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三壺聞書/巻之十八

 
三壺聞書巻之十八 目録
 
三谷喧嘩の事 二六一
追腹の事 二七〇
前田志摩の事 二七二
於竹様の事 二七四
 
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三壺聞書巻之十八
 
 
 
寛永十八年八月三日に、将軍家光公の御若君御誕生被成ければ、天下の悦何事か是にしかんや、諸国の諸侯より御産着・大小の御腰物・樽肴・御馬代、国に在る人々は名代の使者、天下御世継の事なれば、日本国の霊仏霊社八大龍王まで守護を加へ奉る。御代々の御吉例にて、御名を竹千代丸様と号し奉り、天下の諸侯より御腰物・御脇指献上あり。 長光御刀 国次御脇指 尾張殿
紀伊殿
水戸殿
正宗御刀 義弘御脇指 利常公
二字国俊 来国次 松平越後守殿
増屋郷 来国次 松平筑前守殿
一文字 新藤五国光 松平薩摩守殿
和州包長 来国俊 松平長門守殿
来国光 安吉 松平出羽守殿
信国 正宗 松平新太郎殿
備前真長 国光 松平隠岐守殿
菊一文字 来国光 松平右衛門佐殿
光忠 吉光 加藤式部大輔殿
備前長光 来国光 松平阿波守殿
来国行 兼光 鍋嶋信濃守殿
延寿国泰 相州行光 藤堂大学頭殿
来国光 左文字 上杉弾正大弼殿
包永 国光 佐竹修理大夫殿
左国吉 国綱 森内記殿
備前真長 来国光 伊達遠江守殿
正恒 国光 松平土佐守殿
定利 信国 有馬玄蕃頭殿
光忠 吉貞 保科肥後守殿
来国俊 来国光 井伊掃部頭殿
春屋長光 久国 土井大炊頭殿
来国光 同銘 酒井讃岐守殿

オープンアクセス NDLJP:138重助 安吉 堀田加賀守殿
延寿国信 則重 酒井宮内少輔殿
但馬国光 新藤五国光 戸田左門殿
来国俊 国光 小笠原右近大夫殿
来国光 青江吉次 松平越中守殿
包光 国吉 松平式部大輔殿
正恒 包長 本多内記殿
則房 来国光 奥平美作守殿
一文字 吉光 立花左近将監殿
守家 国次 酒井河内守殿
備前三郎国守 義弘 永井信濃守殿
門国 次貞 水野美作守殿
光重 国重 丹羽左京大夫殿
正恒 次吉 南部山城守殿
守家 安吉 堀牛之助殿
長光 安吉 松平安芸守殿
左吉貞 境志津 松平下総守殿
来国光 同銘 細川肥後守殿

此の外御脇指一腰宛の人々は爰に略せしむ。都て御刀七十七腰、御脇指百五腰也。大小合百八十二腰、献上の諸侯百三十三人也。何れも御拵等結構を尽し上げさせらる。

  君が代の千世へんとてのしるしにや緑色ます住吉の松

  松枝の久しき御代を仰ぎつゝ民もおしなべ悦びぞする

千秋万歳の声のみにて目出度かりける事共也。

 
 
爰に加州利家公越前府中に御在城の時、義景浪人舟橋に居住す。久津見善兵衛とぞ申しける。此の者利家公に被召置、加州へ来る。三人の子供あり。善兵衛死去の時、庄右衛門・半左衛門・忠兵衛とて三人に家別れ、何れも御知行被下。惣領庄右衛門妻は天徳院様御召仕の女中にて、江戸より来れる女也。此の夫婦の中に娘一人有之。父庄右衛門死去に依りて、奥村快心の家来音山道栄息子を以て養子に被成、則ち名跡被下、久津見庄右衛門とぞ申しける。此の夫婦に男子二人・女子一人ありて、父庄右衛門死去す。兄四歳・弟二歳、娘は当歳也。庄右衛門後家つくづく案ずるに、此の子供成人してたとひ御知行被下とても、其の間久しかるべし。又母もいまだ年若也。所詮は江戸へ娘を連れ行き、御城へ奉公の才覚致し、子供の成人するを待ちて見ん。我も当所に一門もあらばこそ立寄る方もあるべけれ、命ながらへ又こそ申通じ候はんと、二歳の弟を音山道栄夫婦に渡し、兄の主水と娘と其の母と我が身四人、江戸へこそは参られけれ。頓て江戸へ参着し、春日の局へ案内して、母も娘も諸共に御城へ被召出。母を中と申して十人の表使に加り、娘は音羽と申して竹千代様の御母君お楽の方に被召仕、二人の子供を部屋にてそだてける。然る所にお楽の方御懐胎と聞きしかば、天下の御世継にておはしませと、天神地祇への御立願諸国共に願ひ奉り、別して女中方日々夜々の祈願共中々申す計なし。早や御帯祝ひも過ぎて、春日の局御意を得られけるは、何方にて御安産なさせ参らせ候はんやと申上げ奉る所に、下へおろし可申由上意也。其の趣を申しければ、お楽の方仰せけるは、我が身の事は何方にても苦しからず、若し御若君にてましまさば、大臣の御位は月日星の御位とかや承る。左様に御座可被成若君を、下にて御出生の事勿躰なし。いかゞ各々思召すやとありければ、其の通り重ねて達上聞けるに、其の儘置可申旨上意にて、居成に御産所を究めけり。夫に付きて折々は家光公局へ入らせ給ひけり。或時家光公お楽の御局へいらせ給ひし時、音羽がせがれ主水は走り出で退く所を上覧ありて、誰が子ぞと御尋ありければ、春日の局申上ぐるは、中が孫、音羽がせがれにて御座候由申上ぐる。是へ呼べとて被召寄、主水御前に畏る。家光公お楽の方に御ゆびさし被成、あの腹なる子は男子か女子か申せと上意ありければ、主水居たる所をすつと立ち、着たる小袖のつまをかきまくり、腹を御前へやりつけて、是にて候と申しければ、からからと打笑はせ給ひ、能く申たる物哉、夫ならば汝を小姓に附置く也。側に居て能く奉公申せと上意あり。女中方は一同に、扨々目出度御事也、能く申したる主水哉と声を揃へてほめにけり。春日の局被申上は、京・田舎にて辻占と申す事を承り候にも、幼き者の申す事を証に仕る御事にて御座候。若君様に疑ひなく、御代長久の御瑞想何事か是に増るべきと被申上。案の如く若君にてましませば、主水は御胎内より附き参らする事なれば、御相伴にて朝夕を被下、成人の頃松平和泉守オープンアクセス NDLJP:139に御預け、元服して又助とぞ申しける。末頼母敷事成るに、余り果報がち成る故か早世するこそ哀なれ。加州に残りし弟は音山道栄取りそだて、十六歳の時庄右衛門名跡を利常公より被仰付、御知行被下置。佃源太左衛門聟に成り、男子女子出生して母空敷成りければ、兄弟ながら又江戸へ音羽方より呼寄せて、兄を主水と名付け、先の又助名跡に被仰付、不相替出頭しけり。不思議なる御縁にて御近習に徘徊す、難有御事と申しけり。
 
