三、熊野派修驗の三山開山説

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     三 熊野派修驗の三山開山説

 出羽の夷征前の三山開山の信ずるに足らぬことは前に述べた。夷征後和銅元年(一三六八)始めて出羽郡を置いた後ち奈良朝末に至る八九十年間は、北邊の蝦夷未だ悉く歸服しないし、飽海郡井口國府も假廳舍であつたらしく、國内未だ整頓しなかつたと思はる。依て三山の開山は奈良朝末に至るも徴する資料を發見しない。平安朝に入りて始めて考慮を要する資料を見ることができた。之れは紀州熊野修驗の三山開山説であつて、この事を述ぶるに先立つて修驗道の開祖役行者の後ちに修驗道は如何に發達したかを述ぶる必要を認む。
 役小角の修驗道は支那の山嶽佛教の影響を受けたことは當然であつて、小角のあと山伏五代即ち義覺・義玄・義眞・壽元・芳元に至る間は天臺又眞言の宗派別は無かつた。大和吉野を本山として抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]修行が盛んとなり、之を大峰修行と云つた。平安朝初期に至りて延暦二十三年三月最澄・空海は支那に渡り、最澄は翌二十四年歸朝して天臺宗を傳へ、空海は大同元年(一四六六)歸朝して眞言宗を傳へ、弘仁七年(一四七六)高野山を開いて金剛峰寺を建つ。續いて最澄の弟子圓仁(慈覺)入唐し承和十四年(一五〇七)天臺を學んで歸朝した。之より我國に天臺・眞言の二大宗派ができた。然るに吉野の修驗道は何れの宗派にも屬しないで、兩派の僧徒は大峰の山嶽修行を遂げた。紀州熊野山三社權現も抖※[#「てへん+數」、第3水準1-85-5]修行の道場であつたので、追々には大峰と熊野山を一帶として一大道場を形成したやうに見ゆる。即ち大峰より登るものは多くの山々を經て熊野山に至り、熊野山より登るものは大峰まで行くのである。大峰とは大和諸山の總稱である。
 吉野と熊野の修驗道に未だ宗派別の無い時に當りて、役行者のあと熊野派八代に黒珍といふ行者あり、出羽の人とも云ふ。延暦四年(一四四五)四十五歳にて大峰修行を遂げ、役行者の法系を嗣いだ。出羽の羽黒山を開いたのは黒珍であるとの説あり。又羽黒に熊野權現を勸請したともあり。
 (聖門御累代記)
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黒珍 桓武天皇延暦四年四十五歳大峰修行」 縁起相傳」 出羽國熊野權現勸請」〈一云古記曰羽黒山開基卍云羽黒山爲別山故此説更勘〉七十歳入滅〈一云 聖武天皇天平十三年誕生〉
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 (深仙灌頂系譜)
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黒珍 出羽國人 羽黒山開基
 延暦四年大峰修行縁起相傳 四十五歳 出羽國石脇嶽熊野權現勸請 弘仁元年入滅〈七十歳〉
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 (修驗傳記)
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黒珍尊師 不[#レ]知[#二]何許人何氏[#一] 桓武帝延暦四年乙丑四十五歳入峰 灌頂縁起相傳 出羽國熊野權現勸請 |嵯峨皇帝弘仁元年庚寅《イ平城皇帝大同三年戊子》七十歳入滅
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 以上の系譜を見るに山伏五代より助音・黒珍・日代・日圓に至る九代は各國に一ケ所づゝ熊野權現を勸請してゐる。中世吉野は衰へて、熊野獨り盛んな時代が永く續いた。羽州石脇嶽は石湧にて湯殿山では無いか、黒珍が羽黒を開いたとすれば延暦の末頃に當るので、此頃に至りては出羽國府は井口に建設されて三山の登山も可能であると思はる。前に掲げた役行者の系譜によれば、三山の開山は役行者ともあり、又黒珍が羽黒に熊野權現を勸請したとも或は開基であるともありて、役小角と黒珍何れが眞實に近いかと云へば、黒珍の開山が眞に近いであらう。之れ迄羽黒には黒珍開山の資料は一切發見されなかつたが、近年羽黒本社前の御手洗池(舊名鏡ケ池)より多數の古鏡を發掘した。其中に儀鏡數面あり、儀鏡とは奉納の爲めに造つた實用にならぬ粗造の模僞品である。其一面に毛彫にて「敬白、熊野御正體、飯高國元」とあり、此鏡は何れの時代に納めたか、飯高國元は何人なるやは明かでないが、百九十餘面の發掘鏡の年代を通覽するに藤原時代のもの最大多數を占め、鎌倉時代之に次ぎ、徳川時代のものは二三面に過ぎない。此鏡を羽黒本堂前の池に納めた意義は、或る願望を熊野御正體に祈つたのであつて、熊野御正體は即ち羽黒權現であることになる。三山雅集に「觀音本社、西殿に熊野權現を勸請し崇めた」とありて、明治前に至るまで、觀音の右に熊野權現を安置してあつたといふ。長い間には宗派の變遷神佛の消長あつたが、熊野との關係は濃厚であつたらしい。
