コンテンツにスキップ

千年の松/巻之三

目次
 
殉死の禁備荒儲蓄諸役の任叙を慎む正之の領内施政の方針火葬の禁老養郷村籾蔵の配置養子には同姓の者を撰ばしむ継母の不行跡に関わる裁判正之榊原忠次を推薦す節婦を賞す正之の病状学問所の保護山崎闇斎の講義を聴く本朝通鑑の編集諸侯の人質を廃す衆道の殺害に関する裁判桂光院の移転吉川惟足衣食の質素人主の仁慈玉山講義附録編集火葬禁止の為墓地を設置す一客の茶湯会津風土記の編纂会津四郡淫祠仏堂の破却山鹿素行の処罰古社の再興修復困窮藩士の救済贗金の廃毀平維茂の墓碑を建つ家訓十五条の撰定二程治教録及伊洛三子伝心録の編集朝鮮使節の正之観米価の調節藩吏の苛斂を戒む国産の他領輸出就床の時刻朱子学の研究飲食の簡素
 
オープンアクセス NDLJP:113
 
千年の松 巻之三
 
一、寛文元年辛丑、御年五十一、近頃御眼病にて、御難儀被遊候に付、月々朔望の御登城御用捨被成候、重立ちたる御用有之時は、可召候間、其時に御出仕被成候様にとの、御懇の上意有之、式日の御出仕等は無之、大立ちたる御政事ならでは、御登城不遊候、

殉死の禁一、去る万治の初め、詩経の秦風黄鳥の篇、并に朱子殉葬の論被聞、殉死はもと戎狄の弊俗に出で候儀の処、近頃其君のため殉死の多きを以て、家々相誇り候俗風に有之、甚不仁なる儀と久しく御歎き思召し候、内藤源助自卓江戸表へ罷登り候節、被仰含、今年御家中殉死御制禁被遊候、源助罷下り、思召の通、御家中の者ども得心為仕、書面を以て、言上仕候に付御感不斜、御喜悦の趣、直に其裏に御認被下候、同三年公儀にて、武家諸法度被仰出候節、追腹の儀、主人より堅く申含め、殉死不仕様可致、若し以来於之者、亡主不覚悟、越度たるべし、跡目の息も不届オープンアクセス NDLJP:114思召旨、諸大名へ被仰渡候を、垂仁帝・孝徳帝以来の御仁政にもとて、殊に御満足被遊候、是中将様専ら御建議被成候事と相聞え候、〈殉死御制禁、并に列国証人御免の儀、御善政の中にも、尤大なる所に有之御事実、及び貞享中有賀小一郎所記参考いたし、中将様御建議の趣、此書には相記し候、然る処此二つを、松平伊豆守信綱朝臣存寄の由、記せし書ども相見え候処、殉死の禁は、信綱卒去の明年にて、証人御免は、又それより一年を隔て候事と相見え候、日来其志おはせし人にてかくいふにや、〉然る処、同八年、奥平大膳亮殿家来、犯御制禁殉死候由達上聞、不届に付被思召候、御禿可遊候へども、御憐哀の御沙汰にて、御知行の内二万石被減、羽州最上へ所替被仰付、諸大名へも御制禁可相守旨、上意有之、是又中将様被仰上候儀有之由に候、

備荒儲蓄一、同年、当年は諸国豊年に有之、会津表山中はちと冷え過ぎしかど、無之処も有之候得共、一体作方宜しき様相聞え候、今年の秋御意被成候は、百姓共農隙の節は、凶年を兼ね、葛・蕨の類の糧を、取置き候様に、可申付候、飢饉の時分、飢ゑざる心懸は、豊年の節可仕候、此段郡奉行ども、常々無断絶申付候、代官などの儀も、年貢を取立て候一偏の心得までに不存、其心懸平生可致との御儀に候、斯様の度々被御念候事故、諸役人迄思召を得心仕り、面々の身に引懸け、精入れ相勤め候事に有之、既に南山御蔵入は山中故、度々不作致候事に付、粟・稗の雑穀迄も蓄へ候様御申付け、寛文の末の頃には、飢饉のためにとて、味噌迄も沢山為煮蓄へ置き候様、或は倹素を御教へ、或は儲蓄を御教へ、民間の儀、御苦労被遊候御政道の辱き、可申上様も無之御事に候、

諸役の任叙を慎む一、常々の御物語に、大事の御役は、相応の者無之時は、御闕け被置候迚も、其任にあたらざる者は、不仰付方宜しき物に候、但兼務などは各別に候由、御意被成候、御家中の侍ども、日来の生立、堪否の品々御心被付、御医被置被召仕候、其筋の儀は、頭々申上候趣被聞召候上、被仰付事に候へども、蟠り有之者は、一切御得心不遊候、寛文の頃奉行の面々へ被仰含候は、諸役人の吟味油断の様思召候間、しかと可仕候、其身才覚なく裁判なき抔は、科に無之、其儘差置き候儀、申付け候者の不念に候、又何程才覚調法にても、蟠り有之者は、其者の科に候条、急度可申付旨、御意被成候、下々の事​(すカ)​​なら​​ ​、御役の申付方に付、被仰出候儀を、爰に相記し候、此頃御蔵入伊北築ケ谷村の肝煎に、伊兵衛と申す者を、申付け可然由、御蔵入郡奉行申上候処、先年仁兵衛と伊兵衛と出入の事、能く御覚被成候、泉田村総百姓仁兵衛すゝめを以て、伊兵衛不届仕候由、二十箇条余書立て、目安差オープンアクセス NDLJP:115上候、其目安の内、大概申分三四箇条、申晴らし不相成候由、此三四箇条申分不相成儀、伊兵衛不届無遁様に、穿鑿の時も、被聞召届候、伊兵衛事うはべの賢き物にて、何かたに有之候ても、其所の者にたてをいたし、能く思れ候様に致候と思召し候、第一出入の節不義の所、今以て申分ならざると相見え候、いかに下々とは申しながら、人をあぐるには、斯様の所能く心を付け吟味仕り候尤に候由、御意被成候、御得心不遊候、又郷頭の儀威勢有之、諸氏恐頓仕候由被聞召、被仰出候は、其身不調法にても、万づ律義に相勤め候へば、一段の儀に候、才覚にても蟠る者に候へば、小百姓の労に相成り、風俗の為不宜候間、此段取分郡奉行内々心懸可吟味旨、御意有之、或時郷頭の内、病死致候者有之、其子裁判宜しき者に相見え、郷頭筋の者に候間、跡役申付け可然由、申上候節、被仰候は、他人に郷頭役を勤むべき者無之ば、可申付候、其身郷頭の筋と申す事、一切心得不遊候、子孫と継ぎ申付け候儀不宜候、代々左様にては、自然と威勢を盗み、百姓共を掠め、組中の者も主人同前の様に恐れ、不時の事有之節、一揆の頭とも成候事に候、和漢ともに不宜事ども有之儀に候間、他人に裁判宜しき者有之候はば、新に其者を申付け、郷頭筋の者をば止め候て、尤に思召し候、御仕置致し候は、斯様の勘弁無之候ては、不叶との事に候処、其勘弁不至歟と、思召し候由被仰遣候、

一、同三年癸卯、公方様先年日光山御参宮の御沙汰有之、御延引被遊候処、今春二月十七日御登城の節、当四月公方様日光山御参詣候時分、江戸御留守居の儀、於御前仰、其節は、桜田御屋敷御詰被成様にとの御事にて、四月十二日より桜田御屋敷へ御引移被遊候、其日御登城御目見被仰上、依上意御広敷へ、初めて御登り被成、老女衆岡野殿・矢島殿・土佐殿へ御逢被成、御台様より、御杉重・鮮鯛御頂戴被遊候、十三日公方様御発駕、廿四日還御迄、無恙御留守被遊且又日光街道高原峠へ、御番所被相建、御固の御人数被差出候、還御の節、御前へ被召、御悉の上意にて、御手づから昆布・搗栗御頂戴被遊候、