 
寛永十八年七月上旬の事なるに、光高公は西尾隼人・丸毛道和・古屋所左衛門を被召、稲葉左近方へ参り可申聞は、其の方罪科の事我れ不知。先年利常公へ対し奉り楯を突き申すに付き、今に何共不被仰出其の分になし置かれ、追付き御隠居被成。我れ既に家督して金沢へ入城せしめ、中納言殿御憤を謝せずんば不孝の罪を蒙る也。罪の軽重は遠慮ありて御尋に不及。兎角其の方が一命を我に得さすべし。不便には思へ共早々切腹可仕旨被仰渡。何れも畏りて御前を立ち、左近方へ罷越し座敷へ呼寄せ、御意の通り申聞けゝれば、左近承り、誠に以て難有御意にて候ものかな。父命を重んじ、御孝行の道に叶はせられんに、我が命を御用に立候事、生前の本望に奉存所に候とて、行水して何れも御苦労の段一礼いたし、いさぎよく切腹致しけり。弟の宇右衛門も一所に被仰付。哀成次第なり。抑此の稲葉左近は、最前利常公御若年の頃、稲葉美濃守殿口入にて被召置、御用等被仰付、諸事才覚人にて裁許共御意に応じければ、能州の郡代に被仰付。其の先には寛永の初の頃まで山口弥五兵衛裁許也。昔七尾には慶長の時分前田修理殿御座被成、石黒覚左衛門所司代也。扨稲葉能州へ初めて村廻りして、先奉行の手前に私曲の儀・非義の沙汰等有之ば目安を以可申聞。公儀へ相断り望を叶へさすべしと触れければ、百姓共申しけるは、先の御奉行に非義等の事少しも無御座旨申しけり。此の沙汰両殿へ相聞え、山口弥五兵衛手柄の旨御誉被成由取汰沙あり。其の後左近つくづくと思案して、利常公へ申上げゝるは、能州は昔利家公の御時より御領知にて、大かた給人知にて御座候。越中は御公領多く、能州は山海の珍物出づる所多し。上方の船便も宜しく御座候間、能州を御領に被成、越中を家中へ出ださせ被下候ばゞ可然候はんと申上ぐる。御意には、尤なれども先年より取来る分は是非もなし、自今以後越中にて可被下旨被仰出けるに、跡目・新知漸くにすり替り、能州大方御領に成りにけり。諸給人は越中下免にして、旱損・水損難儀とこそは聞えける。又鳳至郡の内甲村の肝煎九門と云ふ者、大身にて富家也。此の者近在の小寺の坊主と公事を致す。左近批判にて九門負公事に成り、九門を捕て火罪被申付。其の時九門腹を立て、此の報ひを左近に思ひしらせんと、悪口致し果てたりと沙汰せし也。其の後富田下総相司にて公事場奉行被仰付、又其の後公事場を替りて武具土蔵裁許・御算用場をも司る。左近下知にて能州に小代官ありて勤めしが、一人は田川次郎右衛門と云ひ、一人は板屋兵四郎とて辰巳用水の堀の指図致しける者、此の両人は算勘達者故被召出代官を勤めけり。此の両人の手前の算用を左近吟味せられしに、左近種々の非分を申しかけ、両人引負銀拾貫目計にたゝみ上けて達御聴、一門懸りにして取立てれば、両人手と身になり、妻子家等にも離れ、難儀千万申す計なし。両人の者思案して、我々道橋御蔵の破損修理、又は新蔵造立、一つとして左近殿指図の外はなし。其の時の勘定等速に遂げたり。然るに我々私曲の様に御聴に達する事こそ無念なれ、たとひ我々存分達せずと云ふ共、せめて申わけして乞食にてもせばやとて、年々左近が私曲非分共、並に自分の申わけ巻物一巻書記し、上通り江戸へ御参観の節、金津の上野にて目安をかつき上げにける。御近習の人々他国地にて目安上げ奉る事沙汰の限り也。御国へ罷帰り御意を待つべしとありければ、金沢・小松に浪人してこそ待居たれ。去れ共彼の目安を被取上、御道中にて御覧被成の由取沙汰せり。翌年御帰城あつて、房州・城州・因州三老へ被仰出、稲葉左近手前を御吟味被成けるに、目安の面御不審の条々申わけ、しどろもどろに不首尾なる儀共にて、老中も興を覚まし、先々左近退出せらるべしとて、宿へこそは帰りけれ。数日程経て又荒木六兵衛奉行にて、左近早々登城可被申、御尋の儀有之由申来る。左近悪敷心得たるにや。御尋は先年安見隠岐を謀事にて流人に被仰付、定て其通り成べし。爰にて切腹仕るべし、御検使被下候へ。御用の儀有之候はゞ是にて可承候。登城のオープンアクセス NDLJP:140儀は仕間敷由申して登城せざれば、六兵衛重ねて委細申含め、早々と申遣す。両度の御召に登城せず。此の上はいか様の御意もあらんと、家来の者暇を望む者には暇を遣し、留まる者には衣類道具を縁引に遣し、用意して待ちける由金沢中に沙汰し、殊に彼は鉄炮玉薬の御蔵も預り屋敷の内にありと、近所も騒動して、手前手前に其の心懸して、兵具の塵打払ひ、鞍置馬に心を添へ気遣ひしてありけるが、去れども何共御意なかりけり。左近は宿所に打籠り、時節を待ちて居たりける。其の後光高公御入国被成、右の通り仰付けらる。何れも御尤と申しけり。光高公宮腰口へ御鷹野と触れければ、皆御供中も揃ひて登城す。稲葉左近前を御通り、長九郎左衛門前へ御出で、安江木町を御通りと披露せしかば、屋敷屋敷より門の前掃除して、左近跡先辻々に足軽番を付け、往来の人を留め、左近両脇・後町には登階子を用意して、近所の人々何かとあらば塀を乗越えんと心懸ありけるが、無異儀左近切腹の掛声聞えければ、扨は事済みけると安堵の思ひをなす。検使も埓明きて登城し、委細言上致しければ御褒美被下、骨折の段御意被成けり。
 
 
同年十月中旬に淡路守殿富山城へ御着被成、大聖寺飛騨守殿と御代り也。其の年の春より富山へ引越す人々には、富田下総・同右衛門・近藤甲斐・滝川玄蕃・松平久兵衛・不破内記・村隼人・同勘左衛門・那古屋蔵人・生田四郎兵衛・岩田勘右衛門・堀田左兵衛・浅野将監・三輪弥市右衛門・堀才之助・蟹江主膳・富田弥五作・秋山左助・入江権兵衛・浅野五郎左衛門・西尾五左衛門・多羅尾勘兵衛・山崎長兵衛、其の外小将・御馬廻・御歩行・御鷹匠、思ひ思ひに作事美々敷造営し、富山繁昌にこそ成りにけれ。新川郡は小松の御領なれ共、御父子の御間也、百塚に俄に御城御取立もならざれば、替地被進御居城也。地子・小物成は小松御馬廻組ありて裁許致しけり。
 
