三壺聞書/巻之五

 
三壺聞書巻之五 目録
 
 
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三壺聞書巻之五
 
 
 
秀吉公は信孝・一益等蜂起の由聞召し、天正十年十一月中旬数万騎を率し、江州長浦へ押寄せ、勝家養子伊賀守方へ使者を立て、其方養父勝家は其方へ対し無理なる事条々有之由、数ケ条の書付を調へ、此方へ同心ならば誓紙と人質を出すべしと仰遣さる。伊賀守家老共に談合すれば、兎角秀吉公へ御同心可然と申しければ、さらばとて誓紙・人質を出す。秀吉公御満足にて勢州へ出で給へば、三七殿長秀を以て御詫言ありし故、秀吉公も是非なく御許容あり。十二月二十三日三法師殿へ御礼被仰上、二十六日宝寺へ御帰城ありけり。
 
 
秀吉公は正月十一日に七万余騎の勢を草津にて揃へ、三手にわけ、ときたら口・君が畑・安楽越に乱入る。羽柴美濃守・筒井順慶・伊藤掃部・氏家左京・稲葉伊予・三好孫七郎・中村孫平次・堀尾茂助、是れ三方の大将分也。早や桑名を焼払ひ、滝川甥の儀太夫居城嶺の城を攻落し、亀山城佐治新助も攻落す。関の地蔵取出の城を、木村隼人・関安芸守・前野少右衛門・山岡美作・一柳市助・青地四郎左衛門など取巻き攻め給ふ。然る所へ柴田勝家と佐久間玄蕃柳ケ瀬表へ出張する由飛脚到来す。秀吉公聞き給ひ、亀山より引返し、長浜に着き給ひ、藤川・井口辺を焼払ひ、翌日志津ケ岳近所へ押寄せて、十三段に攻口を定め給ふ。一番堀久太郎、柴田伊賀守・木村隼人・堀尾茂助・加藤。作内・浅野弥兵衛・一柳市助・前野少右衛門・生駒甚助・小寺官兵衛・明石与四郎・木下勘解由・大塩金右衛門・山内猪右衛門・黒田甚吉・三好孫七郎・中村孫平次・羽柴小市郎・筒井順慶・赤松次郎・蜂須賀彦右衛門・伊藤掃部・赤松弥三郎・神子田半右衛門・長岡与市郎・高山右近・羽柴於次丸・仙石権兵衛・中川瀬兵衛、是等を大将として十三段に備を定め給ふ。中にも柴田伊賀守は煩出し、京都へ養生に行きし故、家老山路将監を残し置きけるに、将監裏返り勝家へ内通す。合戦の時打負け何国共なく落行きける。妻子七人召捕へ、柴田陣所の前に木村隼人奉行にて逆礫にオープンアクセス NDLJP:34ぞかけにける。然る所に岐阜城より三七信孝は、柴田人数と滝川左近など被仰合切つて出で、氏家内膳・稲葉伊予守領分を焼払ふ由飛脚を以て長浜へ注進す。秀吉公聞き給ひ、又引返し、大垣へ出陣ありて、信孝領分を焼払ひ、十九日には岐阜へ取懸り、三七殿に腹切らせんと内談有之所に、佐久間玄蕃兄弟・不破彦三・原彦次郎・徳山五兵衛大将にて、志津ケ岳の要害を取詰め、中川瀬兵衛に腹切らせたりと飛脚来る。秀吉公聞き給ひ、扨は此の合戦我が利運也と思召し、達者なる者五十人長浜へ走らせ、家々より松明を出ださせ、酒食・かゆ・馬の飼料等を出させよと被仰遣、堀尾茂助を氏家内膳に指添へ、大垣に置き給ひ、長浜へと急ぎ給ふ。むざんやな中川は、鬼をあぎむき多勢を切りまくり、首数を取働くといへ共、多勢を入替へ攻めければ、終に戦ひ疲れ打死す。玄蕃家来近藤無市中川が首をとる。玄蕃是にきほひて甚だ深入して攻戦ふ。勝家は急ぎ引きとれと再三使を立てけれ共、玄蕃更に不聞入、柴田が運の尽きぬる所也。坂本城より丹羽長秀三千余騎を敦賀道の口辺に置き、北国勢を押へ置く。長秀は兵船を催し、海津・塩津・大浦へ乗上げて、坂井与右衛門・江口三郎左衛門を先がけにて志津ケ岳へ懸り戦はんとせしが、早や落去して火の手上る。