三壺聞書/巻之七
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三壺聞書巻之七 目録
利家公加州御下向の事 七六
金沢御城御造営の事 七七
王子御誕生の事 七七
利常公御誕生の事 七七
越中守山岩ケ淵喧嘩の事 七八
太閤利家公へ御成の事 八〇
宇治川をせき留給ふ事 八一
秀吉公御灸を被成事 八二
津田長門守が事 八三
利家公加州へ御下向の事 八四
醍醐花見の事 八四
関白秀次御謀叛の事 八五
【 NDLJP:48】三壺聞書巻之七 天正十九年十一月中旬に、利家公金沢へ御下向被成ければ、何れも御目見仕り、進物並に御分国の名物山海より持参し上げ奉る。其の時分西の御丸に村井豊後有之て、御成を奉乞に御機嫌能被為成、御膳相済み豊後手前にて御茶を上る。茶の具御見物被成所に、勝手に神谷信濃と江守平左衛門申分致し声高になる。御前御相伴は徳山五兵衛・寺西宗与・篠原出羽也。何れも不興千万と存ずる所に、利家公御意には薄茶給らんと被仰ければ、豊後畏りて勝手へ立つ。岡田長右衛門・修善坊両人にて申分を静めんとする所へ、豊後来り、沙汰の限りなる各の作法哉と呵りければ鎮りけり。其の内薄茶上り、少しまどろませ給ひ、御機嫌能く御帰り被成けり。豊後御礼に罷登り進物を捧ぐ。拝領物ありて御礼申上け、其の後御家中何れ茂を振舞ひけり。豊後に薄茶を乞はせらるゝ事は、勝手へ立たせて信濃・平左衛門をしづめさせん為に被仰出、亭主なれば申分を別けて迷惑に思ふ故に鎮めけり。忝き御心ざしかなと後に人申しあへり。其の年も暮れて明くる正月にも成りければ、御家中御礼為請給ふに、御一門の内前田五郎兵衛殿・子息孫左衛門殿・高畠織部・長九郎左衛門・不破彦三・村井豊後は百疋宛の御礼銭也。三千石より下の人持五十疋宛、小小姓・大小姓・中小姓・馬廻三十疋宛。其の外二十疋宛。中大名より下は紙子の着物と兼ねて御触也ければ、色々の紙子にて罷出づる。御礼に不罷出者一両人ありて蟄居被仰付。二日には又家中覚の者共御目見被仰付、何れも銀子・羽織を拝領す。中にも村井豊後内小林弥六左衛門・屋後太右衛門は御言葉を懸けられ、久々にて逢ひたるとの御意也。蓮沼を焼きし時分骨折りたる者也と仰せられ、別けて拝領物御念を入れさせ給ひけり。豊後は此の者共を能く扶持し置こと、御感の由にて、豊後に御加増可賜とて、能州嶋八ケ所を被宛行、豊後は一国の主也とたはむれさせ給ふ。其の外の大名に能き者共を失ふ人ありて、面目を失ひける者多しとかや。御分国中諸代官・諸奉行の手前算用被聞召所に、広瀬作助過分に引負して、百姓共に非分申懸け迷惑に及ぶ由目安を御覧被成、彼の作助を金沢河原町にて御成敗被仰付。夫より諸奉行正敷順道に勤めけり。其の頃荒木善太夫せがれ兵太郎に被仰出けるは、先年親善太夫八王寺にて討死す、汝又能く奉公を勤めける由、旁以て本領に御加増被下けり。
文禄元年三月下旬利家公金沢御発駕、京都へ御着あり。肥前守利長公へ被仰渡、金沢の城を石垣に可被成旨御意を請けさせ給ひ、御指図等ありける故、小奉行共役人郡の夫・人足に触れさせ給ひ、戸室山より石を切出させ給ひけり。金沢の城と申すは、近頃迄一向宗本願寺の末寺有之、在々所々より参詣しおやまと申ならしけるを、佐久間玄蕃暫く居城し、かきあげて城の形になし、夫より御取立て山城に被成、惣構・一二の曲輪・本丸の廻り堤をほりけり。