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三壺聞書/巻之十七

 
三壺聞書巻之十七 目録
 
同先祖の事 二五〇
 
オープンアクセス NDLJP:128
 
三壺聞書巻之十七
 
 
 
寛永十四年十月より切支丹起りて西国騒動す。此の濫觴を尋ぬるに、先年松倉豊後守信重は、和州高取の城主にて二万石領せしむ。信重死去の後子息重政家督して豊後守と申しける。肥前二箕の城主也。于時元和元年乙卯五月六日大坂落城の前日、道明寺表の先陣として大坂の先手後藤又兵衛に渡合ひ戦うて勝利を得たり。依之家康公より肥前の内六万石被下、原の城へ移る。此の城昔は有馬修理亮居城の跡也。此の城重政気に不入して上聞に達し、嶋原の城へ移り、原城は明城となる。同国天草の城主は寺沢志摩守忠高居城にて、四万石領す。抑切支丹宗門の事、元亀・天正の頃端々に流行来つて、伴天連・いるまんなどと云ふ尊敬の棟梁有りて、万民を勧め、一日に印子七厘宛とやらんあたへ引入るよし取沙汰せり。次第に専ら盛に成りて所々に尊敬の道場有り、高下ともに帰依す。元和の初に成りて家康公、此の宗門天下の災と可成と思召、強て御制禁の御触有り。内藤飛騨守・同徳庵・高山南坊など、伴天連・いるまん等に相添へられ異国へ送り被遣。其の後度々の御吟味にて、日本国に此の宗門断絶す。然るに肥前嶋原領分に切支丹共夥敷出来す。松倉豊後守跡式長門守勝家在江戸の内に、領分けらの浦と云ふ所に夥敷此の宗門出来す。其の根本は大矢野松右衛門・千束善左衛門・大江源右衛門・木村宗意軒・山善右衛門、是等五人小西摂津守家人共也。天草郡の内大野・千束と云ふ所に久々居住す。近年肥前国高来郡嶋原の内深江村と云ふ在所有り、是に居住す。近郷の百姓共を呼寄せて云ふ様は、昔慶長の末迄、天草の内上津浦に、其の時まで伴天連一人居住し、天下禁法の時異国へ送らる。其の時末鑑の巻物を残し置く。其の文に曰く、五々の暦数に及んで善童一人出生せん、不学して諸芸に達し千万人に秀づべし。其の時東西雲焼くが如くならん。于時不時に花咲事有るべし。然らば我が宗天下に発すべき時節ならんと有之也。倩おもん見れば、天草甚兵衛が子の四郎こそ其の善童也。大江が庭の桜冬の節に入りて花咲く也。東西の雲焼くが如し。オープンアクセス NDLJP:129是を信じて何れもでいうすの法を難有おもふべしと語りければ、何れも奇異の思をなす。又在所のかたはらに左志木作右衛門と云ふ野人の家に、切支丹の絵像を所持しけるに、古びければ表具をせまく欲しけれ共、強き御法度なれば人に顕す事成り難し。然所に夜の内に物の見事に表具なる。是こそ不思議なる事也。我が法の天道より被成なるべしど、密宗の者共にひそかに是を見せしむ。是を聞伝へ貴賤群集夥し。所の代官聞付けて、作右衛門が宅へ押入り見れば、大勢充満す。汝等天下の制法を破り、加様の物をもてはやす事沙汰の限なりと、彼の絵像を引破り火中に投入れければ、切支丹共驚き代官を打殺し、此の上は急ぎ一宗の者共徒党を立て、天下をくつがへし宗門を再興せんと、同意の者をかり催し、爰かしこより駈集り大勢に成りにけり。松倉留守居大に驚き、馬上十五騎大将にて三百余人鉄炮十余挺にて深江城へ押寄せ、十月二十六日卯の刻に鬨を揚げければ、切支丹共千余人弓鉄炮にて出合ひ戦ひける程に、城方の者共二十余人討たれけり。寄手も百余人討死す。鹿・熊などを腰だめに打取つて、身を過る奴原にて、あだ矢少しもあらざれば、寄手高来城を出でし時は、何の農人共かと広言を吐出しゝが、悉く被打立高来城へ引退く。一揆共勝に乗り高来城へ押寄せ、大手の城戸を打破り、急に乗入らんとす。然れ共豊後守能くこしらへたる城なれば、本丸堅固に持堅め、爰をせんどゝ防ぎしに、一揆共二百余人被討取、散々に成りて引きにけり。松倉方の者共兵粮を取集め、籠城してこそ居たりける。又寺沢志摩守領分にも切支丹夥敷蜂起す。是は肥後国宇土の甚兵衛のせがれ四郎十六歳に成るを、でいうすの再誕と仰ぎ、彼が勧めに依りて、長崎の者迄もすゝめに応じて契約す。宇土は細川忠利の領分にて、四郎が伯父渡辺小左衛門並に四郎が母を搦捕りて牢舎させにけり。一揆共弥々腹を立て、在々所々かり催し、四郎を大将に定め、此の下知を守るべしと嶋原・天草在々申合せ人数を催す。与力する一揆共八千余人に及べり。此の間に肥前・肥後両国の内富岡・高津浦・唐津・柄本の城々上を下へと返し、一揆共とせり合ふ隙はなかりけり。一次共四郎を大将として嶋原に集り、嶋原の内大江と云ふ所は人遠地離の所なれば、談合嶋と名付けて是に寄合ひ、与力一万二千の人数を二手に分けて、茂木崎・日比峠に陣取りて、長崎までも追討せんと、既に打立たんと用意をなす。寺沢志摩守忠高の士共、唐津勢を催し天草を攻落さんと発向すと聞えければ、一揆共長崎へ発向の事を指止め、嶋子・本渡の両城へ取りかけて既に合戦稠しければ、十一月十四日の事成るに、三宅藤右衛門大将にて、林又右衛門・同小十郎・大野助左衛門・岡次四郎左衛門・同七郎左衛門・沢木七郎兵衛・原田伊予・柳本五郎左衛門・三宅藤兵衛・佃八郎兵衛、並河九兵衛・青木勘右衛門・佐々小左衛門、加様の者松倉・寺沢・細川人数共寄合ひ防ぎて、一揆共を討捕るといへ共多勢を入替へ攻めければ、三宅・並河・佃・青木・佐々五人も討死す。残る人数は富岡の城へ引取りにけり。一揆共は本渡に留る。