是はと歯がみして佐久間玄蕃に渡合ひて相戦ひ、佐久間を追払ひ、桑山修理と丹羽長秀一手になつて方々走廻り敵を追ふ。不破彦三・佐久間右衛門申しけるは、あの山々谷々松明日中の如くなるは、秀吉発向と覚えたり。此の陣先づ引かんといふ。尤也とて玄蕃が方へ申遣しけるに、玄蕃は聞きも入れず、志津ケ岳の北の山へ引上げ、余吾の海辺より上る敵を押へたり。秀吉公はまだ夜深に長浜近辺より兵粮・馬の飼料持参しけるを思ふ儘に支度して、志津ケ岳の南に旗を押立て、あの堀切の此方なる敵共は引くと見えしぞ、追討に手柄をせよと下知し給へば、きほひ懸つて追付き首をとる。石川兵助一番に鑓を入れ戦ひて討死す。福島市松・加藤虎之助・加藤孫六・平野権平・脇坂甚内・糟谷助右衛門・片桐助作鑓を合せ首を取る。一騎当千の働き也。志津ケ岳の七本鑓とて後の世までもいひ伝へける。佐久間玄蕃は拝郷五左衛門に申しけるは、先手共討るゝぞあれ助けよといひければ、五左衛門申しけるは、引くべき時に引かざれば斯くある物也と、山路将監・浅井吉兵衛・宿屋七左衛門押並んで切つて入り、枕をならべて討死す。利家、利長両公御父子は、三千余騎にて志津ケ岳の北のしげみに二段に備へて扣へ給ふが、秀吉公常に御頼の旨を諸人も聞きつれば、いざや柴田を追払はんとて、谷峯より踊り出づる如く切つて懸り、柴田勢を追払まくる。勝家不叶敗軍に及び、安彦弥五右衛門・水野助三・小原新七などは早や落ちちりて失せにけり。勝家も懸入り討死せんとありしか共、毛受庄助申しけるは、雑兵の手に懸らんより、北の庄へ引入り御腹召され候へ、某跡に残り討死仕らん、乍恐御馬印を下し預らんといふにより、御幣の馬印・鎧を毛受にあたへ、手を取り名残をおしみ北の庄へ引入る。庄助三度頂戴し、武士の冥加あらずんば、いかでか主人の命にかはらんやと、大音上げて申す様、勝家こそ運尽き腹切るぞ、誰にても来て首とれと呼はれば、我もと進み出る。庄助兄茂左衛門も来り一所に相戦ひ、終に打死したりける。一命は柳ケ瀬の路径に捨つれども、名は志津ケ岳の雲井に上げ、其の名は今に隠れなし。昔の次信今の庄助とほめぬ人こそなかりける。勝家は府中の城下を、馬上に鑓の柄七尺計に切つて持退く。利家公も利長公も、柴田敗軍とひとしく居城府中へ引取り給ふ。利家公の侍共村井を初め、勝家こそ只今爰に立退き給ふ、急ぎ打取り可申やと申しければ、利家公村井が鎧の胸板を御手にてたゝき給ひ、侍の道はさはなき物ぞとて、急ぎ城へ請じ、湯漬・吸物など出され、今度の合戦ひとへに玄蕃深入り故也。是非に及ばぬ次第なれば、急ぎ北の庄へ引入り給へ。随分府中を堅め可申とて、乗替の御馬を遣さる。柴田も万事物語して、今度の慮外御免あつて、秀吉へ随分念頃被成、子孫の栄えを期し給へと、暇申して北の庄へ引入る。籠城の人々には、佐久間十蔵十五歳。松浦九兵衛是は北の庄の城代也。松平市右衛門・溝口半左衛門是は亀田大隅父也。豆腐屋の立久斎、是は先年手負ひて大豆百俵宛扶持せらるゝ者也。舞まひ幸若太夫山口一路斎、右筆上坂大炊、小嶋新九郎十八歳也。吉田藤兵衛・同孫十郎・大屋長左衛門、是等は皆追腹の者共也。徳庵といふ者利家公の人質を盗出し、府中へ参りけれ共、不忠の者也とて御恩賞もなかりしかば、又立帰り籠城して、矢倉に火をオープンアクセス NDLJP:35かけ、卯月二十四日申の刻男女三十余人自害して、一天の煙と立ちのぼりけり。

