二、出羽國夷征前の開山説

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    二 出羽夷征前の開山説

 出羽國に承和十一年(一五〇四)安慧の赴任ありて始めて同國に天臺宗が弘まつたので、之が朝廷の命で國府にて安慧をして開講せしめたのであれば、國内皆天台に歸したのは當然である。この比叡山の最澄・圓仁の天臺宗の教義は神佛融合本地垂跡であつて、月山神大物忌神の名神を始めとして其他の七小神は皆本地佛の垂跡の神として、神官・僧侶共同して奉仕することゝなつたであらう。是に於て寺院に於ては古くより本尊佛を安置したが、他の諸國の神代の神を祭神とする神社では御靈代の鏡又は御幣を廢して、佛寺に傚つて神像を造つて安置した所もできたと思ふ。然るに出羽國は悉く自然崇拜であつて、人格的の神は無いのであつて、社殿の有無も明瞭で無かつた。承和以降神佛融合となり從來の神に寺院に傚つて日々讀經供養をすることゝなつては、社殿の必要もでき、社殿に安置する祭神の必要も起つたことであらう。然るに出羽の九神は悉く自然崇拜であれば、神像を造るべきやうも無い、御靈代として、鏡か御幣を奉安することにしたでは無いかと思ふ。
 出羽國に始めて天臺宗の這入つたことは、以上の史料によりて稍々不確實ではあるが知ることができた。次に眞言宗の進入については全く徴すべきものが無い、然れども天臺・眞言は略々同時に全國に傳汎したのであれば、天臺と前後して出羽に這入つたと見るが至當である。比叡山延暦寺は皇室歴代の信仰最も厚かつたので、隨つて朝廷では全國に天臺弘教に力を注いだ。承和三年十一月全國の名神に僧一口を遣はして法華經を讀ましめたことは前に述べたが、法華經は天臺宗の所依本經であれば、僧一口は天臺宗の僧であつたと思ふ。眞言宗の勢力は天臺宗に劣らぬが朝廷の信仰が天臺の如くで無かつたから文献に見えぬのであらう。
 月山神大物忌神其他の出羽の山嶽神は、承和以降佛教と融合したとは云へ、神官又は僧侶が山上に登つて、所謂山を開いたもので無い、山を開くのは佛僧よりも修驗道の行者の仕事であると見るのが眞實に近いであらう。然るに出羽三山の開山者を見るに、慈覺・弘法より役小角・蜂子皇子其他に至るまで、各宗各方面の開祖又は神代の神を開山としてゐる、開山は多數あるべきもので無く一人であらねばならぬ。斯く多數ある理由は、長い間の三山に變遷あつて、又時世の信教の盛衰によりて、三山の宗旨を變更した、例へば天臺を奉ずれば開山を慈覺と爲し、眞言に變更すれば弘法とし、神道が盛んとなれば蜂子皇子其他の神と爲すので、社家は時代の庶民の信ずる所に迎合して開山を變更したのである。依て三山の舊記を見るに區々にして、今日誰れが眞の開山であるやを決定することは至難のことである。左に開山諸説につき私見を試む。
         イ、蜂子皇子説
 蜂子皇子は三十二代崇峻天皇の御子で、母は大伴糠手連の女小手子といひ、蜂子皇子と錦代《ニシキテノ》皇女とを生んだ。崇峻天皇は兼てより大臣蘇我馬子の專横を惡み、密かに之を除かんとして厩戸皇子に謀る、厩戸皇子諫めて曰く、陛下只少しく忍び給へと、天皇之を堪ふることできなかつた、事顯はれて馬子は五年十一月三日東漢直駒をして天皇を弑逆を行はしめた。之より馬子は欽明天皇の第三皇女〈敏達天皇の皇后〉を皇位に即かしめて推古天皇といひ、聖徳太子〈厩子皇子〉を皇太子となして政を攝せしむ。天皇は蘇我氏の出であれば、馬子の權威は益々盛んとなつた、それで蜂子皇子は不幸の御子であつて薨去の場所年月も不明であつて、正史には蜂子皇子の傳記は左記だけである。
 (日本書記[#「書紀」か])
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崇峻天皇
元年春三月立大伴糠手連女小手子爲妃是生蜂子皇子興錦代皇女
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 崇峻天皇の弑逆に遇はれたのは、出羽の蝦夷征討の始めて行はれた慶雲和銅を遡ること百餘年前である。羽黒衆徒の蜂子皇子を三山の開山と唱ふることゝなつたのは、遙かに後世ではあるまいか。我國古來の神道は佛教渡來より壓せられて、神社でありながらも佛像を安置して本地佛と唱へ、僧徒の讀經を以て奉仕して來たのは實に長年月のことである。室町中期に至りて京都の吉田氏は神道復興を唱導して、本地垂跡を逆用して神を本地とし佛を垂跡とするに至り、之を吉田神道又は唯一神道と云つた。この説が羽黒にも波及して蜂子皇子を開山と爲すことゝなつたのではあるまいか。皇子が北海の濱に流されて出羽の羽黒に住居せられ、三山を開いたことは三山雅集に記述してゐる。
 (三山雅集)
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     能除堂
