三壺聞書/巻之九
奉公せうなら徳山五兵衛、恩は高うて身は楽で、日さへくるれば宿へ出て、思ひ〳〵の妻を引く。
と近き頃までうたひけり。利長公金沢へ御帰着ありて、諸奉行を被相定、御国の御普請等被仰付、御鷹野等に上下隙もなかりけり。
慶長五年三月会津の上杉景勝方へ、大坂より使者を遣し給ふ。其の趣は先年越後より会津へ入国せられ、終に上洛なし。今程は秀頼公御代替としてましませば、上洛被致可然と、家康公より被仰遣。景勝返答には、我等越後を国替被仰【 NDLJP:64】付節、越後は為景より代々の所なれば、御赦免被下候様達て御断申上ぐる所に、太閤の御意には、会津にて百万石被下、其の上に上洛三年御免可被成と被仰出。会津の内外十郡に、又中仙道七郡、伊達・信夫・庄内三郡、佐渡三郡、伊地峯郡、以上百万石也。殊更奥方大事の所なれば、鎮守府たるべしと御意に付き罷越す也。其の上今程年罷寄り、上洛不罷成候。若秀頼公の御出馬ならば御供に可罷出候。又承り候得ば、其許には数寄屋とやらん云ふ事のはやり、ふくべや竹の引切などの物もて遊び給ふ由。左様の事は我等曽て不調法なれば、自然の時分は出勢可仕との返事也。家康公聞召し殊の外御立腹ありて、先づ伺の為於関東、会津表の沙汰共を御目付を以て尋ね聞召されければ、先年堀左衛門家臣に堀監物と云ふ者、先納の儀に付き景勝と不和也。依之監物方より若松辺に横目を置き、会津の事を聞かせし所に、武具の用意、道橋の修覆、又浪人等を抱ゆる由、家康公の目付に注進す。又景勝の家老藤田能登、慶長五年三月欠落して江戸にあり。景勝の謀叛疑なし、秀頼公の為御名代の発向可被成と評議一決して、大坂・伏見其の外五畿内近国の城々留守居等堅固に被仰置、景勝陣と御触ありて、六月十五日奥州会津御発向と定りけり。秀頼公は西の丸へ移らせ給ふ。然る所に備前宰相秀家の家中に申分出来して、家中引分かる。其の内に、戸川肥後守・宇喜多左京・花房志摩は家康公の御供に罷立ち、六月十六日に大坂御立ち伏見に御陣を召され、松平主殿・内藤弥次右衛門・同小市郎・鳥居彦右衛門・甲賀の人々に御留守居仰付らる。かゝる所に石田治部少輔は、家康公を道にて討留めんと人数を引率し、水口へかゝるべきや、すり針峠へかゝるべきや、兎角多賀の山陰可然とて、嶋左近・柏原平助・杉江喜内に申付け置く。家康公此の由聞き給ひて、四日市より御舟に召され、熱田へ入らせ給へば、石田はがみして、石部か関の地蔵にて討つべきものをと、千悔すれ共せん方もなし。夫より石田三成は上洛して、秀頼公へ御礼申上げ、西国衆へ申談じけるは、家康は景勝上洛遅参なる事を、不届なる次第とて出勢あるは、余り有り度き儘なる次第也。あの躰にては、秀頼公を取立可被申心底とは思ひよらず。太閤の御恩を思ひ忘れぬ人々は、秀頼公へ忠節被成御尤也と何れも申合せ、景勝陣の隙を伺ひ旗を上げて、先づ五畿内・近国へ打出で合戦を先づ五畿内・近国へ打出で合戦をこそ初めけれ。 家康公会津へ御発向被成御供には、織田有楽子息河内守・山名禅閤・金森法印・同出雲守・山岡道阿弥・有馬法印・同玄蕃・京極侍従・羽柴越中守同与市郎・伊賀侍従・福嶋左衛門大夫・浅野左京・徳永式部・同左馬之助・蜂須賀長門守・黒田甲斐守・加藤左馬助・藤堂佐渡守・同宮内・生駒讃岐守・小出遠江守・田中兵部・同民部・中村式部名代中村十左衛門・同彦右衛門・堀尾信濃守・山内対馬守・一柳監物・津田長門守・同小平次・稲葉蔵人・古田織部・九鬼長門守・桑山相模守・亀