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三壺聞書/巻之七

 
三壺聞書巻之七 目録
 
 
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三壺聞書巻之七
 
 
 
天正十九年十一月中旬に、利家公金沢へ御下向被成ければ、何れも御目見仕り、進物並に御分国の名物山海より持参し上げ奉る。其の時分西の御丸に村井豊後有之て、御成を奉乞に御機嫌能被為成、御膳相済み豊後手前にて御茶を上る。茶の具御見物被成所に、勝手に神谷信濃と江守平左衛門申分致し声高になる。御前御相伴は徳山五兵衛・寺西宗与・篠原出羽也。何れも不興千万と存ずる所に、利家公御意には薄茶給らんと被仰ければ、豊後畏りて勝手へ立つ。岡田長右衛門・修善坊両人にて申分を静めんとする所へ、豊後来り、沙汰の限りなる各の作法哉と呵りければ鎮りけり。其の内薄茶上り、少しまどろませ給ひ、御機嫌能く御帰り被成けり。豊後御礼に罷登り進物を捧ぐ。拝領物ありて御礼申上け、其の後御家中何れ茂を振舞ひけり。豊後に薄茶を乞はせらるゝ事は、勝手へ立たせて信濃・平左衛門をしづめさせん為に被仰出、亭主なれば申分を別けて迷惑に思ふ故に鎮めけり。忝き御心ざしかなと後に人申しあへり。其の年も暮れて明くる正月にも成りければ、御家中御礼為請給ふに、御一門の内前田五郎兵衛殿・子息孫左衛門殿・高畠織部・長九郎左衛門・不破彦三・村井豊後は百疋宛の御礼銭也。三千石より下の人持五十疋宛、小小姓・大小姓・中小姓・馬廻三十疋宛。其の外二十疋宛。中大名より下は紙子の着物と兼ねて御触也ければ、色々の紙子にて罷出づる。御礼に不罷出者一両人ありて蟄居被仰付。二日には又家中覚の者共御目見被仰付、何れも銀子・羽織を拝領す。中にも村井豊後内小林弥六左衛門・屋後太右衛門は御言葉を懸けられ、久々にて逢ひたるとの御意也。蓮沼を焼きし時分骨折りたる者也と仰せられ、別けて拝領物御念を入れさせ給ひけり。豊後は此の者共を能く扶持し置こと、御感の由にて、豊後に御加増可賜とて、能州嶋八ケ所を被宛行、豊後は一国の主也とたはむれさせ給ふ。其の外の大名に能き者共を失ふ人ありて、面目を失ひける者多しとかや。御分国中諸代官・諸奉行の手前算用被聞召所に、広瀬作助過分に引負して、百姓共に非分申懸け迷惑に及ぶ由目安を御覧被成、彼の作助を金沢河原町にて御成敗被仰付。夫より諸奉行正敷順道に勤めけり。其の頃荒木善太夫せがれ兵太郎に被仰出けるは、先年親善太夫八王寺にて討死す、汝又能く奉公を勤めける由、旁以て本領に御加増被下けり。
 
 
文禄元年三月下旬利家公金沢御発駕、京都へ御着あり。肥前守利長公へ被仰渡、金沢の城を石垣に可被成旨御意を請けさせ給ひ、御指図等ありける故、小奉行共役人郡の夫・人足に触れさせ給ひ、戸室山より石を切出させ給ひけり。金沢の城と申すは、近頃迄一向宗本願寺の末寺有之、在々所々より参詣しおやまと申ならしけるを、佐久間玄蕃暫く居城し、かきあげて城の形になし、夫より御取立て山城に被成、惣構・一二の曲輪・本丸の廻り堤をほりけり。彼の一向宗末寺の御堂坊主に広済寺居住の時、ちやと云ふ女ありて、朝夕汲みたる池あり。ちやが池と名付く。利長公の御時分まで用ひありしとかや。扨石垣をつき立させ給ふに、東の方両度までくづれ入り、幾千人の費となり、利長公も御難義に思召しけるに、上方へ相聞えければ、利家公篠原出羽を召して委細に被仰渡、早々金沢へ罷下り、石垣つかせ可申旨利長公へも仰進ぜらる。利長公、其の義ならば出羽奉行の通つかせ候へとて、守山へ御帰城あり。出羽承りて石垣八歩計つき、少し縁を付け立て成就しければ、利長公以の外なる御腹立にて、高石垣に段を致したる事沙汰の限りと被仰けれ共、出来の上は是非に不及、御堪忍をぞ被成けり。二三の丸・西の丸・北の丸まで人持衆並居て、屋敷相極め、美々敷立てられしかば、大阪・駿河に相続き名城とこそ申しけれ。
 
