千年の松/巻之三
【殉死の禁】一、去る万治の初め、詩経の秦風黄鳥の篇、并に朱子殉葬の論被㆑為㆑聞、殉死はもと戎狄の弊俗に出で候儀の処、近頃其君のため殉死の多きを以て、家々相誇り候俗風に有㆑之、甚不仁なる儀と久しく御歎き思召し候、内藤源助自卓江戸表へ罷登り候節、被㆓仰含㆒、今年御家中殉死御制禁被㆑遊候、源助罷下り、思召の通、御家中の者ども得心為㆑仕、書面を以て、言上仕候に付御感不㆑斜、御喜悦の趣、直に其裏に御認被㆑下候、同三年公儀にて、武家諸法度被㆓仰出㆒候節、追腹の儀、主人より堅く申含め、殉死不㆑仕様可㆑致、若し以来於㆑有㆑之者、亡主不覚悟、越度たるべし、跡目の息も不届【 NDLJP:114】可㆑被㆓思召㆒旨、諸大名へ被㆓仰渡㆒候を、垂仁帝・孝徳帝以来の御仁政にもとて、殊に御満足被㆑遊候、是中将様専ら御建議被㆑成候事と相聞え候、〈殉死御制禁、并に列国証人御免の儀、御善政の中にも、尤大なる所に有㆑之御事実、及び貞享中有賀小一郎所㆑記参考いたし、中将様御建議の趣、此書には相記し候、然る処此二つを、松平伊豆守信綱朝臣存寄の由、記せし書ども相見え候処、殉死の禁は、信綱卒去の明年にて、証人御免は、又それより一年を隔て候事と相見え候、日来其志おはせし人にてかくいふにや、〉然る処、同八年、奥平大膳亮殿家来、犯㆓御制禁㆒致㆓殉死㆒候由達㆓上聞㆒、不届に付被㆓思召㆒候、御禿可㆑被㆑遊候へども、御憐哀の御沙汰にて、御知行の内二万石被㆑減、羽州最上へ所替被㆓仰付㆒、諸大名へも御制禁可㆓相守㆒旨、上意有㆑之、是又中将様被㆓仰上㆒候儀有㆑之由に候、
【備荒儲蓄】一、同年、当年は諸国豊年に有㆑之、会津表山中はちと冷え過ぎしかど、無㆑之処も有㆑之候得共、一体作方宜しき様相聞え候、今年の秋御意被㆑成候は、百姓共農隙の節は、凶年を兼ね、葛・蕨の類の糧を、取置き候様に、可㆓申付㆒候、飢饉の時分、飢ゑざる心懸は、豊年の節可㆑仕候、此段郡奉行ども、常々無㆓断絶㆒可㆓申付㆒候、代官などの儀も、年貢を取立て候一偏の心得までに不㆑存、其心懸平生可㆑致との御儀に候、斯様の度々被㆑入㆓御念㆒候事故、諸役人迄思召を得心仕り、面々の身に引懸け、精入れ相勤め候事に有㆑之、既に南山御蔵入は山中故、度々不作致候事に付、粟・稗の雑穀迄も蓄へ候様御申付け、寛文の末の頃には、飢饉のためにとて、味噌迄も沢山為㆑煮蓄へ置き候様、或は倹素を御教へ、或は儲蓄を御教へ、民間の儀、御苦労被㆑遊候御政道の辱き、可㆓申上㆒様も無㆑之御事に候、
【諸役の任叙を慎む】一、常々の御物語に、大事の御役は、相応の者無㆑之時は、御闕け被㆑置候迚も、其任にあたらざる者は、不㆑被㆓仰付㆒方宜しき物に候、但兼務などは各別に候由、御意被㆑成候、御家中の侍ども、日来の生立、堪否の品々御心被㆑付、御医被㆑置被㆓召仕㆒候、其筋の儀は、頭々申上候趣被㆓聞召㆒候上、被㆓仰付㆒事に候へども、蟠り有㆑之者は、一切御得心不㆑被㆑遊候、寛文の頃奉行の面々へ被㆓仰含㆒候は、諸役人の吟味油断の様思召候間、しかと可㆑仕候、其身才覚なく裁判なき抔は、科に無㆑之、其儘差置き候儀、申付け候者の不念に候、又何程才覚調法にても、蟠り有㆑之者は、其者の科に候条、急度可㆓申付㆒旨、御意被㆑成候、下々の事(すカ)なら 、御役の申付方に付、被㆓仰出㆒候儀を、爰に相記し候、此頃御蔵入伊北築ケ谷村の肝煎に、伊兵衛と申す者を、申付け可㆑然由、御蔵入郡奉行申上候処、先年仁兵衛と伊兵衛と出入の事、能く御覚被㆑成候、泉田村総百姓仁兵衛すゝめを以て、伊兵衛不届仕候由、二十箇条余書立て、目安差【 NDLJP:115】上候、其目安の内、大概申分三四箇条、申晴らし不㆓相成㆒候由、此三四箇条申分不㆓相成㆒儀、伊兵衛不届無㆑遁様に、穿鑿の時も、被㆓聞召届㆒候、伊兵衛事うはべの賢き物にて、何かたに有㆑之候ても、其所の者にたてをいたし、能く思れ候様に致候と思召し候、第一出入の節不義の所、今以て申分ならざると相見え候、いかに下々とは申しながら、人をあぐるには、斯様の所能く心を付け吟味仕り候尤に候由、御意被㆑成候、御得心不㆑被㆑遊候、又郷頭の儀威勢有㆑之、諸氏恐頓仕候由被㆓聞召㆒、被㆓仰出㆒候は、其身不調法にても、万づ律義に相勤め候へば、一段の儀に候、才覚にても蟠る者に候へば、小百姓の労に相成り、風俗の為不㆑宜候間、此段取分郡奉行内々心懸可㆑遂㆓吟味㆒旨、御意有㆑之、或時郷頭の内、病死致候者有㆑之、其子裁判宜しき者に相見え、郷頭筋の者に候間、跡役申付け可㆑然由、申上候節、被㆑仰候は、他人に郷頭役を勤むべき者無㆑之ば、可㆓申付㆒候、其身郷頭の筋と申す事、一切心得不㆑被㆑遊候、子孫と継ぎ申付け候儀不㆑宜候、代々左様にては、自然と威勢を盗み、百姓共を掠め、組中の者も主人同前の様に恐れ、不時の事有㆑之節、一揆の頭とも成候事に候、和漢ともに不㆑宜事ども有㆑之儀に候間、他人に裁判宜しき者有㆑之候はば、新に其者を申付け、郷頭筋の者をば止め候て、尤に思召し候、御仕置致し候は、斯様の勘弁無㆑之候ては、不㆑叶との事に候処、其勘弁不㆑至歟と、思召し候由被㆓仰遣㆒候、
一、同三年癸卯、公方様先年日光山御参宮の御沙汰有㆑之、御延引被㆑遊候処、今春二月十七日御登城の節、当四月公方様日光山御参詣候時分、江戸御留守居の儀㆓、於御前㆒被㆑為㆑蒙㆑仰、其節は、桜田御屋敷御詰被㆑成様にとの御事にて、四月十二日より桜田御屋敷へ御引移被㆑遊候、其日御登城御目見被㆓仰上㆒、依㆓上意㆒御広敷へ、初めて御登り被㆑成、老女衆岡野殿・矢島殿・土佐殿へ御逢被㆑成、御台様より、御杉重・鮮鯛御頂戴被㆑遊候、十三日公方様御発駕、廿四日還御迄、無㆑恙御留守被㆑遊且又日光街道高原峠へ、御番所被㆓相建㆒、御固の御人数被㆓差出㆒候、還御の節、御前へ被㆑為㆑召、御悉の上意にて、御手づから昆布・搗栗御頂戴被㆑遊候、
一、同年春、御領中村々十三四年以前より、米価は下直に無㆑之候得共、其時より、免は上り候故に、可㆑有㆑之哉、一両年以来、御年貢皆済急に及び、免相にて三分九厘余御用捨被㆑下候はゞ、村々吟味いたし、従㆓強弱㆒差引致したき由、郡奉行申上候趣、【 NDLJP:116】被㆓聞召届㆒候、困窮の所々、能く救立て、禿百姓質劵に出で候者無㆑之様、随分勘弁可㆓申付㆒候、よき村へ御用捨は不㆑可㆑然候、総ての手当、其道理に叶ひ、郷村甘き百姓の風俗、正路に可㆑成儀に候はゞ、たとひ過分の御手当に候とも、可㆑被㆓仰付㆒候、然れども其頃合能き程の吟味、如何可㆑有㆑之と思召し候、諸事入念御手当の所、宜しく相計ひ可㆓申付㆒旨、被㆑仰候に付、其秋に至り、明細相改め、二分一厘五毛余の免下に相当り候段申上候、