 
寛永十九年正月元旦に御家中の御礼請けさせ給ひ、五日に御能被仰付、人持・物頭御振舞被下。年内より今春権兵衛・春藤勘右衛門其の外役者共罷下り、御松囃子も相勤め、拝領万々目出度御事。追付き御能式三番相済み、高砂より呉服まで七番也。其の内海士一番は浅井紀伊之助に被仰付。光高公の御座の右に天徳院泉滴和尚・波着寺法印着座也。千畳敷の正面に本多房州くゝり頭巾にて着座也。縁通りは御家中の少人数百人並居たり。滝野長兵衛御前の白洲に伺公して、御用とも幾度も承りへんばいす。扨役者共に鳥目・呉服共を被下ければ、小将衆要脚広蓋持ちて舞台へ相続く。奥村河内は舞台の中座に着し御小袖を被渡、大夫より始り、舞台掃掛の孫左衛門まで頂戴す。誠に以て目出度御事申す計なし。斯くて三月中旬に金沢御発駕をぞ被成ける。
 
 
同年五月二日に利常公江戸御発駕、下通り御帰城の所に、小松懸橋の爪又は嶋田の近辺まで、小松の人持・物頭・御用人近御迎に被出けれ共、何とやらん御機嫌不宜御容躰にて、何れも登城被致相詰めける所に、小松に御留守の物頭・出頭人、小松の内にて御目見致しける事御意に不入。扨被仰出は、越中境・善光寺・高田迄も御迎に罷出可申所に、宿に居ながら不罷出事心懸のなき也。いかなる用事も可有事也。江戸より半途までは江戸より送り、国よりは又半途まで可罷出所なるに、沙汰の限り也とて、物頭分は閉門被仰付、結局金沢より相詰る衆、江戸より御供の面々、翌日より被召出御用共被仰付、小松衆は難儀してぞ居たりける。去れ共頓て御赦免被仰出、御用相勤めらる。三俣に御亭を被仰付、或は中土居の御普請、葭嶋の御花畠等被仰付出来す。池上又右衛門・横地善九郎預り裁許す。
 
 
同年七月は、小松町中近在所々の橋詰にて踊ども盛也。利常公被聞召、申分無之様に申付けよと古市左近に被仰渡。奉畏候と御式台の長谷川少太夫・石川治郎助等に申渡し、小道具の小者ども召連れ辻々へ罷出で、猥りに見ゆる者をばしかりて制す。三谷には小幡右京屋敷に相撲ありて、近在の強力者集り興行、見物も夥敷群集す。然る所に黒田頼母は黒綸子に紅裏の投頭巾にて、若盛の事なれば装束美々敷踊場へ出で走廻り見る処に、津田玄蕃子小将二人、若党一人召連れ小松より踊に罷越す。白手拭にて覆面し、振袖長々として大小指し、其の時分のくにやをどり、たんだおオープンアクセス NDLJP:141なきやれ思ふかたへと踊りける程に、諸人面白がりける折節に、頼母は色々のたはふれごとの上にて、ふくめん追取りければ、一人の子小将立廻り、狼藉也と刀を抜き頼母を一討うつ。堀采女後に在合せ、子小将を打留る。覆面とられし子小将、頼母と二つ三つ切結ぶに、頼母に切伏せられ、小将二人は枕ををならべて討れけり。相撲も踊も崩懸りて、小松へ退くもあり、在々へ走るもあり。頓て小松へ聞えければ、馳来る人数は幾千人なり。然れ共頼母は三谷へ引取つて看病せり。此の勢に小松の踊もやみて三谷・小松は見廻談合に夜を明す人々多かりし。明日朝になりて津田玄蕃、是非共御聞に達し、相手を切腹せしめんと云ふ。前田内蔵被申けるは、玄蕃殿の仰尤に候へ共、頼母は正敷御従弟の事なれば、又者の相手に成り難し。兎角御聴に達し御意次第可然と、有りの儘に御耳に被立ければ、頼母は御追放被成、玄蕃には堪忍可仕由被仰出、是非に不及夫にて相済みけり。玄蕃は門番二人成敗し、相添出ださる若党は追放被申付。依之其の年の踊・相撲は止みにけり。子小将一人は大沢惣兵衛惣領、一人は長九郎左衛門給人の子なり。
 
 
公方様より内々上意にて御縁組被仰出、洛陽桂の御所八条宮様へ利常公の姫君おふう様御婚礼の御用意出来し、江戸より九月十二日京都へ御発駕被成けり。奥村河内・熊沢兵庫・石川忠左衛門・森権太夫、其の外御用人多勢御供にて京着被成、目出度御祝儀は相済みにけり。姫君は国母へ被為入御対面被成、御進物共夫々に上げさせられ、光高公より利常公へ、閏九月四日伴八矢を御使者として、御馬代銀五十枚・御樽肴津田玄蕃方へ御披露被遂し所に、御満悦の旨御返書被成、八矢へ銀子御腰物被下、江戸へ帰りけり。
 
 
寛永十七年・同十八年耕作不出来にて在々難儀に及ぶ。是は六・七月丑寅のくろあいの風吹き、草木悉く不実、百姓共喰物断絶して、諸給人に未進多く難儀に付き、小松・金沢在々より百姓共被召寄水問度々の糺明、家財は申すに不及、人馬を代替て取るといへ共更に及ぶ事にあらず。小松には人々手前何程の未進と云ふ事帳面に記奉入御覧、千石に付き二百石・二百五十石・三百石に及ぶ。半納は公儀より御貸米被遣未進に添はせ、半納は捨りになり、何れも是非に不及倹約になり、下々の奉公人は大かた未進の方に罷出奉公す。其の外下々の男女、扶持方のみにて召仕ひけり。江戸より京都の海道、北国筋人馬の飢饉死人、路次にみちたり。十九年の夏金沢米五斗三十二匁の直段、五・三日の間也。夫より当作直り豊年に成りて、暮に至り金沢米五斗九匁宛に成りにけり。
 
 
寛永二十年の春利常公江戸御参覲也。光高公金沢に御入城被成ける。江戸より上使として田中主殿介殿御越に付き、光高公松任まで御迎に御出也。御馳走人として寺西主馬・鶴見左門也。堤町浅野屋にて御馳走申す計なし。追付き被罷帰、とや角とある内に、十月にもなりぬるに、光高公の御前様御産の催しましますよし、江戸より日々の御飛脚にて、早々御参覲可然旨御内書有之に付き、俄に十月二十二日御発駕被成、昼夜共に御急ぎにて、七日の御道中、同二十八日に御着府ありて、追付き御登城被成。公方様一入御機嫌能く御目見も相済みけり。御城より御上屋敷へ女中方の御見舞、乗物・騎馬櫛の歯をひくよりも繁く、御奥方・御表座敷御出入衆、昼夜御老中御一門方の御見舞、御門外は馬の立ち所なし。十二月十六日御安産にて、殊に御男子御出生、上下の悦大かたならず。御抱守吉田覚右衛門・渡部左兵衛・今井左太夫・今村勘右衛門被仰付。則ち御名を犬千代丸様と号し奉り、囲繞渇仰言語に不及。御一門方其の外御念頃の御大名並に御家中より、御腰物・御産着・樽肴進上也。御分国中万人の大悦、家々の推賞万歳を唱へ奉る計也。
 
