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主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈/第5章

提供:Wikisource

第5章

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第5章の概略

まず第一に、私たちは犠牲を捧げ、それを食べるのであり、この犠牲を捧げるのが新約聖書の司祭の職務であることを理解しなければなりません。この犠牲を通して新約聖書が維持されると思われるからです。祭壇に近づいている司祭は(天の) 犠牲のイメージを体現していると考えなければなりません。また、執事は目に見えない聖体の奉仕のイメージを表していると考えなければなりません。彼らの服装は職務に合致しており、彼らの上着は彼らの身長よりも高くなっています。彼らは左肩にストールを掛け、それは両側に均等に流れます。
キリストが、ある時は受難に導かれ、またある時は祭壇に引き伸ばされて私たちのために犠牲にされたことを考えなければなりません。祭壇に亜麻布を広げる助祭たちが、(主の)埋葬の亜麻布の姿を表し、祭壇の両側に立つ者たちが扇で聖体の上の空気をかき回すのは、このためです。これらのことは、全員が沈黙しているときに行われ、その後、助祭が大きな声で事前に告げる祈り(沈黙の祈りではありません)が行われます。全員が沈黙すると、司祭は定められた礼拝を開始します。
そして司祭は祈りを終え、その後、自分自身のために感謝を捧げます。そして会衆は皆、「アーメン」と言います。そして 司祭 は「あなた方に平安がありますように」と祈り、会衆は「そしてあなた方の霊に」と答えます。そして司祭は平安を与え始め、教会の呼び手は叫び、全員に互いに平安を与えるように命じます。これが行われている間、司祭は最初に手を洗い、次に司祭の集会で数えられたすべての人々、その数に関わらず、全員を洗います。その後、教会の書物から生者と死者の名前が読み上げられます。その後、司祭は礼拝に近づき、教会の呼び手は叫びます。「供え物を見てください」[1]。12
生まれたばかりでまだ柔らかい体が傷つかないように、また体がしっかりとした状態を保つために、新生児を産着で包むのは人間の習慣です。まず、産着で伸ばして安らかに包み、それから、赤ちゃんにふさわしい自然の食物を赤ちゃんに与えます。同じように、私たちも、洗礼を受けて生まれたばかりの人たちを、私たちの教えを産着でしっかりと包み、約束された恵みの記憶がしっかりと定着するようにしました。そして、話した事柄の量が十分だったので、私たちは話をやめて彼らをなだめました。しかし、今日、私は神の恵みによって、パンの栄養にあなたたちを導きたいと思っています。あなたたちはその性質を知り、その偉大さを正確に学ばなければなりません。


復活による真の誕生を私たちが受けるとき、あなた方は言葉では言い表せないもう一つの食物を受けるでしょう。そしてあなた方は聖霊の恵みによって明らかに養われ、それによってあなた方は肉体において不滅であり、魂において不変のままとなるでしょう。そのような食物こそがあの誕生にふさわしいのです。そして聖霊の恵みは復活によって生まれる人々に堅固なままでいることを許し、彼らの肉体は崩壊せず、彼らの魂は彼らを悪に傾かせるいかなる変化にも影響されないでしょう 。そして私たちは今、洗礼によって象徴的に生まれているので、私たちが期待しているあのもう一つの誕生への希望において、現在、保証金の形で聖霊の恵みの初穂を受けます。それはその時私たちに与えられ、私たちは来世で復活によってそれを完全に受け取ることを期待しています。それを受けて初めて、私たちは不滅で不変になることを望み、聖霊の恵みによって、現世にふさわしい食物を象徴的に食べることが私たちにとって正しいのです。

このため、聖パウロはこう言いました。「あなたたちは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を思い起こすのです。」主が天から来られ、来世を現し、私たち全員を復活させるとき、つまり、それによって私たちは肉体が不滅になり、魂が不変になるとき、聖礼典や象徴の使用は必然的に中止されるだろうとパウロは示しています。私たちは現実そのものの中にいるので、これから起こることを思い出させる目に見えるしるしは必要ありません。この世では、私たちは誕生と食物という二つの行為によって存在しています。誕生によって私たちは存在を受け取り、食物を摂取することで私たちは存在を維持することができます。生まれた者は食物が不足すると必ず死ぬからです。来世でも同じです。来世では、復活によって生まれた私たちは存在を受け取り、不滅になった私たちはその状態のままでいるでしょう。

それで、聖パウロはこう言いました。「この地上の家が取り壊されても、私たちは神の建物を持っていることを知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。」 この世で私たちは自分の手で働いて食べ物を得ようとし、そうして私たちは生きています。しかし、復活のとき、私たちは不死となり、天の住まいを受け取ったら、自分の手で働いて得た食べ物はもう必要ありません。なぜなら、その時私たちが獲得する不死は、食物と同じように、恵みの力によって私たちの存在を維持するからです。これが、聖パウロが当時の私たちの住まいを「人の手によらない家、天にある神の建物」と呼んだ理由 です。

これらのことは、私が言ったように、将来、復活のときに私たちに起こります。そして、私たちは今、象徴と兆候を通じて洗礼で生まれているので、同じ象徴に従って食べ物をとることも正しいことです。そうすれば、洗礼から受け取る存在を維持できるようになります。実際、すべての動物は他の動物から生まれ、それを産んだ動物の体を食べて育ちます。神は、生き物たちとともに、出産するすべての動物が、そこから生まれたものに適した食べ物を持つように、初めにそれを手配しました。これと同じように、象徴的に神の恵みを受けた私たちにとっても、生まれた場所から食べ物を受け取る必要があります。そして、私たちの主キリストの死は、復活によって廃止され、復活を通じて次の世界で私たちにもたらされる誕生を私たちに示しました。


これが、祝福されたパウロが次のようにも言った理由です。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死につくバプテスマを受けたのです。それは、バプテスマによってキリストとともに葬られたからです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中からよみがえらされたように、私たちも新しい命に生きるためです。もし私たちがキリストとともにその死に似たものに植えられているなら、私たちはまた、キリストの命に生きるのです。」ここでパウロは、復活が私たちの主キリストの死において明らかにされ、私たちはバプテスマによってキリストとともに葬られ、信仰をもってここでキリストの死にあずかった後、私たちも復活にあずかることを示しています。私たちは私たちの主キリストの死においてバプテスマによって誕生を受けるのと同じように、死においても象徴的に食物を受けます。祝福されたパウロは次のように言ってこのことを証言しています。「あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるまで、主の死を思い起こすのです。」 彼は、聖餐の交わりと参加において、私たちは主を思い起こし、主から復活と不死の幸福を受けるのだと示しています。実際、私たちの主であるキリストの死において聖餐の誕生を受けた私たちにとって 、この同じ死において不死の聖餐の食物を受け取り、私たちが誕生した場所から将来も自分たちを養うのは正しいことです。それは、生まれたすべての動物が、自分たちを産んだものから自分たちを養うことができるのと同じ習慣です。