一、同年春、御領中村々十三四年以前より、米価は下直に無之候得共、其時より、免は上り候故に、可之哉、一両年以来、御年貢皆済急に及び、免相にて三分九厘余御用捨被下候はゞ、村々吟味いたし、従強弱差引致したき由、郡奉行申上候趣、オープンアクセス NDLJP:116聞召届候、困窮の所々、能く救立て、禿百姓質劵に出で候者無之様、随分勘弁可申付候、よき村へ御用捨は不然候、総ての手当、其道理に叶ひ、郷村甘き百姓の風俗、正路に可成儀に候はゞ、たとひ過分の御手当に候とも、可仰付候、然れども其頃合能き程の吟味、如何可之と思召し候、諸事入念御手当の所、宜しく相計ひ可申付旨、被仰候に付、其秋に至り、明細相改め、二分一厘五毛余の免下に相当り候段申上候、

正之の領内施政の方針一、同年秋、友松勘十郎氏興、江戸より罷下り候時分、被仰含候趣、御家老・奉行へ為申聞候は、永々江戸に御詰被遊候間、御暇被進候て可之、左候はゞ、御下向被遊、御自身御身を被詰、御政道可仰付候間、下々急度御仕置相守可申と思召し候、夫迄に其通にては、難置儀に付、今度有増被仰遣候、其許の儀各々被任置候儀に候へば、定めて油断有るまじく候へども、朝暮無御心許思召し候に付、御眼病各存知の通故、御筆被執候儀無御座候へども、あかりを被請、御自筆にて漸御書御調被成、被下置候事に候間、被仰出候趣を守り、先各万事慎み、倹約に可改候、御家中并に御領中あまたの人数に候へば、各少しも粗略に存候ては、諸人安く有之まじく候間、昼夜深く心を尽し可申候、左候はば何卒存寄も出来、御家中の風俗も能く、百姓どもゝ心易く可之被思召候条、返すも少しも被油断まじき由、御意被成候由為申聞、何れも謹んで承知仕候、色々被仰遣候中にも、御政事に預り候面々、心持の第一は、万事法度を出し候儀、仮初の事にても大切なる儀に候間、猥に法度を立て申すまじく、まづは得御内意候様可仕、兼ねて被仰付候通、万事倹約候儀、無油断深く心を用ゐ、面々其身を慎み、倹約をいたし候はゞ、下々相守り、風俗も直り可申と思召し候、且又民間の儀、甚無御心許候間、奉行菅勝兵衛・赤羽市右衛門儀、巡見いたし、民の情を察し、苦しむ所、風俗の体をも見候て、万事存寄も出来可申、少しも民の苦に不相成様心懸可相廻候、民間前々より非法なる政道可之候へども、其様子無御存知故、御改可被成様も無之候、弥非法なる儀於之は、御勘弁の上、御改可成候間、致吟味申上由、御丁寧に被仰出候、其外御郡中御仕置かた四箇条被仰下候は、第一は九十歳以上の者、不貴賤男女、扶持可宛行、第二は火葬は甚不孝たるの間、能く教可申、第三は殺産子候事、為不慈の条、能く教可オープンアクセス NDLJP:117申、第四は禰宜・巫祝等、奇怪なる事申す者有之、則致禁制、其外異色異言の輩、急度可追払由、御書付被差下尚又勘十郎へ被仰含候は、土俗久しく火葬に習ひ来り候処、死後とても親の体を焚き候事は、不孝なる事に候、火葬の禁子ども多く持ち候とて不取上、産子を失ひ候儀も、旧来の風俗候処、是又不慈なる事に被思召候、此度急度御法度に被仰付候にては、無之候へども、下々へ平日無油断申教へ、其中に教も不聞入者有之候はゞ、中将様殊の外、御嫌ひ被成候儀に候間、立御耳候はゞ、不然由申聞け候はゞ、速に可相止候、尤送葬の式も美々しく致し、厚葬不然と思召し候ては無之、先づ火葬にさへ不致候へば、能き事に思召し候由、御下知の条々委しく承知仕り、御仁厚の御仕置ども、末々まで行渡り候様申付け候、老養此時に町中は不申、御領中御蔵入迄、九十以上の者人数相改め、百五十五人一人扶持づゝ被下置候、此以来毎年御改にて被下候、此度老養被下候儀、前代未聞の御善政、広大の御慈悲候とて、諸人無限悦び、百五十五人の者共の内、歩行叶ひ候者は、少々若松へ参り御礼申し、其外の者どもは、子ども兄弟差越し、何れも感涙を流し、難有奉存候由、且総て諸役人并に下々、民間の往来に非分を以て、下民を不悩、無益の事に、一人も不召仕様に可致、民を労をも不顧、馳走振に費民力候儀は、不然候、旅人相煩ひ候はゞ、亭主粗略に不致、医者をかけ、随分療治可致由、被仰出候も、此時の儀と相聞え候、

郷村籾蔵の配置一、同年、一万石の地に、一箇所宛籾蔵被相建、二万三千俵五斗入にて、御蓄被置、飢僅の御救に被成置候、此後尚又被増、五万俵高迄御蓄被仰付候、

一、同年冬、民間の儀、平生御苦労被成、少しも粗略にては、御領中の万民安穏に有之まじくと思召し候、郡奉行・代官ども心を用ゐ、分にしたがひ産有之様に、常常心懸尤に候、慈悲にても忽諸にては、百姓の身持疎に可相成候、心中慈悲にさへ候はゞ、諸事厳しき程に申付け候て可然候、上を憚り諸人のおもはくを兼ね、徒にゆるかせにいたし候ては、悪しき事共多く可之候と思召し、常々無油断申付け候様、御丁寧に被仰遣候、

一、多年御在府被遊候に付きては、御国の御仕置、大方は御家老共交代の時分被仰下候、御家老共より少し先、御横目の者共致交代候、御刑戮筋に懲悪の御政道は、御横目共下りの時分、被仰下候も多く、慶事の分は、多くは御家老とも承知罷オープンアクセス NDLJP:118下り候、依之御横目の者罷下り候時分は、諸人身を縮め居り、御家老の下りをば、待遠に存候由申伝へ候、

一、或時に格立ち候御役の闕目被仰付候処、其者存の外不調法に候間、早速役儀被召放然由、友松勘十郎申上げ候処、御意被遊候は、御身近く被召上候者共の儀は、人柄能く御存被成候、御手遠の者は、其方共吟味肝要に候、彼者儀、悪しき行跡有之ば、不是非候、不調法に候とては、御免難成候間、其通に致し可差置候、此者を早速御免被成候ては、重ねて御家中の者、御目鑑も頼みに存ずまじく候、以後選挙の時分、入念候様被仰候由に候、

養子には同姓の者を撰ばしむ一、兼ねて御意被成候は、御家中子供無之者、養子仕候者は、同姓の者吟味の上、養子可仕候、若し同姓無之節は、不已事に候、同姓の子を差置き候て、他姓の子を養子仕候儀は、有るまじき由、御教諭被成候に付、御家中の者筋目を正し、養子相願ひ候風に相成候、保科頼母儀、〈本姓西郷氏、〉養父十郎左衛門、最前嗣子無之候に付、母方の続きを以て、養子と相成候処、其跡式被下候、十郎左衛門遺腹の子出生いたし、九十郎と申しけり、段々成人致候に付、寛文三年、頼母儀、九十郎は十郎左衛門忰の事にて、無滞致成長候間、私へ被下候御知行、九十郎へ相譲りたき由、願の候趣被聞召、義理の立ちたる致方、兼ねて思召の儀に御感被成、九十郎に家禄千二百石被下、頼母には新知五百石被下、西郷頼母と名乗被召上候、中将様御末期迄も御誉被成、慥なる生付にて、次第に能く可相成と被仰候、御家中の者感励致し、他姓より相続の者、其家の実子成長後、家禄を譲り候もの数多相聞え候、頼母儀御目鑑の通、後に宜しく御奉公仕候者に候、