 
同年秋小松葭嶋の内宮部弥三右衛門御番の留守に、妻女うたゝねしてありけるを、腰元の小女郎十四歳に成りけるが脇指をぬき、右のほうさき一太刀打つ所を、外の女共聞付けて小女郎を捕へ、近所の者を呼びて手負をかんびやうし、其の内に弥三右衛門罷帰り吟味する。子息市郎右衛門は御小将の内にて御供也しが、母存生の内に逢はせ被下候様に組頭へ願ひければ、江戸より御暇給り罷帰り、母存命にて様々看病致す。彼の女は籠舎致させ、療治様々するといへオープンアクセス NDLJP:142共終に死去致しければ、跡ををさめて法事執行し、忌中も相済み、彼の女を取出し糺明して、同類又は頼みし者を尋ね、様々の呵責に苦労を致してありの儘に白状す。人に頼まるゝにもあらず、同類も候はず。日頃此の内室厳敷人を召仕ひ、少しの事にも手荒なる事度々にておそろしく存候処、去る方より音信に菓子到来す。彼の小女に預け置かれしを、誰か取りけん、又鼠にとられけるやらん、奥方の耳に立つならば例のせめに逢ひなんと存じ、切殺して自害せんと、小者部屋へ行きて脇指取りて出づる由白状す。今江の松原へ馬にのせ連行き、竹鋸に引かせつゝ磔にぞ懸けらるゝ。其の頃年寄りたる者の語りけるは、主人を殺す事八逆罪の科なり、尤重科の事なれば、いか様に呵責せしめてもあきたらず。去れ共命をとらるゝより大きなるはなし。焼がねを身に明き所なくあて、鉛をわかして流しかけ、命有るか無きかと思ふ程にして如此被行事、余り過ぎたるかしやく也。夫をいかにと云ふに、慶長十四年の頃不破彦五郎とて千五百石の身代也。此の内室の腰元にせんと云ふ小女あり。茶を運び内室へまゐらせけるに、折節草紙を読懸り、余り而白くやありけん、其の茶を取りて側に置き、草紙を詠めける所へ、虎毛の猫来り、右の茶を呑みける。やれ此の茶を捨てよとありけるが、猫二足・三足よろめき倒れ、淡を吐きて死したり。不審なる次第とて、彼の女を捕へてきびしく尋ねけるに、茶の間の女彦五郎と密通度々に及びけるが、彼の女尾張町木薬屋丹斎方へ参り、砒霜石と云ふ物を買取り、粉にして茶の中へ入候由ありの儘に申しければ、彼の丹斎吟味に及ぶ。丹斎申しけるは、其の薬を売渡し、みせの端へ出で、毒薬を売渡す由再三呼はり渡し申候。我等一味の儀は無御座と申せども、丹斎並に茶の間の女房・小女三人を牛にのせ、金沢中引渡し、才川泉野にて火罪に仰付けらる。丹斎角頭巾を常にかぶりしが、火焰の中にかぶりければ、後々まで丹斎帽子と申しけり。然るに彦五郎夫婦子供打続き死去ありて、他家より名跡を継ぐと云ふ。又杉江兵助と申す人は、利家公御子小将にて左門と申して覚え目出度かりける。此の家来を城ケ端へ米払に遣しけるに、知行米を売り代銀取りて欠落しければ、彼の者の妻女とせがれ十五歳なるを、才川橋の上坂の上に磔に懸け給ふ。其のせがれ美少年にて、若き者共執心多く、身替りにと云もあり、追腹せんと云ふもあり。毎夜其の下へ行き題目念仏申して弔ふといへり。然るに此の兵助に娘二人あり。姉は大橋外記に縁組し、妹は高畠主膳に妻合す。兵助死去の節、大橋外記子を兵助に被成、家督被仰付けるに、小松にて瘧病を煩ひ早世也。故兵助娘を不便に思召し、大川勘兵衛と云ふ覚の侍村井家の臣也。此の子長八郎を踊子に被召出。随分発明者にて出頭也。彼を兵助後家養子に被仰付、他人の家にぞなりにける。高畠主膳は病死の時、三歳のあぐると云ふ娘に、九里覚右衛門弟十三歳なるを縁組被仰付、主膳に被成けり。主を殺し親をなみする事大罪なれば尤なれ共、怨をむくふには軽きをよしとし、恩を報ずるには厚きにしかずといへり。分際に過ぎてかしやく苦痛せしむれば、必ず其の報ひありて宿敵と成るといへり。其の身にいか様の罪あるやらん、宮部も無心許と申しけり。
 
 
正保元年秋の頃利常公御鷹野の折節、那谷の岩屋を御覧可有とて御出ありける所に、高さ十丈計の石山に、老木・枯木茂りあひ、藤葛はひまとふ。山の間に洞ありて、其の中に観音堂を建て、真言坊主一人花王院と申しける。是を召し縁起を御尋の所に、坊主畏りて縁起の巻物取出し、其の次第を申上ぐる。伝へ聞く、当山は人皇四十四代元正天皇の御宇養老年中の事なるに、越前国雄智の山中に泰澄と云ふ行者あり。此の所へ来り巌の景を見物し、暫く逗留ありし時、朝暮此の山に紫雲たなびき、空中に観世音の像を拝し奉る。泰澄不思議の思をなし、霊仏霊神のましますやと読経して、巌の麓に徘徊ありし所へ、烏一羽飛来り浮石の上にとまり、こゝこゝとつゝきけり、不思議に思ひ石を除き掘りて見れば、御長六寸六分の閻浮檀金にて鋳立てたる観音にてまします。扨こそと思ひ、所の吏官に命じ岩洞に堂を建て安置し奉り、読経通夜せられ、暫くまどろむ夢の中に僧一人来つて。

  加賀の国末久方に守らんと幾世を経てか茲に有けん

此の御夢想を蒙りて有難き思をなし、可然僧を置き社堂を守らしむ。瑞験あらたにましまし、寛和年中に花山法皇此オープンアクセス NDLJP:143の岩屋寺に御幸し給ひ、山の景を叡覧あり。和国に珍敷仙窟也と、則ち此の山に皇居なし給ひ、入寛禅定法皇と号し奉る。其の時分勅使立ちて、左大弁宰相下向也。暫く逗留の所を今に勅使村と云ひならはし候。近郷の山々を法皇御幸あつて御見物度々に及び、少し御歩の所を人恐れて沓をぬぎ徃還す。はだし坂と云ふは是也。法皇崩御の御時天より天蓋下り、御輿の上に覆ひけるを、天蓋橋と今に申候。葬り奉る所を菩提と申す在所是にて御座候。入寛法皇御在世の時三十三所の札所に可被成とて、三十三所の初は熊野の那智、終りは美濃の谷汲にて打納む。前後の寺を取り那谷寺と号し、岩屋寺を改めらる。寺家二百五十ケ寺、又は三百ケ寺に及ぶ事もあり。甲冑を帯する衆徒三百余騎、国中兵乱の節は一方の味方となる。かゝる名所の古跡にて候へども、其の後荒れ果てゝ酒甕・酢壺のかけのみ残り申候と申上げければ、利常公追付き御再建可被成とて、石切の勘七に岩にきざはしを仰付けられ、所々に石灯籠・石堂など作らせ立てさせられ、京・大坂より唐木を御取寄せ、御堂御建立ありて御祈願所と被成けり。かゝる越の山中に無垢世界のあるべきとは誰か知るべき。祈願誠を以てすれば利生あらずといふ事なし。此の縁起御尋の節、御供廻りの人々在所の肝煎方に休息す。亭主の祖母一人百八歳に成ると云ふ。此の祖母申しけるは、我れ信長様・太閤様の御時代より存命仕候。此の谷々山々に大材二抱三抱の木生ひ茂り、日影も見えぬ程にて、寺社の廻廊人違ひありけるを、柴田殿の時分より伐り採りて、小松・大聖寺の用木薪になりて、皆丸山になり申す由物語致しけり。

