三壺聞書/巻之八
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三壺聞書巻之八 目録
利家公射手衆被召置事 八八
朝鮮国より御礼に来る事 八八
異国より黒船着岸の事 八九
家康公内大臣に御任官の事 九〇
岡田長右衛門御茶上る事 九一
東衆所替の事 九一
利家公草津へ御入湯の事 九二
利家公於猿様に御対面の事 九二
伏見にて諸侯和睦の事 九二
利家公御帰国の事 九三
諸侯誓紙被致事 九三
太閤御他界の事 九四
太閤御先祖の事 九五
秀頼公御入城被成事 九六
御両殿和睦の事 九七
【 NDLJP:54】三壺聞書巻之八 秀次公果てさせ給ひて後、大嶋雲八肝煎にて、射手四十人二百石宛被下、吉岡九左衛門・藤掛又太夫に御預被成けり。然るに組中より目安を上げて、組頭を散々に誹る。利家公聞召して御吟味被成けるに、組頭の越度なし。組の者共頭を侮る故也。利家公御意には、射手百人の都合可被召抱とて、方々聞立被召置。吉岡・藤掛両人能き者二十人聞いて言上す。則ち其の二十人を右両人に御預被成けり。右の通被仰付。扨四十人は夫々に分けて組頭を被為付、四十人は奥村河内に御預也。其の時分奥村河内は二千石に与力四千石也。此の与力の内御昵近に被召出者多し。四十人にて八千石、都合一万四千石の図り也。射手共に被仰渡けるは、河内義は家老の子にて弓の上手也。是の以後も蟇目の役也。重ねて組頭に対し異議を申さば急度可被仰付由、岡田長右衛門・神谷信濃へ被仰渡、奉畏旨御請申上げにけり。此の時分の子小姓は村井勘十郎・奥村金左衛門・同与平治・小塚藤十郎・笹原勘六也。名古屋陣の後より小姓中間となる岡田助市・半田十郎・沢崎藤八郎・江川喜蔵・笹原弥助など幼少にて、御奥まで召仕はる。先年越前府中にて子小姓北村作内、能登御拝領の時分中小姓になる。奥村与六郎・神谷木工・今井左太夫・村井長光・富田源六・脇田小五郎などは、金沢にて元服致し、中小姓に被仰付。此の人々何れも比類なき働ありて、以後は大身に成る。其の中に早世する衆残多しと申しあへり。
文禄四年大明の正使参将謝用梓龍巌、副使遊撃将軍両人を、小西摂津守同道して御礼に罷越し大坂に至る。進物として孔雀・麝香・白象・黒象・馬・唐大、其の外の珍物品々山の如く献じ奉る。秀吉公御感ありて御対面被成、御振舞の上に御能被仰付、御暇被下。文禄四年九月十一日に帰帆をぞ致しける。此の時副使遊撃将軍は利家公御宿を被成けるに、諸大夫多く入るに付き、奥村織部は河内守、富田大炊は下総守、木村三郎兵衛は土佐守、岡田源右衛門は丹波守に被成、都合四人出来せり。前田孫左衛門殿・村井左馬・富田治太夫・山崎彦右衛門は孫四郎様に附き能州にありて、此の除目にはづれ、無念がる事限なし。遊撃将軍登城の節馬一疋牽かせけり。此の馬鞍生れつき、外に鞍置なし。希代なる次第とて上下見物夥し。利家公の臣橋本孫平次、警固の衆と申分致し、子小姓奥野金左衛門・馬淵六左衛門・村井勘十郎、大小姓今井左太夫・大塚伝左衛門・斎藤八太夫・奥村主計・神戸又右衛門・富田権九郎、御馬廻原田又右衛門・青山金右衛門・嶺喜右衛門・小崎牛之助、是等連立ちあつかひに入りて詫言を致しければ、警固も堪忍す。