彼の一向宗末寺の御堂坊主に広済寺居住の時、ちや〳〵と云ふ女ありて、朝夕汲みたる池あり。ちや〳〵が池と名付く。利長公の御時分まで用ひありしとかや。扨石垣をつき立させ給ふに、東の方両度までくづれ入り、幾千人の費となり、利長公も御難義に思召しけるに、上方へ相聞えければ、利家公篠原出羽を召して委細に被仰渡、早々金沢へ罷下り、石垣つかせ可申旨利長公へも仰進ぜらる。利長公、其の義ならば出羽奉行の通つかせ候へとて、守山へ御帰城あり。出羽承りて石垣八歩計つき、少し縁を付け立て成就しければ、利長公以の外なる御腹立にて、高石垣に段を致したる事沙汰の限りと被仰けれ共、出来の上は是非に不及、御堪忍をぞ被成けり。二三の丸・西の丸・北の丸まで人持衆並居て、屋敷相極め、美々敷立てられしかば、大阪・駿河に相続き名城とこそ申しけれ。
文禄二年正月今上皇後陽成院に王子御誕生あり。天下万喜の御慶賀申ばかりなし。太上皇帝と申し奉るは是也。
同年四月十六日利家公北の御方御近習に被召仕し女中、おちよの御方に若君出生被成けり。北の御方に数多の若君もましませば、さして御寵愛もなかりしに、利家公いかゞ思召しけん、御乳を付けて北国へ下し、越中守山の城前田【 NDLJP:49】対馬内室に御預被成けり。御名をおさる様とぞ申しける。此の若君後に三ケ国の大守にならせ給ふべきとは誰か思ふんぐる、不思議さよとぞ申しける。此の母君既に利常公御代に成りて、金沢の御城東の丸に御屋形を立て御座ありし故、東の丸様とぞ申しける。久々御召仕の女中年寄りて付け奉りありしが、人々に物語致しけるは、東の丸様の御母上は天下一の美人にてまします。去れ共殿御におくれ給ふ事四人也。夫故御子様達数多なれ共、皆種替りの御兄弟也。中にも東の丸様と小幡宮内殿一つ御種にて、此の御父常に慈悲深く、下々を御恵み被成事あげてかぞふるにあきたらず。中にも一とせ越前にて鷹野に出でさせ給ふ折節、白鬼女の川にて東国の順礼水をあびて上方へ通りけるが、其の後へ鷹をつかうておはしけるに、金の入りたる袋を忘れて通りけり。不便に思召し、人を付置き、彼の順礼取りに帰らぬ事あらじ、遣し申せと仰せらるゝに、案の如く順礼取りに帰りければ、彼の袋を被渡しに、順礼頂戴して申しけるは、此の路銭を失ひては後へも先へも行く事かたく、既に飢渇に及ばん時は乞食をして命をつなぎ、其の上にいかなる悪念生じ盗賊仕るか。然らば大願空敷のみならず、未来悪業を請くべきに、斯く御恩を請くる事難有御事也。此の御恩を謝せずんば又大顕空しかるべし。我れ西国三十三所の札所にて、御子孫繁昌に栄え給へと、永願丹誠私なく仏閣堂社にて祈念仕るべし。若し利生瑞現ましまさば、此の順礼が願成就と思召せと暇申して帰りしが、情は人の為ならず、めぐり〳〵て善果の種となりたる也。何様不思議の事也。皆々嗜みおはしませと語りければ、聞く人ありがたく思ひけり。小幡宮内・同右京・堀三郎兵衛内室・九里覚右衛門内室・田辺助太夫内室・本保大蔵内室・黒田逸角内室、其の外上木・栗田内室、皆東の丸様の御兄弟也。此の年八月三日に秀頼公御誕生也。