太子の御事異説紛々たれともそか中の正統をいはゞ 舊記曰崇峻天皇第三皇子一名|參拂理《サンフリ》依[#三]形質頗爲[#二]慕荒相[#一]放[#二]北海濱[#一] 然太子直歸[#二]佛門[#一]詣而師[#二]于聖徳太子[#一]以薙髮染衣焉 法名弘海心性勇猛偏有[#二]凌雲志[#一]且離[#二]京域[#一]※[#「てへん+妻」、上p30-7][#二]遼濱[#一] 徃々攀[#二]羽山[#一]修[#二]捨身行[#一] 住[#二]阿久谷[#一]三秋衣以藤皮食以樹果 平日無他辭特信般若經カ誦[#二]能除一切苦之文[#一] 故時俗呼曰[#二]能除仙[#一] (下略)
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 舊記とは室町期に羽黒修驗の造つた縁起をいふので、同縁起は室町期に述ぶる。
         口、役小角説
 役小角は俗に役行者と稱せられ、大和國葛城郡茅原村に生れ、その生年月に異説あつて確しかで無いが、舒明天皇即位六年(一二九四)正月の誕生が有力である。恰も聖徳太子薨去前十三ケ年、崇峻天皇弑せられてから四十二年後に當る、依て蜂子皇子より僅か後ちの人である。
 小角は葛城山より金峰山に亘る山々に籠ること三十餘年にして始めて修驗道を開いたので、我國修驗道の開祖である。之より小角は全國の名山高嶽に登り人跡未蹈の山頂を極め、修驗道を弘めた。行者は金峰山の大峰山籠中に金剛藏王を感得したるより、行者の開いた山には必ず金剛藏王を尊崇する。金剛藏王とは釋迦の變化身であって、忿怒の相を成し、右手に三鈷を握り、臂を怒らし、左手は五指を開いて腹を押へ、三眼怒つて降魔の相を成し、兩脚を擧げ垂れて天地を經緯する相を顯はしてゐる。行者の事歴は神秘不可解のこと多く容易に信ずることできぬものばかりである。行者の出羽羽黒山に來り月山・湯殿山を開いたのは天智天皇九年(一三三〇)ともあり、又持統天皇四年(一三五〇)ともあり。
 (役行者本記)
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天智帝九年《小角三十七歳》庚午七月發大峰三日而到出羽國羽黒山 從其[#(出羽)]月山・[#(同)]湯殿・[#(同)]金峰・[#(同)]鳥海・[#(奧羽)]秀峰等 經歴二十二日而歸[#二]山和州[#一] 凡里數三千百里
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 (同書)
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持統帝四年《五十七歳》庚寅三月赴[#二]出羽國羽黒[#一] 經[#二]歴近峰[#一]數員 三日之頃彫[#二]作大日觀音不動・※[#「足+多」、上p31-8]吉※[#「示+尼」、上p31-8]天・大黒天五尊之像[#一]皆安[#レ]之 各放[#レ]光談話 ※[#「足+多」、上p31-9]吉※[#「示+尼」、上p31-9]一天不[#レ]至[#二]菩提之談[#一] 小角彈呵欲[#三]斫[#二]-斷之[#一] 彼天走而至[#二]於假峰[#一] 小角笑云 汝有漏天 不[#レ]至[#二]度群生[#一] 我歎[#二]汝[#(ノ)]無力[#一] 住五十餘日 一日歸[#二]干芳野[#一]
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 (役行者顛末秘藏記)
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一行者登[#二]出羽國羽黒山[#一] 九箇月間修秘法[#一]也 羽黒與[#二]南都[#一]脩程而人皆經[#二]七十餘日[#一]往[#レ]之 然行者自[#二]羽黒[#一]三日間歸[#二]南京[#一]故世俗諺云不思議神道第一[#(ノ)]小角也 爲[#二]弟子[#一]者惟夥焉 雖[#レ]然小角在[#二]洛中村里[#一]則相從之 入[#二]嶺上[#一]則不[#レ]克[#レ]伴[#レ]乏
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 (役君徴業録)
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安[#二]居于羽之羽黒山[#一] 神出而設[#レ]食〈密録、秘藏記〉
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 以上の記事を通覽するに、何れも信ずることできぬことのみで、且つ出羽の蝦夷征討開始前に三山に登ることできぬことゝ思ふ。依て羽黒にて蜂子皇子を開山とした後ちに於ても、從來の役行者との關係を絶たないで、三山雅集に役行者は蜂子皇子を慕ひて月山に登りたるに、皇子は權現老翁となりて現はれ、中途より行者を歸らしめた。此所を行者|戻《もどり》と名づけて名所としてゐる。又同書に「兩山〈○月山、鳥海山〉の祭祀年中行事等後優嬰塞慈覺大師の遺風、今に草を靡して符合すること分厘も差はず」ともありて、役小角・慈覺・弘法其他の多くの高僧智識と關係を絶たざるは、廣く庶民の信仰に迎合せんとしたるものに外ならない。