二、平形の出羽國府と月山神

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     二 平形の出羽國府と月山神

 出羽國の蝦夷征討に二途ありて、一は置賜村山最上の三郡より雄勝仙北平鹿秋田の四郡に至る仙道筋、他の一は越後より、田川郡、飽海郡、由利郡に至る海道※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]である。前者の仙道筋は夷征は陸奧と共に行はれて其起源經過は古くして記紀に見えて居ない、後者の海道筋の夷征は大化年間以後に開始せられ、その經過は記紀に記されてあるから略々明かである。
 越後信濃川以北の夷征は、孝徳天皇大化革新の翌大化三年(皇紀一三〇七)より行はれ、同年十二月渟足柵、同四年磐舟柵を修築して北進した、然るに未だ出羽に進入しない前に當りて、齋明天皇の肅愼遠征の爲めに五十年間出羽の夷征は遷延した。文武天皇二年十二月復たび磐舟柵を修理し、同四年(一三六〇)二月三度び同柵に修理を加へて出羽方面の夷征に着手した。その後八ケ年間は國史に出羽進撃の記事を缺いてあつて、和銅元年(一三六八)九月始めて出羽郡を置いたとあれば、前八年間に王師は磐舟郡より出羽に進撃し柵を立てゝ蝦夷を征し、然る後に出羽郡を置いたのである。同五年九月越後の出羽郡と陸奧國の置賜郡、最上郡(村山郡を含む)とを合せて出羽國と爲し、始めて國守以下の赴任あつた。この最初の出羽郡衙の位置は田川郡古郡で、國府は同郡渡前村平形である。斯くの如く王師は出羽の南端に進入し夷征に着手するに當りて、最初に眼に映じた山嶽は月山であらう。鳥海山も見えたが未だ蝦夷地であれば、敵地の山を崇敬する理は無い。先づ月山を崇拜したことゝ思ふが、記紀には月山の記事は未だ見えぬ。
 記紀所載の各國の山嶽其他の諸神を見るに、多くは何々神とありて宮又は社とあるものは甚だ少ない。されど又所々に七道諸社とあれば單に何々神とあつても神社を有するものもあつたに相違無い。出羽國の記紀所載の神は悉く何々神であつて、何々神社又は何々宮とあるものは全く無い、之について少しく左に私見を述ぶ。
 慶雲和銅年間に始めて出羽郡の蝦夷地に進撃した時に當りて、出羽郡山野は原生林を以て覆はれ道路無く田畠も無く、毛人蝦夷が河湖の岸に集團を爲して住居するのみで、實に荒寥たるものであつた。王師は之等の蝦夷を征討し柵を建て農民を移し、斯くして漸次北進したのである、此時に當りて先づ蝦夷の降伏を祈つたのは月山を外にして他に無いであらう。斯る山嶽崇拜は前に述べた如く上古の支那日本に於ける通有の信仰思想である。この山嶽崇拜は自然崇拜であつて、山靈を神として崇拜した。そこで國守以下月山を月山神として尊崇したことであつて、時々夷狄降伏の祈願祭典を行つたらしいが、月山の山頂に登つて祭典を行つたものとは思はれない。續日本後紀天平元年(一三八九)八月諸國天神地祇者宜[#下]令[#中二]長官[#一]致[#上レ]祭、若有[#二]限外應[#レ]祭山川[#一]者聽[#レ]祭 とありて、月山神も天神地祗の一つであつて長官即ち國守の主祭である。殊に出羽の如く蝦夷降伏を月山神に祈願するに當りては國守の主祭たるべきは當然である。國守が天神地祗を祭るに如何にして祭つたかといふに、國府の郊外に祭壇を設けて國内の山川を神として祭つた、月山神を祭るも同じであつて、山が神であれば神像も御靈代も無く、隨つて社殿も無かつた、遙かに月山に向つて祈願を爲したのである。記紀に載つてゐる出羽國の諸神は何々神とありて神社とあるものは一つも無いのを見るに、悉く天神地祗であつて人格の神では無いから神像を安置する社殿は無いので、隨つて神社と云はなかつたであらう。
 我が國で神社を建つることゝなつた所以を考ふるに、天神地祗を祭る自然崇拜には社殿の必要は無いと思はるゝが、神器の八咫鏡を奉安した倭笠縫又伊勢神宮は社殿の必要がある。又我國神代の諸神を祭るにも御靈代を安置する神社を建てた。然るに出羽國の初期の神々は神代の神は一切無く、悉く名山大川温泉などで自然崇拜である。自然の山或は川などを神体としたのであれば之に向つて崇拜すれば能いので、靈代の必要なく社殿の必要も無いことである。記紀に見ゆる出羽國の神は月山神・大物忌神・白磐神・酢川温泉神・矢向神は皆山川温泉であり高泉神は瀧である。又城輪神は出羽柵の柵を神としたらしい。