井武蔵守・寺沢志摩守・石川玄蕃・天野周防守・奥平藤兵衛・河村助左衛門・山城宮内・頭藤三河守・佐久間河内守・石川伊豆守・赤井五郎作・岡田助右衛門・丹羽勘助・中村半左衛門・三好為三・大嶋雲平・長谷川甚兵衛・三好新右衛門・舟越五郎右衛門・兼松又四郎・池田備後守・同治右衛門・平松五左衛門・佐々淡路守・本多若狭守・落合新八・木村宗兵衛・中村又蔵・野瀬惣左衛門・ゝ水小八郎・柘植平右衛門・佐久間久右衛門・同源六郎・祖父江法斎・鈴木越中守・伊丹兵庫・村越兵庫・別所孫次郎・本多因幡守・松倉豊後守・神保長三郎・秋山右近・野尻彦右衛門・仙石少仁・田中清六・施薬院、其の勢都合五万五千八百余人也。七月朔日鎌倉に一日御逗留ありて、鶴岡八幡宮御造営の儀被仰渡、其の日金川に御陣をすゑられ、翌日江戸御着あり。関東表御陣触ありて、七月五日に相極り、大手白川口は家康公、仙道口は佐竹義宣、伊達・信夫口は伊達正宗、米沢口は山形出羽守義光、越後津川口は北国勢に前田利長大将にて、堀久太郎・溝口伯耆守父子・村上周防守父子、七月二十一日大手搦手相図相極め可切入との御触也。然るに佐竹は、先手御免下さるべし、若輩にして大事の所に候間、二の手へ御加へ被下候へと断申すに付き、其の通に被成、正宗と入替る。佐竹は常陸の国主なれば、景勝一味かと諸人申しあへり。家康公は下野の小山に御陣を居ゑらる。昔頼朝公奥州発向の吉例とぞ聞えける。諸大名は茅野・太田原表へ出張して陣取也。 景勝は陸奥・下野の堺の白坂より白川まで革籠ケ原を陣場【 NDLJP:65】と極め、竹木等を払ひ待居たり。又忍部・福嶋の城には、粟田・青柳其の外会津浪人三百余騎、岡野左内・富田将監を大将として籠置る。仙道口柳川城に須田大炊、加勢に車丹波、百騎にて立籠る。白石の城には甘粕備後を置く。白石は正宗が手寄なれば、甘粕備後が弟式部と云ふ者を謀事にて落す。備後はゆめ〳〵不知会津へ参る。其の後を窺ひ正宗より攻入りければ、難なく攻落されて、白川の城正宗が手に入りければ、片倉小十郎入替る。正宗は勝に乗りて国見峠を越え、忍部へ働き出で柳川の城を押へしに、城中の侍ども名乗りて真先に進む。岡野左内・青木新兵衛・才伊豆入道・永井道好・渡辺藤左衛門・北川伝兵衛・北川了佐・鈴木彦九郎、五十騎計にて福嶋の城より討出で、一里計隔てありけるに、正宗が五千騎は柳川の城の押へに置き、一万五千騎福嶋へ働き出づる。件の侍共大に驚き、岡野は正宗と太刀打し、才は馬上にて切られ馬より下へ落さるゝ。青木新兵衛は加勢を致し、互に討死なく、正宗早々引取りけり。会津の浪人共も引取りて、福嶋の城外構に柵をふり、陣小屋をかけ守り居る。岡野左内働きすぐれければ、景勝より錦の羽織団扇をあたへけり。岡野手柄と云ふべし。 正宗福嶋へ働き出でらるゝ後へ、柳川の城主須田大炊五千余騎にて城より打出で、正宗本陣へ押込み、旗・幕等取持た廿、柳川へ引返す。正宗此の由聞付けて福嶋より引返す。され共敵引取る後なれば力不及、国見峠へ打上り自国へ引入る所を、車丹波足軽を懸けて追付き、正宗の人数を討ちとる。正宗の舅三春の城主田村清秋、伯父重実へ申遣しけるは、今度両度の合戦は敵の利に似たり。白石の城を取るといへ共さして威光に成り難く、いかがせんといへば、木幡四郎左衛門と云ふ侍大将申しけるは、仰尤に候、明日は某が人数を以て福嶋の城を攻取り可申と有りければ、何れも尤と同じ、則ち翌日早天に四郎左衛門百騎計にて城下迄働く。