主もこのことを証言しています。なぜなら、聖餐の制定において、主はこう言われたからです。「取って食べなさい。これはあなたたちの罪の赦しのために裂かれた私の体である」また、「取って飲みなさい。これはあなたたちの罪の赦しのために流された私の血である」。 主がこのように言われたのは、主は死によって、すべての罪が消滅する来世を私たちに与えてくださったからです。私たちにとって、聖餐に参加することで主の死を象徴的に記念することは正しいことであり、それによって私たちは将来の利益と罪の消滅を得ることができます。聖餐の食物にはそのような力があり、それを食べる人の誕生にふさわしいものです。実際、この世で私たちが霊的な食物をしるしや象徴として摂取するように、これらのしるしや象徴の性質は、象徴的な食物を摂取する現在の私たちの状態に適合している必要があります。


私たちは、この世での生活に役立ち、必要不可欠な水の中で第二の誕生を受けました。水がなければパンを作ることさえできないほどです。同様に、私たちはパンや水で溶いたワインを食物として摂取します。これらは、この世に非常に適しており、この世で生きるための支えとなるからです。私たちは、私たちのものとなる霊的な食物の適切な象徴を通じて、この世で自分自身を維持し、必然的にそこに留まるのに十分な能力を持っているので、この食物から不死になり、永遠に留まることを期待しているのだということを心に留めましょう。これらは、私たちが聖餐のこの聖なる食物をいただく希望なのです。

実際、主がパンと杯を私たちに与えたのは、私たちがこの世で生きるために食べ物と飲み物を必要としているからです。そして、主がパンを「体」、杯を「血」と呼んだのは、主の受難が主の体に影響を与え、それが苦しみ、血を流したからです。主は、 受難が成し遂げられたこの二つの物によって、また食べ物と飲み物の象徴によって、不滅の生命を啓示しようと望まれたのです。私たちは、この秘跡を行うときに、この不滅の生命に参加することを期待しており、そこから将来の利益への強い希望が得られると信じています。したがって、主がパンを与えたとき、「これは私の体の象徴です」とは言わず、「これは私の体です」と言ったのは正しいことです。同様に、杯を与えたとき、イエスは「これは私の血の象徴である」とは言わず、「これは私の血である」と言いました。なぜなら、イエスは、私たちがこれらの(要素)を、恵みと聖霊の降臨を受けた後、その性質に従ってではなく、主の体と血であるかのように受け取ることを望んでいたからです。実際、主の体でさえ、その性質に不死性や不死を与える力を持っているわけではありません。これは聖霊によって与えられたものです。死から復活したとき、それは神の性質と密接に結合し、不死となり、他の人に不死を与えるための道具となりました。

これが、主が「私の体を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得る」と言われた時 、ユダヤ人たちがその言葉に不平を言い、疑っていたこと、そして死ぬべき肉体から不死を得るのは不可能だと思っていたのを見て、この疑いを取り除くためにすぐにこう付け加えた理由です。「もしあなたがたが人の子が以前いた所に昇るのを見たら。」それはあたかも主がこう言っておられるかのようです。「私の体について言われていることは、今は真実とは思えないが、私が死からよみがえり、天に昇るのを見た時、言われたことが辛辣で不謹慎だとは思わないことが(あなたに)明らかになるだろう。なぜなら、事実自体が、私が不死の性質に移ったことをあなたに納得させるだろうから。なぜなら、もし私がそのような性質でなかったら、天に昇ることはなかっただろうから。」そして、これらのものがどこから来たのかを示すために、イエスはすぐにこう付け加えました。「生きているのは霊であり、肉は何の役にも立ちません。」これはあたかも、これらのものは生命を与える霊の性質から来るのであり、 霊を通して肉は不死となり、また他の人々にも不死を与えることができると言っているかのようでした。肉はこれらのものを所有しておらず、したがって、肉の性質から来るものとして他の人々に与える立場にありませんでした。なぜなら、肉の性質は、それ自体ではこの種の賜物や助けを与えることができないからです。したがって、生命を与える聖霊の性質が、主の体を、その性質が以前には持っていなかったものにしたのであれば、聖餐の象徴を通して聖霊の恵みを受けた私たちも、その要素を単にパンと杯としてではなく、キリストの体と血として見なすべきです。聖霊の降臨によって、その要素はキリストの体と血に変化し、聖霊によって、その参加者にとって、主の体と血を通して信者に起こると私たちが信じているものになります。これが、主が「私は天から降ってきたパンである」また「私は命のパンである」と言われた理由です。そして、主がパンと呼んだものが何であるかを示すために、「私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」と言われました。

私たちはこの世でパンと食物によって生きていますから、イエスはご自身を天から降って来た命のパンと呼びました。それはあたかも、私はまさしく命のパンであり、この目に見える(体)を通して私を信じる人々に不死を与えると言っているかのようでした。私はそのために降臨し、この目に見えて見える体に不死を与えました。この体を通して、私を信じる人々に不死が及ぶのです。イエスは「命を与えるのは私だ」とおっしゃることもできたでしょうが、そうは言わず、「私は命のパンである」とおっしゃいました。なぜなら、私たちはパンと杯を通して、聖餐の象徴に期待する不死の約束をここで受け取ることになるので、この呼び名にふさわしい象徴も尊重しなければならなかったからです。イエスは、この世に属するものから、言葉を超えた恩恵を疑いなく受け取るであろうことを私たちに納得させようと、与えられるべきものをほのめかすためにご自身をパンと呼びました。この世で生きるためにパンを食べるという事実、そしてパンは本来その機能を果たすことはできないが、その力をパンに授けた神の命令によってその機能を果たすことができるという事実は 、聖餐のパンを食べることによって不死を得ることを疑わないように、必然的に私たちを納得させるはずです。実際、パンはそのような性質を持っていませんが、聖霊とその恵みを受けると、それを食べる人に不死の幸福を与えることができます。パンが本来この力を持っていないにもかかわらず、神の命令によってこの世で私たちを支えることができるのであれば、聖霊の降臨を受けた後、私たちが不死を身につけるのを助けることができないのは、なおさらです。パンは、その本来の性質によってではなく、その中に宿る聖霊によってこれを行います。このパンは、私たちの主の体、つまりこのパンが象徴するものですが、聖霊の力によって不死を受け取り、この不死を他の人に与えましたが、本来は決してそれを持っていません。

