三壺聞書/巻之十六

 
三壺聞書巻之十六 目録
 
安見隠岐の事 二二七
 
オープンアクセス NDLJP:120
 
三壺聞書巻之十六
 
 
 
寛永十一年に将軍家光公御上洛の事なれば、諸国の大名何れも御供の用意有るべき旨にて皆々帰国せられ、直に本国より上洛也。利常公は寛永八年十二月江戸へ御参観にて、中二年御在江戸の事なれば、国元には久々の御留守とて上下待兼ねたりけるに、当四月初には御帰国と相聞え、掃除以下を仕りて、卯月下旬に御着城、御分国の諸奉行日夜登城して申上ぐるもあり、被仰出を承るもあり、御夜詰過までは下馬に市をぞなしにける。扨御城中へ被為出、玉泉院殿御屋形の跡を御露地に可被仰付とて、大橋又兵衛・滝長兵衛などに被仰渡、先づ地形の土をならさせて、泉水などに可被成所の土を町中へ可被下旨御触にて、町中より毎日掘りて取行く程に、頓て谷峯と成りてけり。其の間に御用意出来也。御供中も用意致し、五月下旬には金沢御立ち、船に召して大津の御旅屋へ入らせ給ひけり。
 
 
同年閏七月将軍家御上洛ありて二条の城へ入御被成。此の時内大臣に御任槐あり。二条へ還御被為成、町中大小の家に不限、一軒に銀子百三拾五匁宛、都合五千貫目被下、大坂の町中は先年より諸役を勤めけるを、此の時永代諸役御赦免可被成旨、町御奉行へ御朱印を被下。其の余慶にひかれて、五畿内近国賑々敷、上下万民悦び、延喜・天暦の御代とても是には過ぎじと、千秋万歳の悦び日夜止む事なかりけり。頓て将軍家は御下向ありければ、利常公は大津に御逗留の間に、御旅屋の後湖水の中に石垣を積上げ、嶋を被仰付、上に亭を建てさせられ、子小将共水をあび御亭へ上り、御遊興を催し御機嫌もよかりしとかや。大津にて御材木の御目録御調へ、大工一人に御奉行を付け大坂へ被遣、何程は江戸へ廻し、何程は宮腰へと被仰渡。是は江戸にて御屋敷の御用意と、玉泉院殿丸にて御露地又は二の丸の御支度と聞えけり。先年御上洛の節は本国寺に御入ありけれ共、此の度は大津に御座被成、毎日御通ひ被成けるが、早速御帰国ありて、御休息の間もなく玉泉院殿丸へ御オープンアクセス NDLJP:121出被成、御普請仰付られける。
 
 
金沢へ御着の翌日より御普請所へ毎日御出被成、京都より被召寄たる劒左衛門と申す山作りに被仰付、築山・泉水・御亭等の品々前代未聞成る御事也。能州より宮腰へ大石共着岸す。五百人・千人宛しゆらにのせてとらせらる。其の石一つ宮腰道の半途にて角欠けゝれば其の儘捨置きぬ。御家中より植木共指上ぐる。鶴来山・二俣山・能州より在々所々尋ねさがして、かゝりの能き栽木・石等を被取寄、御前に於て御直に被成御普請なれば、其の日の承りを以て諸奉行勤めける程に、惣御奉行は殿様なり、人足は御相撲の者五十人、百人者と名付けて御鉄炮の者共也。御目通の外は役人御小人也。百人者と申すは、去る寛永七年に御本丸の御露地に御数寄屋被仰付、其の時御鉄炮の者の内を器量の若者共百人選りて、諸の足軽役御免被成、佃源太郎を頭に被仰付、御前にて御直に被召仕。何れも出頭仕、有り度き儘のだてを致し、余り御懇の故に大橋市右衛門に被仰渡、一人に銀二百目宛御式台にて被相渡、利なしに被仰付。是を式台のなげかしの二百目銀と申しける。江戸詰致し候は、中飯扶持とて一人半の御扶持方被下、出銀の心持に七俵米を下さる。然るに佃源太郎、余りに難有被成様也、御供中に一人半の扶持の者又もなしとて、一人分に致し半扶持取上ければ、目安にて歎き申由百人者共詮議致しけれ共、内輪より返忠の者有りて佃に告ければ、夫も不叶成りにけり。然るに此の百人者と御相撲取五十人と、軽々敷出立にて御意に随ひ働きければ、頓て御露地出来す。其の内に御指図極り、二の丸千畳敷の御殿を建直させ給ふ。御急ぎ被成ければ、古今無双の御屋形、今に於て御材木を見るに付けても、類有べきとは思はれず。
 