 
文禄二年正月今上皇後陽成院に王子御誕生あり。天下万喜の御慶賀申ばかりなし。太上皇帝と申し奉るは是也。
 
 
同年四月十六日利家公北の御方御近習に被召仕し女中、おちよの御方に若君出生被成けり。北の御方に数多の若君もましませば、さして御寵愛もなかりしに、利家公いかゞ思召しけん、御乳を付けて北国へ下し、越中守山の城前田オープンアクセス NDLJP:49対馬内室に御預被成けり。御名をおさる様とぞ申しける。此の若君後に三ケ国の大守にならせ給ふべきとは誰か思ふんぐる、不思議さよとぞ申しける。此の母君既に利常公御代に成りて、金沢の御城東の丸に御屋形を立て御座ありし故、東の丸様とぞ申しける。久々御召仕の女中年寄りて付け奉りありしが、人々に物語致しけるは、東の丸様の御母上は天下一の美人にてまします。去れ共殿御におくれ給ふ事四人也。夫故御子様達数多なれ共、皆種替りの御兄弟也。中にも東の丸様と小幡宮内殿一つ御種にて、此の御父常に慈悲深く、下々を御恵み被成事あげてかぞふるにあきたらず。中にも一とせ越前にて鷹野に出でさせ給ふ折節、白鬼女の川にて東国の順礼水をあびて上方へ通りけるが、其の後へ鷹をつかうておはしけるに、金の入りたる袋を忘れて通りけり。不便に思召し、人を付置き、彼の順礼取りに帰らぬ事あらじ、遣し申せと仰せらるゝに、案の如く順礼取りに帰りければ、彼の袋を被渡しに、順礼頂戴して申しけるは、此の路銭を失ひては後へも先へも行く事かたく、既に飢渇に及ばん時は乞食をして命をつなぎ、其の上にいかなる悪念生じ盗賊仕るか。然らば大願空敷のみならず、未来悪業を請くべきに、斯く御恩を請くる事難有御事也。此の御恩を謝せずんば又大顕空しかるべし。我れ西国三十三所の札所にて、御子孫繁昌に栄え給へと、永願丹誠私なく仏閣堂社にて祈念仕るべし。若し利生瑞現ましまさば、此の順礼が願成就と思召せと暇申して帰りしが、情は人の為ならず、めぐりて善果の種となりたる也。何様不思議の事也。皆々嗜みおはしませと語りければ、聞く人ありがたく思ひけり。小幡宮内・同右京・堀三郎兵衛内室・九里覚右衛門内室・田辺助太夫内室・本保大蔵内室・黒田逸角内室、其の外上木・栗田内室、皆東の丸様の御兄弟也。此の年八月三日に秀頼公御誕生也。
 