岡野越後守是を見て、今日の物見は武者を待つ躰なり。卒爾に出づる事なかれ。是れ味方を誘引する謀事也。木戸を制禁して一人も不可出と鈴木彦九郎に申付く。彦九郎承り、此の物見の中に正宗か清秋・重実三人の内一人大将あるべし、是非にくひとめ可申といひ捨てかけ出す。岡野越後守も続いて出でにけり。二十騎の物見一手宛並びて居る所へ、鉄炮打懸けければ、是に乱るゝ所を彦九郎以下逸足を出し懸入りければ、木幡四郎左衛門どつと返し鑓を合すに、越後守立向ふ。彦九郎脇鑓にて突倒し高名す。大将討たれければ、残兵共早々引取り退散す。其の時の褒美に鈴木彦九郎を、同名岡野猪右衛門にぞなしにける。 会津若松の城には、直江山城景勝へ申しけるは、内府下野宇都宮の城に陣を移されけるとは申せども、白川表へ勢づかひも無御座、上方の様子聞合さるゝと見え申候。其の間に此の陣を出羽の山形へ押寄せ、出羽守を味方に仕候はんと望みければ、景勝申さるゝは、勝利の上にこそ左もあるべけれ。去ながら白川表のみならず、越後堀久太郎・前田利長、津川口より押入る共云ふなれば、会津城下の合戦も心元なく、如何思案あるべきと被申ければ、直江重ねて申しけるは、白川表の事は御心易く思召せ。いかんとなれば家康もさして御敵とは思しめすまじ。上意なればもだし難く寄せ給ふ成るべし。其の上にも大事なれば、白川の城堅固に拵へ、安田下総介・嶋津下総介に定められば御心易く。又津川口の事は、道細く難所なれば敵は寄せがたし。侍大将一人に足軽十組計にて心易き所也。其の上津川口難義に候はゞ、山形の城を仕寄に仕り早々引上ぐべし。又附城をつけ、重ねて手間を得ざる様に仕り引取可申と、色々理を尽し申しければ、景勝も尤と同じ、福原常陸を召して今度最上の武者奉行を命じ、三の手組を定めらるゝ。一番春日右衛門大夫、二番苧川修理、三番上泉主水、都合一万余騎、直江山城守旗下後備八千余騎、其の勢都合二万騎にて、出羽山形・最上へこそは押寄せけれ。 直江山城守は山形へ発向し、初は山口より切入るべきに定めけるが、中途より山へ懸り押行く。諸軍不思議に思ふ所に、山の手に初瀬堂・幡屋・谷・境とて、山中に山形持城三・四ケ所有りけるに、初瀬堂の城主は直江山城守先手の将春日右衛門大夫と知る人なれば、使を遣しければ其の返事に、今度山形へ御働御大儀の所也。然れば我等預りの初瀬堂の城を御旗先見え次第に相渡可申候。山城殿へ我等の儀無相違【 NDLJP:66】被召置は、其方深恩たるべしと申越す。直江不斜悦びて、使者に引出物などあたへ帰しけり。此の事杉原常陸守聞付けて大に腹を立て、直江が本陣に来り申しけるは、承り候へば敵城より内通有之、味方吉事と下々取沙汰に及び候。誠にて候哉承度と申しければ、山城守聞きて、右の通りの次第、又山道に懸るべしとの義を語りければ、杉原又申しけるは、惣軍をば初瀬堂の方へ遣間敷候。春日右衛門一人御請取に被遣候へば、残る人数は早々山形へ押し給へ。根城さへ落去仕候はゞ、枝城は物の数にもあらずと云ふ。山城守聞きて、杉原殿は武者奉行なれば御尤なれ共、可渡と云ふ城を指置きて通る事の可有や、是非共初瀬堂へ懸るべしと有りければ、杉原重ねて申しけるは、山形辺の道と初瀬堂の行程は三日路も違ひ申すべし。初瀬堂の長途を経廻らせて、其の間に山形籠城の人数を集め、兵粮以下まで用意して待請けんとの謀事成べし。是れ赤松入道円心が播州白旗の城にて新田義貞を計る時の手だてと存ずる由申しけれ共、直江は不聞入、惣軍勢初瀬堂の城へ押寄せければ、城中より鉄炮を打ちけれ共早々降参致し、人質を出しければ城を請取り、夫より直ちに幡屋の城へぞ押寄せける。 