【正之の領内施政の方針】一、同年秋、友松勘十郎氏興、江戸より罷下り候時分、被㆓仰含㆒候趣、御家老・奉行へ為㆓申聞㆒候は、永々江戸に御詰被㆑遊候間、御暇被㆑進候て可㆑有㆑之、左候はゞ、御下向被㆑遊、御自身御身を被㆑為㆑詰、御政道可㆑被㆓仰付㆒候間、下々急度御仕置相守可㆑申と思召し候、夫迄に其通にては、難㆑被㆑為㆑置儀に付、今度有増被㆓仰遣㆒候、其許の儀各々被㆓任置㆒候儀に候へば、定めて油断有るまじく候へども、朝暮無㆓御心許㆒思召し候に付、御眼病各存知の通故、御筆被㆑為㆑執候儀無㆓御座㆒候へども、あかりを被㆑為㆑請、御自筆にて漸御書御調被㆑成、被㆓下置㆒候事に候間、被㆓仰出㆒候趣を守り、先各万事慎み、倹約に可㆑被㆑改候、御家中并に御領中あまたの人数に候へば、各少しも粗略に存候ては、諸人安く有㆑之まじく候間、昼夜深く心を尽し可㆑被㆑申候、左候はば何卒存寄も出来、御家中の風俗も能く、百姓どもゝ心易く可㆑有㆑之被㆓思召㆒候条、返す〳〵も少しも被㆑致㆓油断㆒まじき由、御意被㆑成候由為㆓申聞㆒、何れも謹んで承知仕候、色々被㆓仰遣㆒候中にも、御政事に預り候面々、心持の第一は、万事法度を出し候儀、仮初の事にても大切なる儀に候間、猥に法度を立て申すまじく、まづは得㆓御内意㆒候様可㆑仕、兼ねて被㆓仰付㆒候通、万事倹約候儀、無㆓油断㆒深く心を用ゐ、面々其身を慎み、倹約をいたし候はゞ、下々相守り、風俗も直り可㆑申と思召し候、且又民間の儀、甚無㆓御心許㆒候間、奉行菅勝兵衛・赤羽市右衛門儀、巡見いたし、民の情を察し、苦しむ所、風俗の体をも見候て、万事存寄も出来可㆑申、少しも民の苦に不㆓相成㆒様心懸可㆓相廻㆒候、民間前々より非法なる政道可㆑有㆑之候へども、其様子無㆓御存知㆒故、御改可㆑被成様も無㆑之候、弥非法なる儀於㆑有㆑之は、御勘弁の上、御改可㆑被㆑成候間、致㆓吟味㆒可㆓申上㆒由、御丁寧に被㆓仰出㆒候、其外御郡中御仕置かた四箇条被㆓仰下㆒候は、第一は九十歳以上の者、不㆑撰㆓貴賤男女㆒、扶持可㆓宛行㆒、第二は火葬は甚不孝たるの間、能く教可㆑申、第三は殺㆓産子㆒候事、為㆓不慈㆒の条、能く教可【 NDLJP:117】㆑申、第四は禰宜・巫祝等、奇怪なる事申す者有㆑之、則致㆓禁制㆒、其外異色異言の輩、急度可㆓追払㆒由、御書付被㆓差下㆒尚又勘十郎へ被㆓仰含㆒候は、土俗久しく火葬に習ひ来り候処、死後とても親の体を焚き候事は、不孝なる事に候、【火葬の禁】子ども多く持ち候とて不㆓取上㆒、産子を失ひ候儀も、旧来の風俗候処、是又不慈なる事に被㆓思召㆒候、此度急度御法度に被㆓仰付㆒候にては、無㆑之候へども、下々へ平日無㆓油断㆒申教へ、其中に教も不㆓聞入㆒者有㆑之候はゞ、中将様殊の外、御嫌ひ被㆑成候儀に候間、立㆓御耳㆒候はゞ、不㆑可㆑然由申聞け候はゞ、速に可㆓相止㆒候、尤送葬の式も美々しく致し、厚葬不㆑然と思召し候ては無㆑之、先づ火葬にさへ不㆑致候へば、能き事に思召し候由、御下知の条々委しく承知仕り、御仁厚の御仕置ども、末々まで行渡り候様申付け候、【老養】此時に町中は不㆑及㆑申、御領中御蔵入迄、九十以上の者人数相改め、百五十五人一人扶持づゝ被㆓下置㆒候、此以来毎年御改にて被㆑下候、此度老養被㆑下候儀、前代未聞の御善政、広大の御慈悲候とて、諸人無㆑限悦び、百五十五人の者共の内、歩行叶ひ候者は、少々若松へ参り御礼申し、其外の者どもは、子ども兄弟差越し、何れも感涙を流し、難㆑有奉㆑存候由、且総て諸役人并に下々、民間の往来に非分を以て、下民を不㆑悩、無益の事に、一人も不㆓召仕㆒様に可㆑致、民を労をも不㆑顧、馳走振に費㆓民力㆒候儀は、不㆑可㆑然候、旅人相煩ひ候はゞ、亭主粗略に不㆑致、医者をかけ、随分療治可㆑為㆑致由、被㆓仰出㆒候も、此時の儀と相聞え候、
【郷村籾蔵の配置】一、同年、一万石の地に、一箇所宛籾蔵被㆓相建㆒、二万三千俵五斗入にて、御蓄被㆑置、飢僅の御救に被㆓成置㆒候、此後尚又被㆑増、五万俵高迄御蓄被㆓仰付㆒候、
一、同年冬、民間の儀、平生御苦労被㆑成、少しも粗略にては、御領中の万民安穏に有㆑之まじくと思召し候、郡奉行・代官ども心を用ゐ、分にしたがひ産有㆑之様に、常常心懸尤に候、慈悲にても忽諸にては、百姓の身持疎に可㆓相成㆒候、心中慈悲にさへ候はゞ、諸事厳しき程に申付け候て可㆑然候、上を憚り諸人のおもはくを兼ね、徒にゆるかせにいたし候ては、悪しき事共多く可㆑有㆑之候と思召し、常々無㆓油断㆒申付け候様、御丁寧に被㆓仰遣㆒候、
一、多年御在府被㆑遊候に付きては、御国の御仕置、大方は御家老共交代の時分被㆓仰下㆒候、御家老共より少し先、御横目の者共致㆓交代㆒候、御刑戮筋に懲悪の御政道は、御横目共下りの時分、被㆓仰下㆒候も多く、慶事の分は、多くは御家老とも承知罷【 NDLJP:118】下り候、依㆑之御横目の者罷下り候時分は、諸人身を縮め居り、御家老の下りをば、待遠に存候由申伝へ候、
一、或時に格立ち候御役の闕目被㆓仰付㆒候処、其者存の外不調法に候間、早速役儀被㆓召放㆒可㆑然由、友松勘十郎申上げ候処、御意被㆑遊候は、御身近く被㆓召上㆒候者共の儀は、人柄能く御存被㆑成候、御手遠の者は、其方共吟味肝要に候、彼者儀、悪しき行跡有㆑之ば、不㆑及㆓是非㆒候、不調法に候とては、御免難㆑被㆑成候間、其通に致し可㆓差置㆒候、此者を早速御免被㆑成候ては、重ねて御家中の者、御目鑑も頼みに存ずまじく候、以後選挙の時分、入念候様被㆑仰候由に候、
【養子には同姓の者を撰ばしむ】一、兼ねて御意被㆑成候は、御家中子供無㆑之者、養子仕候者は、同姓の者吟味の上、養子可㆑仕候、若し同姓無㆑之節は、不㆑得㆑已事に候、同姓の子を差置き候て、他姓の子を養子仕候儀は、有るまじき由、御教諭被㆑成候に付、御家中の者筋目を正し、養子相願ひ候風に相成候、保科頼母儀、〈本姓西郷氏、〉養父十郎左衛門、最前嗣子無㆑之候に付、母方の続きを以て、養子と相成候処、其跡式被㆑下候、十郎左衛門遺腹の子出生いたし、九十郎と申しけり、段々成人致候に付、寛文三年、頼母儀、九十郎は十郎左衛門忰の事にて、無㆑滞致㆓成長㆒候間、私へ被㆑下候御知行、九十郎へ相譲りたき由、願の候趣被㆓聞召㆒、義理の立ちたる致方、兼ねて思召の儀に御感被㆑成、九十郎に家禄千二百石被㆑下、頼母には新知五百石被㆑下、西郷頼母と名乗被㆓召上㆒候、中将様御末期迄も御誉被㆑成、慥なる生付にて、次第に能く可㆓相成㆒と被㆑仰候、御家中の者感励致し、他姓より相続の者、其家の実子成長後、家禄を譲り候もの数多相聞え候、頼母儀御目鑑の通、後に宜しく御奉公仕候者に候、
【継母の不行跡に関わる裁判】一、同年那麻郡小田付村総四郎儀、亡父平右衛門遺言に依りて、弟共守立て、名跡為㆑続候積りに罷在候処、平右衛門後家は、五左衛門と申す者入夫致し、己が実子を憎み、辛く会釈いたし、実子共幼少ながら、自害可㆑致と存候程の体に有㆑之、継子をば悉く寵愛いたし、五左衛門も己が子に家督為㆑致度仕方ども有㆑之、総四郎無㆑拠訴出で、郡奉行共遂㆓穿鑿㆒候趣被㆓聞召㆒、御意被㆑遊候は、総四郎母儀、入夫五左衛門に致㆓愛着㆒、実子を忌み憎み、継子を寵愛仕候儀、珍しく不届候
一、同年十一月十九日、御不例御吐血被㆑遊候、此旨上聞に達し、廿二日松平民部少輔殿、為㆓上使㆒御病気御尋有㆑之候、其時御送迎に、常の如く被㆑成候処、廿五日御老中稲葉美濃守殿・若年寄土屋但馬守殿御出有㆑之、御病気中上使と有㆑之候ては、御送迎等有㆑之、御苦労に有㆑之べくとの思召候間、面々自分の見舞ひ候様にいたし、御病体を可㆑被㆑為㆑聞との上意の由、御物語被㆑成、中将様御感涙を流し、難㆑有思召候、十二月朔日、筑前守様御登城の節、御病体細に御尋有㆑之、同二日稲葉美濃守殿依㆓上意㆒、為㆓御見舞㆒御出被㆑成候、