富岡の城に楯籠る人数には、岡嶋次郎左衛門・同七郎左衛門・原田伊予・大竹嘉兵衛・稲田平右衛門・浅井卜庵・三宅藤右衛門・沢木七郎右衛門・嶋田十郎左衛門等、鍋嶋・細川両公へ加勢を乞ひければ、両公在江戸也、鍋嶋信濃守勝茂の留守居諫早豊前三千余騎にて出陣す。龍造寺より五・六里の所也。刈田の庄に扣へたり。細川忠利の留守居志水伯耆守、四千余騎にて肥前の河尻に着陣す。去れ共自戦は天下の御制禁也。御下知に任せよと鎮西の御目付豊後府内へ使者を立て、牧野伝蔵・林丹後守へ此の由注進有りければ、弥上意を守るべし、追て指図を下さんと有りける故に、両国の人数待合ひて居たりける。斯く延々に成る内に一揆共八千余騎にぞ成りにける。松倉方の米蔵、三江村と云ふ所に有り、一里計の間也。是へ一揆共押寄する、三江村三百余人の内過半は切支丹也。大将分の侍高橋弥次右衛門・高畠次郎左衛門・入江与右衛門三人の鉄炮大将を討取り、三江村の兵粮も一揆の手に入りにけり。寺沢方の大将関善左衛門・国枝清左衛門・柴田弥五左衛門・小笠原斎宮、其の外の軍勢共都合三千余騎にて楯籠る。一揆共一万余人にて四鬼と云ふ所に陣取る。富岡城一里隔て勢揃して、十四日に攻懸けて、互に火花を散し戦ふに、一揆共二百余人打たれて敗軍す。多勢なれ共野人共にてばらばらに成りて落行くを、方々へ追付き追付き追討に首取りて勝鬨を揚げにけり。嶋子・本渡の恥辱を今こそすゝぎける。かゝる所に上使としオープンアクセス NDLJP:130て板倉内膳正・石谷十蔵上意を蒙り、嶋原松倉城へ着き給ふ。根本此の一揆は松倉・寺沢の両将の収納厚欲の致す所也。百姓共に向ひて、訴訟の事あらば、其の品により沙汰すべきとの御事也。鎮西の御目付牧野伝蔵・松平神三郎・林丹後守、長崎の守護馬場三郎左衛門も馳来り、高来城に集り、上意の趣承る。松倉長門守・寺沢志摩守も御暇給り馳下る。上使詮儀ありて、此の上は急に悪徒を討鎮めんと着到を付けて触廻し、人数等を催しけり。鍋嶋勝茂在江戸にて、子息紀伊守元茂・同甲斐守直澄一万五千余騎、筑後久留米の城主有馬玄蕃頭豊氏も在江戸にて、子息兵部大輔忠重八千余騎、同国柳川の城主立花飛騨守茂政も在江戸にて、子息左近忠茂五千余騎、寺沢・松倉の両勢一万余騎、十二月六日に出勢す。鎮西の御目付を軍奉行に相定め、口々手合して数万の人数にて取廻す。嶋原・天草両所の一揆共、有馬の浦原の城へ取籠り軍の詮儀致しけり。有馬の浦の原の城は昔よりの名城なるを修理して引籠る。原の城惣人数は三万六千余余人也。惣大将は天草四郎太夫時貞也、其の外の大将には芦塚忠右衛門・渡辺伝左衛門・赤星主膳・馬場休意・会津宗印・同右京・毛利平左衛門・林七左衛門・松竹勘右衛門・三宅次郎右衛門・久田七郎右衛門・泰村休沢・内田木工丞、此の十三人は浪人にて歴々也、時貞が謀事を助く。城中持口の大将には、山田右衛門佐・大浦四郎兵衛二千余人、千束善左衛門・戸嶋宗右衛門・上総助右衛門・同三平五千余人にて二の丸を堅めけり。取出には田嶋刑部五百余人にて楯籠り、三の丸は大江源左衛門・布津村吉蔵・堂崎対馬・北有馬久右衛門、三千余人にて固めたり。有馬掃部串山・北浜・千々輪・口の津・上津村五ケ所の人数五百余人、大矢野三左衛門千四百人、深谷次右衛門五百余人、簑村忠兵衛・木場作左衛門六百余人也。軍奉行には大矢野松右衛門・山善右衛門・有馬監物・松嶋半之丞・布津村代右衛門・天草玄札也。使番には池田清左衛門・ロノ津左兵衛・千々輪作左衛門、鉄炮二千挺の大将には柳瀬茂右衛門・鹿子木右馬助・時枝隼人、惣目付には蜷川左京、旗奉行高句権八・穂浦孫兵衛、其の外の者共何れも持口を固めたり。十二月二十日に寄手は上使御目付等の下知に随ひ、鬨を揚げて攻懸る。城中より鉄炮を打懸けしに討たるゝ者数しれず。夫にもこりず、塀の際に付く者を山刀・鑓・鎌にて突伏せ切伏せ防ぎけり。立花が手の者に立花三左衛門・十時吉兵衛・佐田清兵衛・渡辺次郎右衛門・綾部藤兵衛・東田三郎右衛門・岡田久右衛門・小野掃部、人持物頭二十八人討死し、手負六十九人、討死三百八十余人也。鍋嶋が手に二百余人討死し、其の外国々の使者等上使に随ふ者三十余人討たれけり。城中には死する者一人もなし。是併し城中より降参せんかと思ひ侮るが故也とぞ。十二月二十九日の事成るに、上使両人被申けるは、近日松平伊豆守信綱・戸田左門氏綱上使として下向と聞く。定めて以前の城攻に不覚したると思召したる成るべし。此の度は是非に何れも討死し給へ。敵味方対様の人数にて、野人共に攻付けられ末代の恥辱也と、正月元日辰の一点に討出で、鬨を揚げて攻懸る。久留米侍従忠重抜がけして塀の下へ付きけるを、城中より打出す鉄炮に一千余人討死し、寄手悉く敗北す。城中是にきほひて悪口して打出でたり。此の時板倉内膳正討死也。石谷十蔵・松平神三郎も手負ひ引退く。夫より寄手に下知なければ、漸くに繰引きにけり。城中より追討にせんとしけれ共、時貞制して出さゞりける。此の時討死諸手合に三千九百二十八人、一揆共の手負死人九十余人と聞えけり。松平伊豆守・戸田左門は有馬に着船し、重ねて国々へ触を廻し、先細川忠利二万三千余騎筑前の黒田右衛門佐忠之・同甲斐守・同市正を大将にて一万八千余騎、嶋津下野大将にて六千余騎、都合其の勢十二万五千余騎にて備へたり。とやかくする内に、一揆ども今や今やと待ちけれ共、合戦も始まらぬは兵粮詰と覚えたり。いざや夜討に出でんとて、二千人を三手にわけ、芦塚忠兵衛・布津村代右衛門・天草玄札請取り、千三百人を上総三平・千々輪五郎左衛門請取り、寺沢・鍋嶋・黒田三人の手へ攻入り焼立て、上を下へ返せば、黒田監物討死す。鍋嶋の人数に手負討死八十余人、黒田勢に五十余人、寺沢勢に二十五人討死す。去れ共きびしく防ぎければ、一揆共三手合へ百余人打死し、生捕十七人、其の後の一戦に首数都合二百五十八、生捕二十四人也。斯る所に城中より出丸を拵へ置きし所を、鍋嶋勢此の出丸を乗取らんと心がけ、仕寄を付出しけるを、諸手の人々是を見て、すはや鍋嶋より先乗をするぞと見る所に、鍋嶋の手合の御目付榊原飛騨守子オープンアクセス NDLJP:131息左衛門十七歳にて手勢を引具し、理不尽に乗入り、原の城一番乗榊原左衛門と高声に名乗りけり。父飛騨守是を見て、左衛門討たせて何の後栄か有るべきと、続いて乗入り出丸を打破り、二の丸へ押入り小屋小屋に火をかけ攻戦ひ、打取る首数甚だ多し。諸手の人々是を見て大に驚き、口惜や鍋嶋に先をせられしと四方より攻入る程に、一揆共は本丸へ引入り死物狂に戦へ共、多勢込入る事なれば、二十七日の戦に敵味方の分もなく原城は死骸にて一段高くぞ成りにける。大将時貞が首は細川手の陣野作左衛門打取りけり。夫より城中乱立ちて逃ぐる者を追討ち撫切にして、一人も不残討取りけり。一揆の人数都合三万八千人とぞ被記ける。寄手打死・手負には。