利長公は越中守山の城に、天正十四年より文禄三年まで御在城なされ、新川郡御加増ありて、慶長四年まで富山の城に御在城也。文禄二年八月上旬の事なるに、利長公の御小姓に向井弥八郎と云ふ者、山崎次郎兵衛一の弟子にて兵法勝れて器用也。又印牧藤兵衛と云ふ牢人、久々守山に居て弟子数多取りおしへけるに、山崎流と印牧流と度々せり合ありて、何時か申分になりなんと互に気遣の折節、夜中に小雨降つて殊の外闇の夜に、向井弥八郎一人守山の町四辻を通りしに、ねらひてや切りけん、真向一刀切つて逃げければ、弥八郎心得たりと云ふ儘に、刀をぬき追懸けゝれども、くらさはくらし、眼に血はながれかゝる。口惜く思ひけれども、是非なく宿に引籠り、疵の養生を致しけり。此の事伏見へ相聞え、利長公の御聴に達し、弥八郎と云ふ者は人にせらるゝ者にあらず、いかなる者か致しけん、随分詮義仕候へと、神尾図書・松平伯耆方へ被仰下、吟味を遂げらるゝといへ共曽て知れざりけり。弥八郎養生致し罷在る内に、つく〴〵案じ出し、心あても有りけるにや、諸事の用意して、疵も直りければ時節を待つ。爰に八月下旬、百日代りの小姓二人伏見へ発足仕る。又一人蟄居の小姓ありけるが、御内証もやありぬらん、此の度三人同道し、守山を立ち、乗懸馬にて埴生の里を通り、倶利伽羅坂口へかゝりける所に、向井弥八郎大身の鑓を横たへ、汝等覚えたるやと、先づ一番に馬上よりつきおとす。残り二人心得たりと馬より飛んでおるゝ所を、又一人突伏せたり。今一人刀をぬき、しばし戦ひけれ共、弥八郎に鑓にて突伏せられ、三人一所に討死す。家来の者共懸りけれども追散し、弥八郎は守山さしてしづ〳〵と行く程に、家来の内よりぬけ出で、守山へ走り、懇意の者共一門中などへ知らせければ、三人の一門共並に山崎次郎兵衛弟子・印牧藤兵衛弟子共、我おとらじと鑓おつとり〳〵行く程に、守山の此方なる岩ケ淵のたひらにて弥八郎に行き逢ひたり。両弟子二組に分れて鑓を合せ、互ひに火花をちらし戦ひけるが、弥八郎を早く大勢にて討留めけれ共、助勢少しも引取るべき様なく、向ふ者を相手にして戦ひける程に、守山へ相聞え、家来在合ふ侍共残る所なく馳来る。吉田三右衛門・萩原宇右衛門・斎藤治左衛門其の外多勢討死す。木村主計手を負ひて引退く。人持・物頭等追々に馳来り、弥八郎を討取る上は、何の遺恨ありて誰を相手の申分ぞと、殊の外に制しつゝ、何れも守山へ引入りけり。
文禄三年三月三日秀吉公高野へ御参詣、名所共御見物あり【 NDLJP:50】て一万石被宛行、木食興山上人喜悦不浅。御能五番被仰付、一山悉く見物仕り、追付き還御あり。夫より芳野の花を御覧可有とて、大坂を十七日に御立ち、紀伊国六ッ田の橋に着き給ひ、大和中納言殿より茶屋までしつらひ御膳を上げられ、夫より千本の桜花・ぬたの山・かくれがの松御覧ありて、御詠歌に。
芳野山こずゑの花のいろ〳〵におどろかれぬる雪の明ぼの
其の次々に公家・門跡衆、思ひ〳〵の詠歌幾百首つらねつゝ、桜
五百 五百
千五百□三千□三千□三千□五百
八百 五百
人数十万にても一万四五千にても如斯と被仰て、少し口伝の御物語被成ける。何れも御側へ寄り給ひて、御尤の義と感じ申さる。加藤主計申さるゝは、利家公御存生の内に、肥前殿など能く御尋ね置き被成よと申さるゝ。此の御座敷に村井勘十郎能く見覚えて書き記す。弁口なる勘十郎かなと皆誉めたり。依之勘十郎鼻紙代に御仕着被下置処に、其の上に二百石被下、汝は兄の左馬助よりましたる仕合也。左馬助は始めて百石にて有之由被仰と也。