 
利長公は越中守山の城に、天正十四年より文禄三年まで御在城なされ、新川郡御加増ありて、慶長四年まで富山の城に御在城也。文禄二年八月上旬の事なるに、利長公の御小姓に向井弥八郎と云ふ者、山崎次郎兵衛一の弟子にて兵法勝れて器用也。又印牧藤兵衛と云ふ牢人、久々守山に居て弟子数多取りおしへけるに、山崎流と印牧流と度々せり合ありて、何時か申分になりなんと互に気遣の折節、夜中に小雨降つて殊の外闇の夜に、向井弥八郎一人守山の町四辻を通りしに、ねらひてや切りけん、真向一刀切つて逃げければ、弥八郎心得たりと云ふ儘に、刀をぬき追懸けゝれども、くらさはくらし、眼に血はながれかゝる。口惜く思ひけれども、是非なく宿に引籠り、疵の養生を致しけり。此の事伏見へ相聞え、利長公の御聴に達し、弥八郎と云ふ者は人にせらるゝ者にあらず、いかなる者か致しけん、随分詮義仕候へと、神尾図書・松平伯耆方へ被仰下、吟味を遂げらるゝといへ共曽て知れざりけり。弥八郎養生致し罷在る内に、つく案じ出し、心あても有りけるにや、諸事の用意して、疵も直りければ時節を待つ。爰に八月下旬、百日代りの小姓二人伏見へ発足仕る。又一人蟄居の小姓ありけるが、御内証もやありぬらん、此の度三人同道し、守山を立ち、乗懸馬にて埴生の里を通り、倶利伽羅坂口へかゝりける所に、向井弥八郎大身の鑓を横たへ、汝等覚えたるやと、先づ一番に馬上よりつきおとす。残り二人心得たりと馬より飛んでおるゝ所を、又一人突伏せたり。今一人刀をぬき、しばし戦ひけれ共、弥八郎に鑓にて突伏せられ、三人一所に討死す。家来の者共懸りけれども追散し、弥八郎は守山さしてしづと行く程に、家来の内よりぬけ出で、守山へ走り、懇意の者共一門中などへ知らせければ、三人の一門共並に山崎次郎兵衛弟子・印牧藤兵衛弟子共、我おとらじと鑓おつとり行く程に、守山の此方なる岩ケ淵のたひらにて弥八郎に行き逢ひたり。両弟子二組に分れて鑓を合せ、互ひに火花をちらし戦ひけるが、弥八郎を早く大勢にて討留めけれ共、助勢少しも引取るべき様なく、向ふ者を相手にして戦ひける程に、守山へ相聞え、家来在合ふ侍共残る所なく馳来る。吉田三右衛門・萩原宇右衛門・斎藤治左衛門其の外多勢討死す。木村主計手を負ひて引退く。人持・物頭等追々に馳来り、弥八郎を討取る上は、何の遺恨ありて誰を相手の申分ぞと、殊の外に制しつゝ、何れも守山へ引入りけり。
 
 
文禄三年三月三日秀吉公高野へ御参詣、名所共御見物ありオープンアクセス NDLJP:50て一万石被宛行、木食興山上人喜悦不浅。御能五番被仰付、一山悉く見物仕り、追付き還御あり。夫より芳野の花を御覧可有とて、大坂を十七日に御立ち、紀伊国六ッ田の橋に着き給ひ、大和中納言殿より茶屋までしつらひ御膳を上げられ、夫より千本の桜花・ぬたの山・かくれがの松御覧ありて、御詠歌に。

芳野山こずゑの花のいろにおどろかれぬる雪の明ぼの

其の次々に公家・門跡衆、思ひの詠歌幾百首つらねつゝ、桜岳其の外後醍醐の皇居の跡、今熊野・たつてんさん・聖天山・弁財天山御一見あり。昔義経の暫く在りし吉水の城忠信が跡に残りて空切腹せし所まで今の様に思召し、残りなく御覧ありて追付き還御被成けり。

 
 
同年卯月六日に利家公へ職掌の御成とて、三年以前より御用意の事なれば、千宗易利休の指図にて御座敷相調へ、三日の御逗留にて御能も被仰付、連歌の会の内に幸若八郎が舞もあり、御進物拝領物記すに不及。利家公の長臣共二十一人御礼申上げ、御土器被下。官位昇進の人々は、先づ利家公此の節中納言にならせ給ふ。御内の人々の内、高畠織部は石見守、中川清六は武蔵守に被成。此の時御家に諸大夫四人也。其の年家康公、蒲生飛騨守・安芸の毛利・備前中納言・景勝へも、打続き御成にてありけるに、中納言に前官後官の上下あり。利家公後官にて下座なり。太閤聞し召し、安芸の毛利へ御成の時、利家公を大納言に被成けり。此の時奥村助右衛門は伊予守、神谷左近は信濃守に被成、諸大夫都合六人也。所々の御成も首尾能く相済み、卯月廿九日秀吉公は有馬の湯へ入らせられ、二七日の御入湯にて還御あり。当年三ケ年懸けて、山城国木幡山伏見の里に御城を被建、善を尽し美を尽す事筆紙に不及。国々の大名衆屋敷取りして屋形を立て、公儀の御普請と自分の普請に昼夜をわかず急ぎ給ふ。此の御普請奉行は佐久間河内・滝川豊前・佐藤駿河・水野亀之助・石尾与兵衛・竹中貞右衛門六人に被仰付、諸国よりの人足・役人惣高二十五万人の図り也。十月十六日御移徙にて御隠居城也。天正十九年の暮に秀次公へ関白職を御譲りありて、文禄元年・二年・三年まで淀の城に御座在りしが、夫より伏見へ御移被成けり。文禄二年に淀殿の腹に秀頼御出生也。文禄元年の秋同腹に若君御出生あり。八幡太郎殿と申しけれ共、三ケ月計の寿命にて早世まし後秀頼公御出生也。
 