したがって、主はパンを食物として、そしてワインを水で割った杯を飲み物として選んだのは非常に適切でした。旧約聖書では、血はワインを意味するとすでに解釈されていました。「主は彼にブドウの血を飲ませた」。 また別の箇所では、「彼は自分の衣服をブドウの血で洗い、自分の衣服をブドウの血で洗う」とあります。イエスが与えたものがぶどう酒であったことは、次のように言われて完全に明らかにされました。「わたしの父の王国であなたがたと共に新しいぶどう酒を飲むまでは、わたしは今後、ぶどうの実から作ったものを飲むことはない。」イエスは神の王国という言葉で復活をほのめかしています。なぜなら、神の王国は来世で死からよみがえる人々のために設けられたからです。そして、ルカが述べているように、イエスは復活後、そして昇天する前に、彼らと飲食を共にしようとしていたので、 上記の言葉によってイエスは受難が近づいており、この受難の前には彼らと食物は取らないが、死からよみがえった後には、この復活を確認するために彼らと飲食することを意味していました。

これが、イエスが「神の国であなたたちと新しいぶどうの実を飲むまでは、今後このぶどうの実を飲むことはない 」と言われた理由です。あたかも、イエスがこう言っておられるかのようです。「わたしの受難が近づいているから、その前にあなたたちと飲食はしない。しかし、死からよみがえったときには、わたしは食べることも飲むこともする。そのとき、わたしは新しいことをする。」死からよみがえり、不死の体となった者が食べることや飲むことは、確かに新しいことです。しかし、わたしは、わたしが死からよみがえったというわたしに対する強い信仰をあなたたちが持つように、自然の法則に反することをします。あなたたちが以前からあなたたちと食べたり飲んだりしていたことを知っていたわたしが、よみがえったのです。あなたたちはわたしの復活について大いに疑念を抱くでしょうから、わたしがそれをあなたたちに確証するために自然の法則に反することをし、不死の体となった後に食べることや飲むという、これまで一度もなかった新しいことをする必要があります。わたしの復活についての確かな知識は、あなたたちにさらに求められています。なぜなら、あなたたちはこの復活を他の人々に教える者となるからです。


主キリストが血の象徴として杯に入れてあなたに与えたものがワインであることは、それが水と混ぜられていることからもわかります。これは、ワインが一般的にこのように飲まれるという事実、またはパンをすでに食べたので、その対価として一杯の水を飲むことが適切であったという事実(パンは水と混ぜなければ作れないため)、または、洗礼の誕生においてこの象徴を利用したので、私たちは同様にそれを私たちの栄養の秘跡の喜びのために利用するという事実によるものです。聖パウロが言ったように、洗礼で起こることにおいてそれを思い出すのと同じように、聖なる秘跡に参加する際に私たちの主の死を思い出す必要があったように、聖なる洗礼の賜物の要素に私たちが見出す必要があったもの(そこから私たちは象徴的に第二の誕生を受けると信じています)は、秘跡の象徴の要素にも見出さなければなりませんでした。

これが聖餐の力であり、食べることと飲むことの二重の側面における聖餐の象徴と徴なのです 。あなた方の健全な教えのために、それらがどのように実行されるかについて、今あなた方に話すことは有益です。

まず第一に、私たちは食べる犠牲を捧げているのだということを認識しなければなりません。私たちは食べ物や飲み物で主の死を思い起こし、主が「これはあなたたちのために裂かれた私の体、これはあなたたちのために流された私の血である」と言われたので、これらが主の受難の記念であると信じているにもかかわらず、私たちは彼らの奉仕において犠牲を捧げているのです。そして、この犠牲を捧げることが新約聖書の司祭の職務であり、それによって新約が維持されているように見えるからです。確かに、それが犠牲であることは明らかですが、新しい犠牲ではなく、(司祭が)自分のものとして捧げる犠牲でもなく、(キリストの)別の本当の犠牲を思い出すものです。司祭は象徴やしるしを通して天にあるものを行うので、彼の犠牲もそれらのイメージと同じでなければならず、天の奉仕の似姿を表さなければなりません。私たちが天のものに似ていないなら、私たちが司祭となり、古代の法の外で司祭の奉仕を行うことは不可能でしょう。

祝福されたパウロは、私たちの主キリストについてこう言いました。「もし彼が地上にいたなら、彼は大祭司ではなかったでしょう。なぜなら、律法に従って供え物をささげ、天にあるものの模範と影に仕える律法の祭司たちがいたからです。」彼がここで言っているのは、律法に従ったすべての祭司は、地上で祭司としての務めを果たしたということです。地上では、律法はすべて死すべき人間に合うように作られ、犠牲は屠殺される理性のない動物で構成されていました。つまり、彼らは地上でのこの死すべき滞在に適していたということです。律法のすべての命令と儀式は、部分的にしか適切ではなかったことは確かに明らかです。割礼、安息日、聖日、日ごとの儀式、食べ物の区別、これらすべては死すべき性質に適していましたが、不死の性質にはどれも適していません。そして、そのようなことを行う人々にとって、理性のない動物の犠牲さえも適切ではありません。なぜなら、犠牲を捧げる行為で屠殺され、 死ぬからです。我らの主キリストに関して言えば、もし彼が地上で祭司の務めを果たそうとしていたなら、彼もまた神の律法に従ってこの務めを果たさなければならなかった。それは(モーセの)律法と調和するものであった。そしてもし彼が律法に従って祭司の務めを果たさなかったなら、彼は大祭司ではなかったであろう。なぜなら、そうであれば彼は神の律法に従わない祭司の務めを果たしていることになるからである。しかしながら、今や彼は地上ではなく天で祭司の務めを果たされる。なぜなら彼は私たちすべてをよみがえらせ、天に昇らせるために死に、よみがえり、天に昇り、彼を信じる者たちと、死からの復活と天への昇天にあずかることを与えるという契約を結んだからである。


