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三壺聞書/巻之十

 
三壺聞書巻之十 目録
 
伊奈図書が事 一二七
 
オープンアクセス NDLJP:70
 
三壺聞書巻之十
 
 
 
慶長五年九月十四日大垣の城に集る大将石田治部少輔・小西摂津守・嶋津兵庫頭・相良宮内・高橋九郎・秋月三郎・筧和泉守・熊谷内蔵・河尻備前守・福原右馬・木村惣左衛門・丸毛三郎兵衛等也。昨十三日備前中納言一万余騎にて伊勢路より大垣の城へ着陣す。石田大に悦び城外まで迎ひに出で、対面して城中へ通じ、合戦の次第を相定む。備前中納言被申けるは。今日関東勢の陣屋を見て候に浅間敷為躰也。我等人数も疲れけれ共、今度の儀にて候間諸卒を頼み、今宵一夜討して先づ青野が原に陣取り、敵を打散し候はゞ定めて二陣は志を変ずる方もあるべし。左なくば明日虚空蔵山の陣を攻破るべし。此の儀御同心ならば諸大将へ被仰合候へとて、我が陣所へぞ被帰ける。石田三成いかゞ思慮ありけるやらん、此の約束を違へけると或人物語す。誠に天運いまだ至らざるにや、残多き事共なりと申しあへり。大垣の城と赤坂との間は近けれ共、城中より稲葉兵部以下足軽大将五・六人出で、中村式部・有馬玄蕃などゝ足軽せり合あり。野一色頼母討死す、中村家臣也。有馬内福沢右近は高名す。西の矢倉より家康公御覧ありて、本多忠勝・井伊直政を召して、今日は合戦悪しい、人数を上げよと下知ありける故、両人承り、頓て人数を引上けり。是を福田縄手の合戦とぞ申しける。
 
 
同日に嶋津兵庫頭人数は大垣に居余りければ、大垣の木戸堤際まで陣取りけり。関東方水野三左衛門は、赤坂東北に当りて曽根といふ所に古城あり、是に陣取る。大垣の木戸に近し。互に足軽を出しせり合ひける。是を大垣・木戸のせり合といふ。同日家康公諸臣を召して被仰出けるは、敵は大軍也、しかも大垣の名城に籠る。味方より手を出す事成り難し。今日福田縄手の足軽を留めし事も下心あれば也。各存寄もあらば遠慮なく申上げよと御意の所に、本多中務・井伊兵部被申上は、御意の如く敵は能き要害に居ながら、後は又味方の地也。御陣は敵の真中といひ、しかも仮陣屋オープンアクセス NDLJP:71也。兎角関ケ原の少し此方に、竹中丹後居城菩提の城あり、小城には候へ共、足懸も候へば、此の城を御借り御本陣と御定被成候へと申上げければ、家康公御聞ありて、尤然るべし。去ながら此の陣を払ひて菩提の城へ大軍を入るゝ事なり難し。如何なれば大垣へ程近し、後殿を討つべし、是れ何より難儀也と被仰。其の時井伊兵部被申上は、御諚御尤には候へ共、某存じ候は、大軍の御先手をば菩提近辺まで押詰させ可申候。則ち此の上の山より菩提城まで樵夫の通ひ道も御座候、年来見置申て候、道も広く候と申上げければ、家康公殊の外御感あり。奇特不思議の者かな、東国の山ならば鹿狩などの便に見置く事もあるべし。上方の道筋日頃の勘弁誠に弓馬の智識也。さらば菩提へ案内申すべし。先手の人数は一人に付き竹一本・木一本・縄三尋宛持行くべしと触れさせ、武者押の次第まで一時に御定めあり。夜も早や亥の刻に成り、西楼より大垣まで明松夥敷続く。又西国より大垣へ加勢を入ると思召し、使番を被遣。暫くありて帰り申上げけるは、西国より人数を入るゝにては候はず、石田以下何方へやらん落行く躰に見え候と申上ぐる。家康公御意には、夫は味方の吉事也。さらば先手へ宵の軍法ばかりにて、竹・木・縄も不入間、只昨日の如く次第して関ケ原まで一番鳥に先手を可押行と仰出さる。福島左衛門大夫・同丹波が東備へより西に向ひて押行くに、石田は牧田より小関野を南に向ひて押しけるに、関ケ原の町にて十文字に行合ひければ、丹波が備へ三成後陣に付きて小荷駄を追払ひ、首を討取り血祭に致しけり。石田三成已下十三日子の刻に大垣を出で、南宮山を廻り牧田に出で、北国海道に懸り、小関野といふ所に天戸山といふ丸山あり。池を負ひて能き陣所なれば、石田・小西・嶋津此の所に十五日の早天に陣取り、小西を右備、嶋津は北国海道を引下り立切り、後備と見えたり。嶋左近は小池の宿のはづれに柵を付け備を立る。是れ三成が先手也。残る上方衆は小西が左の手先より山中峠の下まで備前中納言を頭備として、大谷刑部・平塚因幡・木下山城守・戸田武蔵守・同内記・脇坂中務・朽木河内守・小川土佐守・子息左馬・赤座久兵衛等備を立つる。松尾山の城には、筑前中納言他の備をまじへず陣どる。南宮山には勢州阿濃津を攻めける人数取上り備へたり。安芸中納言・吉川侍従・長曽我部土佐守・毛利安芸守・長束大蔵、其の勢都合三万余騎とぞ聞えける。
 
 
同日家康公の御先手福嶋正則は、不破の関屋の明神の森を後に当て、山中宿の海道を立切る。此の手の御目付は井伊直政也。兵部此の陣に参る道にて関長門守に行逢ひたり。長門守申しけるは、我等備は何方へ立可申哉、御下知承度しと申しければ、直政聞きて、御人数の儀、我等人数と一所に御押候へ、貴殿も我等と同道可申、御前の儀我等に御任せ可有と申に付き、長門守辱き由にて同道し行く所に、横合より本多忠勝馳来り、直政に逢ひて其の方は何方へと申しければ、直政聞きて、御先手へ参ると答へけり。忠勝大に怒り、我等こそ御先手也、其の方は叶ふまじきと鑓を横たへ申しければ、直政聞きて、貴殿へ御先手仰付らるゝは昨晩と覚えたり、我等は今朝仰付らるゝと申す時、忠勝鑓の鞘をはづし、先へはやるまじといふ儘に取つて懸る時、関長門守両馬の間にかけ入り、何事も天下分目の前にて、狼藉は不忠の至り也と理をせめて申ければ、忠勝言葉もなく右の手先へ乗行く。其の時兵部は長門守と打連れ、福嶋陣へ打入りけり。
 