後に利家公御耳に立ち、公儀の者と知つて申分致しけるこそ越度也と御尋ありける所に、毛頭不奉存由申上ぐるに付き、知らざれば是非もなし、知りて仕るに於いては、必ず大身小身共に理非に不依急度申付候はんと被仰出也。此の度唐使日本へ渡り御城にて御振舞の節、印籠より薬を取出しなめければ、秀吉公何薬ぞと御尋の処に、延寿丹にて候由申上げければ、少し含んで見んと仰せらる。唐使申しけるは、御寿命長久に有御座と申上げければ、さらば上げよと仰に付き、薬を指上ぐる。太閤被召上、利家公へも被進被召上。其の外の人々は不在合して服せざりしと也。此の遊撃将軍も帰朝の時船の内にて病死す。秀吉公・利家公も追付御煩付き被成に付き、扨は唐人毒を上げ奉ると、其の時分専らに申ならしけり。
慶長元年には大阪の城を築かせ給ふべきとて、天下へ御触ありて、国々より人足・諸奉行共参つどひ、年中懸りて築きければ、唯咸陽宮・阿房殿と申すとも是には過ぎじと申しあへり。其の年九月八日に土佐国長曽我部より飛脚を上ぐる。居城・長浜・森山・かつら浜・浦戸の湊より十八里沖に、山の如くなる大船一艘来る由。小舟を以て見せければ南蛮船なるが、のびすばんと云ふ国へ行く商人船也。大工を遣し見せければ、長さ五十間横二十五間、八帆の柱二抱あり。真帆風に吹き折れて舟破損し、一囲の積物浦々にうかび、北国浦々より蝦夷や松前浦迄流行き打ちよせける由聞えけら。第一水にかつえて難義する由にて水を乞ひける故、長曽我部より水・肴・酒・米など夥敷遣す。番船を手寄〳〵の国々より四方に遣し置き、積荷をてんけんす。大船八十余【 NDLJP:55】艘に積上げ、大坂へ着岸せしめ上げ奉る。舟の内五百人程難風に逢ひ死す。黒坊二百五十人、しんによろ十人、商人三十人生残りあり。梶の入る穴広さ五畳敷有之由注文に記す。伏見の城へ着岸し上げ奉る品々には、上繻子五百端、唐木綿二十六万端、金襴五万巻、緞子五万巻、白糸十六万斤、印子千五百両、麝香一箱、二人持の生麝香十疋、而黒く尾長き生猿十五疋、鸚鵡二羽、右の通指上ぐれば禁中へ御披露被成、女院・摂家・清華・諸大夫、其の外御家人等、夫々割符ありて被下けり。船には毎日御下行八百人扶持、酒肴被遣、大工をよせて舟破損の修覆被仰付、何にても願を叶へ、白米千石、豚二百疋、鶏二千羽、大樽百荷、干肴、饂飩の粉五百石、其の外種々被下、翌年三月下旬帰帆せしむ。大坂へ積上ぐる荷物共は、水主・梶取下々の私物也。本船の商ひ物は一つも不出由聞えけり。一囲の所水入りて浦々へ流れけるさへ、慶長末年まで湯人の巻物とて日本国にあまねし。異国には夥敷事にやと諸人申しあへり。
秀吉公は何れもを召寄被仰出けるは、我れ病者に成り幾程の余命も不知、秀頼も当年五歳なれば、各相談の上を以て能きに計らひ給ふべし。其の内に秀頼後見の事、追付き条数書にて可被仰出との上意也。松平家康・前田利家・備前秀家・毛利輝元・上杉景勝五人を、大年寄として諸事談合の棟梁たるべし。生駒雅楽頭・中村式部少輔・堀尾帯刀、此の三人は小年寄として、其の下知承りて申渡す。前田徳善院玄以斎・浅野弾正少弼・増田右衛門尉・石田治部少輔・長束大蔵大輔、此の五人は五奉行と号し、其の上天下の御目附として検使廻国等の事共、此の者共走廻りて下知をなす。大年寄の内家康・利家両公は、天下に肩を並ぶる人なく、太閤上意懇意にして、諸将何れも崇敬不斜見えにけり。