細川忠利 手に討死二百七十四人 手負千八百二十六人

黒田右衛門 手に討死二百十三人 手負千六百二十八人

同 甲斐守 手に討死三十二人  手負三百四十五人

同 市正手に  討死百六十人  手負百五十六人

鍋嶋勝茂手に  討死百六十人  手負六百八十三人

有馬豊氏手に  討死七十八人  手負百八十五人

立花茂正手に  討死百二十人  手負九十七人

小笠原右近大夫手に 討死十九人 手負百四十八人

松平丹後守手に 討死三十一人  手負二十七人

水野日向守手に 討死百六人   手負三百八十二人

寺沢志摩守手に 討死二十三人  手負三百十五人

有馬左衛門佐手に 討死三十九人 手負三百八人

戸田左門手に  討死四人    手負三十四人

松平伊豆守手に 討死六人    手負百余人

討死〆千二百六十五人、手負〆六千二百三十余人、合七千四百九十九人とぞ聞えける。

諸浪人共数万人有之といへ共、残る所は農人原なれば、一心不乱に吉利支丹に執着し、一命を捨つる事稀代の例しと云ひつべし。城中に山田右衛門と云ふ者諸道に達して、八百人の勢を預る。つくづく思案して、天下を引請け運を開かん事かたし。我れ真に切支丹にてもあらず、浪人なれば馳加る所也。所詮返忠せんと思ひ、其の通りを矢文に調へ、有馬左衛門手へ射込みける。頓て御目付に見せ、返簡調へ右衛門方へ射返すに、城中廻り番の者拾ひて四郎に見せけければ、其の儘捕へほだしを打ちて詰牢へ入れにける。其の後城中より落人有りて、御目付へ生捕り右衛門事を尋ねられしに、返忠顕れ牢舎と成由語りければ、何れも不便に被思、生捕共の中にほだしを入れながら連来る幾千人の内に、山田一人命助かりける。天命の程こそ不思議なね原城を引ならし平地となし、国々の大将帰陣有り。伊豆守・左門両人は天草・長崎辺へ打越え仕置等申渡し、名護屋・唐津・福岡の庄・豊前の小倉に着陣す。斯る所に太田備中守は上意を蒙り、豊前の小倉に着陣有る故、九州の大将何れも来集す。御諚の趣は、今度天草・嶋原の一揆は、都而守護の政道不正故也と何れも被仰渡、松倉長門守は美作の森内記へ御預、舎弟右近は生駒壱岐守へ御預、寺沢志摩守は領知を召上げらる。榊原父子と鍋嶋は、御軍法を破りたる由御不審を蒙りしが、追付き御赦免被成。其の後何れも帰国を被遂、海内静に成り、目出度御代と成りにけり。加州より天草へ山崎小右衛門を被遣しに、持筒足軽の武部久左衛門を召連れしに、久左衛門は城中破るゝ日手に合ふ首一つ取りけるに付き、百石御知行被下、御歩行の内へ被召加。山崎小右衛門は今の山崎久兵衛也。