 
天下の大名請取の丁場有りて、何れも油断なかりけるに、利家公の請取、宇治川をせき切り、川除を付出ださせ給ふ。三ケ国より三千五百の人足を呼寄せ、惣奉行長九郎左衛門也。川中へわく・鳥足を入れ、土俵を投込み埋めけれ共、底深くして水早く、わくも鳥足も流行き、竪ざま横ざまに成りて思ふ様に落付く事なく、幾千万の人足の費となり、九郎左衛門も難義に思ひ、家臣老功の者共を呼びて詮議の所に、浦野・伊久留・鈴木など相談し、上手の大工を吟味して尋ねければ、毛利半右衛門と云ふ大工来て、思ふ様にわくを立て申すべし。作事小屋を五十間宛二通り作らせ、早々壁を付けられ候へ。其の中にてわくを組可申とて、俄に小屋を作り、急ぎ三方に壁を付けんと上手の壁塗を尋出すに、脇坂東庵と云ふ者来て、数千の人足に土を持たせ、東庵一人して百二十間の所を日高き内にぬる。秀吉公も利家公も何れも普請場へ御出に付き、御小屋を立てさせ給ふに、御座敷・御台所出来して、此の壁も一日に付けにけり。畳屋に寺田弥右衛門と云ふ者来て、数百畳を一日に敷詰めたり。此の故に毛利半右衛門・脇坂東庵・寺田弥右衛門三人を長九郎左衛門召置きて、加州にて百五十石宛知行せらる。扨わくも鳥足も出来して、人足共持ちて川へなげ入れけるに、竪横構ひなく落着きける所へ、土俵数万俵こしらへ置き、其の上へなげ込する事、大名・小名・御小姓・馬廻り、手づからかきて川へ投入れければ、難なく水はなしまで埋上げて成就致しけり。然る所に利長公の御丁場の土俵を、利家公の小姓衆下知して人足共にとらせたり。岡崎備中・梶川長助裁許の土俵にて、両人杖を持ちて追払ふ。利家公御覧ありて、殊の外御腹立被成、御機嫌悪敷、御父子の間もふしに成り、加様の時節に何のへだて有べきといからせ給ふ。片山内膳承り、涙を流し御尤の程をふるひて申わけを致しけり。斎藤刑部持ちける土俵に、利家公御手を懸けさせ給へば、刑部倒れて起上りければ、御笑ひ被オープンアクセス NDLJP:51成、御機嫌能くならせらる。又六十計の男持ちける土俵に御手を懸けさせ給へば、達て御時宜申上ぐる。閙敷時の礼かなと御意あれば、土俵をいたゞき奉る。是は長九郎左衛門が普請奉行鈴木因幡と云ふ大力の者也。尾張の者にて、方々武者修行して経廻りあるき、長九郎左衛門に召置かれ、諸事の用所を勤め、奥村因幡出来て後鈴木十兵衛と改む。斯の如く手伝ひせらるゝ事、偏に夏の禹王の自から鋤を持ちて金花山の洪水を切流し、衆生を助け給ふも、只今の利家公の心ざし是也と、秀吉公興ぜさせ給ひけり。夫故諸奉行人足共汗水に成りて精力を励み、頓て成就しければ、秀吉公利家公の舘へ入らせられ、利家・利長の骨折古今有難き様子也と一礼仰せられ、利家公鷹の絵の懸物見度由御意に付き、即時取出し御披見に備へ給ふ。秀吉公御意ありけるは、土俵のあらそひにて、利長父の気色宜しからずと迷惑がらるゝ由聞及ぶ。中直りに利長被出候へとて、秀吉公手づから利長公へ懸物を御渡し被成ければ、御父子共に御機嫌能く、座中高笑にておはしけり。斯くて秀吉公、九月朔日伏見の屋形へ御移徙あり。御祝義千秋万歳、天下の大小名は進物を上げ、御目見筆紙の及ぶ所にあらず。同月二十五日御能被仰付、新作の謡を作らせ給ひ、紹巴法橋・今春八郎にふし・拍子を被為付、仕舞等も成就し、御能見物何れも興を催しけり。御能組は吉野花見・高野参詣・明智・柴田・北条五番也。面白く仕りたる由御意ありて、大夫・役者へ拝領物あり。
 
