三壺聞書/巻之三

 
三壺聞書巻之三 目録
 
 
オープンアクセス NDLJP:20
 
三壺聞書巻之三
 
 
 
甲斐の信玄と申すは、元祖源氏の大将伊予守頼義の三男新羅三郎義光甲州へ御下り、二十四代を経給ひて、信虎の御時姉娘を今川義元へ嫁娶し、子息晴信とて甲州に父と一所におはします。或時父信虎駿河の今川義元へ御出の後に、子息晴信才覚にて国境に関をすえ、父信虎を追出し、我と家督を取りて是を信玄と申しけり。弓馬の道無双にして、関東の北条、三河の家康、駿河の今川、美濃・尾張・越後・信濃の大名に年々手を延べて取合ひ隙もなし。甲州一国の上に駿河・遠江・信濃・上野・越後・飛騨・越中まで少し宛押領す。子息勝頼の代に、信長・家康一手にならせ給ひて、甲州武田の家を滅却せられけり。信玄別して越後の謙信と毎年取合ひ隙もなし。それ故甲州侍に覚の者多かりけり。
 
 
長尾謙信輝虎は、昔八幡太郎義家奥州の戦に、安倍の貞任・宗任を退治し給ひし時鎌倉権五郎景政といふ人御供す。此の人の末に梶原平三景時といふ人あり。是より九代長尾為景といふ。其の子景虎に義輝将軍より輝の字を賜はり、輝虎と名乗り、法躰して謙信といふ。関東の上杉家に執権し、上杉殿北条氏直に打負け越後へ来り、管領職も上杉の名字も輝虎に譲り、越後に蟄居して過ぎ給ふ。故に長尾の名字を替へて上杉と改め、越後・佐渡・出羽・奥州までも幕下となし、飛騨・越中・能登までも手を延べ、度々馬を出ださるゝ。謙信に子なし、甥の喜平次景勝を養子とし、又北条氏康の子を養子にして三郎景虎といふ。謙信他界の後、此の兄弟家督を争ひ合戦し、景虎打負け景勝利運と成り、上杉の家相続して今にあり。
 
 
飛騨の国には江間常陸守、越中には神保安芸守・椎名小四郎・川田豊前、氷見には菊池伊豆入道・子息十六郎、能登には畠山殿管領にて、長谷部の長一族・温井・三宅・遊佐・甲斐庄・黒滝長等に守護せしむ。其の先畠山は、越中・能登・加賀政道し有之けれ共、加賀・越中より能登へ楯出せり。加賀オープンアクセス NDLJP:21には頼朝の御時より、富樫之介・林六郎・井上左衛門抔とて有りけれ共、尊氏の御代に成りて本願寺門徒に高田門徒帰服して、高田と本願寺門徒宗論出来す。富樫は高田門徒に理を被付ければ、一向宗こらへずして打起り、富樫之介を取巻き攻戦ひ、終に富樫敗軍し、高田門徒を追払ひ、一円宗所々に要害を構へ、信長公の御代迄も大阪門跡幕下とて爰かしこに楯をつく。越前は尊氏御代の中頃に、朝倉孝景拝して百年近く持ちにけり。丹波に赤井惣右衛門、四国に長曽我部・来嶋、中国十三ケ国は安芸の毛利・吉川・小早川付随ふ。筑紫九ケ国には島津修理大夫頼朝公より拝領して、国侍に原田・松浦・大友等守護せしむ。都に大乱ありといへども不構して引籠り、栄華のみにて暮しけり。此の時一天下に主なく、我儘而已の世界也。
 
 
元亀三年七月五日信長公の御嫡子城之介殿御具足召し初め、夫より追付き北近江へ打出で、浅井備前守旗下阿閉淡路守の居城山本へ取懸り攻め給へば、浅井・朝倉申し談じ、越前・近江の人数二万余騎にて出向ひ、互に入乱れ戦ふに、信長公・信忠公父子共に爰を大事と思召し、木下藤吉郎・佐々内蔵助・不破彦三等下知して、火花を散らし攻め戦ふ。然る所に敵方富田権六・前波九郎左衛門・戸田与四郎・毛屋猪之助申合せ、信長公へ反忠して降参致すに付き、信長公勝利を得給ひ、虎御前山の要害に木下藤吉郎を入れ置き、宮部の城へは宮部善祥坊を入れ置き帰城ありける。此の時の殿は柴田権六也。然る所に浅井が人数後に喰付き、追打に首を取り柴田難義せし処に、信長公は蜂谷出羽を被召、前田又左衛門立帰りて埓を付けよと仰せらるゝに、承り候とて引返し給へば、村井又兵衛・木村三蔵・小塚藤右衛門・奥村助右衛門・土肥伊予一陣に進みて鑓を構へ突き崩す。柴田是に力を得、一手に成りて追払ひ、心易くぞ引き取りけり。此の事いつも柴田申し出し、利家公の御働きに依りて、大事の所を遁れたりと申されけり。去程に信長公は将軍を洛陽室町に守護せられて、諸国の敵を打随へ、飛龍天に上る如くにならせ給へば、彼の三好の一族は摂州・河州を押鎮め我儘にして、大阪門跡を語らひ、信長を睨み居る越前の朝倉と近江の浅井と申合せ、信長を亡さんと内談隙もなし。加様の事共将軍も幸と思召し、信長天下に威を振ひ、諸大名共附き随はゞ、後々は我を世になき者と成すべし。然らば近江・越前・畿内の侍共と申談じ、故将軍の御跡を心易く相続せんと思召し、既に御謀叛に極りけり。信長公はいかにも左様に有るべし、若し内々露顕せば斯く計らへど、前田・木下・柴田・佐々・不破・川尻・青山・丹羽・佐久間などに仰含め置き給へば、方々の手配誠に割り符のあうたる如くにて、将軍方の合戦事浅間敷敗軍しければ、是非に不及都を立退き、西国さして落行給ひ、其の後頓て御病死といへり。是れ尊氏家の終りと聞えし。
 