 
此の九郎左衛門は露地ずきにて、居屋敷に山を築き作木を植置き、毎夜たゝき槌を以てたゝく事、紅葉を誘ふ秋の風身にしむ頃の賤の女の磁を打つより甚し。既に山作りの九郎左衛門と皆人申しけり。然るに玉泉院殿丸の御普請半の夏の頃、大わらはにかしらを撫付け、丸腰にて柿の惟子を着し、御前をさして参りければ、御前御覧被成。何れも寄りて捕へ様子を聞くに、狂気と見えてわけなき事を申しければ、其の由御耳に立ち、中村喜兵衛・多田権内を被指添、宿へ連行き、九郎左衛門家の内に牢を作り被召籠しに、昼夜独して高声なる口説事、人の悪口など申し、或時は謡・小歌などにて、近所の父子兄弟ある者は聞かれぬ事を申しけり。其の暮に成り寒中に着たる衣類を喰ひさき、凍死をぞ致しける。常々親に不孝なる事言語に絶えたり。老母は明暮血の涙を流せしが、終に食物を留めて殺しける。かゝる悪逆の因果其の身に報いけると、皆人にくみあへり。
 
 

寛永十二年江戸城二の曲輪の惣構の橋台は、石垣にていまだ手もあはざれば、天下の諸侯へ御頼みにて、一ッ橋より雉子橋・神田橋・常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋・姫御門・幸橋までの堀の内、皆石垣に丁場を割付けて、国々より奉行・人足群集して築立て出来す。加州より右の外に筋違橋の升形を石垣に築立被成ければ、利常公・光高公・宮松丸様毎日御普請場へ出でさせられ、手々に手木を持給ふ。手木の柄を菖蒲皮にて包み、中にも宮松丸様いまだ御幼童なれば猩々緋にて巻きにけり。加州より人持・物頭・小奉行数多罷越す。三ケ国の役人を伊豆山へ与力共大勢被遣、石を切らせ舟に積廻し、霊岸嶋・八町堀・深川近辺へ寸地もなく上げ置きて、車にて引くもあり、しゆらにて引付くるもあり。珍らしからぬ事なれ共、本多房州政重・横山城州長知は、御老中・御目付衆に対し挨拶共言語の及ぶ所にあらず。将軍家も出御ありて利常公御父子へ御懇の上意也。本多・横山両人へも骨折の御目見被致、比類なき面目也と諸人申しあへり。此の時浅草の升形は細川肥後守殿に被仰付、同年に出来す。かゝる御開敷折から、利常公の姫君おまん様を松平安芸守光晟公へ御嫁娶の御用意も出来し、首尾能く御祝儀相済みけり。則ち将軍家の御養女として、上様より御取持衛被成けり。加州より御家老として高畠善太夫・吉野三左門・入江長兵衛、彼是数多附けさせ給ふ。西国一の大名也、二代の御縁者にて、利常公御機嫌不大形おはします。此の年まで方々銭づかひにてありけれ共、関東北条五代の間は永楽銭を鋳出し、関八州までに是を用ひ、国々所々にてはオープンアクセス NDLJP:122やりし銭ありて、他国にては用ひ難し。後には末々に成りて、新古の上銭・悪銭見分け難し。北国筋には曽て銭を見知らず、関東銭は水戸銭とて人嫌ひ、又坂本にて鋳出すを坂本銭とて又嫌ふ。如此に有りければ、天下一統に可被成とて改め、寛永の銭を鋳させられ、一つ形に成りければ、今まで銭遣ひのなき所まで一統に成りけり。寛永にさへ後々は善悪有りけれ共、遣ふに損徳はなし。

 
 
同年五月九日暁方に、河原町の後より出火して、才川河原町・竪町・川南町・石浦町・堤町・尾張町・新町・中町・寺町・大鋸屋町より、田井口へ押廻し、浅野川人持衆下屋敷共悉く焼失す。其の時町中を惣構の外へ屋敷替被仰付、町割・侍屋敷作事等年々に相済みけり。
 
