ、いわゆる囲い者にして、由兵衛が世話をしていました。前にも申す通り、お俊は鼠が大嫌い、その本所の家に鼠が出て困ると云うので、例の碁盤を持込んだのですが、由兵衛の話では不思議に鼠が出なくなったと云うことです。
それで小半年は何事もなかったのですが、十一月頃になってお俊は頻(しき)りにどこへか引っ越したいと云う。そこで、浅草の駒形の方に借家をさがして、十一月二十三日には引っ越す筈になったので、例の碁盤はいったん伊勢屋へ返すことになりました。その前日の二十二日の朝、万力が伊勢屋へ来た時にその話を聞いて、それじゃあ私が取って来ましょうと云って気軽に出て行きました。
万力はそれぎり帰って来なかったが、明くる二十三日は引っ越しの当日なので、伊勢屋から手伝いの人を出してやると、一つ目の橋のきわに万力が待っていて、お俊さんはもう駒形へ行っているから、構わずに道具を搬(はこ)び出してくれと云って、自分はどこへか立去ってしまいました。なんにも知らない手伝いの連中は家主の酒屋にことわって、お俊の家財をどしどし積み出して、駒形の引っ越し先へ送り込むと、ここにもお俊は来ていない。まるで狐に化かされたような始末です。
午(ひる)過ぎになってもお俊の姿は見えないので、手伝いの連中も待ちくたびれて、深川の伊勢屋へ報(しら)せに行きました。それは二十三日の七ツ(午後四時)近い頃で、もうその頃には小栗の屋敷の噂󠄀が深川へも響いていました。そこで、由兵衛ははっと思ったが、もう遅い。万力はやはり姿を見せないので、何が何やら判らない。迂闊に立騒いでは外聞にもかかわるので、ひそかに胸を痛めながら由兵衛はぼんやりと二、三日を暮らしていた。そのほかの事はなんにも知らないと云うのです。
こう云うと、ひどく手鈍(てぬる)いようですが、相当の大家では世間の外聞と云うものを気にかけます。殊にそれが妾の一件だなぞと云うと、なおさら世間体を気遣うので、伊勢屋の主人もどうしていいか途方に暮れて、まあ黙って成行きを窺っていたのでしょう。こうなると、主人の由兵衛に科(とが)はないわけで、ひとまず自分の家(うち)へ下げてやりました」
「下手人はやはり万力ですね」
「万力は野州鹿沼(やしゅうかぬま)の者で、それから江戸を立退いて、故郷の叔父や兄に暇乞(いとまご)いをした上で、蓮行寺という菩提寺(ぼだいじ)に参詣し、家代々の墓の前で切腹しました。人殺しの罪は逃れられないとは云いながら、年は若し、出世の見込みのある相撲を、こんなことで殺すのは可哀そうでした。
万力の叔父の甚右衛門(じんえもん)は本人の遺言だと云うので、その書置を持って江戸へ出て、深川の伊勢屋をたずねて来ました。万力が甚右衛門に打明けたところによると、二十二日に本所の家へ碁盤を受取りにゆくと、お俊はもう引っ越しの荷作りをしていたが、女中のお直の姿は見えない。お直さんはどうしたと訊くと、もう暇を出したと云う。お直さんがいては邪魔になるからだろうと、万力は皮肉らしく云うと、お俊はなんにも返事をしなかったそうです。その場は無事に碁盤を受取って帰ったのですが、それから自分の家へいったん帰って、その碁盤を床の間に置いて暫くじっと眺めているうちに、急にむらむらと殺気を生じて、お俊の首を碁盤の上へ乗せて見たくなったそうです」
「碁盤の猫が祟(たた)ったんですかね」
「祟ったのかどうか知りませんが、急に殺す気になったのだそうです。万力がお俊を狙っていたのはきょうに始まったことでは無いのです」と、老人は説明した。「お俊が旦那の眼を偸(ぬす)んで、小栗の次男銀之助を引摺り込んでいることを、近所に住んでいるだけに万力はもう知っていました。お俊が駒形へ引っ越すと云い出したのも、万力に睨まれているのが煩(うるさ)いからでした。万力は正直者ですから、お俊が旦那の眼を掠(かす)めて不埒(ふらち)を働いているのを、怪(け)しからぬ奴だと睨んでいました。殊にその不埒の相手が小栗の銀之助で、こいつのために抱え屋敷を失敗(しくじ)っているのですから、万力に取っては仇も同様、いよいよ我慢が出来ないのも無理はありません。
そこで、旦那の由兵衛にむかって、万力は内々注意したのですが、あくまでもお俊に迷っている由兵衛は取合わない。そればかりでなく、この頃は万力を少し疎(うと)んじるような気色も見える。それもおそらくお俊の讒言(ざんげん)に相違ないと、万力はますますお俊を憎むようになりました。
もう一つ、由兵衛は子供のないのを云い立てに、女房のおかめを里へ戻して、お俊を深川の本宅へ引入れるような噂󠄀がある。そんなことになれば、女房の里方の不承知は勿論、親類たちからも故障が出て、伊勢屋の店に御家騒動が起るのは見え透いている。忠義の万力としては、これも我慢の出来ないことです。それやこれやを考えると、万力はどうしてもお俊をそのままにして置くことは出来ないと、ひそかに覚悟を決めていました。
どうせお俊を殺すならば、かたきの銀之助も一緒に殺したいと思って、万力はその出入りを窺っていたのですが、あいにくにいい機会がない。そんな屈託があるためか、この冬場所の万力は白星四つ、黒星六つという負け越しで、大いに器量を下げました。そんなことで気を腐らしているところへ、お俊の引っ越し一件が出来(しゅったい)したので……。駒形へ引っ越すのは、自分の近所を離れて、自由に銀之助を引入れる料簡だろう。お直に暇を出したのも、伊勢屋の方から廻して来た女中では、なにかに付けて気が置けるためだろう。そう思うと、万力はますます腹が立ちました。