 
元亀四年五月越前の朝倉義景、数万の兵を引率し信長公へせめ懸る。刀根山其の外所々の要害にして、信長公手分ありて合戦し給ふ。家康公も一味ありて、一騎当千の兵共爰かしこにて二百・三百宛の首をとり、信長公へ進上あり。朝倉家にて武勇第一と頼みし者共、早や裏返りし信長公へ降参しければ、越前勢さわぎ立ちて落ち行く程に、義景驚きて一門中を引連れ、一乗の谷へ押寄せ義景を討取んと仰せらる。此のよし朝倉へ臆病者共より云ひ伝へければ、朝倉叶ふまじと思ひ、大野山田の庄六坊へ逃げ隠れ是あるを、柴田勝家・氏家左京・稲葉伊予・伊賀伊賀守追ひ懸け尋ねしに、平泉寺の僧共降参して案内せし故、六坊へ被仰れけるは、朝倉の家老朝倉式部大輔景鏡に、急ぎ義景の首を取りて指上げなば命を助けんと申遣す。景鏡畏りて申しけるは、是非もなし、とても義景果て給ふべし、我等命助りあらば孝養せんと思ひ、義景にすゝめて切腹をさせ、首は稲葉伊予守が家の子稲葉土佐請取りて信長公へ持参し、伊予守が仕りたる由言上しければ、信長公御感ありて、長谷川宗仁に被仰付、京都へのぼせ獄門に懸けさせ給ふ。第一朝倉負軍に成る事は、斎藤刑部西方院裏返りたる故也。朝倉掃部・同土佐守・三田崎六郎・河合安芸守・青木隼人・鳥井与四郎・窪田将監・託美越後・山崎新右衛門・同七郎右衛門・同肥前守・弟来本坊・細呂木治部・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・同三郎右衛門・同新兵衛・長崎大乗坊・和田九左衛門・同清左衛門・疋田六郎・小泉四郎左衛門・斎藤右兵衛、彼是都合七百余人皆討死す。此の右兵衛といふは信長公の小舅也。越オープンアクセス NDLJP:22前一国をば前波播磨守に御預ありけり。斎藤右兵衛は八月十四日刀根山にて、氏家左京・宮川但馬といふ者の首を取りて指上ぐる。先年美濃にて討ちもらしたるに、唯今首を見る事よと仰せられける。
 
 
同年八月浅井備前守長政は、小谷の城より人数を催し討つて出で、虎御前山の城は信長公より人数を入れ置かれけるを、浅井人数取懸け攻破り乗取る。信長公此の由聞し召し、多勢を率しもみにもんで攻め給ふ。木下藤吉郎秀吉は、浅井備前守が父下野守が居城と虎御前山との間なる、京極つぶら峠といふ所へ打上り、父子の間をたち切り戦ひければ、両方の者共頼み少なくさわぎ立ちて見えければ、木下弥々攻めけるに、浅井下野守最早叶ふまじと思切りて、八月廿八日に切腹を遂げ、骸を戦場にさらす。此の由を備前守聞くよりも、いつまで命を延べん、無念至極と思へ共是非に及ばす、死物狂に四方八面切廻り、廿九日辰の刻に切腹して果て畢ぬ。浅井福寿庵・鶴松太夫追腹す。浅井石見守・赤尾美作守を生捕り首を刎ねらる。且つ浅井の領分を木下藤吉郎秀吉に賜はり、夫より羽柴筑前守と成り給ふ。秀吉の手柄の程此の時に極りぬ。柴田勝家に九月朔日江州鯰江の城佐々木義弼を攻めさせ給へば、城を明けて落行きけり。磯野丹後守・杉谷善住坊を生捕りて指上ぐるに、信長公御感不斜、岐阜の町端に竹鋸にて七日の間ひかせられ、其の後磔にぞ懸け給ふ。此の善住坊が事は、去る元亀元年に信長公、越前の敦賀に至りて手筒山を攻め随へ、金ケ崎朝倉中務大輔へ取懸り降参させ、朽木谷を経て江州へ出で、森三左衛門可成に志賀・宇佐両城、佐久間信盛に長原の城、柴田勝家に長光寺の城、中川金左衛門に安士の城、木下秀吉に長浜の城を御預ありて、岐阜へ帰らせ給ふ所に、佐々木の一類鯰江の城を堅めて路次をせき切り扣へたり。蒲生右兵衛勝秀は其の時信長公の御供也。千草越にかゝり御越えありける所に、佐々木承禎が家来杉谷善住坊、鉄炮の上手比類なし。二つ玉を以て信長をねらひ、能き頃になれば打放すに、御運強くして御袖を打ち、玉は下へぞ落ちにける。御供中驚きて尋ねけれ共取逃しぬ。此の時の御憤りにて斯く行はれけり。
 