【正之榊原忠次を推薦す】一、重き御役人衆、中将様御推挙にて、被㆓仰付㆒候方不㆑少由に候、中にも榊原式部大輔殿〈忠次朝臣〉御事は、如何なる訳に候や、中将様も兼ねて御不和の様にて、殿中にて御出会の時分も、御用の外は、時候の御咄も不㆑被㆑成程に有㆑之、式部大輔殿御迷惑に思召し、御隠居にても可㆑被㆑成やと、御苦労被㆑成候由に候、然る処去る万治中、井伊掃部頭殿〈直孝朝臣〉・御卒去以後、其跡御役は、不㆑被㆓仰付㆒候処、寛文三年の頃、公方様御前へ中将機被㆑為㆑召、掃部頭跡役は、誰か可㆑然との御尋有㆑之に付、此御役可㆓相勤㆒器量の者は、式部大輔に可㆑有㆑之由、被㆓仰上㆒候、上様にも日頃御不和なる儀は有㆑之、御親疎に不㆑拘、御推挙有㆑之儀、殊に御感思召し、頓て式部大輔殿、御大職被㆓仰付㆒候、其節中将様、御先祖小平太殿以来、御忠功の筋目、如㆑此被㆓仰付㆒、御感悦不㆑少段々被㆓仰上㆒候由、追て中将様御推挙候由、式部大輔殿被㆓聞召及㆒、深く辱く被㆑存候由、御子孫へも被㆓仰伝㆒候由、彼家にて申伝へ候と相聞え候、
一、此年中将様被㆓仰上㆒、権現様以来、流罪・御預、并に蟄居被㆓仰付置㆒候者ども、御赦免被㆑遊候、御満悦被㆑成候、
【 NDLJP:120】【節婦を賞す】一、同四年甲辰春、河沼郡倉道村彦三郎と申す者、会津郡下居合村藤三郎妻へ、密通申懸け候処、彼妻合点不㆑仕候故、数箇所伐付け候、然れども妻儀死に申す程の疵には無㆑之、其様子無㆑紛候に付、会津御留守の者ども、彦三郎儀は、旧冬誅伐申付け候由達㆓御耳㆒、尤に思召し候、右女の儀、被㆑伐候程の様子に候共不㆑致㆓合点㆒、婦道の儀を守り候段、下々の事に候処、奇特に被㆓思召㆒候、依㆑之、女に為㆓御褒美㆒、金子二両被㆓下置㆒候、大に夫藤三郎・同妻に為㆓申聞㆒、金子為㆑取可㆑申旨、御意被㆑遊候、
【正之の病状】一、同年正月七日、本多土佐守殿為㆓上使㆒御出、御病後も御様子御尋被㆑遊候、同九日、御病気御快く、御登城被㆑成候はゞ、御乗物にて御台所口より、御上り被㆑成候様にとの御内意に付、近日御登城可㆑被㆑成思召の処、十日又御吐血被㆑遊候て、此後の御病者に被㆑為㆑成、十五日筑前守様御登城の節、御様子御尋有㆑之、廿六日にも御老中迄御尋、廿九日大久保出羽守殿、為㆓上使㆒御尋、二月七日雪降に付、阿部豊後守殿奉書にて御尋有㆑之、其後も度々の御尋問にて、公方様御案じ被㆑遊候御様子、大方ならず候、
一、三月十三日、御病気御快く被㆑為㆑入候に付、始めて御乗輿の儘、平河口より御登城候へば、御病気御快く、今日御登城一段の事に思召し候、少しも早く御逢被㆑成度由に付、御前へ被㆑為㆑召、御喜悦不㆑斜候、玄徹をも被㆑為㆑召候て、肥後守療治手柄仕りたるとの上意有㆑之、御前退出候後、稲葉美濃守殿御出、今日御逢被㆑成、御安堵被㆓思召㆒候、向後猶又年少に致し、随分保養可㆑致との上意の由、被㆓仰聞㆒十八日、石川美濃守殿を以て、御菓子被㆑下、先頃登城後、相障り候儀も無㆑之やとの御尋有㆑之、誠に御懇なる御事共、難㆓申尽㆒候、
一、同年閏五月十二日、又々御吐血、十九日稲葉美濃守殿、為㆓上使㆒御病気御尋有㆑之、其上巣鷹御拝領被㆑遊候、
一、七月十八日、御病後初めて御登城、御気色御快復の段、公方様御満足被㆑遊、御慰のためとて、佗助扇衝の御茶入、御手づから御拝領被㆑成候、天下の名器御頂戴、殊に難㆑有御満悦被㆓思召㆒候、此後酒井雅楽頭殿・阿部豊後守殿・久世大和守殿、御一人づゝ御銘々御招ぎ、御茶器為㆓御見㆒御饗応被㆑遊候、
【学問所の保護】一、中将様御風化によりて、四民共に学問に志し候者不㆑少候処、此頃学問仕候者ども申合ひ、若松桂林寺町の末に、纔か計の学問所を取立て、稽古堂と名付け無為【 NDLJP:121】庵といへる禅僧、学力有㆑之候者に付、此者を主と仕候て、何れも相集り、学問仕候由被㆓聞召㆒、寛文四年の頃、其地を免除地に被㆓成下㆒候は、殊に難㆑有御事に候、此後修復金をも被㆑下候由、申伝へ候、其後山崎嘉右衛門、京都に於て、漢土制作の孔子の像を見出し、持参仕差上候処、中将様御拝被㆑遊、先会津へ遣し置き候様被㆓仰付㆒御文庫へ被㆓納置㆒候、筑前守様御代、友松勘十郎へ被㆓仰付㆒、講堂御取立て、元禄の初、学料百石御寄附有㆑之、孔廟御造営、聖像御安置、町の稽古堂へも、学料五十石御寄附被㆑遊候、畢竟中将様御遺言、数年の後に、広大に相成候儀に候、無為庵は名如黙と申し、肥前の産にて、臨済の僧に有㆑之、万治の初より、若松へ来り、其後耶麻郡落合村にて小庵を結び、無為庵と号し罷在り候詩歌を能くいたし、其集今に有㆑之、多年稽古堂の主と成り居候由、其詩中に、一為㆓稽古小堂主㆒、屈㆑指今年二十周、白髪成㆑堆明鏡裡、春風不㆑到老人頭と、自ら賦し置き候、
【山崎闇斎の講義を聴く】一、此以前官医士佐長元被㆓召寄㆒四書の講釈など被㆓仰付㆒、或は儒臣被㆓召出㆒、経史を御講論被㆑遊候、寛文四年、京都の儒者山崎嘉右衛門、初めて被㆓召寄㆒、講釈被㆓仰付㆒、逗留中日々の様被㆑為㆑召、此後江戸へ罷出で候時分は、毎度罷出で候、嘉右衛門儀、四書・近思録の類、吟味殊に精しく、講釈の勝手能く仕候由に候、友松勘十郎も嘉右衛門より業を受け、学問仕候由に候、後には会津へ罷下り候儀有㆑之候、
【本朝通鑑の編集】一、此頃被㆓仰上㆒候儀有㆑之、林春斎へ本朝通鑑の編集被㆓仰付㆒候、永井伊賀守殿其奉行を被㆑致候、御当代にては、盛挙の由にて、御満足被㆑成候、草稿等書写致候者、抱へ置き候料として、春斎へ八十人扶持被㆑下候由に候、此後出来次第、草稿ども段段被㆓聞召㆒候、
一、此頃の冬、若松表新高直に相成り、臘月に至り、近年に無㆑之深雪降積り、諸郷村通路不自由にて、甚払底いたし、一日暮し致候者、殊に行詰まり、或は下敷を取毀ち、或は樹木を伐取り、朝夕の薪といたし、ひしと行詰り候に付、御政事に預り候面々僉議いたし、大塚山・郷原山御林被㆑下、刈為㆑取候様にと差図いたし、山札相渡し、薪為㆑取候様申付け候処、早速薪不自由に無㆑之、一体の直段も、下直に相成り、下々大方ならず相悦び候、此段達㆓御耳㆒、翌春に至りて右の下刈無㆑価被㆑下候、薪高直の時分、近山に於て、下刈被㆑下、不㆓存寄㆒御慈悲、町方家別に少々御米被㆑下候よりは、人々甘き緩々越年仕候由申候、御仕置方日来の厚き思召し、御留守致候者、【 NDLJP:122】能く承順被㆑仕様にて、如㆑形行及不〔被カ〕㆑申儀、是併中将様御徳儀無㆑限御儀に候、
【諸侯の人質を廃す】一、同五年乙巳、諸大名より江戸表へ、家来為㆓質人㆒被㆓召置㆒候処、御代も重なり候に付、斯様の可㆑有㆑之候儀とは、不㆑被㆓思召㆒候、殊に当年は、権現様五十年御忌も過ぎ候へば、時分も能く、何れも御心易く思召し候に付、向後御免被㆑成旨、上意有㆑之候、是中将様被㆓思召寄㆒、言上被㆑成候事の由に候、御治世重なり、太平の風津々浦々迄も、行渡りしは、此一事にてもおしはかられ候事に候、又諸番頭衆・諸役人衆の御級料被㆓相定㆒、其人の器量次第、御知行の多少に不㆑拘、可㆑被㆓仰付㆒との儀も、中将様被㆓仰上㆒候由に候、