 黒珍の羽黒を開いた頃は、修驗道は未だ天臺・眞言の宗派別は無く、其後約四十年を經て承和十一年(一五〇四)叡山慈覺の弟子安慧出羽國の講師となりて赴任開講し、始めて天臺宗を弘めた。而しながら猶まだ修驗道は宗派色は無かつた。恰かも此頃役行者法系十一代圓珍あり、圓珍は讃岐那珂郡金倉郷に生れ、天長五年(一四八八)延暦寺座主義眞の弟子となり、承和十二年(一五〇五)大峰及び熊野三山に入り傳燈大法師となり、其後入唐して歸朝し、貞觀元年(一五一九)三井園城寺長吏となつた。園城寺は天臺宗で、延暦寺を山門と云ふに對して園城寺を寺門と唱へ寺門派の本山である。之より熊野の修驗道は天臺派となり、其後十七代増譽に至りて天臺修驗道を確立した。増譽は寛治四年(一七五〇)白河上皇熊野御幸の先達を勤めて始めて熊野三山檢校に補せられてから、熊野は遽かに盛んとなり、三井長吏は三山檢校を繼承することゝなつた。熊野派修驗は寺門方聖護院に屬する本山派と唱ふることゝなつたのは之れからである。聖護院は京都に在りて院主は三井長吏で熊野三山檢校を兼帶し、天臺修驗を管した。
 吉野修驗は役行者以來久しく衰微して振はなかつた。貞觀延喜の頃に至りて東蜜を學んだ京都醍醐寺の理源大師聖寶吉野に入り役行者以後荒廢した 大峰の山々を開き、寛平中(一五四九/一五五七)吉野現光寺の座主となつてからは、吉野派の修驗者は現光寺の規範を受くることゝなつた。之れが眞言宗修驗道の創始であつて、熊野本山派に對して當山派と云つた。然れども眞言派の修驗は天臺修驗に壓せられて鎌倉時代に至るまで集團的組織が十分でなかつた。足利時代の初醍醐寺三寶院が此派の山伏を管するに至りて大峯檢校と號する傳統的觀念を以て、諸國の修驗又山寺でも之に屬するもの多くなつた。各國の修驗は各々獨立であつて、二派に統制されたもので無く、吉野又熊野に於ける儀禮行事は足利氏時代以後に至りて漸次に整頓され形式を具備することゝなつた。地方の修驗は之に入峰修行を遂げて、地方の山寺に適應した儀禮行事を作つたものらしい。
 羽黒の修驗道は最初熊野派の修驗によりて開かれたらしく、この開山は黒珍であるか、又其末派の修驗であるやは疑問の存する所であるが、熊野派であつたことだけは云ヘると思ふ。羽黒三山古實集覽記に、當山は「徃古天臺宗、中興は眞言宗の處」云々とあり、黒珍が羽黒山を開いたのは延暦の末頃であつて、其後約四十年を經て慈覺の弟子安慧が始めて天臺宗を出羽に弘めたのであれば、羽黒修驗道の天臺宗に歸したことは餘りにも當然である。
 之を羽黒の舊記によりて檢討することは至無である。何んとなれば、羽黒の記録は悉く後世のものにして其間に數度び宗派開山を替えたからして各宗各派の開基を開山としてゐる。之等の舊記の所説を一々批判を加へることはできないが、其主要なるものについて私見を述ぶることゝする。羽黒舊記の最古のものは羽黒山縁起と拾塊集であつて、何れも室町時代に羽黒修驗の著述である。この二書の著述目的は古來の本末關係を斷つて羽黒修驗道の獨立を企てたもので、之れが爲めに開山を蜂子皇子とし又羽黒修驗道の開祖とした。蜂子皇子以後の傳統を見るに弘儁を以て最初の當山執行とした。
 (拾塊集)
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     弘儁事
弘儁者信夫縣令橘川成子也 幼稚聰明博學也 弘海〈○蜂子皇子〉爲[#レ]師 薙髮稟[#二]華嚴經菩薩戒[#一] 小角肇而設入蜂[#「入峰」か]道場[#一] 而從[#レ]果何[#レ]因 從[#レ]因至[#レ]果 分[#二]兩峰[#一] 即徒屬誘諭而授持戒[#一] 精[#二]胎内五位[#一] 修行説[#二]十二因縁[#一] 自[#レ]此修驗宗嗣法甚熾也 以[#二]弘儁[#一]爲[#二]當山執行最初[#一]耳 天平勝寶二年十月二十日寂化八十五載矣