直江山城守は初瀬堂の城を請取りて、心地よく此の勢ひに乗りて幡屋の城へ押寄せ見てあれば、城中の惣廻りに水をたゞへて、中々可打寄様はなし。直江兼ねて聞きしは加様にはなかりしが、不思議さよと思ひ、俄の掛水か見て参れと、物見十人計遣し瀬ぶみさせければ、城中より若者共出合ひ討つて懸り、互に鑓にてたゝき合ふ。直江難義に思ふ所へ、高泉主水本陣見廻りに来るを、山城守申しけるは、若者共を瀬ぶみに遣す所にくひとめられたり、早々行きて引上げ給へと申しければ、異議に不及主水鑓を持て懸入り突立てけるが、多勢なれば二・三度こみ返し、終に主水討死しけり。城中是にきほひ、三百余騎押出し、直江を散々に討ちらす。山城守不叶、先づ引取りて明日の合戦と定めける。杉原常陸守は此の由を聞きて、一手の頭をする高泉程の弓取に似合ぬ事哉、いかに大将の下知にても、軽々敷行く所にあらず、人数を出し一合戦して、其の上に多勢にて追払はゞ、今日此の城乗取るべきにと千悔す。果して俄の堤の事なれば、人足を入れて土手を切流し、城中へ乱入して火の手を上げて乗取りたり。谷の城・境の者共相図の狼煙かと心得、何れも後詰に来りけれ共、早落城致しける故、直ちに打つて懸り旗本を切乱す。何れも途に迷ふ折節、前田慶次郎・水野藤兵衛・韮塚理右衛門・藤田半右衛門、しつはらひ故押し合ひ〳〵打散しけるが、陣中に色々雑説多くして、山形へ、も不懸、早々会津へ引取りけり。 美濃国の住人加賀井弥八郎は石田三成方へ参り、我れ小身者にて一方のかためにも用立ち難し。此の度内府へ参る躰にもてなして本陣に近付き、井伊兵部か本多佐渡の内一人は討取るべし。然らばせがれの義頼入る由申しければ、石田聞きて、忝き御志、運ひらき候はゞ美濃・尾張・三河三ケ国は疑ひなく子息に進らせ申すべしと、折紙に脇指添へて弥八郎に遣す。加賀井満足して関東へぞ下りける。其の頃堀尾帯刀は越前府中に隠居し、子息堀尾信濃守は遠州浜松の城主也。帯刀為見舞浜松へ行かんと、池鯉鮒の宿に着きけるが、弥八郎に出合うて、あら珍らしやいかに〳〵と咄など致す。帯刀申しけるは、其の元は元来石田と懇意也、何しに関東へ行くぞといへは、弥八郎申しけるは、内府公へ心ざして参る也、石田とは組せずといへば、帯刀申しけるは、石田入魂と云ふ事は家康公も御存知也、併し其の義必定ならば、此の所苅屋の城主水野惣兵衛は家康公の御小舅也。只今是へ見舞に被参べし。近付に成りて内府の御前の事頼被申よとありしかば、弥八郎大に悦び、池鯉鮒に泊りありけるに、案の如く水野被参、三人寄合ひて酒盛になる。弥八郎大脇指を抜いて水野を一太刀に討留めたり。帯刀心得たりと云ふ儘に、弥八郎を討留めたり。水野の家来共堀尾帯刀を取まはす。帯刀様々言訳し、先づ惣兵衛殿の死骸を城へ引取り納め給へ、我等も夫へ可参とて、惣兵衛死骸を城中へ引取り、帯刀は浜松の城へ引取りけり。此の事関東へ聞え、堀尾こそ水野を討取りたりと家康公の上聞に達す。せがれ信濃守は御供也、急ぎ切腹させよと被仰渡。池田三左衛門奉行にて先づ当分預り置きしが、後に堀尾如在なきに付き、信濃守も御目見被仰付ける。 