津田長門守は利家公御父子へ出入仕る処に、利長公の御噂を悪敷申す由肥前守殿御耳に立ち、出入止めさせらる。其の時長岡越中守も在合せて聞き申さる由にて、是も利長公へ出入申されず。此の旨斎藤刑部承り、利家公へ被申上に【 NDLJP:52】何共御意なく、二・三日過ぎて長門守利家公へ御振舞に被参。折節利長公も御座被成に付き、長門守は御目に懸らず帰らるゝ。其の後に利家公御意ありけるは、津田長門守事は狂言大夫などの様に家々を広く勤むる事、且は歴々の為淋しき時の伽にも成也。人々の噂は上々の事も云ふ事あり。又人にしたしきあり、うときあり。夫に出入止めさせん事、なんぞ一大事の世にふれたる事ならば尤也。夫々にあいしらひて構はぬがよし。然ればかへつて後忠する事あるものぞ。高山南坊など少しのがれぬ者なれば、長門守に如在有間敷旨仰らる。夫より長門守も忝く存じ出入致しけり。 文禄三年の暮に利家公金沢へ御下向あり。石川郡の内浜通御出にて、鶉鷹野被成、夜に入りて御入城也。御供の人々は思ひ〳〵に御先へ御暇給り、其の宅々へ罷帰りけり。然る所に宮腰口町端にて、御小姓斎藤八兵衛を何者やらん一太刀切つて逃たり。八兵衛見知りて、山の神と云ふ他国浪人也とて追廻し生捕りにけり。御小姓頭脇田主水御耳に立てければ、御吟味被仰付。斎藤八兵衛は神谷信濃目掛也、然るに彼の浪人笹原出羽家中に縁者ありて囲ひ置き、彼の浪人と信濃与力の子三人申合せに付き、三人御成敗被仰付。出羽家中の者追放人もあり。信濃も出羽も面目を失ひ、迷惑に存じけり。村井豊後其の時分町奉行を兼ねて被仰付、手代を置き町中の事を聞かしむ。町同心村井豊太夫・横山少右衛門也。御帰の時分、町の内吟味みだりにして上下乱れたる故に、加様の者徘徊す。去るに依つて両人御せつかん被仰付。其の代りに村井豊後甥久左衛門と云ふ者、親手前に罷在るを被召出、町同心に被仰付。豊後上方にありて忝く存じ、御礼申上げにけり。夫より歳暮・年頭の御祝義相済み、文禄四年三月は醍醐の御花見と御用意京都に隠なし。利家公それ前に御上り可有とて、追付き御発駕被成けり。 文禄四年三月十五日に醍醐の御花見と極りければ、茶屋番所相調ひ、北の政様所御出に付き、西の丸殿・松の丸殿・淀殿・加賀殿を初め、大勢の女中附添ひ、三宝院まで御着まし〳〵、所々の茶屋に小間物の売物等品々とり飾りて、異類異形の装束にて、国々大名の内室達北の政所の御供にて、茶屋〳〵に子小姓・腰元・禿などを指置き、小歌をどり子色々様々の御遊興。茶を被召上御立の刻は茶の銭を被為置、茶銭置かせられぬ所にては、女子共取付き〳〵袖を引合ふを興ぜさせ給ひ、山海の珍物に名酒様々集置きて、喜見城の楽みを月宮殿に仙女の集り、返す袂の匂ひは色外に余りぬべしと思はれけり。三宝院へは金銀・米銭・小袖等山の如く積重ね、其の上に千六百石の知行を被宛行、山々寺々へ割符せしめ被遣。三宝院を誉めぬ人こそなかりけり。御機嫌残る所なく、頓て還御まし〳〵ける。 同年秀次公謀叛思召立の事は、木村常陸介が進めにより滅亡共云ひ、又関白殿の狂気に成り給ふ故共云ふ。木村常陸介常々申上げけるは、去る文禄二年八月に、淀の城にまします浅井備前守娘淀殿の腹に若君御出生ありて、今於拾様と申し御寵愛甚だし。君は秀吉公の御妹の御子也。正しき御実子を捨て、君に天下御譲り被成事思ひも寄らず。後々には信雄の如くに遠国へ移し、少し領知を可被遣物也。然らば謀事をめぐらし御謀叛を起し給はゞ、御味方申者も可有御座と申す故、色々御思案被成けれ共、誠に諸事何に付けても昔より疎々敷思召し、御気に懸けさせ給へば御心も荒く成らせ給ひ、御附御家老の田中兵部大輔・中村式部少輔なども御前疎々敷、木村常陸介・熊谷大膳亮など出頭す。