 
家康公の御本陣は関ケ原と野上との間、南宮山の尾崎に御旗を被立、御後備は大須賀出羽・本多丹下也。又木全右京は井伊兵部同勢を引率して、御旗本の道筋を請けて北国海道を乾に向ひて備を立る。松平下総守は福島備より引下して、上方海道を立切る。藤堂佐渡守は下野殿備の左、牧田海道に陣取る。右の手先雪吹山の麓には、金森法印・同出雲守・田中兵部、中筋は黒田甲斐守・加藤左馬介・羽柴越中守、又南宮山に居陣する中国・四国の勢共の押へには、池田三左衛門・浅野左京両手の備を垂井近辺に残し給ふ也。又押勢と御旗本の間に雪吹河原には、本多中務同勢一手を残し給ふ也。九月十五日朝霧深く小雨ふり、合戦辰の刻に初る。其の節霧も晴れ退く。筑前中納言は内々家康公へ御味方との内通也。去れ共爾々色も見せざりき。諸人は是を不知。去ながら石田三成が備の立様は、筑前中納言を敵と思ひけりと見えたり。又平塚因幡守・戸田武蔵守両人は、オープンアクセス NDLJP:72筑前中納言を打果しに陣所へ行きけれども対面せず共いへり。是れ実なれば諸人不知共云ひがたし。脇坂中務・朽木河内守・小川土佐守・赤座久兵衛四人は、筑前中納言と同志也。合戦の次第は先手足軽鉄炮初は福嶋丹後、鑓初は宇喜多衆団九郎兵衛分目の一番首を取る。御旗本酒井左衛門祖父江法斎・森勘解由・奥平藤兵衛物見に出る。又小関野表にては金森父子・田中兵部山手より足軽を懸る。嶋左近少し手負ひ色めく。石田先手へ使者を遣し、時分は能きぞ懸るべしとの使也。則ち萩原鹿之助参りて、嶋左近等へ申して萩原鑓を初めけり。左近切勝つて追崩す。石田三成は天満山の備を崩して、鬨の声を揚げ二陣に進む。小西も陣脇より勢を下す時、松尾山より筑前中納言の家老稲葉内匠・松野主馬真先に進んで横合に突懸る。大谷刑部・平塚因幡已下の侍切崩され、小西行長が手へくづれ掛る。脇坂・朽木・小川・赤座は石田が手へ切かけ、頓て敗北す。筑前中納言の旗本へ木下山城守切懸るに、木下切崩されて敗走す。松平下野守此の時高名す。井伊直政後見申しけり。大谷刑部は家康公と内々御懇意なれば、関東へ参るべしと存ずる所に、石田是非共と再三頼むに付き、此の度馬上にて切腹す。下河原惣兵衛・岩佐五助、大谷が首の皮をはぎ田の中へ埋め、三十騎同じ枕に切腹す。大谷悪病故兼ねて申置くと聞えけり。平塚因幡守も討死す。筑前中納言は三百余騎にて家康公へ御目見申上らるゝ。ゆゝしかりける有様なり。斯くて家康公は、山中宿大谷刑部陣屋へ入御有り、御先手井伊兵部は今須の宿に陣どる。合戦は辰の刻に始り、未の上刻に終る。其の日の暮に家康公磨針峠へ御陣を被移、佐和山の城を攻めさせ給ふ。田中兵部・石川左衛門に被仰付ける。城中には舎兄石田木工頭預り居ける。家康公攻口を御覧あるに、赤旗にて早く城中へ攻入りける。物見を召され誰なるぞ見て参れとある。物見畏りて馳行くに、石川左衛門・同雅楽助旗九本松原口より入る。同三本は石川民部切通しより押込候と申上ぐる。家康公聞し召し、彼等三人は石川与力十七人の内也、根本用人ぞと被仰、御気色よかりしとかや。佐和山落城しければ、石田隠岐守・同木工頭・子息左近・宇田下野守等切腹す。郎等土田東雲介錯す。九月十六日家康公野波里東山に御陣有りて、水野六左衛門・津軽右京大夫両人に大垣の城請取に遣さる。城中には福原右馬石田三成の姪聟たるに依りて、是を大将として本丸に居住す。二・三ノ丸には相良宮内・高橋左近・秋月長門守・筧和泉守・熊谷内蔵・木村惣左衛門相守る。高橋・相良・秋月三人申合せ、木村惣左衛門・筧和泉守・熊谷内蔵三人の首を取りて降参す。福原右馬是非に及ばず御詫言申上ぐる。伊勢国八田へ流罪せらるゝ由にて、大垣の大橋下より船に乗せ出でけるが、船中にて切腹させ、供廻りの者共は助けて返し遣さる。扨今度関ケ原合戦に比類なき働して、末代に家を興す人多かりき。又何の故もなく石田に組して、末代まで栄ゆべき家を亡す人もあり。石川出雲守は此の度一番首の高名也。津田長門守と戸田武蔵守鑓を合せ、織田河内守来て武蔵守を突伏せ首を取る。武蔵守家老鶴見金左衛門津田長門守に首をとらる。金森父子・田中・黒田・加藤・細川此の人々は嶋津・石田・大谷・宇喜多の人々の手合にての働、古今稀なる次第也。関東勢の内伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門・奥平藤兵衛などは討死を遂げたり。福嶋正則声を揚げ、今そこ味方勝利也。攻めやと呼はりければ、福嶋家中福嶋丹波・小関石見・長尾隼人・初尾才蔵・吉村又右衛門・大橋茂右衛門、是等敵を切り来る。佐渡守が家来藤堂玄蕃と嶋新吉と組合ひけるが、玄蕃下手に成り首かゝれんとせし所へ、玄蕃が家来新吉が甲のまびさしを引あふのけ、玄蕃に首を為取けり。石川備前守は尾張犬山の城主なれ共降参し、伊勢の浅間に引入りありけれ共、石田三成関ケ原へ切つて出でたると聞き、十五日の合戦に長刀引さげ切つて出る。かゝる所へ本多三弥鎌鑓持つて出合ひ、互に火出る程戦ふ。然る所に石田敗軍と聞き、せんなき戦とて相引に退去す。後備前守剃髪して町人になり、石川宗林と申しけり。其の後本多と縁者になり、右の場の事昔語しなぐさみけり。嶋津兵庫頭義弘は三千余騎にて、数万騎の軍勢の中を押分け駈通る。筑前中納言秀秋は関東へ降参して別に忠義もあらざれば、嶋津を打留め忠節にせんと思ひ、一万余騎にてかけ向ひ、四方に分つて嶋津を取込め、火花を散し攻戦ふ。嶋津中務是を見て一番に進み、嶋津兵庫頭自害をするぞ首とれと甲の緒を切り、腹十文字にかき切りければ、我れ首とらん人とらんと争ふ内、嶋津兵庫頭は五十騎計の勢にて伊オープンアクセス NDLJP:73賀越に懸り、薩摩国へ引籠る。弟中務兄の兵庫が命に代る事、無双の人也と諸人感じあへり。山崎左馬介は石田と念頃に申合ひ、田辺の城の攻手なりけるに家康公へ背く事を後悔に存ずる所に、池田三左衛門輝政聟也、又輝政は家康公の御聟也、此の御腹に左衛門・藤松とて御兄弟の子有り。藤松をば後に宮内と云ふ。此の子供を母諸共に大坂の人質に置きける。此の度山崎左馬介大坂へ参り、右の人質をたばかり出して本国へ送る、忠節にて、結句左馬介へ三万石御加増被下けり。長曽我部土佐守は、石田敗軍故土佐へ落行き引籠るに付き、山内対馬守・加藤左馬介・蜂須賀阿波守を被遣、長曽我部を生捕り指上ぐる。土佐守も随分御詫言申上げ、一命を助かり町人になり、祐務入道と名乗り、後大坂に籠城して長曽我部宮内少輔と云ふ。木村長門守・後藤又兵衛・此の長曽我部三人、井伊・藤堂と戦ひ、二人は討死、長曽我部は八幡の芦原辺に隠れ居けるを、搦捕りて城の柵木にしばり付け、成敗して獄門に被掛けり。石田治部少輔三成は浅井郡草の谷脇坂と云ふ所の岩陰に、衣類見苦敷つゞれを着し、鎌をさし破れ笠にて居たる所へ、田中兵部家臣田中伝左衛門見知りて搦めとる。ふどころに一尺三寸の貞宗の脇指有り、太閤御遺物に被下脇指也。家康公上聞に達し、石田には御小袖被下、田中には筑後国を被下ける。小西摂津守行長は信州雪吹山の麓糟谷の山陰に隠れ居たりしを、関ケ原の林蔵主見知りて搦捕り上る。内々遺恨ある故也。金子百両林蔵主に被下ける。安国寺は毛利輝元同道して草津まで出でけるが、何とか思慮のありけん、鞍馬へ行き月清院に一宿せしが、鞍馬を追出されて西の方へ出行くを、佐々木茂助と云ふ浪人安国寺を見付け、井伊兵部に為知生捕に成る。安国寺が子小姓上りに北村五郎右衛門と云ふ者大に働き、兵部が捕手二人討取り自害す。此の佐々木と云ふ者安国寺に遺恨ある故右の仕合也。備前宇喜多中納言父子三人、何方やらん隠れありしが、加州利長公の御妹聟なれば、死罪をなだめられ、八丈嶋へ流刑被仰付。真田伊豆守は家断絶せん事を思ひ計りて、親兄弟は石田に組するといへ共、伊豆守は御味方申しける故、信州松代を被下ける。長束大蔵は伊勢長嶋の城主也。石田敗軍して居城へ引込有之を、家康公より井伊兵部・藤堂佐渡を被遣合戦に及び、悉く討取りて大蔵首を取り指上ぐる。増田右衛門尉長盛は大和国郡山の城主也。是は罪浅し。家老高田小左衛門に人数を遣し、其の身は不罷出。依之関東岩付へ流刑被仰付。其の後大坂合戦に秀頼公方に成り討死す。毛利輝元・同宰相秀継・吉川元安南宮山にて裏返り、家康公の御味方に成り、嶋津を追ひし忠節に依て、死罪をなだめられ、安芸・備後・美作・出雲・石見を被召上、周防・長門両国を下さる。会津上杉景勝は御詫言を被申上に付き、結城参河守秀康の取成し故、慶長六年正月上洛有りて家康公礼を請けさせ給ひ、夫より御入魂に成り給ふ。秀康公今度の忠節に依りて越前一国被進、北の庄に城を築き、 福井と名付け御入城あり。家康公は二条の城へ被為入、畿内の武士の礼を請けさせ給ひ、九月廿三日大坂の城可請取とて、池田三左衛門・福島左衛門大夫・浅野左京・黒田甲斐守・有馬玄蕃・藤堂佐渡守を御使に被遣。井伊・本多両人は西ノ丸を無異議請取り、毛利右馬頭輝元は下屋敷へ出でにけり。大阪より大野修理・柘植大炊介両人二条の城へ参り、秀頼公御幼若にて何の弁へもなく、石田一人の邪気を以て此の度騒動仕る、何事も御赦免被下候様にとの御申訳の御使也。家康公両人を召して、各存念はいかゞと御尋有りければ、只今は先づ御用捨被成、以来は兎も角もと申上げければ、御機嫌能く和睦の御意を蒙り、大坂城へ帰りける。九月廿九日家康公大坂の城へ入らせければ、追付き勅使有りて正二位大納言の院宣を蒙り給ひ、秀忠公は権中納言にならせらる。其の頃京都の探題は奥平美作守信昌伏見の城に有りながら執行す。阿部八右衛門は京都町人亀屋円任入道が所に有りて洛中を吟味す。公家・武家・寺社・町人に至るまで将軍へ献上物山の如し。取次は山口勘兵衛・城戸織部・長井右近・西尾隠岐守勤之。十月朔日には反逆の大将石田・小西・安国寺の三人、車にのせ洛中を引渡し、六条河原にて梟首せらる。翌年板倉四郎左衛門を京都所司代に被仰付、伊賀守に被成けり。
 