 
 
寛永十四年夏の末夜半計の事成るに、加州河北郡津幡村と云ふ所に百姓の門をたゝく者あり。いまはあるじも寝たりければ、誰ぞと尋ねて声を聞くに若輩なる男の声也。此の家主は信心者にて仏性に近し、依之我れ来れり。此の近辺山廻りの山姥なるが、山廻りの折節近所にて安産をせられ、味噌汁を望む也。寿命長遠の祈念の為に味噌汁施し給へと云ふ。女不思議に思ひけれ共、有合ひければ土器に味噌汁に団子をもりてあたへ、後を見れども闇夜にて見えざりけり。翌日野へ出で見てあれば、麻畠の中に人の足跡あり、見れば土器もあり。不思議さよと思ひ、又其の夜味噌汁に団子を土器にもり彼の畠に備へけるに、幾夜も不替土器のみ残れり。近所の者に語りけるに、皆々不審に思ひ各備へけるに、必ず土器のみ残れり。其の所に小児共の煩ふを、山姥に団子を手向け頼みければ急に平愈す。依之奇妙成る事也と、我も我もと頼みける事大形は叶へり。金沢へ聞えて参詣夥敷、彼の百姓に頼みて団子を手向け給へとて、銀子・オープンアクセス NDLJP:132米などを遣しける程に、金沢中に隠れなく、目病は急に明らかに成り、腰ぬけは達者に成り、つんほは耳聞に成り、子のなき者は参詣の夜より身重く成りて、利生甚しければ、金沢より参詣数多に成りて、彼の家に初穂銀多く溜りければ、いざや社を建てんとて、九尺四面に社を建て、御祓をおき、幣帛を立て、注連を引き、参詣の人々鏡をかけ、鰐口を懸け、鳥居を立て、子供の衣類をかけ、もて遊び物、奈良物の小脇指など山の如くに積みにけり。金沢よりは後々歴々の奥方乗物にて、多くの女中・供廻り、夫に付き若侍も老人も稀代也とて参詣す。此の事御両殿に相聞え、頓て制禁に成りにけり。此の根本は、ある侍中の奥方に被仕若女房、同家の若党と密通し懐胎と成りて、夫婦伴ひ主人の家を立退き、越中河上に女の宿の有りし故夫へ心ざし、津幡まで出でけるに俄に産の気あり。宮の木陰に休らひ、夜に入り在所の裏屋敷へ忍び出で産をとげて、其の夜子は近辺の川へ投入れ、在所へ行きては叶ふまじと、上方を心ざし夜々忍びて上りしが、先づ山中の湯へ行き養生致しのぼらんと、湯治いたしありけるに、所々追手懸る由伝へ、山越に白山さして行き、神主兵部方に忍びて有りけるが、一両日逗留し女を刺殺し、男は自害を遂げにけり。兵部迷惑がりて死骸を河原へ出し埋めさせて、家をこぼち、土三尺削りて捨て、又作事致しけれ共、其の穢難に遭ひけるにや、追付き病死して兵部の家は絶えにけり。
 
 
寛永十五年春・夏の内に将軍家光公御成の儀、前年より被仰出、不時に御成可有由御内書有るに付きて、十四年より茨木小刑部に御作事奉行被仰付、御露地・泉水・築山等出来し、つまりつまりに富士見の亭・麻木亭・達磨亭・傘の亭・三角亭・鳩の亭などゝ名付けて、珍しかりける御物好の御亭共出来し、掃除以下相調ひ、御案内の時節駒込へ家光公御鷹野に出御ありて、二月十八日に本郷の裏門より御通り、御書院へならせられ、御膳等被召上、御亭共御見物、異国本朝の美酒佳肴遠来の御菓子等品々備へ置く。竹中是三台子前に伺公して御茶を上げ奉り、扨常々御取立の児小将をどりを御覧なさる。まだ其の頃は御若盛の御時也。一人興を催し給ひ御機嫌能く、利常公・光高公・利次公・利治公何れも御目見ありて、又裏門より還御、追付き御礼として御登城被成けり。其の後又上野へ御成にて、南光坊へ入らせられけるに、踊子の事御老中より内書ありて、何れも出立を極め、役者共被指添、終日上野にて御見物あり。又其の後酒井讃岐守殿下屋敷へ御成にて、又踊子御望の由内書ありて上げせらる。子供を馬上に覆面させ被遣しに、讃岐守殿下屋敷まで道中の見物山王祭の如く、御成御書院より人橋をかけて、上様今はゑいやと御誉被成候、又一をどりと御所望被成候と、櫛の歯を引く如くに申上ぐるに、利常公一人御機嫌能く、何れもの帰りを待請けさせ給ひ、上様御機嫌の御容躰をば人々に御尋ね被成けり。其の後上様御望にて、御城西の丸へ子供を上げさせられ、又御見物被成ける。利常公は又々踊を手替りに被仰付被取立、重ねて被召上、御見物被為成候様にと、酒井讃岐守殿へ御内談被成ければ、讃岐守殿申さるゝは、此の頃保科弾正殿より踊取立て上覧に備へらるべきとの御内意ありて、達上聞候所に、何と踊子と云ふ者は六ケ敷事か、又左様にもなく心安き事かと御尋被成候に付き、拙者申上候は、中々六ケ敷事共にて御座候、小身者などは一年の物成にて難成旨申上候処に、左様に六ケ敷儀にてあるならば、重ねて何方より見せ可申と申すとも、曽て見まじき由申せと上意被成候間、必々御無用に可被成由讃岐守殿被申候故、踊の儀は止みにけり。重ねて上覧被成候はゞ、国々より可被上の躰と讃岐守殿心付きたる由取沙汰也。其の年五月金沢へ御帰城被成けり。然る所に切支丹の御吟味盛に成りて、江戸より申来るに任せ、高山南坊・鈴木孫左衛門方に奉公致したる者、又其の時知行せし百姓まで御吟味ありてすさまじかりける事共なり。此の年六月十四日の夜、北国筋に砂の降る事夥敷、草木の葉の上に灰をまきたる如く也。後々に沙汰せるは、松前の大風砂を吹立て闇と成る由申しけり。
 