慶長二年には、秀吉公御気配何とやらん少宛衰へさせ給ふ。然れば秀頼公の後見に頼入る由上意ありて、天下の事此の両人に御まかせ可被成旨被仰出、何れも奉畏旨御請ありけら然れば家康公は日本一の大名なれば、公家の崇敬大方ならず。秀吉公へ御内談ありて、三月十一日に内大臣に御任槐せられければ、家康公忝く思召しけれ共、さすがに思召す儘の様にも諸事御計らひなく、利家公と両雄の御心得ありて御政道被成けれ共、御威勢月々に弥増ける事九也。利家公も其の年の秋中より、何とやらん御心地替らせ給ふにより、秀頼公の御事いかゞと御心元なく思召せ共不及是非、御養生の間は我身より秀吉公の御不例を大事と思召し、御療治ども被仰付ける。或時秀吉公の御前に織田有楽御伽申上げ罷在る所に、御道服を有楽に被下ける。有楽頂戴致さるゝ。然るに其の上ゑりに唐織の黒き物懸りて有りければ、夫をときて返せと被仰、とかせて御取置成けり。其の節利家公・金森法印・土方勘兵衛宗無など寄合ひて有りけるが、利家公御意被成けるは、秀吉公は早程もまします間敷ぞ、御心のかはらせ給ふ、誠に正気にてましまさずと仰ければ、何れも笑止がり給ひけり。
伏見にて岡田長右衛門屋敷は、利家公の御屋敷際に在りて近き故に、御茶上げ申度と申上ぐる所に、卯月半の事なるに御機嫌能く御成ありて、茶も過ぎ御咄被成、御相伴浅野左京・長岡与市・宗無、其の外御心易き人々相詰むる。然る所に石川右馬助・宮川与左衛門広間にて喧嘩をし、取さへ人馬場甚太郎・小塚藤十郎其の外余多ありて手負ひし者もあり。石川・宮川は立退きにけり。御吟味仰付らるゝに、宮川は斎藤刑部聟にて道具杯除けにけり。両人の宿々を闕所なされ、馬場甚太郎一刀せなかに負ひ、金沢へ被遺諸役御赦免なさる。其の日の人持当番は奥村河内也。夕飯に宿へ下り不在合、加藤宗兵衛は私用ありて罷出しに、吟味に逢ひほう〳〵申訳して難義にあへり。夫より当番は欠くとも非番に出る事は無益と申ならしけり。斎藤刑部は相替る事なし。岡田長右衛門方へ御成の御留守の間にて有りければ、何れも迷惑致しけれ共、何の異義もなかりけり。
慶長三年二月下旬堀久太郎屋敷より火事出来、岐阜中納言殿類焼に及ぶ。長岡越中守向なれば、利家公人数引連れ越中守屋根へ上がらせ給ひ、村井勘十郎・小塚藤十郎両人は人数引連れ、伊達正宗の屋根へ上がり防ぎ可申旨被仰渡、何れも参り防ぎけり。頓て火鎮りて、正宗も越中守も御陰故忝き由御礼申上ぐる。作事等も利家公より御合力ありて、【 NDLJP:56】中納言殿も久太郎どのも思ひ思ひに出来す。秀吉公被仰出は、堀久太郎長谷川於竹と申して、信長公の時分盛に出頭致し、御奉公能く申上げ、かひ〴〵敷故に先年越後を遣し置。此の度越後を被下間、越後の景勝は会津へ所替致し、蒲生藤三郎は関東宇都宮へ、正宗は仙台へ、何れも御加増にて被遣由御意にて、国々へ人を遣し所知入の用意を被申付。堀久太郎は家老を使者として利家公へ申上げ、黄金五拾枚借用被致、越後入部の用意せらる。