 
天正元年十一月信長公御上洛ありて、佐々内蔵助・前田又左衛門・丹羽五郎左衛門・不破彦三・河尻与兵衛、其の外大将共に被仰渡けるは、河内国に将軍の御敵三好の一類有之間、何共して討取り孝養に報じまゐらせんとて、人数を駈催し、大阪並に畠山などの押へに究竟の大将共を備へ置き、三好左京大夫が居城を取巻き攻め給へば、こらへずして切腹す。松永弾正子息松永右衛門久通、淡路の安宅・野口、阿波の一之宮・打沢・讃岐の十河一存・三好山城、日向の三好下野・岩成主税助・松田新八一味の者共、此の度一所に討取り、首を京都へのほせ獄門に懸けさせ、将軍のうつふんを晴し参らせ、本望を遂げ給ふ。信長公の御所存の程何れ茂感じ奉る。
 
 
同二年正月信長公岐阜の城にて、元日の御祝義三献に及んで、諸大名達の礼を請けさせ給ひ、其の後座中へ黒塗の箱を一つ出ださせられ、是は珍物の肴也、是にて酒を呑まれ候へ、年々各武功に依つて大敵を討取る事各の勇力也。骨折を謝せん為酒をすゝめ申すとて、箱の中より金箔にて堅めたる首三つ札を付け、足打に一つ宛のせならべさせ給ふを見れば、朝倉義景・浅井下野・同備前三人の首也。各是を見るよりも、扨々珍敷御肴かなと何れも感じ奉る。信長公仰せけるは武功次第盃を廻し呑まれよと御意の時、一番に柴田罷出で、其の御意ならばわれら先可被下とて三盃を傾け、前田利家公へまゐらせければ、取りて呑れ、秀吉公へまゐらせ、夫より順々に廻り、大酒盛に成りて、天下泰平国土安穏とうたひ、君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまでと諷ひ、末世に残る名を揚げたり。目出度かりける有様也。
 
 
同二月甲州武田勝頼美濃へ打出るを、信長公人数を引率し早々出張有りて追払はれ、夫より三月四日に御上洛ありて、十八日参議従三位に任官せられける。廿三日帝へ奏聞せられ、廿七日奈良へ御越ありて、東大寺の蘭奢待といふ秘封黄熟香を一寸八分切りて拝領せられけり。勅使は日野大納言・飛鳥井中納言也。佐久間信盛・菅谷九右衛門・塙九郎右衛オープンアクセス NDLJP:23門・蜂谷兵庫・武井夕庵・松井友閑奉行にて、三分一は信長公御頂戴、三ケ二を諸将へ割符して被下。夫より御下向ある所に、大阪の門跡、信長公の帰路を指しふさぎけるを、佐久間天王寺に出張し押へける故、信長公岐阜へ引取り給ひけり。遠州高天神の城に、家康公より小笠原与八郎を入れ置き給ふに、甲州の勝頼取巻く由聞えければ、信長公駈着け給ひけり。家康公も出でさせ給ひ、三河の吉田にて聞き給へば、早や与八郎敗北して退去すと聞き、両将共是非なく御引取ありける。信長公其の時家康公度々の忠節を御感ありて、黄金二千両進ぜられ、岐阜へ引入り給ひけり。
 
 
同年七月勢州長嶋の内所々に、一向宗共集り一揆を起す。信長公御父子人数を引率し、尾張の両方へ発向あり。信長公は一江口に向ひ、佐久間・稲葉・蜂谷は香取口へ打向ふ。信雄は船にて桑名より押寄らる。笹橋・大鳥井・唐戸嶋・大嶋・中江等の城一々攻落し、首二千余取りて耳鼻を本陣へ送り給ふ。九月廿九日長嶋の大将等を攻落し、堤の陰より兵共弓、鉄炮にて過半打取る。残りの一揆共叶間敷と思ひ切り、信長公の陣中へ駆入り死物狂に切りまくるを、信長公の御舎弟大隅守信広・半左衛門秀成・従弟津田市之助信成、其の外悉く討死を遂げさせ給ふといへ共、一揆を多く討取り給ふ。伊勢五郎に長嶋を相添へ、滝川左近将監一益に賜り、滝川入城して仕置等申付けらる。
 
 
武衛・細川・畠山とて三管領の内、畠山は越中にありて能登・越中・加賀の政道なりけれ共、後々は衰へ能州穴水に在城也。其の弟畠山主膳昭高は河内国田中に在城ありて、家老遊佐伊予守といふ者能登の遊佐孫八郎と従弟也。両人申合せ、能州の畠山殿は孫八郎追出し、河内の畠山殿を遊佐伊予守夜打に入りて打殺す。依之河内の国中大乱のよし信長公聞召し、人数を指向けられ、遊佐一類を討亡し給ひけら。此の時信長公の御内に長九郎左衛門とて、能州の長対馬守末子を証人として召置かれしが、能州の沙汰心元なく存じ、九郎左衛門御暇申上げ能州へ下り、能州を切り随へて本望を達す。此の物語は信連記に委細有之。天正三年信長公は、御領国中道橋も猥に成り、田畠山川も行路無之成り行く儘、順道に可仕旨被仰出、園岡八右衛門・坂井文助・高野藤蔵・山田太郎兵衛等を所々奉行に被仰付、郡々の人足を以て道橋を被相定、今其の道を往還す。
 