一、同年三月五日、是迄は芝海手の御屋敷に被㆑成㆓御座㆒候処、緩々御養生被㆑成候ため、箕田御屋数へ御移被㆑成度由、被㆓仰上㆒、何方になりとも、無㆓気遣㆒能在り、養生可㆑仕旨、上意有㆑之、今日箕田御屋敷へ、御移徙被㆑成候、其時当典厩様始め、所々より御祝儀御進物有㆑之候へども、御養生のための御事に付、御断にて御受納不㆑被㆑遊候、
【衆道の殺害に関する裁判】一、同年、外様士吉田次郎右衛門、召仕へ候草履取長蔵と申す者、御勘定頭野村与総兵衛忰宇兵衛に、衆道の智音に相成呉れ候様、度々相願ひ候由に候処、宇兵衛得心は不㆑致候へども、余人とは噺し申すまじく候間、存じ切り候様にと、記請文を認め相渡候由、然る処其以前、外様士黒河内彦右衛門三男又市郎儀、宇兵衛と衆道の知音に候処、宇兵衛母気遣ひ候に付、相断り知音を切り候へども、長蔵心易く宇兵衛かたへ参り候と存じ、無下に不本意に存じ、宇兵衛か長蔵を打ち候て、立退可㆑申企有㆑之やに、取沙汰相聞え、長蔵及㆑承㆑之、己故に、若輩の宇兵衛を、為㆑打候事も無念に存じ、或夜本二の丁に於て、又市郎を打ち、其身は直に可㆓立退㆒とも存候へども、左候ては、幼少より厚恩を受け候主人、迷惑可㆑仕儀と存じ、主人の家へ立帰り、心静に書置いたし、自害可㆑致と存候処を、傍輩に被㆓見付㆒、主人方にて縄を懸け置き、可㆓訴出㆒と到居候時に、召捕の同心駈向ひ連参り、公事奉行ども、穿鑿の上、無㆑紛相聞え候、下々として侍分を及㆓殺害㆒の儀、以来御仕置の為に候間、長蔵儀磔に被㆑遊可㆑然やと、会津御留守居の者申上候処、左様の事には、不㆑被㆓思召㆒、長蔵儀、己故に、若輩の宇兵衛を、為㆑打候ては無念に存じ、又市郎を打ち候事は、此上の仕方には、尤の儀に候、彼又市郎儀は、日来無作法と申伝へ候侍の忰として、草履取風情の者に見苦しく被㆑打候段、此者の死骸をば、諸人見せしめの為、晒し候ても可【 NDLJP:123】㆑然程に思召し候、長蔵儀は少々御助可㆑被㆑成程に思召し候へども、元の違ひたる儀に候条、討首に可㆑致候、勿論死骸を検し、并に首晒し候事には不㆑及由、御下知被㆑遊、其親にも子を
【桂光院の移転】一、同年春、源満仲の廟摂州多田院へ、公儀より五百石御寄附被㆑成、其年の夏、吉田神祇管領職被㆓相建㆒、同六年、伊勢桂〔慶〕光院の比丘尼寺を宮川の北に御移被㆑成、同七年出雲大社御修覆被㆓仰付㆒候類は、是皆中将様御存寄被㆓仰上㆒候事の由に候、
【吉川惟足】一、兼ねて本朝の神道、中古以来衰微の様子を、御歎被㆑成、吉川惟足は、萩原兼従卿の相伝許可を受け、相州鎌倉へ隠居罷在り候由被㆓聞召㆒、御家来服部安休と申す者を被㆑遣、御尋問被㆑成、其後江戸へ罷出で候て、寛文の初より、神書の講釈被㆑為㆑聞度々被㆓召寄㆒、其奥秘をも被㆓聞召㆒、追つて御推挙候て、公儀へ被㆓差出㆒候、今の吉川家其子孫に候、服部安体は林道春の門人にて、儒学仕候者に候処、惟足に神道を相学び、寛文の末、神社志并に総録御編集の御用相勤め、延宝中、見禰山御社の社司となり、御知行二百石被㆑下候、
【衣食の質素】一、同年秋、御家老共被㆓召出㆒候て、御意被㆑成候は、当春中筑前守様会津へ御下向、此節御在邑被㆑成候処、御飲食を初めいかにも御質素に、別して御物数寄など、無㆑之御様子達㆓御耳㆒、御喜悦思召し候、常々倹約の儀御家中へ教被㆑成候へども、思召し候程には、相守り候者も無㆑之、御自分の事は、成る程諸事御質素に被㆑遊候御心持に候へども、それとしても皆々、左様には不㆑存ものと、御察被㆑成候、向後は此上にも、麁服被㆑為㆑召、奥向にて被㆓召仕㆒候女中共も、少しも綾羅不㆑仕候様、可㆑被㆓仰付㆒候間、其方共弥倹約を守り、常に麁食にいたし、衣服をも随分麁相にいたし候様にと被㆑仰候、兼ねて汪信民、咬㆓得菜根㆒百事可㆑做の語を、御賛歎被㆑成、画工狩野探幽へ其画を被㆓仰付㆒候て、御座右に御県置き御誠被㆑遊候、かゝる御様子にて、何事に於ても御倹素なる事どもにて、見栄えなど少しも御心なく毎物世間よりは、二等も三等も引下げ候様、御直に被㆓仰付㆒候儀も有㆑之候、筑前守様へ加州より御入輿の節、御厨子・御黒棚以下御挟箱迄、六色の油単唐織にて、裏板の物に御設出来候由被㆓聞召㆒、御使者を以て、御断被㆓仰進㆒候、筑前守内室に申受け候上は、此方より無㆓遠慮㆒可㆑申、油単は結構なるも被㆓相止㆒、何れも絹木綿可㆑被㆑成候、将又具桶抔は、小身なる衆迄、【 NDLJP:124】唐織の油単被㆑致候へども、肥後守存寄有㆑之候間、外々よりは格別麁相に被㆑成、具桶にも絹の油単御懸被㆑遣可㆑然旨、被㆓仰遣㆒候程の事に有㆑之、御閨門の内とても、御倹素至極の御事に候、〈或時詩経の講釈被㆓仰付㆒、葛覃の篇、被㆓聞召㆒候時、御意被㆑成候は、今時奥向にて、幼女縫針の業たど致候へば、老女始め其外の女ども、いやしき事致候とて、是を為㆑止候、然れども男子は弓矢、女子は縫針、何れも幼年より弄び候は、自然の情に出で候儀、王后の尊き身にても、女工の事は、自ら勤め候て、少しも驕奢の心無㆑之段、今葛覃の詩にて、文王の后妃、其徳行格別なる事を悟り、御自分の奥向、日来の御教無㆑之を恥しく被㆓思召㆒候由、呉々被㆑仰候由に候、〉
【人主の仁慈】一、或時近侍の者に、御意被㆑成候は、御家中の者御褒美被㆑下候儀、至つて稀に有㆑之候、御近習の者へ、飲食を以て、御慰労被㆓成下㆒候事も、容易に無㆑之候間、御親愛の薄き様に申す者有㆑之由、ほのかに被㆓聞召㆒、御気質にも可㆑有㆑之やに候へども、常に御家中の者の為に、相成候様にとの御心入にて、御粗略の儀曽て無㆑之、御苦労被㆑成候、其科に無㆑之者へ、むざと刑戮など無㆑之様にと、被㆑入㆓御念㆒候儀は、皆々相弁へ候通に候、度々御褒美など被㆑下候て、御懇に被㆓成下㆒候様にても、一度科も無㆑之に罸せられ候儀、有㆑之候はゞ、無詮事に候と、被㆑仰候由、他家の様子、其得失委しく御物語被㆑遊、おほやけに寛に無㆑之候ては、大勢の御家来不㆓相安㆒儀、細に成行き候ては、煩擾の患可㆑有㆑之候由、御意被㆑成候、総て御褒美等の儀は、稀々の事にて、姑息小恵の思召は、少しも可〔不カ〕㆑被㆑為㆑入候、権現様上意に、過分に知行其外人に施すは、奢と申すに有㆑之、其分に当るにて能く可㆑有㆑之候、奢る心なく物ごとに倹約を用ゐ、常々其程を知るを以て、政道正しきと可㆑申候、下々は知行其外施物、其程に与ふるをば、奢に引当て、吝嗇の沙汰致候へども、古より賢士過分に施物なく、倹約を用ゐしとの御旨に有㆑之由に候、中将様御儀、御祖風に被㆑為㆑叶候御事にて、可㆑被㆑成㆓御座㆒候、常々少し褒め候へば、のり上り、少し呵り候へば、縮み候様なる侍は、何の用にたゝぬものぞと、御意被㆑遊候中申伝へ候、
一、或時縮緬御羽織を被㆑為㆑召、御隠所へ為㆑被㆑入、壁へ御障〔(触)〕り、穢し候とて思召し候や、御納戸役内田権四郎を被㆑為㆑召、可㆑被㆑為㆓拝領㆒御様子の所、急に坊主と被㆑仰、御茶道頭に、其御召の御羽織被㆑下、権四郎へは兎角の儀も無㆓御座㆒候、権四郎儀、穢れ候ものを、士へは拝領難㆑被㆓仰付㆒候、思召し直され候儀と恐察仕り、特に難㆑有存入り、後々までも人に物語仕候由に候、
【玉山講義附録編集】一、同年秋、玉山講義附録御編集就成いたし候、伊勢宮崎の神庫、并に若松の東照宮・諏訪社・耶麻郡新宮村熊野宮・河沼郡塔寺村八幡宮・大沼郡高田村伊佐須美社等【 NDLJP:125】一部づゝ御奉納被㆑成候、