 次に延喜式所載の神名を見るも、以上の外に小物忌神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・波宇志別神社は山で、由豆佐賣神社・鹽湯産神社は温泉、副川神社は川、遠賀神社は明かで無いが山らしい。延喜式に神社となつたことについては後に述ふるが、最初は皆神とありて神社は無かつたものである。
 和銅五年始めて國府を平形に置かれた後ち、同七年(一三七四)閏六月戊寅詔曰頃者陰陽殊謬氣序乖違、南畝方興膏澤未[#レ]降、百姓田囿徃損傷、宜[#下]以[#二]幣帛[#一]奉[#二]諸社[#一]祈[#中レ]雨于名山大川[#上]、庶致嘉※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]勿[#レ]虧[#二]農桑[#一]とあり、又靈龜元年(一三七五)六月癸亥詔遣[#レ]使奉[#二]幣帛于諸社祈[#二レ]兩于名山大川[#一]、於[#レ]是未[#レ]經[#二]數日[#一]※[#「澎」の彡にかえて「寸」、第3水準1-87-17]兩滂沱、時人以爲[#二]聖徳感通所[#一レ]致焉とあり、之が出羽國府創設後の詔に據る諸社名山大川の奉幣奠祭の初めである。此頃出羽には神社は無いのであれば、名山大川に對して祭祀を行つたであらう。蝦夷地の名山大川を祭る理無ければ河南の田川郡内に限られたと思はれるが、國守は月山其他の山に登ることはできないことで、國府郡府附近の外は道路も無く蝦夷野獸は近地に横行して居つたであらう。依て國守は國府の郊外に祭壇を設けて主として月山に向つて奉幣奠祭を行つた、此郊祭を行つた所が即ち渡前村上藤嶋六所神社の地である。此地は平形國府址より十一二町の南々東方にて藤嶋川の西岸に在り、月山を名山とし藤嶋川を大川と爲して、其岸に祭壇を築き祈雨の祭りを行つたらしい。恰かも此六所神社の地は平形國府址と月山々頂とが一直線上にあることは最も注意を要する所である。現在の六所神社は南向きに立つてゐるが後世の建立であり、其位置も川缺の爲めに多少異動した。徃時の祭壇と六所神社の關係は後に述ぶることゝする。神武紀に天皇は大和の丹生川の上りに天神地祗を祭り多くの平瓮嚴瓮を造つて之に供物を入れて供へ、又嚴瓮を丹生川に沈めたとあり、朝廷ではこの神武紀の故事に倣つて諸國をして名山大川を祭らしめたものである。上藤嶋の六所神社に先年藤嶋川缺壞の時に地中より出た祝瓮の小壺を所藏してある。之は徃時の祭器であらう。神武天皇の丹生川の上りにて天神地祗を祭つたのは、社殿を建てたもので無いので祭場を設けた郊祭であつたに相違無い。之れが後に丹生川上神社となり祭神も後ちに定められた。
 上藤嶋の名山大川を祭つた祭壇又祭場は其後に至りて祈雨又は夷敵攘伏の祗祭を詔によりて行ひ、河北の蝦夷討伐も追々北進して由利秋田に移れば、大物忌神を始めとして其他の名山、大川をも合せて此祭壇にて祭ることゝなつたであらう。斯くの如く長い間に屡々同一祭壇にて祭事を行ふことゝなれば祭壇の上に屋蓋の必要ができ、後ちには社殿の建立となつた。之が總社又は六所神社の起原である。然るに總社又六所の名稱のできたのは何時であるかは頗る明かでないのである。記紀には之等の名稱が無ければ此頃には此名稱は無いのであり、又總社とか六所神社は國守主祭の重大なる神社であるならば、延喜式に載せられる筈であるに、之にも無い、依て案ずるに祭壇に社殿を建てたのは國府時代であらうが、之に祭神を安置して神社としたのは藤原期であらう。總社或は六所社の名稱は加賀の白山記東鑑に載つてゐるのが最古である。
 平形國府は天平中に詔によりて國分寺を建てた、其位置は下平形の南郊である。國府とは下平形部落を挾んで五六町を隔てゝゐる。國分寺は國守主管の祈祷所で華美を盡くした壯麗なる建築で、之に本尊佛を始めとして諸佛像を安置し、之に對して夷狄降伏を始めとして盛大に祈祷を行ふことゝなつた。又秋田の出羽柵にも四天王寺を建てた。之に伴つて所々に寺院の建立を見たことであらう。然るに此國の神は悉く名山大川であつて神社は無く單に祭壇を設けて郊祭を行ふに過ぎなかつた。其神は名山大川であれば神像も無く靈代も無く簡素なものであつた。そこで國分寺其他の佛寺に刺戟を受けて郊祭の祭壇に社殿が無くしては權衡が取れぬことゝなつたであらう。國守主祭の祈願に佛寺では壯麗なる寺院にて行ひ、神祭には野外の屋蓋も無い所で行ふに當りては、風雨などの恐れもありて、權衡を失ふことは當然である。依て郊祭にも社殿を造ることゝなり、又國内平定し漸次移民増加するに及びて各地の名山大川の神にも社殿を建立することゝなつたであらう。されど月山神とか大物忌神とかの高山では山上に登ることは勿論山頂に神社を建てることもできない。又國守は各神各社を廻ることできないから、藤嶋川の上りの祭場にて各神の奠祭を行つた。斯く國内各地の神を祭ることゝなれば、各神に代るべき靈代の如きものを安置して、之に對して祭事を行ふことも必然に起つたであらう。