 
同年九月十六日に家康公草津に御陣を被居、折節上方侍衆の内何方へも不附人々廿余人御目見被致、同十七日江州八幡に御陣、十八日守山に御陣を居ゑらる。桑名の城主氏家オープンアクセス NDLJP:74内膳・同志摩兄弟は、守山まで御供申上げけれ共、御気色不宜して、内膳は池田三左衛門、志摩は福嶋左衛門大夫に御預け、十九日大津へ御着陣三井寺へ被為入、近辺の侍衆御礼被申上。逢坂の関を切り塞ぎ西の徃来を改め、大津・三井寺所々御番所堅固に被仰付時分、福嶋左衛門大夫は膳所崎に陣取有りけるに、伏見の屋敷に子息在りて、隠密の為飛脚使を左衛門大夫方へ遣す。此の事内府公へ上聞に奉達事也。然るに彼使者伊奈図書が堅めたる番所を通りければ、番所より理不尽に棒伏せにせしとなり。去れ共一大事の使なれば、不構内府公の御返事承り帰りて福嶋に申しけるは、今日伊奈図書番所にててうちやくせられ候へ共、大事の御使なれば相勤申候。唯今切腹仕候間、如何様共この義宜く御相談奉願とて、いさぎよく切腹致しけり。正則不便に思ひ、其の首持ちて三井寺へ参る所に、井伊直政は唐崎の宿所より三井寺へ参るに行逢ひ、しかの事を直政に申聞かせければ、直政聞きて、我等に御任せ可有とて正則を宿所へ返し、直政御前へ出で、伊奈図書に切腹被仰付候はゞ辱可奉存と申上くる。家康公御意には、図書事は我等堅く申付置く所也、咎なき者は難申付との御意也。直政申上げけるは、福嶋今度の忠節第一也。又天下一統と申せども、残徒所々に充満す。其の上御座所も悪敷御座候、是非共と申上ぐる。重ねて御意には、我れ天下分目の合戦六度に及ぶ。然れ共咎なき者は切腹難申付と宣ふ。直政又申上げけるは、正則今度の働は敵に依りて転変す。武功の者に候へば、此の事難叶候はゞ一命を抛つべし。伏見にて人集め申候はゞ、太閤以来の古傍輩共数多にて、勇々敷御大事にて御座候也。逢坂山へのぼらせて、三井寺の坂より寺中へ火を懸け攻入り候はゞ、味方は水海へ押込まれ、何共成り申間敷候、御思案被成候へと申上ぐれば、其の時漸く御許容被成けり。兵部は早々伊奈方へ参り、君の御意一々如此也、只今の切腹は討死に百双倍の忠節也と為申聞ければ、図書聞分けて切腹す。頓て首を取持ち、福嶋が方へ行く所に、正則人数引きも不切南へ行く所を直政見て尋ねければ、正則山科へ陣替と申す時、兵部聞きて扨こそと思ひ、図書が首を正則に見せ、家康公御懇の上意の由為申聞ければ、正則承り、ひとへに御辺御取成也、加様に可被仰付とは思ひも不寄、御不審の身と成り候へば山科へ引取可申と存候と申しければ、直政も舌を巻きて、最早人数を呼返し給へとて、陣替をも止めさせけり。
 