 
同年五月長篠の城奥平九八郎を甲州勝頼数万騎にて攻めらるゝ。九八郎は家康公の御家人也。九八郎妻子を甲州へ人質に取置く故、勝頼も難なく城を明渡し候へと被申。去れ共内々信長公仰せらるゝは、九八郎は家康公兼て婚に可被成由御約束也。依之九八郎も妻子に構ひなく家康公へ忠義専と思ひ、鳥井強右衛門を以て信長公へ加勢を被下候へと申遣す。強右衛門は数万の敵の囲みを忍び出で、相図の火を揚げ信長公へ加勢の事を申上げんと走りけり。又岡崎より家康公小栗大六を尾張へ被遣、信長公に早々後詰を被頼由被仰遣。依之信長・信忠両公数万騎にて熱田まで発向有りける所へ、強右衛門走り来てしかの事を申上ぐる。信長公は早々夫へ向ふ由被仰ければ、九八郎に悦ばせんとて、強右衛門もみにもんで長篠の城へ走り帰る所を、寄手の者彼の強右衛門を見知つて、頓てからめ捕り、大将勝頼の御前へ引据ゆる。勝頼御覧ありて、汝命助り度ば九八郎に可申事あり。信長は上方の敵に取結び隙なし、加勢の事思ひもよらず、早々城を明けて命助かれと申聞かせよと被申ければ、強右衛門奉畏由申しける故、柵際へ連行き、したしき者に逢ひければ、強右衛門高らかに申しけるは、心易く城を守れ、追付き信長公御父子後詰に御出馬あるよし申しければ、勝頼方の者腹を立て、其の儘強右衛門をはりつけにぞ懸けにける。五月十六日に信長公は三河牛窪の城、信忠公は御堂山、家康公は高松山に御陣をすえ、十三段に備へらる。勝頼は道空寺山に陣取り、長篠城に和田兵庫を指置かる。小栗五八郎は家康公の譜代の者なれ共、近年勘当を蒙り甲州にあり。家康へ帰参を願ひ、本多平八郎に便りて、御用もあらば承らんといひけるは。本多申しける。然らば家康公の後詰の事思ひもよらず、内々九八郎は甲州へ一味の由家康公にも思召すよし申せと有りければ、其の通りを勝頼へ申しければ、勝頼是を誠にし、鳥井強右衛門が申す所を偽と思召され、勝頼悦びて二十町取出で、滝沢川を越えて陣を取られける故、勝頼の負と成りにける。家康公は三郎オープンアクセス NDLJP:24信康・佐久間信盛等を右備へにし、羽柴秀吉・滝川一益等を左備へにして懸り給ふ。家康公より酒井左衛門忠次を御使者にて信長公へ被仰遣れば、廿日の夜兵を鴟巣山へ廻し、鬨を揚げて攻懸らんよし申上る。信長公は人の聞く事をいとひて大にいかり、何として左様に可成やとて酒井を返し給ひ、都より人を被遣、酒井が申す所尤可然と被仰。則ち金森五郎八・佐藤六左衛門・青山新七・加藤市右衛門などを相添へられ、道の案内者酒井左衛門道びきして、本多豊後・松平左近を引具し、鴟巣山へ上り、狼煙を上ぐるとひとしく、四方より鬨を合せて攻懸る。勝頼加勢に驚転してさわぐ所を、諸軍押寄せ首を取る事夥敷、勝頼の大将和田兵庫も討死す。廿一日夜明方信長・家康三千挺の鉄炮にて打取る人数不知。佐々・前田・福富・塙・野々村、家康公の大将大久保七郎右衛門忠世・同治右衛門忠佐両人、足軽を下知して鉄炮を打たせ、敵敗軍するを信長公家康公の侍共押並べ組打するもあり、鑓にて突伏せ首取るもあり、甲州方侍大将馬場美濃守・山県三郎兵衛・内藤修理亮・吉田源太左衛門・土屋右衛門、何れも討死す。命から勝頼は、一人・二人宛逃げ隠れて甲州へ引入りけり。信長公は廿五日岐阜へ帰城まし、信忠公尚美濃遠山の城主秋山・大嶋・座光寺を攻落し、夫より都へ御上洛ありて正五位侍従に任官せられけり。又勝頼は甲州へ帰りて腹を立て、奥平九八郎妻子を磔に懸けられけり。九八郎は城を持堅めたる御恩賞に但馬国を拝領し、家康公の姫君を嫁娶被仰付、入部致し、秀吉公播州拝領ありて中国へ御赴の時、一手に成りて度々骨折無比類働きせし也。
 
 
同年八月越前に相残る一揆共、朝倉没落の後其の儘打捨て置かれけるに付き、此の度御仕置可有とて、信長公・信忠公多勢を以て押寄せらるゝに、合戦して討死するもあり、降参するもあり、聞くや否や城を明けて落行くも有りて、悉く御手に入る。其の後加州能美郡・江沼郡両郡を治めんと思召し、大正持の城・御幸塚・鵜川・仏ケ原・三谷の城・鍋谷・能美千代・赤井・福岡・福嶋道場坊主悉く帰服させ、徳山五兵衛父庄左衛門を御幸塚に置かせられ、大正持には戸次右近を置き給ひ、能美・江沼の両郡を被下、両人忝く存じ奉りて在城す。越前侍の内溝口大炊助・小黒西光寺は降参人なり、戸次与力に被仰付、九月二日北の庄へ御引取り、越前の内大野郡を三ケ二を金森五郎八、三ケ一を原彦次郎、府中十万石の所を前田利家・不破彦三・佐々内蔵助三人拝領し、敦賀郡を武藤宗右衛門、残る所越前一国を柴田修理亮勝家、丹後を一宮左京、丹波の桑田・永井両郡を細川兵部、残る所は明智日向守に被下、各数年の武功に依りて、北国手に入り令満足也。猶更此の上頼入る由被仰ければ、諸人忝く拝悦す。何れも可被相心得は、能登・越中・飛騨は越後に相続き、歴々の敵共扣えたり。上方・北国の要なれば、越前の侍並に戸次・徳山など油断有るべからずと被仰置、岐阜へ帰城ましける。府中三人の大将衆は、十万石の領分割符被仰付、面々に家来の者共作事を営み居住しけり。中にも前田利家公の御家人の内、御一門の人々前田五郎兵衛・同孫左衛門・同右近・高畠孫十郎、何れも千石宛、奥村助右衛門・村井又兵衛・片山内膳・篠原勘六・岡嶋喜六・北村作内・青山与三・近藤善右衛門・原田又右衛門・富田与六郎・同与五郎・国田長右衛門・木村久三郎・同三蔵・小塚藤右衛門・中川清六・前田左馬・大音藤蔵・荒木善太夫・山崎彦右衛門・吉田数馬・三輪作蔵・姉崎勘左衛門・脇田善左衛門、其の外追々新参者共数多になり、侍の立身すべき世なりとて、何れも頼母敷高名せん事を心懸けしが、果して後々は人々其の名をあらはし、大身に成る人々多かりけり。
 