 
 
正保二年二月十五日未明に、小松二の丸御仮屋より御発駕被成、松任にて御弁当光高公より上げさせられ、御機嫌能く津幡近郷御鷹野被成、日暮に至りて今石動へ被為入、方々へ御鷹匠に御小将一人宛被遣。利常公も芦毛の小荷駄に召され、菅笠を召し、御鷹野に被為出、御餌柄をば武藤少兵衛、鷹匠の仮名を書付け御前へ指上ぐる。餌柄奉行市川五助・山崎市兵衛・小倉四郎兵衛三人預りて、御意に随ひ払ひけり。其の時方々より上ぐる進物は、中川弥左衛門御前へ取次ぎ、前波三郎平・山田九郎右衛門御進物奉行相勤めけり。二・三日石動に御逗留ありて、高岡へ被為入、御鷹毎日野へ御出し、御自身も御出被成、夜詰になりて諸奉行群集す。中村久悦御用共承り申渡す。御餌柄共、金沢老中を始め人持・物頭・小役人等まで何れも拝領す。宮城采女・浅加左京は、瑞龍院様の御墓所石塔の工地を作らせ奉入御覧、繁久寺の差図も究りけり。昔より越中は川たくさんにて橋かけずと、七不思議の内也。大小に付き一つも橋のなき所なるを、悉く橋を可被仰付とて、橋の工地を作り奉入御覧。何れも大川共に舟渡し、小川は歩渡りにて、在々所々の運送御調物を川へ投打ち難儀仕り、常に願の事なれば諸人難有奉存る。英賢様御年忌にも成りぬれば、報恩謝徳の御志広大無辺の御事、末代に至るまで難有と申しあへり。越中に三十日計御逗留被成、三月二十八日江戸御着。卯月朔日御登城、同四日御上屋敷へ御振舞に被為入、御一門中指集り給ひ、御機嫌能く神田へ御帰被成けり。
 
 
三月二十八日利常公江戸御着府の日、光高公板橋まで御迎に被為出、御行列見ゆる時分になり、光高公御馬より飛び下り、御駕籠の傍へ走り付かせらる。利常公も御乗物より下りさせ給ふ。御機嫌能く御着、恐悦奉存由被仰上ければ、其の方御無事珍重存候、早々先へ御越候へと御意ありければ、奉畏候、御先へ罷越可申候、御屋敷には内藤外記・高木筑後被待居候と被仰上ければ、心得て御申候へと御意被成、御乗物に召し御下屋敷へ入らせ給ふ。御門の下に犬千代様御座なさる。利常公御乗物の戸を開かせられ、御言葉を懸け給ひ、御屋形へ入らせ給ひ、御屋敷にて御膳等も相済み、御上屋敷へ御同道にて御着被成けり。同四日御口祝の御振舞過ぎて、翌五日は酒井讃岐守殿正客にて、小堀左馬介殿・酒井雅楽頭殿、其の外御一門方御上屋敷にて御振舞相究り、利常公へも御入被下候様に被仰上処に、昨日早や御祝義相済み、今日は昨日の御困労にて御斟酌に思召すの由御返事被成けれ共、是非に御出被遊、御挨拶被成下候はゞ忝可被思召との御事にて、五日にも御上屋敷へ御出被成けり。酒井讃岐守殿・宮城越前守殿・小堀左馬介殿・溝口金十郎殿・岡田将監殿・松平安芸守殿・織田出雲守殿・中根壱岐守殿・内藤外記殿・高木筑後守殿・前田右近殿兄弟・溝口源オープンアクセス NDLJP:144左衛門殿・同孫左衛門殿・横山内記殿・本多帯刀殿、何れも表御座敷の御振舞、御膳も相済み、御酒宴半に光高公御目まひの心地にて、御正気取失はせ給ふ。何れも肝を消し、興覚めてぞ見えける。安芸守殿御後を御抱被成、利治公は御額を持たせられ、御気付薬・針灸等取々様々の御あつかひ、御医師玄琢法印被召寄、灸治可被成とて寸法のために抜穂を乞被申ければ、青木権十郎心得て元結を引抜き押延べて渡しけり。灸を被成けれ共、次第次第に御面相も替らせ給ふ。御客衆を初め何れもあきれ果て、言の葉もなかりけり。御奥方へも聞えければ、御前様あつと宣ふ。御声の下より、すでに絶入らせ給へば、御薬御気付とてあわてふためき騒動す。今朝の御膳もいまだ不被召上、何れも難儀に存じ奉り、光高公少し御気付かせ給ひ、粥を上り候はんとて御奥にて拵へ、御膳を表へ遣しけり。其の時御前様にも御正気付きければ、御相伴に粥を上らせ給へとて、御局岩崎・今井・松村など取々に進め奉り、少し上らせ給ひけり。御前様御心付かせ給ひければ、是非共表へ出で、御気色の御容躰を御覧可被成と仰せられ、幾度も出でさせ給へ共、女中取付き奉り、御客衆も多く御座候由申上げ留め奉る。暫く東西鎮り返り、人声打絶え、十方を失ひあきれ果てたる有様は、言語に絶する所也。御客衆も追々に立ち給ひ、御一門方は御次に茫然として御詰被成。利常公御一人御歎き入りて御座なさる。竹田市三郎は神田の御屋敷へ人を遣し、御前に人もなし、早々誰にても可被参旨申遣す所に、御屋敷には作事普請等も相止め、上下上御屋敷の吉左右を相待つ所に、竹田市三郎よりの書状来る。石黒権平御留守仕り、御次の間には河合宗仁・福田彦左衛門・出野善太郎、是等も一所に罷りある。別所三平・河口長太郎・山本五郎三郎に早々可被参旨申渡し、何れも御上屋敷へ参りけり。青木権十郎利常公の御前へ出で、謹みて申上げゝるは、乍恐御歎の儀言語に絶し奉る。去れ共殿様左様に御歎被成候ては、下々定めて長夜の闇に成る計に御座候。犬千代様御座被成候上は、御力を被為添候はゞ難有可奉存と申上ぐる。其の時実もやと思しけん、御涙を押拭はせ給ひて、奥へつつと入らせられ、御前様に御意被成けるは、犬千代いまだ幼少也、筑前殿は居不被申、今は御姫より外に便なしと、御袖を御顔に押当てさせ給ひ御歎き被成ければ、御前様わつと計にて、早や絶え入らせ給ひ、惣女中は一度に声を上げ、御殿もゆるぐ計に歎きけり。其の内に御前様の御看病を仕るもあり。利常公は神田へ入らせ給ひて、三日御食事上り給はず、江戸中は御上屋敷・やよすがし馬乗物幾千万、武家・町方おしなべて此の君を惜み奉り、袖をしぼらぬはなかりけり。金沢へ飛脚立ちて、御分国は不及申、道中宿々馬継に上下老若、一子の別れは物かはと歎きしたひ奉る。坂本に御人を付置かれ、金沢並に国々よりの弔衆を帳に付け押留め返しけり。利次公は先達て江戸へ御着府被成、利常公に御目見被成けれ共、何の御挨拶もましまさず。夫より御遺骸を加州へ送り奉る御用意を被成けり。
 