イエスは真の大祭司職を果たし、神にご自身以外の犠牲を捧げません。なぜなら、イエスはすべての人のために自らを死に渡されたからです。イエスは最初に死からよみがえり、私たちのすべての敵を滅ぼすために天に昇り、神の右に座されました。聖パウロはこう言っています。「イエスは、私たちの罪のために一つの犠牲を永遠にささげ、神の右に座し、今から、敵がその足台とされるまで待ち望んでおられました。一つの供え物によって、聖なるものとされた人々を永遠に全うされたのです。」イエスは、私たちと戦う者たちを敵と呼び、彼らの滅ぼしは私たちの完全さの中にはっきりと見られます。大祭司の仕事は、まず神に近づき、次に自分自身を通して他の人々をも神に引き寄せることにあるからです。聖パウロがイエスを大祭司と呼ぶのは、イエスが実際にそうであったからです。イエスは復活を通して最初に天に昇り、神の右に座り、自分自身を通して私たちが神に近づき、良いものにあずかることをお許しになりました。 「私たちすべての大祭司は、私たちの主キリストです」と、聖パウロは言った。「彼は、律法の大祭司たちのように、天にあるものの模範や影に仕えるのではなく、人間ではなく神が建てられた聖所と真の幕屋の奉仕者です」。こうして、キリストはそれらを通して天にあるものを明らかにした 。パウロは「聖所」という言葉で、矛盾や非難されるべきものを何も含まない天にあるものを指し、「人間ではなく神が建てられた真の幕屋」という文章で天の住まいを指している。なぜなら、律法の幕屋は人間によって建てられたが、天は人間ではなく神によって造られたからである。使徒パウロは、キリストが天に昇り、そこで私たちすべてのために奉仕し、約束どおりに私たちをあらゆる手段で神のもとに引き寄せるために、キリストが奉仕者であると述べたのである。パウロが別の箇所で「彼は神の右にいて、私たちのために執り成しをしています」と言ったのは、この理由からです。パウロが「執り成し」と呼ぶのは、言葉で私たちのためになされる嘆願ではなく、行為でなされる執り成しです。なぜなら、パウロは昇天を通して私たちのために神に執り成しをし、私たち全員が彼のもとに昇天することを望んでいるからです。

もし、聖パウロが言ったように、私たちの主キリストが地上で祭司としての務めを果たしたなら、彼は祭司ではないはずであるならば、彼は律法の儀式に従って務めを果たしていないということになりますが、祭司職と律法の務めは神によって地上で明らかにされたので、神によってそれが拒否され、同じ地上で別のものが置き換えられる必要はありませんでした。それで、彼は当然祭司です。なぜなら、彼は天で祭司としての務めを果たし、そこには地上のものとは何の関係もなく、このようにして律法の祭司たちには非難が及ばないからです。別の場所では、これらの祭司たちは死すべき地上の人々の間でその働きをしていると言われていますが、一方、彼ははるかに高く崇高な不滅の天上のものの中で祭司としての務めを果たしています。ですから、私たちも地上のもののために祭司としての務めをするように任命された祭司にはなれないことは明らかではないでしょうか。確かに、律法の祭司職は地上の人間や死すべき人間に適しており、キリストは天上のものの大祭司であり、適切な時に私たち全員を天に昇らせてくださるということはよく知られています。

新しい契約に召された私たちは、祝福されたパウロが言ったように、希望をもって救いと解放を受け、 |82それをまだ見ていないけれども、「忍耐によって肉体を離れて主とともにいる」ことを期待しています。私たちは、見えるものによってではなく、信仰によって歩んでいます。なぜなら、私たちはまだ現実の中におらず、天国の恩恵の中にもいないからです。私たちは、天に昇って主のもとへ旅立つまで、ここで信仰をもって待っています。そこでは、私たちは鏡や謎を通して見るのではなく、顔と顔を合わせて見るでしょう。しかし、これらのものは、神が定めた時に、復活を通して実際に受け取ることを期待しており、今は、信仰によってのみ、これらの良いものの初穂、すなわち、私たちの主であり、私たちに属するものの大祭司であるキリストに近づくのです。私たちは、この世で未来の物事の象徴やしるしを行うように命じられています。それは、秘跡の奉仕を通して、象徴的に天の恩恵の幸福を享受する人々のようになり、それによって所有感と、私たちが待ち望んでいる物事に対する強い希望を獲得するためです。

本当の新生は復活を通して期待されるものですが、それでも私たちは洗礼を通して象徴的かつ聖礼典的にこの新生を実行します。同様に、不死の本当の食物も、聖霊の恵みによって天国で本当に受け取ることを望んでいるものですが、今私たちは象徴であれ象徴を通してであれ、聖霊の恵みによって私たちに与えられた不死の食物を象徴的に食べます。したがって、大祭司の役割が果たされなければならないことは必然であり、 それはこれらの象徴の奉仕のために任命された人々の中に見出されます。新約聖書の司祭として選ばれた人々は、聖霊の降臨によって、そして聖礼典の子供たちの確認と訓戒のために、聖礼典的に実行すると信じられています。これらは、私たちの主キリストが実際に実行し、実行すると私たちは信じています。

これが、律法の祭司たちのように、彼らが常に新しい犠牲を捧げない理由です。彼らは、牛、山羊、羊など、数多くのさまざまな犠牲を神に捧げるよう命じられ、常に新しい犠牲を捧げました。最初の 犠牲の動物が屠殺され、死に、完全に消滅すると、ずっと前に屠殺された動物の代わりに、常に他の動物が屠殺されました。新約聖書の祭司たちは、いつでもどこでも同じ犠牲を捧げます。なぜなら、私たちのために捧げられた犠牲は一つだけであり、私たちのために死を受け、この犠牲を捧げることによって私たちのために完全さを獲得した私たちの主キリストの犠牲だからです。聖パウロはこう言っています。「神は、一つの捧げ物によって、聖なるものとされた人々を永遠に完全にされました。」私たちはみな、どこでも、いつでも、いつでも、その犠牲の記念を守っています。「なぜなら、私たちはこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるからです。」したがって、この畏敬の念を起こさせる犠牲の儀式が執り行われるたびに、それは明らかに天にあるものの似姿であり、それが完成された後、私たちは将来の恩恵への真の参加として、食べ物や飲み物を通してそれに参加するにふさわしいものとなるのですが、私たちは心の中でぼんやりと天にいることを思い描き、信仰を通して、想像の中で天にあるものの姿を描き、同時に、天にいて私たちのために死んでくださったキリストが復活して天に昇り、今は生贄にされていることを考えなければなりません。信仰を通して、今再現されている事実、つまりキリストが再び死に、復活して天に昇っている事実を私たちの目でじっくりと見つめることで、私たちは、私たちのために以前起こったことのビジョンに導かれるでしょう。