【 NDLJP:67】石田に組する人々には、毛利輝元子息安芸中納言・吉川侍従広家・吉川元安・立花左近将監・安国寺恵瓊・鍋嶋信濃守・相良宮内・高橋九郎・秋月三郎・久留米藤四郎・筑前中納言・筑紫上野介・有馬修理亮・後藤大和守・平戸法印・備前中納言・堅田兵部少輔、都合其の勢九万三千百余騎、大坂・伏見・淀・鳥羽辺に陣取り、七月十八日に伏見の城可請取との使を立てけれ共、家康公より堅固に番衆を被置ければ、更に承引せずして、剰へ城内より近辺を焼払ひ、又佐野肥後・不破清十郎両人は江州の御代官也、岩間兵庫は諸奉行職なれば、此の事を聞きて右三人伏見の城へ籠りける。同十九日大坂西の丸に家康公より置かせらるゝ留守居の面々、石田方に追立てられ、伏見の城へ一手になる。其の後へ毛利輝元入替る也。伏見の城へ七月二十日に押寄せ攻落す人々には、筑前中納言・嶋津兵庫頭・増田右衛門・長束大蔵、秀頼公の御旗本鉄炮大将・弓の衆・鍋嶋加賀守等、火花を散し攻入る程に、城中たまり兼ね、鑓追取つて突出し、何れも討死致しけり。大将鳥居彦右衛門は長刀にてかけ出で、筑前中納言の家老雑賀孫市と鑓を合せ、互に勝負見えざれば、孫市云ひけるは、我を一人討留め給ひて運を開かるべきにあらず、鳥居殿程の弓取に似合はぬ所也、尋常に切腹し給へ、介錯可仕と申しければ、尤也とて切腹す。孫市は首を取り、石田聞きて比類なしとて感状を出す。宇治の上林竹庵も伏見にありて、大いなる働して討死致しけり。
石田方の軍勢、大津の城京極宰相若狭守高次へ向ふ人々には、吉川元安・立花左近・久留米藤四郎・筑紫上野介・堅田兵部・南条中務・木下備中・石川掃部、秀頼公の御旗本弓鉄炮大将衆也。九月十四日に二の丸迄攻入りけるに、一日にて和談に成り、京極高次は高野山へ引入る。立花左近城に入りて城主と成りてありけるが、後に石田敗軍と聞くや否や大坂へ参り、秀頼公へ申上げけるは、関東を引請けて合戦被成候はゞ籠城可仕とありけるに、毛利・増田などが申分に評議極りて、是より案内せんと申しければ大に笑び、うか〳〵としたる臆病談合哉と、伝法の浦口より舟に乗り千騎計にて居城柳川へ引入る。此の由家康公被聞召、頓て鍋嶋に被仰付。鍋嶋は御勘当御赦免を蒙り、忝き由申上げ、龍造寺を打立ち柳川へ押寄せ、久留米口にて大に戦ひけるが、大坂も和談に成ると聞き、立花も御詫言申上げければ、鍋嶋心得たりと請合ひ、左近は柳川の城を明けて京都へ登りありしが、鍋嶋より段々申上げ、四年浪人の上に、立花御赦免を蒙り本領を下さる。其の時小松の丹羽長重も二本松にて本知拾万石被下也。石川掃部は流浪してありけるを、井伊兵部聞付けて押詰め切腹致させし也。 田辺の城には長岡幽斎藤孝入道居城なるを、石田方小野木縫殿之助千騎計にて攻めけるに、幽斎の聟鳥丸宰相禁裏へ奏せらるゝは、此の長岡家に相伝の古今集あり、此の人なくば相伝の古今断絶せんと御あつかひありて、幽斎城を明けて出らるゝ故、小野木入替る。此の時彼の書物共箱に入れ、幽斎封印にて烏丸殿に預置き、世静謐に成りて彼の書物を封の儘返す時、幽斎立旨請取りて歌を読み烏丸殿へ被遣けり。あけて見ぬ甲斐もありけり玉手箱再び帰る浦嶋が波
若狭国小浜の城主京極少将勝俊は、右の田辺の城攻に、近隣に居ながら後巻せざる故に、臆病者の名を取り、天下に面目を失ふ故、剃髪して東山に庵を結び、長嘯と名乗り、一生の間歌道に世を過しけり。