同年三月下旬利家公御気色御滞により、草津へ御湯治被成度思召し言上ありける処、早々養生可被成旨御意に付き、御用意ありて卯月初頃御発足ありけり。佐竹修理殿は越前府中まで御見送に付き、御腰物を被進、隙乞申され罷登らるゝ。内府公は伏見に御座ありて、神谷善右衛門を御使者として、明衣三十・夜着二つ・ふとん二つ・肴など被進、関東近き事なれば、御用之義も候はゞ江戸へ可被仰遣旨被仰進。善右衛門を被召連候へとありければ、御念の入りたる義共忝き由被仰、金の打鮫の刀に道服添へて善右衛門に下さる。神谷信濃甥にて御心易く思召す故に、内府より被遣とぞ聞えける。堀久太郎も本栖何某を湯本まで被遣、越後明衣二十・行水たらひなど持参す。御小袖三つ被下罷帰る。蒲生藤三郎方より、蒲生源左衛門・町野左近に進物為持、段々に湯見舞に上げらるゝ。浅野弾正父子よりも湯見舞、其の外の人々より見舞使者飛脚隙もなし。
利家公加州にて御用意出来、草津へ御発駕被成其の日石動前田又次郎殿へ入らせらる。守山城より前田対馬、於猿様の御供にて御局附参らせ、初て御父子の御対面也。当年六歳にならせ給ひ、丈夫に御そだち、眼力強くたくましく鏡をとぎたる如く也。利家公御機嫌能く渡らせ給ひ、村井勘十郎に被仰付、刀・脇指を取出させ、御手づから若君の御腰にさゝせ給ひ、脇の下より御手を入れさせ、御せなかをなで、早くもふとりたる由御たはむれ事被仰、御暇出でければ対馬守山へ御供申けり。利家公夫より越後御通り、堀久太郎御馳走ありて草津へ御人湯被成けり。
伏見には秀吉公の御病気月々によろしからず、内府へ被仰渡、国々大名の其の中に不和なる者あるをば中直り致させ可申、合点致さぬ者あらば、夫々に申付けて切服致させよとの御意に付き、内府の御屋形へ寄合して心底不残打とけ、秀頼公の御為大事と存候上は、誰かは異議に及ぶべきと互に盃取かはし、和順に成る様子共書付を以て言上有りければ、御機嫌残る所なかりけり。
五月上旬に利家公は御湯治三七日も満ちければ、御帰国被成けり。御大便に黒色の様成る物下りけり。種善坊は鍼立の伊白・今春七郎を召連れ下り、何れも御容躰を伺ひ奉る所に、何共見分け難き御気色也。村井豊後思案致し、伊白と云ふ者は出羽の最上の者也、加様の他国者御近所へ被召寄事いかがと内証を以て申上ぐる所に、尤に思召し次第に疎くなり、伏見にては曽て御前へ罷出ざりけり。金沢にて孫四郎殿へ能登を御渡し、忝き由御礼被仰上。御膳を上げ、其の上に今春七郎に御能被仰付相済み、其の後金沢にて勧進能仕度由言上有りしに、可仕旨被仰出に付き、才川河原に芝居を拵へ能を致し、上下見物夥敷事也。大夫に短冊を送り、折など毎日〳〵遣す。御一門方も御出有りて賑々敷御事也。扨利家公は追付き伏見へ御登りあり、秀吉公に御目見相済みけり。
慶長三年七月七日に、家康・利家両公を太閤の御前へ被為召、被仰出けるは、我等病気爾々不致、日々に悪敷、最早程も有之まじ。諸侯共に誓紙為致見せ申されよ。其ついでに遺物を可遣旨被仰出。奉畏則ち利家公の御屋形へ呼びよせ、誓紙仰付けらる。前書の第一は秀頼公に対し野心を毛頭仕間敷の旨也。熊野牛王千枚にて数百通の誓紙を調へ、何れも血判致し上げけるに、御機嫌不斜、御遺物割符被仰付品々、目録に調へ秀吉公の御覧に入れ奉る。
一、遠浦帰帆・金子三百枚 内大臣家康公
一、三好正宗・金子三百枚 大納言利家公
一、枯木の絵・捨子の茶壺 江戸中納言秀忠公
一、吉光脇指・金子百枚 北荘中納言金吾