【火葬禁止の為墓地を設置す】一、同年の冬、被㆓仰出㆒候は、火葬は不孝たるの儀為㆓御教㆒、去々年被㆓仰遣㆒候、依㆑之土葬の場所無㆑之寺院可㆑有㆑之と思召し、青木村の近所大窪と申す谷、南へむきし北平、北滝沢の内、小山并に郷の原山、此三箇所葬地に被㆓下置㆒之候間、死人遣し度者は可㆑遣由、侍中町かたともに、可㆓申聞㆒候、乍㆑去是非此所へ葬り候様にと、被㆓仰付㆒候には無㆑之、且又親遺言致し、子も望み候はゞ、火葬にも可㆑致、火葬御法度被㆓仰出㆒候には無㆑之、火葬甚だ不孝の儀御教にて、甚だ御嫌ひ被㆑遊候由申聞け候はば、連々可㆓相止㆒、下々の儀、折々無㆓油断㆒可㆓申聞㆒旨、被㆓仰出㆒候、此以来火葬の弊俗、自然と相止み候て、後々は御領中御蔵入隅々迄も、火葬仕候者無㆑之と申す程に相成候、三箇所の葬地ども、今は満山畾地も無㆑之程に、墳墓相連り、寺々の荼毗場も、不用の様に相成候、又諸士死して無㆑後者へ葬祭料被㆑下、并に足軽・中間に江戸勤番の節、病死の者、葬料被㆑下候て、四民ともに段々送死の一事、殊に疎にすまじき筋を相弁へ、薄葬の沙汰不㆓相聞㆒、棺槨・墳墓の制も、段々入念、御家中始め下々迄、神道葬祭之輩紛しく有㆑之、儒道の式にて葬祭いたし候者も不㆑少候、
一、同年十一月五日、登城の節、上意有㆑之候は、眼病苦労に不㆑被㆑存、能々気色の養生専一に被㆓思召㆒候、縦眼は今より悪しく候とて不㆑苦、気色能く幾久しく存命の段、何より以て、御重宝御頼もしく被㆓思召㆒候旨、再三被㆓仰出㆒、誠に難㆑有御感涙被㆑遊候、
一、同年十二月十五日、御奉書御到来にて、十六日御登城被㆑遊候、九つ半時於㆓御黒書院㆒、中将様御一人へ御料理出で、御小姓御給仕、御老中四人共に御出にて、色々御馳走、其後於㆓御囲㆒、酒井雅楽山殿、阿部豊後守殿被㆓差加㆒候て、公方様御手前にて御茶被㆑進候、殊に御気色能く御茶湯へ被㆑会、可㆑致㆓満足㆒、由、御悃の上意ども有㆑之候、【一客の茶湯】御一客の御茶湯と申し、御当代大臣・諸大名衆へ御茶被㆑下の始、千秋万歳目出度御儀被㆓思召㆒、御機嫌能く、始めての御茶湯へ被㆑会、実神明の感応と、別して御満足被㆑遊候、御帰宅後、一日も此世にながらへ候を以て、今日御恩情の忝きを蒙り候と、御意被㆑成候、今日能き折柄の由にて、即刻筑前守様へ有明の御茶入・半井茶碗、市正様へ広口の御茶入・蔦紅葉の茶碗被㆑進候、兼ねて御眼御不自由に被㆑成㆓御座㆒候処、御囲に於て、少しも御けがも無㆑之、何の御心懸りも不㆑為㆑在、首尾能く御仕廻、【 NDLJP:126】弥御満悦被㆓思召㆒候、此時御囲の御道具は、松月翁の墨跡御懸物、〈是は松平隠岐入道勝山殿被㆓差上㆒候御品の 山、〉大隅扇衝の御茶入、〈井伊掃部頭段より被㆓差上㆒候由、〉縄簾の水瓶、〈酒井空印殿被㆓差上㆒候由、〉御釜、〈織部筋古銅蓋、〉御茶碗 〈箒毛目、土井大次頭殿より被㆓差上㆒候由、〉御茶均、〈小堀作、〉御花入、〈古銅大そろり、御花、白梅、赤玉椿、〉いづれも名物を御揃被㆑成候由に候、
一、同六年丙午三月廿九日、御登城被㆑成、於㆓御座之間㆒、中将様御一人御側近く被㆑為㆑召、御用有㆑之相済み候、上意有㆑之候は、気色の儀、別して無㆓心許㆒、思召し候、日々の御様子御尋被㆑遊度思召候へども、替る儀も無㆑之に付、其通被㆑遊候、思召し候程には、難㆑被㆓仰述㆒由、色々細に御悃なる上意に付、斯様の難㆑有上意承りても、眼あしく御奉公不㆑仕段、一入御迷惑に思召し候由、御請被㆓仰上㆒候へば、重ねて上意に、眼あしく御奉公不㆑仕儀、少しも苦労に存ずまじく候、上意の段は、大方に存じ候や、一方ならず思召し候儀に候間、自分計の儀と不㆑存、御奉公と存じ、可㆑遂㆓養生㆒候、目は不㆑見候とも、長久にさへ候へば、御為に宜しき事に思召し候条、目あしき儀少しも苦に不㆑存、心を緩々と持ち、可㆑遂㆓養生㆒旨、重々御懇の上意有㆑之、別して難㆑有被㆓思召㆒候、
一、同年六月五日、御眼病弥増し、御勝れ不㆑被㆑成に付、稲葉美濃守殿・板倉内膳正殿御頼み、御隠居御願被㆑遊候処、七月十三日、阿部豊後守殿・稲葉美濃守殿御越、御願の通達㆓上聞㆒、尤には被㆓思召㆒候へども、暫御免難㆑被㆑遊候、但御城中乗物御免被㆑成候間、此後登城の節は、弥無㆓遠慮㆒、平川口より乗物にて、出仕可㆑致旨との上意の由、被㆓仰聞㆒、十六日御登城被㆑遊候、
【会津風土記の編纂】一、同年八月六日、兼々本朝の風土記ども絶え候儀、歎かはしく思召し、先会津の風土記御取立有㆑之度被㆓思召立㆒、去る寛文元年、友松勘十郎、其奉行被㆓仰付㆒、御領中巡見いたし、山川の形勢・土俗・物産・戸口・寺社・古蹟等、明細に相改め、或は古器の銘、古文書、或は村老の申伝まで、悉く聞糺し申上候に付、逐一被㆓聞召㆒、部類を分け書立て、山崎嘉右衛門へ潤色被㆓仰付㆒、六年懸り候て、此度致㆓成就㆒候、【会津四郡】会津四郡と申す事は、平家物語等の古書にも、相見えたる古き総名の所、此時に四郡の名さへ紛乱いたし、地界不㆓相分㆒を、古文書・古器銘に拠つて、御糺し被㆑遊候、往々は天下の地志にも、御志被㆑成㆓御座㆒候間、御献上可㆑被㆑成思召にて、御取立有㆑之候、同十一日御登城の節、此儀を御老中がたに、御咄被㆑成候処、何れも御感歎被㆑成候、後年筑前国【 NDLJP:127】続風土記・仙台封内風土記等、編集の首唱被㆑成㆓御座㆒候、
一、此後御領中御蔵入迄、寺社御改被㆓仰付㆒、縁起書出被㆓仰付㆒新地の分は、不㆑残御取毀被㆑成候、其中に新地の寺院、古跡の様、偽り申立て候僧侶は、厳しく可㆓仰付㆒候、新地に無㆑之とも、久々住持の絶え候場所は、再興不㆑被㆓仰付㆒類も有㆑之候、追て寺社縁起と申す一書御取立、秘府に蔵め被㆑置候、
【淫祠仏堂の破却】一、同年秋、二十年来相建て候淫祠仏堂、悉く破却被㆓仰付㆒、且万歳・獅子をどり、其外常々替りたる怪しき事を以て、渡世と致候類、御法度被㆓仰付㆒候、非法虚誕有罪の僧侶有㆑之時は、御糺明の上、或は追院・追放、或は其寺破却被㆓仰付㆒、其跡在家に被㆑成候儀も、不㆑少候、又列国の内、何方に候や、一旦に寺院破却・僧侶追払等申付け、何かと申す由被㆓聞召及㆒、御物語に被㆑遊候は、其志はさる事に候へども、総て甚だしき仕方は、事情に逆ひ、遂げ行はれがたき事多き物に候、俄に廃却致候様にては、門跡本山等にても、とやかく可㆑申、自然再興など致候ては、手を付けざるには劣りたる儀に可㆑有㆑之候、新地無住、或は寺僧の有罪、時々段々減少いたし候へば、何の仔細も有㆑之まじき由被㆑仰候、
【山鹿素行の処罰】一、同年冬、江戸に罷在り候浪人山鹿甚五左衛門と申す者、世上徘徊、言を巧みにし、人の迷と相成るものに付、厳しく押込被㆑置可㆑然由、御老中迄、中将様被㆓仰述㆒候に付、播州赤穂城主浅野内匠頭殿へ、御預被㆓仰付㆒候、甚五左衛門儀、其身学才も有㆑之、特に軍書など好み候者の由の処、御仕置の妨ある筋、思召当てられ候儀と相見え候、
一、同年、御領中相用ゐ候桝、御改被㆑成候、
一、同七年丁未春、会津の川々并に湖辺にては、四五月頃、毎年
一、同年三月朔日、筑前守様会津への御暇被㆓仰出㆒候に付、同十五日、為㆓御暇乞㆒、芝御屋敷へ被㆑為㆑人、〈箕田御屋敷へ、筑前守様御出の節とも、記しゝもの相見え候、いづれ是なるを知らず、〉御馳走御振舞過ぎ候て、中将様より、逍遥院殿詠歌の内にて、三首を写し被㆑進候、