 
同年十二月信長公御上洛あり。日野大納言・勧修寺大納言勅使として、勅諚の趣は数年の武功に依りて、朝廷も御安泰也。是れ併し信長の忠義私なきによる也とて、正二位大納言兼右大将に任ぜられける。此の時木下藤吉郎は羽柴筑前守、川尻与兵衛は肥前守、塙九郎右衛門は原田備中守、簗田太郎左衛門は戸次右近、明智日向守は惟任日向守、丹羽五郎左衛門は惟住五郎左衛門と被改。惟任、惟住、戸次・原田は先祖の名字ともいひ、又信長公、以来西国を治めて預けらるべき御思案共いへり。羽柴筑前守は秀吉自号にて好み申上げらる共いへり。天正四年正月大小名の礼を請けさせ給ふに、押なべて鳥目十疋宛と聞えけり。其の年正月の内に被仰出、近江国安土に城を取立てさせらるゝ。奉行オープンアクセス NDLJP:25は惟住五郎左衛門にて、京・大阪の諸職人共を急に呼集めければ、早速出来して二月廿三日御移徙をぞ被成ける。
 
 
天正六年に越後の上杉謙信は、越中・加賀を討随へ上方へ打出んと、持分の国々へ触廻し、数万騎にて越中まで打出づる所に、俄に煩出し、四十九歳にて病死し給ふ。喜平治景勝と養子三郎景虎両人、十日も立たぬに早や合戦に及ぶ。景勝は甲州勝頼の妹婿也。勝頼は又北条氏政の妹婿也。景虎は氏政の弟也。景勝は父の遺言也とて、謙信の跡本城へ移り、景虎は二ノ丸にありて不自由なりとて、越後の国府御舘といふ城へ移りて、其の間一里半也。謙信家老北条丹後は越後の府中の城主也。上州厩橋は丹後子息在城す。景勝・景虎不和なる由を聞き、北条丹後春日山の城へ馳来り、景勝に諫言申しけるは、御持の国八ケ国あり、両人して四国宛持ち給ひ、自然の時あらん時一手になり給はゞ、上方勢を押へ、又関東・甲州も手を寄する事なり難く、以来まで目出度候はん。上方に織田信長とてくせ者あり。佐々権左衛門といふ者を越後へ入れ置き、御機嫌伺ひ抔と申して謙信の行跡を信長へ内通し、剰へ大殿御懇に被召仕しを、謙信御他界を聞くとひとしく、暇なしに安土へ走り影も見せず。いか成事か計りけんも知り難し。所詮兄弟和睦ありて可然と申しけれ共、景勝承引なし。丹後は是非なく景虎を相具し、善光寺へ立退き陣を取る。景勝追付き出馬ありて、丹波嶋にて攻戦ふ。越後勢は大軍にて、丹後不叶して国府へ引入る。荻田主馬いまだ孫十郎と申す時、丹後を追懸け一鑓投突きければ、丹後切り払ひ退きけれ共、二日目に死し、景虎も討たれ給ふ。関東に此の事聞えければ、小田原の北条は、にくき景勝が振廻哉、急ぎ加勢に打立つべしとて、人数を催し駈出す。甲州勝頼をも頼みに遣せしに、勝頼は景勝事は妹婿也、又北条も我舅也、いかゞはせんと思案ありけるが、景勝を亡し越後を我れ又取らんと思ひ、安々と請合ひ打出でんとせらる。景勝此の事を聞き伝へ、黄金二千両を為持、家老の跡部大炊之助・長坂釣閑に頼み遣すに、両人金子を請けて勝頼を何角申し留めけり。夫より北条もにくき次第とて引返す。依之北条と甲州と中きれ、以来は勝頼滅亡致しける。
 
 
天正六年四月常州下間の城主多賀谷修理亮といふ者、星河原毛の馬一疋、長四寸八分にして一日に五十里を行くを信長公へ為牽奉る。結城の家老にて覚の者也。信長公上方にて御威勢あまねくましけるを頼母敷思ひ、以来の為とや思ひけん。信長公も奇特に思召し、黄金・呉服を多賀谷に賜りける。其の年九月信長公御上洛ありける所に、越中の一揆共起り、上方へ討つて登ると聞えければ、斎藤新五郎を越前へ被遣、早々討鎮め可申旨仰に依つて、越前勢・加州江沼郡の人々走り行き、川田豊前守・椎名小四郎に渡り合ひ、首百五十六討取り、所々の一揆共を退治し、今泉の城を打破り、神保安芸守に一国相渡し引入る。信長公御満足に思召し、何れもへ感状を被遣けり。
 