一、鷹の絵 会津中納言景勝【 NDLJP:57】一、義弘の刀 越中宰相利長公
一、金三十枚 織田常真
一、金三十枚 織田有楽
此の外日本六十余州の大名小名不残、夫々に御遺物被下。
委く太閤記に有之に付き爰には略す。
慶長三年八月十八日に浅野弾正・石田治部奉りて、利家公を御傍へ被為召、秀頼公の御事呉々被仰置けり。其の時分二・三日も、御本丸へは内府・利家の外出入を留め、子小姓一人・草履取一人宛より外は御門を不入。子小姓は脇指計にて刀をさゝせず。利家公は小さ刀を袋へ入れ、村井勘十郎に為持、汝いつもの如く坊主部屋に在りて、自然の事あらば此の小さ刀にて切入れよと被仰。利家公は御側へ寄られければ、利家公の御手を取られ、残り多げに被成けるが、次第〳〵に御気色衰へ給ひ、八月十八日己の刻に、御歳六十三にて言絶えさせ給ひけり。内府・利家両公御涙を流させ給ひ、御近習衆へ被仰、御遺言の通り随分隠密たるべし。浅野弾正・石田治部少輔を被召寄、御遺言に任せ、両人早々九州へ下り、朝鮮国へ飛脚を遣し、加藤清正・小西行長に帰朝為致、同道し罷登るべし。夫れ次第に御葬礼を執行ふべきとて、両人は昼夜を懸けて九州へ下る。石田は博多の町に居住し、浅野は名嶋の城に入り、加藤・小西を呼寄せける。両人は官人を生捕り帰帆せしむ。四人同道し、十二月二十二日に大坂へ着岸す。内々拵置く事なれば、御葬送を被執行、信長公の御例になぞらへ、諸宗智識衆交り、役者夫々に相定め、東山阿弥陀ケ峯に納め奉る。参詣の公家衆・武家方日夜を分かず、美々しかりける事共也。慶長四年四月十八日には豊国大明神と勅号ありて、後陽成院の勅額を楼門に掛けさせられ、天下の諸大名参詣ありて、石灯籠・金灯籠、並木の柳・桜・松・梅等植ゑさせ、吉田侍従兼治弟萩原神主祭礼を相勤め、社領として一万石、七年忌までは不怠獅子舞・田楽其の外の祭事、都鄙の男女群集す。御威光の程こと難有けれ。或人の物語に、秀吉公御他界可被成瑞相数多有りけれ共、其の中御病中に不思議あり。御夢の中に信長公御枕元へ御出で、早々参れと被仰、手を取りて引給ふと御覧被成、畏り候〳〵と御答被成けるが、御床の外へ乗り出ださせ給ふ。御夢醒めて松の丸殿に御物語被成けると也。畏り奉るとの御声高く聞えける由申上げければ、信長公の迎にまします、最早程は有間敷と被仰ければ、政所様を初めどつとなき出ださせ給ひけり。根本御生得御勇健にして、御煩といふ事少しもなく、中年の後天下御静謐に治め、思召し立ち給ふ事一つとして成就せざる事なし。夫に依りて華奢風流に御遊興多く、殊に好色にめでさせ給ふ事、大木を虫のはむ如く治する事難し。あゝ長生の御保養御存知あらば、秀頼公御成長の程を見立て給ひて、天下を御譲りありて、豊臣の姓永く相続せらるべきものをど、大坂の上下千悔に思ひけると也。 秀吉公の御先祖は、伊勢国より浪人して尾張に来り、代々過ぎて竹阿弥と云ふ人の子也。幼少の時分は小竹と云ひて、家貧にして川狩魚類を取り、武家・町家へ代物にかへて世を渡る。漸く成長して十八・九歳の頃美濃に行き、松下嘉兵衛と云ふ者の一僕の奉公人に出でられければ、嘉兵衛気に入り、京へ桶がわ胴の具足を買ひに遣す。其の代金を取りて身の廻りを拵へ、永禄元年九月朔日直に名乗りて信長公へ御目見被成、奉公に出でさせ給ひ、猿冠者と被名付、御奉公被成けるに、諸事御意に不応と云ふ事なし。