 
寛永十二年六月上旬の事なるに、金沢御馬廻の内飯尾権右衛門妻女死去す。浄土宗なれば卯辰山如来寺にて葬送す。権右衛門は禅宗にて宝勝寺の旦那也。殊に亡者は前田出雲姪也。千岳は出雲と懇意なり、旦那也。旁よしみあるに付き諷経に出でらるゝ。如来寺立文和尚は亡者の導師にて、引導の終に喝を高声に唱へて松明を投懸けたり。千岳聞き、浄土の一喝珍敷事哉と思ひながら帰寺せらる。一七日は如来寺にて法事執行し、二七日は飯尾宅へ千岳和尚を請じ法事執行し、斎を施し茶の上に咄に成る。千岳語りて曰く、今度如来寺一喝を示す、是に二ツの遠慮有り。禅宗に唱へる一喝の事、初祖臨済恵照禅師より代々血脈伝受を以て我が宗に一喝を行ず。尤秘法とす。然るに如来寺他の妙語をかり用ふるにや。又我が眼前にある故に、拙僧に聞かしめんとて広言にてや有りけん。両様共邪気の致す所也、正道にあらず。引導の儀は指置きて我が広言を専とす。沙門の上には嫌ふ所也。我智我見我愛我慢は諸法にいましむる所の根元也。玄文は随分の談義坊主也。然るに依りて興に乗じて我儘の気出来す。ひとへに法の邪魔と云ひつべしと申されければ、権右衛門は左も有るべきと挨拶なれ共、座中に浄土宗にて亡者の召仕ひし者如来寺の日那にて、頓て如来寺へ参り玄文に語りけるは、千岳権右衛門方へ参りて、一喝の謂れ物語の上に、浄土宗は邪魔外道の法といはれたり。一喝と云ふ事難有事にて候やと語りければ、如来寺俄に気色替り、千岳の売僧めが何を知り申さん。三体詩・江湖集・風月徃来など読覚え、児童におしへて世にもてはやす也。一切衆生を成仏の他力大乗の事は何と知るべし。大海と一滴水程の相違也。中々の事を申す小僧めやとさんに怒りければ、早や方々に取沙汰す。去れ共さしての事なかりしに、頓て八月上旬に、時正彼岸の初日より結願の畢まで、千岳誹謗の談義止む事なし。聴衆に向ひて悪口千万思ひの儘也。毎日の聴衆方々にて参談す。互に浄土・禅宗へだてに成りて、武家・町方所々家々にて批判宗論夥敷、木刀を以てたゝきあふ所もあり。男女の間に申分出来し離別するも有り。歴々の参会に必ず此の如来寺千岳の咄申出す事、喧嘩のもとひ也とて遠慮して止みにけり。千岳より度々使僧を以て論談に及ばんと申遣す。宗論を企て是非を究めんと老中へも相談有りけれ共、江戸の御普請に付きて両殿も御在江戸也。宗論の儀は江戸へ言上し、御下知に依りて判者を呼下し、其の上の沙汰也。去れ共権現様より天下の宗論御制禁の事也。其の上教相の法には他をそしり、我が宗を建立せんと愚昧の尼人道を済度利生する所の法なれば、千岳等の輩聞立てゝ宗論せん事幼童の機に似たり、構ふ事不可有とて公儀の沙汰は止みけれ共、下々には余事を止めて、此の沙汰のみにてかまびすし。千岳両度書札を以て如来寺へ問訊すといへ共返簡なし。依之千岳近日如来寺へかけ入りて問答せんとある由、世間に其の沙汰隠なし。如来寺には、爰はと云談義坊主・口利共寄合ひて、我にまかせ人に任せと、聖教闕疑明目等を披き、祖師の言句を書出し待請くる。かゝる所に千岳は普明院へ咄の為に乗物を催すに、千岳こそ如来寺へ発向すと、金沢中僧俗共如来寺へ充満す。如来寺も誠と思ひ、一宗悉く来集す。千岳は何の心もなく金首座より帰寺致されければ、浄土宗には千岳臆して半途より帰ると沙汰す。七十五日も過ぎけるにや、ひしと其の沙汰止みにけり。此の節千岳の書翰には。

仍啓。夫仏法者。始于身毒流支那。自支那渡倭国。雖白地凡夫靡不知之。故吾仏心宗者。覚知従支那流伝之諸経諸録。而窮其奥義。随縁化度利生焉。故吾宗行棒下喝者。自世尊拈華迦葉微笑以来三十三伝。到天鑑禅師。自オープンアクセス NDLJP:123爾南岳馬大師百丈黄檗臨済的々相承。盖碧落碑旡贋本者也。尤自臨済師祖以前。雖一喝話頭有之。以臨済四喝為仏心宗眼目。故不泄于師弟授受外。于然去夏六月上旬之節。因為檀縁遠行令諷経之処。行吾臨済門下喝去。即可令穿鑿処。却如汚口相似。以思惟了。今秋彼岸於胡説乱談座。為魔魅好人家男女歟。抑為雪自己屈辱歟。切喚予名信口乱道去旨。旡貴旡賤露顕者也。這箇且措浄土宗。一喝自那裡得来。的々相承旨。回章分明証拠看。若又不然於浄土門下。可為掠虚頭漢。儻云吾宗喝。被他獅子皮。作野行鳴者也。事々雖多不宣。

  乙亥秋八月下澣日    宝勝寺  千岳判

    如来寺 蒲右

重啓意趣者。去六月上旬節。就于檀縁逝去。令諷経処。慚愧比丘引導節。明々行一喝。当其時浄土宗。行一喝証拠可令穿鑿処。有所思而忍之矣。翌日遣紹介。雖可尋行一喝的旨。以賊過後似張弓而臆止矣。然后吾已向人道。浄土宗行一喝事必不可有之旨。雖載先書了。夫一喝従恵照禅師以前。雖有之以恵照禅師四喝。為仏心宗根源。自興化嗣紹以来。至今血脉不断。四海八蛮到黔首輩。靡不知之。何等人伝他家乎。徒浄土宗行一喝。借婆裙子拝婆年者乎。又馬牛襟裙者乎。尋常於十字街頭。捨閉閣抛家不用他法之旨。胡説乱談当化度利生時。何用一喝也。浄土宗一喝従碧瞳大士。的々相承諸祖師内孰為師去也。分明為研窮。以諺先書申達之処。琅々劈破了諸経諸録或儒老於日域風儀亦終未審之如何々々。雖然浄土一宗家風也否分明証拠看若又不然自五家七宗。的々相承無之者必乎。又如片簡文章於浄土門下呼為佶屈贅牙者乎。又以雕虫伎倆難酬之故乎。