  さらぬだに打ぬる程も郭公別れをさそふけふの嬉しさ

                   勝家北の方

小谷殿と云、信長公の御娘也。

  夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山時鳥

                   勝家

  契りあれやすゞしき道に伴ひて後の世迄も仕へ

                   文荷斎

  思ひきや竹田の里の夢の露母上ともに消えんものとは

                   勝家 娘

 
 
天正十一年四月二十六日には、加州表の御仕置被仰付、石川・河北両郡を利家公へ賜り、金城へ御入城あり。五月朔日には北の庄へ入り給ひ、丹羽長秀に越前一国に若狭を添て、其の上重ねて加州の内能美・江沼両郡をも被下。此の時長秀百五十万石の身上也。夫より坂の下に十日余御逗留ある所に、柴田権六・佐久間玄蕃を生捕り来る。浅野弥兵衛を奉行として、六条河原にて首を切らせらる。玄蕃声を上げていふ。我れ中川を打ちし時勝家の下知に随ひ陣を引きなば、秀吉を如斯なすべきといふ。聞く人勇の不撓を感ず。権六一首の歌を詠ず。

  世の中を廻りも果ぬ小車は火宅の門を出るなりけり

扨加藤虎之助を主計頭に被成、〈後肥後を賜る。関ケ原陣の後肥後一国の主と成、五十万石の身上也。子息忠広代に配流せらる。〉 加藤孫六を左馬介に被成、〈後伊予を賜る。寛永四年会津にて四十万石を領す。子息式部代に断絶す。〉 福嶋市松を左衛門大夫に被成、〈後尾州清洲を賜る。関ケ原の後安芸備後を賜る。悪逆無道故終に断絶す。〉 脇坂甚内を中務に被成、平野権平を遠江守に被成、片桐助作を市正に被成、各五千石を賜る。石川兵助も存生せば恩賞に可預ものと惜みけり。其の外抽賞挙げて数へ難し。

 
 
信孝は岐阜にましして、度々柴田・滝川等に組し秀吉へ敵対あり。此の度柴田滅亡するにより力不及、尾州野間の内海浦へ引籠りおはせし也。然れ共度々の野心故宥められ難く、終に切腹まします。一首の歌に。

  昔より主を内海の浦なれば世に秀吉がみのをはり見よ

秀吉も随分御介抱あり、以来は領知をも可被進と思召しけれ共、自業自得果の至りと覚えたり、御年二十六歳也。

 
 
斯くて利家公は石川・河北両郡御加増ありて、羽柴筑前守に成り給ひける。秀吉公の仰には、金沢城早速請取りて北国の縮り頼入る由御懇の御言葉也。是れ併し其の先信長公にて御なじみ故也。依之人質として姫君一人、並にあちやこといふ女一人被相添、秀吉公へ被遣。則加賀殿と申して別して御念頃に被成。あちやこは後に少将とぞ申しける。太閤御他界の後、此の姫君を万里小路大納言殿へ嫁娶ありて、御子一人ましますを加州へ御呼びありて、前田五郎兵衛跡職に被成、前田日向とぞ申しける。日向子息なく、修理二男松福丸と申しけるを養子に被仰付、杢之助とぞ申しける。扨能州は南北長さ六十里の国也。石川・河北は又十里許の間なり。此の国境につなぎの城なくては叶ふまじとて、能登・加賀の間に越中を境にし、三ケ国のちまたに末森といふ城を築き、此の城代に誰を置可然やと御家臣へ御相談ありけるに、奥村助右衛門こそ可然奉存と申上ぐる。誠に助右衛門事は、昔尾州荒子の城を預置きしが、信長公の御朱印を不用して、蔵人殿の折紙にて城を相渡す。此の者可然とて、土肥伊予・千秋主殿を被相添、其の外究竟の者共を与力に仰付けらるゝに、各畏りて引越しけり。助右衛門子供助十郎〈河内〉・又十郎〈因幡〉・三郎兵衛〈摂津〉、因何れも同心にて、天正十一年五月七日に入部して、夜を日に継ぎ、堀・柵・塀・矢倉等を急ぎ堅固に楯籠りけり。
 