 
寛永十六年正月の御礼朔日より始りて、二・三日御能被仰付、其の上に件の踊をさせ、御家中又は寺社方にも見せられ、御振舞万々相済みけり。三月下旬に江戸へ御参観御登城あつて、方々の御勤例の如し。扨御隠居の御願兼ねて被仰上置きけるにや、五月中旬に御願の通被仰出、小松へ御オープンアクセス NDLJP:133隠居料として二十二、淡路守殿へ越中婦負郡百塚御在城として拾万石、飛騨守殿へ大聖寺にて七万石、残る所は筑前守殿へとの御事也。何れも忝く思召し御礼被仰上、方々より使者御見舞毎日門外に市をなす。則ち御家督の御祝儀六月二十日也。加州本多安房守・横山山城守へ御父子様より御書被成、飛脚を以被仰遣に付き、両州より添書せられ、物頭へ触れ、夫より組中へ触れらるゝ。追付き江戸御飛脚頻に立ちて、滝長兵衛小松へ罷越し御作事可申付由にて、長兵衛は小松へ参り、御城中へ入りて縄張を極め、堀・塀などを申付くる内に、御絵図等出来す。又追付き御家中小松・富山・大聖寺の衆も相極る。小松城には其の頃前田志摩・前田長松・前田長次郎・竹嶋殿のましますに、滝長兵衛は御意に任せ、奥方並に露地以下まで走せ廻り縄張し、くひを打ち我儘にす。家来の者共余り成る仕形哉と存じけれ共、鼠も社に依りて貴しと云ふ如く、小松衆は是非に不及、取る物も取りあへず、家財を金沢より昼夜の差別なく持運ばる。先づ二の丸に御仮屋を建て、御本丸の地形をならし、所々の堀をさらへ、橋を新敷掛けさせ、原五郎左衛門・分部卜斎・穴生の弥七、其の外役人・足軽等入替り御普請し、来年御帰城切と上を下へ返して急ぎけり。御家中の侍屋敷御絵図に任せ割符ありける故、町中も建替り、梯も公領橋も河上へ少し宛上げて懸直る。其の年金沢には何方共なく髪切虫来りて、男女のたぶさをぶつぶつと切る由風聞す。あなたにても切らるゝ、爰にも切らるゝ。殊に女の髪の能きを第一切る事なれば、いざや送れと云ふ程に、女の衣裳取りかざり、船を造りて鬼をのせ、鬼の手を大き成るはさみにして送り、川へ流しけり。町より侍衆に移り、殊に奥方に是を忌み出で、小袖を惜まず彼の鬼にきせて送る。追而御停止に成りけり。
 
 
寛永十七年六月十日江戸御発駕ありて、東海道より小松へ御入城也。光高公よりは箱根まで御膳を御拵へ、御弁当にて御泊りへ被上、御供中上下共にも被下けり。金沢より又関ケ原まで出向ひ、御膳を上げ奉り、御供中にも被下けり。二十一日に小松二の丸御仮屋へ入らせ給ひ、御城中の絵図御覧被成、中土居に古市左近、枇杷嶋に児小将、三の丸に人持、其の外牧嶋・竹嶋・葭嶋・松任町、泥町・さうけ町・上牧・園村・小寺、夫々御指図にて引越し引越し、町家に借屋して作事申付け、其の年の内に大方移らるゝ。神尾竹松・青山与三を被召寄て、主殿・将監に被成、御家老に被仰付、前田長三郎を権佐に被成、寺西若狭を副て四天王と名付け、二の丸に並居たり。主殿病死の後へ山崎長門入替る。小幡右京・同下野・堀三郎兵衛をば三谷に置かせらる。爰は昔一揆の大将岸田常徳寺居城して、近郷を領せしに、信長追払ひ給ひし時鵜川村へ退去す。三谷の脇に蓮台寺と云ふ所あら。能き瓦七有之由被聞召、三ケ年以前に矢野所左衛門に被仰付、小屋を懸けさせられ、瓦大工忠右衛門に棟梁させ、瓦を焼初むるより、小松御在世の間爰にて瓦出来す。御馬出には今枝与右衛門・原八丞・吉田左近・福嶋武左衛門・栗田四郎左衛門・平岡志摩・岡嶋兵庫・一木逸角・岡田隼人・佃源太左衛門・半田五郎左衛門、三の丸後町には浅野藤左衛門・小林豊右衛門・長谷川大学・稲葉道二・鷹栖松雲、牧嶋には前田内蔵尤・神戸蔵人兄弟・西村右馬、葭嶋・竹嶋の内には松平治部・九里覚右衛門・大橋又兵衛・同市右衛門・前田七郎兵衛・宮部三右衛門・藤村英庵・建部九郎兵衛笹田助左衛門・杉本次郎左衛門・武藤庄兵衛・野村半兵衛、海老町口には永原土佐・津田玄蕃、大領野に御馬廻七人、其の外数百人屋敷取りして、思ひ思ひに作事を営み入りけり。御城中まで所々の船共入りければ、水つきにて湿地とは乍申、又少しは自由にもありけれ共、金沢より引越し一両月もある内に、皆人瘧を煩らはぬはなかりけり。
 