身はふりぬ行末とほくつかへよと子を思ふ道も君をこそおもへ
【 NDLJP:128】 雲井にもきこえざらめやつかふべき道をゆづるの子をおもふ声
忘られぬおやのいさめの言の葉はしのぶの露のせきところなる
【古社の再興修復】一、同年秋、会津郡蚕養国神社は、延喜式神名帳に有㆑之名社に候処、社頭久しく荒廃いたし、旧地の古木のみ有㆑之を、御再興被㆓仰付㆒、神職迄御附け、社料十石御寄附被㆑成候・此外古社の修復等被㆓仰付㆒、右前後数多の儀に有㆑之、中にも耶麻郡磐椅神社も、延喜式に、被㆓相載㆒候社に候処、此頃は神号を失ひ、峯明神などゝ唱へ候を、古き御正体の銘に、岩椅明神と彫付有㆑之を以て、神号を被㆓相復㆒、社頭御修復、筑前守様御家督後、社領十石御寄付被㆑成候、〈岩椅の神は、いはきと相唱へ候、文徳天皇実録に、岩椅神社と有㆑之、或人の説に、磐梯の山名、今音にて、ばんたいと唱へ候、古文書に、訳を以て、いはゞしと記するもの、間々有之候を以て見れば、恐らくは岩椅神は、いはゝし神にて、椅は埼の誤に、可㆑有㆑之や、埼は字書に、石橋と相見え候と申候、峯明神は、元磐梯山上に、鎮座ありし故の名と相聞え候、今磐梯の半腹、元為殿といふ字の辺に、礎石井に古井の跡など有㆑之候由も承り及び候、〉若松の鎮守諏訪社、其外高田村伊佐須美・培寺村八幡宮など、何れも社僧・仏像の類御取払、惟一の神式に被㆓相改㆒、諏訪へは先規の通百石、高田・塔寺の両社へは、新規に三十石づゝ御寄附被㆑遊候、
【困窮藩士の救済】一、同年冬、此以前御家中の侍衆、勝れて身上不㆑成者ども、御不便に思召し、承応二年御上洛御下向後、金一万二千両余、年賦に御貸被㆑成、莫大の御哀憐にて、無㆑限難㆑有相悦び、其後も御救被㆑下候儀有㆑之候処、此時に至り、又候や高利の借金どもいたし、其上買懸り等も沢山有㆑之、畢竟身持不調法故、進退困窮いたし候処、自分として可㆑致様無㆑之様子に付御僉議の上、今度二万両余拝借金被㆓仰付㆒、古借金・買懸り、等返済致候様被㆓成下㆒、借金の高に従ひ、皆納迄は、知行の内被㆓差上㆒、自今以後は、減少の分限にて御奉公仕り身持倹約にいたし、身上取直し候様可㆑致候、総て侍ども風俗悪しく、義理を不㆑存、私欲に迷ひ、倹約を不㆑守、分外の借金致候段、御家中奉行共、倹約不㆑致、存入り薄く、諸頭心入れ悪しく、義理に闇き故と、被㆓思召㆒候旨、御意有㆑之、士の風儀、倹約の御教、御条目を以て、御家中へ被㆓仰渡㆒、重々の御情難㆑有御事に候、
一、同年十月十一日、御登城可㆑被㆑成との儀、上聞に達し、天気悪しく、少しも気色滞り候はゞ、遅くなり候ても、不㆑苦儀に思召し候間、可㆑有㆓延引㆒旨、上意の由、御老中より申来る、然れども随分御気色宜しく被㆑成㆓御座㆒候に付、今日御登城被㆑成候、御前に於て、御為に成り候儀に思召し候間、何にも不㆑構、引籠り致㆓養生㆒、何卒持病不㆑発様可㆑致との上意にて有㆑之、御退下後、稲葉美濃守殿を以て、気色無㆓御心許㆒思召【 NDLJP:129】し候処、顔色御覧被㆑成、御安堵被㆑遊たるとの上意有㆑之候、
一、同八年戊申正月十三日、御登城被㆑成、年始の御祝儀被㆓仰上㆒候、近頃は稀にならでは、御登城不㆑被㆑遊候に付御老中方度々御宅へ御出、御政事向御相談被㆑成候、いつも御人払にて、しめやかなる御事共に候、其時は不㆑被㆓仰付㆒候とも、御台所にて御膳部の御設など仕り、御用相済み候を、見計らひ差上候、或時何かと仕り候内、御帰り被㆑成、御都合違ひ候に付、其役人ども迷惑仕候て、其趣を申上候へば、左様には無㆑之候、世間にては老中の饗応などは、丁寧なるものゝ所、此方にては其御心にては無㆑之候、一事にても御用の筋、無㆓御底意㆒、御相談被㆑成、御為を御はかり候事を、御大慶に思召し、御茶だにも御心不㆑被㆑付被㆑成㆓御座㆒候、御酒食等は猶更の事に候間、御膳不㆑被㆓差出㆒を、少しも心遣ひ致すまじき由、御意被㆑成候、
【贗金の廃毀】一、同年春、会津表納金を以て、江戸御当用に年々為㆓差登㆒、江戸両替屋三谷三九郎を金見に定め置き、吟味被㆑致候処、此度為㆓差登㆒候内より、十七両似せ金見出し候に付、達㆓御耳㆒、似せ金可㆑遣儀に無㆑之間、打潰し候様御意有㆑之、猶真贋を弁ずべきために、後藤方へ被㆑遣、吟味被㆓仰付㆒候処、何れも似せ金に相極り候に付、切割会津へ差下し、重ねても納金子の内、似せ金有之候はゞ、如何程も可㆓相潰㆒由、被㆓仰出㆒候、後藤かたにて此段承り、斯程の御念入りたる被㆑遊方、他に曽て不㆑及㆑承旨申候由に候、
【平維茂の墓碑を建つ】一、同年、御領内越後国蒲原郡岩谷村に有㆑之、余五将軍の墓碑御建被㆑成度思召し、其文に林春斎へ御頼被㆑成候、同年五月、耶麻郡半在家村佐原義連の碑文、山崎闇斎へ被㆓仰付㆒候、又小田村の境内、葦名盛氏・同盛隆墓へも、碑石の儀被㆓仰付㆒候へども、今以て不㆑被㆓相建㆒候、村民の申伝へ候には、碑石度々見立の上、運送被㆓仰付㆒候へども、毎度割損じ用立不㆑申、其冥慮に不㆑叶儀にても有㆑之候やなど申し、其通に相成候と申候、
一、同年二月朔日、芝御屋敷御類焼、同四日笑田御屋敷御類焼、中将様桜田御屋敷へ御移被㆑成候、此日火事の最中、御屋敷婦人共の内にて、粥為㆑煮候様にと被㆓仰付㆒下々まで被㆑下候故、一人も飢ゑ候者無之、鎮火後、御家中の妻女ども、路頭に迷ひ候者とも、御尋被遊候、両御屋敷共に御焼失の事故、御家中の下々まで、妻子の類日夜風露に被㆑曝候を、中将様甚御苦労に被㆓思召㆒、軽き小屋共拵へ入れ候様にと御意【 NDLJP:130】彼㆑成、下々の安否御尋ね、或は病人へは、医師御懸被㆓成下㆒、諸人甚奉㆑威候、友松勘十郎始め侍子共、自身に焼材を取形付け、柱穴を鑿り苫懸いたし、軽輩并に御家中の若輩・小者の類迄、不㆑残罷出で相働き、小屋懸渡し候に付、翌日より段々引移り、四百六十間の小屋、当七日迄に致㆓成就㆒、不㆑残被㆓割渡㆒候、同十九日、大久保出羽守殿為㆓上使㆒御尋有㆑之、御屏風二双御拝領、花鳥は探幽筆、耕作は永真筆に候、