 
肥前守利長公は関東御一味の事なれば、石田三成より大正持の山口玄蕃、小松の丹羽長重両人を利長公の押へにと頼み遣す所に、利長公上方へ打登り給ひ、府中の城堀尾帯刀を大谷刑部取巻き攻むる由聞え、後詰の為に登らせ給ひ、先づ小松の城を攻落し、大正持へ御取懸り可有旨御内談有りける所に、高山南坊申しけるは、先づ大正持を御攻め可然と申しける故、大正持へ赴き給ふ。三堂山に岡崎備中・同帯刀、五百余騎にて小松勢を押へ置き、高畠平右衛門・寺西若狭三百余騎、鉄炮大将原田又右衛門一組にて千代に被指置、利長公は山際より大正持へ押寄せ給ふ。小松より浅井口木場の方へ船を入れ、鉄炮百五十挺にて二口より追懸くる。殿には前田孫四郎利政公なるが、山崎閑斎・長九郎左衛門・太田但馬多数を以て追払ひ、小松へ無難追込めて、又御幸塚へ出でにけり。扨大正持へ押寄せ、大手鯰橋口を夜中に焼払ひ攻入る。九里勝蔵・丹羽織部・大道寺玄蕃火花を散し攻入りける。夜明方に城中よりも討出で、九里・丹羽・大道寺爰を最期と戦ひしが、九里は終に討死す。織部・玄蕃も手負ひ、是にきほひて城中の山田出羽・佐久間右衛門、鐘ケ丸より突いて出で、爰をせんどと攻戦ふ。岡嶋帯刀・同市正・富田蔵人・宮崎蔵人一番に塀を乗越し鑓を合す。続いて山田勘六大に働き討死す。富田蔵人も討死す。奥村因幡・大音主馬・藤掛豊前・渡辺左馬・葛巻隼人・西村右馬・氏家内蔵亮・大石木工・今井左太夫・生田四郎兵衛・山崎次郎兵衛・佐賀隼之助、何れも鑓を合せ高名す。早本丸へ攻入るに、山口右京大夫に父玄蕃下知しけるは、二・三の丸破られたれ共、本丸即時には落ち難し。随分防ぎ鉄炮打たせよと申しければ、せがれ右京申しけるは、武者無御座、誰に鉄炮為打防可申や、彼の御たしなみの金銀に防がせ給へと云ひ捨て、かけ入り討死す。父玄蕃も叶ひ難く、慶長五年八月朔日終に切腹遂げたりけり。家老織田源左衛門本丸に火をかけ、五百余騎一度に突出で、金沢勢ともみ合ひ悉く討死し、城も火の手しきりに上る。利長公・利政公もオープンアクセス NDLJP:75其の日越前と加賀の境なる細呂木に御陣を取据ゑ、人馬の息をつがせ府中へ御発向の詮義有りける所へ、府中より中川宗伴入道飛脚にて状箱を持参し指上げける。御披見の所に。

上方へ御出馬之由承り、私儀も御供可仕と大阪より罷下り候処に、西国勢石田治部少輔が人数を引率し、敦賀の浦より船に乗り、加州宮腰へ打上り、金沢の城を乗取候はんと人数を催し申候間、早々御引取御用心可被成候。為其飛脚を以奉及注進候、恐惶謹言

  八月三日         中川武蔵

   横山城州 御披露

利長公大に驚き給ひ、中川が手跡に紛なし、早々可引取とて木場・三谷へ懸り給ひ、はや寺井の宿に御着陣被成けり。然るに此の殿を太田但島心懸けしに、何れも老人共の相談にて長九郎左衛門に相極まれば、但馬守腹を立て、九郎左衛門に手をとらせん為、本道を浅井縄手へ懸り押へんと云ふ。何れも此の儀に同じけり。松平久兵衛是を聞きて、若輩として指出たる儀如何に候へ共、敵の城下を通らんには構なく通す法やある。小松より打出で思ふ儘に沼田へ追込み討取るべし。其の時は難儀なるべし、三谷へ懸りて引取り給へと申しければ、山崎閑斎・太田但馬・高山南坊・長九郎左衛門申しけるは、たとひ小松より出づるとて何程の事のあるべき、久兵衛若輩にて推参也とありければ、久兵衛腹立し、此の度一番鑓にて面目を雪がんと心懸け、八月九日の巳の刻に御幸塚より前後の勢を引率し、本道を押へ来るに、小松人数も見えざりけり。太田但馬は久兵衛が思はく違ひたりと云ひも果てぬに、小松勢大領野より数百騎討つて出づる。金沢勢は弓手も妻手も沼田と湖水との間、道幅せまし、大軍にて引く程に、散々に討ちなされ、長・山崎両人の手の者、残り少なに討死す。小松方江口三郎左衛門・松村孫三郎一番に進み、長の家臣小林平右衛門と相戦ひ、団七兵衛横合に来て小林が首を取る。長の家中腹をすゑ兼ね、長右衛門佐・堀内意周・八田喜左衛門・鹿嶋地六左衛門、己上五人死物狂に火花を散す。小松方団七兵衛・坂井弥五左衛門・古田五兵衛・佐々太左衛門、此の者共はんくわいが勇をなす。浅井口へは坂井与右衛門・大屋与左衛門、山代橋口へは拝郷次太夫・成田助九郎・不破杢兵衛・宮田小兵衛・安彦左太夫、鬨を揚けて突懸る。利長公の士松平久兵衛一人鑓を構へ、一番にふみ留る、小松勢も踏止りける。然る処へ水越縫殿・岩田伝左衛門・大野甚丞・井上勘左衛門続いてふみ留り鑓を合す。上坂主馬暫く過ぎて来る。太田但馬・奥村因幡・奥村河内馬印を押立て横合より弓・鉄炮打たせ皆々見物す。誠に晴がましき戦場、古今稀なる次第也。小松方拝郷次太夫は討死し、不破杢兵衛は鉄炮にて打落さる。上坂主馬・井上勘左衛門・岩田伝左衛門もみ立て小松勢を追込む故、小松の兵共何れも引入りける。此の由寺井へ相聞え、利長公驚かせ給ひ、即時に駈付け、浅井縄手に御馬を立てられ御覧被成けるに、江口三郎左衛門・桜井源六下知して早引取りし故、残り多く思召し御引返し被成けり。浅井縄手の七本鑓とて後代に名を残す。以後迄も利長公浅井縄手の物語に、肝をひやすと御意被成候よし。夫より金沢へ御引入被成けり。浅井縄手と大聖寺の働に、何れもへ御感状御加増被下、中にも松平久兵衛若輩といへ共、武勇の至り比類なきにより、松平伯耆に被成、人持大名になる。末代の面目也。小松には江口三郎左衛門・丹羽長重へ申しけるは、今度骨折りたる者共に忠賞被行候はんやと申しければ、鑓の合せ所吟味有りしに、初は橋の外爪にて合せけるが、後は橋内へ引入る由申しければ、長重聞きて敵は進み味方は退く。然れば忠義劣れりとて其の沙汰もなかりけり。然る所関ケ原の合戦に石田敗軍と聞えければ、長重是非に不及、小松の城を明けて上方に牢居し、四年目に被召出、白川にて十万石被下けり。父丹羽五郎左衛門長秀数度覚有之故、柴田滅亡の後越前・若狭を丹羽に被下、長秀病死也。後長重に無相違被下しが、佐々内蔵助成政と申合ふに依りて、越前・若狭を被召上、松任へ遣し置き給ふに、石川・河北両郡を利家公御加増に付き、丹羽長重松任より小松へ遣し置き給ふ。此の度亦石田に組しけれども、小松に引籠り上方へも不出故、暫く浪人して又被召出也。最前小松の城を攻落し給はんと被仰し時、高山南坊達て留め申す事其の謂あり。長重小松へ打入りし時、のみ・鋸・竿・かんな千人前用意して来る。金沢勢の用心に三重四重の唐竹藪を、劒の如く切りそぎにして用心堅く仕る。此の事高山能く知つて、オープンアクセス NDLJP:76大事の前の小事に利を失ひては不可然と思案して、留め奉るとぞ聞えける。又中川武蔵飛札を利長公へ上ぐるに付き、早々金沢へ御引取有りし事、越前の府中にて大谷刑部宗伴を見知り、多勢を以て取廻し、既に討取り可申所に、大谷申しけるは、命助けて遣す間、我が好みの通状を書き利長へ可遣と申すに付き、宗伴是非に不及書きたる也。宗伴自筆無紛故、実と思召御引取被成けり。左なくば越前舟橋迄は必御手に可入所也と、諸人後悔しけると也。

 
 