伊勢国阿濃津の城富田左近、松坂の城古田織部、岩手の城稲葉蔵人、何れも石田方より攻落す。中にも岩手の城は能く持こたへ働きけるが、寄手は鳥羽の城主九鬼大隅也。終に攻落し、尾張・三河の灘浦へ乱妨して放火致しけるが、石田方敗軍と聞き、家康公に恐れ高野山へ引入り隠れ居たり。去れ共尋出され切腹す。石田方の大将江州水口の城には長束伊賀守、亀山の城には山本下野守、神戸の城には羽柴下総守、桑名の城には氏家内膳、大坂の城には石田治部少輔・小西摂津守・備前中納言・嶋津兵庫頭・相良宮内・高橋九郎・市橋主膳・秋月三郎・熊谷内蔵・筧和泉・川尻肥前・杉原右馬・森惣左衛門、都合其の勢二万余騎にて堅めたり。横合には岐阜中納言、尾張犬山の城主石川備前・稲葉右馬・丸毛三郎兵衛・福原右馬・木村惣左衛門・羽柴彦六・生熊玄蕃・加藤左衛門七千余騎にて楯籠り、関東勢を横合に討取らん【 NDLJP:68】と待居たり。 七月十九日関東にて白川口へ御人数を被遣、御先手秀忠公並に結城秀康公・松平下総守・羽柴藤三郎・皆川山城守・成田左門・真田伊豆守・蒲生下野守・榊原式部大輔・井伊兵部少輔・本多中務大輔・日根源太郎・石川玄蕃頭・森右近・仙石越前守・多賀谷左近・水野右京・山川式部、都合其の勢六万九千三百余騎也。先陣佐久山・大田原に陣をとれば、後陣は古川・栗橋に打続きて陣取りけり。七月二十一日家康公江戸御発駕、下野の小山に御着陣被成ける。然る所に上方より追々飛脚到来し、石田三成五畿内近国切りしたがへ、関東へ向ふと上聞に達す。家康公被聞召、前には大敵をかゝへ、後には西国人数数万也、とやせんかくやと忘却有りて御相談の所に、結城三河守秀康公の仰には、愚案の存ずる所は、景勝の儀は遠国の事也、上方こそは大事と奉存所也。早々上方へ御進発ありて可然候はんと被仰上ければ、本多佐渡守汝は何と思ふぞと仰らる。佐渡守承りて申上げけるは、扨々御果報いみじき我君哉、かゝる御分別深き御子を御持被成、弥御威光あまねし。只今秀康公の被仰様無双の御分別、ひとへに天の告と奉存と申上げければ、秀康公又被仰上は、身不肖に御座候へ共、宇都宮まで我等在陣仕り、景勝を押へ可申。早々江戸へ御馬を被為入、御上洛被成候へとありしかば、内府御機嫌能く江戸へ御引取り、上方筋御味方に可被仰合御使に、山城宮内上洛致しけり。秀忠公も宇都宮まで御出馬の所に、上方へ御供と仰に付き、中仙道を打つて通らせ給ひけり。御供の人々には森右近・真田伊豆・仙石越前・榊原式部・大久保相摸・坂井右京・日根筑後・石川玄蕃・本多佐渡、其の勢都合三万八千七百余騎也。然るに真田安房守昌幸は、父子一所に御供の所に、石田よりの飛脚上野国佐野の天妙と云ふ所にて出合ひ、書札披見の所に、此の度ひとへに御味方頼入る由申来るに付き、安房守は兄弟の子供伊豆と左衛門佐に為申聞ければ、伊豆は一向同心せず、父に色々諫言すといへ共不聞入、父子早や不通に成り美濃路まで来りけるが、伊豆と備を立分けて、安房守・左衛門佐は信州小県郡伊勢崎の城へ引込み、一里四方の竹木を伐り、塀柵を付廻し、籠城の用意致しけり。 秀忠公は三万余騎にて中仙道を押給ふ所に、真田父子心を変じて居城に引籠る故、信州伊勢崎の城へ先づ押寄せ、染屋半の上より城中を見下し備を立て給ふ。かゝる所に真田安房守、歩武者五六騎打連れ城外を乗廻す。秀忠公御覧ありて、安房と見たるぞ鉄炮にて打たせよと被仰ければ、依田肥前畏りて、足軽五十人に鉄炮を打たせければ、 安房守さあらぬ躰にて城中へ引入る。九月六日辰の刻根津長左衛門持口より、依田兵部・山本清右衛門物見として、虎口より二町計向うに堤のありける所へ出で、敵の色を見る所を、真田の歩武者斎藤左助山伏の出立にて鑓玉を取り進み出で名乗る所に、牧野右馬亮が手の侍に神子田典膳・辻太郎、文字に駈来りければ、左助貝吹きて逃去る。