第一使僧捨正路趣邪路。是又浄土宗風儀也否。一喝相承旨乞附在楮国先生舌頭則。以一問一答可為研窮肯。豈是不捨正路趣邪路哉。

第二使僧文字不用之。唯乞検使以語言三昧。要商量一大事因縁。似而不相似焉。然則釈典以何窮明去乎。夫文字入于仏祖不伝蘊奥之階梯也。故文字則菩提。菩提則文字矣。不用文字則。浄土宗的的相承諸録于世用之是何事也。然則浄土宗諸録。仮使雖有。一喝相承如何為証拠去。

第三使僧互乞検使。可遂法問之旨。与第二使僧。自可乞検使。舌頭已異了也。大与釈典説白雲万里。豈不見之也。十戒説雖三歳孩児己知之了。恁麼則称破戒比丘者不汝而誰也。於意云何金仙一代時教。為除三界衆生。処妄虚念虚言故也。汝以如此心。向善男子善女人。胡説乱談。縦弁如懸河皆是造地獄業也。令三界衆生。本来清浄心。却驀直引入阿鼻獄者也。未能入自己清浄神妙不測之処。而如何救迷倒衆生得去。汝雖得如来寺号。不具如来正法眼。是道外道寺可乎。

第四使僧不可乞検使之旨。拍手胡盧了。与第三使僧。天地懸殊。帰咎於使僧以悪譲他。是則一口両舌沙門也。縦生身堕在泥犁去。豈変諾詞哉。虚誕之説。已載第三了。第五使僧若無検使。予不可一問一答否事。夫仏法商量。以人我不可争之唯以正法与邪法決勝負矣。若不得弁別正邪底漢。争決是非乎。

右一絡索。畢竟為令乞検使也。再三以使僧。雖申達不点頭故也。縷々是雖多不遑枚挙不宣。

   乙亥仲秋廿八鳥         千岳

    玄文

其の比此の書札方々へ写し取りて種々様々に論談す。方々にて俗人共の宗論に、片腹いたくをかしき申分其の数多く有之といへ共略せしむ。禅宗の内に、いはれざる千岳哉、加様に一喝の貴き故に借用ゆ、猶以て喝の理高しといふも有り。浄土宗の内に、如来寺一喝を唱ふる事玄文狂気故なりといふ智識有り。わざと寺号を顕さず。

 
 
寛永十三年に朝鮮国より公家・武家の上官等上下百人余、宗対馬守跡備にて長崎より江戸へ参観有りて日光山へ参詣也。献上物已下異国の珍物山の如し。道中等にて色々の御馳走甚し。宗対馬守謀事にて、罪人共を成敗して朝鮮人に是を見せしむ。恐るゝ事たとへん方なし。頓て御暇を被遣帰帆を遂げしむ。扨加州には本多安房守政重宅へ人持寄合として何れも集り、安見隠岐へ御意の趣申渡し、夫より直に人数を附け、能州嶋八ケの内向田村へ蟄居被仰付、御扶持方三拾人扶持被下。五・六ケ年の内に病死也。哀成る次第とオープンアクセス NDLJP:124て諸人涙を催しけり。右隠岐盛の時分は右近大夫と申しけるが、森右近大夫殿に差合ひて隠岐と替へらるゝ。第一武道の覚隠れなく、鉄炮の一流を究め、弓馬の道残る所なし。弟に伊織と申して、是に千石扶持せらるゝに、伊織病死の跡無相違子息名跡に立てられけるが、此の時高野山に引入り出家す。此の妹は安彦左馬介に嫁娶有りけるに、左馬介伯父何某、蜂須賀阿波守家老成賀主計と申分出来し、公儀の御沙汰に成る。依之左馬介妻女を安見隠岐へ相返し、家内を掃除し畳の表替などして、番具足等まで飾置きて、伯父の方へ見次として立退きけり。其の翌年安見身代果てたり。此の父は安彦左太夫と申して、浅井縄手七本鑓の内也。是に四人の子有り。惣領左馬介二男五郎兵衛、三男兵部、四男八助、何れも御小将相勤め、後に御馬廻に成りけるが、二・三ケ年の内に病死にて、左馬介一人残りけるが、是も右の通りに成りにけり。安見隠岐は誠に目出度士也とて、一万石の身代にて、外に四千石与力を附けさせ給ひ、利常公の姫君佐久間半右衛門方にて御生立被成けるを、隠岐養女に被仰付、漸く成長の時に三代目の対馬前田左兵衛と申す時嫁娶被仰付。此の出生の子をば長松丸とぞ申しける。かゝる御事なれば、いか様の儀有之てもさして災もなかるまじき事なるに、加様に果て給ふ事の不思議さよと申しける。安見家来の者落ぶれてありけるが語けるは、各御不審は尤也。覚の家は隠もなく、御縁者衆横山・今枝・前田党の御家何れも御懇意なれば、其の威に任せ我意も出来致しけるにや。光高公江戸へ始て入らせ給ふ時、安見を執権に御頼みの処に、達て辞退被申、終に被参ざりし。依りて今枝民部を被召連執権せらる。追付き上様御成の時、民部七千石の上に二千石御加増にて、九千石に成りにけり。又幾程の目出度き事のみあるべし。又寛永六年に、高岡に於て瑞龍院様御十七回忌に江湖を御附け御弔被成ける時、安見御奉行被仰付。其の時非人に施行百石御命日に当りて被下ける。其の中に肥躰なる男あり。是を捕へひそかに刀だめしに被致。誰も知者なしといへ共、悪事千里の習にて、達御聴けるやらん。又先年筋違橋御普請の時、加州より役人共を伊豆山へ被遣石を切出す。伊豆普請共申しけり。此の時役人数十人伊豆山へ被遣、伊豆にて下奉行へ相渡、役人頭の足軽金沢へ罷帰り飯米の算用被申付しに、引負ありて牢舎被申付。此の足軽の妻女は春香院殿の仕立の女也。成長の頃安見足軽頭の女に春香院殿より仕立被遣。就夫春香院殿へ彼の女参り、御詫言被成可被下旨申すに付きて、御詫言被仰人といへ共、安見承引なかりければ、妻女の儀は構ひあるまじければ、此方へ返し被申候へと被仰入。安見聞きて、女も挿へて牢舎させらる。春香院殿より、女の儀牢舎は希代なる仕合なり、早々相渡し被申候へと再三被仰遣。安見返事に不及、夫婦共に成敗し、剰へ妻女の死骸を村井出雲前なる惣構の堀へ捨てらるゝ。春香院殿女性の御事なれば、御憤深くして共に死なんと御歎あるも理也。其の後大坂鑓の吟味の節、西尾隼人と争ひ不首尾也。加様の儀達御聴、流刑被仰付義御尤の仕合也。近年福嶋左衛門大夫殿・越前一伯殿・駿河大納言殿・越後上総殿、何れも御当家の御一門の統領といへ共、御政道に私なし、心の欲する所にしたがへ共のりをこえずと古人の詞もありとなん。隠岐殿計に限るべからずと語りければ、何れも舌を振ひけり。誠に此の物語申しけるは、遠きを考へたるにや。今枝民部は、光高公御家督御取被成に付きて二千石の御加増にて、一万千石に成り、天下に名を得て御家を治め、其の後綱利公の御代に成りて二千五百石の御加増ありて、功成り名遂け隠居被仰付、末代の面目なりと諸人美みけり。
 