同年八月細川越中守忠興に豊後国を可被下間、早々罷越し一揆を鎮め入城すべき旨、家康公の御朱印を頂戴し、家老松井佐渡守・有吉四郎左衛門に三百余騎を指添へ、豊後国へ遣しけり。然るに豊後の杵築の城に大友修理大夫義継、人民をかり催して石垣原・立石に城をかまへ、柴田小太郎を大将として籠城せしめ、細川人数を待請けて防ぎ戦ふ。寄手も天下への聞えなり。細川一党の合戦にて、他より加勢もあらざれば、一期のはれは此の時也。命を捨よと火花を散し攻戦ひしが、終に大将柴田小太郎も討たれけり。然る所に中津川の住人黒田如水人道打つて出で、大友を取巻き生捕るに付き、家老吉弘嘉兵衛を討取り、大友を細川忠興へ相渡す。越中守請取りて成敗す。夫より豊後一国平均に越中守手に入り、末代の面目也。此の時肥後国の内に小西行長が領分あり、宇土の城に居住す。加藤清正人数を催し宇土城へ押寄せ、火水に成りて攻めけれは、大将南条元琢入道不叶して降参し、清正の手に入りにけり。
 
 
慶長六年の春、石田に組する輩は流刑被仰付、忠節の人々には恩賞有りける。其の中に肥前守利長公は、府中の堀尾帯刀を大谷刑部取巻く由聞伝へられ、後詰の為に出馬有りて、大正持の山口玄蕃父子共に切腹為致給ふ事、無比類忠節也と御感ありて、能美・江沼両郡を御加増に被進。利長公御満足ありて、前田対馬守長種入道源峯を小松の城代被仰付、大正持の城へは近藤大和を被遣。其の外郡代を所々に被遣、御仕置仰付られける。小松の丹羽長重は戦の刻小松に引籠り世間を伺ひ在之に付き、罪科少し軽きに似たり。上方に蟄居しけるを被召出、奥州にて拾万石被下けり。
 
 
家康公の御子秀康公は、去年会津景勝に御対陣の時、両御所上方へ御発向の処に、秀康公と伊達政宗をば景勝押へに関東に残し置き、大御所は討ちて上らせ給ふ。景勝も是非に不及御詫言申上げ和睦被成。則ち景勝を被召連上方へ御上洛有りて、両御所へ御目見を被成けり。其の忠節に依りて秀康公へ越前一国を被進、岡崎の城より越前北の庄へ御引越し、御入城被成けり。府中の城へ本多内蔵頭、丸岡の城へ本多飛騨守を、大御所の上意として秀康公へ与力家老分に遣さる。秀康公北の方は信長公の御姫君也、岡崎殿とぞ申しける。秀康公は惣領なれば、二代の将軍たるべき義なれ共、口中御煩被成鼻声にまします故、御舎弟秀忠公へ天下を御譲り、太閤より秀の字を御拝領にて秀忠将軍と申し奉る。斯くて北の庄朝倉・柴田代り住みあらし有之を、慶長十一年に江戸御城新たに築かせ給ふ其の御絵図を写し、慶長十三年に新敷築かせ給ふ。町割以下相調へ、北国第一の名城とぞ成りにける。若君数多ありて、惣領越前守宰相忠直と申しけり。是れ一伯殿の御事也。次男は伊予守光通、三男出羽守綱隆、四男大和守有矩、五男但馬守直高也。次男伊予守をば越後国へ被遣。是は松平上総介忠輝を信州諏訪へ蟄居被仰付、其の跡へ被遣。残り三人は越前の内大野・勝山・府中など方々にまします。後には出羽守を出雲へ御加増にて被遣、大和守は播州姫路へ御加増にて被遣、但馬守は大野領に今在城なり。然るに宰相一伯殿北の方は、秀忠将軍の姫君にて、御夫婦中に若君一人まします。仙千代丸と申しける。其の後一伯殿は殊の外御心替り、武家・町人・百姓等に難題を云懸け迷惑する者多かりける。殊更色を好み、歴々の妻女・娘を呼寄せて、帰るもあり留るもあり。留る者は二度便りなかりければ、殺害せらるゝ共取沙汰せり。其の頃長見右衛門とて大身の人ありけるが、若年にて父におくれ、母年若くして存生せり。或時母に登城せよとの再三の御使也。先づ奉畏由申上げ、右衛門母に向ひ、御城より御上り候へとの御使にて候へ共、上りたる者の重ねて便りも候はず然れば命をたゝるゝ由の沙汰も候へば、左様の儀承りながら上げ奉るものならば弓矢の疵となり、世にながらへてせんもなし。又上げ申さぬものならば、主オープンアクセス NDLJP:77命を背くとて討手の向ふべし。いかゞ可仕と申しければ、母申しけるは、御身の父左衛門殿におくれ、共に死せんと思へ共、御身を一人持ちければ、人となり給ふを見んと只今まで存命しける。今殿の仰を背くならば定めて成敗たるべし。それを遁れんと自らを城へ上げられなば、草葉の陰なる父も恨深く候はん、所詮我身は自害すべし。御身は長見家の耻にならざる様に、討手来らば随分働き討死し給へと有りしかば、右衛門大に悦び、つまりを用心して、家来に弓・鉄炮・鑓・長刀を持たせ、武具等きらびやかに粧ひ待つ所に、重ねて御城より早々母を上げられよと申来る。右衛門申しけるは、左様なるたはけたる使はかくする物ぞと、長刀追取り唯一刎に致しければ、北の庄中上を下へと返し、つまりより武者共取巻きて鬨の声を上ぐる。右衛門が郎等共指詰め引詰め射て落すに、夫より寄手塀を乗り乱入し、数多人数を討取りければ、右衛門が母も自害しけり。石場の下屋敷より多勢寄来れ共、城兵に押隔てられて終に右衛門も討たれけり。加様の悪行に付き、寛永二年一伯殿豊後国萩原へ流罪被仰付、御子息仙千代殿に御母公相添へ、越後高田へ所替、越後の伊予守殿を越前へ引越させ給ふ。家中等何れ茂引越す節金沢を通りければ、宿々伝馬商売物被人御念、御馳走共申す計はなかりけり。仙千代殿も伊予守殿も、利光公の御前様には御一門の御事なれば、御如在なきも御理り也と申しけり。仙千代殿御母公は則ち高田殿と申して江戸へ御越し、仙千代殿を後は越後守と申しけり。
 