主キリストは私たちのために自らを犠牲に捧げ、現実に私たちの大祭司となったので、祭壇に近づく祭司は彼のイメージを表していると考えなければなりません。彼が自らを犠牲に捧げているのではなく、彼が本当に大祭司であるのではなく、彼は言い表せない犠牲(キリスト)の奉仕の象徴を演じ、この象徴を通して、言い表せない天上のものや超自然的で無形の大群のイメージをぼんやりと表しているからです。実際、目に見えない大群はすべて、私たちの言葉を超越し、私たちの主キリストが私たちのために成し遂げたあの経綸(オイコノミア)に奉仕しました。「彼らはみな、救いの相続人となる人々のために奉仕するために遣わされた奉仕の霊です 」と聖パウロは言いました。福音伝道者マタイも、「天使たちが来て、イエスに奉仕した」と言ってこれを示しています。これはまた、私たちの主が「これからあなたは天が開け、神の天使たちが人の子に上り下りするのを見るでしょう」と言ったことによって証明されています。福音書の中の出来事は、彼らを通して起こった出来事も示しています。それは、主の誕生のときに「いと高きところには神に栄光あれ、地上には平和あれ、人々には希望あれ」と歌った人々を通してであれ、主の復活のときに何が起こったかを女性たちに明かした人々を通してであれ、主の昇天のときに使徒たちに彼らの知らなかったことを説明した人々を通してであれ、です。したがって、ここでも、この畏敬の念を起こさせる儀式が行われるとき、執事たちはこれらの目に見えない霊たちの儀式の象徴であり、彼らが受けた聖霊の恵みによってこの畏敬の念を起こさせる儀式に仕えるよう任命されたのだと私たちは考えなければなりません。

これが、私たち全員がキリストの牧師と呼ばれる理由です。聖パウロはこう言っています。「私は異邦人の使徒なので、自分の務めを重んじます。」しかし、この名前は、この務めを果たす人々に特に当てはめられ、すべての人々から「執事」と呼ばれています。なぜなら、彼らだけがこの務めを果たすよう任命されており、霊的使者や牧師の務めに似ているからです。また、彼らは職務にふさわしい服装をしています。彼らの外衣は彼らの身長よりも高く、そのような服装をこのように着ることは、奉仕する人々にふさわしいからです。彼らは左肩にストールを掛けますが、それは前後どちら側にも均等に流れます。これは、彼らが奴隷の務めではなく、自由の務めを果たしているというしるしです。彼らは、神の偉大な家、つまり教会にふさわしいすべての人々を自由に導くことに務めているのです。彼らは、ストールを首にかけるとき、それが左右に流れるようにはかけませんが、前にはかけません。なぜなら、家で奉仕している人で、そのような服装をしている人はいないから です。このように着るのは、いかなる種類の奴隷状態からも遠く離れた、自分自身の主人である人たちだけです。しかし、執事は、奉仕のために任命されているので、肩にかけます。ストールは、キリストを信じる私たち全員が召されている自由の唯一のしるしです。私たちは、聖パウロが言うように、「神の家、すなわち生ける神の教会、真理の柱であり土台である」に急いで行き、そこにいるのです。そして、彼らは明らかに、そこで行われるすべての奉仕のために任命されているのです。

主キリストが私たちのためになさったことは畏敬の念を抱かせるものであり、私たちは来世でそれが完全に成就することを期待しているので、今は信仰によってのみそれを受け取り、それらに対する信仰を何一つ失うことなくこの世で徐々に進んでいきます。このように、私たちはこの秘跡の務めを通して未来の現実へと導かれるにつれて、その秘跡を通して私たちに啓示された事柄に対する信仰において必然的に確固たるものになります。2なぜなら、秘跡には主キリストの言い表せない経済のイメージが含まれており、その中で私たちは起こった出来事のビジョンと影を受け取るからです。これが、司祭を通して私たちの主キリストを心に思い描く理由です。司祭を通して、ご自身の犠牲によって私たちを救い、解放してくださったお方を見るのと同じように。そして、起こったことに仕える執事を通して、その言い表せない奉仕に仕えた目に見えない大群を心に思い描くのです。この供物、あるいはこの供物の象徴を持ち出すのは執事たちであり、彼らはそれを並べて畏敬の念を抱かせる祭壇(供物)に置くのだが、想像の中で表現されるその光景は、見る者にとって畏敬の念を抱かせる出来事である。

また、キリストが、ある時には受難に導かれ、またある時には、私たちのために犠牲にされるために祭壇に引き伸ばされたことも考えなければなりません。そして、(祭壇に)置かれる供え物が聖皿と聖杯という聖なる器に入れられて運ばれるとき、私たちの主キリストが、ユダヤ人によってではなく、私たちの救済と救いの象徴に不道徳なイメージが見られるのは不釣り合いで許​​されないので、私たちのために遣わされ、私たちの救いの受難が 成し遂げられたときにもそこにいて、奉仕していた目に見えない奉仕の軍勢によって、受難に導かれ、連れて行かれることを考えなければなりません。実際、彼らは例外なく私たちの主キリストのすべての働きに奉仕し、神の意志に従ってそれを遂行しようと努めながら、受難のときに奉仕とともにそこにいました。主が受難が近づき、深い思いと恐怖に陥っていたとき、聖ルカは「天使が主の前に現れ、主を力づけ、励まし」、声で運動選手の勇気を奮い立たせる人々のように、主が苦難に耐えられるように油を注ぎ、励ましの言葉で主が忍耐強く苦痛に耐えるよう説得し、主の受難は、受難と死の後、主が大いなる栄光をまとい、そこから人々だけでなくすべての被造物に多くの利益をもたらすことになるので、そこから得られる利益に比べれば小さなものであることを主に示した、と記しています。