縁組を御ゆるしありて、木下藤吉郎とぞ申しける。君命を重んじ、身の栄耀を顧ず、諸人ねたみそねむといへ共、事とも不思召して忠義を専とせられければ、其の後には万事かれが計らひに被仰付、侍大将をさせ御覧あるに、はかの行く事かゆき所へ手の届く如く也。秀吉公の甥子を一人、木下肥後と云ふ者の養子に被成故に、秀吉公も木下を名字に名乗り給ふ。此の甥子を後に筑前中納言秀秋とぞ申しける。又金吾殿共申しけり。秀秋の舎兄を三好山城と云ふ者の養子に被成、三好孫七郎とぞ申しける。後に三好治兵衛殿と申して、秀吉公の世継に被成、関白職まで御譲りありて、後の関白秀次公と申しけり。実は秀吉公の御妹聟に弥助と云ふ人の子也。後に武蔵守三位中将一路斎とぞ申しける。羽柴筑前守秀吉と自号被成事は、其の頃天下に武勇の侍に丹羽五郎左衛門長秀・柴田修理亮勝家、此の両人の名字を一字宛御取被成、羽柴に改め給ふ。朝比奈義秀が武勇を羨みて、秀【 NDLJP:58】吉に成り給ふといへり。 ┌─太政大臣正一位前関白太閤兼羽柴筑前守秀吉─┐
├─大和中納言美濃守秀長 │
├─三位中将武蔵守一路斎内室 │
└─南妙院内室 │
┌──────────────────────┘
│┌─後関白秀次 三好孫七郎也、一路斎子也
│├─筑前中納言秀秋 初は岐阜中納言といふ
└┼─於葉 女子早世
└─秀頼 浅井備前守娘の腹にて実子也
大和中納言秀長に三子有り。大和中納言秀俊と云ふ。次は女子にて森美作守内室に成り給ふ。其の次も又女子にて毛利甲斐守内室也。かゝる御人の日本六十余州を平均に討ち随へ、朝鮮国まで手を延べて討鎮め、末代までも異国より和国へゑびすの来らぬ様に被成置事、不思議なる事共也。神功皇后か応神天皇の御再誕にて有べしと、和漢共に感じ奉るも理り也とぞ申しける。
慶長四年正月元日、秀頼公初めて諸大名の礼を請けさせ給ふ。其の時分利家公御虫気にて、御城御台所の脇にて御装束被成けり。神谷信濃・富田孫九郎・村井勘十郎は、宵より御装束為持相詰る。御供には村井豊後・富田下総・奥村河内三人也。是等も秀頼公へ御礼申上ぐる。利家公には羽柴下総・森豊後・大野修理などへ、各秀頼公の事油断有間敷、万事気遣専一也と被仰置ければ、何れも御尤の旨被申けり。正月七日に秀頼公を、御遺言の通り大坂城へ可奉入とて、御供の行列を定めらるゝ。北の政所様曽て御承引ましまさず。去れ共利家公仰せらるゝは、御遺言を御用ひなくては叶ふまじ。御他界より五十日も過ぎぬれば、正月十一日に御入城と定めさせ給ひ、御座船六十艘御供と相極め、御入城なし奉り、十五歳にならせ給ふまで御城を出し申間敷と、御遺言の通り御定あり。利家公は大坂城への御供也。然るに正月下旬の頃、高麗より兵船を催し、一揆共九州の地へ近付く由、嶋津方より注進す。家康公・利家公御下知として嶋津に大将被仰付、九州の人数を以て討随ふべき旨被仰遣。嶋津畏り、九国の大名打立つて、兵船共を乗捕り、人数共の首を取り、残る者共追払ひ、其の由言上に及びければ、御両殿御満足に思召し、秀頼公初めて本意を遂げさせられ目出度御事なればとて、日向・薩摩両国の内四万石御台所入を、嶋津へ御加増被遣可然とて、浅野弾正・石田治部少輔に被仰渡、御朱印相調べ御感状相添へ、嶋津へ遣さる。