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 之によれば弘儁は弘海即ち蜂子皇子の弟子で、役小角が羽黒山に始めて入峰道場を設くるに及んで、弘儁之に從屬して持戒を受け、之より當山の修驗道は熾んとなり、弘儁を以て最初の執行と爲した。拾塊集に蜂子皇子役小角並に弘儁の修驗道の傳統を述べてゐるが其所説頗る徹底を欠いてゐる。
 (拾塊集)
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優婆塞者在家也 佛弟子於[#二]四衆中[#一]覺如來始成之高趣 五時説法者從[#二]華嚴[#一]始 法華涅槃同[#二]醍醐味[#一]而開[#二]-觧十界十如妙理[#一] 故修驗宗奧秘難[#レ]欲[#二]通達[#一]耳 能除太子肇修驗起[#レ]※[#「古/又」、第4水準2-3-61] 役氏小角修驗著[#レ]事 弘儁阿闍梨極[#レ]※[#「古/又」、第4水準2-3-61]耳 遙後聖寶阿闍梨入[#二]金峰[#一]目宗圓阿闍梨兮 苅[#二]荊※[#「くさかんむり/(悠−心)」、上p36-16]月山[#一]分[#二]入補陀落山[#一] 此等先哲者聊生産而聰明博學而覺[#二]悟佛種[#一] 何薄智未哲比丘或又唖聾惑癡優婆塞等得[#二]修驗智水汲[#一]
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 (同書)
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     當山記
因 神勅能除聖者起[#二]修驗宗法幢[#一]兮 役小角著[#二]修驗法躰[#一]兮 弘儁極[#二]修驗法理[#一]
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 以上の記事によれば羽黒修驗道は蜂子皇子を開祖とし、小角之を明かにし、弘儁極意を究明し、宗圓月山を開いた。之について私見を述ぶるに、蜂子皇子の事歴は日本書紀にある外は一切不明であつて、弘儁宗圓は實在の人なるやは疑はしい。或は儁と俊とは通字で弘俊は文和元年の燈籠竿にある弘俊を以て蜂子皇子修驗道の承祖としたものらしい。羽黒最古の記録である羽黒山縁起並に拾塊集は室町時代にできたもので、吉田神道の影響を受けて本地神權現佛を唱導し、從來の本地佛權現神説を覆へしたのである。且つ從來の熊野系修驗道を捨てゝ羽黒派修驗道を獨立せしむるを目的としたものである。猶之については室町期に至つて詳述する。
 以上述べた如く三山は最初に熊野派修驗者によつて開かれたが、三山一時に開いたもので無く、羽黒山より月山・湯殿山に漸次に開かれたであらう。三山の中で月山のみは月山ノ神として夷征開始時代より遙拜されたことは前に述べた。次に三山の名稱を檢討するに、月山は月の出る山であるによりて附與された名稱であることは、最も妥當であり、湯殿山は湯の湧出する神であるよりして、殿の敬稱を附與して湯殿としたものであらう。次に羽黒山の名稱については不可解にして隨つて諸説あるが何れも首肯できぬ。左に有力なる説について私見を試みるに、吾妻鏡の出羽國黒山とあるは羽黒山の誤寫であることは明かである。次に鷹の羽を産したるより出羽の名稱ができ、羽黒山も鷹羽に關聯ありとする説は、出羽が鷹と關係無いと信ぜられるにより、隨つて羽黒の鷹羽關聯説は同意されない。次に鶴岡の歌人池田玄齋の説は樹木繁茂して黒く見ゆるとあるは傾聽するに足る。
 (弘采録) 池田玄齋著
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一友人又問、羽黒山の號の徠翁の説〈可成談なり〉にいはく下野國にくろはねと稱する處あり、出羽に羽黒の山あり、古の黒齒國にやと、此説によれば此山も齒黒山なるべし、義經記に齒黒の山と書せり、是又據あるに似たり、此説いかゝと、玄齋答へて穿鑿に過たり、字ハ元より假説にして奴隸の如し、字に依て義を害すはとらざる所也、又齒黒國の説爰に用なし、こはたゝ此山古木蓊欝として遠く眺望する時は、山の端黒みわたりて見ゆる事、今猶古のことし、されば打見たる山の端の黒みたるゆゑ端黒山と容易に名つけたるならん、かく説くときはいと穩かに當れるにあらずやと、友生大に服せり。
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 現今の羽黒山は杉及び雜樹欝蒼として繁り、遠く之を望めば一段黒く見ゆ、古へもさあらんには、端し黒よりも葉黒山が妥當であらう。