したがって、聖体のパンを運び、それを犠牲のために持ち出す助祭たちは、目に見えない奉仕の聖体のイメージを表していると考えなければなりません。ただし、彼らの奉仕とこれらの記念を通して、彼らは私たちの主であるキリストを救いをもたらす受難に送るわけではないという違いがあります。彼らが(聖体のパンを)持ち出すとき、彼らはそれを聖なる祭壇の上に置くのは、受難の完全な表現であり、私たちが、受難を受けた後、墓に置かれたかのように、祭壇上の主を思い浮かべることができるようにするためです。これが、祭壇に亜麻布を広げる助祭たちが、(私たちの主の)埋葬の亜麻布のイメージを表す理由です。これが広げられた後しばらくして、彼らは両側に立ち、扇で聖体の上の空気をすべてかき混ぜ、聖体を汚すものから守ります。彼らはこの儀式によって、そこに横たわっている遺体の偉大さを明らかにしている。この世の高位の人物の遺体が棺台に乗せられて運ばれるとき、何人かの男がその上の空気をあおぐのが習慣である。したがって、 祭壇に横たわっている、神聖で畏敬の念を起こさせ、あらゆる腐敗から遠ざかっている遺体、まもなく不死の性質に昇る遺体に対して、ここで同じことが行われるのは正義である。

この遺体の周囲には、特別に奉仕するよう任命された人々が立ち、扇ぐ。彼らはそれにふさわしい栄誉を捧げ、この儀式によって、そこに横たわる聖体の偉大さを、そこにいる人々に明らかにする。確かに、聖なる書物から、天使たちが墓の近くの石の上に座り、女性たちにイエスの復活を告げ、そこに横たわるイエスを称えて、イエスが亡くなる間ずっとそこに留まり、復活を目撃するまでそこにいたことは、私たちには明らかである。天使たちは、復活は全人類にとって良いことであり、すべての創造物の再生を意味すると宣言した。聖パウロはこう言っている。「キリストにある人はみな新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなりました。」

それゆえ、ここでも(助祭たちが)天使の務めを像のように表現するのは正しいことではなかったでしょうか。主の受難と死に絶えず立ち会った人々を記念して、彼らもまた輪になって立ち、扇で空気をかき回して、そこに横たわる神聖で畏敬の念を抱かせる聖体に敬意と崇拝を捧げます。こうして彼らは、そこに横たわる物体の偉大さをその場にいるすべての人に明らかにし、すべての見物人にそれを畏敬の念を抱かせる真に神聖なものとして考えさせ、このために彼らはそれをあらゆる汚れたものから守り、鳥の汚れた滴りさえもそれに落ちたり近づいたりさせないのだと気づかせます。彼らが今これを習慣的に行うのは、そこに横たわる聖体が神性と一体化して高く、畏敬の念を抱かせる、神聖で、真に主であるがゆえに、それを扱い、見、保管するには大きな畏敬の念を抱かなければならないことを示すためです。


これらのことは、皆が沈黙しているときに起こります。なぜなら、礼拝がまだ始まっていないとき、誰もが 静かで畏敬の念を抱き、静かに祈りながら、このような偉大で素晴らしいものが運び出され、広げられるのを見守らなければならないからです。主が亡くなられたとき、使徒たちは立ち去り、家の中で大きな沈黙と計り知れない恐怖に襲われました。皆を襲った沈黙は実に深く、目に見えない大群でさえ、期待される復活を待ちながら沈黙していました。時が来て、主が復活すると、目に見えない大群の上に大きな喜びと言い表せない幸福が広がりました。遺体を敬うために来た女性たちは、天使たちから、起こった復活の新しいメッセージを受け取り、弟子たちも天使たちから何が起こったかを知ると、非常に熱心に一緒に墓へと走りました。今、私たちは同じような出来事に引き寄せられて、主の受難を思い起こしています。そして、聖餐台の上の供え物を見ると、それは死後、一種の墓所に置かれることを示していますが、そこにいる人々は大きな沈黙に包まれます。そこで起こることは畏敬の念を抱かせるものなので、彼らはそれを静かに、そして敬虔な畏怖の念をもって見なければなりません。なぜなら、私たちの主キリストが、祭司の儀式とともに行われる畏敬の念を抱かせる礼拝の中で復活し、私たちが言葉では言い表せないほどの恩恵に与っていることをすべての人に告げ知らせる必要があるからです。したがって、供え物によって私たちの主の死を思い出すのは、それが復活と言葉では言い表せないほどの恩恵を明らかにするからです。

次に祈りが行われます。これは沈黙の祈りではなく、執事の大声で事前に告げられます。私たちが知っておくべきように、執事はそこで起こるすべてのことのしるしと目的を説明します。出席者全員が行うべき儀式は、執事の宣言によって知らされます。執事は、神の教会に集まった人々が実行し、成し遂げるべき法定行為を一人ひとりに命じ、思い出させます。

司祭は、規則正しい礼拝を終え、全員に声をかけて訓戒し、教会の集会にふさわしい祈りを唱えるよう勧め、全員が沈黙した後、定められた礼拝を始め、他のすべてのことの前に 神に祈りを捧げます。なぜなら、宗教に欠かせない他のすべてのことの前に、必ず祈りを始めなければならないからです。これは、私たちが神の助けを必要とするこの畏敬の念を起こさせる礼拝の場合に特に当てはまります。なぜなら、神だけが、(この礼拝に暗示されているような)ことを行えるからです。そして、司祭は、主が人々の救いと解放のために備えてくださった偉大なこと、そして、主が受難を通して私たちに授けてくださった、言い表せないほどの賜物、すなわち、私たち全員を死からよみがえらせ、天国に連れて行くと約束されたこれらの素晴らしい神秘の知識を私たちに与えてくださったことに感謝を捧げた後、祈りを終えます。その後、彼はまた、このような畏敬の念を抱かせる秘跡の奉仕者に任命されたことに対して、自分自身のためにも感謝を捧げます。これとともに、彼は聖霊の恵みをも祈ります。それは、彼が神によって司祭職にふさわしい者とされたように、今や彼がこの奉仕の偉大さにふさわしい者とされるよう、また、神の恵みによって、あらゆる悪しき良心から解放され、いかなる罰も恐れることなく、この奉仕を遂行することができるように、なぜなら、彼はこのような奉仕の尊厳には限りなく及ばない存在であり、自分よりもはるかに高次のものに近づいているからです。