 
同年十月十二日に、飛騨守利治公江戸御発駕とぞ聞えける。御家中の士共去秋より当年へかけて引越し、町家に居るもあり、作事して入るもあり。織田左近・玉井市正・脇田帯刀・神谷治部御家老として、田丸兵庫・山崎庄兵衛・梶川弥左衛門・才監物・渡部八右衛門・村井勘十郎・佐分利儀兵衛・内田太郎左衛門・樫田主水・前田勘右衛門・猪俣助左衛門・河地才右衛門・深町孫市・岡崎安左衛門、其の外の士・与力・歩行等追々に引越す。十月十日に大聖寺大地震ゆり、町家悉く破損し押倒され、人馬死する事夥し。武家も破損し、作事等出来せし人々二度造作になりにけり。其の地震オープンアクセス NDLJP:134金沢までもひゞき、堀溝の水を道路にゆり上ぐる程の動き也。扨利治公は御着の日直に吉崎辺へ御鷹野に出でさせ給ひて、御入城をぞ被成ける。其の翌年江戸御参観時分まで御作事、御露地等御普請被仰付けり。
 
 
小松に前田源峯居士より内記・左兵衛・長松迄四代を経ぬる所なれば、凡そ星霜四十一年に及べり。竹藪は丹羽長重以前より代々根組深くして、切りすかす事度々に及べり。然ればさしてあやまりにも不可成と何れも申しけるに、前田志摩内に樹木を伐り竹を剪り屋敷をあらしたるよし、利常公被聞召殊の外御立腹にて、御吟味中々きびしくなりて、矢野治左衛門其の中に多く竹を切りたる由にて切腹仰付けらる。治左衛門妻は荻田助右衛門姉にて、助右衛門方へ引取りけり。
 
 
同年七月盆中の事なるに、所々にをどり夥敷、余り騒動なりければ、利常公は小松に入らせられ、光高公は御在江戸也。御隠居の物始め也。いか成る申分も出来せば、御留守の面々宜しかるまじ。其の上小松への聞えも、打鎮りたるこそ可然事也。夜廻りを出し早々踊を追ひちらせと、老中より被申渡。夜廻り衆罷出で、所々の踊を追散す。然る所に金森平三郎は小松へ引越す内なれ共、病気に付き養生の為金沢にあり。浄住寺旦那にて参詣致しければ、夜廻り衆取籠めてとがめけり。其の頃までは御留守中は月夜も提灯也。金森殊に火は灯さずと咎めぬるも道理也。金森是は寺参り也、目も明かぬ人々哉と少し詞荒に答へければ、夜廻り衆申すは寺参には作法もあらめ、撫付に茶筅髪、上下は着せず、偽り至極なり。うろたへて足軽共の棒にあたり給ふなと申しければ、金森刀に手を懸けたり。互に雑言に成りければ、近所の者共出合ひ扱ひて両方相引にす。早や小松へ相聞え御吟味厳敷、夜廻り氏家十兵衛・日夏市郎右衛門両人切腹被仰付、金森は御追放被成ける。人皆申しけるは、俄に小松・金沢の水際立ち、御隠居の者を金沢衆取籠にすると被思召、御心底に御ひがみもありけるやと。夫より金沢衆の気遣ひ、何かに油断はなかりけり。
 
 
同年七月下旬の頃とかや、亀田権兵衛を夜討にして金銀を取りて行きければ、老中吟味せられて、家来の者共捕へて拷問様々也。然れ共曽て家来に知る者なし。其の頃亀田屋敷は惣構の外藪際也。神戸清庵と三輪法受の間に並び、亀田前に堀をひぢ折り、法受の境に堀を通し、両方共に堀端に塀を懸けたり。法受と亀田間の堀を伝ひ来て、権兵衛塀を切破り、下台所の水流しの下を切りぬけ忍び入り、寝間に入り権兵衛をば討ちければ、金銀の有所知れず。物置へ入りて見れば、女を縛めて置きけり。汝何故縛められたるぞ、金銀の有所申すならば助可出と云ふ。女聞き、我れ権兵衛殿の気に違ひ、二・三日爰に不食にて斯の如し。放して給はり候へ、金銀は寝間の脇に可有と申しければ、縄を切りかまへて此の事申すなと云ひて放しけり。然る所に御吟味漸く日数を経ても知れざりけるに、女一人目安を以て注進す。権兵衛を夜討に仕る者、津田源右衛門殿家来蜂谷清兵衛と申す者也。同類に組するは才鶴理助と申す者也。其の外にも候はん由申上ぐる。此の者共親兄弟捕へて御吟味あり。彼の女始は蜂谷の妻女成るが、近頃離別せられ、後妻をねたみありけるが、便宜をうかゞひ申上ぐる。才鶴は拷問せられ、ありの儘に白状事細々と申しけり。蜂谷は老父有之、久々亀田方に奉公す。年寄りて追出さる。此の者忍び入る時の案内者也。蜂谷は夜討の後追付き参宮致し、下向して三日目に無病にて頓死す。其の翌日此の事露顕す。大神宮の神慮新にして難儀を遁れけると、皆人難有こそ思ひけれ。老父は生捕られ拷問せらる。清兵衛弟ありて欠落し、江戸にて捕へ、御下屋敷鈴木孫左衛門方にて糺明。原田又右衛門承りて、同類を探り金沢へ注進す。其の後江戸にて成敗被仰付。同類共本多安房守の家来に多く有りけるが、佐藤久右衛門と云ふ者は親子五人刺殺し、其の身も自害す。佐藤権平と云ふ者は、父の腰ぬけたるを刺殺し、家に火を懸け自害す。中村善之丞は盲目の父を刺殺し立退く。坂上平右衛門と云ふ者は親子兄弟六人一集に立退く。房州より何れも追手を被掛けれ共行方なし。小松より御目付に神戸蔵人被遣、前後吟味承届け事済み、小松へ罷帰り言上す。何れも罪人御成敗被仰付。其の中に御小人次郎兵衛と云ふ忍びの者のせがれ有りて、御成敗にオープンアクセス NDLJP:135成りにけり。
 