 
尊骸を金棺に納め奉り、金沢へ送り奉る。御供の人々には青山織部・宮崎弥左衛門・脇田小平・石黒左近・伊崎彦兵衛・矢部覚左衛門・氏家久兵衛・加藤半右衛門・長谷川三右衛門・古江五兵衛、其の外御歩行・料理人・板前、御泊御泊にて御霊供を備へ奉り、広徳寺より出家御供し、毎夜御経読誦し奉る。金沢へ御着、天徳院へ移し奉り、御非送の規式相済み、御遺骨高野へ送り奉る。其の時の御供には、金沢より前田志摩、小松より小幡下野と有之所に、下野病気に取結び、寺西若狭に相替る。富山より近藤甲斐、大聖寺より才監物也。其の外御歩行・料理人何れも御供致しける。高野山天徳院にて御法事御執行、御位牌石塔造立し奉り、何れも罷帰りけり。哀なりける有様也。
 
 
五月十日尊霊の五七日の事なれば、五日の法会天徳院にて御執行被成けり。導師の智識は其の頃天徳院泉滴和尚遷化にて、いまだ後住不定。爰に小松玉龍寺の八代目大平山徳岩叟文尭和尚は、恵覚和尚に玉龍寺を相渡し、金沢へ隠居せられ龍淵寺と云ふ、是を導師に被仰付。其の故は第一天徳院泉滴和尚の門弟也。大玄の一派也。此の時節御領国の曹洞宗の智識達を竹篦下になし、祖意の活法を唱へ法問被仰付事なれば、年若なる智識は難成に付き、和尚は其の頃一の大老也。北国無双の智識也。源峯居士・利斎大姉御夫婦の位牌もましませば、前田・横山・今枝・岡嶋家何れも崇敬オープンアクセス NDLJP:145の御事にて撰び出だされ、御廻向こそ執行せられけれ。御戒名は陽広院殿前羽林荘厳天良大居士と号し奉る。御分国は申すに不及、上方の惣録の智識、納経・諷経使僧の群集筆紙に不及、其の外非人施行、獄舎の開関、罪科の軽重押しなべて慈助を施し給ひけり。
 
 
浅井源右衛門は尊霊の御守として、三輪主水に替り昼夜御前に仕へ奉り、其のいとをしみ深く、あるにあられぬ慕執の涙留兼ねて終に追腹せられ、高野山の御供を白骨となりて被致けり。一騎当千と諸人申しけり。小笹善四郎は常に御露地に被召仕、御飼鳥御預被成けるに、或時相役の村雲次郎助と喧嘩をし、村雲を討留むる。切腹疑ひなく思ひしに、光高公理非分明に聞召被分、御助置き被成ければ、身不肖にして先達て御供は推参至極也、誰か御供あるならば二番は我と心懸けてある所に、浅井追腹と聞くや否や追付き切腹す。其の身纔なる者にて候へ共、名は広大に聞えけり。高沢織部・落合勘解由・武部九蔵・磯松左内・水野勘兵衛此の人々は余りに堪兼ねて剃髪染衣の姿となり、尊霊の御菩提をいのり奉らんと、修行にこそは出にけれ。
 
 
江戸広徳寺に光高公の御座敷を以て御影堂建立被成、佃源太左衛門御奉行也。一七日大法会執行せらる。公方様より御名代御焼香を御老中被勤、其の外御老中御一門御参詣夥し。洛陽桂の御所八条の宮様より、御追善として紺紙金泥の法華経如来寿量品御自筆に被遊。御奥書に曰。

右志所北陸道加越能三州之太守菅原朝臣光高三十一歳にして、孟夏初之五日卒去畢。予結嫁姻而経四箱。雖然終未面。哀悼之悲涙深而如海。仍紺紙金泥之一軸書写之而、以霊魂(マヽ)備於牌前、而修菩提者也。

如斯の一軸、天良大居士の御牌前に備へさせらる。

 
 
千岳和尚諷経の日、追善として頌を牌前に備へ奉る。其辞に曰。

加越能三国使君者。羽林次将兼筑前刺史。淹在武城幕下。而奉公労身焦思。一日獲候予接待賓客。遊宴未罷眩暈顕倒而卒矣。嗚呼哀哉。中時不祥気。嗟乎惜哉。不幸短命而徳爵不永保。寔中傷有余。哭慟不足矣。翌日鎖着六骸於棺内。還于加州金沢。便遷于亡母之牌所天徳禅院。終作北部煙畢矣。仍改官名。而号陽広院殿前羽林荘厳天良大居士。供仏斎僧者日爰連矣。仞比丘辱蒙国恩。而寓居城下者年尚。依是倡臨済下一派尊宿。而諷経一場次。以牌中二七字按冠履作追悼頌。以奉献於良公大居士霊前爾。蓋徳死哀活之情見于頌所。庶幾者定中点頭。

陽々即起陰々止    行住坐臥偃事理

誰言昨夜入泥丸    本体如然旡上士

広文館裡合称胥    懶見読残一巻書

抛擲塵労兼妄想    率陀天上大安居

院扁陽広兜率外    観之老少更無頼

若人徳業悉帰仁    堪譏佗兼心胆大

殿中出格羽林郎    便作近臣観国光

可惜征人有余徳    恭謙譲上又温良

前臣堪愛後臣憐    賓客唯如驥走泉

大命俄遷三十一    国民仰面哭蒼天

羽林気勢直還廉    恬淡淤優氏具胆

美誉芳声如介石    山非南地永嵓々

林人野客有能養    恩恵甚深無日忘

短世頽齢士卒愁    簞醪味水此良将

将帥恵山高海深    居常受作視聴箴

臥安綉枕蟒横道    起駕琱鞍虎出林

巌頭松色有今古    老木却栄々木腐

価伝世門少将名    龍鳳終不蔵鱗羽

天生格物致知性    明徳斉家治国賢

雨絶夜深人不見    杜鵑啼月影堂前

良執威権機未倦    托開両手収弓箭

□祥駿馬祖生鞭    老将応言吁我殿

大君請暇辞宮殿    小子譲邦遺契券

会者定離不可哀    脚頭転処常楽院

居士投財去安徃    国人向後有誰養

威権計策聖賢行    不務地広務徳広

士農工賈幾摧膓    三国使君俄弔喪

仁徳宜都二巻石    旱鞭陰矣雨鞭陽

   正保二旃蒙作孟夏四月其日其辰    前住正法現少

オープンアクセス NDLJP:146   林自円成国師十三世的孫千岳宗仭蒲拝

此の外にも追善の詩歌数多ありし也。誠に会者定離の習ひ、哀別離苦の理り頼みなしとかや。

 
 