継母の不行跡に関わる裁判一、同年那麻郡小田付村総四郎儀、亡父平右衛門遺言に依りて、弟共守立て、名跡為続候積りに罷在候処、平右衛門後家は、五左衛門と申す者入夫致し、己が実子を憎み、辛く会釈いたし、実子共幼少ながら、自害可致と存候程の体に有之、継子をば悉く寵愛いたし、五左衛門も己が子に家督為致度仕方ども有之、総四郎無拠訴出で、郡奉行共遂穿鑿候趣被聞召、御意被遊候は、総四郎母儀、入夫五左衛門に致愛着、実子を忌み憎み、継子を寵愛仕候儀、珍しく不届候徒者いたづらにて、夫五左衛門儀も、先夫平右衛門実子を憎み、己が実子を家督にいたしたき仕方、是又徒者に候間、御誅伐可仰付候へども、左様にては平右衛門実子共、以来心よく有オープンアクセス NDLJP:119まじく候間、御慈悲に身命御助被成、五左衛門夫婦并に五左衛門実子三人、此五人の者悪所へ送越し、百姓に可申付候、総四郎儀、子として母の恥辱悪事等、訴出で候へども、総て父母の恩、母より父重く候、然れども亡父平右衛門遺言を背き、実子を捨て候母にて候、其上総四郎儀、一己の身上に不拘、弟どもしたる所を悲み、平右衛門遺言証文相違し候処致迷惑、不止訴出で候間、尋常子として、親の事訴出で候とは、格別に被思召候間、総四郎儀無構差置き、弟共幼少の間は守立て、平右衛門名跡を為継候様に、堅く総四郎に申付け、平右衛門下女・下人・家財ともに、弟市兵衛に為取候様、御裁許被仰出候、

一、同年十一月十九日、御不例御吐血被遊候、此旨上聞に達し、廿二日松平民部少輔殿、為上使御病気御尋有之候、其時御送迎に、常の如く被成候処、廿五日御老中稲葉美濃守殿・若年寄土屋但馬守殿御出有之、御病気中上使と有之候ては、御送迎等有之、御苦労に有之べくとの思召候間、面々自分の見舞ひ候様にいたし、御病体を可聞との上意の由、御物語被成、中将様御感涙を流し、難有思召候、十二月朔日、筑前守様御登城の節、御病体細に御尋有之、同二日稲葉美濃守殿依上意、為御見舞御出被成候、

正之榊原忠次を推薦す一、重き御役人衆、中将様御推挙にて、被仰付候方不少由に候、中にも榊原式部大輔殿〈忠次朝臣〉御事は、如何なる訳に候や、中将様も兼ねて御不和の様にて、殿中にて御出会の時分も、御用の外は、時候の御咄も不成程に有之、式部大輔殿御迷惑に思召し、御隠居にても可成やと、御苦労被成候由に候、然る処去る万治中、井伊掃部頭殿〈直孝朝臣〉・御卒去以後、其跡御役は、不仰付候処、寛文三年の頃、公方様御前へ中将機被召、掃部頭跡役は、誰か可然との御尋有之に付、此御役可相勤器量の者は、式部大輔に可之由、被仰上候、上様にも日頃御不和なる儀は有之、御親疎に不拘、御推挙有之儀、殊に御感思召し、頓て式部大輔殿、御大職被仰付候、其節中将様、御先祖小平太殿以来、御忠功の筋目、如此被仰付、御感悦不少段々被仰上候由、追て中将様御推挙候由、式部大輔殿被聞召及、深く辱く被存候由、御子孫へも被仰伝候由、彼家にて申伝へ候と相聞え候、

一、此年中将様被仰上、権現様以来、流罪・御預、并に蟄居被仰付置候者ども、御赦免被遊候、御満悦被成候、

オープンアクセス NDLJP:120節婦を賞す一、同四年甲辰春、河沼郡倉道村彦三郎と申す者、会津郡下居合村藤三郎妻へ、密通申懸け候処、彼妻合点不仕候故、数箇所伐付け候、然れども妻儀死に申す程の疵には無之、其様子無紛候に付、会津御留守の者ども、彦三郎儀は、旧冬誅伐申付け候由達御耳、尤に思召し候、右女の儀、被伐候程の様子に候共不合点、婦道の儀を守り候段、下々の事に候処、奇特に被思召候、依之、女に為御褒美、金子二両被下置候、大に夫藤三郎・同妻に為申聞、金子為取可申旨、御意被遊候、

正之の病状一、同年正月七日、本多土佐守殿為上使御出、御病後も御様子御尋被遊候、同九日、御病気御快く、御登城被成候はゞ、御乗物にて御台所口より、御上り被成候様にとの御内意に付、近日御登城可成思召の処、十日又御吐血被遊候て、此後の御病者に被成、十五日筑前守様御登城の節、御様子御尋有之、廿六日にも御老中迄御尋、廿九日大久保出羽守殿、為上使御尋、二月七日雪降に付、阿部豊後守殿奉書にて御尋有之、其後も度々の御尋問にて、公方様御案じ被遊候御様子、大方ならず候、

一、三月十三日、御病気御快く被入候に付、始めて御乗輿の儘、平河口より御登城候へば、御病気御快く、今日御登城一段の事に思召し候、少しも早く御逢被成度由に付、御前へ被召、御喜悦不斜候、玄徹をも被召候て、肥後守療治手柄仕りたるとの上意有之、御前退出候後、稲葉美濃守殿御出、今日御逢被成、御安堵被思召候、向後猶又年少に致し、随分保養可致との上意の由、被仰聞十八日、石川美濃守殿を以て、御菓子被下、先頃登城後、相障り候儀も無之やとの御尋有之、誠に御懇なる御事共、難申尽候、

一、同年閏五月十二日、又々御吐血、十九日稲葉美濃守殿、為上使御病気御尋有之、其上巣鷹御拝領被遊候、

一、七月十八日、御病後初めて御登城、御気色御快復の段、公方様御満足被遊、御慰のためとて、佗助扇衝の御茶入、御手づから御拝領被成候、天下の名器御頂戴、殊に難有御満悦被思召候、此後酒井雅楽頭殿・阿部豊後守殿・久世大和守殿、御一人づゝ御銘々御招ぎ、御茶器為御見御饗応被遊候、

学問所の保護一、中将様御風化によりて、四民共に学問に志し候者不少候処、此頃学問仕候者ども申合ひ、若松桂林寺町の末に、纔か計の学問所を取立て、稽古堂と名付け無為オープンアクセス NDLJP:121庵といへる禅僧、学力有之候者に付、此者を主と仕候て、何れも相集り、学問仕候由被聞召、寛文四年の頃、其地を免除地に被成下候は、殊に難有御事に候、此後修復金をも被下候由、申伝へ候、其後山崎嘉右衛門、京都に於て、漢土制作の孔子の像を見出し、持参仕差上候処、中将様御拝被遊、先会津へ遣し置き候様被仰付御文庫へ被納置候、筑前守様御代、友松勘十郎へ被仰付、講堂御取立て、元禄の初、学料百石御寄附有之、孔廟御造営、聖像御安置、町の稽古堂へも、学料五十石御寄附被遊候、畢竟中将様御遺言、数年の後に、広大に相成候儀に候、無為庵は名如黙と申し、肥前の産にて、臨済の僧に有之、万治の初より、若松へ来り、其後耶麻郡落合村にて小庵を結び、無為庵と号し罷在り候詩歌を能くいたし、其集今に有之、多年稽古堂の主と成り居候由、其詩中に、一為稽古小堂主、屈指今年二十周、白髪成堆明鏡裡、春風不到老人頭と、自ら賦し置き候、

山崎闇斎の講義を聴く一、此以前官医士佐長元被召寄四書の講釈など被仰付、或は儒臣被召出、経史を御講論被遊候、寛文四年、京都の儒者山崎嘉右衛門、初めて被召寄、講釈被仰付、逗留中日々の様被召、此後江戸へ罷出で候時分は、毎度罷出で候、嘉右衛門儀、四書・近思録の類、吟味殊に精しく、講釈の勝手能く仕候由に候、友松勘十郎も嘉右衛門より業を受け、学問仕候由に候、後には会津へ罷下り候儀有之候、

本朝通鑑の編集一、此頃被仰上候儀有之、林春斎へ本朝通鑑の編集被仰付候、永井伊賀守殿其奉行を被致候、御当代にては、盛挙の由にて、御満足被成候、草稿等書写致候者、抱へ置き候料として、春斎へ八十人扶持被下候由に候、此後出来次第、草稿ども段段被聞召候、