 
昔尊氏将軍の御時より、加州河北郡森本に亀田殿と申して富家の人あり。近郷を押領して、大永の頃まで家盛也。又松任に鏑木と云ふ者ありて、是も近辺を押領し、家を栄えてありけるが、越前の朝倉義高加州を望み、何とぞ一揆共を討取り、加賀・越前を合せんと思ひ、亀田と一味して、鏑木を亡して彼の地を領せんと申談じ、亀田娘を鏑木に妻合せ、饗応に父子共に森本へ呼寄せ、悉く打殺す。残る一揆共、扨は亀田は越前と申合せ野心を企つると、何れも一味同心に押寄せ、亀田一類悉く討亡し、漸く亀田の末子一人打洩らされ、溝口半左衛門と申しけるが、柴田滅亡の時一所に腹をぞ切りにける。此の者の子浅野但馬守殿に扶助せられ、度々の働比類なかりしかば、鉄炮大将になり、亀田大隅とぞ名乗りける。後法躰しては鉄斎と申しけり。但馬守殿紀州より芸州へ所替り、舎弟因幡守殿は備後三好に居城有り。但馬守殿子息安芸守殿御代になり、御家来の内人持一人切腹被仰付。其の時上田宗箇が惣領主水と亀田大隅浪人す。其の後申訳立ちて両人被召返、亀田病死して、せがれ権兵衛又浪人して加州へ来りければ、権兵衛を江沼郡潮津と云ふ所に在城被仰付、久々是あり。亀田家来覚えの者共生残り有之を、利常公へ被召抱御知行被下。菅野加右衛門子供兄弟其の外花田加兵衛也。又但馬守殿寵愛の児小姓上りに熊沢兵庫と云ふ者あり。上田宗箇聟に可被成と約束の所に、脇へ縁組有之。熊沢腹を立て広嶋を立退き、是も加州へ来る。則ち御抱あり。然るに明暦の頃小松へ熊沢惣領大助を可被召仕旨被仰下の所に、兵庫辞退して承引無之故、伴八矢惣領雅楽助を被召寄。其の後兵庫死去の時跡目の儀老中より伺ありしかば、奉公を嫌ふ者を何にせん、何方へも可参旨御意にて、大助江戸へ浪人す。扨亀田権兵衛は金沢に居住しありけるが、別けて金銀を好み、買物は代銀を半年も過ぎて漸く半分程遣し、小鯛・小鮒を買置て、朝より晩迄の内四・五人も肴売を呼入れ、小を大に替へて遣し、晩には必ず大鯛・大鮒に成す事を覚えたり。奉公人は一年に四・五度宛置替へれば、給銀少しも不入して、扶持方のみにて仕ひ、剰へ彼の奉公人共に、女は紡績の業をあて、男には沓・草鞋・縄・筵をあてければ、夫に難儀して衣類道具を捨て行きければ、夫を代かへて又扶持方も損にならず。口に淡しきを喰ひて、さのみ色にもふけらず。世間も止めて金銀の集まるを楽とし、終に家滅却せり。皆死すべき為の病の品と申しあへり。
 
 
此の次郎兵衛と申すは根本は上野近所の百姓にて、若年より盗賊に上手なり。一味の者三人有り。厩橋近所の在郷寺に真言宗の独坊主あり、名誉の行者にて手前も有徳也。彼の三人の盗人此の坊主を打殺し取らんとて、或時忍び入りければ、坊主厳敷咎めけり。三人申しけるは、酒を飲みたしと云ふ。坊主云ふ、我が方になし、他所へ行けと云ひければ、夫ならば坊主が首をとらんと云ふ。坊主聞き、我は汝等が命を取らんと云ふ。賊共則ち刀を抜き打ちて懸れば、坊主中庭へ出で手をたゝき笑ふ。又追廻し切らんとすれば、客殿に立ちて又笑ふ。三人あきれて立退く。次郎兵衛一人立帰りて、扨も稀代なる御事也。向後御弟子に罷成るんといか様共奉頼と降参す。坊主聞きて、戒行あり、盗賊をさへたちぬれば願成就せりと云ふ。則ち本尊不動明王の前にて誓言し、秘密の大事相伝す。別して貫の木を明け海老鎖を明くる事奇妙也。其の後越中へ来り、弟子を取り、布を晒す土清水近所に有之。弟子共方々にて盗を致す。国府の御坊へ盗人入りて多くの財物取りて行く。次郎兵衛弟子の業にて、次郎兵衛も牢舎仰付けらる。然るに毎夜牢より出で、在々所々にておどりを致し、酒肴を取りて牢に入り酒宴を催す。牢番迷惑がりて注進しけるに、追付き御成敗可有所に、加様の者は四井主馬などの如く忍びの御用に立つべきとて、御扶持被下御小人となし、本座者の内に成りて御露地普請等にも被召出勤めけり。今度亀田を殺す者共、皆次郎兵衛弟子共なれば、次郎兵衛を捕へて牢舎被仰付、弟子共も捕へて御成敗仰付けらる。次郎兵衛忍び出で、妻子共を連れ金沢を立退くに、追手をかけさせ給ひける。上方へは行くまじと下口へ追懸けゝるに、下越後新発田領鴨村と云ふ所に在住す。前田源峯の孫に溝口金十郎領分也。則ち所の者申合せ、次郎兵衛を取巻きければ、遁れ難くや思ひけん、老父妻子を刺殺し、我身は鉄炮に二オープンアクセス NDLJP:136つ玉を込め、柱に結付け、筒先を我が胸元に指向け、引がねを杖にて押しやり、胸打破れて果てにけり。神変奇特ありといへ共、運尽きぬれば斯の如し。神は非礼を受け給はぬ理り也。
 