司祭がこれと似たようなことを言って祈りを終えると、会衆全員が「アーメン」と言います。これは司祭の祈りに同意し、確認することを意味する言葉で、「無学な者の部屋にいる者は、あなたが何を言っているのかは分からないが、あなたの感謝の祈りにアーメンと言う」と言われています。会衆は、司祭の祈りと感謝に同意することを示すために、この言葉を使わなければなりません。

会衆がこの言葉を唱えた後、司祭は「あなた方に平安あれ」と祈ります。教会の集会で行われるすべての礼拝、特にこれから行われるこの畏敬の念を起こさせる礼拝は、この言葉で始めるのが適切です。聖パウロも、すべての書簡の冒頭に「恵みと平安あれ」という言葉を置きました。(司祭) |90主キリストの経済を通して私たち全員の幸福のために与えられた恩恵について私たちのために祈ります。主は来臨によってすべての戦争を廃止し、私たちに対するすべての憎しみとすべての戦いを完全に破壊し、復活によって死、腐敗、罪、情熱、悪魔の煩い、すべての悩ますものから私たちを解放し、私たちを完全に不滅で不変にし、私たちを天国に連れて行き、そこで完全な信頼を与え、神の信頼できる使者である目に見えない軍勢との素晴らしい友情と交わりを私たちのために準備してくださいます。聖パウロがすべての書簡の冒頭で「平和」という言葉の前に「恵み」という言葉を書いた理由は、そのような賜物を受け取るに値する何かを私たちが始めたり、自分たちで何かをしたりしたのではなく、神ご自身が恵みによって私たちにそれを授けてくださったという事実にあります。

教会には初めから、聖職に就くにふさわしいとみなされた者は皆、教会の集会で執り行うすべての行事を、この畏敬の念を起こさせる儀式に何よりもふさわしい上記の句で始めなければならないという規則がある。司祭がすべての人の平和を祈るのは、主の死を記念するこの神聖な儀式が象徴するこれらの偉大な恩恵を明らかにするのは司祭であり、これらの恩恵や同様の恩恵の偉大さは司祭を通して私たちに約束されているからである。

すると、そこにいる人々は答えた。「そして、あなたの霊にも。」彼らは同じ祈りで彼に応えた。それは、司祭と彼ら全員に、司祭の祝福と祈りを必要としているのは彼らだけではなく、司祭もまた彼ら全員の祈りを必要としているということが明らかにされるためである。これが、教会に最初からある規則によって、司祭が他の会衆と並んですべての教会の祈りにも言及されている理由である。確かに、私たちはすべて私たちの主であるキリストの体であり、私たちはすべてお互いにメンバーであり、司祭は 目や舌などの体の他の部分よりも高いメンバーの役割を果たすだけです。見よ、彼は目のようにすべての人の働きを見て、また、司祭にふさわしい勤勉さで、すべての人を司祭職の規則に従って必要なことに導き、指示します。そして、舌のようにすべての人の祈りを捧げます。そして、誰もが自分の組織に属するメンバーがそれぞれの役割を果たすことを求めており、そのためには、求められたときにその役割を果たすことができるよう、メンバーの構造が健康で健全であることが必要であるのと同様に、教会の組織に属する司祭も、その職務において健康であることが求められており、そうすることで、自分に求められている善行と司祭職の健全さを明らかにした後、自分が持つ名誉に値し、共同体のあらゆるメンバーの必要を有益かつ適切に満たすことができると見られるようになる。

これが、パウロがそこにいる人々にあいさつをし、彼らが「あなたの霊にも」と答えると、彼らからも祝福を受ける理由です。「あなたの霊にも」と言うとき、彼らは彼の魂について言っているのではなく、聖霊の恵みについて言っているのです。その恵みによって、彼の下にいる人々は彼が司祭職に近づいたと信じています。祝福されたパウロが「私は御子の福音において、御霊によって神に仕えています」と言ったように。それはあたかも、私に約束された聖霊の恵みの賜物によって、私は福音の奉仕を全うし、あなた方全員が私の霊に加わることができるようにと言っているかのようです。これは、「私は神から、これらや同様のことを行う立場に就くことを与えられたが、私の霊に平安がなかった」という意味であり、また「聖霊によって奉仕する者が他の人のためにしなければならないことを、私の同労者でなければならない方が不在だったために、私はできなかった」という意味でもあります。

この意味で、「そしてあなたの霊に」という句は、教会に最初からあった規則に従って、会衆が司祭に語りかけるものです 。その理由は、司祭の行いが善良であれば、教会の組織にとって利益となり、司祭の行いが不道徳であれば、それはすべてにとって損失となるからです。彼らは皆、平和を通して聖霊の恵みが司祭に約束され、司祭が公衆に対する奉仕を適切かつ正しく遂行するよう努めることができるように祈ります。このようにして、司祭は聖霊の恵みがあふれ出ることによってさらに豊かな平和を得、そこから、自分に求められる仕事のための助けを得ます。なぜなら、他の事柄と同様に、奉仕においても、祝福が司祭から会衆へ、そして会衆から司祭へ渡るとき、司祭は正しいことをしているように見えるからです。

そこで司祭は平和を与えることから始め、教会の呼びかけ人である助祭は叫び、皆が互いに平和を与えるように命じます。それは司祭がしていることを皆が行うためであり、互いに平和を与え合い、抱き合うことで、互いの調和と愛を告白するためです。私たち一人一人は、できる限り隣の人に平和を与えますが、それは暗に私たち全員が互いに平和を与えることを意味します。なぜなら、ここで起こっていることは、私たち全員が主キリストの一つの体であるべきであり、一つの体の各部分の間に見られる調和を互いに持ち、互いに愛し合い、助け合い、私たちの個人的な事柄を私たち全員の事柄とみなし、互いの苦しみを共に苦しみ、互いの喜びを共に喜ぶべきであることを暗示しているからです。


私たちは洗礼によって一つの新しい誕生を受け、それを通して私たちはあたかも一つの自然な密接な結合に結び付けられ、また私たち全員が一つの食物を共にし、その中で同じ肉と血を受け、洗礼という一つの体の中でより強く結ばれるという事実から、聖パウロが言ったように、「私たちはみな一つのパンを共にしている。パンは一つであり、私たちも多くの体でありながら一つのパンであるからだ」、私たちが聖餐と礼拝に近づく前に平和を与える儀式を行うのは正しいことです。なぜなら、平和を与える儀式において 私たちは互いに調和と愛を告白するからです。一つの教会体のメンバーとしての役割を果たす人々にとって、同じ誕生を通して同じ体に近づき、私たちと同じように私たちの主キリストの一員であると信じ、聖餐の食卓から同じ食物を共にする信仰の子を敵とみなすことは、確かに不適切です。これが、私たちの主が「兄弟に対して理由もなく怒る者は、裁きを受けるであろう」と言われた理由です。