 
大納言様の姫君にてましますを村井飛騨に御嫁娶被仰付。此の村井と申すは、元祖村井玄蕃允長忠若年の頃より仏神に帰依す。其の中別けて愛宕山大権現を奉信仰、毎年三度宛尾州より愛宕へ参詣す。或時の瑞夢に、汝がせがれ英雄の相ありて千万人の大将たるべし。故に諸人に秀て出頭し安楽ならんと御示現を蒙り、則ちせがれ長八郎に申伝置く。長忠病死の後長八郎を被召出、代々前田の長臣也。前田蔵人殿御代に、幼少にて親の名跡也。然るに利家公の御目に入りて、蔵人殿より御貰被成、御近習に被召仕。時に拾四歳也。永禄年中に長八郎廿歳にて、大河内合戦に一番鑓てに首を取る。其の時利家公御意にて、又といふ字を被下、村井又兵衛と云ふ。その後度々の武勇初巻に記す通り也。後には叙爵して豊後守と云ふ。嫡男を村井左馬と申しオープンアクセス NDLJP:125けるが、後には飛騨とぞ申しける。豊後は秀吉公に御目見致し、度々御懇の上意に預り、家盛也。先年利家公の姫君お千代姫と申すを、長岡与市郎殿へ御嫁娶相済み、其の後明智乱の節子細ありて利家公へ御引取被成。此の時村井豊後足軽・小人等召連れ、長岡殿屋形へ行き姫君を御輿にのせまゐらせ、下々の御供廻り御道具以下取持たせ、利家公の御屋形へ入れ奉る。則ち此の姫君を村井飛騨に被下、嫁娶相済みけり。然れ共夫婦の御中に実子ましまさず、織田河内次男を養子被仰付。是を出雲と申しけるが、悪行甚しくして狂気の心出来す。依之子息兵部に家督被仰付、出雲は能州嶋の内鰻目村にして、十村肝煎太間宅に屋形をしつらひ置かせらる。飛騨内室法躰有りて春香院殿とぞ申しける。御死去の時分、利常公毎日御見廻として入らせられけり。兵部は長九郎左衛門連頼の聟に被仰付、出生の子を藤十郎と申しける。村井豊後弟村井勘十郎は、利家公の御子小将にて、後には大名にも可被仰付出頭人にて有りけるが、其の頃世間に若道専らはやりて、上下共に男の道とて命を捨つる者多し。藤堂伊勢守殿子小姓武井主水に念頃の者あり。或時主水病死せり。彼の知音の男追腹を致しけり。此の男は正しく内府公の御内の者の由也。此の事を聞き伝へ、さりとては頼母敷心中かな、若き者には煎じて飲ませ、それと念頃せば面白からんと云ふ取沙汰のみの折節、村井勘十郎念頃の若衆瘧を振ひ病死す。村井も共に死してもあかぬ中なれ共、歯骨を取りて高野山へ引入り、供養念頃に致しけり。利常公の御代になりて、勘十郎存命の由御耳に立ちて被召出、利治公へ附けさせらる。其の子孫今に大正持に有之ける。
 