 
成政は尾州春日井郡平の城主なりしが、信長公に仕へ、度々の忠勤ある故に、信長公越中へ被遣、神保安芸守が与力の様にありけれ共、後々押退け、越中自然と佐々が計ひに成り、神保は幕下に成り守山に在城す。成政信長公のよしみを思ひ、又大いなる志あるにより、家康公へ内通し、織田信雄を取立て参らせんと、天正十二年十一月二十三日に越中さら越に指懸り、十二月四日遠江の浜松に着き、家康公に申上げ、能州前田党并に津幡・金沢・松任の城迄亡し可申間、加越能三ケ国を我等に被下候へど契約申し、又さら越より罷帰り、堅く隠密し、利家公へ申入れけるは、御子息又若殿を養子に致し、某が娘と婚礼致させ、越オープンアクセス NDLJP:36中を譲り可申。利家公とは幼少より御なじみを幸ひ、某子持ち不申間申請度由申すに付、利家公も誠と思召し御相談極り、越中より佐々平左衛門使者として御祝儀を持参す。利家公御馳走ありて、又若殿に御能をさせられ、平左衛門に見物被仰付、御腰物を賜り帰国す。成政計り済したりと悦び、追付き出陣し、津幡の城主前田右近を攻落し、金沢へ可打入と内談す。
 
 
然るに佐々内に養頓といふ坊主あり。村井又兵衛家来小林弥六左衛門甥也。彼の養頓方より小林が方へ、成政の企委細申越す。小林驚き村井へ語る。又兵衛利家公へ言上するに、先づ養頓に金子百両被下、早々用意せよと仰付られ、朝日山の取出の城へ高畠九蔵・村井又兵衛大将として、鉄炮大将原田又右衛門・種村三郎四郎、松根城の押へに高畠織部・篠原勘六・岡嶋喜六郎、鳥越城へ目賀田又右衛門・丹羽甚十郎・古沢又右衛門、其の外与力の者共三ケ所へ指加へ被遣、松任の城より利長公御大将にて、不破彦三・片山内膳・富田与六郎・岡田長右衛門、其の外御馬廻・与力引具し打つて出でさせ給ふ。佐々も取出の城々へ人数を出し待懸けたり。利家公父子は早や砺波山へ指懸り、蓮沼並に近辺を焼払ひ、成政人数を追打に首をとる。蓮沼は近郷の大所にて越中勢の足だまりなれば、村井又兵衛手勢にて焼払ふ。此の時大なる働き也。然るに其の節城端の城河地才右衛門、松根の城杉山主計方へ早飛脚にて申遣す。各人数を出し、蓮沼へ後巻に出でけれ共、早や焼払ひての後也、残り多しとて所々の居城へ引返し、追打に討たるゝ者多かりけり。三ケ所の取出の者も、越中の河上より切つて出で、砺波郡を片端より押破り、方々にて首を取り、佐々人数を射水郡へ追込みければ、成政叶はじと能州へ切つて入らんど、先づ末森城へ取懸り、十重二十重に取巻く。奥村・土肥・千秋等難儀に及ぶといへ共、随分堅固に持堅め、藁科新助・三輪勘左衛門・同弥十郎・野崎新六・高崎半九郎・前波三四郎・白井四郎右衛門、爰をせんどゝ攻戦ふ。其の間に利家公へ末森より注進しけり。奥村助右衛門女房は青柳の糸静なる女性なれ共、昔信長公の御母公の御事を聞伝へ、甲斐敷すこやかなる女共四・五人召連れ、其の身は長刀を横たへ、酒肴・赤飯を持たせ番所を廻り、異名・実名書付けさせ、近日金沢より後詰ある間、心易く城を守れと勇めければ、何れも一命は塵よりも軽し、御心易かれと勇み進む。千秋主殿助は府中より度々の忠節ある者とて、物頭に被仰付、東の丸に有之。然るに佐々方より申し遣しけるは、能登二郡を宛行ふ間裏切候へとて、黄金千両遣しけり。此の事千秋奥村に申しければ、よくこそ被申たりとて、千秋を本丸へ入れ、奥村嘉兵衛を東の丸へ入替へける。利家公は末森の城を佐々取巻く由被聞召、即刻に軍勢を引具し、津幡の城へ引取り人数を揃へ給ふに、早や末森は落去の由聞えければ、奥村事心許なし、急ぎ末森へ打立てよと早打出させ給へば、御旗持遅参するにより、横山右近子息三郎十七歳、此の者持参して津幡の町端にてもたせけり。大塩大海といふ者あわてゝ弓を空張にして持参す。佐々押への人数を出し置きけれ共、夜の内に馬の舌を昆布にて巻かせ、浜通り声を不立通り、末森近く成りて鬨を作り攻寄せ戦ひければ、佐々勢は思ひ寄らずあわてゝ立退かんとするを、追討に首をとる。成政越中へ引取らんとするに、味方はきほひ懸りて首三百余級打取り、富田六左衛門・山崎彦右衛門・野村伝兵衛・北村三右衛門・半田惣兵衛等、汗水になり相戦ふ。寄手野々村主水・佐々新右衛門・堀田次郎右衛門・斎藤半右衛門・野入平右衛門・矢嶋五郎右衛門・本庄清四郎等防ぎ戦ひ打死す。三輪助右衛門・前波三四郎・野瀬次郎右衛門・三輪勘左衛門・野崎孫助・本田三弥・可児才蔵、此の者共奥村・土肥ともみ合ひ、息継ぎ兼ねて防ぎしに、敵も不叶敗軍に及ぶ。能州奥郡の侍共、末森は早や落去の由聞伝へ、発向せんといふ者なし。中にも長九郎左衛門連龍罷出で、利家公の御判到来の上に、聞おぢして出でざる法のあるべきかと、人数五百騎計にて、もみにもんで夜もすがら駈出し、定めて二宮辺に佐々人数押へてあるべし。見て参れと申付くる。物見飯坂源左衛門承りて走り出で、二宮へ急ぎけり。二宮よりも能州勢来るかと、物見河合半右衛門を高畠へ遣す。両人行合ひ見れば兄弟也。兄飯坂いひけるは、定めて二宮辺に押への人数あるべしと、兼ねて此方に合点し、跡なる在所に人数を残し、能州口へ其方人数を引請け、あはらの中へ追込み、跡先より引包み一人も不オープンアクセス NDLJP:37残可打取と此方に待もうけて居る間、必ず此方へ寄来る事無用の由申せと語りければ、弟河合心得申すとて帰りけるが、果して佐々人数寄せざりけり。其の間に連龍は末森に駈着けたり。早や東の山の端しらみける折節にて、利家公はあの能登口に人数見ゆるは、味方か敵か見て参れと御意ありし故、物見脇田善左衛門駈出で見れば長九郎左衛門也。いかにと尋ねける故、早や敵は引取る由を申しければ、扨々遅参致し点に合はぬ無念さよ、是より高野へ引入り遁世せんと、たぶさを切つて捨てければ、脇田立帰り利家公へ申上ぐる。急ぎ是へ参れとて御対面あり。早速の出張無比類仕合感入る由御意ありて、御供仕り、金沢へ引入り給ふ所に、山陰に人数一備扣へたり。利家公の侍共我もと進む処に、利家公御覧あり。あれは斎藤甚助・寺嶋牛之助兄弟也。彼等は討死を心懸け居る躰也。いまだ越中の侍も付かぬに、先々不構引きとれと、浜通り粟ケ崎へ引取り給ふ。斎藤・寺嶋残り多く思ひ、かけ出し喰留むる。徳山源七郎・堀喜市郎・今宿印斎其の外の者ども、引返し払退け、首十計討取りければ、佐々人数は引退く。利家公末森の様子御目録に被為記、京都へ言上ありければ、秀吉公大に御感ありて、利家公御父子へ御感状賜る。利家公御父子よりも奥村に御感状被下、末代までの面目なりと悦びあへり。
 