一、此頃の冬、若松表新高直に相成り、臘月に至り、近年に無之深雪降積り、諸郷村通路不自由にて、甚払底いたし、一日暮し致候者、殊に行詰まり、或は下敷を取毀ち、或は樹木を伐取り、朝夕の薪といたし、ひしと行詰り候に付、御政事に預り候面々僉議いたし、大塚山・郷原山御林被下、刈為取候様にと差図いたし、山札相渡し、薪為取候様申付け候処、早速薪不自由に無之、一体の直段も、下直に相成り、下々大方ならず相悦び候、此段達御耳、翌春に至りて右の下刈無価被下候、薪高直の時分、近山に於て、下刈被下、不存寄御慈悲、町方家別に少々御米被下候よりは、人々甘き緩々越年仕候由申候、御仕置方日来の厚き思召し、御留守致候者、オープンアクセス NDLJP:122能く承順被仕様にて、如形行及〔被カ〕申儀、是併中将様御徳儀無限御儀に候、

諸侯の人質を廃す一、同五年乙巳、諸大名より江戸表へ、家来為質人召置候処、御代も重なり候に付、斯様の可之候儀とは、不思召候、殊に当年は、権現様五十年御忌も過ぎ候へば、時分も能く、何れも御心易く思召し候に付、向後御免被成旨、上意有之候、是中将様被思召寄、言上被成候事の由に候、御治世重なり、太平の風津々浦々迄も、行渡りしは、此一事にてもおしはかられ候事に候、又諸番頭衆・諸役人衆の御級料被相定、其人の器量次第、御知行の多少に不拘、可仰付との儀も、中将様被仰上候由に候、

一、同年三月五日、是迄は芝海手の御屋敷に被御座候処、緩々御養生被成候ため、箕田御屋数へ御移被成度由、被仰上、何方になりとも、無気遣能在り、養生可仕旨、上意有之、今日箕田御屋敷へ、御移徙被成候、其時当典厩様始め、所々より御祝儀御進物有之候へども、御養生のための御事に付、御断にて御受納不遊候、

衆道の殺害に関する裁判一、同年、外様士吉田次郎右衛門、召仕へ候草履取長蔵と申す者、御勘定頭野村与総兵衛忰宇兵衛に、衆道の智音に相成呉れ候様、度々相願ひ候由に候処、宇兵衛得心は不致候へども、余人とは噺し申すまじく候間、存じ切り候様にと、記請文を認め相渡候由、然る処其以前、外様士黒河内彦右衛門三男又市郎儀、宇兵衛と衆道の知音に候処、宇兵衛母気遣ひ候に付、相断り知音を切り候へども、長蔵心易く宇兵衛かたへ参り候と存じ、無下に不本意に存じ、宇兵衛か長蔵を打ち候て、立退可申企有之やに、取沙汰相聞え、長蔵及之、己故に、若輩の宇兵衛を、為打候事も無念に存じ、或夜本二の丁に於て、又市郎を打ち、其身は直に可立退とも存候へども、左候ては、幼少より厚恩を受け候主人、迷惑可仕儀と存じ、主人の家へ立帰り、心静に書置いたし、自害可致と存候処を、傍輩に被見付、主人方にて縄を懸け置き、可訴出と到居候時に、召捕の同心駈向ひ連参り、公事奉行ども、穿鑿の上、無紛相聞え候、下々として侍分を及殺害の儀、以来御仕置の為に候間、長蔵儀磔に被遊可然やと、会津御留守居の者申上候処、左様の事には、不思召、長蔵儀、己故に、若輩の宇兵衛を、為打候ては無念に存じ、又市郎を打ち候事は、此上の仕方には、尤の儀に候、彼又市郎儀は、日来無作法と申伝へ候侍の忰として、草履取風情の者に見苦しく被打候段、此者の死骸をば、諸人見せしめの為、晒し候ても可オープンアクセス NDLJP:123然程に思召し候、長蔵儀は少々御助可成程に思召し候へども、元の違ひたる儀に候条、討首に可致候、勿論死骸を検し、并に首晒し候事には不及由、御下知被遊、其親にも子を無作むざとそだて、無慈悲なる者と思召し、閉門被仰付、御家中の侍共へも、心を付け子をそだて候様にと御意被遊候、

桂光院の移転一、同年春、源満仲の廟摂州多田院へ、公儀より五百石御寄附被成、其年の夏、吉田神祇管領職被相建、同六年、伊勢〔慶〕光院の比丘尼寺を宮川の北に御移被成、同七年出雲大社御修覆被仰付候類は、是皆中将様御存寄被仰上候事の由に候、

吉川惟足一、兼ねて本朝の神道、中古以来衰微の様子を、御歎被成、吉川惟足は、萩原兼従卿の相伝許可を受け、相州鎌倉へ隠居罷在り候由被聞召、御家来服部安休と申す者を被遣、御尋問被成、其後江戸へ罷出で候て、寛文の初より、神書の講釈被聞度々被召寄、其奥秘をも被聞召、追つて御推挙候て、公儀へ被差出候、今の吉川家其子孫に候、服部安体は林道春の門人にて、儒学仕候者に候処、惟足に神道を相学び、寛文の末、神社志并に総録御編集の御用相勤め、延宝中、見禰山御社の社司となり、御知行二百石被下候、

衣食の質素一、同年秋、御家老共被召出候て、御意被成候は、当春中筑前守様会津へ御下向、此節御在邑被成候処、御飲食を初めいかにも御質素に、別して御物数寄など、無之御様子達御耳、御喜悦思召し候、常々倹約の儀御家中へ教被成候へども、思召し候程には、相守り候者も無之、御自分の事は、成る程諸事御質素に被遊候御心持に候へども、それとしても皆々、左様には不存ものと、御察被成候、向後は此上にも、麁服被召、奥向にて被召仕候女中共も、少しも綾羅不仕候様、可仰付候間、其方共弥倹約を守り、常に麁食にいたし、衣服をも随分麁相にいたし候様にと被仰候、兼ねて汪信民、咬得菜根百事可做の語を、御賛歎被成、画工狩野探幽へ其画を被仰付候て、御座右に御県置き御誠被遊候、かゝる御様子にて、何事に於ても御倹素なる事どもにて、見栄えなど少しも御心なく毎物世間よりは、二等も三等も引下げ候様、御直に被仰付候儀も有之候、筑前守様へ加州より御入輿の節、御厨子・御黒棚以下御挟箱迄、六色の油単唐織にて、裏板の物に御設出来候由被聞召、御使者を以て、御断被仰進候、筑前守内室に申受け候上は、此方より無遠慮申、油単は結構なるも被相止、何れも絹木綿可成候、将又具桶抔は、小身なる衆迄、オープンアクセス NDLJP:124唐織の油単被致候へども、肥後守存寄有之候間、外々よりは格別麁相に被成、具桶にも絹の油単御懸被遣可然旨、被仰遣候程の事に有之、御閨門の内とても、御倹素至極の御事に候、〈或時詩経の講釈被仰付、葛覃の篇、被聞召候時、御意被成候は、今時奥向にて、幼女縫針の業たど致候へば、老女始め其外の女ども、いやしき事致候とて、是を為止候、然れども男子は弓矢、女子は縫針、何れも幼年より弄び候は、自然の情に出で候儀、王后の尊き身にても、女工の事は、自ら勤め候て、少しも驕奢の心無之段、今葛覃の詩にて、文王の后妃、其徳行格別なる事を悟り、御自分の奥向、日来の御教無之を恥しく被思召候由、呉々被仰候由に候、〉

人主の仁慈一、或時近侍の者に、御意被成候は、御家中の者御褒美被下候儀、至つて稀に有之候、御近習の者へ、飲食を以て、御慰労被成下候事も、容易に無之候間、御親愛の薄き様に申す者有之由、ほのかに被聞召、御気質にも可之やに候へども、常に御家中の者の為に、相成候様にとの御心入にて、御粗略の儀曽て無之、御苦労被成候、其科に無之者へ、むざと刑戮など無之様にと、被御念候儀は、皆々相弁へ候通に候、度々御褒美など被下候て、御懇に被成下候様にても、一度科も無之に罸せられ候儀、有之候はゞ、無詮事に候と、被仰候由、他家の様子、其得失委しく御物語被遊、おほやけに寛に無之候ては、大勢の御家来不相安儀、細に成行き候ては、煩擾の患可之候由、御意被成候、総て御褒美等の儀は、稀々の事にて、姑息小恵の思召は、少しも〔不カ〕入候、権現様上意に、過分に知行其外人に施すは、奢と申すに有之、其分に当るにて能く可之候、奢る心なく物ごとに倹約を用ゐ、常々其程を知るを以て、政道正しきと可申候、下々は知行其外施物、其程に与ふるをば、奢に引当て、吝嗇の沙汰致候へども、古より賢士過分に施物なく、倹約を用ゐしとの御旨に有之由に候、中将様御儀、御祖風に被叶候御事にて、可御座候、常々少し褒め候へば、のり上り、少し呵り候へば、縮み候様なる侍は、何の用にたゝぬものぞと、御意被遊候中申伝へ候、