 
加州より三千五百の人足共、十月の末に御普請相済み罷帰る時分、利家公御下屋敷は川縁にて有之に付き、水溜を被成、道も高く盛上げさせ給ふ。裏御門などの道も作らせられ、大形相済む所に、普請奉行野村勘兵衛・前波嘉右衛門・宮川与左衛門・北嶋少左衛門四人に被仰付、金子五枚御もたせ、裏門の坂の上より高声に、年中骨折の上に留置不便に思召し、御酒を被下候と呼はりければ、諸人難有奉存、いまだ人足五万も可入所を、其の日もみ立て出来し、御暇被下罷帰る。含気のたぐひ其の心ざしを得ん事を願ふとは、加様の事成るべし。頼母敷御大将かなと、諸人申あへり。
 
 
此の年九月下旬秀吉公は、利長公の御屋形へ不時に御成可有とて、俄に御振舞の御用意ありて、緩々と被為成、御遊興の余りに灸を被成度旨被仰出、御相伴衆十人計手々に用意被成ける。御直の衆迄にては不足なる故により、利家公は小姓衆罷出ですゑにける。織田有楽に神谷信濃・富田左近・村井勘十郎・前波半入・奥野金左衛門・桑原勘七罷出る。有楽・左近両人は御傍にて御相伴也。其の外内府と金森法印・有馬法印・浅野弾正・蒲生飛騨守、御次の間にてすゑらるゝ。如斯に其の時分は御軽々敷まします故、物毎にはかの行く事限りなし。誠に太政大臣の御人だに加様なれば、夫より下は推して知るべし。其の日打過ぎ御機嫌能く還御ありて、利家公一入御大悦被成けり。然る故に、翌日加藤主計・柴田下総・猪子内匠・戸田武蔵を、利家公御茶御振舞の上碁の会になり、其の後武道咄に成りて、何れも難所の事共口々に咄され、加藤主計申さるゝは、第一人数の立様は様々有之由承り候へ共、利家公の御心得承度奉存と申されければ、不調法に候へ共亭主ぶりに語り可申とて、碁盤の上におかせ給ひて、我等幾度も御先手被仰付罷出候時分、加様に心得申候。

 五百       五百
千五百□三千□三千□三千□五百
 八百       五百

人数十万にても一万四五千にても如斯と被仰て、少し口伝の御物語被成ける。何れも御側へ寄り給ひて、御尤の義と感じ申さる。加藤主計申さるゝは、利家公御存生の内に、肥前殿など能く御尋ね置き被成よと申さるゝ。此の御座敷に村井勘十郎能く見覚えて書き記す。弁口なる勘十郎かなと皆誉めたり。依之勘十郎鼻紙代に御仕着被下置処に、其の上に二百石被下、汝は兄の左馬助よりましたる仕合也。左馬助は始めて百石にて有之由被仰と也。

 
 