 
佐々成政は末森より敗軍し、まけ腹立て金沢へ発向せんと、先づ鳥越城へ取りかけけるに、鳥越の者共は末森落去して鳥越へ向ふと聞き、皆々聞おぢして落行き、人一人もなかりければ、寺嶋兄弟・久世又兵衛入替り、利家公の帰路を待ちけれ共、浜通り引き給へば詮なし。いかがせんといふ所へ佐々来り、一所に成りて木船城へ引入りけり。加賀勢は鳥越の者共金沢へ切つて入る事あるべしとて、福岡与四郎・印牧次郎兵衛・飯野権右衛門・杉江左門・栗田伝兵衛・八田甚兵衛・鈴木孫左衛門・栂野小市郎、其の外三百計津幡に残し置き、木船の城へ取懸り給ふ人々には、不破彦三・武藤助十郎・岡崎喜六郎・村井又兵衛・片山内膳・高畠九蔵・富田与六郎・岡田長右衛門・篠原勘六・種村三郎四郎・鷲津九蔵・横山右近・上坂九左衛門・半田源太郎・九里庄蔵・河村五右衛門・細井弥左衛門、其の外多勢取巻きて城の四面へ取つて出で、所々にて相戦ひ、互に首を取り取られ、火花を散らす有様也。鷲津九蔵は八田甚兵衛に首をとらるゝ所を、横山三郎十七歳にて、八田を押伏せ首を取る。其の外何れも一命をなげうち、もみにもんで攻めければ、越中勢不叶して増山さして引取るを、追打に人数多く打取らる。かくて加賀勢所々の合戦に利を得ければ、守山の神保父子、氷見の内阿尾の城主菊池伊豆入道・子息十六郎も降参す。越中の戦ひ京都まで隠れなく、加賀・能登難儀のよし相聞え、秀吉公俄に人数を引率し越中へ発向あり。安養坊山に御陣を居ゑらる。成政無是非富山城へ引入り御詫申上げければ、秀吉公御赦免ありて、石動まで御陣を引き、佐々は落髪して黒衣に成り、手廻十人計同じ姿にて石動へ参り御礼申上げければ、新川一郡を宛行はれ、残る三郡は利家公へ賜りけり。加州・能州の侍共何れも秀吉公へ御礼申上げければ、各へ金銀・呉服等賜り、秀吉公は御上洛被成けり。扨木船の城へ前田右近殿を被指置、守山へ利長公松任より御引越あり。増山には山崎庄兵衛を被指置。是れ閑斎事也。加州鶴来八幡城へ高畠織部を入れ置かる。其の後成政へ肥後を被下時、新川郡も利家公へ御加増也。依之魚津に青山佐渡、滑川に今枝内記、富山に前田美作、七尾に前田孫四郎殿・前田修理殿に長九郎左衛門を指加へ被為置、其の外町奉行・所司代共置かせ給ひけり。不破彦三は柳ケ瀬敗軍の時、利家公へ被参、四万石の身代也。青山佐渡・不破彦三・長九郎左衛門、此の三人に上こす大名なかりけり。越中並に末森の合戦、委細末森記に有之故に、爰には略して大概を書記す。
 