右両人依田・山本が居たる堤の方へ向き来り、堤の上と下にて鑓を合す。神子田典膳堤の内へ飛入る。懸る所へ朝倉藤十郎・中山勘解由・戸田半平・鎮田市右衛門・太田善太夫五人馳来る。太田は鑓脇の弓、山本は朱柄の鑓打折り四ケ所疵を蒙り、両方引取る所に、兵部深手負ひ虎口の脇にて倒れけるを、典膳首を取らんと刀を秡き、依田が面を一刀切り、続いて辻も一刀きる。山本走寄り両人を追払ひ、兵部を虎口へ引入え、敵共多勢にて門際へ押来る。根津長左衛門透間もなく鉄炮を打たせ追払ふに、敵共少ししらみて引退くを、猶も鉄炮きび敷打立て門を閉ぢけり。真田七本鑓と云ひ習はするは此のせり合の事也。神子田典膳後には小野次郎右衛門と云ひ、朝倉藤十郎は筑後守と云ふ。右のせり合終りて、虎口ぎはにて依田が面も切る事、神子田典膳・辻太郎前後の争ひに成りて、正面を切る者初太刀になる。大手先と染屋平の間に小社有りて森ありけるに、城中より足軽を出し相さゝへける。牧野右馬・子息新次郎両人出向ひ追込めける。然る所に御軍法を破るとありて、大久保相摸守・酒井宮内・本多美濃三人の旗奉行切腹被仰付に極る。是れ本多佐渡守指図申すと聞えたり。牧野父子の働を秀忠公被聞召、御感に入り、無程御赦免被成けり。爰に本多中務娘を真田伊豆守に嫁して、依田の城に居す。伊豆の妻女つく〴〵と思ふ様は、親にても安房守居城を子の身として攻めける間、家来共心変ずる事あらんと思案して、伊豆守出陣にて後も【 NDLJP:69】淋し、家老共の妻子共登城して慰めよとて人質に取置き、上田へ其の通り注進有りければ、何れも伊豆守に同心すと聞えけり。勇士の娘とて皆々感じあへり。奥平美作次男を菅沼小大膳養子に被仰付、菅沼忠七と申しける。秀忠公御供に被召連、上田城搦手に向ひ小曲輪一つ攻取りける。朝日十助・奥平左衛門一番に攻入る。秀忠公の上意には、此の小城一つ其の儘打捨て不攻落して可置様なし。明早天に四方より攻落さんと仰出されければ、本多佐渡・大久保相摸等承り、御意御尤に候へ共、内府公思召には、上方こそ大事也、大事の前の小事なれば、内府公の御咎我々可罷蒙候。某共の人数明日城攻御免被下候へと、達て申上ければ、無是非城攻は止みにけり。其の内に上方も急に成りける由申来るに付き、秀忠公も是非に不及、上方へ一騎がけに登らせ給ふ。其の時の御供中十五人ならでは不続、早や石田敗軍して家康公御利運にならせ給ひ、草津へ御陣を居ゑられける所へ、夜通しに御駈付被成、御目見とぞ聞えけり。上田の真田安房守父子はあつかひに成りて、高野山へ引入りける。是れ併し伊豆守が此の度の忠節に依りて一命御助け也。去れども安房守は一両年過ぎて病死し、二男左衛門佐高野に存命す。慶長の末大坂陣の時、真田左衛門佐大坂に籠城して、日本無双と天下に名を上げけるとなり。 去る程に家康公は白川より江戸へ御帰城ありて、諸将列座の処に、酒井左衛門を以て被仰出けるは、何れも上方へ一味して妻子共大坂に置く者共、早々御暇申し可罷登と被仰出。上意承り何も誓紙を上ける故、家康公御感ありける。其の時福嶋左衛門大夫進出で被申けるは、倩々愚案を廻らす所に、此の度の戦場は秀頼公は御幼少にて何の弁へも候まじ。石田一人の所為にて候べし。加様の者の下に付き、両公を疎意に可仕にあらず。青野が原の草露と成りて名を残し可申間、某に御先手御赦免に於ては忝く奉存べし。