 
同十年高槻の城主荒木摂津守謀叛の由注進あり。信長公仰せられけるは、此の者先年室町殿御謀叛の時忠節致すに付、摂津国を取らせ置く。然る上は野心有るべき者にあらず、実否を聞き合せよと菅谷九右衛門に仰ある故、二位法師に申渡し聞合す所、謀叛相違なかりければ、信長公安からず思召し、数万騎引具し発向あり。安土の御留守には、神戸三七信孝に稲葉伊予守・不破河内・丸毛兵庫を残し置かれ、十二月三日に山崎に着陣あり。此の城に高山右近といふ者あり、でいうすの門徒也。いか様ともして降参致させ候様、宮内卿法印へ被仰渡に付、法印承りてばてれんを語らひ申合せければ、ばてれん頓て高山右近に申しけるは、でいうすといふ者は義理の強きを本とす。然るに荒木如きの不道人に組するは、宗門の禁戒を破る也。早々心を変じ可然といひければ、高山も理に伏し降参す。信長公より黄金百両・小袖十被下、ばてれんにも黄金を被下。茨木の城へ佐々内蔵助・前田又左衛門・金森五郎八を入れ置き給ひ、郡山へ御本陣を居ゑられ、高山御目見申上ぐるに、吉則の刀に鹿毛の馬を賜り、芥川一郡を右近に被下、夫より茨木の城に置き給ひし者共を惣持寺の城へ移らせ、茨木の城へは伊勢の人数を入れさせらる。かゝる所に中川瀬兵衛も降参し御礼申上げる故、黄金三百両・鹿毛の馬を賜りける。十二月八日に伊丹の城を攻破り給ひければ、敵ども色めき落行く所を、オープンアクセス NDLJP:26寄手追詰め討取、二千計の首を実検に入る。信長公御機嫌能く、頓て御帰城被成ける。
 
 
天正七年五月安土に於て、日蓮宗の大脇伝助・建部観智といふ者、浄土寺へ参り談義を聞き、誠に阿弥陀の御本願難有事を聞入れ、我が寺へ参り物語致しければ、日蓮寺俄に談義を初めて、法華妙典の難有事を語り、念仏無間の道理を説き、悪口を致しければ、互にあざけり合ひて宗論になる。信長公御聞ありて、堀久太郎を御目付に被仰付、菅谷九右衛門・矢部善七を御奉行にて、論の相手は貞安・霊誉両人也。日蓮宗には妙顕寺の大蔵坊・頂妙寺の日珖也。五山の智識・天台座主聞手也。貞安問うて曰く、法華八軸の内に念仏ありや否や。日蓮宗曰く、あり。貞安云、あらば何とて無間といふや。日蓮宗云、法華の弥陀と浄土の弥陀は一躰か別か。貞安云、いづくにあるも弥陀は一躰よ。日蓮宗云、然らば何ぞ捨閉閣抛と捨つるや。貞安云、念仏を捨つるにあらず、弥陀信心の外を捨てよと示す也。日蓮宗云、其の経ありや否や。貞安云、善立方便顕示三業一向専念無量寿仏。日蓮宗云、種々説法云々以方便力四十余年未顕真実。貞安云、四十余年の法聞を以て爾前を捨てば、宝座第四の妙の一字は捨つるや否や。日蓮宗云、四十余年四妙の中には何れの妙ぞ。貞安云、法華の妙よ、汝不知や否やといふ。爰に於て返答なし。貞安重ねて扇を以て不知やと打ちけれ共、猶赤面して返答なし。夫より日蓮宗は流罪被仰付、大脇・建部両人御成敗仰付けらる。其の時の落書に。

  日球がみけん真実打わられ四十余年の恥をかきけり

 
 
天正八年七月大阪の門跡は家老共を呼びて仰せられけるは、倩々物を案ずるに、信長は飛龍天に登る如く大身に成り行く。我々長袖の上にて、十方の諸旦那を便りとす。所詮和睦せんにしかじと思ふはいかにとありければ、下間民部進み出で、仰の如く此の七・八ケ年越中・加賀・越前の旦那共、一命を露の如く捨て畢ぬ。是長袖の上の殺生也。和睦の義可然とて、数通の誓紙を調べ、其の通りを信長公へ被仰達所、御満足に思召し、八月三日に青山虎之助を上人の判本見せに被遣。八月十三日に御礼被申上、城を明け被渡、上人は当分和泉国の在郷へ引き入り給ひけり。落居以前大阪に流行歌。

あの信長は、のぶとい事めさる、大阪城をとらうとめさる、野田の福嶋はふけぢやもの。

信長どのは橋の下のどう亀、出ては引込み、又出ては引込み、今一度出さい、たでかませう。

童子共如此うたひけれ共、落去の時老若共にふし沈みてぞ泣にける。

 
 
同十一月二十日に越前柴田勝家より安土へ飛脚到来す。今月朔日に加賀国一揆共打起ち、上方へ発向すと承及ぶに付き、府中の侍大正持・御幸塚を催して数千騎押寄せ討取る首帳、若林長門守・同雅楽之助・同甚八・宇津呂丹後・同藤六・岸田常陸・同新四郎・鈴木出羽・同右京・同次郎左衛門・同采女・同太郎・窪田大炊之助・坪坂新五郎・長山九郎兵衛・荒川市助・徳田庄次郎・三林善吉・黒瀬左近十九人とぞ書上げける。信長公御感ありて、安土の松原に獄門に被懸、人々に御感状賜り、金沢の城には佐久間玄蕃、松任の城へ徳山五兵衛を遣し置き給ふ。
 