 
寛永十三年の秋の頃、御領分在々所々百姓困窮に及び、免乞の訴状止む事なし。御公領・給人知共に過半未進出来し、諸代官難儀す。其の先の年も毎年の風俗に随ひて免合差引被仰付御宥免有りといへ共、此の年は漸くに農民行詰り、御公領・給人知の百姓を召よせ糺明すといへ共、百姓蟠るにもあらず、自然に百姓行詰る由御耳に立ちければ、利常公は奥村因幡・津田勘兵衛に被仰出けるは、毎年高・物成を極め置きて、旱損・水損見立次第に宥免す。当暮は故なく自然に土民困窮す。過分の未進心得難し。代官共手前吟味可仕旨被仰出。両人畏りて宮城釆女・本保大蔵・奥村源左衛門、其の外勘者共奥村因幡方へ集り、代官共手前御算用聞届ける。津田勘兵衛は、在々所々より、代官手前非分の儀有之ば目安を以て言上仕れ、御聞届可有之旨御意也と申触れらる。氷見五郎左衛門・井内清兵衛は御領分在々所々を走廻り、諸代官は申すに不及、寺社・町方等より金銀米銭借用仕者、元利年月に貸主を書き記し、十村肝煎より組中の帳一冊にして、又村切に小百姓共帳一冊に調へ可上之。過分の借銀有之者には、過分に免を可被下。又借り物も御吟味の上を以可被下旨、両人触廻りければ、其の年の暮より春へかけ帳面調へ指上ぐるもあり、目安所々より指上ぐる。其の中に、下谷長左衛門非分沙汰の限り也。手前の金銀米銭を一年の利足三割・四割に貸付け、年貢を以て引取り、公儀の御収納を明けて未進とす。或は貸付の手形を兎や角と申して不返して、二・三度宛取りて、田畠を作らせ我が用所となし、其の年貢入用を未進に引次ぎ、公儀の御蔵へは手前より不入して明置き、種々様々の押領あるに付き、百姓共目安を以て言上可仕と申す時、下谷も道理なき故によわりて、五拾石・百石の未進をとらせ、又は朱封銀百目・二百目充是を百姓にとらせ、漸く宥め置く。下谷甥に馬瀬六左衛門と云ふ者、則ち下谷手代也。此の者年々百姓におどされ、長左衛門が百姓にとらせし米・金銀を帳面に記し置き、御吟味の時其の帳を長左衛門わやく帳と名付け奉行所へ指上ぐる。其の外郡中町方へ貸方多く有りけるを、暮より春へかけて矢野所左衛門・久保清左衛門に被仰渡石川・河北両郡の下谷借物元利取立てさせらる。手代両人召置き、足軽・御小人召連れ在々所々にて糺明して、証文手形次第に取立つる。能美・江沼両郡は吉田伊織、能州・越中其の所々の郡奉行に奉行人指加へ御吟味有りて取立つる。下谷は男子三人一所に拷問の上に御成敗被仰付。金銀闕所ありて難渋の民共に被下、未進等を補ひ、難有奉存けり。御領国中土方領分・長九郎左衛門領分を除き、其の外より借銀帳共上りければ、誓紙を以て武家・町方・寺社方・後室方・幼少衆、私銀・念仏講・神明講の打入銀まで書上ぐる。条数書を以て人持・物頭等へ被仰渡、十村頭十組・二オープンアクセス NDLJP:126十組宛の帳面相渡り、清帳調べ差上ぐる。第一諸代官の私貸、下代共の自分貸、山奉行・郡奉行・浦方諸奉行・町奉行・道橋奉行・検地奉行、上代三代の貸方也。其の外大橋市右衛門貸方、笹屋宗栄貸方、御供田村三郎右衛門貸方、吉兵衛貸方也。吉兵衛は御供田村三郎右衛門せがれ也。其の外物役にかゝる程の者の貸方を類寄せして、十村一人組切に清帳調へ被指上。大橋市右衛門・笹屋宗栄は、先年手前不如意の時、御助成の為に拝領被仰付、郡中へ貸付利足を取つてたそくとせしを、此の時節御取立可被成との御事也。御供田村三郎右衛門貸方は、能州嶋八ケは村井代々知行せり、三郎右衛門春香院殿へ取入りて貸付け、倍々の高利を取り八ケ悉く倒取す。依之右役人共の貸方は、少の軽重ありといへ共、下谷長左衛門業に同じければ、公儀を軽んじ私用を重くせる事曽てなきにあらず。裁許の徳に依りて家を富ましめ、紙手・綿手・薪手・炭手・鰤手と号し、金銀貸渡し、出来次第に取立て、夫に利潤を附けて方々へ売渡す。皆土民より取上ぐる事なれば、年々の利足に上り、収納の所は脇になし、百姓難渋せしむる事、是れ皆奉行人年久敷勤めて、用人に馴れて入魂の故也。向後諸奉行一年代りと被仰出、諸代官上りて与力共を代官に被仰付、少し宛裁許す。手代を召置き申度由言上するに、殊の外御機嫌悪敷成り給ひ、何の手代ぞ、已等直に仕れと仰出さる。扨諸代官手前の引負露顕して、米五百石・三百石宛指上ぐるもあり。銀五十枚・百枚宛上ぐるもあり。田内小右衛門は是非に不及浪人して江戸へ参り、祖心に扶助せらる。祖心の父は牧村兵部大輔殿の家来筋なる故也。
 