一、或時縮緬御羽織を被召、御隠所へ為入、壁へ御〔(触)〕り、穢し候とて思召し候や、御納戸役内田権四郎を被召、可拝領御様子の所、急に坊主と被仰、御茶道頭に、其御召の御羽織被下、権四郎へは兎角の儀も無御座候、権四郎儀、穢れ候ものを、士へは拝領難仰付候、思召し直され候儀と恐察仕り、特に難有存入り、後々までも人に物語仕候由に候、

玉山講義附録編集一、同年秋、玉山講義附録御編集就成いたし候、伊勢宮崎の神庫、并に若松の東照宮・諏訪社・耶麻郡新宮村熊野宮・河沼郡塔寺村八幡宮・大沼郡高田村伊佐須美社等オープンアクセス NDLJP:125一部づゝ御奉納被成候、

火葬禁止の為墓地を設置す一、同年の冬、被仰出候は、火葬は不孝たるの儀為御教、去々年被仰遣候、依之土葬の場所無之寺院可之と思召し、青木村の近所大窪と申す谷、南へむきし北平、北滝沢の内、小山并に郷の原山、此三箇所葬地に被下置之候間、死人遣し度者は可遣由、侍中町かたともに、可申聞候、乍去是非此所へ葬り候様にと、被仰付候には無之、且又親遺言致し、子も望み候はゞ、火葬にも可致、火葬御法度被仰出候には無之、火葬甚だ不孝の儀御教にて、甚だ御嫌ひ被遊候由申聞け候はば、連々可相止、下々の儀、折々無油断申聞旨、被仰出候、此以来火葬の弊俗、自然と相止み候て、後々は御領中御蔵入隅々迄も、火葬仕候者無之と申す程に相成候、三箇所の葬地ども、今は満山畾地も無之程に、墳墓相連り、寺々の荼毗場も、不用の様に相成候、又諸士死して無後者へ葬祭料被下、并に足軽・中間に江戸勤番の節、病死の者、葬料被下候て、四民ともに段々送死の一事、殊に疎にすまじき筋を相弁へ、薄葬の沙汰不相聞、棺槨・墳墓の制も、段々入念、御家中始め下々迄、神道葬祭之輩紛しく有之、儒道の式にて葬祭いたし候者も不少候、

一、同年十一月五日、登城の節、上意有之候は、眼病苦労に不存、能々気色の養生専一に被思召候、縦眼は今より悪しく候とて不苦、気色能く幾久しく存命の段、何より以て、御重宝御頼もしく被思召候旨、再三被仰出、誠に難有御感涙被遊候、

一、同年十二月十五日、御奉書御到来にて、十六日御登城被遊候、九つ半時於御黒書院、中将様御一人へ御料理出で、御小姓御給仕、御老中四人共に御出にて、色々御馳走、其後於御囲、酒井雅楽山殿、阿部豊後守殿被差加候て、公方様御手前にて御茶被進候、殊に御気色能く御茶湯へ被会、可満足、由、御悃の上意ども有之候、一客の茶湯御一客の御茶湯と申し、御当代大臣・諸大名衆へ御茶被下の始、千秋万歳目出度御儀被思召、御機嫌能く、始めての御茶湯へ被会、実神明の感応と、別して御満足被遊候、御帰宅後、一日も此世にながらへ候を以て、今日御恩情の忝きを蒙り候と、御意被成候、今日能き折柄の由にて、即刻筑前守様へ有明の御茶入・半井茶碗、市正様へ広口の御茶入・蔦紅葉の茶碗被進候、兼ねて御眼御不自由に被御座候処、御囲に於て、少しも御けがも無之、何の御心懸りも不在、首尾能く御仕廻、オープンアクセス NDLJP:126弥御満悦被思召候、此時御囲の御道具は、松月翁の墨跡御懸物、〈是は松平隠岐入道勝山殿被差上候御品の 山、〉大隅扇衝の御茶入、〈井伊掃部頭段より被差上候由、〉縄簾の水瓶、〈酒井空印殿被差上候由、〉御釜、〈織部筋古銅蓋、〉御茶碗 〈箒毛目、土井大次頭殿より被差上候由、〉御茶均、〈小堀作、〉御花入、〈古銅大そろり、御花、白梅、赤玉椿、〉いづれも名物を御揃被成候由に候、

一、同六年丙午三月廿九日、御登城被成、於御座之間、中将様御一人御側近く被召、御用有之相済み候、上意有之候は、気色の儀、別して無心許、思召し候、日々の御様子御尋被遊度思召候へども、替る儀も無之に付、其通被遊候、思召し候程には、難仰述由、色々細に御悃なる上意に付、斯様の難有上意承りても、眼あしく御奉公不仕段、一入御迷惑に思召し候由、御請被仰上候へば、重ねて上意に、眼あしく御奉公不仕儀、少しも苦労に存ずまじく候、上意の段は、大方に存じ候や、一方ならず思召し候儀に候間、自分計の儀と不存、御奉公と存じ、可養生候、目は不見候とも、長久にさへ候へば、御為に宜しき事に思召し候条、目あしき儀少しも苦に不存、心を緩々と持ち、可養生旨、重々御懇の上意有之、別して難有被思召候、

一、同年六月五日、御眼病弥増し、御勝れ不成に付、稲葉美濃守殿・板倉内膳正殿御頼み、御隠居御願被遊候処、七月十三日、阿部豊後守殿・稲葉美濃守殿御越、御願の通達上聞、尤には被思召候へども、暫御免難遊候、但御城中乗物御免被成候間、此後登城の節は、弥無遠慮、平川口より乗物にて、出仕可致旨との上意の由、被仰聞、十六日御登城被遊候、

会津風土記の編纂一、同年八月六日、兼々本朝の風土記ども絶え候儀、歎かはしく思召し、先会津の風土記御取立有之度被思召立、去る寛文元年、友松勘十郎、其奉行被仰付、御領中巡見いたし、山川の形勢・土俗・物産・戸口・寺社・古蹟等、明細に相改め、或は古器の銘、古文書、或は村老の申伝まで、悉く聞糺し申上候に付、逐一被聞召、部類を分け書立て、山崎嘉右衛門へ潤色被仰付、六年懸り候て、此度致成就候、会津四郡会津四郡と申す事は、平家物語等の古書にも、相見えたる古き総名の所、此時に四郡の名さへ紛乱いたし、地界不相分を、古文書・古器銘に拠つて、御糺し被遊候、往々は天下の地志にも、御志被御座候間、御献上可成思召にて、御取立有之候、同十一日御登城の節、此儀を御老中がたに、御咄被成候処、何れも御感歎被成候、後年筑前国オープンアクセス NDLJP:127続風土記・仙台封内風土記等、編集の首唱被御座候、

一、此後御領中御蔵入迄、寺社御改被仰付、縁起書出被仰付新地の分は、不残御取毀被成候、其中に新地の寺院、古跡の様、偽り申立て候僧侶は、厳しく可仰付候、新地に無之とも、久々住持の絶え候場所は、再興不仰付類も有之候、追て寺社縁起と申す一書御取立、秘府に蔵め被置候、

淫祠仏堂の破却一、同年秋、二十年来相建て候淫祠仏堂、悉く破却被仰付、且万歳・獅子をどり、其外常々替りたる怪しき事を以て、渡世と致候類、御法度被仰付候、非法虚誕有罪の僧侶有之時は、御糺明の上、或は追院・追放、或は其寺破却被仰付、其跡在家に被成候儀も、不少候、又列国の内、何方に候や、一旦に寺院破却・僧侶追払等申付け、何かと申す由被聞召及、御物語に被遊候は、其志はさる事に候へども、総て甚だしき仕方は、事情に逆ひ、遂げ行はれがたき事多き物に候、俄に廃却致候様にては、門跡本山等にても、とやかく可申、自然再興など致候ては、手を付けざるには劣りたる儀に可之候、新地無住、或は寺僧の有罪、時々段々減少いたし候へば、何の仔細も有之まじき由被仰候、