 
同八年二月信長公御上洛の御馬揃被仰出、国々の大名能登越中・加賀・越前の侍共、何れも馬引かせのぼる。其跡に越後の長尾喜平次景勝は越中へ切つて入り、天神山・大岩山・寺野に成願寺を隔て陣取る由飛脚到来の所に、加賀勢佐久間・徳山早々昼夜を懸けて京より馳来り、越中へ発向し、神保と一手に成りて景勝を追払ひ、其の由言上に及びければ御感被成、兎角越中は大敵を抱へて六ケ敷所也と、信長の御妹姫を神保が子息に御婚礼ありて、御介抱として佐々内蔵助を被指添、富山の城に置き新川郡を領させられ、後々は神保を傾け、佐々一人して押領可仕との御内意にて入部相済み、佐々は越中へ参りて諸事仕置致し、神保安芸守と内談宜しく計らひけるが、後々は神保も佐々が旗下に成りにけり。
 
 
前田又左衛門利家公は、数年の武功に忠節を抽んで給ひしかば、能州一国に嶋八ケ相添へ賜り、国侍長九郎左衛門にオープンアクセス NDLJP:27鹿島半郡被下与力に被為附、不破彦三も四万石賜り利家公の与力に被仰付、能州へ被遣、府中の十万石は柴田勝家へ御加増として被遣。去れ共府中には利家公も彦三も在城して勝家が組也。能州へは御兄弟の人々に、高畠石見など御城代として遣し給ひけり。其の年の歳暮・年頭に、柴田甥の三左衛門同道にて、太刀馬代・銀三百枚・黄金千両・蠟燭千挺・越前奉書千束・綿千把・絹五百疋献上す。信長公より姥口の釜を賜りける。其の時信長公御狂歌に。

  馴々てあかぬ名染の姥口を人に吸はせん事をしぞ思ふ

長岡兵部大輔に丹波両郡を被下置、兵部跡青龍寺を猪子兵助・矢部善七郎に被下、溝口伯耆守に若狭の逸見駿河守病死の跡を八千石被下、外三千石は竹田孫八郎に下さる。此の溝口は竹といふ者にて、明智日向守別して寵愛の者なりしを、信長公御貰ひありて、後々には利家公の御孫婚となる。此の子供秀忠公へ被召出、金十郎とぞ申しける。前田源峯居士の御孫也。

 
 
信長公天正十年正月元日御礼を請けさせ給ふ。大小名押なべて鳥目十疋宛と定めらる。信忠公を奉初、何れも御礼相済み、先年佐久間右衛門を流刑被仰付、配所熊野山にて病死の由言上す。不便に思召され、甚九郎を被召出、信忠公へ附けさせ給ひ、本領を被下、岐阜へ相詰申也。同二十七日備前宇喜多和泉守病死にて、家老共を引連れ羽柴秀吉公安土へ被参、遺物として吉光の脇指・黄金千両指上、不便に思召し跡式無相違子息へ被下、秀吉公帰国ありけり。二十九日伊勢の山田神戸大夫、内宮・外宮造営仕度旨森蘭丸取次申上ぐる。則ち三千貫被下、神主帰国致しけり。
 
 
信濃の木曽左馬頭義昌は、木曽義仲より代々福嶋にありて、信玄以来甲州の旗下になる。勝頼の奢と家老跡部・長坂が仕置に領分悉く迷惑す、早々御攻ありて可然旨信長公へ申上ぐる。誓紙に子息御曹子を人質として相添へ、苗木久兵衛を使者として進上す。又信長公の婚に穴山梅雪といふ者、勝頼の娘を子息へ縁組申合す所に、武田左馬介方へ変改しければ、穴山腹を立て、家康公へ内通致し、早々御馬を被出候へと申遣す。家康公も御喜悦あり。信長公は義昌の使者久兵衛に金子・小袖を賜り、早々打立ち給ふ。甲州へ此の事相聞え、勝頼大に立腹し、早速木曽を討取れと、一万五千にて二月二日に福嶋へ取懸る。未だ雪深くして中々働も自由ならざる其の内に、駿河表は家康公三万余騎、関東表は北条三万余騎、飛騨口へは金森五郎八三千余騎、木曽へ信忠公五万余騎、伊奈へ信長公七万余騎にて乱入し、甲斐・信濃の出城共片端より攻破る。伊奈の城主下間伊豆守は至つて驕者にて、領分悉く飽果て居たる事なれば、家老下条九兵衛謀叛し、美濃岩村の城主川尻備前守を引入れ、即時に攻落し火を懸けたり。民百姓に至るまで、能く仕りたる九兵衛殿かな、二三年遅かりしと申しあへり。信州松尾の城主小笠原掃部降参し、城を明け立退く故、団平八・森勝蔵城を請取る。飯田の城伴西・星名も城を明け落行く。木曽口へ向うたる織田源吾・子息亦千代・津田孫十郎・稲葉彦六・塚本小大膳・水野藤治郎・簗田彦次郎・丹羽勘助・梶原平治五千余騎鳥井峠へ発向し、其の口の押へ深志の城主馬場美濃守、大嶋の城逍遥軒・日向玄徳斎・小原丹後・安中越前何れも城を明け落行くに、川尻備前守入替る。穴山玄蕃・曽根内匠は遠江の押へとして江尻の城にありしが、家康公よりあつかひを入れ降参致し、御礼に罷出る。手強き所は片端より八つ割にして取る様になされける。勝頼是非に不及、居城新府中へ入り給ふ。哀成有様也。
 