 
堀久太郎殿は幼少にて信長公に被召仕、武勇天下に隠なく、度々の働に依りて大身に成る。太閤秀吉公の時、暫時越前にして羽柴左衛門佐と申しけり。然るを越後景勝と国替被仰付、大坂陣に左衛門佐病死し、子息幼少にして跡職無相違越後に在城有りといへ共、幼少なれば家老堀監物執権して国家を治めたりけるに、監物頓て死去に付き、惣領を又堀監物と云ひ、二男を堀丹後と云ふ。然るに監物は長臣の惣領なれば、其の威勢弥増りて、諸事物毎大様にして、弟の丹後に計らはせて居たりけるに、丹後は日本一の方便者にて、江戸・駿河両御所も諸国の大名も丹後を御存知あり、愛敬せられし也。或時駿河の御所に二の丸火事の節、数百の水桶御城にみちたり。堀丹後水桶千の内と書付けてあり、比類なき働也と上意を蒙る。又或時御城にて御能被仰付節、最早済む時分と思ふ時、天気替りて雨空になりしに、丹後心得て数百本の傘を取集め、堀丹後と書付けして置き、人足に持たせ御城御式台つまりに置く。案の如く御能過ぎて雨降りければ、是にからかさ候とて誰ともいはずおしなべて時の用に立てにけり。又奥方局女中方、御城より何方にても社参の日を聞きて、其の儘用意して菓子杉重品々を其の所々へ指上げ、御機嫌を伺ふ儘、上下男女の囀りにも、堀丹後程の侍余りに有るまじ、是れ上様を大切に存ずる所也と、何となく諸人懇意に成り、久太郎殿・監物もありながらなきが如くなり。爰にて丹後奢つき我儘なる事なれば、監物此の者を其の儘置くならば、いかなる家の妨になりなんと、久太郎殿へ密談し、丹後を滅亡させんと謀りけり。頓て丹後に返り忠の者ありて知らせければ、丹後心得て御城奥方局女中衆へ内通し、久太郎殿親父は先年石田に内通あり、大坂御陣の時分は病死にて仔細も候はず。今の久太郎殿幼少より取立て養育いたし、随分公儀の御事大事に奉存候所に、公儀を軽んじ品々我儘なる事のみ候故、達て諫言致すといへ共、却りて気に合ひ不申、何れも堀監物すゝむる所なりと、言葉を尽し訴へければ、上聞に達し、久太郎殿十九歳の時岩城へ蟄居被仰付、監物は切腹被仰付。丹後には下越後村上を被下、其の時久太郎殿家来加州へ被召出者多し。其の跡へは将軍秀忠公の御舎弟松平上総介忠輝公へ、越後を進ぜらる。然るに上総介殿狼藉に付き、信州諏訪へ蟄居被仰付、其の跡へ三河守殿御子息伊予守殿を被遣けると也。久太郎殿岩城にて出生の子を堀七郎兵衛殿と申して、廿二歳の時寛永十三年に加州へ被召寄、利光公より千石被下置ける。大名の子なれば小身たりといへ共奥村河内聟に被仰付、伯母一人ありけるを光高公の御前様に被召置、大上藹の方にてまします也。清泰院様と前後に死去せられける。上総介殿狼藉と云ふは、昔伏見に於て家康公御内の者二人、騎馬に上総介殿へ乗打致しけるに、上総介殿は、誰人の者ぞ尋ねて来れと被申付。則ち尋ねければ、馬上に居ながら、将軍のものなるが何ぞ用所オープンアクセス NDLJP:78有りやと云ひければ、上総介殿聞き給ひ、それのがすなと取込めて、二人ながら討捨に被成ける。大御所の上聞に達しければ、打捨にせず共、断に及びなばいか様にも可被成に、将軍に対し我儘なる致し方、以来にも成り難き処也、急ぎ改易すべしとて配流被仰付とぞ聞えけり。
 
 
先年織田信雄卿常真の時分、名古屋の城を取立て築き直させ給ふ。諸国の大名より助成有りて、人足・奉行人さしつどひ、頓て出来致しければ、東海道一番の名城になる。其の頃まで小石をどろたと云ひならはす。此のたび五郎太殿の御城なれば、どろたとは申し難し、栗石と申すべしとて、其の頃初て栗石と云ひ習はせり。慶長十年に秀忠公将軍に御任槐の節、五郎太殿を大納言義直と任官せられけり。若君達数多御出生有りけるに、惣領を中納言光義と申す。寛永の頃将軍家光公の御娘千代姫君と申し奉るを光義に嫁娶有りて、其の御子中将綱義、二男義行、三男義則と申して、若君数多に成り給ひ、目出度かりける御家とぞ申しける。
 
 
利長公は能美・江沼両郡御加増の御礼として御上洛有り。秀頼公へ御目見ありて、伏見へ御出で家康公へ御目見被成、暫く御逗留ありけるが、頓て御暇出で、加州へ御帰国被成けり。程なく小松に着かせ給へば、佐美・篠原・安宅の浦御鷹野等あり。其の内御用意ありて、諸橋大夫に御能被仰付、御一門・子共衆まで見物被仰付に付き、金沢より夜を日に次ぎ馳来り、町人共白洲に並居て見物人夥敷、御中入の時分美少年の子共幾十人並居たる中に、十歳計の少年お乳に手を引かれ、座敷の内あなた此方と遊び給ふを、生田四郎兵衛見て、此若子は誰殿の子息にてましますぞ、目の内骨柄余人に替らせ給ふ、いかなる人ぞと尋ねけれ共、お乳の人も爾々申さず、あざ笑うて居たりければ、生田重ねて申しけるは、是は只人の子に非ず、眼の見入他に異なり、大名の子と見えさせ給ふぞ、扨々よき器量やと申す時、御乳申しけるは、守山にてそだち給ふ於猿様にて候と申しければ、生田手を打ち、扨こそ只人とは見参らせず、扨々珍敷殿様哉、大納言様の乙の若君、承り及び奉れ共御目見は初也。当年何歳にならせ給ふと尋ねけるに、九歳にならせ給ふと申しければ、かき抱き奉り、何れも少人達の上座に置き奉り、是に御座被成御見物候へとて、御傍に畏る。頓て利長公御出ありて、於猿様を御覧被成、あれは誰が子と御尋ありければ、四郎兵衛申上ぐるは於猿様にて御座候由申上ぐる。利長公御側へ召し、扨々成人致したり、眼大にして骨組たくましく、一段の生付かなと御意ありて、上木半兵衛を召し、汝此の子に附きて朝夕の膳部に念を入れ、あやまちなき様に可仕旨被仰渡、其の外大窪忠左衛門・青木覚兵衛、又御草履取の内権内と云ふ者を付けさせらる。若君の御悦、其の外何れも満悦致す其の中に、御乳の悦万人に勝れ、幾千万の事を思ひ出し、嬉敷に付き袖をしぼりけり。扨利長公は追付き金沢へ御帰城被成けり。
 
 
慶長七年の春三月諸方の盗賊共大仏に集り、諸国盗賊の内談致す由取沙汰有りけれ共、誰是を制すると云ふ事なく、後々は非人と成りて食物をいとなみ仕る所に、自然に火事出来す共云ひ、又身のすぎはひを求めん為、焼草を込めて火を付けたる共いふ。夜半過より火出で、大火に及び焼失しければ、太閤の御建立の例になぞらへ、其の時の奉行人江戸・駿河へ窺うて、両年かけて成就し、元の如く出来す。委細記に不及。
 
 
同八年五月上旬の頃家康公御上洛ありければ、国々の大名何れも上洛夥敷、洛中に満ちたり。追付き征夷大将軍の院宣を蒙らせ給ひ、天下の諸侯も任官の衆多かりける。中一年ありて慶長十年三月、秀忠公御参内ありて征夷大将軍にならせ給へば、家康公は駿河の府中へ御隠居被成、大御所様と仰ぎ奉り、秀忠将軍は江戸の城にまして武蔵の御所と申し奉り、江戸・駿河両御所の御威光中々申すも恐れあり。諸国よりの献上物・拝領物、御加増の衆、日々に縁組等も被仰出、東西よりの御機嫌伺ひ、徃還の旅宿所せまきまでつどひけり。同年の秋勅諚にて、秀忠公の御姫君を秀頼公へ御縁組の御請被仰上、江戸へ御下向ありて追付き大阪へ御輿入とぞ聞えける。其の行列式次第、天下より天下への御祝儀とて、大坂と江戸の道すがら、俄に安養界とやらんに増るべしと、諸人目を驚かす。依之秀頼公の御オープンアクセス NDLJP:79威光も、其の時分目出度かりける事なれば、並居る侍共行末如何と心許なく思へ共、今の内は先づ無心元事もなしと、取々に悦びし中にも老功の者共は、両将軍のましませば、行末の御進退如何と眉をひそめ、呼しき事止む事なし。
 