山鹿素行の処罰一、同年冬、江戸に罷在り候浪人山鹿甚五左衛門と申す者、世上徘徊、言を巧みにし、人の迷と相成るものに付、厳しく押込被置可然由、御老中迄、中将様被仰述候に付、播州赤穂城主浅野内匠頭殿へ、御預被仰付候、甚五左衛門儀、其身学才も有之、特に軍書など好み候者の由の処、御仕置の妨ある筋、思召当てられ候儀と相見え候、

一、同年、御領中相用ゐ候桝、御改被成候、

一、同七年丁未春、会津の川々并に湖辺にては、四五月頃、毎年あゆなめ魚子をすり相集り候を、升魚と唱ひ、町在のものは不申、侍中も争ひ競ひ、殺生致候由被聞召、子を生み候時分に、尽して取り候儀不宜、其上作法不然候、自今以後は、御法度に被仰付候間、侍并に町人・百姓まで、不取様可申付由、御意被遊候、

一、同年三月朔日、筑前守様会津への御暇被仰出候に付、同十五日、為御暇乞、芝御屋敷へ被人、〈箕田御屋敷へ、筑前守様御出の節とも、記しゝもの相見え候、いづれ是なるを知らず、〉御馳走御振舞過ぎ候て、中将様より、逍遥院殿詠歌の内にて、三首を写し被進候、

   身はふりぬ行末とほくつかへよと子を思ふ道も君をこそおもへ

オープンアクセス NDLJP:128   雲井にもきこえざらめやつかふべき道をゆづるの子をおもふ声

   忘られぬおやのいさめの言の葉はしのぶの露のせきところなる

古社の再興修復一、同年秋、会津郡蚕養国神社は、延喜式神名帳に有之名社に候処、社頭久しく荒廃いたし、旧地の古木のみ有之を、御再興被仰付、神職迄御附け、社料十石御寄附被成候・此外古社の修復等被仰付、右前後数多の儀に有之、中にも耶麻郡磐椅神社も、延喜式に、被相載候社に候処、此頃は神号を失ひ、峯明神などゝ唱へ候を、古き御正体の銘に、岩椅明神と彫付有之を以て、神号を被相復、社頭御修復、筑前守様御家督後、社領十石御寄付被成候、〈岩椅の神は、いはきと相唱へ候、文徳天皇実録に、岩椅神社と有之、或人の説に、磐梯の山名、今音にて、ばんたいと唱へ候、古文書に、訳を以て、いはゞしと記するもの、間々有之候を以て見れば、恐らくは岩椅神は、いはゝし神にて、椅は埼の誤に、可之や、埼は字書に、石橋と相見え候と申候、峯明神は、元磐梯山上に、鎮座ありし故の名と相聞え候、今磐梯の半腹、元為殿といふ字の辺に、礎石井に古井の跡など有之候由も承り及び候、〉若松の鎮守諏訪社、其外高田村伊佐須美・培寺村八幡宮など、何れも社僧・仏像の類御取払、惟一の神式に被相改、諏訪へは先規の通百石、高田・塔寺の両社へは、新規に三十石づゝ御寄附被遊候、

困窮藩士の救済一、同年冬、此以前御家中の侍衆、勝れて身上不成者ども、御不便に思召し、承応二年御上洛御下向後、金一万二千両余、年賦に御貸被成、莫大の御哀憐にて、無限難有相悦び、其後も御救被下候儀有之候処、此時に至り、又候や高利の借金どもいたし、其上買懸り等も沢山有之、畢竟身持不調法故、進退困窮いたし候処、自分として可致様無之様子に付御僉議の上、今度二万両余拝借金被仰付、古借金・買懸り、等返済致候様被成下、借金の高に従ひ、皆納迄は、知行の内被差上、自今以後は、減少の分限にて御奉公仕り身持倹約にいたし、身上取直し候様可致候、総て侍ども風俗悪しく、義理を不存、私欲に迷ひ、倹約を不守、分外の借金致候段、御家中奉行共、倹約不致、存入り薄く、諸頭心入れ悪しく、義理に闇き故と、被思召候旨、御意有之、士の風儀、倹約の御教、御条目を以て、御家中へ被仰渡、重々の御情難有御事に候、

一、同年十月十一日、御登城可成との儀、上聞に達し、天気悪しく、少しも気色滞り候はゞ、遅くなり候ても、不苦儀に思召し候間、可延引旨、上意の由、御老中より申来る、然れども随分御気色宜しく被御座候に付、今日御登城被成候、御前に於て、御為に成り候儀に思召し候間、何にも不構、引籠り致養生、何卒持病不発様可致との上意にて有之、御退下後、稲葉美濃守殿を以て、気色無御心許思召オープンアクセス NDLJP:129し候処、顔色御覧被成、御安堵被遊たるとの上意有之候、

一、同八年戊申正月十三日、御登城被成、年始の御祝儀被仰上候、近頃は稀にならでは、御登城不遊候に付御老中方度々御宅へ御出、御政事向御相談被成候、いつも御人払にて、しめやかなる御事共に候、其時は不仰付候とも、御台所にて御膳部の御設など仕り、御用相済み候を、見計らひ差上候、或時何かと仕り候内、御帰り被成、御都合違ひ候に付、其役人ども迷惑仕候て、其趣を申上候へば、左様には無之候、世間にては老中の饗応などは、丁寧なるものゝ所、此方にては其御心にては無之候、一事にても御用の筋、無御底意、御相談被成、御為を御はかり候事を、御大慶に思召し、御茶だにも御心不付被御座候、御酒食等は猶更の事に候間、御膳不差出を、少しも心遣ひ致すまじき由、御意被成候、

贗金の廃毀一、同年春、会津表納金を以て、江戸御当用に年々為差登、江戸両替屋三谷三九郎を金見に定め置き、吟味被致候処、此度為差登候内より、十七両似せ金見出し候に付、達御耳、似せ金可遣儀に無之間、打潰し候様御意有之、猶真贋を弁ずべきために、後藤方へ被遣、吟味被仰付候処、何れも似せ金に相極り候に付、切割会津へ差下し、重ねても納金子の内、似せ金有之候はゞ、如何程も可相潰由、被仰出候、後藤かたにて此段承り、斯程の御念入りたる被遊方、他に曽て不承旨申候由に候、

平維茂の墓碑を建つ一、同年、御領内越後国蒲原郡岩谷村に有之、余五将軍の墓碑御建被成度思召し、其文に林春斎へ御頼被成候、同年五月、耶麻郡半在家村佐原義連の碑文、山崎闇斎へ被仰付候、又小田村の境内、葦名盛氏・同盛隆墓へも、碑石の儀被仰付候へども、今以て不相建候、村民の申伝へ候には、碑石度々見立の上、運送被仰付候へども、毎度割損じ用立不申、其冥慮に不叶儀にても有之候やなど申し、其通に相成候と申候、

一、同年二月朔日、芝御屋敷御類焼、同四日笑田御屋敷御類焼、中将様桜田御屋敷へ御移被成候、此日火事の最中、御屋敷婦人共の内にて、粥為煮候様にと被仰付下々まで被下候故、一人も飢ゑ候者無之、鎮火後、御家中の妻女ども、路頭に迷ひ候者とも、御尋被遊候、両御屋敷共に御焼失の事故、御家中の下々まで、妻子の類日夜風露に被曝候を、中将様甚御苦労に被思召、軽き小屋共拵へ入れ候様にと御意オープンアクセス NDLJP:130成、下々の安否御尋ね、或は病人へは、医師御懸被成下、諸人甚奉威候、友松勘十郎始め侍子共、自身に焼材を取形付け、柱穴を鑿り苫懸いたし、軽輩并に御家中の若輩・小者の類迄、不残罷出で相働き、小屋懸渡し候に付、翌日より段々引移り、四百六十間の小屋、当七日迄に致成就、不残被割渡候、同十九日、大久保出羽守殿為上使御尋有之、御屏風二双御拝領、花鳥は探幽筆、耕作は永真筆に候、