 
右の通り人持より調上ぐる清帳を、江沼・能美両郡は吉田伊織、石川・河北両郡、能州にて羽咋・鹿島両郡・嶋八ケは矢野所左衛門・久保清左衛門、奥二郡は宇出津の町奉行、越中砺波に五ケ山・氷見は笹嶋豊前、中郡は高岡の御奉行、新川郡は富山の御奉行也。夫々へ被相渡、奥村因幡被申渡る寛永十一年より以前の貸方元利共に百姓に被下、十二年より以来の貸方去年までの利足百姓に被下、当十四年より二割の利足に手形申付け可参由。各畏り、清帳に百姓より上ぐる帳を指添へ請取りて、裁許へ罷越し、手形仕替へさせたり。代官に遣し置く古手形を人々に渡し、御請を調へ判形をいたさせ罷通る。百姓共難有存じ御請の判形す。品々を知らず有りけるを元利共に被下、同二年・三年両度の貸方三割・四割の利足を又被下ける事数千万。十四年より始て二割に被仰付、敷貸になす事辱き儀尤道理也。扨一年二割と云ふ時は、半年にても十二ケ月も同事なれば、返弁の時に随ひ損徳ありとて、二割を十二ケ月に割りて壱歩七となる事も此の時より始り、御分国の貸方二割年中の割にして、一月に割りて一歩七と御定にぞ成りける。
 
 
諸奉行人の貸方御吟味に付きて、色々様々の公事物語多しといへ共、事永々敷故是を畧せしむ。其の中に大橋市右衛門貸付の手代に嶋金右衛門・落合孫左衛門より借用と云ふ帳面に、銀子弐貫七・八百目も有りけるを、能州子浦に於て十村集りて吟味す。菅原の行永詰め罷在り、組中も寄合ひける。然る所へ年のよはひ五十計の男来り、御奉行へ申上度儀御座候由申すに付き、矢野所左衛門・久保清左衛門対面して、是へ御通りあれ、何の御用ぞと申しければ、私は落合孫左衛門と申す浪人なり。少し手の実を持ちて百姓中へ貸付け、利足を取りて身命を助り申す処に、大橋市右衛門殿下代と私仮名を書上げて公儀へ被召上事、何共迷惑千万に奉存候。大橋殿手代にては無御座候間、借状に御除被下候へと申しけり。矢野・久保申しけるは、定めて御偽は有間敷候へ共、是を見給へとて清帳を取出し、しかも伴八矢より調上ぐる清帳を見せ、大橋市右衛門手代嶋金右衛門・落合孫左衛門、自分貸何程と御算用〆まで有りければ、此の帳面の外は吟味仕るまじけれ共、此の内を除く事拙者心得にていかにして成可申と荒けなく申放す。孫左衛門申す様は、左様に候はゞ何れへ御断申上げ宜御座可有や、御教へ候はゞ御恩たるべきと云ふ。奥村因幡殿承り也と申しければ、私波着寺の法印と念頃に御座候間頼可申候、奥村殿御状申請け参り可申とて、馬に乗りかけ出す。四時分に罷立ち、其の日七つに帰着し、直に奉行所へ参りて、波着寺に対面仕り爾々の事を語り頼申候所に、法印申さるゝは、扨其の方よき年をして迷ひ申さるゝ人哉、御裁許を承る奥村因幡殿・津田勘兵衛殿の縁者一門、其の外御老中・親類のオープンアクセス NDLJP:127中に今度御代官衆数多有之、金子一枚二枚・銀子二貫目三貫目宛代官衆へ合力し給へ共、御用捨成り難し、御手前浪人なればとて誰か用捨せらるべき。其の方出生の時は身ばかりにて生れ給ふが、今まで心易く命助かる事仕合也。今より骨折りてためられ候へと有りければ、御尤とは申しながら腹立ちて、暇乞なしに馬に乗り罷帰り、各様へ御苦悩御免あれ、御裁許宜被成下候へと一礼を申しけり。両人聞きて、左様にあるべく存候、笑止成る事とぞ申しける。然る所に孫左衛門に銀子借りける百姓罷出で、いかに孫左衛門様、去年去々年の利足被下候上は、貴様へ相渡す利足銀御返し被下候へといふ。又百姓罷出で申しけるは、只今は卯月下旬也、先月三月の末に急用とて三ケ月分の利足相済ます、只今御返し被下候へと云ふ。孫左衛門聞きて、済み申さぬ以前こそは其のわけもあれ、済みける物を起し返し申す事沙汰の限りと云ひければ、奉行両人、此の場にて詮儀はにくき百姓共とてしかりければ、孫左衛門暇申して立ちにけり。跡に何れも申しけるは、孫左衛門は子浦に居住して、嶋金右衛門被参候刻、大橋市右衛門殿は出頭人也、御貸方よく調ひ候間、一所に被成貸付給はれと嶋金右衛門を振廻ひ申合ひければ、右の通りに成りにけり。少しもかゝはらぬとは申し難しと語りければ、公儀の事にまじはらぬこそよけれと何れも申しけり。四月上旬に仕廻ひ、所々郡中より罷登り言上仕り、代官を被仰渡、石川・河北・羽咋・鹿島並に嶋八ケは久保清左衛門一人に被仰付、手代三人召置き裁許致しけり。
 