 
利長公は其の時分大坂に御座被成けるが、浅野弾正・蒲生飛騨守・細川越中守、其の外御出入衆御振廻に被召寄、御咄の折節、越中殿・弾正殿など相談せられけるにや、利長公へ被仰けるは、其の元様には御実子も無御座候へば、何れなり共被仰上、御養子御定置可然旨被仰ければ、利長公聞召し、内々左様に存候也。乍去大和は公家の様にて色白くやはらか成る男也。七左衛門・七兵衛など短慮者にて我等気に入不申候。爰に猿と申して末弟一人御座候。色黒く眼大いに骨ぶとなるせがれ也。我等姉手前に養育し置申候。是を子に致し度由被仰ければ、夫こそ宜敷奉存候、御序に被仰上可然と御相談極り、酒井左衛門を以て大御所の上聞に達せらる所、願の通被仰出、則ち秀忠公の姫君当年四歳にならせ給ふを、よき似合なる間御一所に可被成旨上意にて、御約束相極る。誠に御果報いみじき若君哉と、諸人奉申ける。於猿様御養子に極り、犬千代丸と御名を改めさせ給ひ、小松の前田対馬守御夫婦、並に金沢老中へも御飛脚到来の所に、対馬守殿御夫婦其の外何れも悦び限りなく、色々御馳走ありて、早々金沢へ、犬千代様御引越可有との、大坂よりの御指図なれば、御供の用意せよと対馬守殿子供達御供也。金沢より老中・御一門衆・少人達、異類異形の装束にて御慰の為とて、狂言師小歌うたひ、前後左右音曲にて金沢へ御着城ありければ、御母君・御一門の人々登城御目見、御馳走中々申ばかりなし。其の中にも分けて御乳の人の悦びは、守山より以来の事共思出し、今此の御威光の目出度に付き、御嬉しさの余り胸ふさがり、食事も進み兼ねたる由、後々まで云ひ伝へにけり。
 
 
慶長七年五月四日に金沢御城に於て太田但馬を誅罰せらる。但馬度々覚の者にて一万石の身代也。御前躰も宜しかりけるが、折節但馬居屋敷露地の内にて狐の子を狩出し捕へ、色々になぶりさけばせければ、親狐とおぼしくて、塀の上にあがり身をもだへてさけびけり。猶面白く思ひて、脇指をぬきひたなぶりにして、終に殺し捨てければ、親狐是を恨み、何処共なくうせ、夜る来てさけびけるが、或時御城にて御能有之節、御広式女中方はみすの内にて見物也。其の女中の内に但馬を見初め、扨々器量のよき人やと殊の外ほめなし、能は不見して但馬に目を放さず守り居たりけるを、出頭の女中是を見て御耳に入れ奉る。誠に女はつれなき心中かな。彼の但馬をほめたる女中、御前うとくなりしを心に懸けて有りけるが、或夜女中部屋の縁通りを忍びたる躰にて塀を越えて出づるを、利長公一両度御覧有りしが、扨々にくき次第と思召し、山崎閑斎・横山山城に但馬を可討と被仰渡、日限を極め支度を致し、但馬登城を待居たり。閑斎は時刻失念にてや有りけん遅参に及ぶ。其の内に但馬登城し、御式台を過ぎて廊下より御広間へ出づる所を、山城御意也とて抜打に討ちければ、大げさに切られながら、心得たりとぬき合せける所へ、勝尾半左衛門出で助太刀を打ち、二の刀にて横山討留めける。利長公御感ありて、但馬死骸を城中極楽橋の爪に置かせられ、主君の目をぬく徒者の果を見せしめよと被仰出。但馬に恋慕の女房、一味の女五人御露地の内に縛り置き、宮崎蔵人に被仰付、竹の筒にて眼を打出し、其の後殺害被仰付、山城には御加増を被下ける。前田対馬守の聟に被成。山城娘を山崎長門守に嫁娶の後にて、山崎横山に先を越されて閑斎立腹し、存生の間対面なく打過ぎしとかや。但馬家来覚の者共、御家に被召置し也。是れ皆狐のわざと聞えけり。畜類といへ共、用にも不立徒らに憂目を見する事、必報ある事也と其の頃申ならしけり。横山山城童名は三郎とて、横山右近一子也。尾張より利長公御寵愛の御小姓也。昼夜の勤仕諸人に勝れたりし故、天正十二年の頃はいまだ幼少にて鼻紙代二百五十石、十三年の暮に二千五百石に成り、筑紫陣に無比類手柄ありて、四千五百石の御加増にて七千石に成る。文禄三年に又三千石御加増ありて一万石になり、慶長五年大正持陣の時分無比類働にて、二千石御加増一万二千石に成り、同七年太田但馬誅罰の時一万五千石御加増有りて二万七千石に成り、大坂御陣の働に多くの首を討取りければ、三千石の御加増にて三万石に被成けり。大膳・式部・オープンアクセス NDLJP:80内記・隼人其の外女子数多にて、不破彦三・篠原出羽守・後の山崎長門守、其の外歴々の聟数多也。大膳初め高山南坊聟なれ共、離別の後今枝民部の聟になる。式部は神谷信濃守聟養子にて、神谷式部と申せし也。中川八右郎衛門子を神谷養子に被仰付、神谷治部と云ふ。山城守妹聟は玉井市正なれば、玉井助太夫を又山城守の聟に被仰付、横山党一家広く、益々繁昌の家とぞ申しける。
 
 
慶長十年には将軍秀忠公御任官の折節、加州犬千代丸殿を松平筑前守利光になさせられ、六月廿八日に御家督を被進、江戸よりも姫君様の御輿を入れまゐらせんと上意ありて、金沢御本丸に御新造を建てさせられ、御迎の大小名役々を相極め、装束を改め、かちん子持筋の上下を着したる人々雲霞の如く御迎に参りけり。江戸御発駕は七月朔日にて、大久保相模守・青山常陸介御供にて、越前金津の上野まで参り、金沢より前田対馬守・奥村伊予守・村井豊後守・神尾図書、其の外の人々記すに不及。御前様御家老として興津内記、御用人として由比民部・矢野所左衛門・矢部覚左衛門、其の外御徒・御料理人・下男に至るまで数百人御供にて、新丸石川御門の外は江戸町とて長屋を被為建、御奥方の御用を承る金沢の人あし、賑か成る事申ばかりなし。江戸より金沢まで上通の道筋掃除を致し、橋を新たに掛直し、舟橋を懸け、一里々々に茶屋を建てさせ、国々の大名御馳走として奉行を付け、伝馬・人足自由にて、旅行の心はなかりけり。越前は御伯父三河守殿御在城、近江路まで役人を附置かせ給ひ、御馳走被成けり。金津の上野にて請取渡し規式相済み、路次中の御慰に、酢屋の権七と云ふ狂言師銀の立て烏帽子に朱の丸つけ、素袍袴にてかうべを振り、道すがら御輿の先に立ちをどり、其の間には小歌の上手につれうたはせ、諸芸を尽し金沢へ入らせらるゝ。御供輿百余挺、御賄方の役人駕籠に乗り馬に乗り、江戸より金沢まで山海の珍物百味の飲食を備へ、御慰物・御進物・捧物入り違ひ昼夜のさかひもなかりければ、旅行を忘れてはや金沢へ入らせ給ひけり。
 