 
天正十年三月二日の事なるに、勝頼は家老共に、いかゞはせんとありければ、一先何方へも立退き給へと申すに付き、小山田左兵衛は我が館へと申し、真田安房守は阿賀妻へと申し、内藤修理は箕輪へと申し、武田左馬介は小室の城へといふ。小山田又申しける。夫は何れも他国也、我が城は甲州鶴の郡也、ひらに我が方へと申すに付、其の義に同じ給ふ。謀叛心と不知事、運の極る所也。扨人質共の其の中に、木曽が母と妹を切殺し、謀叛人の証人共を一所に立籠めて焼き殺し、忠節人の子共へは金銀などをとらせ送り出し、一門中を引具し住馴れざる府中を立出で、小山田が城へと急がるゝ。近きに成りければ迎なども可出かと見れば、関を居ゑて入れもせず。是迄は御供申して候へ共、何方へなり共わきへ退き給へとて、小山田は居城へ入る。案に相オープンアクセス NDLJP:28違し、無念とは思へ共、無是非天目山の麓なる田野といふ在家へ引籠り、二百計の供の者も散々になり、四十計ぞ残りける。扨信長公は美濃の古渡まで出でさせ給へば、早や仁科五郎の首を持参す。岐阜のながら河原に懸けられ、合戦の次第を御聞あり。二十日計の間に大敵を討亡す事、何れも手柄比類なしと御感甚しき也。信忠公は甲州へ押入り、府中の残兵共を討取り、上野国小幡備中居城へ取懸り給へば、降参人質を出しけり。夫より駿河・甲斐・信濃・上野四ケ国退治、何れも御礼申上ぐる。信長公は十一日に岩村に着き給ふ。勝頼一家天目山にありと滝川左近聞出し注進に依つて、篠原市右衛門を被遣、何れも切腹させらる。天正十年三月十一日に五十七人一つ枕に死し終る。勝頼父子の首を滝川方より為持上ぐるに、御感ありて吉光の脇指・鹿毛の馬・黄金五百両、感状を添被下。其の時分の落書に。

勝頼と名乗る武田の甲斐もなく軍に負けて信濃なければ

 
 
同十九日に信長公上の諏訪に着き給ひ、二十日に初めて木曽義昌御礼申上げ、国行の刀・馬代金三百両進上す。信長公仰には、此の度の働き別して大悦の所也と、筑間・安曇二郡を本領の上に御加増、黄金千両相添被下。駿河の穴山梅雪も御礼申上げ、太刀馬代三百両進上す。国光の脇指に駿河・甲州の内本領其儘被下、滝川左近には上野に信濃の内二郡御加増ありて、関八州・出羽・奥州までの管領職を仰下さる。誠に以て末代までの面目也と悦び奉る。信忠公今度の働き比類なし、来冬は天下を御譲り可有とて、備後守殿より伝る御脇指を被進、御礼被仰上。扨国々を割符ありて、駿河一国家康公御加増也。甲州の内諏訪一郡川尻肥前守、信濃の内更科・高井・水内・埴科四郡を森勝蔵、伊奈一郡を毛利河内に被下、美濃の岩村をば川尻肥前跡に五万石の御加増にて森蘭丸に被下。父三左衛門、江州志賀は討死の領地也、夫に一倍にて下さる。かくて卯月八日に打立ちて、同二十一日に安土の御所に入り給ふ。家康公も御加増の御礼として御上りあり。品々の捧物記すに不及。夫より大坂・堺にゆると御遊興ありしとぞ。
 
 
天正十年五月上旬上杉景勝は、越中一国を取治めんと新川郡の侍河田豊前へ内通し、芋川縫殿助・室高左京大夫・鉄孫左衛門など皆一味して、景勝を引入れ、三千八百余騎魚津の城に楯籠る。神保安芸守より信長公へ早飛脚を以て注進の所、越前・加賀・能登の城主等へ被仰下、早速追払可申との御事也。柴田勝家・不破彦三・佐々内蔵助・原隠岐守・前田又左衛門・佐久間玄蕃・金森五郎八・斎藤新五郎都合一万余騎に、越中先方の侍神保安芸守・椎名孫六郎・菊池十六郎・石黒左近等指加り、神通川を打越え、天神山へ押上り、魚津を目の下に見下し備を立てければ、越後勢も手分をして、吉田の弓手妻手に備を立て、鉄炮打懸け互ひに遠攻してありけるが、いかがしてか越後勢大将を始め引返し、越後を指して引退く。越前・加賀の人数不審ながらも追討に首二百余も討取りて、長浜近所へ押詰めて、返せ戻せと呼ばれば、越後勢も込返し、突崩し繰引に越後の方へ引入る程に、加賀・越前の人数も引取り、越中の侍衆何れも引入りける。越後勢の俄に引入る事は、信州河中嶋の森勝蔵は、越後景勝春日山の城を打明け越中へ発向すと聞くよりも、其の跡に越後を切取らんと、松代を打立て善光寺より牟礼・野尻・関山近所まで押寄せ、所々に首塚つきて春日山へ取懸ると取沙汰して、春日山城代直江山城守方より越中へ飛脚を遣す。夫故引返し、景勝は勝蔵と対陣せんと、人馬に息をも継がせず荒井をさして押行く所に、上方には明智信長公を討ち奉る由、其の上弟蘭丸も討死の由申来る。勝蔵聞くより驚き入り、主君といひ弟といひ、旁忍び難くして引返し、濃州森山の城に引入り、世間を伺ひ待ち居たり。能州の利家公は信州勢越後へ向ふと聞き、跡先より取詰めて景勝を打取らんと思案し給ふ所に、越後勢は能州へ舟にて押寄せ、石動山に楯籠るといへり。北国勢又是へよせんと詮議頻也。