 我國天平中に至りて諸國の神社並に佛寺は漸く整備したものゝ如く、朝延[#「朝廷」か]にて祈雨其他の祈祷は七道諸社又は國分寺などに行はしめ、天神地祗又は名山大川に祈祭を行はしめたことが天平の初め頃より記紀に見え無いことになつた。天平九年五月詔して疫旱行はるに付山川を祈祷し神祗を奠祭せしめたのが最後で無いかと思ふ。其後は多く七道諸社に行はしめてゐる。斯く各國では七道諸社に祭事を行はしむるに當りても、出羽國守は藤嶋川の上《ホト》りの祭場にて行つたので、寶龜六年の遷府まで續いたであらう。
 國府が河北に移轉後の藤嶋川岸の祭場は如何になつたかを檢討するに、此祭場は平形國府六十餘年間の國守主祭の靈場であつて、最初には河南の山川即ち月山神其他を祭り、次第に河北の大物忌神其他の神をも合せて祭つた。然るに此二郡内の國史所載の神と延喜式所載の神社を合すれば八神となる。其中にて六神が延喜式神名帳に載せられてあれば、神名帳に載つてゐる神社は官社と云ふべきものであらう。藤嶋川上の祭場に後世神社を建てゝ六所神社と云つてゐる。其祭神は社記によるに二説ありて、一は國常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞嗚尊・大已貴命・事代主神の神代六神、二は大物忌神社・遠賀神社・由豆佐賣神社・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波神社・月山神社の六社とした。二説の六社は延喜式所載出羽國九社の内田川・飽海二郡以外の神社を除いたものである。六所神社の創建は何處とも年代不明であつて、皆國府の附近に國分寺と共に必ず鎭座し、之を總社とも云つてゐる。各國の六所神社の祭神も神代六神もあり、又國内六神又は數神の所もある。此總社及び六所社は記紀又は延喜式には一切見えぬ神社であれば、其後に甞て天神地祗又は國内諸神を祭つた祭場跡に神社を建てゝ總社又は六所神社と唱へたもので、各國一樣に總社又六所神社と唱ふるを見るに藤原期に朝廷にて唱へしめたものであらう。常陸小田系圖及び寛永日記に「嵯峨天皇之時代ヨリ於諸國五月五日敕國司等天神地祗六神ノ祭禮アリ (中略) 中古以來ハ於國々ハ天神地祗六神ヲソノ國ノ府中ニ一所ニ勸請申號總社并八幡宮ヲ勸請シテ號府ノ八幡今猶國々ニ總社アリ八幡アリ」とあり、藤嶋川上の六所神社々記には同社の創建を延暦十三年又は同十八年としてゐるのは、出羽國府の遷つてからで、小田系圖寛永日記の記事と年代を同じくするのである。然れども著者の私見では國守司祭の神社を記紀又は延喜式に載せないことは不合理であつて、延喜以後にできた神社であらうと思ふのである。
 藤嶋川上の六所神社は總社とは云つてゐない、出羽風土略記には六所權現とあつて「藤嶋の村はづれ橋をわたりて西にあり、或人の云、大物忌・月山・小物忌・遠賀・由豆佐比※[#「口+羊」、第3水準1-15-1]・伊※[#「氏/一」、第3水準1-86-47]波の六所也といふ。又一説に鹽釜六所は陸奧鹽竈神社であつて、古くは六所大明神と呼び陸奧國府の六所社であるとのことである。其祭神は神代の武甕槌神經津主神である。藤嶋川上の六所神社を總社であると判定したのは鶴岡國學者照井長柄にして、其著五百津※[#「金+且」、第3水準1-93-12]安政六年に和訓栞の古者國府必建[#二]總社[#一]有[#レ]事[#二]于國内官社[#一]則國司率[#二]僚屬[#一]先修[#二]典禮於此[#一]其儀如[#二]京師神祗官[#一] とあるを引用して總社であるとし、國府は藤嶋なる可しと思ふと述べてゐる。藤嶋を國府とするは誤りであつて其對岸の平形が國府である。藤嶋は南北朝の時に吉野朝方の國府であつた。羽黒山の末社に六所神社ありて諸神集合の靈場としてゐるのは後ちの建造で同一視すべきもので無い。