 
同年の暮より春へかけ、利常公御領分わけ被仰出。越中新川郡は御隠居分に成りければ、葛巻隼人・前田八左衛門・山崎半左衛門に御馬廻一組被遣置、新川御収納・小物成・山奉行、会所大原次郎右衛門・前田兵左衛門に勘定人を被遣、役々を御定被成。正月の御礼として三ケ国は不及申、江戸・上方より御用人共小松に充満す。御子様方より御名代の御礼、歳暮より年頭までの御規式相済み、小松中は人・馬・乗物透間もなし。金沢前田孫九郎を長松一集に被召出、長松は対馬に被成一万石、孫九郎は志摩に被成七千石の御知行頂戴せらる。長三郎は三千石被下権佐に被成、家中侍共人分けして夫々に勤めけり。当年は光高公御国入なり、急ぎ御参覲可被成とて、三月中旬御発駕有りけり。
 
 
寛永十八年四月上旬に光高公加州へ御着被成、御分国の様子共被聞召、御加増・新知・縁組・屋敷の望等まで夫々に被仰出。大事の儀は三年不改の道を御守被成ければ、別に替る事なし。少し宛の御事共町中へ条数書被成、巻物一巻町奉行小塚藤右衛門・長瀬五郎右衛門に相渡り、何れも町中拝見仕り相守りける。御領分八宗の惣録達を被為召、御咄など被成けり。年寄中等への御成もありて目出度かりける御事のみ也。秋の末に至りて、津田勘兵衛方へ御成の用意として作事等を営み、道具の拵へ京・大坂へ人橋を懸らる。然る所に津田勘兵衛は、切支丹の宗門たる事まぎれなしと大手の辻に高札を立つる。光高公御耳に立ち、利常公へ御飛脚にて被仰上ける所に、先づ江戸へ勘兵衛を被指越、申訳をも仕る様に御意ありければ、俄に江戸へ被参けり。詮もなき儀と思召しけれ共、其の昔の切支丹御吟味はころびければ事済みけるに、今程は御吟味にて、親の代に切支丹にて子は他宗なれ共遁れ難し。然る故に猪子九郎左衛門・横田弥五兵衛・金瘡の不乱坊・宮腰達磨寺の不楽坊、其の外足軽以下までも江戸より指し来るに任せ、江戸へ遣さる。安江木町酒屋九郎次郎は佃源太左衛門聟なるを、是も指し越すに付きて江戸へ被召寄時分なれば、津田勘兵衛も其の昔少年の時分年久し、いかなる縁に依りて左様の事もありけるやと、皆人知る者なし。昔は若き者伊達する者は是非に此の宗門に成りて、珠数を首に懸け、切支丹の道具にこんだつとやらん云ふ物を腰にさげ、是を威勢とする事なれば、勘兵衛も幼少の時分左様の事も有るやらんと推量計は申しけれ共、極まりたる証拠なし。殊に父遠江守道空の年忌には、宮腰口禅龍寺にて百日の江湖を附け、大法事を執行せられ、仏神へ帰依して正・五・九月は両愛宕へ参られ、大般若の読誦にて祈祷ありしに、いかなる災難とぞ人申しける。或説に南町の辺に柴屋と云ふ町人あり。日本にたばこのはやり来る時、此の柴屋と云ふ者初めて金沢より売初めて、きざみたばこなどしけり。踊歌にも、柴屋たばこ屋らんじやう屋と諷ひける。此の町人申分仕出し、勘兵衛批判にて負になり、磔に懸りける。此の一門共勘兵衛を遺恨に思ひける由申伝ふるに付き、若し此の末々の者ありて札を立てけるやと諸人申ならしける。斯くて勘兵衛江戸へ着きしかば、利常公より言上被成けれ共、詮もなき事なれば、湯嶋辺にいたづらに年月を送りしが、終に病死ありける。せがれ伊織・舎弟半之丞病中より孝行を尽し、禅寺へ移し葬送し、加州へ帰りける。哀なる事共多し。父遠江守は与三郎と申す時、明智日向守内にして、若年たりといへ共一騎当千の剛の者也。備前長光の刀を明智より給り、本能寺への先手也。其の後高野山に有之を太閤被召寄、御目見致し、関白秀次公へ御附被成しが、秀次公御生害の後、今枝内記一所に当御家へ被召出、道空と改め、子息勘兵衛に家督を譲り、光高公の御前にて昔の武功の御咄共申上げ、御寵愛不斜、勘兵衛代に成りて御分国郡中の御沙汰共、いか様共勘兵衛存寄り次第に可仕旨被仰出、諸代官に下知をなす。惣領娘ありて、松平伯耆次男を聟養子にして津田伊織と云ふ。其の娘を葛巻内蔵助に嫁娶被仰付。与十郎十四歳の時、伊織子息龍之助十一歳の時分、切々能を興行あり。面かけずに或時は松風・村雨と成り、又熊野・槿と成りて、家来木村忠右衛門脇にて、山崎仁左衛門狂言にて、金沢大名小名参会見物夥敷繁昌の折節、かゝる笑止成る事オープンアクセス NDLJP:137出来すと、袖をしぼらぬ人はなし。右高札を立てける時、公事場より添札立てける写し。

津田勘兵衛、先年切支丹宗門御改にて高山南坊流罪之刻彼宗門ころび申候得共、内心は立帰候様に当二十日此所に札を立候。乍去札之書様慥ならず候に付、御披見に入候事難成間、七日之内に密に為告知、其身罷出御穿鑿於落着は、最前御定之御褒美之上に増被下候様に可申上候。此上申顕さず候はゞ、右之札意趣に立たるべき者也。

  十月二十三日        奥村源左衛門

                岡嶋市郎兵衛

                小塚藤右衛門

右板津左兵衛に書調へさせ立置かれけれ共、何の重ねて異儀も無之。去れ共指置き難く、江戸へ下向と聞えけり。