津田長門守は利家公御父子へ出入仕る処に、利長公の御噂を悪敷申す由肥前守殿御耳に立ち、出入止めさせらる。其の時長岡越中守も在合せて聞き申さる由にて、是も利長公へ出入申されず。此の旨斎藤刑部承り、利家公へ被申上にオープンアクセス NDLJP:52何共御意なく、二・三日過ぎて長門守利家公へ御振舞に被参。折節利長公も御座被成に付き、長門守は御目に懸らず帰らるゝ。其の後に利家公御意ありけるは、津田長門守事は狂言大夫などの様に家々を広く勤むる事、且は歴々の為淋しき時の伽にも成也。人々の噂は上々の事も云ふ事あり。又人にしたしきあり、うときあり。夫に出入止めさせん事、なんぞ一大事の世にふれたる事ならば尤也。夫々にあいしらひて構はぬがよし。然ればかへつて後忠する事あるものぞ。高山南坊など少しのがれぬ者なれば、長門守に如在有間敷旨仰らる。夫より長門守も忝く存じ出入致しけり。
 
 
文禄三年の暮に利家公金沢へ御下向あり。石川郡の内浜通御出にて、鶉鷹野被成、夜に入りて御入城也。御供の人々は思ひに御先へ御暇給り、其の宅々へ罷帰りけり。然る所に宮腰口町端にて、御小姓斎藤八兵衛を何者やらん一太刀切つて逃たり。八兵衛見知りて、山の神と云ふ他国浪人也とて追廻し生捕りにけり。御小姓頭脇田主水御耳に立てければ、御吟味被仰付。斎藤八兵衛は神谷信濃目掛也、然るに彼の浪人笹原出羽家中に縁者ありて囲ひ置き、彼の浪人と信濃与力の子三人申合せに付き、三人御成敗被仰付。出羽家中の者追放人もあり。信濃も出羽も面目を失ひ、迷惑に存じけり。村井豊後其の時分町奉行を兼ねて被仰付、手代を置き町中の事を聞かしむ。町同心村井豊太夫・横山少右衛門也。御帰の時分、町の内吟味みだりにして上下乱れたる故に、加様の者徘徊す。去るに依つて両人御せつかん被仰付。其の代りに村井豊後甥久左衛門と云ふ者、親手前に罷在るを被召出、町同心に被仰付。豊後上方にありて忝く存じ、御礼申上げにけり。夫より歳暮・年頭の御祝義相済み、文禄四年三月は醍醐の御花見と御用意京都に隠なし。利家公それ前に御上り可有とて、追付き御発駕被成けり。
 
 
文禄四年三月十五日に醍醐の御花見と極りければ、茶屋番所相調ひ、北の政様所御出に付き、西の丸殿・松の丸殿・淀殿・加賀殿を初め、大勢の女中附添ひ、三宝院まで御着まし、所々の茶屋に小間物の売物等品々とり飾りて、異類異形の装束にて、国々大名の内室達北の政所の御供にて、茶屋に子小姓・腰元・禿などを指置き、小歌をどり子色々様々の御遊興。茶を被召上御立の刻は茶の銭を被為置、茶銭置かせられぬ所にては、女子共取付き袖を引合ふを興ぜさせ給ひ、山海の珍物に名酒様々集置きて、喜見城の楽みを月宮殿に仙女の集り、返す袂の匂ひは色外に余りぬべしと思はれけり。三宝院へは金銀・米銭・小袖等山の如く積重ね、其の上に千六百石の知行を被宛行、山々寺々へ割符せしめ被遣。三宝院を誉めぬ人こそなかりけり。御機嫌残る所なく、頓て還御ましける。
 