家訓十五条の撰定一、同年四月十一日、御家訓十五箇条御撰被成、御朱印を被御押、田中三郎兵衛正玄へ御渡被遊候、是は万年の後の為に、御遺訓を被記し被置候可然と、友松勘十郎申上候儀も有之、被思召立、御工夫を御凝し、十五箇条に御撰被成、山崎嘉右衛門へも潤色被仰付、御成就の由に候、第一条、公儀御忠勤の御訓を被示候、御咄に、板倉防州は、忠義一筋の仁に候処、常々御家老に向ひ、我等抔千万に一も公儀へ対し、逆心の企あらば、本性の所行に非ず、偏に乱心の所行にて候、然るに於ては、各速に某が首を刎ねて、関東へ差上呉れ候様、是則忠節たるべきと被申候由、誠に奇特なる志に候へども、いかに主の言付なればとて、人臣として主人の首を斬るといふ事あるべからず、我等子孫に至り、天道に尽き果て、万一反逆の志ありとも、家老始め家中の諸士、此家訓の旨を守り、一味同心せざる時は、猶逆心はなるべからず、人臣の大義かくの如くなるべし、依之若懐二心、則非我子孫、面々決而不従と、御書被遊候由、御意被成候、近年御病者に被成、筑前守様未だ御年若に被入、御跡の事ども、何かと思召し続けられ、其箇条の内には、御兄弟の御中、或は奥向より口さしを御案じ被成、少しも御取用無之様、或は御政事に預り候者心得迄、鏡の如くなる御心にて、御示し被置候は、あはれとも辱しとも可申様も無之、難有御事に候、〈或人と御家の旧事ども語合の時分、御家調の事に至り、今に毎年の恒例にて、御拝聴不怠、諸士へも拝聴被仰付候、能能常々講究有度事に候、古老の注解せしを考ふるに、疑はしき事なきに非す、天文、永禄の頃、武田古典厩信繁は世に珍しき忠信恭謹の人にて、其子を誡められし箇条の第一に、たとひ海は野となり野は山となるとも、尽未来際、御屋形に対し、二つ心あるべからずと、記され候儀、今に美談と致候、然るに若し懐二心、非我子孫と、見限り給ふのみならず、面々決而不従との御訓は、孔子の季路・冉有をゆるされし、君臣の大義を以て、御励し被遊、義理明白にして、無残所、御忠心の大なる所、天地をきはめ万世にわたり、いか計の御事ぞや、此御遺訓のあらん程は、海は野となり野は山となるとも、上下共に大義を見まがふ事有るべからず、然らば一国の君臣、忠肺義膓、益堅固にして非義にくみせず、孤城を守り幾万の兵を受くるも、必ず義気屈せず、名節を敗るに至るまじく候、是程の辱き御訓は有るべからず、其次には、武将の御家被継、国家の藩屏と被成候御要務を、御示被遊候、御治世目出度、天下御長久に従ひ、押並べて武事には怠り易く、自然文弱芬華に流れ候様にてに武家の本色を失ひ、御固と難成候、唐玄宗天宝年中、安禄山兵を范陽より起せし時、承平日久しく、皆兵革を知らす、禄山が押行く処の州県震駭し、瓦の解くるが如く成果て候様子、歴史に相見え候、然れば太平の世、武備を能く心懸け、不怠様に無之候ては、不意に難応候、武役に被召置候面々、其人に非ざる時は、不覚の事ども仕出し勝敗の虚僅にて、無益に人数をも損ずるに至るべし、常々其選挙肝要に可之、朱子オープンアクセス NDLJP:131語類に、兵以将為本と相見え候、又軍法に於て、上下の分は、殊に厳に可致事の由、酒井讃岐守忠勝朝臣、或時に真田伊豆守信幸主を御招き、其御家は武田信玄以来の兵法相伝り候由、一分の儀に無之、公議の御為に候間、御伝授被得申度とて、兵を用ゐる儀まで御懇望被成候へば、礼義を乱さゞる儀、軍法の要領の由、家伝の様申伝へ候、上下貴賤の礼儀乱れざる時は、軍法は自ら其中に有之事の出にて、其頃人々感心致候由及承、此条皆武事に就きて、遠き御孫謀を遺し被遊候歟、其次よりは、家をとゝのひ、国を治むるの事ども、段々御示し、御結末に至り、遊楽驕奢の御誡、被御力たる御庭訓に可之や、寛文八年の春、高力左近大夫殿、領分仕置悪しく、非分の課役をかけ、其上家中仕置不宜、下を苦しめ百姓をいため、自分の驕に致候段、不届に思召し、領地被召上、伊達家へ御預け被成、諸大名弥倹約可相守旨、殿中に於て、被仰渡候も、眼前の儀に有之、士民に御仕置悪しく成行くは、大方高貴の御くせとして、勤倹をわすれ、御自分の奢より起り候事に付、一段被御念候様子相見え候、能く其頃の様子を考へ、身を其世に置き候心地にて熟読仕候へば、意味益深長なるやうに候、返すも難有御事ならずやと、申すべき御家訓を拝見仕候心得もと、附録致置候、〉

一、同年五月十日、御登城被成、先御休息所へ被入候へども、稲葉美濃守殿・久世大和守殿・板倉内膳正殿御出、御用の儀御相談畢つて、御前に於て、一昨日御鷹野の時分御護物の鳥、御拝領の御礼被仰上候、夫より御一人御側近くへ被召、段段被仰付候、御政道の儀、其得失御聞被遊度、無遠慮申上旨、別段の上意に付、中将様思召悉く被仰上、御喜色の御様子にて、御老中の御事迄、上意有之、何れも其任に堪へたるものゝ由、御ほめ被遊候、偖又御眼病御気色の儀、御懇に御尋被遊候に付、眼は次第にかすみ不相勝候へども、気力は先不相替候由、被仰上、縦眼一向に不見候へども、気色無恙候はゞ、御安堵思召し候由上意有之、御前御退出候後、猶又御老中がたと、品々御用御相談有之、御退下被成候、御前にて被仰上候儀は、一向不相知候、

二程治教録及伊洛三子伝心録の編集一、同年、二程治教録・伊洛三子伝心録、御編集致成就候、玉山講義附録をあはせて、三部の御書と申候、〈寛延改元戊辰の朝鮮信使、私に録記いたし、日観要考と題せし書一巻、其帰路大坂の客館にて、ある医者に被奪取候由にて、近頃写し伝ふるを見るに、草稿の儘にて、信使手控の類と相見え、種々部門を分ち、本邦雑々の事迄を相記し、人物と申す目中に、源正之東照大神君弟也、或曰改虎賁中郎将会津侯神道碑文略述事蹟、慶長十六年生於江戸、初読四書、未要、留意老釈、後得小学好読、従事誠敬、知大学之道、専攻濂洛関閩書、観好学論、因得性書之要云、程門静座法、揚李能授受、因簒三子伝心録、又閱玉山講義、遂抄語大全為附録三巻、以明大極陰陽・四徳・五常・理気生死之説、使侍史読_史、鑑与亡地宜時義、編二程治録、与廃祀経祀、癈仏宇僧尼、置葬地火葬、建社倉文行常平、創漕運云々、論性語治心功、多不載、朝鮮使節の正之観青泉曰、以貴公子爵、律己治人、一遵程朱而異事当国、則可蛮夷之陋、三編書刊行己久無序、為序、為遺之、其孫会津侯正容所遣使者、以編置青泉曰、侯命也、庶幾令鶏林君子、知程朱之学在日本と、記し置き候、此巻如何の筆に候や、其名氏は不相記候へども、享保中来聘の制述申維翰青泉の詞、多く相見え、或は青泉曰、或は青泉云々などゝ、処々相見え候、按ずるに、青泉御碑文或は三部の御書見えて、敬服仕候様には被察候、書中御三家方始め御歴々の衆、伝聞の儘に、其賢否を品題いたし、本邦の人には、深く秘し候て、可之候へども如何なる隙候か、被奪取、世にも流布いたし、書中に大神君の弟と記し、其余伝写の誤と相見え、少々難続行処も有之候へども、珍しき事に付、其儘に爰に載せ置き候、彺翁様より三部の書を青泉へ、被遣候、其序文を認め差上候様に候へども、是は書中に無之、御家にても其序文有之儀は、未だ不承及、異国信使の言葉にて、御徳義の光を添へ候には不足事候へども、其書私記にして、謹辞に無之を以て、附録いたし候、〉