近日太閤へ御逢被成、其の座敷にてと御内談の処に、反忠の者ありて石田治部少輔方へ内通す。三成驚き秀吉公へ申上げけるに、太閤不安思召、香蔵主と徳善院を御使者として聚楽へ罷越し、秀次公を被為召由にて、色々の事を申たばかりければ、秀次公無是非伏見を指して急がせ給ふ。東福寺の近辺に軍兵共を置かせられ、道を指しふさぎ、秀次公を東福寺へ移し参らせ、夫より高野山へ駕を押立て急ぎけり。御供の者共を道にて押へ、小々姓まで附けにけり。高野へ討手を被遣て詰腹切らせ奉る。追腹の人々には山本主殿助十八歳、山田三十郎十八歳、不破万作十八歳、陸西堂と四人也。秀次公御年二十八歳也。正宗の御脇指にていさぎよく御切腹、雀部淡路守兼光の刀にて介錯致し、其の身も拝領の国次にて自害す。同罪に殺害せらるゝ人々には、木村常陸介・日比備後守・熊谷大膳亮・栗野右近・日比野下野【 NDLJP:53】守・山口出雲守・丸毛不同、何れも手寄〳〵の日那寺にて切腹被仰付。公達並二十余人の御妾を丹波の亀山城へ引取り、番を付置き奉りけるが、何れも六条河原へ引出し、大仏の脇に穴をほり、一つ所へ切入れて畜生塚と名付け置きけり。関白殿に罷在る人々は、罪の浅深に依りて死罪・流罪又は浪人共も多かりき。中にも津田与三郎・今枝内記は利家公へ被召置。津田与三郎は明智光秀謀叛の後高野へ籠りありけるを、秀吉公被召出、関白殿へ被付しが、後加州にて津田遠江と申し、法躰して道空とぞ申しけるが、利常公・光高公の御前へ被召出、昔物語申上げ別して御懇意成りしが、寛永年中に九十余歳にて終りぬ。今枝内記は池田勝入に久しき家老の子也。備前に於て池田紀伊守内日置若狭と云ふ。末子の弟今枝与右衛門、是も加州へ来り利家公に召置かる。内記法躰して宗仁と云ふ。子息民部は前田源峯の聟にて、光高公御幼少より執権して守り奉り、民部惣領弥平次利常公御寵愛の御子小姓にて、後には又綱利公御幼君にてまします時、御守にて執権つとめ、二代の民部江戸定詰也。弥平次弟九蔵を以て備前日置若狭名跡と成りて引越さるゝ。故民部江戸にて病死あり、弥平次を後の民部になされけり。綱利公御入城の後は金沢へ引越し、病者なる故に引籠り真斎と申しけり。又後日若狭の子を以て名跡に被成、今枝内記と申す。民部二代光高公・綱利公御父子御幼少より守り立て、御家の内外治め被申事、比類なき忠功也と諸人申しあへり。扨又猪子内匠・宗無なども、関白殿一味のよしにて流罪に被仰付、跡迄関所致されしに、其の時両人の衆利家公御懇意なる故、道具御引取り、奉行人に御渡なく、金子五枚宛神谷信濃に為持、路銀の為に被遣。翌年御詫言被仰上、両人共被召返、道具御渡しなさる。諸人頼母敷感じ奉る。両人の悦不大形。宗無肩衝は名物にて、六七十枚の道具也。宗無別して忝く存じけり。加様の道具重ねて又手に入可申とは不存由被申、御礼申上げらる。浅野弾正・同左京父子も関白殿に一味の由相聞え、既に押寄せ詰腹切らせらるべき由被仰出、伏見中ひそ〳〵とさわぐ。利家公へ浅野左京被参、色々申訳ありければ、利家公の古聟也。別して御懇意故、急ぎ御登城ありて御申訳被仰上、以来にても実正に候はゞ利家公・利長公に被仰付べしと達て被仰上に付き、其の義にてあるならば弾正は甲州へ被遣、左近は利家公に御預可被成旨にて、能州つむぎへ押込められしが、翌年御詫言相済み被召返。浅野父子は別して利家公の御恩難忘旨御礼念頃也。是れ皆石田治部少輔三成がさゝへとも聞えけり。