前田志摩は尊霊別して御念頃に被成けるに、思ひの外御早世ありければ、御いとをしみ深く、世の中物うく思はれ、さまをかへ高野山に引籠り、尊霊の御菩提のみ心に懸、朝夕灯明をかゝげ給ひ、則ち法名了心とぞ申しける。以後には江戸にて草庵をむすびまします。御母の祖心禅尼の存命の内、其の面影をも見まほしき故也とぞ聞えける。抑此了心の母儀祖心尼と申すは、牧村兵部大輔光重の娘也。利家公御念頃なる故御養女に被成、前田源峯の惣領美作へ嫁娶被仰付、男子数多出生也。左兵衛・熊之助・孫九郎三人祖心の腹也。かゝる中をいかなる事にや離別ありて、祖心は蒲生氏郷の長臣町野長門に再嫁也。長門死後、将軍家光公に被召仕、別けて御前宜しく、法躰して祖心とぞ申しける。美作は後に内記と申しける。長九郎左衛門頼連の妹を、後の内室に被仰付、内記死去の後竹嶋に屋形を立て住居ありし故、竹嶋殿と申し、金沢へ引越し法躰して久香院宗伯禅尼と申しける。美作惣領左兵衛又対馬と申しける。安見隠岐聟也。熊之助は今枝民部の聟也。娘一人ありて熊之助早世也。改名は源香居士と申す。左兵衛に男子数多出生、後父卒去ありければ、此の子を長松丸と申して幼少也。孫九郎後見にて家を治め、成長の頃利常公御隠居の二年目に、長松を対馬に被成一万石、孫九郎は志摩に被成て千石被遣。志摩弟長次郎を権之助に被成、其の弟を主水に被成、何れも御知行被下けり。根本長松の御母は利常公の姫君也。佐久間半右衛門方にて取りそだて、後安見へ養子に被仰付、縁組被仰出也。然るに光高公志摩へ別けて御念頃なる故、常々被仰けるは、我が家督申請くる時節御取立可被成由被仰ければ、頼母敷思ひ被申けるに、思ひの外に御卒去ならせ給へば、世をあぢきなく思ひ、又は悲歎に堪兼ねて遁世との儀尤至極とぞ聞えけり。
 
 
家光公は、光高公の北の御方余り御歎き切なりと御聞に達しければ、尤道理至極也、歳の盛りといひ、文武二道にして北国筋第一の大名なり。我等も愛惜愁傷深しといへ共、老少不定の習ひ歎きても詮なし。筑前守もとのわらんべになられたりと思はるべし。同六月十三日上使として酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱を以て、今年三歳にぞならせ給ふ犬千代様へ御家督被仰出、三ケ国御拝領也。此の上は返らぬ執着をひるがへし、犬千代成長を守立て給ふ事、亡父も満足たるべき由、祖心・近江などへ被仰含つゝ、御前様への上使被仰入ければ、流石北の御方も御尤とや思しけん、御機嫌取り直させ給ひて御礼被仰上けり。十二ひとへの紅錦繍の御小袖を召しかへられて、清泰院様と号し奉る。御歳十九歳にぞならせ給ふ。花の盛りをかゝる御事、天上の五衰とは申すべしと、諸人袖をしぼりけり。其の頃御家来の面々寄合ひ歎き申しけるは、公方様御一門数多御座被成けれ共、光高公程の御念頃なる御方なし。先年上様板橋口にて御鹿狩の御時、御一門中・御譜代衆・御大名方皆々出でさせ給ふといへ共、光高公は将軍と御手を引合ひ御物語被成御有様を皆拝し奉り、御威光目出度き御事天下に隠れましまさず。御登城被成節は、御城御式台所々の御番所の歴々何れも蹲踞し、御引馬御先へ立て江戸中御出被成節は、御三家衆よりいかめしく勝れさせ給ひけり。和歌の道に達しさせ給ひ、御慈悲深く御遠慮深し。かゝる名将御隠れ可被成とて、天の告にやあるやらん、其の年の正月歳日の御歌に。

  我ことし三十字に余る一文字の歌によまるゝ年の数々

加様に被遊けるも不思議也。小松利常公浅間の岳の下を御通りの日、夥敷大鳴りして人々驚きあへり。御供中肝を消し、是は御大名にたゝると云ひ習はすが、あやしき事哉と申しけり。いまださとし有之けれ共畧せしむ。

 
 
斯くて清泰院様は恩愛別離の御涙かわき給ふ間もましまさず、若君三歳の御時なれば、何の御弁へもましまさず、御いたいけにおはしませば、御愛想を被成、しばしが程の忘草、露の間の御機嫌も直させ給ひ、御ゑみ顔見奉り、女中方は心よげに安堵の思ひをなすといへ共、まだ晴れやらぬ思ひの雲、心の月も打曇り、時雨るゝ雨に御袂のかわく間もなき御独居の閨の内、杉の板戸の明暮も月日を送らせ給ひけり。殊に只ならぬ御身故、いとゞ御なやみも重りしオープンアクセス NDLJP:147が、閏五月十三日に御安産をぞ被成ける。殊に若君にてましませば、万菊様と奉申て、伴八矢に諸事御用共可承の由被仰渡。金沢・小松より子小将として宮城左平太・佃源八・神戸太兵衛・橋爪長三郎・行山丹助被召寄、若君様に附け奉る。是に付きても母君は亡き人の御事をいとゞ思召出されては、御歎のたねとぞなりにける。忘形見の若君御兄弟ましませば、御頼母敷思召し、少しは御慰の種となり、月日を送らせ給ひける。痛はしかりし御有様、たとへん方ぞなかりける。
 
 
正保三年五月二十日は瑞龍院様御年忌にて、内々より御寺御墓所の御造営美々敷被仰付、御墓所の掃除以下相済み、御茶湯・灯明などの御為に、海老坂の繁久寺を御墓所に御建立被成、御分国中の曹洞宗大衆千人の都合也。其の外諷経の衆数白人、五月十六日より五日の御法事の間、日々夜々の勤行、大乗妙典一部読誦・頓写・懴法・施餓鬼・拈香・法問・朝参・首楞厳金剛般若経、一々次第無残所。瑞龍院様へ御奉公申上げたる人々は、四月二十日より相詰めて御番を勤む。津田玄蕃・宮城采女・市川長左衛門・北川久兵衛四人は惣奉行也。御一門方御焼香、人持・物頭其外不残参詣也。二十一日・二十二日・二十三日は御能被仰付、出家衆見物、又御郡中百姓等見物被仰付、勿論御施行百石、獄舎開関御報謝様々也。
 
 
去年は光高公御逝去、万菊様御誕生、御上屋敷の御事を今枝民部に諸事御談合旁にて、正保三年七月まで御発駕御延引、七月七日に御暇出で、同十二日に御発駕、高岡へ御着の翌日英賢様御牌前へ御参詣御焼香被成、御墓所へも御参詣相済み、高岡に五・七日御逗留、常願寺川の橋台など工地被仰付、追付き御発駕、八月二日に小松御着城被成けり。
 