米価の調節一、会津は山国にて、津出場遠く、諸品牛馬にて運送致候事故、常々米穀沢山に有之、大方其価も下直にて、御家中百姓ともに、不勝手なる所に有之、先封蒲生氏郷オープンアクセス NDLJP:132以来の定にて、収納も米金等分の納に有之、御家中の御物成も、其通り四つ成にて被下置候、されば常々民間の米多く候に付、毎年御買米被仰付、或は廻米被仰付候儀は、御家中百姓御救の為とて、会津領米の差引は、大切の御仕置と被思召候旨、御意被遊候事にて、寛文八年の頃、御勘定頭斎藤五兵衛儀、社倉金を以て、相場米買置可仕、不足の所、御蔵入の収金を、加へ可申旨申出で、達御耳候処、社倉金はもと里民御救ひの為に、設置候事に候間、尤に思召し候、不足の分、御蔵入納金にて、可買置由、斯様の儀、曽て被遊候儀にて無之候、御勝手の為に、御預所の金子を以て、米買置被仰付候段、以ての外に思召し候、御私領代官共、斯様の手廻し仕候はば、急度曲事可仰付、何れも心入不宜思召し候由被仰出候、

一、同年、当年は諸国早魃にて糧不足、来年は飢饉に可之様に申ならし候由被思召、御蔵入御私領の百姓、不飢様に可申付候、御蔵入救ひ候米金、御勘定に不立候はゞ、御自分の御救に可成候間、無遠慮入念申付け、兼ねて社倉の米金、籾蔵塩精等も、飢饉の御心当に、被差置候事に候間、〈先年社倉利米の内、腐化米の分、糒に被仰付、御蓄被置候、〉一人も不飢様可申付候、交代御横目一人、御蔵入中相廻し可然旨被仰出候、

藩吏の苛斂を戒む一、同九年己酉、芝・箕田両御屋敷御類焼の後、御普請に就いては、去年横川山より材木為伐出、江戸へ相廻し候、其節百姓共へ、費用銭被下候処、此外内証にて、百姓手前より人足為価、過分の代物出し候由被聞召、御意被成候は、百姓共莫大の金子を出し、迷惑致候段、御家老・奉行とも不存儀、不念至極思召し候、別して御蔵入郡奉行并に代官ども、其品々存候ても、不申述候哉、御不審に思召し候様子、相尋ね可申上候、縦いかほど御徳用の儀に候とも、百姓の痛に相成候儀は、被仰付筈に無之候処、此度の様子思召に違ひ候由、江戸より被仰遣、御家老・奉行ども何れも不調法の段申上候、

一、奉行管勝兵衛方へ役人参り、内証申述べ候は、蠟役人誰某と申す者、精出し相勤め御為仕り、御蠟何程の出目有之由申すに付、御執成せよとの儀に可之、委細心得申候、達御耳候後、善悪の儀は不知と申すに付、其役人よしなき事を申候とて、後悔いたし、御執成の儀御無用に被成、其通に被成置度由、達て相詫び候へば、勝兵衛申し候は、蠟役人の仕方甚疑はしく候、蠟納の節も渡し候節も、秤目の外に出目可之儀、難心得候、請取の時分に余計に受取り候歟、又渡し候時分オープンアクセス NDLJP:133へらし渡し候歟、此二つの間に可之、左も無之ば、出目は有るまじき筈に候、斯くの如くにては、役人の私欲に候、役人たる者は、只理の相立ち候儀、肝要に候、出目を御為とは、不調法なる儀に候、達御耳候て、必ず御咎可仰付儀の所、達て被詫候に付、不其儀に候、総て役人の守は、筋目有之様、専一に可相心得旨、申聞け候よしに候、勝兵衛かく申せしも、畢竟中将様正しく被御座候故の儀に候、

国産の他領輸出一、総て会津の産物他邦へ差出し候ても、御国用の支に不成分は、其通被成置候へども、不足いたし、下々難儀に及び候類の品は、御留被置候、或年江戸表綿、別して高直に付、江戸御入用の分、御国にて調ひ為差上候様申来る、大分の儀に候処、何れも可然との儀に有之、菅勝兵衛儀、其段田中三郎兵衛へ申述べ候へば、それは不然由申すに付、御下知の儀に候間、兎角に難及旨、勝兵衛申候処、いや左様に無之、綿は兼ねて御留物に被成置候をば、各何と被心得候や、綿多く他邦へ出で候へば、御領中綿高直に相成り、四民迷惑いたし候故に候、たとひ上にて御得分有之迚、其通多分買上げ候はゞ、以ての外手支へ、諸人可難儀候、夫にては日来の思召と相違ひ候儀に候間、何程高直にても、江戸にて御買上の方、当然に可之、其通に言上被致候はゞ、必可聞召届由申すに付、右の次第申上ぐ、果して無仔細相済み候由に候、

就床の時刻一、御平生卯の時に御昼なり、表御座へ被入、亥の時頃には、大方御寝所へ被入候、夜中はいか程夜長の時分にても、亥の時頃迄には、御寝所へ不入儀無之、御晩年にいたり候ても其通に被御座候、或時伺候の者へ御咄に、御年来御病者に被成、大方通宵睡り被成兼ね候、少しの間も、快く御休被遊候儀は、御仕合に被思召候由、御意被成候に付、左候はゞ夜半過まで、御待被成、御寝所へ被入、可然由申上候処、其心は無之に付不入候、然れども御一己にて其通被遊候はゞ、面々何れも休息仕るまじく、一人の故を以て、大勢の休息を妨げ候事は、一身の私と申す者に候、総て人は起臥共に、大抵時刻程合有之ものに候間、心の儘に不致、勉めて其程を可相守事の由被仰候、

一、御寝所御刀有之、夜中御小用にも必ずもたせ御出被成、御装束の時、御帯劒被遊候節は、必御鞘をはづさせられ、御覧被成候由に候、御眼病後も御脇差取替へオープンアクセス NDLJP:134差上げ候節は、作元・切れ味の儀まで、御尋被成候て御受取、御目貫・御目釘等迄も、御尋被遊候上、夫迄御指の御道具を、御納戸役へ御渡被成候由申伝へ候、

朱子学の研究一、昼夜不限、御閑暇の時分は、御近習の者に、聖賢の書拝読被仰付聞召、御評論被遊候、既に通鑑綱目は御抄書も被仰付、又唐鑑をも御抄書可遊思召にて、御附紙被成置候を、御逝去後、其儘抄書仕る様に、且朱子語類を聞召し候時、其説思召に、不応儀有之時は、是は朱子未定の論に候はんか、或は記者の謬に可之や、先づ紙を貼り置き候へと被仰付別巻にいたり、前説は果して、未定の説にして、後の定説有之儀、度々の儀に候、

一、常の御伽に、被召候者ども数人有之、松原素庵と申すは、太閤黄母衆の内にて、京都の浪人にて罷在り候を、万治の頃被召呼、百人扶持被下、谷宗卜は谷出羽守殿の弟にて、浪人致在り候、是も七十人扶持被下、其外学才博識の者ども被召、横田三友・福田良庵・佐治宗軒・山田宗悦・内藤良斎・山崎嘉右衛門・服部安休・松野勾当の類、代る御相手被仰付、種々の咄ども被聞召、御自分の御心得も被遊候、遠藤逸佐と申すは、毛利家の士にて、軍学者に候処、御相口にて度々被召候、毛利家にても左様御心易く、御相手に成候はゞ、毎日も参り候様にと御申付、御家来同然に、繁々御相手仕候由に候、

飲食の簡素一、常に御飲食御淡薄にて、朝夕の御膳部御設仕候儘にて、少しも御注文等無之御心に不叶品は、御箸不遊候迄に候、依つて人の飲食に耽り候をも、御嫌ひ被成、御意被成候は、諸家にて高貴の御方御招待の節は、御旗本衆の内、御相伴御取持御頼み、御饗応有之儀に候処、其衆これを悦び、人にも誇り候類は、見苦しき事に候、夫のみならず、誰殿にても、しかの料理、又誰殿にては斯様など申候て、其善悪を評し自満いたし候由、士君子の所行に無之、去りとはいやしき儀と思召し候、孟子、乞墦間之祭余妻妾之事、并に飲食之人則人賤之語をあげ、御嘲被遊候、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。