嶋津父子忝く存じ、追付き御礼に罷登り、御目見致し帰国あり。斯くて二月中旬の事なるに、伏見に於て安芸の毛利殿屋形へ大名衆寄合内談ありけるは、家康公の振舞天下を我が物と思はる躰也。第一政所様の御屋形へ被移事、大坂西の丸に天守の如くなる大矢倉を被上事、内縁を以て八幡の検地を赦免せらるゝ事、国大名の北の方を国々へ可被相返との事、数ケ条の不審共ありて、太閤の御遺書を破り給ふ事共、小年寄より五奉行連状にてきめ、状を遣さる。其の時寄合に、利家公御煩故、御名代徳山五兵衛・村井豊後・奥村伊予を被遣、内府は江戸へ隠居を可被成との御事也。家康公いかゞ思召しけん、被仰越条々あやまり申す也、隠居の儀は八月秀頼公へ御暇申上げ、鷹野に出候様に致し、直に江戸へ罷帰り、秀忠を在大坂為致可申旨、誓紙を以て被仰分、其の通りに成りて鎮りけり。 石田治部少輔は、小西行長・毛利宰相・安国寺等を呼寄せ談合致しけるは、内府の心底秀頼公を脇へなし奉り、世を我が儘に取治め、天下を掌に握らんとす。前田党と長岡越中守を語らひ、是非に一合戦して豊臣の天下相続せんと内談す。此の儀家康公へ相聞え、両殿の中悪敷なる。然所に長岡越中守つく〴〵と思案して利長公へ参られ、自然合戦になるならば、軍法をも承度しと被申ければ、利長被仰けるは、内々利家へも尋置候、宇治川の土手を切流し、向嶋を水攻にして、兵船にて取廻し討取るには何の手間の可有やと被仰ければ、越中守尤可然候、其の時我等先手被仰付候へと有りしかば、頼母敷由御挨拶也。越中守、今日は蒲生藤三郎方へ茶湯の約束にて罷越由被申、利長公の御屋形を立出で、家康公へ被参所に、御前に山岡道阿弥伺候す。家康公仰せらるは、越中守に茶湯の儀尋度事ありとて、奥へ入らせ給へば、道阿弥も退出しけり。越中守御側へ被出、【 NDLJP:59】自然此の度合戦に成候はゞ、御軍法いかゞ承度奉存候。利家・利長は加様〳〵の心得にて候間、御分別被成可然旨被申上。家康公聞召し、榊原式部・井伊兵部少輔・本多中務大輔を召して御内談ありければ、三人申上ぐるは、敵の謀事図に当り申候、此の上は土手を廻し防ぎ戦ひ可然と申上ぐる。越中守被申は、御人数何程御座候哉と被申。三人の衆申しけるは、五千騎に過申間敷と有りければ、越中守聞いて、浅野左京も御頼み然るべし、我等も利長方へ付きて土手を切る躰にもてなし、裏切仕候はゞ、何の苦悩も候まじと内談し、夫より罷立ちて越中守は利長公へ被参、昨日の御軍法を家康へ参り具に申して候へば、 内府も又手立をめぐらし給ひ候と申上らるれば、利長公聞召し、越中守殿夫は邪狂の至り也、 いかゞの分別無心元と仰せらる。 越中守承り、 能々思案を廻らし候に、 石田三成が計畧は一手両虎を殺し、 其の後我が身を立てんと存ずる所にて候。 家康公を討亡し、 利家公も御病者にて百日とは過ぎ給ふまじ。 利長公や我等如きの者共は、 西国大名共をかたらひて、五畿内・北国平均に討随へ、 天下を石田我が物にして、 秀頼公を害せしめん事案の内と覚候。 是非に両殿和睦ありて、 以来まで御念頃の御約束と成るならば、 御子孫目出度くおはしますべきと達て被申ける故、 利長公も理に伏し給ひ、 利家公へ御内談あるに尤也、 越中守あつかひ申されよと御意有りて、 越中守又家康公へ被参、 理を尽して石田誅伐の御内談被成けるに、追つて両殿御対面の約束にぞ成りにける。