 
寛永十四年夏六月上旬に、利常公黒坂吉左衛門を被召被仰出は、長崎に於て古き唐織の切並に茶の具共調へ罷越可申旨被仰渡、御買手には矢野所左衛門に瀬尾権兵衛と云ふ御徒相添へ可申由にて、両人被召出、御目録にて銀子二十枚矢野、十枚瀬尾に被下。各頂戴致し、御金を馬に附けさせ宰領致し、京都より吉文字屋庄兵衛を被指添、長崎まで海路を経て数日船中に日を送りけり。其の内に船中にて御銀箱の底をくりあけ金を取出したる跡有りて、所左衛門見付け、是は鼠か盗人かと吟味しければ、小刀の切目也。水主・梶取並に三人の家来共吟味しける所に、矢野所左衛門小者也。追付き白状致させ、金を遣ひける間もなく返上す。命御助被成事辱き旨の書付申付け、長崎着岸する迄気遣しけれ共、何の異儀なく着きにけり。長崎にては能登屋権兵衛・加賀屋所左衛門・吉文字屋庄兵衛と何れも町人の名に成りて、長崎・平戸の其の内に無双の古き切共、有るに任せて価構はず買取りて帰国致し指上けるに、御意に応じ、御機嫌殊の外よかりける。矢野所左衛門は彼の盗人を捕へて首がねをさし、長屋に小者を番に付置き、彼の船中にての書付に奥書を加へ、黒坂吉左衛門を以て指上ぐるに、能く仕たりと御褒美有りて、明日早々御成敗可有とて、津田玄蕃承り、夫々の御腰物と所付の札付けて出されたり。十月十三日の事なるに、番人台所へ食物取りに行く跡に、盗人首がねの筒を引きさき、とぢがねをねぢ切りて、窓を蹴破り走りけり。即時に御耳に達して、葛巻隼人・大橋市右衛門・佃源太左衛門・脇田三郎四郎・長谷川庄太夫を召され、番人糺明して請人等しまり可仕旨被仰渡。各々所左衛門宿所に集り、三郎四郎御横目にて、長谷川庄太夫彼番人を拷問せられけれ共しらざりけり。佃源太左衛門は小頭共呼寄せ、其の夜足軽を大正持口・飛騨口・鶴来口の奥までも指遣し、年の齢ひと着物を書付けて相渡す。小松のくしと云ふ所に富田弥五作在郷して有之、家来の者に走人の請人有りとて、其の夜に夫婦とせがれ三人召寄せ口問す。走り人の妻は、加藤石見家老成田官兵衛奥に在之を、大橋市右衛門より呼寄せ口問せらるといへ共、長崎より帰りて逢合ふまもなし。請人牢舎させて其の夜何れも退散す。翌日御分国金山をさがし可申旨被仰渡、加賀・越中の金山をさがしけれ共見出さず。御分国へ御触廻り、捕へ来る者には御褒美可被下由被仰渡けるに、野田山村の百姓に宿をかり、其の夜をあかし、明日早朝に罷出づる旨注進す。依りて寺中の廟堂までさがしけれ共行方なし。番人は如在なきの由にて、御赦免有りて所左衛門に被下けり。請人は三年目に牢にて病死致しけり。所左衛門不調法にて、いかゞ可被仰付やと一門中心肝を悩す処に、程なく暮に成りて、旁の骨折に金子十両拝領し、難有とて安堵の思をなしにけり。其の節道奉行手前より越中道橋の帳面を指上ぐる。其の時所左衛門に吟味可仕旨被仰出、瀬尾権兵衛に銀子十枚被下、吉文字オープンアクセス NDLJP:128屋庄兵衛に大津着米数石に巻物を添へて拝領仰付けられて事済む。此の矢野所左衛門は、天徳院様加州へ御入興の時御供にて罷下り、大坂御陣の御供に参り討死の内也。せがれ牛之助に名跡被下所に、追付き早世す。其の妹娘有りて葛巻隼人姪孫なれば養育し、御馬廻速水武左衛門せがれ八右衛門に嫁娶す。三十人衆被召置時、速水八右衛門を矢野所左衛門に被成、随分出頭申す上御用共を承る。依之奉公だて長じて盗人を取のがし、ほうの仕合に逢ひけり。父武左衛門は富山御馬廻の内にて、富山にて死去し、所左衛門名跡忰に被成、富山へ引越し、新川御郡奉行被仰付しに、木呂の運上銀滞りし故、武左衛門知行被召上、せがれを所左衛門養育してせんごを見届けり。先速水武左衛門は、高畠平右衛門姉聟山田延宗と云ふ者の聟養子なり。兄は尾張の者なり。