 
同年秀次公謀叛思召立の事は、木村常陸介が進めにより滅亡共云ひ、又関白殿の狂気に成り給ふ故共云ふ。木村常陸介常々申上げけるは、去る文禄二年八月に、淀の城にまします浅井備前守娘淀殿の腹に若君御出生ありて、今於拾様と申し御寵愛甚だし。君は秀吉公の御妹の御子也。正しき御実子を捨て、君に天下御譲り被成事思ひも寄らず。後々には信雄の如くに遠国へ移し、少し領知を可被遣物也。然らば謀事をめぐらし御謀叛を起し給はゞ、御味方申者も可有御座と申す故、色々御思案被成けれ共、誠に諸事何に付けても昔より疎々敷思召し、御気に懸けさせ給へば御心も荒く成らせ給ひ、御附御家老の田中兵部大輔・中村式部少輔なども御前疎々敷、木村常陸介・熊谷大膳亮など出頭す。近日太閤へ御逢被成、其の座敷にてと御内談の処に、反忠の者ありて石田治部少輔方へ内通す。三成驚き秀吉公へ申上げけるに、太閤不安思召、香蔵主と徳善院を御使者として聚楽へ罷越し、秀次公を被為召由にて、色々の事を申たばかりければ、秀次公無是非伏見を指して急がせ給ふ。東福寺の近辺に軍兵共を置かせられ、道を指しふさぎ、秀次公を東福寺へ移し参らせ、夫より高野山へ駕を押立て急ぎけり。御供の者共を道にて押へ、小々姓まで附けにけり。高野へ討手を被遣て詰腹切らせ奉る。追腹の人々には山本主殿助十八歳、山田三十郎十八歳、不破万作十八歳、陸西堂と四人也。秀次公御年二十八歳也。正宗の御脇指にていさぎよく御切腹、雀部淡路守兼光の刀にて介錯致し、其の身も拝領の国次にて自害す。同罪に殺害せらるゝ人々には、木村常陸介・日比備後守・熊谷大膳亮・栗野右近・日比野下野オープンアクセス NDLJP:53守・山口出雲守・丸毛不同、何れも手寄の日那寺にて切腹被仰付。公達並二十余人の御妾を丹波の亀山城へ引取り、番を付置き奉りけるが、何れも六条河原へ引出し、大仏の脇に穴をほり、一つ所へ切入れて畜生塚と名付け置きけり。関白殿に罷在る人々は、罪の浅深に依りて死罪・流罪又は浪人共も多かりき。中にも津田与三郎・今枝内記は利家公へ被召置。津田与三郎は明智光秀謀叛の後高野へ籠りありけるを、秀吉公被召出、関白殿へ被付しが、後加州にて津田遠江と申し、法躰して道空とぞ申しけるが、利常公・光高公の御前へ被召出、昔物語申上げ別して御懇意成りしが、寛永年中に九十余歳にて終りぬ。今枝内記は池田勝入に久しき家老の子也。備前に於て池田紀伊守内日置若狭と云ふ。末子の弟今枝与右衛門、是も加州へ来り利家公に召置かる。内記法躰して宗仁と云ふ。子息民部は前田源峯の聟にて、光高公御幼少より執権して守り奉り、民部惣領弥平次利常公御寵愛の御子小姓にて、後には又綱利公御幼君にてまします時、御守にて執権つとめ、二代の民部江戸定詰也。弥平次弟九蔵を以て備前日置若狭名跡と成りて引越さるゝ。故民部江戸にて病死あり、弥平次を後の民部になされけり。綱利公御入城の後は金沢へ引越し、病者なる故に引籠り真斎と申しけり。又後日若狭の子を以て名跡に被成、今枝内記と申す。民部二代光高公・綱利公御父子御幼少より守り立て、御家の内外治め被申事、比類なき忠功也と諸人申しあへり。扨又猪子内匠・宗無なども、関白殿一味のよしにて流罪に被仰付、跡迄関所致されしに、其の時両人の衆利家公御懇意なる故、道具御引取り、奉行人に御渡なく、金子五枚宛神谷信濃に為持、路銀の為に被遣。翌年御詫言被仰上、両人共被召返、道具御渡しなさる。諸人頼母敷感じ奉る。両人の悦不大形。宗無肩衝は名物にて、六七十枚の道具也。宗無別して忝く存じけり。加様の道具重ねて又手に入可申とは不存由被申、御礼申上げらる。浅野弾正・同左京父子も関白殿に一味の由相聞え、既に押寄せ詰腹切らせらるべき由被仰出、伏見中ひそとさわぐ。利家公へ浅野左京被参、色々申訳ありければ、利家公の古聟也。別して御懇意故、急ぎ御登城ありて御申訳被仰上、以来にても実正に候はゞ利家公・利長公に被仰付べしと達て被仰上に付き、其の義にてあるならば弾正は甲州へ被遣、左近は利家公に御預可被成旨にて、能州つむぎへ押込められしが、翌年御詫言相済み被召返。浅野父子は別して利家公の御恩難忘旨御礼念頃也。是れ皆石田治部少輔三成がさゝへとも聞えけり。