起こることは愛の告白であるだけでなく、信仰の子に対して何か恨みを持っていると思えば、あらゆる敵意を捨て去らなければならないという戒めでもあります。いかなる状況においても過度の怒りは起こらないように命じた主は、いかなる罪を犯した者にも救済策を与えました。「それゆえ、あなたが祭壇に供え物を捧げ、そこで兄弟があなたに対して何か恨みを持っていることを思い出したなら、供え物を祭壇の前に残し、まず行って兄弟と和解し、それから戻って供え物を捧げなさい。」主は、罪を犯した者に、罪を犯された者と急いで和解し、怒った者をなだめ、全力で和解するまで供え物を捧げないように命じています。実際、私たち全員が司祭と一緒に供え物を捧げますが、司祭は供え物を捧げるために一人で立ち上がっても、舌のように全身のために捧げます。したがって、捧げられる贈り物は、それに含まれる恵みがすべての人のものであるのと同じように、私たち全員のものであり、平等にそれを享受できるように私たち全員の前に置かれています。この意味で、聖パウロは大祭司について「彼は自分のためだけでなく、民のためにも、罪のために捧げ物をすべきである」と言いました。これは、祭司がすべての人のために贈り物を捧げ、自分自身と残りの民のために捧げ物をするよう命じられていることを示すためです。

したがって、罪を犯した者は、自分が罪を犯した相手を全力でなだめ、和解する義務があります。罪を犯された人が近くにいる場合は、文字通りキリストの命令を実行すべきです。近くにいない場合は、適切な時に彼にこれを実行し、その後、捧げ物の交わり に近づきます。一方、罪を犯された人は、自分に対して罪を犯した人との和解を受け入れなければなりません。なぜなら、罪を犯された人は、罪を犯した人と同じ迅速さを示さなければならないからです。実際、彼は自分が犯した罪をすべて心から消し去らなければなりません。その際、次の一文を心に留めなければなりません。「もしあなたがたが人々の罪を赦さないなら、天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してはくれません。」私たちは、この挨拶を、これらすべてを受け入れ、思い出すこととして考えなければなりません。そうしなければ、私たちは、聖なるパウロのように、聖なる口づけで互いに挨拶し合うべきであり、ユダのように、口づけをしながら、信仰の子らに対して憎しみや悪事を見せようと努めるべきではないのです。

このことが行われている間、司祭がまず手を洗い、それから聖職者の集まりに数えられている全員、人数に関係なく、手を洗います。これは手の清潔さのためではありません。もしそうであれば、ある者は奉仕のため、またある者はこれから受ける聖餐のため、全員が手を洗わなければなりません。しかし、司祭が全員のために犠牲を捧げ、それによって、清い良心をもって捧げられた聖餐に近づくよう私たち全員に思い起こさせるからです。このようにして、平和の祈りを捧げた後、私たちは信仰の子らに対する憎しみや敵意をすべて取り除き、捨て去り、罪の記憶を洗い流したことを宣言したので、私たちはできる限りすべての汚れから解放されたと信じることができます。それから、助祭から与えられた合図に従って、全員が立ち上がり、何が起こっているのかを見ます。それから、生きている人々とキリストを信じて亡くなった人々の名前が教会の書物から読み上げられる[2]13。そして、その中で言及されている少数の人々の中には、暗黙のうちにすべての生者と死者が言及されていることは明らかです。これは、私たちの主キリストの経綸(オイコノミア)において何が起こったかを教えるために行われるのであり、生きている者も死んでいる者も同じようにすべての人のための(神の)助けである現在の礼拝は、その経綸(オイコノミア)を記念するものである。確かに、生きている者は将来の希望に目を向けているが、死んでいる者は実際には死んでおらず、眠りに落ちて、希望の中にとどまっている。私たちの主はその希望のために死を受け、私たちはこの秘跡でそれを記念しているのである。

上記の朗読が終わると、司祭は礼拝に近づき、教会の呼びかけ人、つまり助祭は、その声は会衆が司祭から与えられたしるしに従いながら何をしなければならないかを明確に示しており、まず「供え物を見なさい」と叫びます。ここで司祭は、あたかも公の礼拝が行われようとしているかのように、公の犠牲が捧げられようとしているかのように、そして、信仰において私たちと交わりを持ち、神の教会に数えられ、その中で生涯を終えた限り、出席している人々だけでなく、欠席している人々のためにも、すべての人に供え物を見るように勧めます。この儀式を「犠牲を捧げる」とか「犠牲を捧げる」とも呼ぶのは明らかです[3]14。なぜなら、畏敬の念を起こさせる犠牲が捧げられるからです。そして、もしキリストが神に捧げられるなら、聖パウロが言うように「キリストは一度、ご自身を捧げた時、このことをなさった」のです。そして、今、(司祭が)何かを捧げる必要が生じたときに、また別の時に捧げられるのです。これが、私たちが「犠牲」とか「犠牲を(キリストの)犠牲に似せて捧げる」と呼ぶ理由であり、また、執事が犠牲を捧げる前に「犠牲を見てください」と言うのも当然のことです。

祭壇に置かれる物を見る準備が整い、私たちが話したすべてのこと、つまり礼拝の前に必ず行わなければならないこと、そしてあなた方の教えと記憶に欠かせないことがすべて完了すると、司祭は犠牲そのものを始めます。あなた方は今、これがどのように行われるかを学ばなければなりません。しかし、すでに述べたことのために尺度を定めなければならなかったので、私はこの主題について言いたいことは取っておき、神が許すなら別の日に言うことにします 。そして、彼ら全員のために、父なる神と、その独り子と、聖霊を、今も、いつまでも、そして永遠に讃えましょう。アーメン。


ここで第5章は終わります。

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脚注

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  1. クルバナという言葉は、英語の聖書でよく使われるように、全体的に「捧げ物」と訳されることもありますし、「犠牲」と訳されることもあります。
  2. 二連祭壇画への言及
  3. または、どちらの場合も「奉納」。この表現はギリシャ語の Anaphora の翻訳です。
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原文:

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翻訳文:

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