【家訓十五条の撰定】一、同年四月十一日、御家訓十五箇条御撰被㆑成、御朱印を被㆑成㆓御押㆒、田中三郎兵衛正玄へ御渡被㆑遊候、是は万年の後の為に、御遺訓を被記し被㆑置候可㆑然と、友松勘十郎申上候儀も有㆑之、被㆓思召立㆒、御工夫を御凝し、十五箇条に御撰被㆑成、山崎嘉右衛門へも潤色被㆓仰付㆒、御成就の由に候、第一条、公儀御忠勤の御訓を被㆑示候、御咄に、板倉防州は、忠義一筋の仁に候処、常々御家老に向ひ、我等抔千万に一も公儀へ対し、逆心の企あらば、本性の所行に非ず、偏に乱心の所行にて候、然るに於ては、各速に某が首を刎ねて、関東へ差上呉れ候様、是則忠節たるべきと被㆑申候由、誠に奇特なる志に候へども、いかに主の言付なればとて、人臣として主人の首を斬るといふ事あるべからず、我等子孫に至り、天道に尽き果て、万一反逆の志ありとも、家老始め家中の諸士、此家訓の旨を守り、一味同心せざる時は、猶逆心はなるべからず、人臣の大義かくの如くなるべし、依㆑之若懐㆓二心㆒、則非㆓我子孫㆒、面々決而不㆑可㆑従と、御書被㆑遊候由、御意被㆑成候、近年御病者に被㆑為㆑成、筑前守様未だ御年若に被㆑為㆑入、御跡の事ども、何かと思召し続けられ、其箇条の内には、御兄弟の御中、或は奥向より口さしを御案じ被㆑成、少しも御取用無㆑之様、或は御政事に預り候者心得迄、鏡の如くなる御心にて、御示し被㆑置候は、あはれとも辱しとも可㆑申様も無㆑之、難㆑有御事に候、〈或人と御家の旧事ども語合の時分、御家調の事に至り、今に毎年の恒例にて、御拝聴不㆑被㆑為㆑怠、諸士へも拝聴被㆓仰付㆒候、能能常々講究有度事に候、古老の注解せしを考ふるに、疑はしき事なきに非す、天文、永禄の頃、武田古典厩信繁は世に珍しき忠信恭謹の人にて、其子を誡められし箇条の第一に、たとひ海は野となり野は山となるとも、尽未来際、御屋形に対し、二つ心あるべからずと、記され候儀、今に美談と致候、然るに若し懐㆓二心㆒、非㆓我子孫㆒と、見限り給ふのみならず、面々決而不㆑可㆑従との御訓は、孔子の季路・冉有をゆるされし、君臣の大義を以て、御励し被㆑遊、義理明白にして、無㆓残所㆒、御忠心の大なる所、天地をきはめ万世にわたり、いか計の御事ぞや、此御遺訓のあらん程は、海は野となり野は山となるとも、上下共に大義を見まがふ事有るべからず、然らば一国の君臣、忠肺義膓、益堅固にして非義にくみせず、孤城を守り幾万の兵を受くるも、必ず義気屈せず、名節を敗るに至るまじく候、是程の辱き御訓は有るべからず、其次には、武将の御家被㆑為㆑継、国家の藩屏と被㆑為㆑成候御要務を、御示被㆑遊候、御治世目出度、天下御長久に従ひ、押並べて武事には怠り易く、自然文弱芬華に流れ候様にてに武家の本色を失ひ、御固と難㆑被㆑為㆑成候、唐玄宗天宝年中、安禄山兵を范陽より起せし時、承平日久しく、皆兵革を知らす、禄山が押行く処の州県震駭し、瓦の解くるが如く成果て候様子、歴史に相見え候、然れば太平の世、武備を能く心懸け、不㆑被㆑為㆑怠様に無㆑之候ては、不意に難㆑応候、武役に被㆓召置㆒候面々、其人に非ざる時は、不覚の事ども仕出し勝敗の虚僅にて、無益に人数をも損ずるに至るべし、常々其選挙肝要に可㆑有㆑之、朱子【 NDLJP:131】語類に、兵以㆑撰㆑将為㆑本と相見え候、又軍法に於て、上下の分は、殊に厳に可㆑致事の由、酒井讃岐守忠勝朝臣、或時に真田伊豆守信幸主を御招き、其御家は武田信玄以来の兵法相伝り候由、一分の儀に無㆑之、公議の御為に候間、御伝授被㆑得申度とて、兵を用ゐる儀まで御懇望被㆑成候へば、礼義を乱さゞる儀、軍法の要領の由、家伝の様申伝へ候、上下貴賤の礼儀乱れざる時は、軍法は自ら其中に有㆑之事の出にて、其頃人々感心致候由及㆑承、此条皆武事に就きて、遠き御孫謀を遺し被㆑遊候歟、其次よりは、家をとゝのひ、国を治むるの事ども、段々御示し、御結末に至り、遊楽驕奢の御誡、被㆑入㆓御力㆒たる御庭訓に可㆑有㆑之や、寛文八年の春、高力左近大夫殿、領分仕置悪しく、非分の課役をかけ、其上家中仕置不㆑宜、下を苦しめ百姓をいため、自分の驕に致候段、不届に思召し、領地被㆓召上㆒、伊達家へ御預け被㆑成、諸大名弥倹約可㆓相守㆒旨、殿中に於て、被㆓仰渡㆒候も、眼前の儀に有㆑之、士民に御仕置悪しく成行くは、大方高貴の御くせとして、勤倹をわすれ、御自分の奢より起り候事に付、一段被㆑入㆓御念㆒候様子相見え候、能く其頃の様子を考へ、身を其世に置き候心地にて熟読仕候へば、意味益深長なるやうに候、返す〴〵も難㆑有御事ならずやと、申すべき御家訓を拝見仕候心得もと、附録致置候、〉
一、同年五月十日、御登城被㆑成、先御休息所へ被㆑為㆑入候へども、稲葉美濃守殿・久世大和守殿・板倉内膳正殿御出、御用の儀御相談畢つて、御前に於て、一昨日御鷹野の時分御護物の鳥、御拝領の御礼被㆓仰上㆒候、夫より御一人御側近くへ被㆑為㆑召、段段被㆓仰付㆒候、御政道の儀、其得失御聞被㆑遊度、無㆓遠慮㆒可㆓申上㆒旨、別段の上意に付、中将様思召悉く被㆓仰上㆒、御喜色の御様子にて、御老中の御事迄、上意有㆑之、何れも其任に堪へたるものゝ由、御ほめ被㆑遊候、偖又御眼病御気色の儀、御懇に御尋被㆑遊候に付、眼は次第にかすみ不㆓相勝㆒候へども、気力は先不㆓相替㆒候由、被㆓仰上㆒、縦眼一向に不㆑見候へども、気色無㆑恙候はゞ、御安堵思召し候由上意有㆑之、御前御退出候後、猶又御老中がたと、品々御用御相談有㆑之、御退下被㆑成候、御前にて被㆓仰上㆒候儀は、一向不㆓相知㆒候、
【二程治教録及伊洛三子伝心録の編集】一、同年、二程治教録・伊洛三子伝心録、御編集致㆓成就㆒候、玉山講義附録をあはせて、三部の御書と申候、〈寛延改元戊辰の朝鮮信使、私に録記いたし、日観要考と題せし書一巻、其帰路大坂の客館にて、ある医者に被㆓奪取㆒候由にて、近頃写し伝ふるを見るに、草稿の儘にて、信使手控の類と相見え、種々部門を分ち、本邦雑々の事迄を相記し、人物と申す目中に、源正之東照大神君弟也、或曰改虎賁中郎将会津侯神道碑文略述㆓事蹟㆒、慶長十六年生㆓於江戸㆒、初読㆓四書㆒、未㆑得㆑要、留㆓意老釈㆒、後得㆓小学㆒好読、従㆑事誠敬、知㆓大学之道㆒、専攻㆓濂洛関閩書㆒、観㆓好学論㆒、因得㆑定㆓性書之要㆒云、程門静座法、揚�李能授受、因簒㆓三子伝心録㆒、又閱㆓玉山講義㆒、遂抄語大全為㆓附録三巻㆒、以明㆓大極陰陽・四徳・五常・理気生死之説㆒、使㆓侍史読_㆑史、鑑㆓与亡㆒考㆓地宜㆒実㆓時義㆒、編㆓二程治録㆒、与㆓廃祀㆒毀㆓経祀㆒、癈㆓仏宇㆒遠㆓僧尼㆒、置㆓葬地㆒禁㆓火葬㆒、建㆓社倉㆒準㆓文行常平㆒、創㆓漕運㆒云々、論性語治心功、多不㆑能㆑載、【朝鮮使節の正之観】青泉曰、以㆓貴公子㆒受㆑爵、律㆑己治㆑人、一遵㆓程朱㆒而異㆑事当㆑国、則可㆑洗㆓蛮夷之陋㆒、三編書刊行己久無㆑序、為㆑序、為遺㆑之、其孫会津侯正容所㆑遣使者、以㆑編置㆓青泉�㆒曰、侯命也、庶幾令㆕鶏林君子、知㆔程朱之学在㆓日本㆒と、記し置き候、此巻如何�の筆に候や、其名氏は不㆓相記㆒候へども、享保中来聘の制述�申維翰青泉の詞、多く相見え、或は青泉曰、或は青泉云々などゝ、処々相見え候、按ずるに、青泉御碑文或は三部の御書見えて、敬服仕候様には被㆑察候、書中御三家方始め御歴々の衆、伝聞の儘に、其賢否を品題いたし、本邦の人には、深く秘し候て、可㆑有㆑之候へども如何なる隙候か、被㆓奪取㆒、世にも流布いたし、書中に大神君の弟と記し、其余伝写の誤と相見え、少々難㆓続行㆒処も有㆑之候へども、珍しき事に付、其儘に爰に載せ置き候、彺翁様より三部の書を青泉へ、被㆑遣候、其序文を認め差上候様に候へども、是は書中に無㆑之、御家にても其序文有㆑之儀は、未だ不㆓承及㆒、異国信使の言葉にて、御徳義の光を添へ候には不㆑足事候へども、其書私記にして、謹辞に無㆑之を以て、附録いたし候、〉