その矢先に例の碁盤を見て、万力は急に殺気を帯びて……。猫のたましいが乗移ったと云うわけでも無いでしょうが、もう銀之助などはどうでもいい、今夜のうちにお俊を殺してしまおうと断然決心して、日の暮れる頃から相生町一丁目へ出かけて、お俊の家(うち)のあたりを徘徊(はいかい)していると、どこへ行くつもりかお俊は頭巾(ずきん)をかぶって出て来ました。これ幸いと声をかけて、旦那は深川の平清(ひらせい)に来ているので、わたしがおまえさんを迎いに来たと云う。お俊も万力に対して内々用心はしていたのでしょうが、そこが運の尽きと云うのでしょう。うっかり瞞(だま)されて一つ目の橋の上まで来ると、人通りのないのを見すまして、万力は不意にお俊の喉を絞めました。相撲の力で絞められちゃあ堪りません。お俊は半死半生でぐったりとなったのを、万力は背中に負って回向院前の自宅へ帰りました。
万力は男世帯で、家には黒松(くろまつ)という取的(とりてき)がいるだけです。その黒松に手伝わせてお俊の首を斬り落し、死骸は床下に埋めました。これでますお俊は片付けてしまいましたが、もしや銀之助が泊りにでも来ているかと、万力が夜更けにお俊の家へ忍び込みましたが、誰もいないので空しく引っ返しました。隣りの駒吉が格子の音を聞いたのはこの時でしょう。それからお俊の切首を風呂敷につつんで万力が引っかかえ、碁盤を黒松に持たせて、ふたたび自分の家を忍んで出ました。
最初は銀之助の屋敷の前へ置いて来るつもりで、深川の籾藏前まで行ったのですが、その屋敷はたった一度見ただけで、しかも闇の晩なので、同じような屋敷が列んでいると、どれが大瀬の屋敷だか判らなくなってしまいました。迂闊に門(かど)違いをしては、他人の迷惑になると思ったので、万力はまた引っ返して本所へ行って、小栗の屋敷の前に置いて来たと云うわけで……。まあ、次男の恨みを本家に報いた形です。悪い弟を持った為に、本家は飛んだ迷惑、思えば気の毒でした」
「そうすると、黒松という弟子も共犯ですね」
「師匠の指図で忌とも云えなかったのでしょう。万力は幾らかの金を持たせて、夜の明けないうちに黒松を逃してやりました。黒松の故郷は遠州掛川(えんしゅうかけがわ)在ですから、念のために問合せましたが、そこにも姿を見せない。たぶん上方へでも行ったのだろうと云うことで、とうとう行くえ知れずになってしまいました。黒松なんぞは名も知れない取的ですから、別に問題にもなりませんが、万力は二段目の売出しですから、この噂󠄀が伝わると世間では驚きました。
銀之助に対する恨みがまじっているとは云いながら、万力がお俊を殺したのは我が身の慾でもなく、色恋でもなく、旦那に対する忠義の心から出たことですから、自然に世間の同情も集まると云うわけでした。この前年、すなわち文久(ぶんきゅう)二年の四月にも相撲の人殺しがありました。これは不動山と殿(しんがり)の二人が々力士の小柳平助を斬り殺して自首した一件で、その噂󠄀の消えないうちに、又もや万力の事件が出来(しゅったい)したので、いよいよその噂󠄀が高くなったのでした」
「そこで、問題のあばたはどう云うことになりました」
「前にも申す通り、わたくしどもの商売には勘が働きます」と、老人は笑った。「そのなかにはとんだ勘違いもあるのですが、この時は巧く働きました。あばたが無かろうが有ろうが、女はどうしてもお俊らしいと、わたくしは最初から睨んでいましたが、やっぱりそうでした。お俊には薄あばたがあったのですが、それを白粉で上手に塗り隠していたのです。あとで聞くと、お俊は身嗜(みだしな)みのいい女で、朝は暗いうちからお化粧を済ませて、自分の素顔を人に見せたことが無かったと云いますから、そのあばたを隠すためには本人もよほど苦心していたと見えます。
殺された晩にも、勿論お化粧をしていたのでしょうが、万力が顔の血でも洗った為に、初めて生地があらわれたのでは無いかと察せられます。折角隠していたあばたの顔を、死んだ後に晒されては、お俊も残念であったかも知れません。御家騒動を起すつもりであったかどうだか、万力の片口ばかりでは判りません。しかしその位のことは仕かねない女だという評判もありました」
最後に残ったのは、例の碁盤の一条である。それに就いて半七老人はこう語った。
「碁盤は伊勢屋へ戻されましたが、いくら薄雲の由来付きでも、もうこうなってはどうにもなりません。伊勢屋ではそれを菩提寺へ送って、大勢の坊さんにお経を読ませて、寺の庭で焼き捨ててしまったそうです。その烟りの中から女の首をくわえた猫があらわれたなぞと、本当らしく吹聴する者もありましたが、これは与太に決まっています。
銀之助は、その歳の暮れに本家へ帰りました。そうしてぶらぶらしているうちに、慶応(けいおう)四年の上野の戦争、下谷(しもや)の辺で死にました。と云っても、彰義隊(しょうぎたい)に加わったわけじゃあない。町人ふうをして、手拭(てぬぐい)をかぶって、戦争見物に出かけると、流れ玉にあたって路傍(みちばた)で往生、いかにもこの男らしい最後でした」 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。