此のあつかひ、浅野左京・備前中納言一味同心にてのあつかひとこそ聞えけれ。家康公へは、本多忠勝・井伊直政両人参河守秀康公に進め奉り、是非共勝負を被為付候へと申上ぐる。内府御耳に達し、利家在世の間は騒動無益也と堅く制し給ひけり。利家公にも、村井・奥村・徳山等は備前中納言殿を勧めて、是非共埒を明けさせられ候へと申上ぐる。備前中納言殿は、其人数千余りも候間、秀頼公の御名代に御出馬被成候はゞ、我等御先手被仰付べしと頼母敷被申上けれ共、利家公無益と制せられ、御対面の御相談とぞ成りにける。 此の時分世間何となく風説有りて静ならず、加様の時は虚説ありて猶風聞もやかましく、世間の口を止めんと思召し、利家公は内府の屋形へ御越可被成とて、二月二十九日に大坂を御立ありける。利長公も御供可被成と被仰所に、不心得成事哉と御意ありて、大坂に御留り被成ける。二十九日に橋本に一宿被成、人数を御残し、長柄十本を大身にして、銀の熨斗付の柄なりけるを御馬の先に為立給ひ、晦日に御舟より直に内府の御屋形へ入らせ給ふ。内府公も有馬法印御供にて、淀の大橋まで上下十人計にて御迎に御出也。其の時利家公の御供には、富田下総・神谷信濃・徳山五兵衛・斎藤刑部・小塚権太夫、村井勘十郎は御腰物持参す。利家公より大音主馬を付けさせらる。村井豊後・奥村伊予は大坂に御留守也。此の両人被召連ては、あなたに御六ケ敷との御遠慮とぞ聞えける。御機嫌能く御振舞ありて、御供中へも御料理被下、利家公の御料理人恋塚と云ふ者を兼ねて御やとひ御膳を拵へ奉る。御念の入りたる御事也。恋塚へも銀子・御小袖被下けり。互に被仰合事共ありて、御暇乞被成、直に村井豊後方へ被為入、うどんを被召、夫より御舟にて大阪へ御帰りありければ、五畿内近国の民間に至るまで、天下太平の悦、酔賞の声而已也。 内府公は三月八日に利家公へ為入給ふべきとて、有馬法印・長岡越中守、其の外井伊直政・榊原康政抔御供にて、大阪へ上らせ給ふ所に、古乗物一挺ありければ、不審に思召す所に、内より藤堂佐渡守罷出で、石田方の者ねらふ由承り是迄参り候。我等駕籠に召され候へとて、佐渡守は内府公の御駕籠に乗り、多勢にて御後より御供す。利家公御対面被成、互に御念頃なる御事共にて、御盃出で被召上、内府公へ御腰物進上あり。我等煩次第に重く成申候間、肥前へ御目を懸被下候へ。其の上夫にて申談候通、御縁者にも被成候様にと、御涙と共に被仰ければ、家康公も御涙を流させ給ひ、互に御手を取り給ひ、頓て御快気にて、いつもの如く御直の御料理可被下と御暇乞ありて、御立被成けり。其の時の御酌は神谷信濃・村井勘十郎也。内府公より利家公へ御脇指被進、利長公も式台まで送り出させ給ふ。内府公は直に西の丸へ御登城ありて、夫より伏見へ入らせらる。此の時石田方の侍大野修理・土方勘兵衛抔、内府をねらひ【 NDLJP:60】ける事露顕して、秀頼公の御不審を蒙り、死罪をなだめられて常陸国相馬郡へ遠流に被処ければ、家康公御満足被成旨にて御礼被仰上ける。斯くて御両殿の御中御和睦ありて、内府公を重んぜらるゝ事限りなし。石田三成野心の程、諸人心肝を悩しけり。