【米価の調節】一、会津は山国にて、津出場遠く、諸品牛馬にて運送致候事故、常々米穀沢山に有㆑之、大方其価も下直にて、御家中百姓ともに、不勝手なる所に有㆑之、先封蒲生氏郷【 NDLJP:132】以来の定にて、収納も米金等分の納に有㆑之、御家中の御物成も、其通り四つ成にて被㆓下置㆒候、されば常々民間の米多く候に付、毎年御買米被㆓仰付㆒、或は廻米被㆓仰付㆒候儀は、御家中百姓御救の為とて、会津領米の差引は、大切の御仕置と被㆓思召㆒候旨、御意被㆑遊候事にて、寛文八年の頃、御勘定頭斎藤五兵衛儀、社倉金を以て、相場米買置可㆑仕、不足の所、御蔵入の収金を、加へ可㆑申旨申出で、達㆓御耳㆒候処、社倉金はもと里民御救ひの為に、設置候事に候間、尤に思召し候、不足の分、御蔵入納金にて、可㆓買置㆒由、斯様の儀、曽て被㆑遊候儀にて無㆑之候、御勝手の為に、御預所の金子を以て、米買置被㆓仰付㆒候段、以ての外に思召し候、御私領代官共、斯様の手廻し仕候はば、急度曲事可㆑被㆓仰付㆒、何れも心入不㆑宜思召し候由被㆓仰出㆒候、
一、同年、当年は諸国早魃にて糧不㆑足、来年は飢饉に可㆑有㆑之様に申ならし候由被㆓思召㆒、御蔵入御私領の百姓、不㆑飢様に可㆓申付㆒候、御蔵入救ひ候米金、御勘定に不㆑立候はゞ、御自分の御救に可㆑被㆑成候間、無㆓遠慮㆒入念申付け、兼ねて社倉の米金、籾蔵塩精等も、飢饉の御心当に、被㆓差置㆒候事に候間、〈先年社倉利米の内、腐化米の分、糒に被㆓仰付㆒、御蓄被㆑置候、〉一人も不㆑飢様可㆓申付㆒候、交代御横目一人、御蔵入中相廻し可㆑然旨被㆓仰出㆒候、
【藩吏の苛斂を戒む】一、同九年己酉、芝・箕田両御屋敷御類焼の後、御普請に就いては、去年横川山より材木為㆓伐出㆒、江戸へ相廻し候、其節百姓共へ、費用銭被㆑下候処、此外内証にて、百姓手前より人足為価、過分の代物出し候由被聞召、御意被成候は、百姓共莫大の金子を出し、迷惑致候段、御家老・奉行とも不㆑存儀、不念至極思召し候、別して御蔵入郡奉行并に代官ども、其品々存候ても、不㆓申述㆒候哉、御不審に思召し候様子、相尋ね可㆓申上㆒候、縦いかほど御徳用の儀に候とも、百姓の痛に相成候儀は、被㆓仰付㆒筈に無㆑之候処、此度の様子思召に違ひ候由、江戸より被㆓仰遣㆒、御家老・奉行ども何れも不調法の段申上候、
一、奉行管勝兵衛方へ役人参り、内証申述べ候は、蠟役人誰某と申す者、精出し相勤め御為仕り、御蠟何程の出目有㆑之由申すに付、御執成せよとの儀に可㆑有㆑之、委細心得申候、達㆓御耳㆒候後、善悪の儀は不㆑知と申すに付、其役人よしなき事を申候とて、後悔いたし、御執成の儀御無用に被㆑成、其通に被㆓成置㆒度由、達て相詫び候へば、勝兵衛申し候は、蠟役人の仕方甚疑はしく候、蠟納の節も渡し候節も、秤目の外に出目可㆑有㆑之儀、難㆓心得㆒候、請取の時分に余計に受取り候歟、又渡し候時分【 NDLJP:133】へらし渡し候歟、此二つの間に可㆑有㆑之、左も無㆑之ば、出目は有るまじき筈に候、斯くの如くにては、役人の私欲に候、役人たる者は、只理の相立ち候儀、肝要に候、出目を御為とは、不調法なる儀に候、達㆓御耳㆒候て、必ず御咎可㆑被㆓仰付㆒儀の所、達て被㆑詫候に付、不㆑及㆓其儀㆒に候、総て役人の守は、筋目有㆑之様、専一に可㆓相心得㆒旨、申聞け候よしに候、勝兵衛かく申せしも、畢竟中将様正しく被㆑成㆓御座㆒候故の儀に候、
【国産の他領輸出】一、総て会津の産物他邦へ差出し候ても、御国用の支に不㆑成分は、其通被㆓成置㆒候へども、不足いたし、下々難儀に及び候類の品は、御留被㆑置候、或年江戸表綿、別して高直に付、江戸御入用の分、御国にて調ひ為㆓差上㆒候様申来る、大分の儀に候処、何れも可㆑然との儀に有㆑之、菅勝兵衛儀、其段田中三郎兵衛へ申述べ候へば、それは不㆑可㆑然由申すに付、御下知の儀に候間、兎角に難㆑及旨、勝兵衛申候処、いや左様に無㆑之、綿は兼ねて御留物に被㆓成置㆒候をば、各何と被㆓心得㆒候や、綿多く他邦へ出で候へば、御領中綿高直に相成り、四民迷惑いたし候故に候、たとひ上にて御得分有㆑之迚、其通多分買上げ候はゞ、以ての外手支へ、諸人可㆑致㆓難儀㆒候、夫にては日来の思召と相違ひ候儀に候間、何程高直にても、江戸にて御買上の方、当然に可㆑有㆑之、其通に言上被㆑致候はゞ、必可㆑被㆓聞召届㆒由申すに付、右の次第申上ぐ、果して無㆓仔細㆒相済み候由に候、
【就床の時刻】一、御平生卯の時に御昼なり、表御座へ被㆑為㆑入、亥の時頃には、大方御寝所へ被㆑為㆑入候、夜中はいか程夜長の時分にても、亥の時頃迄には、御寝所へ不㆑被㆑為㆑入儀無㆑之、御晩年にいたり候ても其通に被㆑成㆓御座㆒候、或時伺候の者へ御咄に、御年来御病者に被㆑為㆑成、大方通宵睡り被㆑成兼ね候、少しの間も、快く御休被㆑遊候儀は、御仕合に被㆓思召㆒候由、御意被㆑成候に付、左候はゞ夜半過まで、御待被㆑成、御寝所へ被㆑為㆑入、可㆑然由申上候処、其心は無㆑之に付不㆑被㆑為㆑入候、然れども御一己にて其通被㆑遊候はゞ、面々何れも休息仕るまじく、一人の故を以て、大勢の休息を妨げ候事は、一身の私と申す者に候、総て人は起臥共に、大抵時刻程合有㆑之ものに候間、心の儘に不㆑致、勉めて其程を可㆓相守㆒事の由被㆑仰候、
一、御寝所御刀有㆑之、夜中御小用にも必ずもたせ御出被㆑成、御装束の時、御帯劒被㆑遊候節は、必御鞘をはづさせられ、御覧被㆑成候由に候、御眼病後も御脇差取替へ【 NDLJP:134】差上げ候節は、作元・切れ味の儀まで、御尋被㆑成候て御受取、御目貫・御目釘等迄も、御尋被㆑遊候上、夫迄御指の御道具を、御納戸役へ御渡被㆑成候由申伝へ候、
【朱子学の研究】一、昼夜不㆑限、御閑暇の時分は、御近習の者に、聖賢の書拝読被㆓仰付㆒被㆓聞召㆒、御評論被㆑遊候、既に通鑑綱目は御抄書も被㆓仰付㆒、又唐鑑をも御抄書可㆑被㆑遊思召にて、御附紙被㆓成置㆒候を、御逝去後、其儘抄書仕る様に、且朱子語類を聞召し候時、其説思召に、不㆑応儀有㆑之時は、是は朱子未定の論に候はんか、或は記者の謬に可㆑有㆑之や、先づ紙を貼り置き候へと被㆓仰付㆒別巻にいたり、前説は果して、未定の説にして、後の定説有㆑之儀、度々の儀に候、
一、常の御伽に、被㆑為㆑召候者ども数人有㆑之、松原素庵と申すは、太閤黄母衆の内にて、京都の浪人にて罷在り候を、万治の頃被㆓召呼㆒、百人扶持被㆑下、谷宗卜は谷出羽守殿の弟にて、浪人致在り候、是も七十人扶持被㆑下、其外学才博識の者ども被㆑為㆑召、横田三友・福田良庵・佐治宗軒・山田宗悦・内藤良斎・山崎嘉右衛門・服部安休・松野勾当の類、代る〳〵御相手被㆓仰付㆒、種々の咄ども被㆓聞召㆒、御自分の御心得も被㆑遊候、遠藤逸佐と申すは、毛利家の士にて、軍学者に候処、御相口にて度々被㆑為㆑召候、毛利家にても左様御心易く、御相手に成候はゞ、毎日も参り候様にと御申付、御家来同然に、繁々御相手仕候由に候、
【飲食の簡素】一、常に御飲食御淡薄にて、朝夕の御膳部御設仕候儘にて、少しも御注文等無㆑之御心に不㆑叶品は、御箸不㆑被㆑遊候迄に候、依つて人の飲食に耽り候をも、御嫌ひ被㆑成、御意被㆑成候は、諸家にて高貴の御方御招待の節は、御旗本衆の内、御相伴御取持御頼み、御饗応有㆑之儀に候処、其衆これを悦び、人にも誇り候類は、見苦しき事に候、夫のみならず、誰殿にても、しか〴〵の料理、又誰殿にては斯様など申候て、其善悪を評し自満いたし候由、士君子の所行に無㆑之、去りとはいやしき儀と思召し候、孟子、乞㆓墦間之祭余㆒誇㆓妻妾㆒之事、并に飲食之人則人賤㆑之語をあげ、御嘲被㆑遊候、
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。