 
天正十三年に越中御取合ひ事済み、加賀勢勝利を得させられ、則ち木船の城をば前田右近秀継に御預け入城ありける所に、大いなる地震度々ゆりて、押殺されては叶はじと門へ走り出其の難をのがれけり。永伝寺といふ寺ありて、侘敷家の女子共是へ集り、念仏申居るもあり、題目となへ居るもあり。余り夥敷ゆる時は、日蓮宗も南無阿弥陀仏、浄土宗も妙法連華経と互に申ける程に、事鎮りていかんと問ひければ、何れにてかよからんと、日蓮宗も浄土宗も両方を唱へたりと語りけり。殊更天正十三年十一月二十七日に、殊の外大ゆりにて大地もわれのく計に、百千の雷のひオープンアクセス NDLJP:38ゞきして、木船の城を三丈許ゆりしづめ、家倒るゝ事数不知。夫より今石動へ引越し、子息又次郎殿迄在城也。此の日の地震に庄川の河上山一つかけて、庄川の水口をふさぎければ、二十日計水留て山々へ水はびこり。庄川は河原と成り、鮭・鮎など其の外の小魚共拾ひ捕りて、金沢・高岡・石動へはこびけるに、老功の者申しけるは、此の水一度は流来るべし、其の時川端に是あらば押流されん事必定也。さらば立退き水をまてといふ儘に、増山・守山・さが野近所へ立退き、雪を除け小屋懸してぞ待ちにける。され共水口の欠山の両方にきれ目出来して、水も自然と流れ出で、何れも家に帰けり。其の庄川の水口に弁財天を勧請して、今に弁財天山といふ。又飛騨国阿古白川といふ所は、在家三百余軒の所也。其の時の地震に高山一つ欠落ちて、三百余の家の上に落懸り、数百人の男女共、家も垣根も三丈計下に成り、在所の上は草木もなき荒山とぞ成りにける。折しも霜月下旬の事なれば、常に商売物を富山へ出す商人六人、富山にありて命助かり、白川に行きて見れば、白川の跡かたちもかはり、何れが在所の有所にてあらんと、涙と共に富山へ行きにけり。是や古へ浦嶋太郎が七百歳にて龍宮より帰り、七世の孫に逢ひたる如く、夫れは孫にもあひけるが、是は親子兄弟一門共一人も不残、千尋の土の下に埋められてある事を思へば、老父老母の痛はしさよと、六人寄りて泪をとゞめ兼ねしも、理りとぞ聞えける。