清洲は我等居城なれば、内府御陣をすゑられ、御下知を被下候へと申上ければ、諸人感じ、家康公も御機嫌に応じ、福嶋に御先手被仰付、軍配を御定め、頓て御発向と相極る。先陣八月十四日に罷立ち、海道筋の人々には、苅屋の城主水野日向守、岡崎の城主田中兵部、吉田の城主池田三左衛門、浜松の城主堀尾信濃守、懸川の城主山内対馬守、駿府の城主中村式部は病気にて家老人数を引率す。遠近に随うて尾張清洲に集り、上方の様子を聞き、御先手の御横目井伊兵部に被仰付。諸手の大将集り次第濃州へ押すべしと相談ありて、先づ河上河田の渡りを越えらるゝ人々には、池田三左衛門・浅野左京・有馬玄蕃・松平右兵衛・山内対馬守・堀尾信濃守・一柳監物也。下の渡りを被越人々には、福嶋左衛門大夫・羽柴越中守・京極侍従・黒田甲斐守・加藤左馬介・藤堂佐渡守を定めらる。福嶋被申けるは、某は河下の萩原の渡より小越の渡を打越え火の手を上ぐべし。其の時河上を渡られ候へと被申ければ、何れも尤と同ず。八月二十三日福嶋萩原を渡り、西美濃より廻りければ、敵共足軽を出しさゝへけり。小越の渡り打越え、太郎村の近辺焼払ひ、其の夜は太郎村にて夜を明す。明くれば八月二十四日岐阜町口へ押寄ける。川越の一番は一柳監物也。岐阜中納言秀信も閻魔堂まで出陣ありて、飯沼勘兵衛に足軽を添へ、追つ返しつ戦ふに、城方打負け閻魔堂を破られければ、飯沼も引返し町口にて討死す。池田手の小岸惣右衛門先登に進み首を取る。津田藤三郎赤母衣・兼松太郎黄母衣にて殿に残り、輪乗して踏留まる。敗軍なれば漸く城中へ引取る。此の者は一騎当千也。其の夜は妹嶋・姉嶋に陣取り、八月二十五日未明に福嶋・池田一手に成り岐阜城を攻落す。福嶋は瑞龍寺の取出より懸り、吉村又右衛門矢倉を取り、大脇茂右衛門大に働く。池田は案内者にて水の手へ懸り、本丸を攻落す。城は福嶋請取る。秀信をば池田三左衛門生捕る。後詰として石田・小西・久留米等、江渡の渡りまで駈付きければ、黒田甲斐守・田中兵部・藤堂佐渡守相向うて戦ふ。石田が士大将杉江勘兵衛を、田中の家臣松倉善左衛門討取る。関東勢は小川を越え、上方勢は行列みだれ散々に成り、石田・小西・嶋津三人漸く大垣の城へ引入り、軍の詮議してこそ居たりけれ。東国勢赤坂に陣取り、翌日虚空蔵山に陣どる。其の頃犬山の城主石川備前守は、上方一味にて本丸に籠る。二・三ノ丸は稲葉右京・羽柴彦八郎・生熊玄蕃・関長門加勢として籠りけるが、中頃より関東へ変改し、後には稲葉右京を討取らんと謀事を廻らす。稲葉在所郡上の城を金森五郎八攻めければ、留守居稲葉土佐坊大に働き、城落兼【 NDLJP:70】ねける所へ稲葉後詰に来り、夫より和談に成りにけり。 上方にて先陣合戦の次第家康公被聞召、九月朔日江戸御発向、三河表へ御出張あり。犬山の城に籠置れし稲葉右京、子息修理亮を以て申上けるは、大豆戸の渡しには柏原平助大軍にて罷出る。又嶋左近も二万余騎にて小牧表へ参陣せり。清洲へ懸り御出馬候へ、我等御迎に可罷出と申上ければ、御満足被成けり。十日尾張熱田に御陣、十一日清洲へ御陣を被寄、十二日御逗留ありて上方御進発の儀前後の縮り被仰付、清洲には石川長門を残し置かる。是は前後への事を通ずる役人也。十三日には美濃岐阜の城に御旗を立てらる。十四日には稲葉右京御迎に参り御案内申上ぐる。美濃国黒田左衛門も御礼申上げ、江渡の河上しつけと云ふ所より鵜舟数十艘集め、舟橋を掛け赤坂の御陣所へ入れ奉り、御旗本の面々虚空蔵山へ上り、堅固に陣をかためしむ。其の時西尾豊後も是より御供仕るなり。