 
慶長十一年に武州江戸の城御造営被成けり。此の城昔太田道灌の久々住馴れし所也。天下の人足・諸奉行寄合ひて、三年以前より伊豆の山より石を切出ださせ、日々に大船数百艘にて霊岸嶋・鉄炮洲・八丁堀・深川・安房・上総の浦々へ寸地なく並べ置き、堀・石垣出来して御本丸・天守并に塀・長屋、国々より請取々々の丁場にて物の見事に出来す。天守の金具、しやちほこの光日月にかゞやき、関八州の其の中に喜見城とやらん雲中に浮び出でたる心地して、娑婆世界とは思はざりけり。関ケ原御合戦以後四海太平にして、兵具は倉庫に朽ちければ、快楽栄耀の器物共日々夜々にはやり来て、異国のから物高麗の珍物は雲の如く霞に似たり。天下の大名小名屋敷々々に屋形を建て、寺社道場は金銀をちりばめ、歌舞音曲の声而己して、延喜天暦の御代はものかはと諸人万悦の盛り也。此の翌年は駿河府中の御城あらたに築かせ給ひ、大御所家康公御在城なれば、江戸・駿河の徃来天下共に隙もなく、元和二年四月十七日大御所御他界の後、三代将軍家光公の御舎弟大納言忠長を駿河へ御入城なし参らせ給ふ。是を駿河様とも大納言様共申す也。随分血気の勇者にておはしまし、上方・西国より参観の大名衆を、先づ駿河へ被召寄御目見被仰付故、いかなる謀事も出来なんと、江戸御城より無御心許思召すも理り也。依之江戸より御咎には、駿河に於て江戸を擱き目見の所、我儘なる被成様とて、江戸へ被召寄、高崎の城主安藤右京に御預被成けり。夫より駿河明城に成りて、替る々々駿河番とて被遣、秀忠公御他界の暮に、御遺言に任せ、家光将軍の御下知として酒井左衛門検使にて高崎へ被遣、忠長御腹召れ候様にと安藤右京に申渡す。右京進承り、左衛門殿被参上は御偽は有間敷けれども、まさしき御連枝の御事也、常の儀とは違ふべし。将軍の御墨付の御書を拝し奉らずしては、思ひも寄らぬ事と申しければ、左衛門尤と思ひ、御墨付の奉書を取出し、右京に頂戴させければ、是非なく其の通申上げ、村正の脇指にて御腹めされけり。誠に天下の御政道、如斯ならずしてはいかゞと、何れも舌を振ひけり。
 
 
慶長十年筑前守利光公大坂へ御上りありて、秀頼公へ御礼被仰上、直に駿河の府中へ御出ありて、大御所へ御目見相済み、江戸へ御着き、追付き御登城の後御屋形を御造営被オープンアクセス NDLJP:81成けり。先年利家公伏見にて関白秀次公の御屋形を太閤より御拝領被成、江戸へ積廻し置かせらるゝに、御屋敷御請取ありて御作事最中の頃御見舞被成、頓て御暇被進に付き加州へ御帰なり。其の年十一月晦日宇賀祭の宵の事なるに、雷電夥敷ひゞき渡り、御城の天守に落ちて焼上り、風強くして薄雪ふりけるに、大台所へ火の粉懸りて、御本丸御新宅一宇も不残焼失す。南の堤の脇に三十三間の的場あり。其の外に馬場あり、桜の馬場と云ふ。其の外は堂形也。皆侍屋敷也。其の続の城下に高畠平右衛門・同甲斐守屋敷あり。天守の焼上る頃、石垣の上より利長公大音上げさせ給ひ、平右衛門平右衛門と御呼被成しを、平右衛門居間の縁にて承り、畏ると答へて其の儘かけ出し御城へ上り、上下直参家中の者の隔なく引廻し、御前様並に女中を引連れ、興津内記屋敷へ入れ奉り、其の外女中数多中川宗伴方へ入れ申し、二・三の丸・新丸の大名方へ御父子めいに入らせ給ひけり。火も半の事なるに、いかにしてか入りけん、鉄炮の薬蔵へ火の粉入りて、どうと鳴る事半時計にて、町中も真の闇と成り、薬の匂ひ金沢中に満ち、其の後百千の雷の如く鳴渡り、生きとして生ける者、かうべもくだけ魂もなく成るかと覚え、有頂天にひゞきあがり、薬の勢にて方々へはね付らるゝ人も多かりけり。前田美作守屋敷の外に西方寺と云ふ寺あり。此の寺の屋根の上へ長刀持一人はね付けられ、長刀持ながらそり返りて死してあり。追付き焼跡を取除け、冬の中に御作事に取懸り、春に至り御屋形出来す。其の時より此の御城に天守を御除ありて、三階矢倉に被成けり。其の節木村主計を為御使江戸へ被遣、此の序に富山へ御隠居被成度しとの御事也。御願の通り被仰出ければ、富山へ奉行を以て被仰遣。其の頃富山御城代は前田美作守にてありけるが、俄に小松へ被罷帰ける。金沢より富山へ引越す人馬共夥敷、御用人共当分安養坊・呉服町・水橋・新庄まで満ちたり。御屋形修造御家中の作業等に、若狭・越前の大工共まで集りけり。引越す人々には神尾図書・横山山城・浅井左馬・篠原出羽・子息織部・今枝内記・宮城采女・水原左衛門・稲垣与右衛門・近藤甲斐・生田四郎兵衛・木村主計・神戸清右衛門・宮崎蔵人・津田庄左衛門・吉田三右衛門・行山新右衛門・杉本覚之丞・団七兵衛・古江治右衛門・土肥庄兵衛・長田牛之助・田辺助太夫、其の外小身衆佃源太郎等に至るまで数多引越す。郡奉行・町奉行鼬川の端より諏訪の河原・磯部・木町に至り、日々月々に繁昌し、俄に都と成りにけり。事閙敷に取紛れてきのふけふとは思へ共、はや四ケ年の星霜を経給ひ、慶長十四年春三月十八日神川の端なる柄巻屋彦三郎家より火を出し、折節風烈敷、火の粉四方にちり、御城を初め侍屋敷不残焼失し、忽ち野原となる。千石町神戸清右衛門家残り、利長公是へ入らせ給ひける。其の節哀なるは、御寵愛の女中方を御居間の土蔵へ入れて、老人一人附置き給ふに、一人も不残果てにけり。千石町に三日御逗留ありける所に、魚津の城代青山佐渡守より御膳を上げ、夫より魚津へ入らせらる。金沢より人持・物頭不残馳参し、滑川・新庄・水橋まで宿札打ち相詰め御用共承る。御前に人持等伺公し御咄の上に、富山と申す所は度々火事の参る所也。富山の火事は必が劒村の火事と申伝候間、御思案被成所替をも可被遊やと申上げければ、更ば此の序に所を替へんと思ひ給ひ、関野は可然所也と御絵図被相調、関野へ御越被成度旨、江戸へ御使として宮崎蔵人を遣はされ、徃来十一日にて罷帰り、越中の内何方にても願の通りとの奉書下りければ、利長公御悦喜ありて、蔵人早速罷帰り手柄の由御意ありて、御道服に銀子三十枚被下ける。関野へ御出ありて御指図被仰付、御作事を急がせ給ふ。能州より其の頃大形松材木・雑木等御取寄せ、又庄川より飛騨材木、三ケ国の夫人足・諸奉行人集り、早々出来し、金沢より両愛宕波着寺法印召よせられ御祈祷仰付らる。其の頃関野を改め高岡と名付らるゝ。富山並に守山の町人共引越し作事し、頓て繁昌の所と成る。其の時慶長十四年八月十六日御移徙の御祝儀ありて、三ケ国の大小名に御振廻は日々夜々に止む事なし。慶長十五年には郡中より人夫を以て、御台所並に家中給人共まで人夫を取りて用所調へければ、農業の時分を妨げ耕作に差合ひ、江戸・駿河・大坂・伏見へ参覲の節は、猶以て人夫を遣ひければ、郡中難儀に及び、連々訴訟申上るに付き、夫銭に直り、近き頃迄も夫銭と申ならはしけり。夫より人夫は止みにけり。其の頃まで天下の升に不同あり。佐久間玄蕃並に神保の代には免相殊の外下免也。然るに依りて升を大いにして収納せられけるに、オープンアクセス NDLJP:82扶持方・下行に俵数に渡すに損益ある故に、京升を正にして斗升を改め、八升の出目あるを定納の外の口米と定めける。是を代官の料に少し被遣、夫銀は物成にかけて口米にはかけず。其の時分男女の給銀、諸事の買物代、米を以て請取り渡し、銀銭といふ事なし。夫故斗升ちいさく成りて口米等こそは出来にけれ。