 
利常公小松へ御帰城、御居間の脇に御座敷建てさせらる。御奉行佃源太左衛門に諸事被仰付、御大工伊右衛門・由兵衛指図を上げ奉り御好出来、早々に急がせ給へば、追付き戸障子絵様ともに光りかゞやく事也けり。其の間に稲垣三之丞、年寄りたる御歩行加藤新左衛門・武部久左衛門など、京都より京極殿と申す女中を具して罷帰り、九月上旬に移徙とぞ聞えける。佃源太左衛門申しけるは、御本丸御居間の脇に明地あり、植木花畠も不被仰付、いかなる御思案やと思ひけるにと語りけり。御移徙の御祝、其の時分骨折りたる者共拝領す。其の節佃源太左衛門方へは、御身別して骨折りたるとて、御樽一荷に巻物二本・鴨一番、加藤新左衛門御使として京極殿より被下由にて持参す。佃承り、京極殿と申す御方は終に近付にも成不申、定めて門違ひにてあるべきと云ふ。新左衛門申しけるは、一興なる申分かな、御輿入の御祝ひ也、頂戴せられ御請を調上げられ候へと申しければ、源太左衛門は、我が心を知らずや、殿様の外に何方より何を申請けたるぞ、早々取りて帰れと怒りければ、新左衛門面目を失ひ罷帰る。古市左近へ其の通り申し達す。其の儘御耳に被立所に御機嫌能く、左近方より可申遣の由御意なさる。左近家老高桑兵左衛門へ口上申渡し、新左衛門に相添へ遣す。其の時佃頂戴して、追付き登城致し御請申上げにけり。其の後追付き金沢より御姫様御迎に被遣に付き御着城、御前へ御出被成、何共物を不宣、息継兼ねて御涙を流させ給ふ。利常公御覧被成、如何成事にや姫は機嫌悪敷ぞと被仰ければ、局御傍にありけるが畏りて申しけるは、恩愛の御中御疎々敷、久々侘敷御住居にて年月を送らせ給ひ、今年十五歳にならせ給へば、一つは御恨敷思召し、又は御対面の御嬉しさかたがたの御涙にて御座あらんと申上げゝれば、利常公もさすが御父上の御事なれば、御容顔もすこし替らせ給ひ、御いとをしみ深く思召し、誠に姫が道理也、先づなぐさませ可申旨被仰出、京極殿へ入らせ給ひ、其の後は御船遊び、那谷参り、安宅の湊の浜遊び、御馳走申す計なし。此の姫君の御母は、鈴木権太夫娘にておこわの方と申して、天徳院様へ宮仕へ奉り、御遠行の後は利常公の御前も宜敷、姫君達を引廻し御奉公ありし内に、御出生の姫君にて、御隠居の前年より御城をおろし参らせ、竹田市三郎屋形へ入れ奉り養育被仰付、いつとなく御成長被成けり。其の時より惣構の門を閉ぢて徃還を留め、明かずの門と名付くる也。小松へ御越の後門開きて、往還自由になりにけり。
オープンアクセス NDLJP:148
 
 
同年九月下旬に本多安房守政長を小松へ被召寄、お竹様を長松に嫁娶の儀被仰出。房州忝く奉存旨御請申上げ金沢へ被帰、夜を日に継ぎて用意出来し、十一月二日に御輿人と極り、御供には岡嶋兵庫・大橋又兵衛・原五郎左衛門・浅野藤左衛門・佃源太左衛門・福田彦左衛門、其の外歩行、女中の輿の添足軽等也。御行列には御長柄、其の次に猩々緋の覆にて鉄炮十挺、御長刀、対の御挟箱、御からかさ、其次に御貝桶、美々敷御作法にて小松を御出被成、松任にて御弁当ありて、日暮合に提灯にて金沢へ入らせらる。本多房州野町の端へ御迎ひに被罷出。町中は御家中より長柄を立並べ、提灯を灯し辻堅め有て、数万人きらめき立ちて房州の屋形へ入らせ給ひけり。
 
 
頼朝の御時本多次郎近恒と云ふ勇将あり。其の苗裔にて徳川家御代々に仕へ奉り、東照宮の御時代に本多平八郎・本多弥八郎両家になり、其の枝葉繁多也。何れも紋は立葵也。平八郎忠勝は天下無双の勇士也。先年長篠合戦の時落書に。

  家康に過ぎたる物は二つあり唐のかしらと本多平八

此の平八郎は後中務大輔と申しけり。忠勝に三子あり。美濃守・出雲守・真田伊豆守内室也。又美濃守忠政に三子あり。中務大輔・甲斐守・能登守也。出雲守忠朝は大坂討死也。其の子を内記と申しけり。又弥八郎をば佐渡守正信と申しけり。正信に三子あり。上野介・安房守・大隅守也。或時家康公被仰出は、自今以後喧嘩仕る者、主君の用を脇へなす大罪也。親子兄弟迄断絶可被成旨被仰出。佐渡守承り、御尤にて御座候へ共、喧嘩は親兄弟の可存にて候はず、御一家も広く御座候処に、誰か喧嘩をば仕出し給はん、是は計らざる所に御座候。唯理非に御構なく両成敗に可被仰付と申上ぐる所に、其通りに被成けり。然るに早や其の年の暮に本多安房・戸田左門氏鉄の弟戸田帯刀と云合ひ、秀忠公の乳兄弟真田嶋之助を意趣討に打ちて立退き、舅の直江山城守方に立忍び、夫まり福嶋左衛門殿へ召に応じて四万石にて在付き、安芸へ被参けれ共、正則異風にして半狂人也、家も久しかるまじとて広嶋を立退き、江州堅田に引籠りありしに、関ケ原合戦の節猩々緋の羽織にて陣中へ切つて入り、石田方を切崩す。家康公御覧じて父正信に、あれは何方の手の者ぞと御尋の所に、佐渡守承り、安房と知りてあきれ、馬鹿者にて候と申上げゝれば、家康公御笑被成けると也。堅田へ引入有之所に、加州より被召に付きて金沢へ参り、四万石領せられしが、其の後一万石御加増也。此の安房守惣領に大六と申す子一人ありて、後は志摩と申しけり。病者故京都へ養生に被参、終に空敷なりにけり。京にて召仕の女に一子を生ず。天下無双の富人石川宗林養子にして跡式を相渡す。病者になるに付きて金沢へ来り、青地四郎左衛門養子に被仰付、青地采女と云ふ。志摩二男を主税之助と申し、本多下野の跡式になり、其の弟丹波は主税之助の跡式になりける、本多帯刀是也。女子一人あり、粟津右近室也。先年御上洛の時安房守御供也。江州膳所の城主戸田左門へ立寄り、酒宴の時酌に出でたる女房を、房州所望ありしに、左門被申は、懐胎致したると聞く、安産して可遣とありしに、房州是を聞き、男子ならば殿へ申して知行とらすべし、女子ならば縁に付くべし、其の儘給はり候へとて金沢へ召具し、是を萱屋殿と申しける。程なく男子出生す。本多刑部とて千石被下置しに、父左門濃州にて死去の由にて、跡式になり戸田采女と申しけり。其の後萱屋殿死去あり。後烏丸大納言殿の娘綾小路中将殿の妹を召寄せ、藤の丸殿と申しけり。此の腹に長松出生ありて安房守とぞ申しける。此の妹は前田対馬室也。父房州死去の後、藤の丸殿法躰して南祥院とぞ申しける。抑御当家御代を取り給ふ根元は、関ケ原・大坂両度の合戦勝利を得給ふが故也。少しもおくれあるならば、天下秀頼公に随ひ申すべきに、此の佐渡守智謀不浅故により、将軍幾度も危き事ありけれ共遁れ給ひ、終に天下を治め給ふ故に、御代々の将軍家佐州を御崇敬、父母の如くに思し召すも理り也。御国へ上使ある時も、大坂筋違等の御普請にも、毎度房州被指出、比類なき事共皆人々の知る事なれば是を略せしむ。